Trackback も、おそらく同じことになります。「こんなつまらん記事を Trackback しやがって」といってザクザク消していくと、「何で消すんですか? 私の記事の何がご不満だったのでしょうか?」という人が出てくる。いちいち説明するような理由があるか、という話なんだけれども、そう答えたら怒り出すので困った話です。無視すればいいじゃないか、というのは他人のことだからいえる話で、なかなか無視するにもエネルギーが要るのです。コメントもそうですね。よそのサイトについているコメントの9割以上は私から見るとクズです。よくもまあ**さんの玉稿にこんなくだらないコメントを寄せるもんだな、と思う(私のコメントも同類ですがね)。でも、そんなくだらないものでも、消すと問題にする人が出てくる。(趣味の Web デザイン > 備忘録2004年02月26日 Trackback と精神力の問題)
無視しようと努力するから疲弊する、というだけだと思いますが。
良心的な読者は
つまらない Trackbackを筆者同様に詰まらないと考え、適当に無視するでしょうから、公序良俗なるものに反しなければ態々消す必要性もないのではないかと存じます*3。ただ、私には Trackback を送らなかったら陰でこそこそやるのはどうかと思うなどと云われた経験もある訳で、結局のところ、誰もが納得するような妙諦などない訳です*4。
「無視」の対象がずれているような……。私は、「なぜ消すのか?」という声を無視するのがなかなかつらい、ということを書いたつもり。どうしても反論したがる性格なので。しかし精神力も体力も時間も有限だから、なんでも反論しているわけにはいかない。それでストレスがたまる、と。
私は「読者に配慮してやりたいことを制限すること」には賛成しませんが、これは逆にいうと、「自分がやりたいことは何でもやったらいい」ということ。したがって、「消したい Trackback はどんどん削除したらいい」と思う。しかしそのとき、「つまらない声に苦しめられること」はわかりきっていて、それも嫌だと思う。そのあたりを勘案した結果として「Trackback を最初から受け付けないことにする」という判断が出てきます。
読者がつまらないと思う Trackback でも私が大切だと思うなら残すし、逆の場合も同様。私がやりたいようにやる。ただ、それを貫くにはトラブルを突破する精神力が必要になるわけです。反論するにせよ、批判を無視するにせよ。そこで、あまりこだわりのない分野については自粛もするし、最初からトラブルの種となりそうなものを持ち込まないようにもします。
私にとって「何事もしたいようにする」というのはひとつの目標であり、建前です。それを徹底的に貫くつもりはないし、努力してもそれは無理だろうと諦めてもいます。ただ、もう少し、気楽にやりたい。そのためには「戦い」が必要なんじゃないか、と思っています。自分の周りの狭い世界にしか影響を与えられなくとも、とりあえずはそれで十分なわけです。そこで優先順位を考えている。Trackback は「戦い」をしてまで云々したいテーマではないので、トラブル回避の方向で動いているんですね。
黎明日記も愛・蔵太の気ままな日記もよく読むので、必然的にこの話題にも興味を持ったわけだけれども。もしキーワードが存続するようなら、「徳保」というキーワードも作ってほしいなあ、とか思った。事実として「瑠璃の不倫生活」よりは第三者言及可能性があるので。
以下、余談。というか、関係ない話。
徳保さんが target 属性を指定したがらない一因は HTML 4.01 Strict の勧告に背くからではないかと思う。
いや、面倒くさいからです。じつのところ、それが一番大きい。当サイトは基本的に「読みたい人は苦労してでも読め」というスタンスなので、自分が target 属性を付加したければ付加します。しかし私は、リンクを新しいタブで開く操作をカスタマイズして簡単にしているので、備忘録に target 属性を付加する手間が利益とつりあいません。target 属性の有無にかかわらず、新タブで開きたいときは(ほぼ無意識に)「右のダブルクリック」をするわけですから。
当サイトの文書の多くが長大なものであるにもかかわらず、「文書の冒頭に戻る」リンクを用意しない理由も同じです。Home キーを叩くだけで冒頭に戻れるのに、いちいちリンクを用意する必要は無いでしょう。Home キーを使わない閲覧者には不満があるでしょうけれども、私が必要としないのだから諦めていただく他ない。ウェブサイトの製作者に縋るから閲覧者が損をするのです。
とは、まったくその通りだと考えていて、読者の皆様には勉強を勧めます。「他人に期待せずとも、意外に自分の努力で何とかなることが世の中には多い」という真理の一端を、実感できるはずです。また、「何が可能で、何が不可能か」ということもぼんやりと見えてきます。
手間と利益の兼合つながりでもうひとつ。HTML文書作成日記から。
僕は出先で更新するだとか、携帯電話から更新したいだとか全く思わず、過去ログの自動生成も手間だったとはいえ積極的に改善したいというほどの問題でもなかったのものですから、はてなやそれに似たようなものに魅力を全く見出せなかったのでした。むしろ、ツールを使っての更新は手元にログが残らない (いちいち手元で残すように作成しているのならば、ツールを使う意味もないような) わけで、そうするとサーバの障害などでデータが吹っ飛んでしまったら復旧は困難になるわけですから、またそれで足が遠のく。
私はいちいち手許で文書を作成しています。で、時々それもサーバに上げています。2月分の手作業で作成したバージョンは /design/note02.html という URI に存在します。没にした文章とかも、ちょっとだけあったりします。まあ、興味のある方はどうぞ。
私は別に作業負担を減らすつもりはないんですね。同じくらいの手間でよりよい結果が得られるならお得かな、という発想。表紙と過去ログの同時更新もできるし、手作業では面倒くさすぎてやる気になれない個別記事の過去ログも自動生成できる。FTP ツールを使うのも週に1回くらいでいい。ローカルで書いた文章を Web 上のフォームにコピーアンドペーストするのはちょっとした手間ではあるけれども、やってみると案外、大した手間じゃないな、と思うのです。
過去ログについては長らくあまり気にしていなかったのですが、某検索ワードで表示順位が某サイトに負けていて、あれに負けるのは癪だと思ったそのエネルギーで方針転換しました(ということにしておきます)。たくさん過去ログを生成して、リンクされやすくして、云々ということをすると、それらすべての過去ログからリンクされているサイトの表紙の PageRank が上昇しますからね。というわけで、先日あった Google のアルゴリズム変更の際にようやく某サイトに勝ちました。予想以上に時間がかかってしまった。
専門サイトがなぜか見落としているらしい事実があるのでついでにメモしておくと、先日のアルゴリズム変更のポイントの一つは、「ドメイン直下に存在するサイトの過剰な重視」を改めたこと。独自ドメインを取得した途端に PageRank が上がる、という傾向は今も残ってはいますが、以前ほどではなくなったようです。少なくとも私がよく検索するキーワードではこの傾向が顕著。ココログも一時期ほどの検索順位優位性はなくなっているように見えますが、いかがでしょうか。
ちなみに当サイトの場合、アルゴリズム変更前には「趣味のWebデザイン」で検索したときに「徳保隆夫の私的Webリソース」が1位に表示されることがままありました。こういった検索結果を見るとやはり、ドメイン直下を重視し過ぎていると思いますね。今はそんなことはなくなっています。アルゴリズム変更は正解だったんじゃないですかね。
えーと、誉めても何にも出ませんよ。(素直じゃなくてすみません)
ところで、100-4.com は yuu さんつながりで時々拝見させていただいています。密かに読んでいたサイトからリンクされると、やっぱり嬉しいですね。うわー、読んで下さっていたんだ、って。いや、毎日読んで下さっているとか、そういう勘違いはしませんので、安心してください。
私はこう見えて(?)感動しやすい性格なんでありまして。
マルチカラムって何さでCSS段組って結局擬似的なアレなのでさっさと本物のマルチカラムが実現出来るようになってほしい
とありますが、仕様書を読むまでもなく、これはヤバイと思うわけで。印刷用途以外では、本物のマルチカラム
は実現できない方がいい。……ということは、NN4 向けに multicol 要素を用いて段組された文書を見たことがある人ならよくわかっているはずのことなんですが、もうそれを知っている人も少ないということなんでしょう。
あと、一応、心ある人は仕様書も読んでおくといいと思います。まだ草案ですけれども。(というか、もう5年以上も審議しているんですね。そんなに議論すべき問題があるのかな。よくわからないんですが)
「エディトリアル〜」に私が寄せたコメントを引用します。
かつて、HTML 文書で段組が実現したことが1度だけあるわけです。それが NN4 独自拡張の multicol 要素です。で、そのときに「本物の段組ってのはダメだな」とみんな思った。だから、独自拡張を積極的に取り入れた HTML4.0Transitional においても、multicol 要素は無視されたんです。
本物の段組というのは、ようするに新聞のようなレイアウトを実現するんですけれども、サイズ不定のコンピュータの画面で真似すると非常に読みにくくなるんです。当然でしょう。左カラムの一番下までスクロールして読んでいって、その続きは右カラムの一番上なんですよ。ひとつの文書を読むために、何回も上下にスクロールしないといけないのです。「段組みたいなもの」はまあ、有用ですけれども、「本物の段組」はダメなんですね。
CSS3 が勧告されても、基本的に印刷用スタイルシート以外では使うべきでないと思います。
たしかに、私の考えを突き詰めていけばそこにたどり着きます。ただ、私は文字サイズ固定も別の観点から許容しますし、マルチカラムデザインも同じ理由で許容します。
紙の組版に慣れた方がよく口にされる「1行字数を制限したい」という希望は、既に CSS2 において max-width プロパティとして取り入れられています。W3C は、幅制限もやっていいといっているのです。CSS によるデザインの場合、問題があれば閲覧者の側に対処法があるから、これが許されているのですね。
現状のいろいろなwebページを見る限り、本当に求められているのはマルチカラムでなく、JAVAのSwingにあるレイアウトマネージャのような機能じゃないかな、なんて思います。
レイアウトマネージャには、コントロールや文字のサイズ、領域の大きさが固定だという前提があります。そのため個人製作のソフトウェアの多くは、Windows のユーザ補助機能などによりシステムの標準文字サイズを大きくした場合に、全く使えなくなってしまいます。あるいは、標準の文字サイズを無視して、小さな文字のままなんですね。
HPB の「どこでも配置モード」の操作感がまさしくレイアウトマネージャのそれなんですけれども、HPB の見事な大失敗によって、多くの人が重要なことを悟ったんじゃないでしょうか。画面サイズと文字サイズが不定の Web デザインにおいて、全てを希望通りにするのは不可能だ、と。ある環境に最適化されたデザインは、必ず他の環境で問題を引き起こすのです。
JAVA のレイアウトマネージャを HPB の「どこでも配置モード」に例えたのは間違いだったので、訂正します。どこでも配置モードと同じやり方をしているのは VB の Windows フォームデザイナ(あるいは Web フォームコントロールの配置)でした。
ざっと読んだ感じでは、テーブルレイアウトに似た発想のようですね。FlowLayout はけっこう違いますけれども、GridLayout と BorderLayout は非常に近い(というか GridLayout など、そのまんまという感じ)。
画面サイズの変更への追従という点でも、文字サイズ耐性という面でも、テーブルレイアウトは優れているんです。ではなぜ批判されるのかというと、結果としての見た目のために、ソースにおける情報の登場順序が不自然な操作を余儀なくされるからです。それがなぜ問題かというと、一部のテキストブラウザや音声系ブラウザでは原理的にテーブルを解釈することが不可能なので、情報がソースの順に提示されるからです。
レイアウト・マネージャー2という解説を読むと、レイアウトマネージャの GridLayout では行と列を個別に指定できるようですね。これなら、テーブルレイアウトの利点だけを享受できそうです。(ちなみに BorderLayout の東西南北の指定も、情報の登場順に依存しないようです)
私は巡回サイトの記事でリンクされている情報は参照するのだけれど、リンク先のリンク先は基本的に読まない。そんなことをはじめたら時間がいくらあっても足りないからだ。というわけで、リンク先のリンク先としてよく名前のあがっていた極東ブログも、今日まで読む機会が無かった。ずっと、極東の朽木さんが書いている記事のことだと思っていたので、「いつの間に政治にそんなに関心を持つようになったんだろう? 新聞の社説を読み比べているらしい。すごいな」とか勘違いしていた。あと、極東に極東ブログへのリンクがないことは知っていたので、裏サイトが本サイトより人気出てしまうというのも面白いよな、とか。
「趣味のWebデザイン」は、ありそうでない名前ということで選んだものだ。あと、「検索エンジンで微妙に有利になるだろう」とか、「サイト名がサイトの内容を端的に表すというのはひとつ理想的だよな」とか考えたりして。「極東」というのも、実際問題としてそれほどよくある名前だとは思わないし、現にサイト自体の名称としては今のところ2つくらいしかないらしいのだけれど、それだけにこういう問題も起こるわけだなあ。いや、単に私が不精なだけだといわれれば、その通り。
ところで、サイト名をつける時にユーザーに対して管理人が配慮すべき一番大事なことは何だと思いますか? それは「サイトが移転しても、googleとかで検索すればなんとかそこにたどり着けるようなサイト名にしておく」です。俺は何度、これで泣かされたことか。
そしてまた、それは個性的で印象的なサイト名に必ずなります。俺が過去にサイト名で一番気に入っていたのは、「ウミウシセバスチャン」ですが、現役サイトだと、Web冷え汁、鼻糞マグナム、村おこしディスコ、というように、異色な単語2つの組み合わせで作られたサイト名が、個性・検索の面でいい感じかも知れません。「漸」とか「生。」といった名前のサイトだと、再び出会えるかどうか自信がありません。
という意見を読みましたが、調べてみると「生。」はともかく「漸」の方は、そのものズバリなサイト名でやっているところは2つしかないようです。それとも、私が面倒くさがって確認しなかった検索順位の下位にたくさんあるんですかね。
アクセシビリティ向上がたいてい掛け声倒れに終るのは、地球環境問題への対応が常にぬるいものとなることに似ている。誰も、現在の便利な生活を手放したくない。何一つ生活水準を切り下げないことを条件にして、環境問題に配慮することを考える。だから、抜本的対策などできない。アクセシビリティの話題なら、それでも急進主義者が一概に否定されないけれども、ユーザビリティの話題になると、コトは微妙な領域に入り込む。
- 指定しない、もしくはフレームの場合”_top”で同一ウィンドウに表示 91
- ”_blank”で新しいウィンドウに表示 168
- どちらでも良い 35
- その他 6
- 合計 300
意外に指定しない、もしくはフレームの場合”_top”で同一ウィンドウに表示
が多い。もちろん、この手の質問に関して「はてなの回答者」に偏りがあることは容易に想像がつく。しかし閲覧者からの要望で他サイトへのリンクを新窓で開くよう変更した例は多いけれども、その逆はとんと記憶にない。
私は右のダブルクリックで新しいタブを開くよう設定していて、だからサイト作成者があらかじめあれこれ指定してくれない方がありがたい。けれども多くの人は不勉強だから、右クリックから「リンクを新しいウィンドウで開く」を選択する方法、あるいは「Shift+Enter(or 左クリック)」しか知らない。いや、それさえも知らない人が少なくないのではないか。
「新しいタブ(もしくは新しいウィンドウ)で開く」手馴れた手法を持っている人は少数派で、その一方で「他サイトへのリンクは新窓で開きたい」という人は多い。そして、勝手に新窓が開いたからといって致命的な問題が生じることは無い。とくにタブブラウザを利用している場合には。こうした状況を鑑みるに、多くのサイトが他サイトの記事へのリンクに target="_blank" と指定することは理解できる。
「閲覧者の自由を狭めない」というのはユーザビリティの基本的考え方の一つだけれども、これに対して「ユーザのしたいことを先回りして準備する」こともまた、製作者には求められている。ユーザが「他サイトへのリンクは新窓で開きたい」と考えているならば、製作者側でその希望を実現することが「ユーザの利便を向上する」ことになる。リンク target 問題の争点は、製作者が target 指定すると、ユーザの選択肢がなくなることだ。しかしユーザが通常のリンク参照と同等の簡単操作で新窓を開くためには、ある程度の勉強が必要だ。そして多くのユーザは、「(自分は何も努力する気が無いが)製作者には何とかしてほしい」と思っている。
私は「バカな閲覧者は勝手に不幸になればいい」と思うが、多くの製作者はなかなか割り切れないだろう。自分がちょっと手間をかけるだけで喜んでもらえるのであれば、一肌脱ごうと思ってしまう。
その結果、ある程度勉強してきた閲覧者が不幸になるのは理不尽だ。理不尽だがしかし、あまり問題にはならない。やはり多くの場合、勉強してきた人の希望も「他サイトへのリンクは新窓で開きたい」だったりするので、製作者の target 指定は案外、邪魔になることが少ない。ちょっとできのいいタブブラウザなら、「既読タブを閉じる」なんて機能もある。どうせ勉強するなら、ブラウザもいいものを選べばいいんじゃない? という意見も通用しそうな状況になってきた。
私も何度か、「他サイトへのリンクは新窓で開くようにしてくださいよ。自分で選べるなんていっても、他サイトと同じ感覚でつい左クリックしちゃうんです。そういうことを繰り返していて、不便なんですよ」みたいな意見をいただいているのだけれど、説得力のある反論が思い浮かばない。
私自身は、どんなサイトでも新窓を開きたいときは右のダブルクリックが習い性になっていて、だから迷うことが無い。「あなたもそうしたらどうですか」といってみるのだが、「私の見ている他のサイトは左のシングルクリックで新窓を開いてくれるわけだし……」と煮え切らない返事。同一サイト内のリンクだって、新窓で開きたいと思うことがあるだろう。他サイトへのリンクだけが、新窓で開いて便利なわけじゃない。しかし、勉強を億劫だと思う人に、そういう「小さな餌」はあまりに無力であるわけで。
結局、「あんたのことなんか知るものか」という結論になるのだけれど、ユーザビリティ向上のためにユーザを失うという話。
こうした例はいろいろあって、例えばフレームというのもそう。フレームを利用したナビゲーションに心酔している方がいて、フレームを使っていない当サイトは「ナビゲーションが使いにくいですね」と意見されたことが何度かある。キーボードの Home キーを使えば一瞬でナビゲーションにたどり着くのだが、常に画面の一部を占拠するフレームの方が「ユーザーフレンドリー」だというのだった。
ユーザビリティには原理主義の聖典がない。使いやすさを突き詰めていくと、「その人次第」になってしまう。アクセシビリティのように錦の御旗があってさえ、「現実問題」の壁の前に苦労するものであって、ましてやユーザビリティは理想論を語りにくい。
オチなし。
伊集院光って、テレビタレントとしてはそれほど素晴らしいポジションにいるわけじゃないのでしょうけれども、ある方面のラジオ聴取層にとっては神だったわけで。深夜放送だったから私はついぞ生で聴く機会がありませんでしたが、高校時代には友人からテープを借りてまでして聞いたものでした。「衝撃」というか、「ラジオってこんなに凄いことができるメディアだったのか」と驚かされたものでした。まあ、ろくにテレビも見ず、マンガも読まず、ゲームもほとんどせずに育った高校生の感想だから、信頼できませんけれども。
マンガ夜話の影響で今頃になってまた「自虐の詩(上)」「自虐の詩(下)」が売れているそうですね。私は真保裕一のファンなので、真保先生が「この文庫がすごい!98年版」の泣ける文庫王選手権で推して見事、優勝したのを読んだときに買いました。当時、私はまだ大学1年で……って、うわ、そんな昔かよ。ううむ、しかしみんな遅れてるなあ、と優越感。まあ、私も十分、遅れていたわけですけれども。いずれにせよ、傑作中の傑作ですので、読んで損は無いと思いますよ。
何となく雰囲気つながりで書くと、西原理恵子の漫画が好きです。「ぼくんち」は著者畢生の傑作だと私は思っていて、繰り返し繰り返し読みました。私が買ったのはフルカラー上製本・全3巻ですが、モノクロソフトカバー・全1巻もあるそうです。最近は「ちくろ幼稚園」にはまりました。エッセイ漫画では奇人・変人の西原先生ですが、ストーリー漫画の路線は全く異なります。直球ど真ん中。「漫画だから、できることなんだろうな」と思うのだけれど、「ちょっとずるいよ」とも思うけれど、私はこれに弱い。あんまりひねたことをいわずに、素直に読むことをお勧めします。
ちょっと回答数が少ないけれども、「拘束力が無いからといって、依頼を無碍にするのはいかがなものか、少なくとも依頼に応じることが(例えば賠償問題を提起できるような)罪となるかどうかは疑問だ」という意見が優勢のよう。そりゃそうだろうな、とは思う。
「Googleの対応はいい対応だ」という意見には同意。しかし、その他では、ちょっと・・
そもそも、ウェディングに対しての書き込みは、誹謗中傷ではない。誹謗中傷ってのは"根拠のない"っていう点が重要。単なる悪口や言いがかりをつけているのとは違う。
憶測だけで中傷?
