功利主義者によれば、正しい行為とは、常に幸福を最大化することだという。リバタリアンは、正しい行為とは、人々が望むことを何であれ、させることだと考える。ジョン・ロックの理論は、人間には「自然法」により、すべての人に与えられている不可譲の権利があるという。
哲学者、イマヌエル・カントは、いずれも間違っていると考えた。功利主義者に対しては、カントは、幸福ではなく自由が道徳性のゴールであるとし、リバタリアンに対しては、カントは、何であれしたいことをする自由を否定し、ロックに対しては、カントは、道徳、義務、権利は自然法ではなく、人間の理性に根拠があるとした。
一体、誰が正しいのだろうか?
- カントは、生まれつき親切な人は、習慣から行動しているから、実際には道徳的ではないと考える。カントによれば、習慣は便利なものだが、道徳的ではあり得ない。そう考えると、あなたが道徳的な人であったとしても、それは子供の頃に受けた教育によるある種の条件付けであり、実際には道徳的ではないことになる。これをどう考えるのか?
- チャーリーはいつもいたずらをしようとしていて、フランクはいつもそれを止める子供であるとしよう。結果として、チャーリーは正しいことをすることになるが、実際はいつも間違ったことをしたいのだ。チャーリーは道徳的といえるのか?
- すべての人が尊厳と無限大の価値を持っていたら、私たちは生と死についてどのように選択すればいいのか?私たちはボストンの道路を修理するか、トレドの子供たちにワクチンを接種するかを選ばなければならないとする。道路を修理すれば、ボストンでの車の事故による子供の死亡は10人減少する。ワクチンを接種すれば、トレドの20人の子供が助かるとする。もし誰もが無限大の価値を持っているとすれば、どのように選ぶのだろうか?功利主義者ならどうするか?カントならどうする?
- カントによれば、道徳性のゴールは自由である。しかし、カントにとって、自由とは単に望むことを何でもすることではない。それは自分自身の理性に従って生きることである。洗脳、広告、渇望、欲望、これらに拘束された時、あなたは自由ではなくなる。カントは、自由について正しいのだろうか?
はっきりいって、「誰が正しい」ということを論理的に決することは不可能だ。最初から、そんなことはわかっている。より多くの人々の判断を説明可能な道徳理論はどれか、あるいは、より多くの人々を説得可能な道徳理論はどれか、といった議論にしかならない。
「だから考えるのは無駄だ」というのが懐疑主義で、じつは世間の多数派は懐疑主義者かもしれない。が、政治哲学の教室に集まっているのは、「結論が出ないとしても、道徳理論について考えてみたい」という人ではないだろうか。とりあえず、漠然と主観を語るだけの状態から一歩出て、様々な考え方を分類し、それぞれの理屈を理解していくことができたなら……と想像してみると「けっこう楽しいかも!」って思わない?
私自身、懐疑主義に賛同するところが大きいのだけれども(→所詮、道徳の統一理論など見出されることはない)、相互理解の促進には関心がある。
カントは、生まれつき親切な人は、習慣から行動しているから、実際には道徳的ではないと考える。カントによれば、習慣は便利なものだが、道徳的ではあり得ない。そう考えると、あなたが道徳的な人であったとしても、それは子供の頃に受けた教育によるある種の条件付けであり、実際には道徳的ではないことになる。これをどう考えるのか?
個人的には、どうもこうもないと思う。カント哲学の信奉者から「道徳的」とみなされなくても、私は少しも困らない。別に「道徳的な人」として賞賛されたいから人に親切にしているわけではないのだ。
また、教育による条件付けによって人が結果として道徳的な人と同様のふるまいをするようになるというのは、社会にとって都合のいい話である。私自身は功利主義に肩入れするので、人々の動機には拘泥しない。理性に働きかけ、義務を認識させるより、教育によってある種の条件付けを行う方が、容易なように思える。前者を捨てる必要はないが、より確実によい結果を得られる後者にこそ注力すべきだ。
実際のところは、不道徳な行いをする人が後を絶たないという現実があまりに大きく、こんなことは問題にならないだろう。優先順位の都合から、動機がどうあれ親切な行動を取る人の心根を問う人など、ほとんど存在しない。害のない人は、ただ放っておかれる。
チャーリーはいつもいたずらをしようとしていて、フランクはいつもそれを止める子供であるとしよう。結果として、チャーリーは正しいことをすることになるが、実際はいつも間違ったことをしたいのだ。チャーリーは道徳的といえるのか?
