議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

Lecture21

共同体主義への意見

(パトリック)共同体の義務という考え方を受け入れた場合、人は様々な共同体に属しているので、義務と義務が衝突するでしょう。そのとき、どの義務を受け入れるべきなのか、わからないという問題があります。
(ニコラ)その解決策のひとつは、自分を人類という究極のコミュニティの一員とみなすことです。つまり、より普遍的な義務を優先すればよいわけです。
(パトリック)特定の義務よりも普遍的な義務を選ぶべきだ、という考え方には納得できません。例えば私は、自分にとって最も具体的な義務を果たすべきだと考えます。まず家族、次に街、さらに国へ、と考えていきたいのです。

私なりにパトリックの意見を補足しておきたい。そのためには、そもそも共同体主義が個人主義とどう対立してきたか、ということを考えてみる必要がある。

講義の中で便宜的に「個人主義」と分類されたカントやロールズは、個人の自由と平等を基礎として、普遍的な正義を導く道筋を探求していた。もしニコラのいうように、普遍的正義を常に優先するというならば、共同体主義の出る幕はない。

なぜなら、ロールズの格差原理や機会均等原理などは、きわめて強力かつ普遍的な影響力を有しており、共同体の価値観を横断する内容だからである。個人の権利をしっかり擁護するためには、普遍的かつ強力な道徳法則が必要になるのである。そしてロールズはまさに、その正義論によって社会の伝統的な価値観に挑戦状を叩きつけたのだ。共同体主義とロールズの正義論は、端的にいって相容れない。

ただ、カントの哲学においては、ニコラの主張と共同体主義の共存が可能かもしれない。カントがその厳しい定式によるチェックをパスする道徳原理として示したのは、「殺人はよくない」「嘘はよくない」といった素朴かつ具体的な内容だった。カントは結局、道徳の形式的な定義を詳述した一方、道徳法則の内容については多くを語っていない。したがって、普遍的な道徳法則がスカスカなので、個別の共同体において細則を定めていく余地が多分に残されている。

講義においてカントとロールズが一緒に扱われているのは、ロールズこそカントが目指しつつも生前に果たせなかった「道徳法則が従うべき内容面のメタ原理の発見」に成功した人物だ、という位置づけになっているからだ。つまり、カントが示した道徳の最高原理がたったふたつの具体的な内容にとどまっているのは、検討途上で生が尽きてしまったからであって、その状態が完成形だったわけではない、という仮定があるわけだ。

仮にそうだとすると、カントをロールズとセットに扱っても、この議論においては差し支えない。しかし、現実には、素朴な立場にとどまった(当人としては不本意だったかもしれない)カントにこそ同意できる、という人が社会には多いのではないだろうか。これはカントの哲学を扱った回の復習などでも詳述したことだが、普遍的で、またあらゆる場面であらゆる判断に大きく影響するような道徳原理の存在に、私たちは同意していないのではないだろうか。

カントが示したたった2つの道徳原理「殺人はよくない」「嘘はよくない」ですら、常に正しいと考える人は珍しい。100歩譲っても、「道徳的にはそうだ」と認めても、自分は正当防衛のため人を殺すことがあるかもしれないし、嘘をつくこともあるだろう、という点を譲らない人が大多数だろう。

その意味では、カント自身の考えとは関係なく、普遍的な道徳法則はスカスカである、というケースを考慮することに意味はあると思う。そしてその場合、前述の通り、常により大きな共同体の正義を優先するという原理と、共同体の義務を認めることは両立しうる。

なお、憲法、法律、条令といった法の仕組みからは、ロールズと共同体主義の共存もありうる、という見方が成り立つかもしれない。とはいえ、その場合、小さなコミュニティの価値観は、限定的な自由度しか持ち得ないことになる。

(エリザベス)市民の物語は作られたものであり、間違ったものもあります。また、どのコミュニティに属して誕生するかは偶然に基づいており、そのことが道徳的義務と結びつくことには同意できません。
(男子学生A)基本的に、私たちの道徳的な義務は、まず血縁関係から、次に利益の相互関係から生まれるものです。同じ国の人の方が、他の国の人よりは密接なつながりがあるとみなすことができるので、愛国心を道徳的に説明することは可能です。
(リナ)愛国心の基礎は、大学や寮への愛校心と似ています。新入生は、1日で自分の所属する共同体への誇りを抱きます。コミュニタリアニズムのいう共同体の義務と、単なる情緒的な愛着とは、区別がつくのではないでしょうか。
(教授)リナは、親子の関係は情緒的なつながりだけで、道徳的な重みはないと考えるのかな?
(リナ)受け取った便益に基づいて、義務が発生するのではないでしょうか。例えば、生母よりは養母に、より大きな道徳的な義務を負うと思います。