では、これまでに報告のある、特定商取引法に明らかに違反している勧誘や展示即売会は? それらの声が多く同掲示板に集まり、また、他のサイトでも同様の声が挙がっている。実体を調べるために、勧誘の電話を受け、展示会にまで足を運ぶ人までいる。そーいったことを総合して「ここは危ないかもよ」と言う。それも中傷? ・・・あ〜面倒くせ、眠くて考えがまとまらない。
もうね、特定商取引法に違反した勧誘・契約方法ってだけで、まずいでしょ。明らかに違法なんだから。違法行為をしているスタッフがいる、それを違法だとそのスタッフが認識しているかどうかは知らないが、こういった商売をやる上で極々基本的な法律すら知らない、教えられてない、自覚していないスタッフがいる会社は、少なくとも優良とは言えないわな。んで、違法かどうかなんて知ってても知らなくても、その自覚症状を持たない社員が突っ走って、"何か"しでかす、ってなこともあるかもしれないわけだ。「その可能性もあるよ」と言い批判する、それのどこが悪いのか。。。
きちんと読んでから反論してほしい。
もともと株式会社ウェディングが悪徳商法マニアックスに対して求めたことは、掲示板のたった一つの発言を削除することだったのです。で、Beyond さんはそれを拒否してごねたから、裁判だという話になった。そのステップとしてプロバイダに Beyond さんの個人情報についての開示請求があり、プロバイダとしては、請求に応じるかサイトを移転するかいずれかを選べ、と。で、Beyond さんは裁判の準備としてウェディングを悪徳業者と決め付けて大々的に情報収集を開始。Google からウェディング関連の記事が消えることになる。
問題の起点は掲示板への書き込みにあるんです。私は当該の書き込みを見て、「これは削除依頼に応じるのが筋だな」と思いました。確かな根拠なしに憶測で中傷する内容だったから。私のいう「憶測で中傷」とは、この事実を念頭においた表現です。
また、特定商取引法に違反した勧誘・契約方法ってだけで、まずいでしょ。明らかに違法なんだから。
というあたり、もう少し注意して書くべきではないか。なぜなら、体験談(のようなもの)を書いている人のほとんどは法廷に立つつもりが無い。匿名の無責任な立場でしかモノをいわない。そういう証言(といえるかどうかも怪しいのだが)に一方的に肩入れして、明らかに違法
とか書くから「確かな根拠もなしに悪口をいう行為」に抵触することにつながるのです。
パナウェーブの事件の際にも繰り返し書いたけれども、みんなが「あいつは悪いやつだ。きっとそうに決まっている」と思っている「連中」が相手だとなると、みんないい加減な証言も裏を取らずに信じてしまう。いい加減な証言どころか、単なる噂話や又聞きの又聞きみたいな信頼度 0 の情報でも、あたかもそれが真実であるかのように口伝されていく。それは結局、有形無形の悪影響となって「連中」に襲い掛かるわけだけれども、それをいいことだと信じてやまない人がちょっと多過ぎないか。そういうことを私はいっているのです。
テレビも新聞も雑誌も、庶民が「所詮はタテマエでしょ」と思ってバカにしている社会のルールを意外にきちんと守っています。だから、よほどはっきりと証拠をつかまない限りは、実名を挙げての批判はしません。曖昧な根拠で書く場合には、ほぼ確実に批判対象を匿名にします。芸能人の有名税と企業活動への誹謗中傷とでは話のレベルが違うのです。それをわかっている。
WWW では、なまじっかの雑誌よりも影響力の大きな個人サイトが登場しています。しかし、その管理人は通常の市民感覚でサイトを運営していることが少なくない。「WWW への情報公開は、雑誌を発行するようなものだから、公的な責任が生じる」ということを、なぜか失念しています。リンクの自由を主張するときには、学会誌に発表された論文を参照する場合を例え話に使ったりするのに。それが、今回のような問題の土壌です。
実際問題として、弱小サイトは数人しか読まないわけだから、日常生活の感覚でものをいっても問題になりません。しかし、ひとたび目立つところへ出てきたら、そうはいかないことを知るべきなんです。個人サイトにも、マスメディア並の抑制が求めらて然るべきなんです。それだけの社会的影響力を持ってしまったわけだから。Beyond さんが株式会社ウェディングを悪徳業者と断定するのはかまわないけれど、雑誌記者がそう断定する場合と同じだけの証拠を持っているのか。持っていないとしたら無責任ではないのか。無責任だとしたら、罪を問われないのか? 確かな根拠もなしに、雑誌記者と同じだけの影響力を持った人が、ある企業を実名で悪徳業者と断定する。それが許されることなのか否か。
DualBalance さんは、株式会社ウェディングへの「憶測に基づく中傷」は「根拠のある批判」だとおっしゃる。検索エンジン spam 関連など、いくつかの記事については同意したい。しかし、DualBalance さんは全面支持のようですね。
私がわからないのは、仮に DualBalance さんが正しいのなら、裁判なんかやって損をするのは株式会社ウェディングの方だということです。何も心配などする必要は無い。裁判で「正義」が勝つことは確実なのだから、下手に交渉して妥協するよりマシな方向へ向かっているんじゃないですかね。それなのに何故、不安を煽るような書き方をするのか。それは、「結論の確信」だけで突っ走って足元が怪しいからです。「正義」の執行が「手続きを必要とする」のは、無意味なことではありません。
あのですね、ぶっちゃけ、みんなの考えていることは結論だけは正しいのだと思います。私も株式会社ウェディングは**だと思っています。
けれども、みんながそう思っているからといって、おそらくその結論が正しいからといって、手続きを省略していいということにはならない。もし、手続きを省略していいのであれば、オウム真理教の施設で麻原が発見されたときに、あんなのはさっさとその場で「死刑」にしてしまってもよかった。たぶん麻原は「悪い」人で、結局のところ、死刑になるのでしょう。いまだに彼が生きているのは、ようするに手続きのためでしかない。こういう話をすると、すぐに「くだらない手続きが世の中をダメにしている」みたいな意見が出てきますけれども、本当にそうなのか、よく考えなければいけないでしょう。
人が人(のすること)を「善」だの「悪」だの決めるってのはそうそう簡単な話ではなくて、いくらもどかしくても、手続きの省略は原則として不可でなければいけない。そう、私は「信じて」います。
ところで、徳保さまにはTrackback出来ないんですよねぇ。したいなぁ(^^; 今回の件に関しては読んでくださるだろうという確信がありますが(^^; やっぱり一度慣れるととても便利な機能なんですよね、Trackbackって。
私が MT を使っていながら Trackback を受け付けない理由はひとつしかありません。精神力に十分な余裕が無いからです。
よそのサイトを見て回っていますと、つまらない Trackback が非常に多いことに気付きます。まあ、当の管理人さんは喜んでいたりするから、私が口を出すような話ではないわけですけれども。とにかく、自分がその管理人だったら、絶対に削除したい Trackback が世の中には多いという現実は、私にとっては無視できないものです。もし Trackback を受け付けたら、自分のところにもつまらん記事がたくさん Trackback されることが容易に想像できるわけです。
もちろん、つまらんと思ったら削除すればいいんです。掲示板への書き込みと同じで、それが真摯なものであれ何であれ、消したければ消せばいい。書き込みや Trackback が消されないという紳士協定はもともと結ばれていないわけで、無契約の状態にあるわけだから、気に入らないものはザクザク消しても訴えられる心配はありません。「消されたくなければ、正当な理由無く消すことはありませんという契約を交わしたサーバ屋のところで書けばいいだろう」という話になる。
でも現実には、そうは問屋が卸さない。ネットマナー問題と同じで、ある「場」における多数派の感情論は、正義と等号で結ばれます。例えば、掲示板への真摯な書き込みを単に気に入らないという理由で消すのは「悪」である、という発想をする人がテキストサイト界隈には多い。(一応、念のために書いておきますけど、これはよその業界では通用しませんよ。例えば同人系サイトでは「場にふさわしくない書き込みを消すのは管理人の当然の権利」だったりするので、メモを勧めます。真摯な批判でも、掲示板に書いたら消されて当然ですから要注意。それを「厨房理論」と決め付けたところで、建設的な結果を生むとは思えません。価値観が違う人に「こちら側」の論理は通用しないのです)
Trackback も、おそらく同じことになります。「こんなつまらん記事を Trackback しやがって」といってザクザク消していくと、「何で消すんですか? 私の記事の何がご不満だったのでしょうか?」という人が出てくる。いちいち説明するような理由があるか、という話なんだけれども、そう答えたら怒り出すので困った話です。無視すればいいじゃないか、というのは他人のことだからいえる話で、なかなか無視するにもエネルギーが要るのです。コメントもそうですね。よそのサイトについているコメントの9割以上は私から見るとクズです。よくもまあ**さんの玉稿にこんなくだらないコメントを寄せるもんだな、と思う(私のコメントも同類ですがね)。でも、そんなくだらないものでも、消すと問題にする人が出てくる。
「消されて怒るやつはバカ。消されたくなければ自分のところで書けよ」と何回いっても、納得しない人は納得しないし、仮に100人納得させても、すぐに101人目のクレーマーが登場することは目に見えています。
こういった「戦い」をやるには精神力が必要です。他の「戦い」で疲弊している今の私に、戦線を拡大する余裕はありません。だから、こちらの都合をつけつつ Trackback 問題で「戦い」をやらずにすむよう、現在のようなやり方をしているわけです。最初から Trackback できないようにしている分には、怒る人はいないんですね。せいぜい残念がるくらい。それでいて、Trackback したものを消されると怒る。「全然できない」より「できるけど消されることもある」方がマシだと思うのですが、不思議なこともあるものです。
ウチはTrackBackをざくざく削除してますが、抗議はきたことありませんよ。もし、きたとしても、サイトで説明しているこちらのスタンスを再度主張するだけですが。
おそらく「削除したい」の程度の問題なんですね。私は「たぶん読者の大半はこの Trackback を有用だと思うだろう」という記事でも、気に食わなければ削除したい。説明できるような理由ならまだいいけれど、「ムカつくので削除しました」では、ちょっと通用しないだろうと思うのです。それがお返し Trackback のようなものならまだいいですけど、真摯な意見だったりした場合には……。「あ、この人嫌いなんだよね」とかそういったレベルでサクっと削除してしまうと、数回は咎められなくても、いつかやられるのではないか。
私はこのサイトについて、自分の世界というか作品のようなものという気持ちがあって、他人に変な(?)干渉をされたくないんです。私は比較的ていねいにリファラをチェックしているので、Trackback がなくてもリンクつきのコメントはたいてい拾うことができます。それで十分なんじゃないかと思っているわけですね。
ごく単純には、アクセス解析を公開してしまえば言及元など簡単に示すことができるわけです。検索エンジンとアンテナを除外すれば、案外ノイズは少ないわけで。何故それをやっていないのかというあたり、ご理解いただきたいところ。
いやぁ、その節はどうも……。
3カラムのレイアウトに最新記事数十件、他サイトへのリンク数百件とか表示してる人がいたりするけれども(というかそっちがブログ的には主流)(3カラムにするとスカスカになっちゃうからたくさん何かを載せなければいけない気になるんだと思う)、さすがにそこまでやるとブログ慣れしてない人にはわけがわからないと思う。どれが外部リンクでどれが内部リンクなのか。なのでなるべくrecent titleとかpermalinkとかブログ用語(?)を使わないで日本語表記にして、検索経由で来る初心者の方々を大事にする方向にした。たまーにPCをほとんど触らないリアル知り合いに「ニイさんのサイト見てみたけど何が何やらさっぱりわからなかったです」と言われる。これだけ噛み砕いてもわからない人の方が大多数なのです世間的には。そこらへんブロガーの人たちはどこまで意識してんですかね?
こういう記事を読むとすぐに感化されてしまう人が世の中にはたくさんいて、「うんうん、私も最初はよくわかんなかったもんね。そうだよねー、なるなる」とかいう記事が今回もきっといくつも書かれるわけですよ。……と、ここまで読んだらもう、常連読者の方には今回の記事の内容がすっかり予想ついたかと思います。なので、多くの読者にとって以下は読むだけ時間の無駄なんですが、私は書きますよ。
初心者のレベルの低さにはまったくもう驚くばかりだという事実は、案外みんな忘れていまして、Yahoo!JAPAN だって Google だって、さっぱりその使い方とか、便利な機能とかを理解していない人が多い。先日、Google ディレクトリの存在を教えてあげたら「うわー! これは凄い。さすがよく知ってるねぇ〜。パソコンの出来る人は違うなぁ」と、まるで見当違いの誉められ方をしたくらいです。大企業の研究開発部門といっても、その程度の人がゴロゴロしているのであって、ましてや(中略)。
結局、初心者の目は都合よく出来ていて、理解できないものは適当に無視されるわけです。便利なリンクは理解できない人には無用の長物だけれども、さりとて邪魔にもらないわけです。だから、企業サイトには(本文の記事だけに用のある人には)オマケのリンクが無数に用意されることが少なくない。あれば便利に使う人がおり、あって困る人はいないわけで。
というか、それ以前の根本的問題として、検索経由で来る方々はほとんどリンクをクリックしない。高機能なアクセス解析を用いると同一 IP 利用者の閲覧行動を追跡してくれるわけですが、検索エンジン経由の閲覧者の大多数はその文書を読んだらサヨナラします。だから、少々わかりにくくてもそうでなくても程度の差でしかなくて、いずれにせよ多くの方はそんなもの気にも留めないか、さもなくば明確な意思を持って無視してくださるというわけ。
あと、テキストサイトなんてのはみんな素人から見たらわけわかんない。「何それ? そんなの、何が面白いの?」というレベルで理解し難いものだったりするわけで。このサイトは総目次まで辿り着くと「そういうサイトなのか」とわかった気になるようにしていますが、これはもちろん計画的犯行。一般人が、日記というにはちょっと違和感のある文章(しかも商業出版に類書の無いタイプの文章)をたくさん書いて人気を博すという状況は WWW の外には無くて、だから初心者がうまくイメージできないのは当然ですよね。用語レベルの話ではなくて、もっと根本的なところに大きな壁がある。
ちなみに、というか。慣れた人はカレンダーの不便さをご存知なのですが、初心者にはこれがわかりやすい。とりあえずカレンダーがあれば、迷わず過去の記事をよんでいけるんですね。ただし前後の月のカレンダーへのリンクは必須。初心者はひとつうまいやり方を知ると、その方法に固執しますので、前月へのリンクがみつからない段階で過去ログ探索を諦めがち。これは WWW 活用の初心者に限った話ではないので、一生モノの知識ですよ←要チェック!(こういう話をすると感心されることがあるのですが、こんなことくらいなぜ常識にならないんでしょうね。子育て経験があればすぐ気付くだろうに)
といった話はあんまり私の一番いいたいこととは関係なくて。
あのですね、趣味の個人サイトにあれこれアドバイスしたり、口出ししたりするような人が一番わかっていないことってのがあって、それはつまり、「なぜこのサイトは人気が無いのか」という話なんですがね。100回で足りなければ1000回でも1万回でもいいますけれども、そんなもの、「つまんないから」に決まっているわけですよ。他に理由は無い。嘘だと思ったら、みんなのアドバイスをよく聞いてですね、デザイン関連で直せるところをみんな直したらいいんです。とくべつ幸運に恵まれたらお客さんの数が数倍にはなるかもしれないけれど、でもその程度ですよね。同じジャンルでトップを行くサイトの足元にもかすらないというか、数倍になっても所詮は路傍の石です。
いいですか、今から私はあなたを騙しますけれども、これで騙された方がたぶん幸せになれると思います。
日本にネットユーザは約 7000 万人います。1日1万人が読むサイトというのは、つまり、7000人に1人だけが面白いと思っているサイトなんです。そして6997人はあなたのことを知りもしない。知ろうとさえしない。多くのアドバイザーは、人に嫌われないようにしようという話ばかりします。でも、現実を見てくださいよ。今はまず、狭い交友関係の中で全員に好かれようとするよりも、まず交友関係を広げることを考えるべきです。
浜崎が歌えばどんな曲でもヒットすると思っている人がいる。宇多田ヒカルだって日本人の95%がCDを買わなかった。誰もが価値を認める曲なんて、誰にだって書けない。浜崎の歌う曲をちっともいいと思わない人は多いだろう。そうした人の方が多いだろう。だが、それは他のどの歌手の歌う歌についても同様だ、ということに注意すべきだ。なぜあんな曲が? と問うても意味がない。
人気ゲームだというのでやってみたらつまらなかった、なんてことは珍しくもない。だがそれだって当然のことだ。売れても300万本、最高のゲームでさえ、日本人の98%が買う価値を見出さない。300万という数字は、その程度に過ぎない。
ベストセラーなのに面白くない小説、人気ドラマのはずなのに退屈、それはちっともおかしなことじゃない。むしろ当然のことなのだ。
浜崎あゆみは、ただ浜崎あゆみであるだけで売れているわけではない。200万人の心を捉える曲がそこにある。だから売れている。ただしその曲は、他の1億2000万人にとっては雑音かもしれない。それでも浜崎は日本一CDの売れる歌手の座を守ることができる。
……私は今、人気サイトを作ろうとする際の基本的な考え方について述べているのだが、おわかりだろうか?
もっと露骨に書くなら、「大多数がどうだとか、そんなことを気にするようなご身分なのか?」という話。誰からも嫌われないようにしよう、なんてことを考えるのは、紅白歌合戦のプロデューサーだけでいい。
承前
ところで、恣意的に検索結果を変更
するサーチエンジンというのは一概に信用ならないものなんですかね。現在の検索結果は、たまたま SEO に成功しただけのサイトが上位にくることがよくあるわけだし、そもそもごく基本的な PageRank の仕組みだけで Google が動いているわけじゃないってことは、過去に何度もあった検索アルゴリズムの変更の際に明らかになっていることです。
ODP とか Yahoo とか、結局のところ当初から Google の検索結果には(間接的であれ)恣意的に人手が介入してきたのでした。
前項ではいろいろ書いたけれども、私が一番注意してほしいことは、「真っ当な批判と根拠に乏しい悪口の取り違えがあるのではないか?」ということ。後者を Google が削除することは、いつ自分(あるいは自分の所属する組織)も被害者になるかわからないわけだから、大変けっこうなことだと思うわけですけれども。
以下のメールを2004/01/19にgoogleに送ったのだが,未だに返事はこない。要するに,googleは,恣意的に検索結果を変更している信用ならないサーチエンジンであり,説明責任も果たさず,追及されると話をすり替えてごかまそうとするか,だんまりを決め込む会社だということがはっきりしたわけだ。
特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律とは何か。総務省の作成した図解[PDF]に明記されている通り、従来の民事裁判では救済できない被害について、プロバイダ等の自主的対応を促し、その実効性を高める環境整備の必要
を反映して制定された法律なのです。
ネットの利用だから,情報を公開する以上の行為はできないはずですよね。この状況で法律違反というと,「わいせつ物陳列」「著作権法違反」「名誉棄損」「信用棄損」「侮辱罪」,あとはプライバシーの侵害あたりじゃないかと思うんですが,いずれも,法律に違反するかどうか,裁判所で個別に争われているはずです。事実関係を調べないと個別の判断ができないからでしょう。いずれの可能性の場合も,「言いがかり」をつけることは可能ですし,現実の社会でも訴えるだけならいつでも可能です(勝ち目がどの程度になるかは別として)。
音楽ファイルの無断公開など,明白に違反だと判断できるものもあるでしょうけど,論評か名誉棄損かといった場合には,グレーゾーンがあって,違反かどうかの判断は個別の状況によるでしょう。だからこそ司法手続きで決めることになっているのではないでしょうか。「法律違反」と判定するときの精度が問題だと私は考えているのですが,御社の法務部は裁判官並みの精度で判断できるということなのでしょうか。
引用した意見は、同法の趣旨に照らせば誤りといえましょう。
私たちは日常生活を送る中で、自らの法解釈に基づいて様々な判断を行っています。グレーゾーン
があるからといって、何でも裁判所にお伺いを立てているわけではありません。従来、プロバイダ等が自主判断を半ば放棄してきたのは、自主判断により特定の意見を公開停止としたとき、言論の自由の侵害として訴えられる可能性があったからです。このような状況下では、基本的に発信者が優位となり、被害者の救済が困難になります。(Ex.とくに個人が被害者となった場合、費用対効果の観点から対処法がないも同然となります)
WWW では匿名の発信者がいい加減なことを書く事例が多くあり、座視できない状況です。そこで、現在非常に広くなっているグレーゾーン
について、プロバイダ等が自主判断で公開停止としても免責される法が作られたのです。(総務省の逐条解説[PDF]に詳細な解説があります/必読)
というか、悪徳商法マニアックスは元々、掲示板のたった一つの書込みについて削除を求められたのです。それを拒否したので小さな話が大事になり、サイトの移転だとか警察が動くとかいう話になっています。派手な展開に目を奪われて、問題の書込みがどのようなものだったかご存知ない方が多いのではないかと思うので、あらためて引用します。
どうもトリックスターさんの辞書には「デート商法」や「アポイメント商法」って言葉が無い様ですね(笑) それとも検索術って術を知らないンでしょうか?
