復習課題に取り組む

約2,400年前の古代ギリシャの哲学者、アリストテレスは、これまでに正義について書いたもっとも重要な哲学者の一人である。彼は正義とは、各人にふさわしいものを与えることであると考えた。しかし、どうやって人々に何がふさわしいのか分かるのか?どんなものや機会がどの人に行くべきなのか?アリストテレスの答えによれば、与えられる物のテロス(目的や意味)を考える必要がある。彼は正しいだろうか。

  1. 誰が大学への入学を許可されるべきか?入学審査の判断は、学業の実力のみに基づいて行われるべきか?それとも大学は、学業だけを重視するのではなく、その他の経歴を持つ学生を入学させ、多様性を目指すべきだろうか?何が公平だろうか?そもそも高等教育の目的は何だろうか。
  2. 長年、アメリカ軍は女性が兵役につくことを認めていなかった。これは不公正か?そもそも軍隊の目的は何だろうか。
  3. 「フーターズ」は、肌を露出した制服(タンクトップにホットパンツ)を着たい女性ウェイトレスしか雇わないレストランである。しかし、そこでウェイターとして働きたいという男性もいる。「フーターズ」が女性しか雇わないのは不公平か?そのレストランの目的を考えてみよう。単に食事を出すだけなのか?それとも男性をもてなすことなのか?
  4. 「たとえ間違った選択をすることになっても、人々はどのような人生を生きるのか、自分で自由に決めるべきである」。あなたは同意するか?アリストテレスの正義についての推論の方法と、近代の個人の自由を重要視する考え方は対立するだろうか?それとも、アリストテレスの考え方は、個人の自由を重んじる考え方に対して適応をすることができるだろうか?

1.

誰が大学への入学を許可されるべきか?入学審査の判断は、学業の実力のみに基づいて行われるべきか?それとも大学は、学業だけを重視するのではなく、その他の経歴を持つ学生を入学させ、多様性を目指すべきだろうか?何が公平だろうか?そもそも高等教育の目的は何だろうか。

個人的には、多数派の道徳観念とは異なるようだけれども、ロールズの主張に肩入れしたい。功利主義と義務論は、思想の根本に違いがあるけれども、結果として主張することには共通点が多い。とくに功利主義の損益計算を、苦痛に大きな重み付けをして行う場合には、そう。

大学の入学資格は、とくに日本においては、基本的に学業成績のみで決まることになっている。推薦入試やAO入試では、面接や作文など採点基準の不明瞭な試験を課すことで逃げているが、しかし面接の点数などが公開された場合、アファーマティブ・アクションのような発想に基づく合否判定が明るみに出れば、社会的に許されないだろう。

ハーバードの学生たちの反応を見るに、アファーマティブ・アクションが実現した米国においても、能力主義が合格者の自尊心を強化する構図は変わらないらしい。自分は努力してきたので、合格に値する、というような。私が能力主義を嫌うのは、それが勝者に都合のいい理屈だからだ。そして自分は能力の低い側に属する、と思っている。世の中の大多数の者は能力が低いので、功利主義に大いに与する一人として、能力主義を野放しにすることには疑問を感じる。

名門大学の合格者たちに名誉を与える必要はなく、「あなたが現時点での社会の需要に適合した才能を持っていることが確認できたので、入学を許可します」といえばよい。そうすれば、大学に合格できない人が、そう悲しむ必要もなくなる。職業にも学歴にも貴賎はない。たまたま収入などに差が生じるとしても、誰が偉いというわけでもないんだよ、と。

学歴などに名誉が付随する現状は、大多数の者にとって害が大きいと思う。能力主義は、多くの者に劣等感を与え、僅かな者に利益のない優越感を与える、どちらにせよいいことのない考え方。打倒すべきだ。

そして社会的・経済的な不平等は、最も不遇な者の状況を改善する場合にのみ認められる、という格差原理は実に魅力的。ロールズと功利主義者がそこに辿りつくルートは大きく異なっているとしても、望ましい社会の形は相似形になるということではないか。

多様性の追求については、教育の成果をきちんと検証すれば自ずとその意義も明らかになる。その理念の是非を議論する意味はない。聞こえのいい理屈に惑わされず、実際の効用を重視する、ということ。

高等教育の目的も、とくに考える必要はない。高等教育の存在自体に道徳性を見出す必要はない。それがあった方が社会全体の効用が増大するなら、高等教育の護持には意義がある。そうでないなら、なくせばいい。

2.

