議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

……といっても、今回のテーマはカント。内容が難しいので、ずーっとサンデル教授が喋っている。結果、学生たちの議論がない。なので、今回は特別編。講義とノートを比較してみます。

Lecture11

学生の理解を確認する

(教授)何か質問や、疑問がある人はいるかな? 確認したい点がある人、あるいは義務に従うという動機だけが行動に道徳的価値を与えるとの考え方に異議があるなら、それも聞こう。
(アマディ)はっきりさせたい問題が二つあります。まず、この考え方には、一度何が道徳的かを意識すると、道徳性の目的を達成するために自分の動機を変えることができるような、ある種の自滅的な側面があるように思います。
(教授)例をあげてくれるかな。
(アマディ)店主の例です。客に正しいお釣りをおつりを渡そうと判断するとき、彼は道徳的になりたいと考えて、自分の動機を決められます。道徳性が彼の動機で決 まるとすると、行動の純粋性を無にするようなものではないでしょうか。彼の動機は道徳的に行動することではありません。
(教授)つまり君が想像しているのは、ただ純粋に利己的で計算高い店主ではなく、客のおつりをごまかすことを考えているかもしれないが、口では悪いうわさがたつと、自分の評判が傷つく、とはいわずに、自分は客に正しいおつりを渡す正直な人になりたい、それが正しい行いにだからだ、という人のことだね?
(アマディ)あるいは道徳的になりたいから。
(教授)道徳的になりたい。良い人になりたい。だから道徳性が求めるものに従うようにする。それは微妙なところだ。君の質問はカントに重要なことを問い詰めている。カントは道徳法則に従うためには、何らかのインセンティブが必要だといっている。それは自己の利益のインセンティブではない。それは定義からして意味をなさない。
 彼がいっているのは、傾向性とは異なる種類のインセンティブで、それは道徳法則に対する敬意だ。もしその店主が、道徳法則に対する敬意を養いたいから、私は正しい行いをしよう、といったとしたら、彼の行為には道徳的価値があると思う。自分の動機を形成し、一度その重要性を理解すれば、彼の意思は道徳法則に一致するからだ。だからその行為には価値がある。
(アマディ)では2つ目の質問です。どうすれば完全に道徳性が主観的になることを防げるのでしょうか。
(教授)どうすれば、主観的になるのを防げるか?
(アマディ)そうです。道徳性が完全に自分の道徳によって決められるのであれば、どのようにこれを適用できるのでしょうか。
(教授)すばらしい質問だ! アマディ、ありがとう。
 確かにアマディのいうとおり、道徳的に行動することが、義務から道徳の法則に従って行動することであり、自律的という意味で、自由に行動することであるのなら、私が、自分自身に与える法則に従って行動するのは、自律的に行動することを意味するはずだ。
 しかしそれは、面白い問題を提起する。自律的に行動することが自分自身に与える法則に従って行動することを意味し、原因と結果の法則や自然法則から逃れる方法なのであれば、私が義務から行動している時、自分自身に与える法則が、アマディが自分自身に与える法則や、君たち一人一人が自分自身に与える法則と同じだという保証は、いったいどこにあるのだろうか。
 ここで問題だ。カントはこの教室にいくつの道徳法則があると考えるだろう。1000か、それとも1つか。彼は1つだと考えた。それはある意味で道徳的法則とは何か、という問題に戻る。
 自律的に行動することは、良心に従って、つまり自分自身の法則に従って行動することだ。しかし私たちが理性を実行するとき、全員が同じ道徳法則を見つけ出すという保証はどこにあるのか。
 カントの答えはこうだ。
 私たちは皆、自律的な存在として自分に法則を与えるが、そこへ導く理性は一つである。それはある種の実践的な理性であり、私たちが人間として共有しているもので、特異なものではない。人の尊厳を尊重する必要があるのは、私たちが、皆、理性的な存在だからだ。そして誰もが持っている理性の能力を実践することが、私たちすべてを、尊厳に値するものにしているのだ。そして、その理性の能力は、経歴や環境に左右されず、誰もが持つ普遍的な能力であり、道徳の法則を実現するものであるから、自律的に行動することは、結局私たちが自分に与える法則に従って行動し、理性を実践することなのだ。
 それは私たちが共有している普遍的な理性であり、生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それはカントの言葉を借りれば、純粋実践理性であり、特定の目的とは無関係に、アプリオリに、つまり、経験的認識に先だって法則を制定するものだ。
 そのような理性が実現する道徳法則とは、何だろうか。どんな内容なのか。その質問に答えるために、次回は『人倫の形而上学の基礎付け』を読んでいこう。