リナの最初の発言は、私には理解できない。単なる情緒的な愛着と区別が「つかない」なら文意が通ると思うのだけれど。教授の質問に回答した内容からも、区別が「つかない」といいたかったように思える。違うのかなあ。

エリザベスの発言は流されてしまったけれども、これはLecture22の末尾、そしてLecture23へとつながっている指摘。『ハーバード白熱教室』について、学生同士が徹底的に討論をやっている、なんて評する人がいるのだけれど、私はそれは全く見当違いの発言だと思う。注意深く番組を視聴していれば、教授がほぼ完全に講義をコントロールしていることに気付くはずだ。学生が講義の展開に必要な発言をしなければ、発言を途中で遮って誘導したり、それでも埒が明かなければ別の学生を指名もする。かなりの豪腕を振るっているんだよ。

そうそう都合よく学生がうまいことをいわないのはハーバードの教室でも同じなのであって、そうした中で学生の発言を多く拾いつつ講義を組み立てるべく、教授は相当に苦労をされている。日本の大学の先生が「向こうの学生さんはすごいなあ」という感心の仕方をしているのをあちこちでたくさん見たのだけれども、そのような物の見方をしている間は、自分の講義がうまくいくことはないだろう。

私も経験があるのだけれども、ただ単に学生が喧々諤々の議論をするだけだと、講義にならない。紛糾するほど議論が視野狭窄に陥っていくことも多い。瑣末な論点と大きな論点がごっちゃになり、大きな論点の網羅性を欠いてしまいがちなのだ。

上記のまとめでは略してしまったが、ニコラとパトリックの発言の後、教授は共同体主義への根本的な否定論を募る誘導を行っている。それを受けてエリザベスとリナが発言しているわけ。こういうのも、学生の自由な発言に任せておくと、ニコラに賛成、パトリックに賛成、というところで議論が始まってしまい、話が先へ進まない。

2分足らずでニコラとパトリックの議論を打ち切って、きちんとガイドをした上で別の論点を学生に発見させるのがサンデル教授の見事なところなのだが、そういう感心の仕方をしている人が本当に少ない。

Lecture22

まず教授は、共同体主義への反論を2つ、紹介した。

  1. 個人は様々なコミュニティに属しているので、義務が衝突する。
  2. 集団の義務は、集合的な利己主義ではないのか? それは名誉ではなく、偏愛に過ぎない。

最初の反論は、反論になっていないと思う。義務は普遍的なものではない、と共同体主義者は主張しているのだから、何の矛盾もない。義務とは普遍的なものである、という見解を押し付けられても困る。違う立場からの異見表明と自覚しているならいいが、説得の役に立つ内容ではない。

リベラリズムは、普遍的な義務と、同意や契約による義務しか認めない。認めないから、反発が出るのだ。仮想的な契約とか、価値中立的な正義といった議論から、リベラリズムの「議論を要しない普遍的な正義」観を読み取れる。義務はリベラリズムが正義に関する問題として設定した項目なので、義務の衝突につながる共同体主義には与することができない。

ただし、共同体の義務とされるものの少なからずは、暗黙の、または明示的な、同意や相互性に基づく義務とみなすことができる。だから多くの場面で、リベラリズムと共同体主義の対立は表面化しない。問題は、その範疇にない義務だ。

リベラリズムでは説明できない共同体の義務は、カント的な「義務」ではない。それは普遍性を欠く特定の伝統・文化が個人に提示する選択肢に過ぎない。それゆえリベラルな社会では、愛国心や同じ民族の人々への同朋意識などは、持ちたい人が勝手に持てばいい。その自由は認められる。が、義務として、それを望まない人にまで押し付けることは許されない。そして、普遍的な義務、契約による義務と共同体の義務が衝突するときは、真の義務ではない共同体の義務の方を、諦めなければならない。