相談事例です。
まあ、トリックスターさんの中では淡い鯉の思い出なんでしょうが、向こうのお姉ちゃんにしてみれば鯉じゃなくてカモなんですね。んでまあ、こういうマトモな商売が出来ない会社はマトモな情報管理なんて出来ッこないですからその内、名簿なんか流出したりマッチポンプでこんな事にもなっちまうんですね。
「会員権」を「宝石」に置き換えて下さい。まあ、ウェディングがやるかどうかは判りませんがその危険性があるって事です。
「中傷」かどうかはともかく、「確かな根拠なしに悪印象をばら撒く発言」には違いありません。そのことは、争うまでもない一目瞭然の事実です。
で、これを「消せ」「消さない」という話になって、プロバイダとしては問題を解消するか、当事者同士で話し合って解決してほしいわけだから、「出て行くか、個人情報を開示するか選べ」ということになる。
Beyond さんが根拠の不確かな悪罵をなぜ守りたがるのか、ということは掲示板を見れば明らかで、裁判所で証言できそうな責任ある発言ばかりでは掲示板が成り立たないんですね。まあ、悪徳商法対策をやっているサイトはどこでもそうなんですけれども。だからふつうは、実名は挙げないことになっている。もし訴えられたらかなわないから。でも Beyond さんはカッコつけて、実名を挙げて批判することを許してきました。それがタダで済んできたことがそもそもおかしい。ということは以前、書きました。
前略
Google チーム 様
At 11:20 AM -0800 04.1.16, japanese@google.com wrote:
ご連絡ありがとうございました。ユーザーが日本の法律に違反するかどで特定のページが削除されることを希望する場合、どの法律にどのように違反しているかを証明する署名入りの文書を弊社法律部に提出していただく必要があります。
見当違いの答えをするのはおやめください。
私は
- 法律違反というのは誰が判断しているのか?
- 手動で削除したものが,その後自動で集められてまた掲載されることが有るのかないのか?
- 別の人が手動で,御社が削除したURLを登録した場合の動作
- 当事者の争いで決着した場合の動作。
について問い合わせているのです。私は,誰かのページの削除を要求するつもりなどありません。
自分のページに削除要求が出された場合の対抗措置に関して事前に情報を得るために問い合わせているのです。
また,悪徳商法マニアックスの削除要求は,アメリカの住所となっている法務部にクレームが出されたのであって,日本法人に対するクレームではないという主張でしょうか?
なお,御社とのやりとりは,すべて公開し,ネット上のいろんな掲示板にも転載する予定です。
参考までに,以前のメールを載せておきます。日本語をよく読んでください。
以下略
天羽さんはこういう質問メールを出したけど返事がないといって、冒頭に引用したような言葉で怒っていらっしゃる。回答がずれているのは事実ですが、公開するの何のということをいっておいて、マニュアルにない質問をしたってろくな答えが返ってくるはずがないことは容易に想像がつきませんかね。Google が一人の超人によって運営されているならともかく、実際には大勢の社員が様々な業務に当たっているわけです。
公開するのなんのと脅されたら滅多な回答はできないけれど、さりとて無数に寄せられる質問への回答にいちいち上司の承認を取れるはずがない。会社の全責を背負って対外文書を作成する末端の社員の心労を、なぜ理解できないのか。天羽さんが4項目の質問の答えを知りたければ、週刊誌の記者のように社外で社員に会って、匿名の無責任な立場で話をしてもらうしかない。さもなくば、末端の社員が上司の承認を取ってマニュアルに無い回答を作成するに十分な「理由」を与えねばならない。
Google は社会的影響力の割に小さな組織で運営されていて、その点、至らないこともあるでしょう。あれほど広告の少ない検索エンジンは他にないではないか。そういうことを勘案しないで上等のサービスを求めるのは、無茶というものです。
私はアイスターの宿泊拒否を支持しないが、天羽さんのアイスター批判も(全面的には)支持しない。
ハンセン氏病元患者については他人に対する感染の危険はないわけだし,もともと望んでそうなった患者ではない。それを,自分からヤクザになった奴と一緒くたにするセンスは一体どうよ,と思うわけであり・・・・。
一緒くた
にしているのはどっちなのか。秘書室長は、元ヤクザもハンセン氏病元患者も、無知な一般客を怖がらせるという点で共通している、と述べているに過ぎない。元ヤクザよりハンセン氏病元患者の方が同情する人が多いのは事実だが、そのような違いはアイスターにとって問題ではない。(結果的に誤読に基づく非難を浴びる原因となった、という意味では問題だったわけだが)
(いくつかの例外を除き)宿泊拒否の許されない旅館業を営むにあたっては、相応の覚悟が必要となる。SARS騒動の際、件の台湾人医師が宿泊したホテルは十分な対策をとったにもかかわらず、予約の破棄が相次いで大損害を被ったことは記憶に新しい。徹底した情報公開により信頼を得るというホテル側の「英断」は、日本人の愚かさを示す虚しい先例と成り果てた。ハンセン氏病元患者を怖がる客にはきちんと説明してご理解をいただくのが筋だが、秘書室長が述べている通り、ご理解をいただけない客が少なからず生じる可能性は否定できない。しかし、それでも宿泊拒否してはいけないのが旅館業なのであって、覚悟の足りないアイスターは批判されていい。
ただ、天羽さんの批判(引用部)は言掛かりだ。それぞれの抱える事情は異なるが、無知な一般客を怖がらせるという共通項の存在は事実であり、その点では秘書室長の発言に間違いはない。
この騒動の結果、「ハンセン氏病元患者は危険ではない」という事実は、あらためて多くの国民の知るところとなった。しかし常にそうであるように、「今回、初めてその事実を知った」人は少なかろう。知らない人のほとんどは、今回の騒動にも無関心だろう。だから、虚しい。しかし、不毛な営みを続ける先にしか、正しい知識の輪の広がりはありえないのではないか、とも思う。
どこかで紹介されたようで、またリファラがたくさん残っていました。いい機会なので言及してみましょうか。
MTに限らず、NucleusやiBlogといったたいていの「blogツール」は記事を単位としてサイトを作っていく構成になっており、また、その記事も基本的にはタイトルをつけ、概要を書き(私は導入部としてしか使っていませんが)、そして本文を書くというスタイルになっています。これはどちらかというと、ある程度まとまった文章を書く場合に向いているのだと思います。そのため、1行コメント的なものや単発のURLのメモとしては使いづらい面があります。
MT は入力画面もカスタマイズできますから、私はカテゴリの設定や、概要の入力、トラックバックの許可/不許可などの項目について、表示しないよう設定しています。見出しだって、つけたくなければつけなければいい。それでも問題ないわけです。だから、これはどちらかというと
云々という指摘は、外れています。1行メモに使うにも支障ありません。大勢の人がこの方のように考えるのは、デフォルト設定に引きずられているからに過ぎません。
上でも書いた通り、MTなどのツールでは「記事」が単位。たとえ日付単位でアーカイブしたとしても、それは「その日のうちに書いた記事の集合体」でしかありません。最終的なアウトプットとしてはほぼ同じだとしても、設計思想の違いはあるわけです。スタイルというのは単なる外見の問題ではなく、自分自身の「書き方」のスタイルがどうなのか?という問題もあるわけです(むしろこちらのほうが重要ではないかと)。
最終的に如何ともし難い差異は、入力フォームが記事単位か日付単位かということでしょう。多くの日記出力 CGI では、一日分の記事はひとつの入力フォームに全部書きますから。そうでない CGI もありますけれどもね。ただ、各記事にタイトルをつけなきゃいけないとか、概要を書かなきゃいけないとかいうのは、勘違いです。で、そういった解消可能な差異を全部つぶした場合に、なおも大きな違いを感じるのかどうか。
いや、そこまでカスタマイズする人はあんまりいないでしょう……という反問は、「デフォルト設定に引きずられる人々」への批判になりません。カスタマイズ後の姿がデフォルト設定だったならば、MT をはてなのように使う人も多かったのではないか、という仮説への反論になっていないのだから。ようするに、ツールの基本部分の設計思想の差異よりも、デフォルト設定がどうなっているかが重要なのではないか、と私は思う。
もちろん、MT は日付ではなく記事を重視したので、デフォルト設定が現在のようになっているわけです。そういう意味で、実際問題としてはツールとスタイルの間には強い関係がある
といってもいい。
しかし、MT ははてなやココログと比較してカスタマイズの余地が段違いに大きい。だから、それらを並列に紹介するのはおかしいと書いたんです。「はてなだから云々」「ココログだから云々」というのと、「MT だから云々」というのでは話が違う。
たしかにツールの設計思想の差異はカスタマイズですべて解消されるものではありません。MT をどうカスタマイズしても、はてなと同じにはなりません。大多数の人は、デフォルト設定に引きずられます。しかし、一つ一つの差異点について、最終的に本人の問題なのか、ツールの問題なのかという点は、確認しておく価値があります。その作業を省略して、安易に MT を「こういうものだ」と規定してしまうことは、つまらない先入観を人に与え、誤解を再生産することにつながります。私が憂慮したのは、そういうことなのです。
まさかまさかの2週連続オフ会。といっても私が主催するわけではなくて、私が顔を出しますというだけの話なんですけれども。
まあ、あれですね。呼ばれたら顔を出す性格だったらしいです、私は。新宿といったら、以前、遠いから行きたくないとかいっていた場所じゃないのか。我ながら無節操だなあ。
バクトラの移転先がわかったんだけど、リンクしないでおく。しかし、なんでリファラを残すのだろう。人を悩ませないでほしい。(というか、あれですか。私のところにリファラを残したってことは、移転先を公開していいってことですか)
あんまり関係ないけど、私は柊さんの紹介したゲームをひとつもクリアしたことが無い。というか、挑戦さえしないことが多いのだけれども、それはつまりファミコンでアクションゲームをクリアできたことが一度も無いという経験があるからだと思う。運動神経の鈍いことには自信があって、とくに指先はダメ。テトリスみたいに急がされるのも全然ダメ。とすると、ニュースサイトなどで紹介されるミニゲームの類は大抵ダメだということになります。じっくり考える系のパズルもありますが、私はそういうのに昔から興味が持続しなくて、さりとて一瞬で解ける頭もない。ジグソーパズルも私の苦手なもののひとつ。
どうしても WYSIWYG 型の HTML 文書作成支援ソフトを使いたいという方には、これまで IBM のホームページビルダーを勧めてきました。fuming さんの評価では C ランクとなっていますが、記事をよく読めば、きちんと設定して使えば OK と書かれています。そう、その通り。私も長らく愛用していましたけれども、HTML によるマークアップについては、正しく使えばかなり信頼できます。
問題は、正しい使い方を説明するサイトがないということ……だと思っていたのですが、fuming さんが作成なさっていました。
最新版はホームページビルダー 8 ですが、機能が追加されただけで基本部分に進歩がないので、今でも参考になります。
DW にせよ HPB にせよ、文法的に誤りのない(少ない)文書を作る機能はありますが、テキストに妥当なマークアップを施す機能はありません。逆にいって、そんな機能が実現できるなら、そもそも文書をマークアップする必要などないわけです。文法的な誤りは確かにない方がよいのですが、それは所詮、入り口に過ぎません。重要なのはその先である、と付言しておきます。
fuming さんは、「最初に正しいやり方を学べば遠回りせずにすむ」と考えていらっしゃるわけですが、私は賛同しかねます。fuming さんの解説を読む初心者のほとんどは、(正しい解説を読んだにもかかわらず)やはり遠回りすることになりましょう。問題の根源は誤った解説の氾濫ではないからです。そもそも何故 HTML や CSS について正しく教える人が少ないのか、考えなければなりません。
fuming さんの記事はたいへん有用なものですけれども、記事の背後にある思想には注意すべきだと思います。仮に「(一切の)遠回りはいけない」のだとすれば、「遠回りの原因」は「ダメなソフト」や「間違った解説」にある、という fuming さんの解説もダメな解説です。ソフトと解説を改善しても、相変わらず大多数の初心者が遠回りする(あるいは永遠に誤解し続ける)現実があるからです。外堀を埋めるだけでは、大阪城は落ちません。
正しい解説をしても、初心者は勝手に誤解します。文法違反を犯さないソフトを与えても、「単に文法違反がないだけ」の文書を作ります。誤解をいちいち指摘するのも不毛で、すぐ耳を両手でふさいで何も聞かなくなります。みんながそうだとはいいません。しかし、ほとんどの人がそうだ、とはいえます。
ソフトが悪い、解説が悪い、というのもよいでしょう。しかしその発言は確実に「そうか、ソフトと解説が正しくなれば問題が解決するんだな」という誤解を生みます。私は、一概にそれが悪いとはいいませんが、ただ、誤解を生んでいるということについて、責任を感じるべきです。戦略的、政治的には、例えば間違った HTML の解説さえ、一概に否定しきれないと私は考えます。「その場において、一体何を優先すべきか」という問題は、理想論だけで片付きません。どんなに苦労してでも……なんて奇麗事は、現実の制約の前にはしばしば無力です。
小学生に光の性質を説明するとき、なぜガラスは通過するのに金属板は通過できないのか、その理由をきちんと(例えば高校物理のレベルで)説明することはない。単に「ガラスは光が通過する」「プラスチックもちょっとだけ通過する」「鉄板は通過しない」といった世知を詰め込むだけです。物事の理解にはしばしば階梯が必要なのであって、「光の通過(透過)」とはそもそもどのような現象なのか、という話をいきなりしたってダメなんです。
マークアップという概念も同じで、ある種の素養が無い人には、最初から正しく理解することは無理だといっていい。正しい説明を心がけるのは結構なことだけれども、商売で人に教える場合、そのために9割の受講者が「わけわからん」というのでは食っていけません。ずるいやり方になりますが、ある種の誤解を誘いかねない説明をせざるを得ない場面があるわけです。というか、誤解を恐れずに書くならば、最初はまるで間違った解説をしたっていいんです。正しい解説をしたって、ほとんどの人はそういう誤解をするのだから。そして実際、私も、他のほとんどの方も、それを通り抜けて、正しいやり方に「目覚めた」わけでしょう。
後から思えば、遠回りだったかもしれない。では、最初から正しいやり方を身につけることができただろうか? 仮に自分はそうだったとして、他の人もそうなのだろうか? それを考えてみなければいけません。間違ったやり方を覚えてしまって、正しい説明をまったく受け付けない方はたくさんいます。しかしその方々は、果たして最初の説明さえ正しければそうならなかったのでしょうか? 私は、そう思いません。その方々は、もともと正しい説明を理解する素養が無かった、そして今もそうなのではないか。
共産主義者は「資本主義の矛盾を突いて革命を起こすのだ」といいましたが、HTML の正しい使い方に「目覚める」きっかけがあるとすれば、ダメな手法に行き詰ったときしかない。そうなるまで、ふつうの人は正しいやり方を理解できないわけです。
間違った解説を正しい解説と勘違いしながら教えている人は、たしかに批判されていい。ただ、わかっていながらそれをやるのは、一概にダメとはいえないのではないか。いや、現状では、前者があまりに多すぎるから、わかっている人は全員が正しい解説をしてようやくバランスが取れる……のかもしれない。ただまあ、いずれにせよ、仮に fuming さんが「最初から正しい解説に接していたら、みんな遠回りせずにすんだのに」と本気で思っていらっしゃるのだとすれば、ちょっと認識が甘いのではないかと思う。
Googleやはてなが株式会社ウェディングの要求に(ある程度)応じたように、果たして個人が中傷されたときに同様の対処を取ってくれるのかという部分については「どうかなあ?」と思わなくもないけど、ひとつの意見として、まあ興味深い。
私は決して、メール1本で Google が動くなんてことは考えていません。弁護士を使って(つまり相当の費用を投じて)対処するならば、依頼主が会社だろうと個人だろうと、Google は動くだろう、といいたいわけです。
ただ、ネットでの誹謗中傷について、生じうる損害の規模が個人と企業では全然違います。だから一般個人の場合、中傷による被害が、中傷に対抗するための費用より軽いわけです。だから、お金も手間もかからない簡単な手段しか取らない(取れない)。そうである限り、一般個人の訴えが Google になかなか相手されくとも当然でしょう。
とにかく今回、株式会社ウェディングはこの問題のために相当のお金をかけているわけです。それだけの価値が、あると考えている。しかし結果的に、この程度のことしかできないわけです。私は、これでは費用と効果が見合わないと思います。これを見たら、たいていの企業はウェディングの真似をしてもしょうがないな、と考えるでしょう。個人なら、なおさらですね。(つまり、お金をかけてみても WWW から中傷を追放するのは難しい、という結論になります)
あるリンクをきっかけに、一連の議論を(途中から欠伸を噛み殺しながら)読んだわけだけれども。
例によって、現に存在する「それを嫌だと思う人」をみな確実に説得できる言葉・方法など存在しないことがポイント。究極的には、何かを諦めるしかありません。「解析したくない人」はしなければいい(逆に、したい人はすればいい)。「解析されたくない人」は、解析しているサイトを利用しなければよい。実際問題としては、そう割り切るしかないはずなんです。
ただ、前者は誰も困らないけれど、後者は困ると思っている人がいます。「(解析はしたいのだけれど)なるべく、大勢の人に見てほしいから」というわけ。でもそういう人には、「気にしない方がいい」とアドバイスしたい。したい解析を我慢することは勧めません。
お客さんに嫌われまいと努力する、後ろ向きのサイト運営は結局のところ効果がない。いくつかのサイトで話題にしていただいた最強の blog サービスは「楽天広場」でご紹介した大人気サイトをご覧になってですね、目覚めてほしい。少ない需要の中で100%を目指すより、需要そのものを拡大した方が、より多くの閲覧者を獲得できるのです。
アクセス解析云々も、「精神的な閲覧障壁」と呼べばアクセシビリティの範疇かもしれません。しかし、私はそのような立場を支持しません。(アクセシビリティの概念をそこまで拡散させると不毛な議論になると思う)
朝。電車を乗り間違えたりもしたが、無事に到着。久しぶりの千葉みなとには浜風が吹き荒れていた。
午前。懐かしい、懐かしい公園を散歩する。十数年ぶりだ。前回は小学何年生の頃だったか。
