復習課題に取り組む

近代のリベラリズムは、法律は議論の分かれるような道徳的、宗教の問題には中立であるべきだと主張する。この見解によれば、法律は、善についての特定の考え方を支持したり、促進するべきではなく、市民が自分たちの人生をいかに最善に生きるかをそれぞれに選ばせるようにするべきだということになる。しかし道徳性や共通善についての議論を避けて、正義や権利についての問題を解決することは可能だろうか?

  1. 1977年に、アメリカのナチス党は、ナチスによるユダヤ人大虐殺の生存者の多くが住むイリノイ州スコーキで、デモを行おうとした。市がそれを拒むと、ナチス党は裁判所に訴えた。スコーキ市が公共の場での憎悪発言を禁止したことは許されるだろうか?見解の分かれる発言の価値について評価することなしに、この質問に答えることは可能か?
  2. 人間は受胎と同時に人間となるのだから、中絶は殺人となると信じている人がいる。一方、女性には自分自身の体に関する判断をする権利があるのだから、中絶は合法であるべきだと主張する人もいる。あなたはどう思うか?中絶は合法であるべきか?どのような条件であれば中絶は認められるべきか?中絶が殺人となるかどうかをという論争を避けて、中絶が合法であるべきかどうかを決めることはできるか?
  3. 同性愛は不道徳であり、それゆえに、同性結婚は許可されるべきではないと信じている人がいる。一方誰もが平等に扱われる権利を持っているのだから、同性結婚も許可されるべきだと主張する人もいる。あなたはどう思うか?同性結婚は合法であるべきか?同性愛の価値について判断することなく、この質問に答えることは可能か?
  4. 結婚の目的は生殖であり、それゆえに、同性結婚は許可されるべきではないと信じている人がいる。結婚の目的は、性別に関係なく、大人の間の愛情ある関係を称え、促進するものだから、同性結婚も許可されるべきだと主張する人もいる。結婚の目的と意義について判断することなく、同性結婚についての立場を擁護することは可能か?

近代のリベラリズムを徹底すると、リバタリアニズム(自由主義)や功利主義に相当程度、接近していくことになるように思う。そうだからこそ、理論の違いほど現実の政策に対するスタンスの差は大きくならず、多数派がおおよそ一定の範囲内に収まることになる。

他方、正義と道徳を結びつける考え方が人々の考え方を大きく支配しているようにも見えるのは、個人としては何らかの価値観を奉じて生きていることに起因しているのではないか。「私はこう思う」という話において、宗教的な信条や共同体の慣習などに基礎付けられた目的論などが大きな位置を占めるのは当然のことだ。

共同体主義は集団的な利己主義である、という批判は、かなりの場面で妥当だと思う。公益を争っているように見えて、じつは自分(たち)の利益を最大化しようとしているだけではないか、という。

……とまあ、そんなわけで、最終回のディスカッションガイドに取り組んでいきます。簡潔に。

1.

1977年に、アメリカのナチス党は、ナチスによるユダヤ人大虐殺の生存者の多くが住むイリノイ州スコーキで、デモを行おうとした。市がそれを拒むと、ナチス党は裁判所に訴えた。スコーキ市が公共の場での憎悪発言を禁止したことは許されるだろうか?見解の分かれる発言の価値について評価することなしに、この質問に答えることは可能か?

功利主義

功利主義なら、不可能。人を不快にさせる言葉は悪いものだ。だがそれを黙らせることもまた、表現を抑圧された者の苦しみを生む。功利主義は、表現そのものを善いとも悪いともいわない。ある表現がもたらす快と不快の総和を価値とする。つまり価値判断が入り込むことになる。

……が、功利主義における「価値」は、リベラリズムの「正義」と同様、一般的な意味における「道徳的価値」とは切断されている。そういう意味では、功利主義に基づいて判断すれば、価値判断は不要になる、ともいえる。

1.の事例における行政や司法の判断は、功利主義に近い見地からなされているようだ。ナチス党が、ユダヤ人から見えず、声も聞こえないような場所やスタイルで表現を行っていたなら、規制はされていない。規制するのにもコストがかかるわけであり、誰も迷惑していないなら、規制するに値しないというわけだ。

もちろん、ナチス党のような集団が存在すること自体を不安に思う意見はあるだろう。だが、その漠然とした不安が、規制に見合うものなのか、ということを考えなければならない。