愛国心は共同体の義務なのか

(AJ)人間には、自分のアイデンティティーを形成するコミュニティーの人々に対する共同的な責任があり、そこからくる根本的な道徳的義務があると思います。例えば、今の政府について僕が支持しないことはたくさんあります。でも、僕のアイデンティティーの一部はアメリカが反対意見の表明を許す自由な社会を重んじることにあります。それも愛国心の表現のひとつの形です。ハーバードの例に戻るとルームメイトは僕のアイデンティティーを形成しているので、大学のコミュニティの全体よりも多くを負っています。それと同じことが祖国にもいえます。もちろん親も国も選べませんが、そこで育ったということがアイデンティティーの一部をつくりあげています。
(マイク)他人に対して義務を負う理由として、ただ単にその人たちから影響を受けているからというのでは納得できません。僕はドイツ国籍で、もし80年早く生まれていたらナチスドイツの構成員でした。でも自分がドイツ政府から便益を受けたからといって、ナチスのしたことに責務があるとは思えません。
(AJ)今、アメリカには平和こそ愛国だと、プラカードを掲げて抗議する人が何十万人もいます。この教室には抗議行動に反対の人もいるでしょうが、僕は賛成です。彼らはブッシュ政権がしていること全てに強く反対していますが、同時に祖国を愛しています。祖国にとって最善の大義のために抗議をしているからです。僕も愛国的な運動としてそれに賛成したい気がしています。
(マイク)愛国心は愛着の問題であって、義務ではないでしょう。

共同体の義務は便益の相互性から生じるのではない、というのが共同体主義の主張。それなのに、マイクは「ドイツ政府から便益を受けたとしても、過去の過ちに責務は感じない」と反論していて、議論が噛み合っていないように感じた。

それに、マイクはここで契約の義務が便益の相互性から(も)生じるというリベラリズムの基本的な発想を否定していないか。マイクはリベラリズムを基礎として発言しているように思えたので、この主張には首を傾げた。自分が受けた便益は、これまで支払ってきた税金や兵役(ドイツは徴兵制が残っている)と釣り合っていて、過去の政府の過ちの責任まで共同で負わされるのは納得できない、という主張なのかな。もしこの解釈が正しいとすると、続く学生A、学生Bの発言と内容的につながる。

(学生A)議論をジョン・ロックまで戻します。ロックの考え方では、人間は社会に参加することも、出て行くこともできます。出て行くことは、現実問題としては難しいでしょうが。でも、個人が社会に負う義務が道徳的なものだとすれば、人間は自分の属する社会の様相や自分の地位を知る前に、自分の個人的な心情とは全く相容れないかもしれないコミュニティに拘束される義務を負うことになりかねません。
 そのコミュニティで育つ過程で相互性に基づいてある種の義務を負うようになることは道理に適いますが、最初から道徳的な義務を負っているとするのは根拠薄弱でしょう。
(学生B)個人と社会がお互いに利益を享受していれば、社会に対して道徳的義務があるといえます。それが社会に参加するという意味です。私たちが税金を払い、投票するのはそのためであって、社会が私たちに与える保護や安全を超える義務はないのです。社会の構成員たちが自動的に負う義務はありません。
(ラウル)コミュニティに道徳的な白紙委任状を与えことになるのは、私たちが市民の責任について判断を放棄するときだけです。愛国心は、コミュニティ意識、共通の市民的な美徳の意識をもたらします。政府の方針・やり方に反対することと、祖国への愛は両立します。この国が大切だからこそ、私たちは他の人と討論し、彼らの意見を尊重し、議論に関わることができるのです。愛国心がなければ議論を放り出し、強硬な考えを持ち、コミュニティにその考え方を強制する、原理主義者に陣地を譲ることになります。

ラウルは、人が社会に関わろうとするのは、社会への愛があるからであって、利益の相互性によるのではない、と主張しているようだ。しかし社会契約論者は、個人の権利を尊重するために社会が必要となると説明している。つまり、国を愛せずとも、自分を、人を愛するならば、国のあり方を論じる動機は十分だ、ということだ。ラウルの主張は、自分の見解の表明としては問題ないが、議論としては論点が噛み合っていない。

そこでサンデル教授が介入する。

(教授)AJとラウルの主張は、とても多元主義的、論争的、批判思考の強い愛国心だ。しかし愛国心を批判する側の懸念は、愛国的な義務を認めると、私たちが国家に関する心情や行動や習慣を自分の意思で選ぶことを許さないような、忠誠心になってしまうのではないか、ということだ。
(ジュリア)まず「愛国心」を定義すべきです。私たち批判派は愛国心を弱い意味で捉えていると思われがちですが、逆にコミュニタリアンの方が「社会の中で市民が議論に参加すること」程度にしか捉えておらず、愛国心の道徳的価値を埋没させていると思います。愛国心をもっと強いものだと考えれば、もっと強い道徳的な義務が生じるのではないでしょうか?

