議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

Lecture13

カントの義務論に関する講義は、内容が難解なためか、学生同士の議論が乏しい。ときどき理解度チェックのために学生を指名して質問を投げかけているが、これは議論とは異なる。

カントの考え方は直感的には理解し難いので、誤解に基づいて批判されることが多い。これはカントが生きていた頃から延々と、そうなのだという。

カントの主張の枠組みはLecture11,12で既に紹介しているため、Lecture13では少し時間の余裕があった。そこで講義の後半では、僅かに学生の発言が続く場面が見られた。しかし教授の問いかけはここでも「カントを擁護できる意見はないかな?」だった。カントへの批判に進むことは、慎重に避けたわけだ。

しかしそれゆえに、Lecture11,12,13では、カントの主張が、これまでの講義で紹介された様々な考え方と十分に対比されていたとは言い難い。3回を費やしてカントの義務論を紹介した理由もまた、よくわからなくなってしまっている。

そんなこんなで、「講義の中で説明されたこと」はよくわかったけれども、その枠から一歩出ると「はたしてカントの主張をどう考えたらいいのか、よくわからない」という状況になってはいないか。そこで、私なりの理解に基づいて、講義をまとめ、一部は補足しておきたい。

殺人犯から友人を守る方法

カントは、「嘘をつくな」という道徳法則は3つの定式によるチェックをパスできる道徳の最高原理のひとつである、と考えている。しかし多くの人は、そのようには考えていない。例えば、こんなケースを想定しても、「嘘は間違っている」と考えるだろうか?

(教授)もし殺人犯が、君の家に隠れている友達を捜して玄関に現れたらどうか。殺人犯から、単刀直入に「友達は家にいるのか?」と聞かれたら、どうする?

フランスの哲学者バンジャマン・コンスタンは、「殺人犯は真実を告げられるには値しない」と主張した。おそらく、多くの人はコンスタンに同意するだろう。

だがカントは、やはり「嘘はいけない」といった。カントの3つの定式によるチェックは非常に厳しく、多くの人が道徳的だと考えることの多くが、弾かれてしまう。とくに厳しいのが普遍的法則の定式だ。「どんな場合にも成立しなければならない」というのだから、これは難しい。「嘘をつくな」という道徳法則もまた、いま攻撃を受けているわけである。

サンデル教授の講義の中で紹介された、カント自身が見出した道徳の最高原理は「人を殺すな」と「嘘をつくな」の2つしかない。このたった2つの道徳法則の片方が、かくも簡単に否定されてはカントも立つ瀬がないだろう。しかしじつは、カントの主張は、多くの人の想像とは異なっていたのである。

(教授)嘘をつかずに、かつ友達を守れる方法はあるだろうか? 誰かいいアイディアがある人は?
(学生)友人と事前に打ち合わせをしておきます。私は殺人犯に真実を告げますが、私が殺人犯の応対をしている間に逃げてもらうのです。
(ジョン)友達がどこにいるか知らない、というのはどうでしょうか。つい先ほどまで一緒にいたことは事実です。しかし殺人犯と応対しているまさにそのとき、友人がどこにいるかは不明なので、嘘にはなりません。

カントは道徳性の基礎を、道徳法則の形式的な遵守に置いていた。だからカントはジョンに同意しただろう、と教授は解説する。

どういうことか。

友人を匿うという目的を達成することが唯一最大の課題なら、丸っきりの嘘を話すことと、紛らわしい真実を話すことに、道徳的な違いはない。だが人は、「人を欺く」ことを目的としながらもなお、嘘を避けようとすることがある。それは、道徳法則に対する敬意があるためではないか、とカントは考えるのだ。

もっとも、講義の中では触れられなかったけれども、「詐術が露見した場合のダメージを最小化するため」という理由で嘘を避ける人もいるだろう。カントは、そうしたケースまで擁護しているのではない。ただし、そのような打算があってはならない、ともいっていない。

端的には、打算の有無は問題ではないのだ。「嘘をつくのはよくないことだ」という気持ちがあれば、その点について道徳的に評価できる、という話なのだ。カントは道徳的に正しい動機「だけ」で人が行動することを要請していない。そもそも上の例では、発言者は「詐術」の自覚を持っているのである。

個人的には、「なるほど」と思わされた。詐術が露見するリスクの考慮という要素は無視できないが、しかし「嘘をつくこと」への心理的抵抗について、いくらかの経験がある人は多いのではなかろうか。

人の気持ちを傷つけないためにつく嘘

(教授)誰かからネクタイを貰ったとしよう。箱を開けて見ると、ひどい代物だった。さあ何と言う。
(学生2)ありがとう。
(教授)うまい答えだ。もし「素晴らしい」といえば、カントの考え方では、許されない。だから誤解を招くような真実で逃げよう。箱を開けて「こんなネクタイは見たこともないよ! ありがとう」