昼前。ポートタワーに上る。喫茶店で軽く食事。雲ひとつ無い晴天。ただ、水平線の彼方にもやがかかっている。Mさんが来た。
午後。千葉県立美術館で友人Kの絵を見た。薀蓄を聞く前に、まず作品を見たのは正解だった。作品の題名は「波音」。詳細は書かないが、私はこの絵を見て「安心」した。高校卒業後の6年間、ひたすら絵に打ち込んできた、その積み重ねがきちんと現れていたように思った。
じっくりと見て回った後、卒業制作の報告書を通読。私は12年もの間(小1〜高3)ただ描きたいように描くだけで、ろくに勉強もしなかったわけだけれども、Kは生来の生真面目さでよく勉強していたので圧倒された。知らない間に、私の全然知らないスタイルの絵もたくさん描いていたのだった。そうしたすべての成果を注ぎ込んだ結果が、この卒業作品なのだった。それが私にとって「安心」できるものだったことが、Kにとっていいことかどうかはわからない。ただ、私は嬉しかった。
それから。その他の展示室をサラッと回る。Mさんは昼食がまだだというので、2度目の昼食。えんえんと話をする。雲行きが怪しくなったこともあり、16時半頃に美術館を出た。強風とにわか雨。駅までMさんに車で送っていただいた。
* たぶん大丈夫だと思うのだけれど、ほとんど一日中、私の PHS は圏外(公園散歩中)か電源オフ(館内)だったこともあり、事前連絡のあったMさん以外には会えなかった。万が一、他にも千葉までおいでくださった方がいらしたなら、お詫びしたい。
Amazon のカスタマーレビューは、書き直すと得票がまた0に戻ってしまいます。ある意味、当然だとは思います。たくさんの支持票を獲得してから編集しなおしたりしたら、印象操作できてしまいますから。だからそれはわかるのですが、でも、文字化けを修正しただけで20票以上の支持票(最新Webサイト作成術)が消えてしまった時には、さすがに悲しく思ったものでした。最近ではスタイルシートスタイルブックがとても売れているようで、投票も多いですね。これを今から書き直すのはちょっと躊躇します。
もちろん、支持票がいくつあっても私は何一つ得しません。なので、どうでもいいといえばそうではあるのですが、レビュアーランキングなんかを見るとなんとなく……。まあ、4000番台を回復したので良しということにします。本当はベスト1000までいってみたいのですが、調べてみたらけっこう大変みたいでした。
Amazon のレビュアーランキングを調べたときに非常に疑問に思ったのが、「このランキングって、どうやって決まっているんだろう?」ということでした。現在の1位はすーぷさんなんですけれども、総レビュー数も1レビューあたりの支持票も2位の街道を行くさんに負けているんです。こういった謎の逆転現象がたくさんあって、どうもわけがわからない。
というか、すーぷさんのレビューは不支持票(参考にならなかった)が多すぎる。「ベスト1レビュアーってのはきっと凄いんだろう」と思ってどんどん読んでいったのですが、100件くらい読んだらこちらの頭がクラクラきました。
Amazon に投稿したカスタマーレビューから、スタイルシート関連書籍のものをご紹介。読み返してみると、あまり大したこと書いてないね。
HTML&スタイルシートトレーニングブックについては一度酷評したのですが、あらためて全部読み直してみると、あまりにも悪く書きすぎたな、と思いました。たしかに div 要素を不用意に用いているところが無いとはいいません。テーブルレイアウトも、もう少し注意して扱うべきじゃないか。フレームの解説は全面的に削った方がいいんじゃないかと感じます。けれども、総じて正しい解説を志向しているのです。リストはきちんとリストとしてマークアップされています。テーブルレイアウトのサンプルだって、表としてマークアップする妥当性を否定し切れない微妙な線を狙っています。(フレームの章だけは弁護に苦しみますが)
トレーニングブックは入門書としては悪くない、むしろかなりいい方だと考え直したので、レビューを書き直しました。たぶん来週中には差し替えになると思う。
ところで、現時点で私がとくにお勧めする解説書は次の通り。
ノンデザイナーズ・デザインブックはもうすぐ Second Edition が発売されますが、第1版の方が薄くて(しかも安くて)いいんじゃないか、と私は思います。出版社の紹介ページを見る限り、目次はほとんど変化ないようですし……。そうはいっても、私は買ってしまうのですが。
Amazon でいくつかカスタマーレビューを書きました。携帯電話向けコンテンツ作成の解説書ばかりですけれども。(全部、読むには読んだ本ですが、みんな買ったわけじゃありません)
基本的に私は「仕様通りにやればいい。もしそれで問題が生じたら、ダメな Web ブラウザがいけないんだ」という発想をします。そこで今回、携帯電話向けコンテンツの製作について解説した本のレビューにおいても、「HDML の解説は趣味の人にはもう要らない」という立場を一貫させてみました。
「少数派への配慮」という意味では、音声系ブラウザへの対応も古い携帯電話への対応も同じことでしょうが、本質的には異なる話だと私は考えます。端的にいえば、「時間が解決する問題か否か」ということです。古い携帯電話はいずれ消えます。しかし音声系ブラウザは永遠に音声系ブラウザです。
古い携帯電話への対応なんてことを考えると、同じページをキャリア毎にいくつも作らねばなりません。手作業でそれをやるのはあまり現実的な話ではないし、自動生成する環境を構築できるような人なら、たぶん上記のような書籍は既に卒業しているだろうと思うわけです。だから趣味の人は、一般的には汎用文書をひとつだけ作ることになるでしょう。とすれば現時点においては HTML 文書のマークアップ原語には Compact HTML か XHTML Basic か XHTML MP を用いることになるわけで、HDML の出る幕はありません。というわけで、プロ仕様でない HDML 解説書には軒並み低い点をつけました。
では XHTML を解説している本の内容が素晴らしいかというと、そうでもない。まなさんが厳しくレビューされている通り、いい加減な記述が無数にあります。でも、代替となる解説書がないわけで。じゃあ仕様書を読めばいい……ということになるのだろうけれども、やっぱり初心者には読みにくいですね。Web 上の解説も同様で、素人にも読みやすくわかりやすいのは(間違い含みとはいえ)解説書。しかも実務上の問題はないも同然。つまり、間違ってはいても使えないわけじゃないし代わりの本もないのだから、インフォシェルの著書は星2つにしました。
EZwebホームページ制作完全マニュアルはプロ向けの本だと思う。内容が古びたとはいえ、その道の人には今でも有用だということで星3つ。作ってみよう!ビジネスユーザのためのiモード対応ホームページはビジネスマンの教養書として読めば有用か。それで星2つ。
クレーマーは怖い。消費者は、いつからこんなに増長するようになったのか。
「明日は我が身」でしょう? お互いに。もう少し、相手の事情も汲んでですね……。
クレーマーがさんざん話題になったためか、最近はこちらが恐縮するほどていねいな対応をする店員さんが多いように思います。それがまた勘違い(というとまた怒られるのかな)を生むのでしょう。SmallBizの記事の読者コメントにもし自分の部下がこんな顧客対応をしたら、私だって即座に土下座しますね。
という発言がありますが、こういった現在の風潮を全肯定するような意見もあるんですね。「こんなことで土下座なんて、おかしいよね?」という気持ちを押し殺して、土下座するなら、私も賛成です。
「オレも現役のとき、土下座を何度かしたなぁ。些細なことを大袈裟に考えて、逆上して、最後に求めてくるのが、土下座なんだよナ。だけどさ、キレたお客さまと同列で張り合って何になる。冷静になっていただくために土下座が必要だったら、するしかないだろ。理屈じゃないよ、間合いだよ。オレが現場に戻ったら、今度は股下でもくぐってやろうか。“場”がそれを求めているとあらば、自分のプライドなんか捨てちまうのが、責任者の矜持ってもんだろう」
この島川さんの意見には肯ける。でも、読者コメントの方のように、端っから土下座して当然であると、店員の不用意な発言はそれだけの罪であったと、そう思って土下座するのはどうだろう。
こういう人は他人にもどんどん土下座を求めていくのだろうけれど、こうした感情表現のエスカレートは困った事態を引き起こします。土下座というのは、ひとつ行き着くところまで行った状態じゃないですか。だから土下座が日常化したら、「その次」を探さなければいけない。「たかが土下座で許されると思ってんのか、コラァ!」とか言い出す人がきっと出てきますよ。でも、そういっている本人も、じゃあどうしたら許せるのかわかっていない、という。
私が書いても説得力がないだろうけれども、みんなカルシウムが足りてない。
あと、わかった風に書いているけれど、私は仕事で土下座したことはまだない。土下座させたこともない。私が過去に土下座して謝った相手は両親だけです。
小役人が世間知に疎いのは一般的に言えそうですね。以前,私の運営するWebサイトにリンクの事後申し込みがあったのですが,一見して役人と思える無礼な口調で書かれていました。即刻拒否し,リンク削除を求めたら,先方ビックリした様子。後で調べたら,某市役所のオッサン職員でした。その後,某氏は当方サイトの悪口を書いて溜飲を下げてるようですが,当サイトとは比べモノにならない低アクセス数で,だれも相手にしてない様子。
小役人は世間知に疎いかもしれないが、このコメントを書いた方は、Web のことをあまりご存じないらしい。文章から受ける印象からいうと、中年の方だと思います。いい年した人でも、ちょっと人気のあるサイトを作ったぐらいでこれだけ勘違いしたコメントを書けるんだな、と再認識。
LPがCDに移行した時は「音質の良さ」が一つの売りだったんですけどね。DVD-audioやSACDが普及しないのは、再販制度の適用が不明確なためです。去年の夏の段階で公取委に電話して聞いた時、これらは適用されないと言っていましたが、市場に出回っているモノには再販品で有るマークが入っています。CDが登場した時もそれには適用されないはずだったのですが同じような手口でなし崩し的に適用品にしました。公取委も市場の流れで柔軟に対応すると言っていましたけどね。
LP は、レコードとプレーヤーの状態がともによくないと音質が悪くなる欠点がありました。「LP は CD よりも音がいい」というのは、ごく一部の環境でしか通用しない話だったわけです。小学校へ上がる頃、私の家にはレコードプレーヤーとラジカセがありましたけれども、いずれも CD プレーヤーに置換されて当然の音質だったことを覚えています。
MP3 も MD も、音質はそれほどよくありません。少なくとも、CD より悪いのは事実です。けれども、LP やテープよりはよかった。そして消費者(の大半)は、MP3 や MD 程度の音質で満足しました。CD をカセットにダビングすることに音楽メーカが鷹揚だったのは、明らかに音質が低下するため、ダビングテープで満足する人は少ないだろうという読みがあったからでしょう。CD 販売への脅威となるとは、あまり考えなかった。だから、MD 登場時には揉めました。素人はこの音質で満足するだろうな、ということが予想されたからです。MD メディアの価格に著作権料を上乗せすることで決着しましたが、続く CD-R の普及には愕然とすることになりました。
ところで、音楽業界が本当は DVD-Audio や SACD に移行したいと考えていることは、著作物再販協議会(第3回)議事概要[PDF]に端的に記されています。
- ウ 音楽業界の現状について
- (コピーコントロールCDについて)
- ○ レコード産業は1998年の約6000億円の生産額をピークに縮小しており,2002年の生産額は約4400億円となっているが,その原因として,主なユーザー層である若者が減少していることや,家庭内録音を逸脱したCD−Rへの複製などが考えられる。このようなCD−Rへの複製を防ぐために,昨年からパソコンでの複製を防ぐ機能を付加したCD(コピーコントロールCD)を発行するレコード会社も出てきている。
- ○ コピーコントロールCDの発行は,CD−Rへの複製を防ぐために進むべき方向として間違っているのではないか。デジタルコピーされたくないということであれば,DVDオーディオやスーパーオーディオCD(共に複製防止機能が付加されている)で発行すべきであり,再販制度の対象にしておきたいがためにCDと名の付くものに固執するのはどうか。コピーコントロールCDが再販制度の対象となる音楽用CDに当たるかどうかということも疑問である。
- ○ レコード業界としては,音楽データを書き込んで発行しているCDについてはCDであると考えており,コピーコントロールCDは再販制度の対象と考えている。コピーコントロールCDの発行は,DVDオーディオやスーパーオーディオCD等が普及するまでの過渡的な対応であると考えている。
- (有料音楽配信サイトについて)
- ○ 日本においては,レコードメーカーによる音楽配信事業が主体であり,米国のように独立系の事業者が展開している状況にはないが,今後の見通しはどうか。
- ○ 日本でも3年ほど前からメーカー,独立系ともに力を入れているが,日本には海外に例の無い音楽用CDのレンタル業者が存在し,消費者がコストや手間を勘案して,ダウンロードよりもレンタルを選択しているということではないか。日本でも音楽配信事業は徐々に広がっていくだろうが,この数年で大きく伸びるとは考えていない。
- ○ JASRACの昨年度の著作権料収入では,音楽配信の使用料のうち,約95%が着メロ,着うたによるものであり,一般の音楽配信はまだまだ少ない。
ご指摘の通り、音楽メーカは現時点において既に DVD-Audio へ(法的に怪しいまま)再販制度を適用しています。引用した発言は、CD のときと同様にこれが将来そのまま認められることを前提にしたものだろうと思います。
いずれにせよ、何事にも賛成派と反対がいるわけですが、公取委の議事概要には両者の意見がきちんと載っています。法案のような形で何らかの結論が出たときに、「**は**に牛耳られている!」みたいなことを書く方が世の中には大勢いらっしゃいますけれども、議論の過程で反対意見が出ていなかったわけじゃないよ、ということは知っておくべきですね。よく調べもせずに「偉い人たち」を侮辱しないで。
今回ご紹介した資料は公取委が主催した会議の議事概要だけに、輸入権問題における反対派の方々の溜飲を下げるような意見が、たくさん載っています。一読を勧めます。
あとDVD-audioはDVD-Videoの後から出て来た規格で専用のハードを必要とします。今発売されているDVDプレーヤはユニバーサルプレーヤと言う名のマルチ規格対応のプレーヤが主流になり問題は無くなって来ましたが、ちょっと前のDVDプレーヤではかかりません。それを改善すべくDVD-VideoベースのDVD-Musicと言う規格が制定されましたが、なぜかソフトがほとんど出ていません。
まあそのあたりは、いつもの「鶏が先か卵が先か」問題でありまして。あと、DVD-Music は端的にいえば DVD-Video そのものなんです。音質は DVD-Video と同じなんですね。とすると、ふつうの人は映像つきの通常の DVD コンテンツの方がいいと考えるのではありませんか。音質が同じなら、静止画より動画の方が受けるのではないか、と。「動画+音楽」の商品が「静止画+音楽」の商品とほとんど同じ値段だというあたりが、商品としての難点ではないかと思います。DVD-Audio なら「音質が桁違い」という売りがあるのですが。
ただ、CD を単純に置換するメディアとしての可能性はあると思います。DVD プレーヤーは十分に普及してきたわけですから。
今回の輸入権の問題で、私が一番疑問に思うのは環流防止策がいきなり水際で止める法律となる点です。現地のライセンサー(子会社の場合が多いみたい)は現地での販売のみと言う契約なのですから、それを守る義務が有るはずです。日本市場に影響を与える様な大量の輸出が有るならその流れを調査し、潰すべきなのではないでしょうか? そう言った努力をしていると言う話を私は知りません。
私は還流 CD の現状をよく知っているわけではありませんが、問題となっているのは海外で安い CD を仕入れて、日本へ輸入して売る業者でしょう。現地のライセンサーが日本へ輸出して儲けているという話ではない。現地のライセンサーは、確かに現地で商品を販売しているわけです。輸入業者が「私は輸入業者です。買った物を日本で売りさばきます」と自己紹介するはずもなく、現地のライセンサーには対処法がないと思いますが。
給料の話ですが、欧米の音楽産業従事者が他の産業よりも特に給料が安いという話は聞かないのと、物価もアジアと日本との格差ほどは無いのですが、現地ローカルなバンドのCDも世界的大ヒットのCDと同程度の価格で売られています。国によって差はありますが、高い消費税を入れても日本の1/2〜2/3位の値段です。これはどうしてでしょうか?給料の差では説明出来ないと思いますが?
アメリカ産の農産物の価格は安いけれども、アメリカの農家の収入は必ずしも少なくありません。けれどもそれは農業のやり方・環境が違うからであって、日本では真似できない(あるいは、諸般の事情との兼ね合いから農業のことだけを考えてアメリカ式を導入することを躊躇せざるをえない)。結果として出てくる価格と給料を単純に結ぶわけにはいきません。私は、現在の音楽環境を維持しつつ欧米並の値段は実現できない、といいたいわけです。仕事の仕方が違うのだから(参考)。
商売のやり方を変えれば、給料の維持と値下げは両立するでしょう。日本の農業が全滅したわけじゃないのと同じく。でも、それでいいのか、ということです。
ご本人がおっしゃっている通り、真剣に怒るほうがバカに見えてしまう
のだった。自分で「いや、バカに見えることはわかっていますよ」と主張したって、全然、バカっぽさはキャンセルされないんだな。でも、自分で批判を先回りしておいて、いいたいことを書くというのはズルくないの? 結果的に成功していないから「ズルくない」ってことにはならないだろうと思うわけ。ちなみに、私は基本的には「ズルいやり方」を肯定します。だから逆に、あえて「それはズルいんじゃない?」って、(皮肉を込めて)批判の道具にもするわけですけど。
「ズルい」という概念は、道具としてみると非常に便利です。相手の思い込みというか、固定観念というか、そのあたりに依存するわけですけれども、それは弱点であるというよりもむしろ強力なんですね。あえて詳細を語らないことで、汎用兵器として通用しますから。いやはや、「ズルい」ですねぇ。
真紀奈の掲示板で私の記事が紹介されているわけですがね。
音楽産業って一般消費者を対象としてる産業じゃなかったのかな?音楽ってだれのためのものなの?
消費者はいつだってケチで、未来のために投資することを考えない。少しでも安く済ませようと、悪知恵ばかり働かせます。消費者のいう通りに値下げをしていったら、日本の音楽産業は危機的状況に陥ります。
(中略)
自分にレスです。↑この理論でいくと「音楽産業」を「住宅産業」「自動車産業」「繊維産業」・・と置き換えても通用するとになるなァ〜
どぉお?