以上のやり取りが、私のノートではこうなる。

アマディ(学生)の2つの疑問に答える
1.「道徳的になりたい」という動機付けは行動の純粋性を
 損ない、道徳的な実践を阻むことにならないか?
  →カントは、義務を理解し納得した人が道徳的価値ある
   行動を取りたいと考えるインセンティブを認めている。
2.自律が道徳律を導くとすれば、道徳律=主観なのか?
  →カントの言葉「私たちはみな、自律的な存在として
   自分に法則を与えるが、そこへ導く理性は1つである」
  →特定の目的とは無関係に先験的に法則を制定する
   「純粋実践理性」が人間には備わっている。

ノートをとる重要性がわかりますね。ちなみにサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』では、このやり取りをベースに、さらに充実した解説がなされています。……って、「じゃあ講義の価値って何?」という話なんだけれども、まあ、講義とか講演てのは、そういうものです。

Lecture12

動機の純粋さについて

(教授)さてここで、君たちの意見を聞きたい。義務や善意の問題について考える上で、カントの主張に何か質問がある人はいるかな。それとも 皆、納得しているだろうか。どうかな。
(学生A)本当に道徳的な行動は存在するのでしょうか。いつも何かしら自分勝手な動機があるのではないでしょうか。
(教授)人は多くの場合、自己の利益のために行動するだろう。カントもそれを認めている。しかしカントがいっているのは、私たちが道徳的に行動する場合、つまり、私たちの行為に道徳的価値がある場合、その価値を与えるのは、自己の利益や傾向性を超越し、義務に基づいて行動できる私たちの能力だ、ということだ。
何年か前、私は単語を正確につづれるかどうかを競う、スペリング・コンテストについての記事を読んだ。そこには優勝したアンドリューという13歳の少年のことが書いてあった。彼が勝利を決めた単語は、エコラリアった。エコラリアを知っている人はいるかな。
(学生B)花? 花の名前?
(教授)いや花の種類ではない
(教授)それはエコーのように聞いたことを反復する傾向のことだ。いずれにしても、彼は実際は綴りを間違えていた。だが、審判が聞き間違えたために、彼は全国スペリング・コンテストの優勝者になってしまった。しかし、彼はあとで審判のところに行って、本当は自分はスペルを間違えたので賞に値しない、といったんだ。彼は道徳的な英雄と見なされ、ニューヨークタイムズ紙にも載った。スペルをまちがえたスペリング・コンテストの英雄。これがアンドリュート。自慢げな母親だ。
 しかしここからが重要だ。彼はあとでインタビューを受けたとき、自分が真実を告げた動機をこう説明した。
「審判の人たちは、僕がとても誠実だといいましたが、僕は自分が嫌や奴だと思いたくなかったのです。」
 さあ、カントは何というだろう。どうぞ。
(バスコ)それが、彼が綴りをまちがえたことを告白しようと決めた、決定的な理由だったか、それともほんの一部の理由だったかに寄ると思います。
(教授)おもしろい意見だ。誰かこれについて他に意見がある人。カントの原則はあまりにも厳格で要求が厳しすぎるのか、カントはこれについて何というだろうか。君!
(ジュディス)カントは行為に道徳的な価値を与えるのは、義務から生じた純粋な動機だというのではないでしょうか。この場合、彼は複数の動機を持っていたかもしれません。自分を嫌な奴だと思いたくないという動機の他に、義務から正しいことをするという動機も持っていたかもしれません。ひとつ別の動機を持っていたからというだけで、彼の行為に道徳的価値が欠けていることにはならないと思います。義務がからむ動機は、行為に道徳的価値を与えるものだからです。
(教授)ジュディス、君の説明はカントに忠実だと思う。道徳以外の別の気持ちや感情が行為を支えるだけで、動機そのものにならない限り、それは問題ない。ジュ ディスはこの動機の問題について、とても的確にカントを弁護してくれた。 ありがとう。

