復習課題に取り組む

功利主義のディスカッションを続けよう。ジェレミー・ベンサムの功利性の原理によれば、私たちは常に、何であれ最大の幸福を生み出すように行動すべきである。これは正しいのだろうか?以下の質問を検討し、これらの質問が功利主義の教義の問題点を指摘しているかどうか、自分で考えてみよう。

  1. 新しい運動競技場を建設するか、新しい病院を建設するか選ばなければならないとする。病人よりも、スポーツファンの方が多ければ、運動競技場を建設するべきなのだろうか?病人はどうなるのか?私たちは病人の利益を犠牲にしているのではないだろうか?
  2. 政府の資金が百万ドルあるとする。このお金を千人の子供たちのための新しい学校を建設するためか、百万人の子供のために、百万個のソフトクリームを買うために使うことができる。私たちは、それが最大の喜びを生み出すのならば、ソフトクリームを買うべきなのだろうか?すべての喜びは、平等に作られているのだろうか?
  3. 共同体のメンバーの過半数が、人種差別主義者であることで喜びを感じるとしたらどうだろうか?喜びの収支が最大になるとしたら、彼らが人種差別主義者であることを認めるべきなのだろうか?
  4. あなたはボストンかラスベガスに引っ越さなければならないとする。ボストンに引っ越せば、あなたは恋に落ちて、結婚する。ラスベガスに移れば、お金持ちになるが独身のままだ。お金持ちになることで、より喜びを得るのであれば、ラスベガスに移るべきなのだろうか?

講義は価値中立的な展開を心がけているようなのに、ディスカッションガイドはどうも誘導的なのが気になる。

小林教授はLecture3の解説で、功利主義に命という要素を持ち込むと「グロテスクな議論」になる、と決め付けている。表情や語調から考えても、「グロテスク」という表現は価値中立的に使われているのではない。勘弁してほしい。

1.

新しい運動競技場を建設するか、新しい病院を建設するか選ばなければならないとする。病人よりも、スポーツファンの方が多ければ、運動競技場を建設するべきなのだろうか?病人はどうなるのか?私たちは病人の利益を犠牲にしているのではないだろうか?

大阪府が予算不足を理由に生活困窮者支援の予算を渋りつつ、目抜き通りのライトアップを補助して一部の市民団体から批判されたけれども、大阪府民は橋下徹知事のバランス感覚を支持した。状況を限定して、二者択一で「どちらを選ぶか」と迫る場合と、現実の予算配分とでは、問題の意味が違ってくる。

簡単にいえば、「どこかに困っている人が一人でも残っている限り、一定の生活水準を実現できている人のためには1円も税金を使うべきではない」という意見に納得できるかどうか、という問題。現実には、そのような方針では政治は大衆の支持を得られない。不自由なく生活できている人にもかなりの程度の市民サービスをしていかねばならない。

定言的道徳律オンリーで考えると、「困っている人を差し置いて、困っていない人のためにお金を使うなんておかしいだろ」で終ってしまう。でもそれは実際の人々の気持ちとは違う。ここで功利主義の考え方を持ち込むと、「別に生きるか死ぬかの瀬戸際ってワケじゃないが、納税者一般にも多少の行政サービスが還元されるのが正しい」という市民感情をうまく説明できる。

さて、この設問1.にはおかしなところがある。それは、病人の苦しみとスポーツファンの楽しみの1人当たりの量を同一と仮定していることだ。功利主義は価値観の優劣は論じない。しかし効用の大きさと長さ(時間軸)は検討することになっている。

病人は、その人数が少なくても、1人当たりの苦しみは極めて大きい。病院がその苦しみを解消するなら、その効用は相当に大きいといえる。無論、運動場にそれを上回る効用があるという可能性はある。しかしそれは、「1人当たりの効用は小さくとも、スポーツファンの人数はとても多いから」であって、病人よりスポーツファンのほうが人数が多いから、というほど単純な話ではない。

また先に述べたように、現実の事例では、目下の議題は「病院か野球場か」だとしても、それはより大きな予算配分の問題の一部に過ぎない。だから当該の病院と野球場の費用便益計算では病院の効用が勝ったとしても、より大きな医療予算とスポーツ予算の配分比率の検討結果次第では、「それでも運動場を作る」ことはありうるだろう。

2.

政府の資金が百万ドルあるとする。このお金を千人の子供たちのための新しい学校を建設するためか、百万人の子供のために、百万個のソフトクリームを買うために使うことができる。私たちは、それが最大の喜びを生み出すのならば、ソフトクリームを買うべきなのだろうか?すべての喜びは、平等に作られているのだろうか?