『ピーナッツ』のチャーリー・ブラウンとフランクリンのことをいっているのかな? たしかにチャーリーのいたずらは、世界によい結果をもたらすことが多い。その確率はなかなか高いので、じつはチャーリーは「一般にいたずらとみなされる行為」が「費用を差し引いても世界の効用を増やす行為」になる場合を見極める能力があるのかもしれない。実際、本当にひどい結果が予想されるときは、むしろ止める側に回っているし。
とすると、功利主義の観点からは、チャーリー・ブラウンは非常に道徳的な人物であり、フランクリンは経験的に一定の妥当性がある(=一般的には社会の効用が増大する確率が高い)と認められているに過ぎない(と功利主義者はみなすであろう)定言的道徳律に囚われて、より社会の効用を増大させる行為を邪魔する頭の固い人物ということになる。ひとつひとつの状況は特異なものであり、定石から離れた方がよい場合も当然に存在する。そしてチャーリー・ブラウンが個別の状況においてより優れたアイデアを持っているなら、それに従うべきではないだろうか。
しかしチャーリーがいたずらのために支払ったコストは相当なものだ。ふつうの子どものいたずらよりは世界の効用の増大に資する確率が高いといっても、フランクリンの助言に従うべきだったケースは決して少なくない。チャーリーが見出した世界の隙間が実像か虚像かは事前にはわからないのであり、チャーリーは毎回、フランクリンに従った方が、トータルではよかったのかもしれない。
ま、この判断は、きちんと調査してデータを揃えてみないことには何ともいえないね。まあでも、チャーリーがいたずらをしなかったら『ピーナッツ』は面白くならないわけでね。漫画の中の世界に多少の負担があるとしても、個人的には断然チャーリーを支持するぞ。
ところで、チャーリーのいたずらについて、カントは「ダメだ」というのかなあ。意外と「いいんじゃない?」といいそう。いたずらするのは子どもの仕事だと思う。もっとも、道徳的価値のある行動だとはいわないはずだ。じつは「いたずら」って、それ自体が目的の核心ということが多くて、その点ではカントが道徳的価値があるとみなす行為と似てる。けれども、みんながみんないたずらに人生を賭ける状態を想像したとき、それを道徳的な行為だと理性的に判断する人は珍しい。つまり普遍性を欠くので、「大いにいたずらをやるべし」は定言命法たりえない。よってカントの考える「道徳的」の定義を満たさない。
じゃあフランクリンはカントに評価されるのか? 私は、されると思う。少なからぬ場面において、フランクリンは単に教育された習慣によって善い行いをしているのではなく、義務を理解し、自律的な判断によって定言的道徳律に従おうとしているように見えるからだ。
ただしフランクリンは、功利主義的な説得をよく用いる人物でもある。自分自身のふるまいについてはカントの立場からも道徳的だが、同時に彼は功利を追求する者でもあって、自分と同様の理由からではなくとも、とにかく不道徳な行動が改まることには利益があると考えている。もしフランクリンが、そのような他者への働きかけを「社会の効用を増大させるのだから道徳的だ」と考えているなら功利主義者ということになるが、「いや、これは道徳とはとくに関係のない行為だ」と認識しているなら、功利主義者ではない。
ここで注意が必要なのは、単に「効用の増大」を目指すことについては誰も否定していない、ということだ。カントも否定していない。功利主義者とは、「効用の増大」を道徳的に価値のあることだとみなす人々のことであって、「効用の増大」を目指すだけでは、即ち功利主義者である、とはいえない。
すべての人が尊厳と無限大の価値を持っていたら、私たちは生と死についてどのように選択すればいいのか?私たちはボストンの道路を修理するか、トレドの子供たちにワクチンを接種するかを選ばなければならないとする。道路を修理すれば、ボストンでの車の事故による子供の死亡は10人減少する。ワクチンを接種すれば、トレドの20人の子供が助かるとする。もし誰もが無限大の価値を持っているとすれば、どのように選ぶのだろうか?功利主義者ならどうするか?カントならどうする?
