PGAとは全米ゴルフ協会の略で、アメリカ最高峰のプロゴルフツアーであるPGAツアーを運営している。ケイシー・マーティンは足に障害があり、歩行が困難だった。だがクラブを振り、ボールを飛ばしたり、パットでボールを正確に転がす技術は一流だった。そこでマーティンは、試合中カートで移動する条件でPGAツアーに参加する権利を求め、拒否したPGAと裁判で争った。
サンデル教授がこの事例を持ち出したのは、目的論が現代社会にも生きていることを示すためである。正義は価値中立的であるべきだというリベラルな主張が世論の圧倒的な支持を得て、特定の「より善い生き方」を法律で義務付けるような政治が拒否されるのが現代だ。それでも、多くの人々が目的論に沿って考える種類の問題は、実際に存在するのである。
Q1 PGAはマーティンのカート使用を認めるべきか?
学生の反応は割れ、賛否は拮抗した。
(トム)ゴルフというスポーツが生まれたときから、コースを歩くことが競技の一環であり、今ではゴルフの本質的な要素となっています。だからゴルフコースを歩くことができなければ、プロとして競う上で必要な条件を満たしません。ちなみに僕のゴルフ経験は少しです。
(マイケル)僕はゴルフ部ですが、いつもカートに乗っています。しかしプロゴルファーにとって、コースを歩くことは試合の本質的な要素だと思います。コースを歩くことは、大きな負担になって、試合がはるかに大変になります。
(リーバ)PGAはカートの使用を認めるべきだと思います。判決の中でも、カートが入れない約1マイルを歩くことで、マーティンは他の選手と同等以上の疲れと痛みを感じると指摘されており、体力的な不公平はありません。また、歩くことがゴルフの本質だとは思えません。例えば、PGAのシニアの大会、大学の大会、どれもPGAと同様にレベルの高い大会ですが、カートを使用できます。それに、マーティンは座ったままでなく立ってボールを打ちます。
(デイビット)競争の目的は順位を決めることだと思います。これは世界的なツアーですから、最高峰のレベルです。問題は競争の目的です。競争の目的を考えれば、規則を変えるべきではありません。競争の目的には歩くことも含まれています。
リーバは複数の理由を述べたので、主張がぶれているように見える。そもそも歩くことがゴルフの本質ではないならば、前半で述べた理由は無用だろう。全員、カートに乗ればいいんだ。
また個人的には、リーバの主張の前半部分には首肯し難い。条件の違いを考慮して、**にとっては健常者と同等の負担である、と主張するのは筋の悪い議論だと思う。単に身体を鍛えていない者にとっても、長距離を歩くのは負担である。だから配慮されるべき、といったら誰も納得しないだろう。
ロールズが正義論で示したようなリベラリズムの前提を撤回して、努力の問題は自己責任に帰すとしても、マーティンの障害を「生まれつきのもの」というならば、「健常者」の枠内にだって相当な「生まれつき」の条件の差があるという問題はどうなるのか。生来、心肺能力が高い者は、不当に有利なのではないか。
アリストテレスの目的論は、正義の原理として平等な権利を採用しない。人にはそれぞれ向き、不向きがあって、各々が自分の才能に適した領域で存分に力を発揮することが正義なのだという。この考え方に基づけば、生来の有利・不利は問題ではない。ゴルフに向いた者がゴルフをすればいいのである。
その点、「歩くことはゴルフの本質ではない」という意見は、アリストテレスの目的論と矛盾せずにマーティンの主張を擁護するものだ。
ただ、リーバのような、シニアツアーではカートの使用を許可している、といった説明は、主張の補強にはならないと思う。高校野球では金属バットの使用が許可されているし、全国草野球トーナメントでは90分、7回戦制となっている。いずれもきちんとした大会である。だからといって、プロ野球も金属バットと90分、7回戦制を採用すべきだとは思わない。本来の野球は木製バット使用、時間無制限、9回制だが、高校野球や草野球では、競技の間口を広げるために野球を構成する要素の一部を省略しているに過ぎない。
実際の裁判では、マーティンの主張は認められた。なぜそうなったかといえば、「歩くこともゴルフの本質の一部だ」という意見が、世間の常識とは異なっていたからだろう。従来のPGAツアーは、「競技の本質とは関係ない、余計な運動を出場選手に課している」と思われていた。もしこれが野球に90分タイムアウト制限をつける提案だったなら、何らかの障害で体力の乏しい者がどんなに声を張り上げても、提案は通らなかったのではあるまいか。