私がなぜ食物自給率の例を余談に持ち出したのか、ご理解いただけなかったようで。
値段さえ安くなればいいのである、と。特別にいいものなら、従来通りの値段でも買うけれど、ふつうの音楽コンテンツなら、どんどん買い叩くよ、と。そういうことをいっていると、日本の農業と同様に、日本の音楽産業も壊滅的な打撃を受け、立ち直れないところまでボロボロになりますよ、ということを私はいいたいわけです。
もちろん、そんなの知ったことか、という意見もありえますよ。食物自給率は低くても、日本人は食べ物に困っていませんからね。食べ物の値段が安くなって、世界中の食材が日本に集まって、たいへん結構な状況です。だから、むしろ日本の食卓は「よくなった」と思っている人が多いでしょう。でもね、私は「どんどんまずい方へと向かっているな」と考えています。目先のことだけ気にするならそれでもいいけどね、後悔することになりませんか? 私はどうしても気になるわけです。
日本は農業を捨てて、工業もどんどん海外へ出してしまって、大いなる空洞国家の道を歩んでいるわけです。ある程度は仕方ないですよ。でもね、欧米は基本的に国内の工場を最後まで守りきるつもりですよ。最小限度なりに。そして、農業は手放さない。死守しています。日本はどうなんでしょうか。まあ今更、農業を取り戻すのは無理でしょうね。もはや農業のために革命は起きませんから。工業はキヤノンなどが国内生産の死守を掲げて反転攻勢の機運がありますが……厳しいでしょうね。空洞国家への流れは止まらない。
文化産業は、最後の砦だと思います。映画はアメリカ映画に相当やられましたが、音楽はまだ、国内が強い。テレビと出版は国産品が圧倒的といってよいでしょう。「もういいよ、何もかも諦めようよ」という意見は、ある意味では正解のひとつかもしれないですよ。でも私は、その様な未来を信じません。だから、文化産業を消費者原理で開放してしまうことに賛成しません。
ようするに、fan さんの指摘は「その通り」だと思います。「音楽産業」を「住宅産業」「自動車産業」「繊維産業」・・と置き換えても通用する
のです。で、fan さんは市場原理(ここでは消費者原理の意味)にすべてを任せることが、消費者のためになると思っていらっしゃる。争点はここです。私は、目先の利益に目が眩むと、結局は消費者が後悔することになると思っているのですよ。音楽産業の利益は、究極的には消費者の利益になるはずだ、と。
日本の2大 blog サービスははてなとココログだという「定説」があります。ある意味、正解。ただし広義の blog サービスでは、じつは楽天広場が最強なので注意した方がいい。
非常に単純にいうと、頂点の高いサービスは裾野も広い(注:この説の単純である所以は、導入の手間と例外的存在について何も考えていないこと。頂点の高さだけをいうと利用者の少ない MT が最強になってしまうし memorize も yukimasa の異常人気で過大評価されてしまう/まあ、何を持って最強というか、という問題はさておくとしましてですね/あと MT 自体は「サービス」の名称じゃない)。
はてなのトップは恐がりで、1日約3000人が楽しく読んでいます。楽天広場のトップはリンちゃい(旧:夏令震)のお部屋で、1日約2万ページビューですから、3分の1としても1日7000人以上が読んでいます。他にも1日1万ページビュー突破サイトが複数存在しているので、ちょっと一巡りしてみると面白いのではないでしょうか。
「な、なんでこんなサイトが!?」と発狂しそうになる人もいるかも。少なくとも、「こんなホームページは嫌われる」とか「ユーザビリティーが云々」といったことは、アクセス数とあまり関係ないということは、よく理解できるでしょう。
もう半年以上書き込んでいないからカミングアウトしていいと思うのだけれど(←どういう理屈だ?)、山田BBSの blog スレ(初期)で「あれもこれもウェブロと呼べばいい」といっていた一人は私です。
だから、以前にウェブログ@ことのはで山田BBS的ウェブロ概念を当てはめるならさるさる日記もウェブログ
と説明されたときには、思わず苦笑いしたものでした。少なくとも私にとって、それは「高度に政治的な発言」だったわけで。(もっとも、私の書き込みは片手で数えられるほどなので、私の発言の有無によらず流れは変化なかったでしょうけれども)
波状言論は東浩紀さんが中心となって発行されている有料メールマガジンです。執筆陣の顔ぶれを見て興味を抱いた方なら、読む価値があると思います。
ただ、私の唯一最大の不満はバックナンバーが読めないことです。課金がいろいろとネックになっているようで、発行に際してもずいぶん苦労されていました。無料のメルマガなら事務作業は気楽なのでしょうが、有料となりますと、「誰が入金したのか」「入金した人に確実に届いたのか」というチェックが必要ですから。で、私が思うのは、なぜまぐまぐを使わないのか? ということです。
手数料を取られるのがそんなに嫌ですか。あるいは、自分のところでやったら、そんなにいいことがありますか。4月からは個人情報保護法にも対応しなければならないわけで、個人(と有志)が独力で有料メルマガをやるなんて、つまらないと思うのです。事務経費を考えたらまぐまぐの手数料はよほど安く、そしてユーザにも大いに利益があるのです。今すぐ、過去ログを買えるようになりますからね。
波状言論は最近もまた配信ミスをやらかしたわけだけれども、便利なサービスにわざわざ背を向けて、何をカッコつけているのか、と思うのだった。
日本では CD アルバムの定価は約 3000 円が相場となっています。しかし、海外で日本の音楽メーカが販売している同種の CD の価格は 550〜1600 円程度なんです。本当は日本と同じ価格で売りたいところですけれども、それではあまりに値段が高すぎて、海賊版を封じ込めることができません。
海賊版対策には大きく2つの方向性があります。ひとつは、摘発です。しかし、禁酒法の失敗を例に引くまでもなく、強烈な需要が存在する限り、海賊版を十分に減らすことはできません。そこで、正規版を廉価販売することになります。当然、メーカの儲けは期待できません。しかし、「海賊版を買うのが当たり前」という風潮を放置するよりはマシです。そういった空気は、究極には音楽産業を壊滅的状況へと追い込むことになりますから。
というわけで、最近10年ほどの間に日本の音楽メーカはアジア地域を中心として、現地向け価格での正規商品投入に精力的に取り組んできました。
そこで問題となりつつあるのが、海外向け邦楽 CD の還流です。海外向けの正規商品は、国内向け商品と比較してたいへん安い値付けになっていることを既に説明しました。ここに金儲けの種があることは、誰の目にも明らかです。そうです、海外向け CD を輸入して国内で販売すると、とても儲かるのです。日本の音楽メーカは、これではたまりません。国内で利益を確保していることを前提として、海外販売では海賊版追放のために(未来の音楽市場を守るために)廉価販売しているのです。国内で安く売られては商売になりません。
文化庁と公正取引委員会は昨日、与党に著作権法改正案の骨子を示しました。新聞報道によれば、ほぼ1月14日の答申にある通りの内容です。
- 「書籍・雑誌の貸与」に係る暫定措置の廃止
昭和59年に,「書籍・雑誌の貸与」については,当分の間,貸与権の規定を適用しないとする「暫定措置」が設けられたが,新たなレンタルブック店の出現により大きく環境が変化し,「書籍・雑誌の貸与」による著作権者への経済的影響が大きくなってきていることなどから,この「暫定措置」を廃止し,「書籍・雑誌の貸与」についても,著作者の権利が及ぶこととすることが適当。
- 「日本販売禁止レコード」の還流防止措置
日本における販売を禁止することを条件に,アジア諸国等でライセンスされた日本よりはるかに安い日本の音楽レコードが,日本へ還流してくるという問題については,日本の音楽産業の国際展開や音楽文化の海外への普及を積極的に図る環境を整備するため,還流防止措置を導入すべきといった積極的な意見や,欧米諸国の音楽レコードの輸入にも影響を与える可能性があるといった現段階での導入に慎重な意見など,様々な意見が見られたが,日本の音楽レコードの還流防止のため何らかの措置が必要であるという意見が多数。
具体的方法論については,欧米諸国等の音楽レコードに対する影響や他の著作物等への拡大を懸念するなどの慎重意見を踏まえた検討が必要。
これに対し、消費者原理主義が主流のネット世論は総スカン、例によって少なからぬ弁護士がその流れに同調して政府を批判している、という状況です。
著作権法改正案では、音楽メーカが特定地域のみでの販売を希望する商品を他地域で輸入・販売することを禁じようとしています。そこで懸念されることは、例えば北米向けに販売される CD が国内の音楽店で買えなくなるのではないか、ということです。みなさんご存知の通り、DVD では既にリージョンコードによって先行実施されていることなので、音楽コンテンツも同様の展開を迎える可能性は高いといえましょう。いや、大丈夫だということを審議会委員の方は発言された由ですが、もちろん裏づけなどありません。しかし、そういうことをいわないと日本の消費者は納得しない。政治的、戦略的な発言だと思います。
私は、DVD のリージョンコード導入に賛成です。日本では日本向けの価格で、アメリカではアメリカ向けの価格で、アジアではアジア向けの価格でコンテンツが販売されるのは、結局のところ文化保護のために必要なことだと考えるからです。CCCD 問題は、端的にいえば DVD-Audio がいつまでも普及しないために起きた、(本来ならば)過渡期の問題に過ぎません。音楽コンテンツの流通を複雑にしているのは、CD がいつまでも市場に居座っているからです。予定通りに DVD-Audio への移行が進んでいれば、なし崩し的に還流は禁止され、不正コピーも困難となっていたはずです。
CD は簡単にコピーできます。そして、世界中のどのプレーヤーでも再生できてしまう。消費者の目先の利益だけ考えれば、これは素晴らしい特質です。しかし消費者はいつだってケチで、未来のために投資することを考えない。少しでも安く済ませようと、悪知恵ばかり働かせます。消費者のいう通りに値下げをしていったら、日本の音楽産業は危機的状況に陥ります。
データコピーやデータの送信が当たり前になった世の中には、それに沿った現実的な課金制度が模索されるべき
といった意見は、いいことをいっているようで、じつは破壊的主張をきれいな言葉で飾っているに過ぎません。そもそもデータコピーやデータの送信が当たり前
なら、課金制度は崩壊するに決まっているのです。お金を払いたい人だけ払えばいい、みたいなことになれば、ほとんどのアーティストは生きていけません。ひょっとして、「音楽が本当に好きならお金に執着する必要はないんじゃないの?」とか素朴に考えていたりしませんか。
MP3 のような低音質で満足してしまう庶民に圧倒的な高音質をアピールしても無意味だということ。
基本的に、CD audio は CD-R が普及した時点で「終った」技術です。誰でも簡単に原本と同等のコピーをできてしまうような媒体で、まともにコンテンツを売れるわけがない。だから DVD-Audio への以降は業界の死活問題だったわけです。ところが、消費者は CD が便利なものだから、DVD-Audio への移行なんて微塵も考えちゃいない。バカに立派な道具を与えるとこういうことになる、という典型的事例です。
300円でレンタルしてきて50円の CD-R に焼く。それが可能だとわかったら 3000 円出して CD を買うのがバカバカしくなるのは道理です。そりゃあ、今でもミリオンヒットになる曲はありますよ。でも、「CD を定価で買ってもいいかな」と思う心理ラインが低下したら、現在の音楽環境は維持できません。
値段を半分にしても3倍売れればいいじゃないか、みたいなことを仰る方がたくさんいらっしゃる。けれども、趣味で音楽をなさっている方ならわかると思う。半額にしたって、倍も売れやしないって。体力を削る消耗戦にしかならないのです。
最近の実例を日経エンタテインメント2004年2月号から引きましょう。クリスタル・ケイの「4 REAL」はチャートの初登場4位、発売2週間で17.3万枚の売上です。前作はチャート初登場2位で最終的に30万枚を突破しましたから、売れ行きは落ちているように見えます。ところが、前作は特価 2400 円だったのに対し、本作は通常価格の 3059 円なんです。だから、発売2週間の時点で販売金額は前作の2か月分に並びました。単純に比較することはできませんが、「適正価格」について考える一助にはなるでしょう。
高速道路の値下げ試験の結果も、似た傾向を示しています。値下げすれば通行料は増えますが、結局、総収入は減ってしまうのでした。むしろ値上げした方が総売上は増えるのです。需給バランスの示す「適正価格」は、もっと高かったわけです。消費者は自分勝手なので、そんなことはお構いなしに「値下げしろ」とばかりいう。しかしその通りにしたら、道路公団はすぐに破産します。そして、巨額の借金が残る。同じことは音楽コンテンツについてもいえるだろう、ということです。
音楽メーカは儲かっている、と思い込んでいる方が多いですけれども、世の中にボロい商売はそうそうあるものではありません。「アーティストより会社の取り分が多いなんて!」とはあまりに単純な物の見方であって、数少ないインディーズCDの大成功例を一般化してはいけません。たしかに音楽メーカは、一見無駄なように見える大勢の社員を抱え、その中には高給取りの者もいます。しかし、メジャーを離れて以前と同じように成功し続けているアーティストがいかに少ないか、その現実を見つめるべきです。
音楽メーカの社員は、決して遊び暮らしているわけではありません。
編集者が無能な漫画雑誌は売れません。持ち込み原稿だけで食っていける作家も、滅多にいません。(ほとんどの)作家は、独力で原稿を仕上げているわけではないのです。編集者とは、原稿をただ黙々と本にし広告を打つ仕事ではありません。音楽だって、同じです。アーティストがいれば勝手に音楽が生まれてくると思ったら大間違いなんです。いや、そういう幸運な例がないとはいいません。しかし、それは例外なのです。
「自分の信じる音楽を一筋に追求します、商業的成功は望みません」みたいな考え方を「カッコいい」と誉めそやす、妙な芸術信仰をやめるべきだ、と私は思う。そういう音楽はあっていい。ただ、商業芸術に心奪われている消費者がそういうことを口にする様を眺めるとき、私はふと「罰当り」という言葉を思い浮かべます。
日本の音楽メーカの従業員は日本人ですから、日本人並の給料をもらって仕事をします。でなければ、日本で音楽業界に勤めようという人はほとんどいなくなってしまうでしょう。日本の CD が、少なくとも国内価格において海外メーカの CD よりも値段が高いのは、ある意味当たり前のことです。
アメリカというと自由貿易推進の旗手のようにいわれますけれども、実際には産業保護に多額の税金を注ぎ込んできた歴史があります(とくに農業の保護に関しては異常)。勝ち組になった途端に「自由貿易!」と言い出すのがアメリカなんです。あれほど、いっそ清々しいまでに身勝手なことをいう国はない。
何でも規制緩和がいいんだ、値段が下がればなんだっていいんだと、そういうことをいってきたから日本の食物自給率はボロボロになったのです。農家の収入は必ずしも少なくありませんが、諸経費を引いた残りは雀の涙です。日本で農家をやっても、ホントに儲からない。努力が足りないという人は多いけれど、現在ありうるビジネスモデルとして紹介されるのはいずれも「高付加価値商品の生産」であって、日本の食物自給率を根本的に改善する方策は何もないのが現実です。
大根1本200円を高いという人に、「じゃあ200円あげるから大根作ってくださいよ」なんていっても仕方ないのですけれども、暴論はともかくとして、農産物の値段がこれだけ下がってもまだ文句をいう人がいるのは理解し難い。それが消費者というものだ、といえばその通りだけれども、それを諦めたら食物自給率は回復しない。
ニュースや解説はバーチャルネット法律娘 真紀奈17歳がわかりやすいように思います。ちなみに真紀奈さんは、今回の改正には反対の立場です。どうもネット言論というのは、一方の声ばっかり大きくなりがちです。今回の私の記事は、例によって「一石を投じる」こと自体が目的の大半であります。
ところで、私は今回の改正案を支持しますが、国会審議において反対派のとりでとなると思われる資料をご紹介します。
レコードの再販制度が必要な理由によると、再販制度は直接には地方の中小レコード店を守るものだという。しかしもちろん、中小レコード店の保護は日本の音楽文化を守るという大目標を達成するための手段に過ぎない。
特許というのは、確かに公開されているものだけれども、それを見たからといって誰でも簡単に真似できるとは限らない。ソフトウェア関連の特許には暗いので、機械系の場合についていうと、特許を読んでその通りにやってみても、思うような成果が上がらないことがほとんどです。なぜなら、特許に記載されている事例は、特許に書かれていない様々なノウハウや、他の特許との組合せによって実現されたチャンピオンデータだからです。
まして、特許技術を利用した製品となると、同等の物を作るためには大変な困難が待ち受けています。
Windows のソースが流出してもしなくても、たしかに Microsoft 社の特許は公開されています。けれども、機械系技術者の常識からいわせていただくと、公開されたその特許だけ読んでも、真似するのはそう簡単じゃないわけですよ。実際に、それをどう製品に組み込んでいるのか、実物を調べることができるか否かは大変重要なことなんです。だから、ソースの流出は特許技術の流出という観点からも Microsoft 社にとって痛いのではないか。実装方法が明かされたら、全くそのまま真似すれば簡単に盗むことができますから。
なので、民生品はどうしようもないですけれども、産業向けの製品はライバル社が簡単には購入できないよう、策を練るものです。中間業者に最終ユーザを把握させて、売ってはいけない相手に間違って売ることのないよう注意します。もちろん中古業界までは(十分には)管理できませんから、ザルといえばそうなんですけれども、企業が厳しい姿勢を見せることは、有形無形の歯止めとして機能するんですね。
ところで、プログラムの場合はソースを見られたら全部見られたも同然かもしれませんが、工業製品の場合は設計と製造の現場に最後の秘密を持ちます。このことが、特許と製品を公開しても、そう簡単には真似されないという根拠となるわけです。
水冷パソコン第1号は NEC から発売されましたが、採用したシステムの基礎技術は日立のものです。ではなぜ、製品化はライセンスを買った NEC の方が先だったのか? 製品化に必要なノウハウの構築において、NEC が素晴らしい成果をあげたからです。これは、特許の製品化が簡単でないことを示す一例ではないでしょうか。
次のターゲット
って。久々にこういう予告を受けたなあ、と思う。
Webmonkey といえば、アメリカ流の饒舌な語り口が楽しい解説サイトです。ただ細い回線では重たくってしょうがないので、日本語版を約1年前にまとめてダウンロードしました。テキストとふつうの画像だけなのに 100MB にもなって、これを全部読むのは無理かなあ、と思いつつ、8割方は目を通したものでした(みんな頭に入ればなあ……)。
米国の本家 Webmonkey が突然、終焉を迎えたとのことですが、これもまた一時代の終わりを感じる出来事です。(というか、90人もスタッフがいたんですね。凄い!)
たまに全面的リスペクトのコメントつきでリンクされると吃驚します。微妙に忘れた頃に出くわすので、なかなか慣れません。まあ、慣れてしまったら、よくないことが起こりそうですけれども……。
ということとは全然関係ない話をメモ。
私がテキストを書く理由を読んで、ちょっと意外に感じました。Yas さんは物議を醸すような話題を積極的に取り上げていて、私が見ただけでもあちこちで疑義を提出されていて大変なんですけれども、基本的にそれらに対して個別具体的な返信をしないできたわけです。なかなか、そういうのって難しいんですよね。全員に反論するのは無理でも、目に付くところから何か一言いいたくなるものでしょう。まして、弁の立つ方なのだからなおさらです。
ところが今回、おっ!?反応あり?という記事で Vins-T さんが提出した疑問にこたえているのです。たしかに少々、回答の枠を飛び越えた部分はあります。けれども、基本線は枠内です。だからなんだというわけではないのですが、「へぇ〜」と思ったという次第。(「へぇ〜」ってどういう意味なんだ、とか聞くのはナシ)
いきなりですが、オフ会(?)をやろうかと思います。
高校時代の友人が今年、大学を卒業するんです。で、美術館で卒業制作を展示しているわけなのですが、千葉はさすがに遠すぎて誰も一緒に行ってくれる人がいない。というわけなので、オフ会(?)やります。ということにしてみます。
私以外の参加希望者がいなくても、天候が雨でも雪でも決行されます。
また、本当に午前10時にお出でいただける方がいらっしゃるとは予想していなくて、まあ、時間内のどこかでお会いできればいいかな、くらいに思ってます。当日は PHS の電源を入れておきますので、飛び入り参加を歓迎します。ただ、よろしければ事前にご一報いただけると嬉しいです。
午後4時以降の予定は白紙というか、粛々と東京へ帰るつもりでいます。
私は当日、スーツを着ています。でも、参加者の方の服装は何でもいいと思います。
→ご連絡フォーム(ご参加の連絡に関しては、原則、内容を非公開としますのでご安心ください)
今は亡き徳保スレの元住人の方に、一番お会いしたいです。もちろん、その他の方も気兼ねなくご参加ください。(たぶん、平凡な人間の平凡な話が聞けます)
最近では冬季スポーツ、スノーボードの「ハーフパイプ」が「HP」と表記されているのをよく見かけますね。
「Windowsのソースコードの一部が漏出したとすれば、それはセキュリティの面よりも、むしろ知的財産権の面で問題となるだろう」(Microsoft)
という記事について、essa さんはMSが「知的財産権がうんぬん」とか言っているのは、普通に解釈するとそういう意味になる。どういう意図であっても見たらだめ、見たら目がつぶれるよと言っているようなものです。
とおっしゃっています。でもそれはおかしいだろう、と思うわけです。そもそも、いったい何の罪に問われるのか。だからつまり Microsoft が心配しているのはそういうことではない。
ふつうのソフトウェアのソースは秘匿されています。SCO が裁判に苦労したのは、「盗まれたコードをなるべく開示したくなかったから」というのがひとつ大きな理由でした。コードのすべてに特許があるわけではないので、せいぜい著作権程度でしか権利を守れない部分が多々あるわけです。すると、特許にならない様々な工夫は、ソースを開示するとみんな盗まれてしまうわけです。ある程度書き方を変えれば著作権の侵害にならないわけですから。
Microsoft 社は業種と企業の規模の割に特許の出願件数が少ないことで有名です。その膨大で巨大な製品群はブラックボックス化され、秘密のノウハウがたくさん詰め込まれています。ノウハウは非公開なので、特許法による保護の対象外です。見せてしまったらお終いなのであって、Microsoft 社にとっては大変なことになったものだなあ、と思います。
また少し別の観点から。ふつうのソフトウェアのソースは秘匿されています。そして、逆コンパイルも禁止されています。すると、特許を取得している部分についても盗まれかねません。具体的な実装方法を簡単に盗むことができて、しかもバレにくいわけですから。これは Microsoft 社にとって致命的な問題となりえます。
Microsoft がいっているのはようするにそういうことに対する懸念の表明だろう、と私は解釈しました。いずれにせよ、「これくらいならいいだろう」と言い訳しつつコードをちょっとずつコピーする癖のある方は、危なっかしいので流出したソースを見たりしない方がいいと思います。ひょっとしたら、そのために特許侵害の罪に問われて会社が倒れるかもしれないわけで。(書き方を変えて著作権法違反を逃れたつもりでも特許には抵触しているかもしれません)
「スタイルシートWebデザイン」から6年経って、今頃ようやく CSS をまともに使う人が増えてきました。で、「スタイルシート スタイルブック」のサポートサイトを見ると、知らない人が大勢で何か書いていらっしゃる。blogmap - スタイルシート スタイルブック経由で言及サイトを巡ると、サポートサイトのライターは「豪華なメンバー」らしいのですが、私は著者も含めて一人も知りませんでした。いつの間に、こんなコミュニティが成長したんですか?