ジュリアの主張は、AJやラウルが主張する程度の「愛国心」なら、誰も反対はしないし、「共同体の義務」と大上段に構えるほどのものでもない、というものだ。実際、リベラリズムが共同体主義のような発想に抵抗してきたのは、現実の共同体は、個人にもっと苛烈な義務を負わせてきたからなのだ。

ルームメイトのカンニングを見逃す

以下の議論は、ハーバード大学は全寮制だという事実を踏まえて読んでほしい。

(教授)君たちの中で、普遍的な道徳的観念や人として人に対する敬意よりも、コミュニティへの忠誠心が勝った、あるいは勝るべき、という例をげられる人はいるかな?
(ダン)経済学の課題中、ルームメイトがカンニングしているのを見たとします。いけないことかもしれません。僕は彼を大学当局には突き出しません。突き出さないことが正しいのです。僕は彼に義務があるからです。いけないことかもしれませんが、僕は黙認するでしょう。多くの人もそうすると思います。
(教授)よろしい、これはいいテストだ。ルームメイトというコミュニティの名において行うことが、普遍的な正義の原理と競合するという例だ。これは国家への忠誠心の倫理を問うより難しいケースだ、しかもより真実味がある。ダンに賛成する人は?

大多数の学生が手を挙げた。学生は大学のルールよりルームメイトの絆を重んじるので、「チクリは悪」なのである。他方、ダンに賛成しない者もいた。

(ペディ)私も黙認しますが、それは選択の問題です。私はルームメイトの方を選びますが、それは道徳的には正しくないと考えます。
(教授)しかし、何が正しい行いなのか。ほとんどの人はダンがルームメイトを守り、彼を突き出さないのは正しいと賛成している。

ぺディは、ルームメイトを守ることは「道徳的に正しくない」と主張する。おそらくリベラリズムの考え方を適用し、共同体の義務について「それは義務ではなく、偏愛または集団的な利己主義だ」とみなしているのだと思う。

もし偏愛ならば、「自分の大切なルームメイト」に対する正当な理由のない特恵待遇が不正黙認の理由だろう。集団的な利己主義ならば、自分の不正も見逃してもらうことを期待し、不公正な利益を狙う意識がある、といった説明になるだろうか。

あるいは、ペディの動機はそのどちらでもないのかもしれない。ハーバード大学は全寮制だ。いったんルームメイトの不正を告発した学生は、その後、行き場をなくす可能性がある。ようするに、自己保身を図るためだけにルームメイトの不正を見逃すのかもしれない。個人としては、不正を見逃すのは道徳的に間違っていると考えているが、この先、自分と意見を異にする人々全員を説得していくのは、不可能に近い。だから。

それでも、義務の遂行よりも、状況や結果を優先させるのは、リベラリズムの道徳観に照らして間違っている。ペディは、共同体主義に迎合して自己を正当化することなく、胸の痛みを抱えて生きていく。……といっても、架空の話なんですけど。

念のため記すが、ルームメイトを守るのが正しいと考える側は、「偏愛」を「絆」と解釈して、「仲間を守るのは道徳的に正しい」といっているのである。個人的には、ハーバードの学生たちの倫理感覚には驚愕した。まあ、いきなり教務課に報告はしないまでも、反省と自首を勧めるのが真っ当な正義感だと私は思う。

(学生C)ルームメイトという立場から得た、いわばインサイダー情報を利用したくない、ということもあります。それを持ち出して、彼を告白するのは、不公正かもしれません。一緒に長い時間を過ごすルームメイトについては多くを知ることになりますが、それをより大きなコミュニティに暴露するのはアンフェアでしょう。
(教授)君はダンに賛成? 忠誠心がここで問題になる倫理だね。
(学生C)その通りです。
(教授)君には真実を告げる義務、不正行為を告発義務はないのか?
(学生C)ないと思います。その情報を得るのに、有利な立場にいた場合には。

