1974年に白人男性、アラン・バッケはカリフォルニア州立大学デイビス校の医学部に出願した。彼の成績は、その年合格したマイノリティの志願者の一部の成績よりも高かったが、不合格となった。
バッケは医学部を訴え、アメリカ最高裁は、彼を入学させるべきだという判決を下した。学校は合格者を決めるに際し、数ある要因の一つとして人種を考慮することはできるが、マイノリティの出願者だけのために、一定の枠を確保し、人種を合否の基準にするべきではないという判決だった。
この最高裁の判決は公正か? アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)の道徳性を考えるに際し、以下の質問を考えてみよう。
- バッケは不公平に扱われていると思うか? 彼は自分の学業と個人の実力のみで、合否を判定される権利があるのか?
- バッケが白人として生まれてきたことは、どうしようもない。それなのに彼は白人だというだけで、なぜ医学部に不合格にならなければならないのか?
- バッケが高い学業の能力に生まれついたことについて、自分では何もしていない。それなのになぜ彼は自分の学業と個人的な実力だけで、判断される資格があるのか?
- 多くの場合、生まれながらに恵まれた運動選手は、奨学金で大学に行く。しかし、その生来の才能は、彼ら自身の努力によるものではない。奨学金がほかでもなく、才能ある運動選手に与えられるのは公正か?
- アメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人は、奴隷制と人種差別のために、歴史的に不利な状況にある。大学の入学審査におけるアファーマティブ・アクションは歴史的な不利な状況の補償として容認できるものか?
私はこの問題に関して、概ねリベラリズムの立場に与する。そして私の主張は、功利主義の観点からもまずまず説明がつくのではないかと思う。
バッケは不公平に扱われていると思うか? 彼は自分の学業と個人の実力のみで、合否を判定される権利があるのか?
そのような「権利」を、私は認めない。大学は学業成績のみに基づいて合格者を選抜すべきである、という社会的な思い込み(まあ「常識」といってもよい)に大学が付き合う理由はない。「州立大学は州民の常識に従うべきだ」というならば、民主的な手続きを経た法で縛るべきだ。「常識を忖度して不文律を守るべし」という意見には賛同し難い。
バッケが高い学業の能力に生まれついたことについて、自分では何もしていない。それなのになぜ彼は自分の学業と個人的な実力だけで、判断される資格があるのか?
基本的には、そのような資格を、私は認めない。たまたま、その才能と努力に合致する社会的需要があったので、バッケは医者を目指す夢を得ることができたのである。才能と社会を所与のものとして、両者に必然的な関連があると考えることに、根拠はない。
もし大学が募集要項にて「学業成績のみで選抜する」と宣言していたなら、自ら定めた義務により、大学は制限を受ける。しかしバッケ訴訟の場合、大学はあらかじめ、マイノリティのための枠があることを公にしていたのである。
多くの場合、生まれながらに恵まれた運動選手は、奨学金で大学に行く。しかし、その生来の才能は、彼ら自身の努力によるものではない。奨学金がほかでもなく、才能ある運動選手に与えられるのは公正か?
この部分だけを切り出して考えれば、公正である。たまたま社会で成功する者がいることと何ら変わりはない。奨学金を払ってでも大学へ進んでほしい、と期待される才能があることを意味するに過ぎない。
開放系で考えると、これだけの条件では答えが出ない。ロールズの正義論に即して説明するなら、長い目で見て格差原理と矛盾しない限りにおいて許されるであろう。功利主義から考えると、その奨学金を他の用途に回した場合との比較によって、正当化できるか否かが決まることになろう。いろいろなケースが考えられるので、場合によっては、その奨学金は他のことに使った方がいいのかもしれない。
ちなみにリバタリアニズムに基づいて考察するなら、閉鎖系でも開放系でも関係なくなる。奨学金の原資が正当なものならば、払う側も貰う側も納得しているので、問題など何もありはしない。他人が「俺にもよこせ」「他のことに使え」などと強制するのが正義であるわけがない。
アメリカにおいて、アフリカ系アメリカ人は、奴隷制と人種差別のために、歴史的に不利な状況にある。大学の入学審査におけるアファーマティブ・アクションは歴史的な不利な状況の補償として容認できるものか?
容認できない。なぜ現代のヨーロッパ系が、先祖の罪を償わねばならないのか。
歴史的な経緯はどうでもよい。教育機会の不均等は、人類の普遍的な問題として、みんなの協力を得て解消を目指すべきである。