長年、アメリカ軍は女性が兵役につくことを認めていなかった。これは不公正か?そもそも軍隊の目的は何だろうか。

軍の仕事に性的魅力はほとんど関係ないはずだ。軍が求める資質に関しては、目的論的論法によっても、単純に「性差より個人差の方が大きい」という事実には反論しきれまい。性別というふるいは、兵役の資格を判断するに当たって、あまりにも大雑把に過ぎたということ。

3.

「フーターズ」は、肌を露出した制服(タンクトップにホットパンツ)を着たい女性ウェイトレスしか雇わないレストランである。しかし、そこでウェイターとして働きたいという男性もいる。「フーターズ」が女性しか雇わないのは不公平か?そのレストランの目的を考えてみよう。単に食事を出すだけなのか?それとも男性をもてなすことなのか?

天下り式に目的を考えずとも、市場に任せればいい話だろう。徴兵制のような、市民の義務がどうのこうのといった論点は、ここには出てこない。フーターズの客がウェイター配置店を忌避し、ウェイトレスのみの店舗に集中するなら、募集要項で男性を拒否せずとも、市場の需給の問題として決着がつく。

とはいえ、それはフーターズが男性客向けの店である、という状況が先にあっての話だから、やはり目的論から逃れることはできていないか。しかし市場は分業を志向するから、いずれどこかの店が、需要に対応して同種のサービスを始めるだろう。大局的には、「様々な需要に応じて様々なサービスが供給される」だけの話、とも整理できるように思う。

それでも質問文が「考えてみよう」というので考えてみると、まあHooters.comを見た感じ、たしかにこのお店は「男性向け」に設計されている様子。配膳係を女性に限る理由は理解できる。それでもアリストテレス的な目的論を持ち出すと変な感じがするのは、目的への適合が「道徳的に正しい」という議論が大げさに聞こえるからだろう。

いまパソコン設定サービスなどでも、女性専用サービスとして「女性のサービス担当者のみを派遣します」などと謳っている事例がある。「なるほどな」と思うけれど、需要があれば対応するサービスが生まれるというだけの話。無論、「客が求めるから、というだけの理由」を無批判に受け入れると、不合理な差別に基づく需要も「あり」になってしまう。

目的論で考えていくと、そのあたりの区別・判断ができないんじゃないか。功利主義は、ここでもやはり極めて強力。フーターズで働けない男性の悲しさ、悔しさと、ウェイトレスばかりのお店を歓迎する客たちの利益を比較すればいい。「特定のどこそこで働く権利」は基本的人権としては認め難いので、フーターズでウェイターをやりたい人の希望が通らなくてもいいだろう。

4.

「たとえ間違った選択をすることになっても、人々はどのような人生を生きるのか、自分で自由に決めるべきである」。あなたは同意するか?アリストテレスの正義についての推論の方法と、近代の個人の自由を重要視する考え方は対立するだろうか?それとも、アリストテレスの考え方は、個人の自由を重んじる考え方に対して適応をすることができるだろうか?

言葉の綾に噛み付くような議論になってしまうけれども、「間違った選択」は間違っているんじゃないの。私は功利主義の立場から、個人の自由をどこまでも認める議論は否定します。

近代的なリベラリズムだって、正義の問題は価値中立であるといっていて、個人の自由な選択の権利は、あくまで正義の枠組みに従う前提があって認めているわけ。日常生活を全て道徳的に瑕疵のないものとすることは不可能だ、という話はみなが認めていることだし、質問の意図がわからない。

リバタリアニズムも、自己所有の原則を、自分だけでなく他者にも認めている。だから、何でも好き勝手にしていいという主張では全くないんだよね。

そんなわけで質問前半は意味不明だけど、後半の問いには私なりの答えがある。

それは、アリストテレスが「人間は道徳的に正しい行いしかしてはいけない」と主張しているかどうかにかかっている。マイケル・ジョーダンのプロ野球挑戦は目的論的には愚行になるが、だからといってそれを「やってはならない」とアリストテレスが主張するのかどうか。「望ましい行いではないが、強制してやめさせるほどのことでもない」という緩やかな規制にとどまるなら、目的論とリベラリズムは共存できるはずだ。

カントの義務論は、Lecture13のノートにまとめた通り、相当程度の寛容の姿勢を打ち出している。アリストテレスも優れた人間観察をされた方だから、人間に可能な主張をされたはずだ、と私は信じる。まあ著作を読めばそのあたりは明確になるはずだが……。