これも同じで、功利主義的に考えれば、その嘘が露見してひどいことになったりはしないと仮定できる場合、嘘をつくことと、誤解を招くような真実を語ることに違いはない。だが「嘘をつかない」ことに道徳性を見出す立場からは、結果は問題ではないのである。道徳法則に敬意を払い、損得と関係なく「真実を語ろう」とする意思こそが評価に値するというわけだ。

ちなみに、カントは「人の心を傷つけないこと」を道徳の最高原理とはしていない。普遍的法則の定式をクリアできないからだと思う。だから、「人の心を傷つけないため」という動機は、カントの哲学においては、とくに道徳的な意味を持たないだろう。それは「道徳とは別の話」として扱われるのではないか。

カントの義務論とその実践

カントは「道徳的価値があること」の条件を厳格に示したが、動機の全てや行動の全体が道徳的でなければ評価に値しない、とは考えなかった。行為の全体や結果から大雑把に道徳性を評価することを否定する一方で、「人を欺く方法の選択」の中にすら道徳性を認められる部分を見出した。

功利主義などは、人間の自覚的な行動の大半を「道徳的に正しい」と規定する。そして不道徳な行為は批判されるべきだと考える。これに対しカントは、人の行動の大半は、道徳的価値を持たないとする。しかし、道徳的でない行動は全て批判されるべきだ、とは考えない。なぜなら、人の肉体は感性界にあるので、本能や欲望、因果律といった傾向性に強い影響を受けるのは当然だからだ。

少なからぬ人がカントの主張を「厳格すぎる」と感じるのは、「道徳的でない行為は批判されるべき」という固定観念によるもの。道徳的価値がない行為も「やっていい」「それは仕方ない」という感覚をカントは持っていた。だから、カントの主張は決して非現実的ではない。

しかしそうすると結局、カントは人の行動の大半について、道徳的に善いとも悪いともいっていないことになる。カントは、条件付の功利主義者とみなされる場合がある。それは、厳しく限定した「道徳」から離れた事柄について、カントは功利主義的な立場に与することが多かったからだそうだ。

これをカントの自己矛盾と捉えるのは正しくない。Lecture1の路面電車の問題において、最初の問題設定では「5人の死より1人の死を選ぶ」とした人が多かったが、そのことを「道徳的に正しい判断だ」と胸を張る人は、じつは少なかったのではないか。5人より1人を選ぶのは道徳を離れた判断であって、1人を殺すのだって「道徳的に正しいこと」ではないのだ。

これは突飛な考え方ではない。実際、第2の問題設定では、5人を救うためであっても1人を殺そうとする人はほとんどいなかった。5人と1人の命を天秤にかけることは、状況に支配され道徳的な価値判断を奪われた場合にしか行えない。自律した判断は、その選択に道徳性を認めないのだ。

このように読み解くと、カントは「トロッコ問題」における人々の価値判断を、うまく説明できているように思う。

では、道徳を離れた判断とはいかなるものか? カントは感性界のルールとして功利主義を評価した。ただ「功利主義に従うこと=道徳的」ではない、と主張したに過ぎない(ともいえる)。人の精神は叡智界にあるが、肉体は感性界にあるので、自律と生活は一致しない。したがって私たちに可能な道徳的な生き方とは、「道徳法則に最大限の敬意を払うこと」なのである。

Lecture14

Lecture14からはロールズの正義論について考えていく。まずはその準備として、契約の道徳的な性質を考えていく。

契約の破棄と補償

契約の義務や拘束力は、同意によって自分自身に義務を課す「自律」と、便益の交換という「互恵」という2つの要素から生まれる。

Q1 100匹のロブスターを100ドルで買う契約をして2分後、君が漁に出掛ける前に、私は君に電話をかけ直し気が変わったと告げる。このとき、私には100ドル支払う義務があるだろうか。

相手はまだ手間暇をかける前だし、自分も何ら利益を得ていない。同意はあったが、便益の交換はない。この場合、契約を遵守する必要はないのではないだろうか。

いや、そうではない。契約に同意した時点で、私たちは自分自身に契約を遵守するという義務を課すのだ。それは状況や気持ちの変化とは関係のないことだ。既に義務は発生している。……という話を、教授はしたかった。ところが。

(ジュリアン)契約を作成するのに、僕は時間と労力を費やしたし、それに僕には仕事をするという情緒的な期待もあるからです。
(教授)契約はFAXで行ったので手間はかかっていない前提で考えてほしい。同意したことは認めるが、君は何の仕事もしていないし、私は何の利益も得ていない。それでも契約を守る義務があるだろうか?
(ジュリアン)漁師は、ロブスターを捕まえる作業を心の中でやり終えたかもしれません。100ドルの価値はないとしても、ある程度の価値を見出す人がいるかもしれません。
(教授)よろしい。1ドルならあげてもいい。しかし面白いことに、君はまだ契約の相互関係的な側面を指摘しているね。君は私のためになることをする、あるいはすると想像している。

ジュリアンの主張は馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、好意的に状況を補うならば、これは経済学ではよく知られた考え方を表している。