最高裁の多数派の判事の意見は「コースを歩くことはハンバーガーを食べて得るほどのカロリーしか消費しない」という証言を引用し、だから歩くことは競技の本質ではない、と結論しているそうだ。
(教授)だがスカリア判事は意義を唱えた。彼はデイビットを同じ意見だった。スカリア曰く、ゴルフには目的などないし、ゴルフの本質的な目的を考えるのは法廷の役割ではない。ゴルフは他の競技と同じく娯楽である。特定のスタイルにこだわりたければそうすればいい。人々がそれを楽しめるか、観戦に行くか、テレビ中継を見るかどうかは、市場が判断することだ。
この講義では事前に課題資料が提示されており、その資料の中には裁判の判決文が含まれている。この件は、最高裁判決が出て、法的には既に決着している。しかし、法律と正義はイコールではない。法律はしばしば、人々の道徳観念とは異なった作用をすることがある。
だからサンデル教授は、裁判になった事例を紹介する際、たびたび「法律の問題ではなく道徳の問題として考えてほしい」という趣旨の発言を繰り返してきた。にもかかわらず、判決文の内容を一意見として紹介するだけでなく、この社会における道徳的なコンセンサスを示すものとして持ち出すような学生がいるのは、少し気になるところではある。
まあ、サンデル教授自身、Lecture23、24では明確にそういうことをやっているので、学生ばかり責められないのだけれど。
(ジェニー)課題の読み物の中にもありましたが、PGA以外ではカートを禁止しないゴルフトーメントがたくさんあります。シニアトーナメントでは、むしろ使用が奨励されています。全員に選択の自由があれば、不平等という問題は解消されます。
(ダー)全員にカートの使用を認めてしまうと、大勢の人が抱くゴルフの精神が損なわれます。例えば、水泳で足ヒレを使いたい人がいれば、全員が足ヒレを使えるようにするんでしょうか?
(ジェニー)ゴルフに情熱を注ぎ、実力のある選手がいるのに、一面的な理由で競技に参加させないのは、ゴルフの精神を損ないます。ゴルフで一番大事なのはクラブでボールを打ってホールに入れることです。私はゴルフをやりませんが、私にとっては、それがゴルフの主旨です。判決文にも同じ内容が書かれていました。
(ダー)例えば、腕だけを使える人が参加できる車イスバスケットのような競技もありますが、それは通常のバスケットボールとは別の競技だと思います。
(マイケル)バスケットボールができないなら車イスバスケットボールという選択肢があるように、PGAツアーとは、別の選択があると思います。障害者のためにオリンピックと別にパラリンピックがあるように、コースを歩けない人にPGAツアーへの参加資格が与えられないことは不公正ではありません。
あまり話が進んでいない。
この裁判の真の争点は何だろうか? それは「名誉」だ、とサンデル教授は説明する。そして名誉を考えるとき、目的論の視点は自ずと前面に出てくることになる。
ジャック・ニクラスやトム・カイトといった一流のプロゴルファーたちは、この裁判でマーティンのカート使用に反対する証言を行った。おそらく彼らは全員にカートを使用させる提案にも猛反発したはずだ。長いコースを自分の足で歩くことは、プロゴルファーの名誉を高める要素だった。少なくとも、当人たちにとってはそうだった。だから、それを「ゴルフの本質的な部分ではない」として省略するような考え方に、彼らは賛成しなかった。
スカリア判事は、運動競技を娯楽だと捉えた。功利主義的な考え方だ、とサンデル教授はいう。功利主義的には、ある人がゴルフツアーに参加できないことは、権利や公平性の問題にはならない。そして、裁判所が扱うべき問題でもなくなる。ルールに納得し、受け入れた人がゴルフツアーに参加すればいい。人々の関心と保守的なルールのズレが大きくなれば、自ずとルールは変更されるか、あるいはゴルフという競技は次第に忘れ去られていくだろう。
サンデル教授は、概要このように問題を整理した後、すぐさまアリストテレス的な見方からの反駁へと進んでしまった。しかし私が思うに、この裁判について聞いた者が最初に想起するのは、リベラリズム的な問題意識ではないだろうか。即ち、先天的な障害のためにプロゴルファーという進路を閉ざされるのは不平等ではないか? という論点だ。
