目的論・1 アリストテレスの目的論 正義や制度の議論にはテロス(=目標、目的)の検討が必要。 →人の能力に適合した(目的に適った)分配こそ正義である。 Ex. アリストテレスの政治論 アリストテレスの主張 ・地位や名誉の分配を重視する。 *現代の正義論では、収入、財産、機会の分配を重視する。 ・政治の目的は善き生の実現である。 *カントやロールズにとっての政治 →善、価値、目的を選択する自由を尊重すること *美徳は実践なしに得られない →正しい生き方を身に付けるためには「徳を実践し 善の本質を議論すること(=政治)」が必要である。 ・統治者の権力と名声の分配基準は目的に適合する必要がある。 *善を追求する集団に最も貢献する者が、政治的統治に おける役割や、ポリスにおける名声を得るべき。 *美徳を持つ者を選び名誉を与えることも政治の重要な点。 アリストテレスの言葉 『ニコマコス倫理学』他 「名ばかりでなく、真にポリスと呼ばれるものは、善の追求 という目的に献身すべきだ。さもなければ政治的共同体は、 ただの同盟に陥る。法は、他人から人間の権利を保障する だけの約束事になってしまう。本来は、ポリスの市民に 善と正義を与える規範であるべきなのに。 ポリスは、同じ場所に住む者の集団ではない。互いの 不正義を防ぎ、取引を容易にするためのものではない。 ポリスの目的と意義は善き生であり、社会生活の諸制度は、 その目的のための手段である。」 →生活も経済も安全保障も政治の本質的な目的ではない 「ポリスで生活し、政治に参加することでのみ、我々は、 人間としての本質を十分に発揮できる。」 「政治的共同体であるポリスは、自然に発生するものであり、 個人に優先する。時間的に優先するのではなく、その目的 において優先するのだ。」 「孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、 または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神で あるに違いない。」 →幸福とは美徳に基づく魂の活動であり、言語能力を 活用できる政治的共同体においてのみ実現する。 目的論は生きている ・社会的実践の目的……目的論 ・名誉に値するべき資質……分配的正義 現代の人間の生や自由など基本的な権利に関する議論では、 目的論は排除される。しかし名誉の分配が問題となる場合、 現代においても分配的正義を論じる際に目的論を考慮する 必要がある(と大多数の人々が認識する)事例が存在する。 次回→目的論を無視し難い事例を検討する
目的論・2 Ex. PGAツアーとケーシー・マーティンのカート使用問題 →PGAとは全米ゴルフ協会の略で、アメリカ最高峰の プロゴルフツアーであるPGAツアーを運営している。 マーティンは足に障害があり、歩行が困難だった。 そこで試合中、カートで移動する条件でPGAツアー に参加する権利を求め、拒否したPGAと裁判で争った。 学生たちの判断は割れたが、マーティン派が僅差で過半に。 ゴルフの目的と名誉 ・ゴルフの本質に歩行が含まれてるかどうかという論点は、 ゴルフが体力の要素が重要な「スポーツ」なのか、主に 技術を競うビリヤードのようなものなのかに関わる。 ・一般に優秀なスポーツ選手は非常に大きな名誉を得る。 ・歴代のPGAツアー優勝者はスポーツ選手としての名誉を 自負しており、ゴルフのスポーツ性を護持するPGAの判断を 強く支持した。 ・最高裁のスカリア判事はスポーツの目的も名誉も否定した。 「ゲームの本質は、娯楽のほかに目的がないことである。 これが、ゲームと生産的な活動の違いである。」 「多くの者は、歩くことがゴルフの特色だと考えている。 マーク・トウェインは、「それは散歩の楽しみに失礼な 話だ」といってゴルフを批判した。」 ・スカリア判事のような立場は少数派であり、目的論と 結びついた名誉を無視することは現実的ではない。 アリストテレス 正義の議論には、目的と名誉という2つの要素が不可欠。 正義とは、適合させること。→そこに自由の余地はあるのか? ジョン・ロールズ 目的論によって正義を論じた場合、 平等な基本的人権が脅かされる。 Ex. アリストテレスは奴隷制を支持した。 奴隷制が正義に適うための条件 1.社会にとって必要であること →市民が美徳を発揮するためには奴隷が必要である。 2.奴隷にふさわしい人がいること →アリストテレスは、そのような人の存在を認めた。 ただし現実には奴隷にふさわしくない者が奴隷と なっていることを指摘し、批判してもいる。 →第2項を現代的に発展させれば、目的論を放棄せずに 奴隷制を否定することができる。よって奴隷制への 批判が即ち目的論を撃つということにはならない。 目的論への反論 ・物事の目的に関する見解が統一される枠組みがない。 ・正義や権利や憲法は、特定の善の考え方や、政治的生活の 目的などを前提にすべきではない。 →正義の枠組みは見解の不一致を前提として構成すべき。 ・人が自由であるためには、特定の役割、伝統、慣習に とらわれるべきでない。 目的論とカントやロールズの主張のいずれが正しいか? その判断のために吟味すべき課題: 1.権利は善に優先するのか 2.自由な道徳的主体とはどのようなものか 次回→個人は単独で道徳的主体となれるか
実際の講義では、ケイシー・マーティン裁判は2回連続で議題となっています。しかし内容的な区切りは存在しないので、ノートではLecture20の方に整理してまとめています。
また「目的論は生きている」「奴隷制が正義に適うための条件」「目的論への反論」などは、自分なりの解釈で内容を補っています。
アリストテレスは、あらゆる人や物には目的があり、その目的に適った行動や分配が正義だといいます。また人々の営みが賞賛する美徳について考えることで、正義と名誉のかかわりを論じることができると主張しました。
アリストテレスは、最高の笛は最高の演奏者に与えられるべきだと考えます。笛の目的は演奏されることだからだ、と。
名誉に関わる問題では、議論に加わる誰もが目的論を前提としていることが珍しくありません。片足に障害のあるプロゴルファーのケイシー・マーティンが、プロゴルフ協会に試合中のカート使用許可を求めた裁判は、その一例です。
プロゴルフ協会は全員にカートの使用を許可して平等性を担保する案を却下し、この裁判が不平等の解消ではなく、ゴルフというスポーツの目的を問うものであることを明らかにしました。最高裁のアントニン・スカリア判事のような、スポーツの目的も名誉も否定し「ルールは何でもよい」と考えた者は少数派でした。
そのため、裁判では一貫して「コースを歩く能力が、ゴルフにおいて選手が競う本質的な技能のひとつであり、プロゴルファーの名誉を構成する要素として不可欠なのかどうか」が争われました。判決はマーティンの主張を基本的に受け入れるものとなったそうです。