学生Cの意見は、ダンの主張を受け入れた上で、さらにもうひとつの理由を足している。このようなケースで「忠誠心」という言葉を使われると意味を取りにくいが、この場面では「信頼」と言い換えてもいいだろう。実際にサンデル教授は何といっているのか、YouTubeに公式にアップロードされている英語版を確認しようとしたけれど、私の拙い聞き取り能力では把握できなかった。

それにしても、学生Cの最後の発言もまた「えっ?」という感じだ。義務は条件次第で消えてしまうらしい。片方の義務が消えてしまうなら、そこには何の葛藤もない。それでいいのか、と思う。

ウィリアム・バルジャーの捜査協力拒否

(教授)これは数年前にマサチューセッツで起こったことだ。写真の人物を知っているかな?
(学生D)ビリー・バルジャー
(教授)そう、ビリー・バルジャー、正解だ! ビリー・バルジャーとは誰か。バルジャーは長年マサチューセッツ州の州議会議長を務めた人だ、マサチューセッツのもっとも有力な政治家の1人であり、マサチューセッツ大学の学長にもなった。皆はダンのジレンマを抱えたビリー・バルジャーの話は知らないか? ビリー・バルジャーにはワイティー・バルジャーという弟がいる。
 ワイティーはFBIの最重要指名手配に載っている。ボストンのギャングのリーダーであり、多くの殺人に関与した疑いがかけられているが、現在も逃走中だ。しかし、アメリカ連邦検事が陪審が始まる前に当時マサチューセッツの学長だった兄ビリー・バルジャーを呼び出す。逃走中の弟の行き先について情報を求めた時、兄ビリーは情報提供を拒否した。
 連邦検事はこう尋ねた。「お聞きしますが、バルジャーさん、マサチューセッツ州よりも弟の方に忠誠心を感じられるのですか?」
 ビリー・バルジャーは答えた。「そんな風に考えたことはありませんが、もちろん弟のことを大切に思っています。弟と対立する人間に手をかさずにすむように願っていますし、弟をつかまえようとする人に協力する義務はありません。」

ビリーは略称で、本名はウィリアム。ワイティーは通称で、本名はジェームズ。そして実際にはウィリアムの6歳年長の兄であって、弟ではない。ワイティーを英語で書けばwhityであり、ジェームズの髪が白かったことに由来する。そしてジェームズ自身は、whityと呼ばれることを嫌ったそうだ。

ノートの方ではこれらの訂正情報を反映し、ネット検索で容易に関連情報を調べられるようにしている。生の講義にこうした間違いが入り込むことは、なかなか回避し難い。しかしNHKの日本語版では、何かしら訂正情報を表示してくれてもよかったんじゃないか。

それはともかく、日本だと、こういう政治家は落選すると思う。身近な人を守るということに関して、あくまで傾向としての話なんだけど(=個々人がどうのこうのというのではないんだけど)、日米の差は大きいな。アメリカ人ってそういう考え方をするのか、とLecture22は勉強になった。

サンデル教授の問題意識

ルームメイトの不正、ウィリアム・バルジャーの捜査協力拒否の例に続いて、サンデル教授はリー将軍を紹介する。将軍は開戦当時は北軍の大佐であり、南部の独立には反対だった。しかし、故郷を攻めることを拒否して南軍の将となる。

(ジュリア)義務を選択する基準がなければ、選択はなりゆき任せになります。たまたま特定のコミュニティの構成員だからという恣意的な事実を重視するのは間違っています。
(教授)コミュニタリアニズムは選択を否定していない。問題は、選ぶ際に何を根拠に選ぶか、忠誠心、それ自体をどこまで重視するかということだ。

サンデル教授の説明は、ジュリアの疑問への回答になっているだろうか?

おそらくジュリアが問題視しているのは、「正義とは普遍的であるべきなのに、共同体主義の考え方から導かれる正義は、普遍性を欠いている」ということだ。コミュニタリアニズムによれば、様々な正義が考えられる。リー将軍は、奴隷解放のために北軍に残ってもよかったし、故郷を敵にしないため南軍に参加してもよかった。それでは道徳の原理とはいえないのではないか?