もともとこの裁判は、プロゴルフ協会がアメリカ障害者法(ADA)に違反している、として提訴されたものである。ADAでは、15人以上の組織に対して、職務に必要な能力を有する障害者を、職務と直接には関係のない障害を理由として雇用を拒否することを禁止している。
例えば車椅子の障害者を雇えば、手洗いを改装するといった費用がかかるであろう。2階建て程度の事務所にも、エレベーターを設置しなければなるまい。だが、そうした理由で障害者雇用の拒否が正当化されるなら、障害者が人一倍努力しようと、きわめて高いハードルを越えない限り、障害者は仕事を得られない。だから、15人以上の組織は、あらかじめ障害者の雇用を見越した対策をしておき、いつでも障害者の受け入れを可能な体制を整えておかねばならない。それがADAの趣旨である。
ケイシー・マーティンは、プロゴルファーに必要な職務能力に歩行は含まれていない、と主張した。これはADA関連の裁判では一般的な論点だ。実のところ、障害のない労働者は、募集要項に書かれているような「本来の職務」以外の様々な仕事もこなしている。私も機械系の技術者だが、草むしりや、蛍光灯の交換も行う。もし私に足がなかったら、それらの仕事は困難だろう。とはいえ、雑用を幅広くこなせることが労働者に求められる資質だとすると、やはり障害者雇用は進まない。本来業務の拡大解釈による障害者排除は、ADAを回避する脱法行為だ、との解釈が成り立つ。そこで、たびたび裁判で争われているのだ。
以上のリベラリズム的な整理に、名誉の問題は登場しない。プロゴルファーという仕事があって、その本来業務はクラブでボールを打ってホールに入れることであり、コースを自分の足で歩くことではない。にもかかわらず、プロゴルフ協会は無意味な歩行を強要し、障害者を排除している。許せない。誰にも平等にあるはずの正当の権利が奪われている。おかしいではないか。……あくまで、権利と公正の問題なのである。
リベラリズムは、公正な政治を実現する正義の原理を、道徳と分離する必要性を訴える。だが、現実の問題に対処しようとすると、途端に壁が立ちはだかる。全米最高峰のプロゴルフツアーに参加する者の「本来業務」に、歩行は含まれるのか否か。この判断を回避したら、権利を保護する基準を決めることはできない。
だから、リベラリズムの主張は間違っていて、ゴルフの目的という美徳の問題を無視することはできないのである。それが、美徳から正義を考える必要性を訴える共同体主義(コミュニタリアニズム)からのリベラリズム批判であり、サンデル教授がリベラリズムの紹介がひと段落したLecture19というタイミングで、ケイシー・マーティン裁判を例示した理由なのである。
ただ、目的論を唱えたアリストテレス自身は、紀元前4世紀の人だ。リベラリズムの前提に賛同もしていない。だからサンデル教授は、リベラリズム的な整理をバッサリ略して、目的と名誉の問題から直接的に目的論が登場する必然性を論じようとしたのだと思う。
でも、そのせいで、本当に大勢の賛同を得られるのか疑問な説明も余儀なくされている。
(教授)アリストテレス的見方では、真のスポーツ、真の運動競技は、正当な評価を必要とする。スポーツと見世物との違いは、スポーツが卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価する点にある。そういったスポーツの美徳がわかる人こそ、理解のある本物のファンだ。彼らにとって、どのような要素がスポーツの本質か、という問いには意味がある。あってしかるべき議論なのだ。法廷が判断すべきかどうかは重要ではない。
このあたりは、首を傾げる人も多いだろう。素晴らしい舞台を鑑賞したら、音楽のコンサートでもいい、席から立ち上がって拍手をしないだろうか。サンデル教授は、スポーツを「単なるゲームとは違う」ともいった。違うのかな? と私は思った。チェスの素晴らしいプレーヤーも、スポーツ選手と同様に賞賛されていると思うのだが。ゴルフがスポーツに分類されようと、他の何か(それはゲームでもいいと思う)だといわれようと、称える側の意識に重大な違いはないと思う。