これはミルが考えた高級・低級問題だね。Lecture4で紹介されたミルの議論が正しいとすれば、じつはベンサムの議論と区別する意味はあまりない。子どもたちが「学ぶことの喜び」を知っていることを前提条件として付加すれば、学校の価値を正当に評価した上で費用便益計算を行い、学校とアイスのいずれにお金を使うべきか、判断できるはずだ。

あるいは、どうせ予算の配分を決めるのは高等教育を受けてきた大人たちなのだとすれば、判断を下す人たちは「真の効用」に基づいて費用便益分析を行えるはずだ。今はまだ勉強の価値を認識できていない子どもたちも、後に「大人たちの判断は正しかった」と考えるようになるはずだから、近視眼的に「現在の子どもたちにとっての効用」を基準とする必要はないだろう。

でも、案外、「それでもアイスクリームの方がいいんじゃないの」という結論になる可能性もありうる。夏季長期休暇の中間登校日の給食とかさ、アイスがあったらすっごく嬉しいじゃない。

あとさ、そもそもアイス100万個なんてたったの1億円なんだから、実際には1000人の子どものための学校なんて建設できるわけがない。それに、学校というのは建物だけつくっても意味がないわけで、みんなが何となく思い浮かべる学校の効用を実現するには、それよりもっと遥かに大きな金額が必要になるんだよ。全く詐欺的な設問だと思う。

ひょっとすると、先進国の子どもがアイスを我慢すれば発展途上国に学校を建設できる、という話なのかな。仮にそうだとしても、「外国の子どもたちの喜びや苦しみは×0.001くらいにしないと人々の実感にそぐわない」という点を考慮する必要がある。ま、喜びも悲しみも不平等だということだよ。

やっぱりここでも出題者は功利主義の主張を単純化ないしは曲解しているんだよな。功利主義を考える場合には、まず価値観集計の対象となる人々を決めないといけない。そして全ての効用は公平に扱われるけれども、それは結果平等ではなく、機会平等である。効用には大きさと長さがあって、その違いはきちんと集計結果に反映されるんだ。

設問文を書いている人は、こういう基礎基本を理解できていないか、あえて無視して理解度をチェックしているに違いない。設問2の末尾の文章なんかひどいよ。機会平等を結果平等と誤解させる誘導になっている。どうしてそんな詐術を弄してまで功利主義への同調をブロックしようと躍起になるのかね。

……私がイライラしているのはもちろん、私が功利主義に共感するところが大きいから。サンデル教授の講義とこのディスカッションガイドの落差は何なんだろう。

追記:

英語版を確認してみたら、もともとこういう設問文なんですね。どんな意図でそうしているのか……。より多くの人々の道徳観念をうまく説明できる理論を求めていく、という講義の展開に照らすと、序盤の功利主義で「なるほどー」と納得されては困るのかもしれない。

けれども、問題文の表現で結論を誘導したり、単純化された思考実験と現実の問題とのズレを利用して、功利主義が人々の道徳観念と対立する結論を導くように誘導するのは卑怯なやり方だ。設問の非現実的な箇所を少しずつ現実に寄せていくと、功利主義からも多数派が納得しそうな結論が出てくる。幸福計算の前提を常識に寄せていけば、まずまず自然な計算結果にもなるだろう。

講義の前半で紹介される様々な考え方が、結局は少数派の主張であるならば、ガイド役はむしろそれらを擁護するべきだ。世の中には様々な考え方があって、それぞれに一理ある、と思わせる工夫がほしい。多数派体質の人は、自分の意見=常識=正しいと信じて思考が硬直化しやすい。少数意見を危険思想のように見せるディスカッションガイドでは、社会の相互不信やコミュニケーションの断絶を助長しかねない。

3.

共同体のメンバーの過半数が、人種差別主義者であることで喜びを感じるとしたらどうだろうか?喜びの収支が最大になるとしたら、彼らが人種差別主義者であることを認めるべきなのだろうか?

「なるとしたら」というのだから、功利主義では答えはYesとならざるを得ない。

Noとなりうるのは、ミルの付帯条件が有効な場合かな。つまり、共同体のメンバーが「差別」によって喜びを感じるのは、教育などが行き届いておらず、「差別のない社会」の素晴らしさを知らないからだ、と。もしそういう隠れ条件があるなら、「真の効用」に基づいてNoといえるかもしれない。

もう1点、差別感情を許容したときに「喜びの収支が最大になる」という仮定の裏には、「大勢の差別主義者とともに暮らしても被差別者の苦しみは小さな値にとどまる」という前提がある。そんなことがありえるだろうか? と考えてみると、「個人の価値観として差別主義を奉じることは許容するが、他人に具体的な不利益をなす差別行為は固く禁ずる」という状況が浮かび上がる。これは現実の社会と大差ない状況だといえる。

共同体の過半数が人種差別主義者であることを認める、というと、あたかも苛烈な人権侵害がまかり通るかのような連想が働く。だが、他人を差別する快楽は、差別される側の痛みより浅く小さい。したがって、被差別者が圧倒的少数派でない限り、具体性のある差別の実施が功利主義によって許容される可能性はない。

繰り返すが、誤解を誘導して功利主義にネガティブな印象を与えようとするのは卑怯だ。

4.

あなたはボストンかラスベガスに引っ越さなければならないとする。ボストンに引っ越せば、あなたは恋に落ちて、結婚する。ラスベガスに移れば、お金持ちになるが独身のままだ。お金持ちになることで、より喜びを得るのであれば、ラスベガスに移るべきなのだろうか?

これも3.と同じ。恋に落ちる素晴らしさを知っていてもなおお金持ちになる方がいいと思っているのか、それとも、実際には恋の経験がないから目算を誤っているのか。前者なら、功利主義に照らせば当然にYesだし、後者なら「真の効用」をもとに費用便益分析をしてみればいい。