私が考える豪華なメンバーといったら Piro さんと野嵜さんを外すなんて考えられません。けれども、時代は旧来のコミュニティなどまるで存在しなかったかのように動いています。
antipop にここを御覧の方がいたらその辺界隈で一本企画をアレしていただきたいなぁ
とありますが、昔からそういう声があるのに一向に実現しない。で、CSS に関してはポッと出みたいな方が本を出してしまう。昨年の9月28日に書いたことと重なるけれども、結局、日本のテキストサイトやウェブ日記の文化は(少なくとも出版ルートでは)米国流の Weblog に席巻されました。一方的に攻め込まれて、日本の文化は全然、米国には伝播しない。その流れで CSS も一気に普及してきたのですが、どうも釈然としません。
旧来の CSS コミュニティは長らく、出版の世界でテーブルレイアウトを教える正体不明の無名ライター陣に完封に近い負け方をしてきました。人脈の問題なのか他の問題なのかよくわかりませんけれども。ぼくたちの洗脳社会流にいうなら、自由洗脳競争に敗北を重ねてきたわけです。最近ようやくその主張が世間に受け入れられつつありますが、最前線で派手にやっているのは何故か新参勢力です。「今まであなた方はどこにいたんですか?」と私は問いたい。
Weblog の波がきて、よくわからない個人テキストサイトの書き手がどんどん台頭してきたときにも「え〜!?」と思ったものですが、こういった経歴不詳・実力不明の新参勢力が突然現れて勝ち組になる過程というのは、何度見ても納得がいかないというか、不気味な感じがします。いずれにせよ、市販の HTML や CSS の解説書に厳しい突込みを入れてきた旧来のコミュニティから、本の著者どころか編集者も監修者も誕生しなかったという現実には忸怩たるものを感じます。神崎先生も大藤さんも今村さんも、見ている場所は近くとも立っている地点は離れていたわけで。
もちろん私こそ、「何でお前のサイトが200万PVに達するわけ?」と問われて首を傾げるしかない実力不足の新参者です。けれども、私に CSS の素晴らしさを教えてくれたのは旧来の CSS コミュニティ(あるいは某方面、さらにその周辺)でした。ギリギリ、そういうタイミングで入ってきた人間なんです。だから、せっかくいい時代になりつつあるのにコミュニティがひっそりと歴史の宵闇に埋もれつつあるような雰囲気に見えることを、私は寂しく思います。
昔、大沢在昌は2刷のかからない作家でした。それでも10作以上もコンスタントに本が出続けたのは、狙い通りの部数はきちんと売れたからでした。大商いはできないけれど、計算できる作家だったのです。どうなんでしょう、CSS コミュニティのファン層では 2000 部を計算できないのでしょうか。無理なのかな。さすがにお金を出してもらうとなると。CD-ROM 中心の構成だったら本体も薄くできるし、何とか……ならないから、本にならないんでしょうけれども。まあどのみち、そういう発想で本を作ると同人誌と一緒じゃないか、という話になってしまうわけですが。
「思ったような未来がやってこなくてつまんない」という駄々っ子のような、しかも端っから他力本願の意見なんですが、どうしても一言、書いておきたかった。
「スタイルシート スタイルブック」著者の長谷川さん本稿と対になるような記事を書いていらしたので、ご紹介。長谷川さんご自身が明に暗に認めていらっしゃる通り、技量に優れているから本を書けたわけではない、ということ。いつものことです。ただ、出版社が次第により良いライターを選ぶようになってきたのでしょう。だから、最近は比較的まともな解説書が増えてきました。これから次第に、良いライターがダメなライターを駆逐していくものと信じます。
とはいえサポートサイトを見ると、何人も参加しているプロの技能の低いことに気づかされ、やはり暗澹とした気分になります。森田雄さんが精力的にコメントを寄せていますが、素人目にもはっきりと技能の差が見えます。エンジニアにやさしいデザイナーになるためにのコメント欄でのやり取りは、埼玉で、フリーでWeb制作をしてい
るというふうりさん(Webふぉれすと主催)と、この道では超一流のビジネスアーキテクツとの埋めがたい格差を残酷なほど明らかにしていて、「これでもプロとして通用してしまうんだよなぁ」と考えると気が滅入ります。
昔から雑誌の記事も解説書の内容も、HTML と CSS に関してはダメダメなものがたいへん多かったのですが、紙面でしかお名前を拝見しない内は、「遠くの人」のやることだからというので感情を遮断することもできました。けれども、最近の若いプロは無用心にも身分を明かして Web サイトを運営なさっています。で、そういう「身近なプロ」が適当なことを書くのを見ると、何だかがっかりするのです。一言、二言いわないと気がおさまらない。
しかしその一方で、じゃあお前は何者なんだ? ということを考えます。そして、トーシローでしかないことを再確認します。そして、ああ、これが苛立ちの最大の原因なんだな、と思います。趣味は趣味でいいんです。ただ、できることなら、プロは素人なんか相手にならない凄い存在であってほしいんです。私ごときに言い負かされてしまうのでは困る。困るったって、それが現実なんだから仕方ないのですが、しかし……ならばせめて、謙虚であってほしい。プロであることに、恐れを感じてほしい。「なんちゃってプロでーす。でも仕事はあんまりできませーん。えへっ」みたいなのは、謙虚とはいいません。これこそ、傲慢というものでしょう。なのに、なのに……。
かつて私は Piro さんの CSS デザインに感動しました。こういう話を書いていると、当時のことを思い出します。そして感傷的にな気分になるのです。
「リンクするのはいいけれど、基本的には転載を推奨します」ということを私は繰り返しいっているわけですが、リンクだけで済ませようとなさる方が多いですね。私はローカルのファイル構成とサーバ上のファイル構成を同じにしていて、ローカル側の都合で WWW に公開したリソースの URI をしょっちゅう変えています。当然のようにあちこちでリンク切れが生じているわけですが、私は頓着しません。私は困りませんから。ファイルを移動した本人だから、消えたファイルがどこへいったかわかっているのです。
リンクした人は困るのかもしれませんけれども、「だから転載推奨っていったでしょ」という話。
もともと私はあまりサイト内の関連文書を相互リンクしていないのですが、これも同じ理由です。リンクする必要がないんですね。検索もローカルでやった方が絶対に早いし高性能だし簡単だから、サイト上に検索機能を構築する必要を微塵も感じません。
私は一人で日記を書いていると(「自分のためだけに文章を書くのは面倒くさすぎる」ため)どうしても続かなくて、仕方ないから「誰かが楽しみに読んでいるんじゃないか」という妄想を抱ける環境として WWW を選んだわけです。結果的に、こうしてたくさんの文章を書くことができて満足なんですけれども、逆にいえば既に満足してしまっているわけです。だから、これ以上ですね、読者のために何かしようとは思わない。そうする動機がない。ないがしろにするつもりはないのです。ただ、最低限のサービスは既に提供しているつもりです。「これ以上を望むなら、手間を惜しまないでください」といいたいわけです。
リンク切れを起こさないようにするのは面倒なんです。あらかじめうんと考えて、リソースの移動をなくすよう努力しなきゃいけない。移動するならするで、サーバ側で自動的に移動先を参照させるよう htaccess なんかを記述しないといけない。そういうのは面倒だから、私はやりません。その代わりに「著作権を主張しない」わけです。リンクせずに転載すればいいでしょう、と。誰かが手間をかけなければ、リンク切れはなくなりません。といっても、ふつうはリンクする側に対処法がないのですが、例えば私のような著作者が増えれば、そういった状況は変化しますよね。
ユーザビリティとかアクセシビリティといった話になると、たいていコンテンツ製作者がどこまでも苦労していく話になっています。それはお客様が神様だからです。けれども趣味レベルの話であれば、お客様は神様じゃなくて、製作者と持ちつ持たれつの関係です。利用者に主導権を渡して、「どうぞ好きにしてください」というやり方もできるということです。
例えば「転載自由」ということによって、製作者は気兼ねなくサイトを閉鎖できるようになります。私は記事の公開をやめたくなったら、公開をやめます。でも、転載者は転載し続けたらいい。新しい記事が公開されない、ということを悲しむ人のことは気になっても、古い記事が消えて怒る人には強気でこういえるから。「怒るくらいなら、転載しておけばよかったのに。自分は何の苦労もせずに、手間もかけずに、勝手なことをいわないでほしいな」
私は基本的にこういった考え方をするので、「CSSは文法違反にならないように記述してあればそれでいい(仮に問題が生じても閲覧者は製作者スタイルシートをユーザスタイルシートで上書きできる)」とか、「音楽を鳴らしたい人は鳴らせばいい(それが嫌な閲覧者は音楽を無視するように設定すればいい)」などと説明します。
ここはそういう意見が読めるサイトです。云々。
クリエイティブコモンズの用意する11種類のライセンスのうち、もっとも使用条件の緩やかなのがシェアアライク 1.0(二次的著作物の同一条件許諾)です。当サイトの条件はさらに緩いので、補足事項を添えつつ、あらためて解説します。
ようするに「何をしてもいいけれど、その場合、私は徹底的に無責任を貫きますよ」ということです。私の著作物を商用目的で転載・改変してもいいのはもちろんのこと、転載・改変者が「これは私の著作物です!」と主張することさえ要求しています。CCでは原著者の定めたライセンスにみな従うことが要求されますが、私はそれを要求しません。
すると、同じ著作物が当サイトでは「転載OK」として、別のサイトでは「転載不可」として同時に公開されるのみならず、同じ著作物について複数の人物が著作者として名乗りを上げることになります。それで混乱は起きないのか? ということですけれども、私はここで日本の著作権法を援用したいと思います。結局のところ、本当の著作者は私です。そして著作人格権は放棄することができません。つまり私の要求は虚偽表示の強制なのです。
著作権法違反は親告罪です。そして、真の著作者である私は訴訟を起こしません。よって、転載・改変者が「無断転載禁止」と書いても、みなそれを無視していいのです。転載・改変者が私を差し置いて訴えを起こすことはないでしょう。けれども転載・改変者が「無断転載禁止」と書けば、原本である当サイトをご存じない方は、基本的にそれに従うでしょう。また、少なくとも改変部分については改変者の著作権があるわけです。だから、「無断転載禁止」といった表示は無意味ではありません。
あ、ずるいなあ! って思われましたか。無責任になりたいといいつつ、いざとなると権利をガッチリ主張して。……でも、みんな杞憂だと思いますよ。もともとこれは当サイトが趣味の個人サイトであるという前提の上でやっていることですから。「All rights reserved.」なんて書いているサイトが世の中には少なからずあるわけで、そういうサイトが当サイトの記事を転載してもその手の表記につっこみが入らないようにしたい、というのが当初の意図(の一部)だったりします。今にして思えば、それこそ杞憂のような。
まあ私の書いた記事なんてのは大したものじゃないので、権利だなんだということを考える方が無駄ですね。しゃかりきになってみても、権利を守るコストが守られる権利より大きい。そんな考えも背景にあります。(こういう考え方は、しばしば有用です)
内容も翻訳も不満ない。まあ本を読むたびに異論、異説をいいだしたらきりがないので、そのあたりは適当に省略。ただしひとつだけいいたいことがある。本書のデザインを担当した者は切腹すべし。装丁も、もうちょっとどうにかならなかったのか。ようするに編集者がダメなので、読みにくくて仕方がなかった。
副題に「正しくやさしいCSS入門」とありますが、まったくの初心者には「HTMLとスタイルシートによる最新Webサイト作成術」などの他書をお勧めします。本書はHTMLとCSSをある程度かじっているけれど、今ひとつピンとこない「万年初級者」の方に最適です。転機の一冊となるでしょう。
「少しはわかっているつもり」の人のほとんどが、じつは「HTMLってどう使うべきもの?」「CSSデザインの利点って何?」このたった2つの質問に、見当はずれの(あるいは不見識な)答えしか返せない。わかっているようでわかっていないのです。そのままでは皮相なTipsの知識しか増えず、いつまでたっても標準化の利益を享受できません。本書はHTMLとCSSの効果的な利用法を提案しますが、意欲的な解説方針が素晴らしい。HTMLとCSSの本質に迫り、正面突破を狙っているのです。
本質的な解説には「スタイルシートWebデザイン」「戦うWebデザイン」「ユニバーサルHTML/XHTML」など先人の金字塔が存在します。しかしそれらはいささか内容が高級に過ぎ、前提知識の要求が厳しく、あるいは網羅性に欠けるなど、中級者向けの内容でした。本書は違います。網羅的に織り込まれたキャッチーなテーマの数々、フルカラーの美しいデザイン、必要以上に深入りしない平易で簡潔な解説、豊富な実践例、実用的なアイデア集……と、初級者にやさしいのです。
ところで、初心者向けのCSS解説ではHTMLの解説を避け安易にdiv要素、span要素を用いるケースが多いのですが、真に実践的な解説に挑んだ本書の著者は難題から逃げていません。HTMLによる文書の構造化を丁寧に解説しており、高く評価できます。なお、本書は豊富な内容を簡潔に扱っているので、HTMLの文法やCSSの詳細なリファレンス、Tipsなどは他書で学ぶことになります。
……というレビューをAmazonに投稿しました。約1週間後には掲載される予定。ずいぶん誉めているけれど、実際、いい本だと思います。ただ、初級者向けの本には違いないので、よく勉強されている方が新たな知見を得ることはほとんどないでしょう。
ゴーストライターの存在を赤裸々に明かしている評論家といえば岡田斗司夫先生。奥様が先生の喋った内容を文章化して、先生は書き溜められた文章を並べ替えたり修正したりして本にまとめていらっしゃるのだという。どの本もそうだということではないのだけれど、少なくとも最初期の何冊かはそのような手順を踏んで作られたという。このエピソードが印象深く、どの本を読んでも机に向かう奥様の絵が頭に浮かんで仕方ない。ちなみに、対談本「マジメな話」の最後のゲストは奥様だし、文庫版「オタクの迷い道」の解説も奥様が担当されている。
何となく意識的に「先生」とか「奥様」とか書いてみた。
おかげさまで当サイトでも、製作者スタイルシートを「適用しない」設定を cookie に保存できるようになりました。まあ JavaScript を無効にしている私自身にとっては、あまり関係ない話なんですが……。
ついでにご連絡。しばらく前のことですが、Info をあちこち書き換えました。中でも電話連絡とアクセス解析に関する記述を大幅に変更しておりますので、気になる方はご一読ください。とくにアクセス解析の項目には要注意。当サイトのプライバシーポリシーは、よそのサイトとまったく異なります。端的にいえば、私はアクセス解析の全結果を公開ディレクトリに置いています。例えば、当サイトへアクセスした方の IP アドレスの一覧は誰でも閲覧できるということです。
お金を貸しても借りても、すぐに忘れてしまう。だから、お金はできる限り、借りない。借りるときには、返さなくていいくらいの額にする。
「貸して」といわれると無尽蔵に貸してしまって昼食代に困ったりするので、最初からお金を持ち歩かないよう注意する。その内に誰も借りにこなくなる。
あと、カードで買い物しない。
というか、私はデザイナーが嫌いなんだと思う。中学と高校では美術部で楽しくやっていたんだけど、なぜか(いわゆるいかにもそれっぽい感じの)デザイナーが嫌いになってしまって、この備忘録でも何度か目に付いたネタにしている。
デザイナーってのはやくざな商売だというけれど、(少なくともこの方に限っては)ホントだな、と思った。
ふつうの堅気のサラリーマンは、本名出しているWebサイト上で、名指しでお客様の批判はしない。そんなことしてたら、食っていけないもの。
長谷川 恭久 さんの著書はお勧めですが、Webサイトの記事には要注意。とくに怒りっぽいサラリーマン。
久しぶりに、メールでのやりとりを備忘録に採録してみます。
デザイナーはヤクザな仕事だとのことですが、(ご存知かも知れませんが)多くはまじめに働いている方が大部分で、そもそもウェブで活動して自分はデザイナーだと言うことも、そんなに多くはないのではないかと思います(自分の周りでは、そうです)
確かに件の彼はヤクザな言動ですが、それをもって「デザイナーは…」という言及はあんまりではないかと思いました。
話が逆です。もともと私は偏見を持っており、ひとつそれらしい実例があったのでご紹介したのです。
なお「やくざな商売」はイメージ先行のフレーズです。この手のフレーズは意図どおりに意味が伝わらないことが多い一方で、伝わる相手には絶妙の効果があります。私の周囲では当該のフレーズは前述の意味を持っているのであり、それをそのまま備忘録に書きとめました。誤解は生じうるでしょうが、大した問題にはならないと私は見積もります。
端的にいって、問題の備忘録において私の書きたかったことは、客を無邪気にも名指しで批判して誰も咎めないというのは、サラリーマン根性の染み付いた人間から見ると驚くべきことだなあ、ということです。すべてのデザイナーがそうであるはずはないのは当然ですが、「Xez」のミライさんも昨秋に同じことをしていたし、「例外が多すぎる」のは事実です。
ふつうの会社勤めの感覚では、「絶対にやってはいけないこと」なんです。自殺行為といっていい。だから、「例外」は本当に例外であって、弊社の社員が自分の身分を明かしつつ公の場で不特定多数に向かって名指しで客を批判した例を私は知りません。1000人に1人もいないということです。私が知っている範囲内で既に2人も禁忌を破っているデザイナーとは違います。それほどのタブーじゃないということなんでしょう。
ふつうの会社でなぜそれがタブーなのかといえば、そういうことをすると、名指しされた相手だけでなく、その他の客もドンドン逃げていくからです。「おたくは客の悪口を書いて恥じない社員がいますからね」と。それを恐れなくていい人というのはつまり、「結局、それでも俺に仕事を頼むんでしょ?」という自信があるわけでしょう。その手の空気が「許されうる」商売を、私の周りでは「やくざな商売」といいます。無頼漢的感覚を持った仕事人のイメージ。「文句があるならよそへ行きなよ」みたいな。(一度いってみたい)
早速、返信をいただきました。興味深い内容なのですが……ううむ、これをそのまま公開すると面倒が起きそうなので、ちょっと思案中。
実際問題としては、ほとんどの個人サイトでは何でも書き放題です。それはそれで、いいと思っています。ほとんどの個人サイトは、事実上、友人・知人との世間話程度の信頼度であり、波及力でしかないのだから。ただその趣味のサイトが、組織が脅威に感じるほどの存在に育ったとき、当然、それまで不問とされてきた責任を取らされることはありうるし、それは正しいことだといいたいのです。
これはあくまでも一介の市民の呟きである、というのなら、それなりの場所へ移動すべきなんです。咎められて、口を噤むどころか憎まれ口ばかり叩くのはいかがなものか。
繰り返し書くけれど、誰も訴訟なんかしたくない。それは当たり前のことなのに、組織にはいくらでも訴訟を起こす金と暇があると思っている人が多すぎる。自分の参加している組織が攻撃されたことがある人なら、組織の無力を知っているはずなのに、よその組織のことになると目を曇らせる。法に訴えるなんてのは生半可なことではなくて、それだけ相手を本気にさせていながら呑気なレベルで「いいたいこともいえないなんて」という。