作業の計画があれば、同じ時間帯に他の仕事を入れることはできない。具体的に断った仕事がないとしても、その時間帯に仕事を取るような営業活動をしないことで、本当は取れたかもしれない仕事を逃しているだろう。とすると、いまさら他の仕事を確保できないような段階で仕事を断ることは、相手の期待を裏切り、機会損失を与えることになる。

機会損失は、様々なところにある。発注のFAXを送信してから僅か2分後の取り消し連絡であっても、漁に出かけるための準備などについて、相手はいくらか頭を使ったかもしれない。その間、他の仕事は進まなかった、あるいは遅れたに違いない。手足を動かすだけが労働ではない。

だから100ドル全額を支払う必要がある、のだろうか。これは功利主義では「時と場合による」としかいえない。

例えば、Amazonの1click注文サービスは、煩雑な確認手続きを省略することで、商品の単品・即時発送を売りとしている。様々な手間を省くことで低価格で便利なサービスを提供できているのだから、1click注文サービスが発注の取り消しに対応しないのは自然なことかもしれない。

さて、ジュリアンは自分の説明が苦しいことを悟り、こんな例を出してきた。

(ジュリアン)例えば2人が結婚することに合意したとします。その2分後にどちらかが気が変わったといいます。でもこの契約は、双方に義務を負わせるのでは?(会場笑い)どちらもまだ何も支払っていないし、仕事もしてませんし、利益も得ていませんが。
(教授)私は何ら義務はないといいたいね。(会場笑い)
(ジュリアン)いいでしょう(会場笑い&拍手)
(教授)ありがとう、ジュリアン。

人の心に与えるショックを大きく見積もるなら、具体的・客観的な損失がなくとも、功利主義に基づいて安直な契約とその破棄を否定することは容易だ。契約は相手に期待を抱かせる。一方的に期待を壊すのは、人の心をないがしろにした行為だ。適当な慰謝料を支払うのが当然ではないだろうか。

しかしジュリアンがこの例を通じて説明したいのは、そういうことなのだろうか。もっと情緒的な、あるいは倫理に訴えかけるような意見を主張しようとしているのではないだろうか。

(教授)誰か他にジュリアンと同じに、私にはまだ金を支払う義務がある、と考える人はいるかな? ただし他の理由で。
(アダム)契約を取り消すと、契約という制度を軽んじることになる気がします。これはカント的だと思うのですが、相手が私が契約を履行することを期待して契約を結ぶことには内在的な価値があると思います。
(教授)よろしい。自分で義務を引き受けておきながら、取り消せば、契約の本来の趣旨を軽んじることになるだろう、そういうことだね?
(アダム)そうです。

多分、ジュリアンも2番目の例を出したときには、こういうことをいいたかったんだろうな、と思った。

同意は契約の必要条件ではない

Q2 私の車が壊れて困っているところへBさんが現れ、一方的に条件を提示し(常識的な内容だった)、勝手に修理を始めた。15分後、私が「まだ契約を結んでいない」と指摘すると、Bさんは「この15分の間に故障が直っても報酬を払わないつもりだったのか!」と怒った。
 もしBさんが修理に成功したなら、私は与えられた便益に報いるため、支払いの義務があった。だが、そうでなければ、合意が存在せず利益の相互性もないので、支払いの義務はない。即ち、同意は契約の義務が生じる必要条件ではないのだ。
 この私の考え方を正しいと思う人は?

結果はこうだ。

大多数 正しい
数人  間違っている

教授は、少数派に意見を求めた。

(ネイト)便益とは、主観によって決定されるものですよね。もし先生が車が壊れることを望んでいたのに、彼がなおしてしまったとしたら。
(教授)いや、壊れろとは思っていなかった
(ネイト)この場合はね。
(教授)誰が壊れろなんて思うんだい?
(ネイト)そういう人もいるかもしれません。もしヒュームが、塗装業者に家を青く塗られてしまい、青が嫌いだったらどうでしょう。自分が望む便益が何かを、相手が行動を起こす前に決めなければダメですよね。
(教授)君は、そこからどんな結論を導き出そうとしているのかな。同意は義務があることの必要条件だと結論付けようとしているのかな?
(ネイト)そうです。
(教授)なるほど。便益の交換が、等価ないし、公正なものだったかどうかを判断するためには、個人の主観を確認する必要があるだろう、ということだね。なかなかいいところをを突いている。

ネイトの発言の前半部分は突飛な内容に思われるかもしれないが、実際問題、「壊れたままで何の不都合もない」ものは少なくない。それを勝手に修理して「いいことをしたんだから報酬をよこせ」という主張が通ってしまっていいのだろうか。

ネイトの発言中にあるヒュームの例は、講義の中でサンデル教授が紹介したエピソードだ。暗黙の同意といった仮想的な契約概念を徹底批判してきたヒュームだが、実際の裁判では勝手にボロ屋のペンキを塗り直した業者に負けてしまったのだという。つまり実際の社会では、場合によっては、勝手に何かをして報酬を請求することが「正しい」とされる場合があるわけだ。実際、サンデル教授の意見に、多くの学生は賛成した。