リベラリズム

ナチス党の表現が、大虐殺の生存者にとって基本的人権の侵害に当たるかどうか、という価値判断が、まず入るだろう。リベラリズムも、正義の中に最小限の価値判断の余地を残しているのであり、その意味で、この事例はリベラリズムの限界を指摘するには不適切なのではないか。

もしナチス党のデモの内容が穏当なもので、その表現の自由が他者の基本的な権利を侵害するような程度のものではないとするならば、「その先」の議論において、リベラリズムは価値判断に基づく規制を批判することになるだろう。

つまり「彼らの表現の自由を認めることは、社会(の多数派)が彼らの主張を道徳的に正当なものと評価していることを全く意味しない」というわけだ。

共同体主義(?)

合法=正当という見地に立ち、道徳的にまずい行為は、私的な領域の内側でなされることを除いて禁止するべきだ、と考えるならば、これはもう社会の枠組みを決める正義と価値観は不可分だ、ということになる。

2.

人間は受胎と同時に人間となるのだから、中絶は殺人となると信じている人がいる。一方、女性には自分自身の体に関する判断をする権利があるのだから、中絶は合法であるべきだと主張する人もいる。あなたはどう思うか?中絶は合法であるべきか?どのような条件であれば中絶は認められるべきか?中絶が殺人となるかどうかをという論争を避けて、中絶が合法であるべきかどうかを決めることはできるか?

私は「中絶は殺人」という考え方に、心情的には与する。自殺を認めない「リベラルな人」が、不幸な出生を否定して中絶を許容するのは、正直、理解に苦しむ。

どんな子も引き取って育てることを明言したというマザー・テレサの「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」という信念を実現するために、私も自分に可能な支援はしたい、と思っている。(実際に行っていることは微々たるものではあるが)

現実問題としては、不幸な者が十分に救われる社会とはなっていない。どんな親から生まれても、社会が適切な受け皿を用意すれば、幸せに育つことはできると信じるけれども、その受け皿が実際には全く不十分である。ゆえに当座の結論は、現状を所与として功利主義的に最適化を考えて、社会的、個人的な事情に基づく中絶の容認もやむなし、とする。繰り返すが、これはあくまでも当座の結論である。

功利主義に基づいて考えるとき、いまの社会の様々な部分を所与とするか否かで、結論は大きく変わってくる。他のあれこれをそのままにして、現在の日本では合法な中絶を違法化するか否か、という議論なら、私は合法維持を主張せざるを得ない。本来なら中絶は間違っていると考えているにもかかわらず、だ。

しかし所詮、人の命に究極的な価値を見出してはいない、ということではある。

ともあれ、私は「女性には自分自身の体に関する判断をする権利がある」という意見には与しない。せいぜい、そう思うことで得られる幸福感については、計算のうちに入れておきましょう、というだけだ。

3.

同性愛は不道徳であり、それゆえに、同性結婚は許可されるべきではないと信じている人がいる。一方誰もが平等に扱われる権利を持っているのだから、同性結婚も許可されるべきだと主張する人もいる。あなたはどう思うか?同性結婚は合法であるべきか?同性愛の価値について判断することなく、この質問に答えることは可能か?

この話題に関してはLecture23,24 再検討で扱ったので、再論しない。私は功利主義に基づいて全員の快・不快を計算し、その結果に従いたい。

4.

結婚の目的は生殖であり、それゆえに、同性結婚は許可されるべきではないと信じている人がいる。結婚の目的は、性別に関係なく、大人の間の愛情ある関係を称え、促進するものだから、同性結婚も許可されるべきだと主張する人もいる。結婚の目的と意義について判断することなく、同性結婚についての立場を擁護することは可能か?

これも同じ。社会が結婚を認めるかどうか、というのが基本的人権の内側の問題なら、話は複雑になる。だが、そもそも結婚できない人もたくさんいるわけであり、より不幸な(とりあえずこう書く)人が放置されている状況で、そんな議論が力を持つとも思えない。

結婚の許可条件がどうなろうと、あなたが何を強制されるわけでもないのだから、基本的人権の侵害につながるようなテーマではない、といっていいのではないか。とすれば、こんな問題は功利主義で片付ければいい話だと思う。

ただしその際、「社会が公的に同性結婚を認めるなんておぞましい、みんな地獄に落ちるぞ、ああ私は何て不幸な時代に生まれてきてしまったんだ……」といって不幸になる人の気持ちも、計算に入れないとダメ。