リンクの原則論や、増殖を想像する力を説きつつ、それに伴う責任と自由の制限をいわないのは片手落ちなんです。日本人は過剰に権利を付与されていて、それを当たり前の状態だと思っていて。政治家と官僚だけはどんなにバカにしてもいいと思っていて。組織とお上は怖い怖いといいながら、自分の権利をどんどん肥大化させて。
恨みつらみはいろいろあるんだけど、もちろん私もそうした社会に暮らして権利を過剰に行使している一人で、いまさらこの生活をやめられなくて。
……ここしばらくこんなことを立て続けに書いていて、なんだか疲れました。いつものことですが。この手の話題は、また何か気になることが起きたときに。
「自分は矢面に立つ気はさらさら無いが、悪口は書かせてもらい、けつは全部プロバイダに持ってもらう、プロバイダが逃げやがったら許さん」という主張をなさった方は存在したのだろうか。
という問いの答えに近いのが Beyond さんです。Google に検索インデックスから削除されては悪態をつき、プロバイダから決断を迫られてはどこか良いプロバイダは、無いものでしょうか
と書く。もちろん、Beyond さんは正しいことしか書いていないつもりなのだから、そうした反応は当然です。
それはそれでいい。世の中にはいろんな人がいるんだから。ただ、「うんうん、そうだそうだ」と賛同する人がちょっと多過ぎないか、と思いました。Beyond さんと異なり、Google にも同情的な人は、たしかにたくさんいました。しかし、Google の判断を歓迎する声はとんと見かけなかった。少なくとも、先月23日の時点ではそうでした。多数派ってのは怖いよな、と思います。たいていのトピックについて少数派になる私のような人間にとって、これは(いつものこととはいえ)憂慮すべき事態です。
「はてな憎し」「google憎し」的な事を言っている方
は多くありませんが、このようなある種の(違法性の高い)言論に対する弾圧について、「残念に思う」人は多かったといってよいでしょう。ishinao さんとの違いは、私が今回の事件の顛末(まだ続きがあるかもしれませんが)を積極的に肯定していることです。
話を拡散させますと、三浦和義さんがここ数年、マスコミ相手の名誉毀損裁判にどんどん勝っていて、その一方で別の事件では有罪判決も出たりしたわけです。で、たいていの人は無罪になった事件についても「でもやったんでしょ」と思っていて、マスコミの報道は正しかったと考えていたりするのではありませんか。あるいは小野なんとかという老人が裁判で無罪になって、冤罪被害者の象徴となった数年後にたいへんな殺人事件をやった。だから「前の事件もやったんじゃないの」とみんな思っていたりする。
別に、そういうことを思うのは勝手であって、また、日常生活の会話で、私見を述べてもかまわない。ただ、著作権侵害関係でありがちなことですけど、そういう感覚で WWW という場でもふるまってしまうと、問題になるわけです。しかしながら、ほとんどのWebサイトは零細で、実態としては日常生活の延長上にあるわけです。だから、平気で一線を踏み越える。
リンクなどに関する意見(例えば最近の儀礼的無関心の話題とか)では、日常生活との境界線が一見、曖昧であっても、WWW はじつは紛れもなく公の場なんだという「常識」が語られることが多い。にもかかわらず、「言論の自由」をテーマにすると、個人サイトがマスコミ並の慎重さを持つべきとの意見はどこかへ消えてしまう。そして、Google やはてなが企業の申し入れに「屈した」ことをみんなで残念がる。おかしいでしょう、それは。友人・知人との会話と同じ気分で、名指しで無根拠な誹謗中傷をするのが「言論の自由」ですか。
公の場で発言するならマスコミを見習うべきです。みんな「マスゴミ」と呼ぶけれど、素人のタチの悪さを見るがいい。みんながそうだと思っていれば、証拠も何も要らない。そう思ったというだけで、何でも書く。咎められると心外だという顔をする。確信犯なのだ。全然、悪いことをしているという自覚がない。相手が組織になると、どんなにひどいことをしてもいいと思っている。どうせあいつらは金持ちでしょ? 力があるんでしょ? 俺らは無力な市民ですから? ふざけるな。
未完(5〜9日の4日間でここまで書いたんですけど、続きが面倒になってしまって……。まあ、いいたいことは、もう十分に書いたような気がします)
だんだん発行日予定日からの遅れが激しくなりつつある Folio ですけれども、何とか今回も出ました。私の連載もありますので、ぜひご一読くださいませ。カトゆー家断絶のデザインをCSSで再現する、という内容。
今回も連載ページは私がデザインをやってます。といっても、レイアウトなどは前回と変わりませんが……。
雑文祭の募集もしているので、興味のある方はぜひご参加ください。
父も母方の伯父も、結婚した頃の写真を見るとガリガリに痩せている。
給料がないわけじゃないのだが、生活力が足りないので、ろくに食べるものもない極貧生活になってしまうのだった。それが二人とも、家計を妻に渡してからというもの、給料はろくに変化しないのにどんどん体重を増やしていった。だからなんだというわけじゃないのだけれど、「貧乏だと人間は痩せてしまうのだ、ということを私は父に教えられた」みたいなことを書きたかった。
父は大学を卒業後、家業の農家を継いだ。しかしそこは次男の悲しさ、長男が都会の会社員生活にドロップアウトして実家に帰ってくると、これで用済みとばかりに愛知から東京へと追いやられた。同じ県内にいると、兄弟がいがみ合うことになるから、という理由だったという。父はとりあえず食事にありつける仕事として料理人を選んだが、不幸にして4軒勤めた料理屋が次々とつぶれ、一度は栄養失調で倒れるに至った。戦後の食糧不足を耐え抜き、山岳部で7年余りも鍛えた頑健な父が、20代の若さで力尽きて倒れた街が東京であった。
身体の弱い母は、父の丈夫なことだけは尊敬していて、その父が倒れた東京を怖がった。私は就職先を選ぶ際に、微妙に実家を離れる必要がある距離の会社ばかりを選んだが、母は「お前が一人でやっていけるはずがない」と繰り返しいった。時代が違う、と私は思う。単に子離れできないだけじゃないか、とも思う。けれども、あの殺しても死なないような父が初めて挫け、(私の)祖父母に助けを求めた場所が東京砂漠のど真ん中だったことを、私は決して忘れまい、と思う。「食べるものがあるというのはな、幸せなことなんだ」と、父はことあるごとにいった。
正月に実家へ帰ったら、母の顔が満月になっていてびっくりした。父もビール腹が進行していた。子供が二人とも家を出たのだから、食事を作る量も半分にすればいいものを。太って困るなんてのは、幸せな悩みだ。しかし、だからといって座視してよいというわけでもなかろう。だが、福々しい顔でニコニコしている両親を見ると、まあいいか、という気分になってしまう。
高齢化社会が問題になっている昨今ではあるけれども、自分の両親に限っては長生きしてほしいと思う。身勝手な話だが、年金は払うので、とりあえずはそれで許していただきたいなあ、なんて誰宛ともなくひとりごちる。
そういえば、なんで就職が決まったときって、それほど感慨がなかったんだろう。大学なんていう、卒業して会社に入ってしまえばもはやどうでもよくなってしまうあれの合格のときには嬉しかったものだけど。
たぶんあれだな、自分だけいいことがあっても、あまり感動しないんだな。みんなが喜んでくれると、嬉しいんだな。就職なんてのは、まあ、自分の人生は自分で決めなよ、ということで、みーんな本人任せ。どこから採用通知が来ても、「ふーん、で、そこへ行くの?」「悩んでる」「じゃあ、よく考えて決めようね」それっきりだもんな。でも、人生でたぶん一番長い時間を過ごすのは会社なんだから、本当はここで一番その、力を使わなきゃおかしいんじゃないのかな。でも、就職が決まってないたとか、聞かないんだよなあ。工学部では。教育学部では、よくある話らしいけど。
こんなにさっぱりしていていいのかな、と思って、就職が決まったときには自分で「嬉しい」といって回っていたけれど、なんだかバカみたいだ。そんなの誰も期待していないのだし、自分でもあほらしいと思っていたんだから。けれども、だからといって「就職? さあね」とかいうのは(少なくとも私が真似すると)もっとバカっぽくて、だから私は安っぽくても「嬉しいビーム」を振りまくしか能がなかったんだな。あれは一体なんだったんだ。
なんだかんだいいつつ、今の職場はいいところですよ。備忘録を掲示板に連載していた頃(新入社員だった頃)からずっと書いていることですけれども。
的を射た?それとも得た?という記事に興味深い一節が引用されていたのだけれど、引用元がわからない。しばらく頑張って、ようやく練習長問答が出典だということを突き止めました。(と書くと、いささか大げさかな)
これは中谷臣先生が旺文社DOシリーズから2001年10月に出した本について、自サイトで紹介している文章の一部です。
的を得た答案、つまり問題の要求に応えた答案にするためには「批判」は欠かせません。それはこのホームページ「世界史教室」の「参考書」のところでも既存の論述参考書の解答に疑問をだしている点で示されています。プロが書いた答案は必ずしも答案になっていないんですよ。通添の採点や解説を見ても方法論がかれらには無いですから。
注:この「的を得た」という表現をあげつらって、“「的を得た」なんていう子供なみの日本語の間違いを堂々とHPに載せているくせに、よく他人の非難ができる”などと書いている掲示板があります。これはよく流布している無知からきています。射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。たとえば、“[中庸、十四]子曰く、射は君子に似たる有り。諸(こ)れ正鵠を失するときは、反って諸れを其の身に求む。(平凡社『字通』白川静著)”と「失する」という表現しています。「失」の反対は「得」であり、「射」ではないのです。いつのまにか「正鵠」という分かりにくいことばを使わず「的」に省略し、「的を射る」という悪貨が「的を得る」という良貨を駆逐していて、日本の国語辞典にも浸透しています。「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊夫著や、大修館書店『日本語大シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。
ところで、旺文社のDOシリーズというのは、私が塾で生徒を教えていた頃に出た参考書のシリーズでした。ちょうど私が高校生の頃というのも、参考書がどんどんよくなっていく(?)時期でしたけれども、このDOシリーズからは従来の定番書籍を置き換えるような意欲的な本がいくつも出たので、私も注目していました。
あんまり関係ないですけれども、全然売れなかったみたいですぐに書店から消えてしまった解決!イングリッシュという参考書には私もほんの少しだけ関わっていて、奥付に名前が載っています。嬉しかったなあ、この本が出たときは。どこかで売れ残ったりしているのを見かけたら、買ってやってください。私には1円も入りませんけれども。ちなみに、私は英語が苦手です。でも安心してください。私が関わったのはレイアウトとか配色の部分ですから。
私が布団を燃やしたのもちょうど1年くらい前のことです。例によって電気ストーブをつけっぱなしで。というか、押入れからもう一枚布団を出すのが面倒くさくて、寒いから電気ストーブつけっぱなしでいいやとか思っていて火事になったという大バカな話。四畳半一間の部屋で生活している人間の言い訳として、それはどうかと思った。他人に説明してもわかってもらえないだろうと思って、まあ燃えたといっても直径15センチの穴が開いただけだったので黙っていることにしたので、誰からも同情されませんでした(その代わり誰にもバカにされなかった←私のプライドはこうして守られたのだ! くだらない)
で、低温火傷を軽症だったのをいいことに、ろくな治療もせずに放っておいたので、夏頃まで後を引いて後悔したという話。低温火傷の治療はちゃんとやったほうがいいです。アロエとか。
ところで、穴の開いた布団は今でも使っています。
京都新聞の該当記事が著作物の定義である「思想又は感情を創作的に表現したもの」であり、かつ上記2つの例外規定にあたらないものである、という事は「明々白々な」という程に自明ではない様に見える。
その疑問への回答は情報の自由な流通か、はたまたただ乗りか?に示されていると考えます。明々白々
と書いたのはさすがに多少の筆の滑りを認めますけれども、まずそういってかまわないのではないか、と私は判断します。
ところで、私は実のところ、悪徳商法?マニアックスの Beyond さんが株式会社ウェディングを悪徳業者を決め付けていること自体については、必要悪だろうと考えています。しかし悪(ここでは「違法性が高い行為」という程度の意味)には違いないので、相手を本気で怒らせたなら Google の検索インデックスから削除されて当然だし、法廷へ引っ張り出されるのもプロバイダを移らねばならないのも不思議なことではありません。これまで許されてきたのは、単なる幸運に過ぎなかったのです。
私が Beyond さんを批判したのは、法的に問題のある記事を書いたからではなく、対抗措置を一方的に非難したからです。Beyond さんの支持者を批判したのは、対抗措置の正義を顧みなかったからです。「確信犯には困ったものだ」ということをいいたかった。現実社会においては、自分の信じる正義だけが唯一の正義ではないわけです。法秩序とか、そういった他の正義もあります。「仕方ない」ではなく、「よくやった」という感想をもつ人間もいます。
Google の判断に私は理解を示しました。自分が誹謗中傷されたとき、Google が味方になってくれる(であろう)と思ったからです。そういうものの見方があっていい。にもかかわらず、「(これは望ましい事態ではないが)クレーム対応は面倒だもんね、お察しします」みたいな感想ばかりが目立ちました。はてなの件も同じです。はてなではこれまで、キーワードなどの取り扱いを慎重に慎重に行ってきました。しかし、緊急時にもそんなことでは困ります。申立者が「法的手段に訴えることも辞さない」ところまで追い詰められたとき、はてなが「手早く対応してくれる」ことが今回わかりました。だから、見方を変えれば、これは歓迎すべきことなんです。
多数派の感情論は、いつもひとつの正義となります。法(あるいは少数派の感情論/etc)はしばしば、その正義と対立します。今回の Google とはてなの件について、「正義の名のもとに悪がまかり通った」という感想を持った人が多かったのは、意外なことではありません。しかし、天邪鬼であるところの私としては、こういうときこそ一言いっておきたかった。
僕の基本的な考えは「あまりモノを言うのにビクビクしながら生きる世の中は嫌だなあ」ということだ。だから、何となく訴えられた方に心情的には肩入れしている。
「善と悪」、「緩さと厳しさ」、「オープンとクローズ」、「公開と囲い込み」、今起きているいろいろなことがこれらをキーワードに語れるような気がする。今、時代の流れは「クローズ」なのである。その源流がどこにあるか、僕は知りたい。
少し違う方面から話を始めたい。
最近になってまた儀礼的無関心の話題が再燃している。ひっそりとサイトを運営していきたい、という方は少なくない。「アクセスは多い方がいい」と思っている方であっても、客層や訪問者の増えた理由を問わないケースは珍しい。意想外のリンクによる訪問者増を望まない人は、けっこう多い。
意想外の訪問者増に対し、多くの方は何もしない。そしてしばらくすると、訪問者数はいつも通りになる。やれやれ、というわけで、何もかも元通りになる。しかし時には、当該コンテンツを消す方がいらっしゃる。それは予定通りの行動かもしれないし、あるいは気が動転してのことかもしれない。いずれにせよ、コンテンツが消えて悲しむ方がいて、儀礼的無関心ということを言い出した。
WWW に無制限で記事を公開したら、意想外のリンクというリスクは避けられない。だから、何らかの技術的な方法によって、適当な制限を試みようという意見がある。ここしばらく、技術的障壁を低くしようという方向で検討が進んでいる。リスクの存在を認識しつつ、適当な対処法がないために困っていた方には朗報となろう。だが、これは根本的な解決策にならない。そもそもリスクの存在を失念している方が多いからだ。失念の理由は3通り考えられる。
意想外のリンクによる(驚くほどの)訪問者増を経験するのはレアケースだ。その最大の理由は、たいていの人は(意図しない)大きな需要を喚起する記事を書くことができないことだ。8割方の個人サイトは、徹頭徹尾、零細であり続けるし、大半の個人サイトは意図しない訪問客を得ることがない。こうしてみると、ふつうの人はリスクを失念しても何ら問題ない。それどころか、余計な悩みを持たずに済むのだから、むしろ賢い生き方かもしれない。
未完
私は12月4日にこう書いた。(ひとつの価値観に基づく)ノーリスクの追求は、大きな利益の逸失につながる
、と。「大人なんだから、人の嫌がることはやめようよ」なんて子供騙しはもう、うんざりだ。それはお互い様ではないのか。
未完
WWW に無制限でコンテンツを公開すれば、その後、そのコンテンツがどのように閲覧されるかについてコントロールすることはできない。しかし多くの場合、コンテンツの閲覧のされ方は概ね作者の予想の範囲内におさまる。これが錯覚の元凶で、多くの人が、ありうるリスクが顕在化したときに慌てる。そのとき初めてリスクの存在に気付く。さらに、怒ったりもする。公開したコンテンツが誰でも閲覧できる状態にあること、誰でもどのコンテンツにもリンクできることについては、けっこう多くの方が認識しているようで、だから「リンクフリー」とか「リンクはトップにしてください」といった「リンクポリシー」を謳っているサイトがたくさんある。
未完
思いつくままにいろいろ書いてみたけれど、なんか、まとまりそうもないので、放り出します。(うわー)
何かしら言及しようと思いつつ、時間が経ってしまった記事など。
この質問への回答が果たしてまとめ代わりになるのか、という疑問はさておき。
企業が広告目的で作成する偽の個人ページが仮に存在するとして、それらは制限されるべきだと思いますか?
企業が広告目的で作成する偽の個人ページは、上手にやればバレずに済むと思いますか?広告していることを悟られずに済むようなページは、広告として効果があるでしょうか。
企業が広告目的で作成する偽の個人ページは、現状でも相当数存在していると思いますか?
相当数という表現がどの程度の状況を想定しているのか不明なので、回答を保留したい。
買い物をする時の判断材料としてサーチエンジンを利用する場合、どのような検索結果が理想的だと思いますか?
ユーザに発言を許可するサービス(掲示板・日記・ウェブログ)のプロバイダーは、外部からのクレームに対してユーザの発言内容をある程度保護すべきだと思いますか?
ユーザに発言を許可するサービスにおいて、規約の境界線ぎりぎりの発言をするのは慎むべき行為だと思いますか?
自分の発言に対するクレームがサービスプロバイダの方に行ってしまった場合、クレームを自分の方に送るよう積極的に働きかけるべきだと思いますか?
企業にとって不利で誤った情報が多数の掲示板・日記・ウェブログ上に広まってしまい、それらが検索エンジンの上位にランクインしてしまいました。どのような対策が行われるべきでしょうか?
訴訟などしたくない人がウェブログをやる場合、取り上げることができる話題はおのずと決まってくると思いますか?
ウェブログが社会的に意味のあるメディアになるためには、誰もが訴訟の覚悟くらいは持っておく必要があると思いますか?