共同体主義からの回答は簡単で、何が正解なのかは集団によって異なる、と。そして、端的には、各集団の中での常識に適った選択が、その集団の内部では「正しい」とされるだろう、というのだ。んなアホな、と呆れる人も多いとは思う。だが、こう考えると、現実の議論の多くは、説明がつく。リベラリズムの依拠する正義の原理は、実際には正義を考察する際の一要素に過ぎず、それでもってあらゆる問題をバッサバッサ斬っていくことには、多数派のコンセンサスがない。

リベラリズムは、普遍的な義務、同意・契約による義務では説明のつかない「共同体の義務」を、偏愛ないし集団的利己主義だと批判した。それらは克服すべき因習なのである。共同体主義の要諦は、いや、やっぱり「共同体の義務」には道徳的な価値があって、それを無視してはいけないんだ、といった点にあるわけだ。ただし、何をどの程度重視するかは、集団や時代によって変化する。個人の選択という要素も排除しない。人々の混沌とした認識を、そのまま扱うような考え方である。

(アンドレ)これら3つのケースでは、全員自分が所属する、より身近なコミュニティを選んでいます。経済学のクラスよりルームメイト、マサチューセッツ州より自分の弟、祖国より故郷。これは単なる偶然ではないでしょう。これが何がより重要かということに対する答えだと思います。
(サマンサ)南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦った例もありました。このことは、人によって選択が異なることを示しています。私はコミュニタリアニズムの最大の問題点は、道徳的義務に基準がないことだと思います。
(教授)ありがとう。おかげで問題が明快になった。

サマンサの反論は、反論になっているだろうか。家族より国を選んだ人は、リベラリズムに共感していたのかもしれないよ。

あと、共同体主義者は、最終的な選択ではなくて、共同体の義務を「義務」として認めるかどうかを問題にしているので、国を選んだ人が、家族に対して道徳的な負い目を感じているかどうかが真の問題なのだが、サマンサはジュリアと同様、そのあたりがピンときていないようだ。

つまりさ、公正な正義の実現のため家族より国を選んだとき、「自分の選択は正義に沿ったもので、胸を張って自分は正しいといえる。もちろん家族を敵とするのは胸が痛むが、それは道徳的な負い目ではなく、個人の感情の問題に過ぎない。仮に私の心が挫けることがあったとしても、それはあくまで私の弱さの表れでしかない。家族を敵に回すことは、正義そのものを揺るがすような要素ではない」というのがリベラリストでしょ。

共同体主義者なら、「家族を敵とするのは、明らかに正義に反する。だが公正な正義の実現も正義だ。苦渋の決断として、私は国の側に立つ。家族を敵とする罪は、今後一生、背負って生きていく」というわけだよ。正義と正義はぶつかるものだ、というのが共同体主義。じゃあ、どんな原理で選択するのか、とリベラリズムは問う。場当たり的に、あるいは個人の気まぐれで決まる正義なんて、正義じゃない、と。でも共同体主義は、「いや、正義というのは、そういうものなんだ」と考える。

サンデル教授は最後に学生たちを褒めたが、この議論は、実際には狙い通りに進んではいなかった。

(教授)それぞれ、独立した道徳的重みを持つ構成員であり、忠誠心を持つべきだという考え方に、複数の反対意見が出たが、その根底にある懸念とは、特定のコミュニティの存在する善き生、という概念から離れては、正義の原理を見つけることはできない。と、主張しているところにあるようだ。

カンニングは不正である。殺人犯を拘束して更生させるのは正しいことだ。奴隷制度の廃止も正しい決断だった。にもかかわらず、ルームメイトの不正を見逃し、兄の逮捕に協力せず、故郷のため意見を枉げる側を多数派は支持した。それはなぜか。共同体への義務という道徳観念が、人々に広く受け入れられているからではないだろうか。

サンデル教授は、さらに続ける。

(教授)仮にコミュニタリアンの議論が正しいとしよう、権利が常に善より優先されるという主張は維持できないとしよう。その変わり、正義と権利とは善という概念と密接に関係しているとしよう。それが意味するのは、正義とはただ単にその時代、そのコミュニティにおいて、たまたま是とされている価値観や、ならわしからつくられるものに過ぎない、ということなのか。

最後にサンデル教授は、1950年代のドキュメンタリー映像を紹介する。『獲得すべきものを見据えて』というタイトルで、人種分離の伝統が批判され、打ち倒されていくアメリカ南部を取材した作品だ。

教授の真の関心は、共同体主義が重視する『善』とは、伝統と慣習に過ぎず、時と場所によって変わってしまう脆弱なものではないか、奴隷制や人種差別を是とすることもありうる、危険なものではないのか、という点にあったのだ。残念ながら、学生たちの議論は、そこまで辿りつかなかった。