もし個人の生命に無限大の価値があるなら、人数の比較は無意味である。無限大はいくつ集まっても無限大で、大小の比較が成り立たない。選択のしようがないんじゃないの。
功利主義者なら、そもそも生命に無限大の価値なんか見出していないわけなので、道路の修理によって得られる、生命以外の効用の増大についても考慮するだろうね。それが子ども10人の生命の価値より高ければ、単純には救える命の数が少ない道路の修理の方が、道徳的に正しい行為だというだろう。
カントさん自身がどう判断されるかは、わからない。カントが最小限の消費しか行わず、収入や財産の多くをより多くの生命を救うために提供した……なんて話も聞かないし。一人の社会人として、カントさんがどんな行動原理を持っていたのかは知らない。素朴に「20人が助かる方がいいんじゃない?」みたいなことをいったんじゃないか、と個人的には思うのだけれど。
ちなみにトレドというのはオハイオ州北西部にある工業都市らしいです。
カントによれば、道徳性のゴールは自由である。しかし、カントにとって、自由とは単に望むことを何でもすることではない。それは自分自身の理性に従って生きることである。洗脳、広告、渇望、欲望、これらに拘束された時、あなたは自由ではなくなる。カントは、自由について正しいのだろうか?
この質問の意図がわからない。カントの定義によれば、「自由」とはそういうことなんだから、カント哲学の支持者にとっては正しいんでしょ。私自身は「自由」について、これといった考えがないので、カントの意見を聞いても「ふーん」と思うだけ。
ていうかさ、カントは「自由」の定義を非常に限定したけれども、それによって起きたことって、従来「自由」と称されてきたものがさらに分類された、ということでしょ。それ以上でも以下でもない。狭義の自由と広義の自由があるだけ。
で、さ、「仕事するのが楽しいから仕事をする、それは快楽への服従である」とカント派はいう。でも、「だからそれは悪いことだ」なんていっていないわけでね。カントは別に賃金労働を否定していない。功利主義者なら「社会の効用を増大する労働は道徳的価値ある行為だ」というけれど、カントは「いや、道徳的価値はないでしょ」といったわけ。そこに意見の違いはあるけれど、もともと道徳的価値なんて形而上のものなので、功利主義者とカント哲学の信奉者とで、生活や行動に大差はない。
つまりだよ、カント派は人間の行動を何でも道徳に結びつけちゃう考え方にNoといったので、「人は道徳的な行動しかしちゃいけない」という思い込みのある人はビックリしちゃうわけだ。「えっ、それもこれも道徳的な行為じゃないって? そんなこといったら、飯も食えないじゃんよ」違うんだよ。「道徳的価値のある行為じゃないけど、やっていいこと」で世の中はあふれているんだ。お腹が空いたから食事する、結構じゃないの。お金がほしくて賃金労働をする、結構じゃないの。それを悪いことだなんて、いってないよ。
広義の自由を語っていた人はさ、「人間は自由じゃなきゃいけない」といっていた。これは基本的人権なので、誰にも侵せないものなんだ、と。カントはそれを否定していないんじゃないの。「うん、広義の自由は守られなきゃならんね」そういうでしょ、きっと。
カントの狭義の自由というのは、あくまで「道徳的価値のある行為」を基礎付けるものであって、「生まれてから死ぬまでずっとその状態を維持しなければならないもの」ではないんだ。広義の自由の性質を、狭義の自由に全て押し込もうとすると、カントはあまりにも窮屈なことを主張しているように思える。そんなもん人間には不可能だろ、って話になる。でも、それは勘違いですよ、と。そういうことじゃあない。
功利主義のいいところは、人の行動をいちいち道徳的に基礎付けしてくれること。カントがとっつきづらいというか、話を聞いてポカーンとなっちゃうのは、「道徳的行為ではないけれど、やっていいこと」の基準がわからないという点にあると思う。
あー、だんだん見えてきたぞ。ここで元の問題に戻るけれども、カントは狭義の自由を定義したわけだけれども、別に24時間ずっと自由じゃなくてもいいといっているわけだ。給料のための道具として自分の身体に労働させたっていい、というのだからね。じゃあ、やっちゃいけないことって何なの? ものすっごく漠然とした規範しか、示せていないんじゃない?
「人間の尊厳に敬意を払っていれば、人を目的の道具としてもいいんだよ」って、これだけじゃ、細かい行動のひとつひとつについて、判断が難しい。カントの主張が「正しい」とか「間違っている」とかいうほどハッキリした意見はないんだけど、「ここがよくわからない」という疑問はあるね、たしかに。