無論、称えられる側にとって大問題なのはわかる。だがそれは、質の高低の話ではなく、アイデンティティーの問題ではないのか。サンデル教授の説明には、上下の意識が表れているので、気になる。まるでゴルフがスポーツではなくゲームに分類されると、名誉が減ってしまうかのようだ。
ちなみに、サンデル教授はスカリア判事を功利主義的だといったが、リベラリズムをきちんと体現しているといった方が、私には納得できる。スカリア判事は、実務的な仕事なら客観的事実として「本来の職務」を認定できるだろうが、ゴルフは娯楽なので、そんな判断はできない、と述べているのである。
リベラルな正義は個別の集団の道徳観念や慣習には関与しないので、客観的な判断のできないことは法廷で扱うべきではないとする。したがって、ゴルフのルールについて、法廷が下せる正しい判断なるものは存在しない。何でもかんでも法廷で裁けるという発想自体に、リベラリズムはNoを突きつけているのだ。
大学の入学資格の公平性が問われたアファーマティブ・アクションの是非と同様、プロゴルファーになれるかどうかという問題についても、リベラリズムは「ルールを決める者の勝手でよい」と回答しているのである。市場に任せておけばいい、という部分をつかまえて功利主義的というのは、違うと思う。
では結局、権利の問題はどうなるのか。端的には、プロゴルファーのような特殊な職業の「本来の職務」は定義できないので、マーティンがPGAツアーに参加できないことについて「権利の抑圧」と認定することもできない、ということなのだと思う。
リベラリズムが保護するのは「**されない自由(=消極的な自由)」であって、「**する自由(=積極的自由)」ではない。趣味でゴルフをやる権利は誰にでもあるが、プロゴルファーになる権利は保障されない。むしろ、スポーツのルールを、その管理団体が自由に決める権利の方を、保証すべきなのではないか。「柔道で打ち所が悪くて死ぬ人がたくさんいるから、マットはもっとふわふわにしろ」なんて命令を裁判所が出せるような管理社会を、みな望んでいるのだろうか。
サンデル教授が名誉の問題を強調したのは、それがまさに、マーティンがPGAツアーへの出場を懇請した理由だからだ。歴史的経緯から、PGAツアーで勝利することこそ、プロゴルファー最高の栄誉とされているのである。「カートが使えるツアーで優勝できれば、それでいいじゃないの」とは思えないのだ。
それはそうだな、と多くの人々は思った。それでも、パラリンピックの水泳で、足を欠損している人に認められている足ひれをオリンピックでも許可しようとか、陸上競技で鋼鉄製の義足を許可しよう(鋼鉄の義足には強力なバネ性があり、一部の陸上競技はパラリンピックの方が記録が上回っているそうである)、という話になると、みな賛同しない。
この矛盾を解くには、多くの人が「ゴルフの本質に歩くことは含まれないよね」と思っていた事実を導入するしかない。これはスカリア判事も認めると思う。だがしかし、仮にそうだとして、これは裁判所が扱う問題ではない、という主張は死んでいない。リベラリズムでは、名誉は権利ではない。多くの人がその意見に賛同するかどうかは問題ではない。リベラリズムは、最初から正義の原理としての多数決を否定しているからだ。
私は、こう長々と、何を書いているのか。
それは、マーティン裁判の例からリベラリズムが論理的に否定されたわけではない、ということだ。
(学生A)僕はアリストテレスが個人と役割を一致している点に反対します。例えば、義足をつけ、眼帯をして、不機嫌そうな態度なら、海賊船に乗り込み、海に乗り出すことになってしまいます。でも、彼の考えは不自然だと思います
(メアリーケイト)個人の権利が無視されているように感じます。例えば、私が世の中である仕事に最も向いていて、誰よりも効率良く仕事ができるかもしれない。その場合、例え私がその仕事につくのが嫌でも、他の仕事につくことを否定されているように思います。
(パトリック)さきほどのゴルフカートに関する議論がアリストテレスの目的論的論法に対する反論を投げかけていたと思います。マイケルは歩くことがゴルフの本質だといいました。でも、僕自身は歩くことはゴルフの固有のものではないと思う。目的論的論法という枠組みの中では、どれだけ長い時間を費やそうとも、僕らの意見は一致しないでしょう。
結局、このあたりの疑問があるので、世の中は基本的にはリベラリズム的な発想で形作られ、美徳の議論は折に触れてオプション的に飛び出す、という感じになっているわけだ。