ノートではこうなります。

    →ただし道徳以外の感情が行為を支えていても、
     動機の一部が義務にあるならば、問題はない。

これだけ? はい、これだけです。

普遍的法則の定式について

(教授)普遍的法則の定式はどうだろうか。説得力があるだろうか。意見を聞きたい。
(ティム)定言的と仮言的の違いについて質問があるのですが、もし、格率が……。
(教授)定言的と仮言的の違い?
(ティム)そうです。
(教授)命法だね?
(ティム)はい。もし、格率が自らを掘り崩すことがないよう、定言命法で行動するとしたら、私はYがほしいからXをしますといっているようなものです。私は世界が約束を守るように機能して欲しいからウソをつきません、ということです。
(教授)約束の慣行を壊したくないから?
(ティム)そうです。それは目的により手段を正当化しているようです。
(教授)帰結主義者の理由づけのようだ、といいたいんだね?
(ティム)はい。
(教授)ティム、ジョン・スチュアート・ミルも、君と同じ意見だった。彼も同じようにカントを批判した。ミルは「もしその格率を普遍化することで、約束を守る慣行がすべて破壊されるなら、それがウソの約束をしてはならない理由ならば、私は何らかの帰結に訴えなければならない」といった。
(教授)ミルは君のカントに対する意見に同意していたんだ。だが彼は間違っていた
(会場 笑い)
(教授)でも君たちはよい同志だ。いい仲間だ。
 カントは、ティムがちょうど彼を解釈したように、帰結に訴えるように解釈されることが多い。皆がウソをついたら、誰も他人のいうことを信頼できなくなるから、世界はいっそう悪くなる、だからウソをつくべきではない。そのように解釈されがちだが、カントは厳密にはそうはいっていない。
 カントは「格率を普遍化するのはテストだ」といっている。それは格率が定言命法にあっているかどうかのテストであって、厳密には理由ではない。格率をテストするために普遍化しなければならない理由は、自分の特定の要求や欲望を、他の皆の者に対し、優先させていないかどうか、見るためだ。
 自分の利益や要求、特別な状況が、他の人のそれより重要だという理由で、自分の行動を正当化するべきではない、というのが定言命法の特徴であり、要求である。
 これが普遍化のテストの背後にある道徳的直観だ。

ノートではこうなります。

  →この定式は、命法が特定の条件設定に依拠しない
   ことを診断するテストであり、帰結主義のような
   道徳律の基礎付けとは異なる。
   ○定言的命法は普遍的/×普遍的だから道徳的

これは結構、悩みました。内容の整理もそうですけど、言葉も難しい! 例えば格率という言葉は、ほとんどLecture12にしか登場しない特殊な用語なので、ノートでは冒頭の用語解説にしか登場しません。

目的としての人間性の定式について

(パトリック)カントの、誰もが、自分自身の中に目的があるから、人を手段として使うことはできないという主張が気になります。僕たちは毎 日、その日に何かを成し遂げるために、自分自身や周りの人たちを目的のための手段として使わなければなりません。例えば、授業でいい成績をとるためにレポートを 書かなければならないとします。僕は自分自身をレポートを書く手段として使わなければなりません。食べ物を買うためには、僕は店員を手段として使わなければなり ません。
(教授)そうだね、それは事実だ。パトリック、君は何も間違ったことはしていない。君は、他の人を手段として使うことで、定言命法には違反していない。私たちは自分たちのプロジェクトや目的、利益のために他人を使うとき、彼らの尊厳を尊重するやり方で接すれば、何も問題はないのだ。そして、彼らを尊重するということの意味は、定言命法によって与えられる。

ノートではこうなります。

  →私たちが社会で生活を送るとき、お互いを利益の
   ための道具として用いることを避けられないが、
   人の尊厳を尊重する限り問題はない。