こせきは結婚できますか?
office さんは一部の世界で圧倒的な信用を誇っていて、よく調べもせずに弁護なさる方が散見された。しかし状況をつぶさに見ていけば、office さんが今回の件で「やらかした」ことは明らかで、逮捕もやむなしと私は考える。そして「やらかした」ことを認めつつも逮捕の影響に懸念を表明する方が非常に多いが、これにも異論がある。
office さんが過去に多くのサイトのセキュリティホールを指摘し、事件の防止のために貢献してきたことは事実だけれども、それとこれとは別問題である。どれほど素晴らしい業績があろうとも、「やらかした」ときにはペナルティがあってしかるべきだ。
「これで逮捕なら脆弱性の指摘が出来ない、だからカレを(以下略」
という懸念は杞憂ではなかろうか。手順を踏んでセキュリティホールを指摘し、問題の解決に協力的な姿勢を示していくならば、逮捕されはしないだろう。office さんは手順を誤り、大勢の人を怒らせた。だから、厳格に法を適用され、逮捕されるに至った。そういうことだろう。セキュリティホールの指摘は、今後も粛々と行えばよい。
杞憂ではあっても懸念を表明することには意味がある……という考えなら理解もできるが、本気で office さんの逮捕を残念がっている方が(私の見て回った限りでは)少なくないようだ。それはどうかと思う。
12月に書いたやむを得ず?という記事へのご意見をひとつご紹介。
一般的な公開手段のひとつになっている HTML がたとえスタイル指定言語であったとしても、おそらくは現状と同じように、文法を守る人は (たぶん) 少数派になるだろうと思います。
結局のところほーむぺーじ製作者の多くは「 (文法なんてどうでもよくて) 見れりゃーいいよ」と考えている人が多く、また、 HTML がスタイル指定言語であったとしても、現状と同じようにブラウザの方に強力なエラー補正機能が施され (つまりマークアップ言語だから強力なエラー補正機能が施されているわけではないような) 、律儀に記法なぞ守らなくともそれっぽく表示されてしまい、結果、記法を重要視しない人が出てくる。窮屈なルールを守らなくてもそれっぽく表示されるのならば、人によってはそれを守る必要のないものだと感じてしまう人もいるでしょう。
そして、ルールをきちんと勉強していないあるいはルールを知らない人の (「裏技」を駆使した) 怪しい楽しげなほーむぺーじ作成講座のようなものが横行し、書籍もまあ似たようなものが増え、そうするとやっぱり騙される人が増えつづけ、きちんとした記法の存在に気付いている人々は少数に留まり、現状と同じように啓発に疲れてくる人が出てくるだろうと予測。
私は文法違反の多寡にはあまり興味がありません。一段階前の、「HTML とは何か?」というレベルで誤解が多すぎることだけで頭がいっぱいだからです。「文書の論理構造を明示する」という HTML の存在意義を全然理解してくれない方が多いので、私は疲れてしまうのです。
blockquote 要素の内容にテキストをべた書きすることへの批判などは、一見、文法違反への批判のようですけれども、じつは違います。ブロックレベル要素を引用するから blockquote 要素なのであって、べた書きのテキストを引用するなら q 要素を用いるべきです。単なる文法的な決まりごとをいいたいのではなく、あなたの用いようとしているものが何であるかということを、理解してほしいと思っているのです。
HTML は多くの初心者に「スタイル指定言語」としてしか理解されないという現実があります。わかりやすい、と定評のある多くの解説を読ませても、ダメです。講師が目を離すと、すぐに魔法が解けてしまいます。font 要素をじゃんじゃん使い、p 要素を br 要素で代替しはじめます。表示結果さえ意図通りになれば、裏で何が起きていようと気にしない。講習会の最終日にできあがった「ほーむぺーじ」を見る頃、私はもはや刀折れ矢尽き、もうこんなボランティアなんか土下座して頼まれてもやるものか、と思う。でも頼まれたら断れないわけで(それにしても、私みたいなヘンな講師を頼む方もどうかしていると思う)。
もちろん、HTML がスタイル指定言語だったとしても悩みは尽きないでしょう。ただ、悩みのレベルが一段下がることは間違いないと思います。少なくとも「HTML はスタイル指定言語である」という共通認識は確保できるはずですから。
HTML が理解されないのは、文書構造を「見た目以外の何か」によって明示しなければならない場面を経験してきた人が(少なくとも現在の日本には)ほとんどいないからだ。
仮に日本語文書の一般的スタイルが、
といったものであれば、HTML はすんなり受け入れられたろう。括弧の代わりに h1〜h6 要素を用い、スラッシュの代わりに p 要素を用いる、というルールはすんなり理解できる。
改行がいけないのは、あまりに多様な意味で使われていることだ。見出しと本文の区切り、段落の切れ目、会話文のあれこれ、間、などなど。
……いや、そうでもないか。仮に日本語文書の一般的スタイルが前述の通りであったなら、 h1〜h6 要素を用いたときに自動で括弧が表示され、 p 要素を用いたときにはスラッシュが表示されなければ利用者は怒り出す。多くのブラウザのデフォルトスタイルではブロックレベル要素の前後に改行を入れるから、HTML をちゃんと用いずに font 要素などばかりが用いられることになる。
結局、所望の表示結果を得ることに興味が集中する限り、「文書構造の明示」という概念はいつまでも理解されないということか。
私はソースを見た場合を基準として書いています。基本的に HTML を学ぶ際に(いわゆる)ブラウザは害悪でしかありません。「表示結果」を説明に持ち出すから、HTML の基本概念を誤解するのです。まず HTML をマスターし、次にスタイルシートという、データと表現をつなぐ概念を学び、そうして初めて、HTML 文書が各種 UA に解釈された状態を示すのが筋です。
「表示結果」を見れば、(よほど特殊なスタイルシートを用意したのでない限り)各要素は暗示
されるに留まります。まさにそうだからこそ、HTML の説明に「表示結果」を持ち出してはいけないのです。ソースを見れば、font 要素(+ br 要素)と h1 要素とが異なることは明らかです。しかし(WinIE における)「表示結果」は同じです。だから、「どっちでもいいでしょ」という誤解が生じるのです。
とはいうものの、初心者に「表示結果」を見せずに HTML を教えるのは困難です。「表示結果」なしで授業すると、多くの方が何一つ理解してくださらない。だから泣く泣く「表示結果」を見せます。こうして悲劇が再生産されていくわけです。
私はこういうことを書いているけれども、だからといって、「株式会社ウェディング=素晴らしい会社」と思いなさい、といいたいわけじゃない。私は性善説など主張していません。
白装束、覆面、たしかに怪しい。警戒心は持っておいた方がよかろう。警察は監視を怠るべきではない。だが、道ゆく先々で道路を封鎖して行き先を閉じていくという地方自治体のやり方はどうなのか? パナウェーブの人権はどうなっているのか? ゆえなく個人の自由が制限されないこと、これは民主主義国家の根幹である。怪しいやつらには十分警戒しつつ、しかしあくまでも彼らの自由は守られなければならない。
怪しいと思うこと、ウ社を信じない自由は誰にもあります。やばそうだと思ったら、十分警戒して自己防衛に努めること。会社名でGoogle検索しただけで、軽々に判断を下さないこと。
雨降って何とやら。
権利侵害の判断
の項にはてなは申し立ての内容に基づき、当該情報が他人の権利を侵害しているかどうかの判断を行う。
とあることは重要。判断基準を明確にする
といっても、最終的には管理者の裁量ということになります。はてなが自ら示したガイドラインに則り独断で決定を下す方針を示しているのは、よいことだと思います。(→id:smoking186)
別に腰が引けているわけではなく、せっかく下がった技術的な敷居まであげることを是としたくないので、「自分でサーバーを立てろ」とはしなかったのです。
自分でサーバを立てない限り、サーバ屋が特定電気通信役務提供者として責任を負うことになります。個人向けに技術提供のみ行い、特定電気通信設備を保有しないという業態は一般的ではありません。技術的な敷居をさげるなら、個人で全責任を負うことは困難です。いくら発信者が身分を明かして最後まで戦うのだといっても、サーバ屋がひよったらコンテンツは消えてしまうのではないでしょうか。
トラブルは当事者間で解決してください、といっても、じつは特定電気通信役務提供者も(ある場面においては)当事者なんです。そうである以上、ごねる発信者との交渉に見切りをつけ、サーバ屋に話を持っていく申立者はいなくならないでしょう。法律によれば、サーバ屋がまずいと判断したコンテンツは発信者の同意を得ずに非公開にしても免責されるからです。
申立者は裁判をしたいのではなく、問題のコンテンツを消したいのです。発信者の身元云々なんて、本質的にはどうでもいいことだったりするわけです。である以上、発信者自身が特定電気通信役務提供者とならない限り、発信者の頭越しにコトが進むという状況は解消されません。
なお、当然のことながら、不当なコンテンツ削除に対して発信者側が提訴することも可能です。しかしたいていの発信者は、「そんなバカな」と思うような削除であってもいちいち法的手段に訴えません。要するにそこまでして発信したい情報でもなかったということなのであって、「被害」にあって裁判所に訴え出た企業などと比較して(誤解を恐れずに書けば)不真面目なんです。
企業は強者には違いないでしょうが、打ち出の小槌を持っているわけではありません。裁判なんて企業だってやりたくないのです。いや、儲けを追求する企業こそ、無駄金も無駄な時間も絶対に使いたくないはずなのです。それでもやらざるを得ないところまで発信者が追い込んだのだ、という事実を見据えない方が少なくない。だから、裁判を起こされると「横暴だ!」なんていったりします。あまりに安易に考えている方が多いのです。
いずれにせよ、ishinao さんのご意見には概要で同意します。
現実問題としては「ならない」
のは当然でしょう。Google の PageRank を不当な手段で上げようとしているという疑惑についてはともかく、仮にその件が立証されたところで、だから「悪徳業者」と呼んでいい……という話にはなりそうもないからです。PageRank の不正操作は、ウ社の宝石販売の手法に問題があることの根拠となりえないからです。とはいえ、不正操作疑惑の件で(立証はともかく)Google を動かすことができるなら、ウ社のイメージダウンを図りたい勢力には朗報となります。
おそらくGoogleには既に数件(その程度だと思います)の指摘が届いているはずで、その結果をしばらく注視する必要があるでしょう。ただし SEO SPAM は違法行為と異なり、「ルール違反」が決定的な社会問題を引き起こさないので、「おそらくダウト」というレベルでは対処に二の足を踏む可能性があります。しかしながら、あれがOKなら SEO 解説書の少なからずは記述を見直す必要が出てくるのではないでしょうか。(もっとも、倫理的問題を考慮し現行の記述を守るという発想もありましょう)
ところで、不正操作疑惑の件で Google を動かすために、株式会社ニューコンセプトとウ社の関係を示す必要はありません。そもそもこの手の不正操作は、手段を選ばない SEO 業者の常套手段といわれてきました。あるいは、悪意あるグループがおかしな単語で特定のサイトが上位表示されるようにする「攻撃手段」として、知られてきたという経緯があります。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という人はたいてい偉そう。(ありがちな自虐ネタ)
私は記事の強制削除を1回、アカウント自体の削除を1回経験しています。
昔、どの出版社にも原稿を突き返された作家が「言論の自由の侵害だ!」と叫んで裁判を起こした、というジョークがありましたが、言論の自由は決して「みんなが自分の希望通りの発言の場を与えられる権利」を保障しません。「何をいってもいい権利」も保障しません。
憶測で他者を中傷するような記事があって、それを削除されて怒るのは筋違いというものです。
また、仮に正当な批判であっても、運営経費を極限まで削っている激安系のレンタルサービスや無料レンタルサービスを利用しているなら、トラブルの種であるだけでも削除の対象となってもいたし方ありません。それは決して、言論の自由の侵害を意味しないことに注意すべきです。出版社に無視されたら自費出版すればいいのであって、無料・激安レンタルサービスでダメなら高級なレンタルサービスを利用するか自分でサーバを立てればよい。
正当な批判をしているのに追い出されるのは残念なことではありますが、誰も発言すること自体を禁じているわけではなく、「トラブルを嫌って協力してくれない」ということに過ぎないのです。……というのは何らかの事実に基づく批判記事の場合であって、そもそもが憶測に基づく誹謗中傷であるならば、最初からそのような発言をする権利はない、ということになります。
近藤さんがユーザーをないがしろにしているのではなくて、ユーザーがいっていいことと悪いことを取り違えているという話。何人もの人がアプリオリに「株式会社ウェディング=悪徳業者 だから、皮肉・当てこすり・悪口なんでも思った通りに書いていい」と思っていて、文章にありありとその様子が現れているわけです。キーワードの削除理由にはその件が触れられていますね。
当該キーワードは、ご本人よりキーワードの削除要請があり、また、弊社にて内容を検討した結果、キーワードを含む日記の情報表示が、ご本人のご指摘による営業妨害、ならびに名誉毀損にあたる可能性があると判断し、削除とさせて頂きました。
法的手段というのは、案外、企業にとっても軽い負担ではなく、またリスクのあるものです。企業が実際に訴えることが少ないのは、裁判に勝っても得られる利益が少ないことがひとつの理由になっています。法的手段というと、すぐに「企業優位>個人ユーザ劣位」という図式を持ち出す方がいますが、いささか身勝手な認識ではないかと考えます。
もともと、みんながふだん好き勝手に物を書けるのは、企業がいちいち訴えないという現状に依存しているのであって、これを言論の自由を考える基礎状態とするのは誤りです。本当は書いちゃいけないことがたくさんあるのだけれど、たまたま企業が黙っているので、「書いても怒られない」のだ、と考えるべき。思ったことを何でも書いていいというのはまったくの錯覚です。しかしその錯覚に気付いていない人が多いから、こんな騒ぎになる。
訴える人がいないから許されていることと、本来やっていいことをごっちゃにするべきではなくて、そのあたりの錯覚を利用して人を煽るBeyondさんはどうかと思う。
とりあえず私がいいたいのは、みんな何の覚悟もなしに「ソニータイマー」とかそういった誹謗中傷をやっているけど、それって本当はやばいことなんだということは再認識しておいたほうがいいんじゃないか、ということです。
冷静な論者が多いという印象。はてなに一部を削除されたid:kosekiさんの記事が誹謗中傷と判断されかねないポイントについても詳しく述べられています。
こちらでは名誉毀損は「公共性、公益目的、真実性」が満たされる時、問われないはずです。
という言葉を引用しているのですが、問題の発端となった投稿は誰がどう読んでも憶測だけで中傷する内容だったのです。憶測が当たっているかどうかは問題ではない、ということを理解されていないのではないか。ウェディングは悪徳業者に決まっているのだから、(明確な証拠がなくたって)悪徳業者呼ばわりして何が悪い、と。そうでなければ、「真実性」というフレーズに引っかかりを感じないはずがない。
逆質問ですが、プロバイダーに責任は代行させるべきではない、ホームページやWeb日記、Weblogなどで責任ある発言をしたい人は、ホームサーバーぐらい立ててそこでやれということなのでしょうか? 極論で反撃していると思われるかも知れませんが、僕にはそういってる風にしか見えませんので、よろしくお願いします。
ishinaoさんの回答は少し腰が引けていますが、私は「そうです」と申し上げたい。極論でも何でもない。自分でサーバを用意していないのだから、結局はサーバ屋がダメといったらダメなのは当たり前です。クレーム処理は労多くして益少なし、儲けを食いつぶす元凶です。XREAは正当性の如何にかかわらず他者の不利益になる情報を提供するサイトの構築を禁じていたります。いずれにせよ、ユーザと一蓮托生で頑張ってくれるサーバ屋は自分以外にいません。
個人の誹謗中傷の苦情には簡単にスルーするくせに
というのも疑問。先に述べた通り、ふつうは法的手段なんて個人であれ企業であれつまらないものであって、それを本当にやるというのは相当なことだと考えた方がよい。個人だって、本当に訴訟を起こせばスルーされないでしょう。私のサイトが記事を削除されたのも、アカウントを消されたのも個人の抗議によるものだったわけです。
悪徳商法?マニアックスを批判した記事Google と 悪徳商法?マニアックスと存続してほしい 悪徳商法?マニアックスに検索エンジン経由でそこそこ大勢の方がいらっしゃっています。けれども、結局のところそんなに注目されたわけでもなくて、そのせいかどうか、最近また私の提出した論点(の一部)が別の方から再提出されて話題になっているのを見て、何となく悔しい思いをしたり……。
何か書くたびに反応があるのも面倒くさいのですが、ときどき「何か反応ないかな?」と期待しながら書く記事もあるわけで、まあ読者と同様に筆者もまた身勝手だというだけの話なんですけれども。
閑話休題。今回はちょっと人目を引く見出しを付けてみました。書き出しがふつうなのでインパクトも半減していますけれども、そろそろ本題に入ります。
仮に「強姦野郎?マニアックス」というサイトがあって、あるときそこの掲示板に「徳保はレイプ魔ですから、信用しちゃいけません」という書き込みが登場したとしましょうか。
当然、私は「誹謗中傷の発言は削除せよ」と申し入れるわけですが、管理人氏は「議論の上で最小限の削除に応じるかどうか決めましょう」と煮え切らない返事。私はぶち切れ、法的手段に訴えることを通達、すると管理人氏は「徳保の情報を募集しています!」と大告知を打つ。これと平行して、私は裁判の前にできる限りの防衛手段をとろうと考え、Googleに名誉毀損を訴え、「強姦野郎?マニアックス」の徳保に関連した文書すべてをを検索インデックスから削除してもらう。
こういった事例の場合、今回散見された「違法かどうかは裁判所だけが決められるのだ」という愚論は出てこないでしょう。そういう問題ではない。
「判決が出るまでは誰にも違法かどうか分からないので、誰がどんな暴走をしても許容するべきだ」という意見に賛同する人は滅多にいないはずです。何でもかんでも裁判所というのではなくて、個々人が「これは違法じゃないかな?」と思ったら、自粛するなり、あるいは敢えて実行するならそれなりの覚悟を持ってするべきである、ということです。(少なくとも今回、発端となった投稿が典型的な憶測記事だったことは既に指摘した通り。判断に迷う例ではなかったのです)
まあ、2ちゃん裁判の結果を見るに、6000万円の賠償請求が全額認められることはないでしょうが、数百万円規模にはなるかもしれません。
(少なくともこの件について)ウェディングは裁判に勝つ算段があって法的手段に訴えているのだろうと私は考えます。悪徳業者・悪徳商法という言葉には、非常に強い悪印象があります。広義の悪徳商法はまったく合法な商売の一部も含みますが、だからといって人様の合法な商売を名指しで公然と悪徳呼ばわりして胸をはっていいというのは奇妙な話です。法の下の平等はどこへ行ったのか。
Google と 悪徳商法?マニアックスに書いた通り、そんなことが許されるなら報道記者は苦労ないのであります。オウム真理教の事件が起きたときに、「なんであんなもの、とっとと潰さなかったんだ」という意見がありました。坂本弁護士一家が失踪してからというもの、たしかに大半の日本人はオウム真理教を疑っていました。けれども、決定的な証拠がなかった。それでも「潰すべきだった」のでしょうか?
もし、平気でその一線を越えることが許されるような国が存在するとすれば、それは無法国家です。
3行目に自分の名前が登場しないと思い込んでいる人が多過ぎます。何度でも書きますが、もしGoogleが憶測で他者を中傷する記事を、クレームがあったにもかかわらず放置するとすれば、私はそれこそがっかりします。そんな不正義が許されていいのか、と考えます。言論の自由はありますが、誹謗中傷の自由はありません。非常に単純な話ですよ、これは。
私がイラク戦争について意見を書かなくなってしまったのは、ようするに大量破壊兵器が見つからなかったからです。産経新聞は、「でもフセイン政権が倒れてよかったじゃないか」といいますが、私はそんな戦争なら賛成しなかった。もちろん、悪い方に転んでもフセイン政権が倒れるという次善の果実があるよね、という考えはあったけれども、それが第一義であってよいはずはない、と思っています。
仮に日本に独裁政権が誕生したとして、国民が大規模な反政府運動を全国的に、全国民的に展開もしないうちに、アメリカがやってきて政権を倒したとしましょうか。嬉しいですか、それで。嬉しい、という人はイラクにもたくさんいたけれど、みんながそうであるはずはなくて、私はそうでない方の一人だと思います。卑近な例えを持ち出すなら、愚行権というものもあるわけであって、助けも求められないうちから他人が干渉するのはいかがなものか。大量破壊兵器云々というから、みんなの不安要因だというので「やっつけろ」となるのも致し方ないと考えたのに、いつの間にか虐げられてきたイラク国民を救済したんだという話になっている。つまらないことになってしまった、と思います。
けれども、時間は巻き戻らないので、いつだって「現時点で最良の方策」を考えるしかなくて、なし崩しといわれようと何といおうと自衛隊の派遣は賛成するしかない、と私は考えます。でも、以前はあれだけいろいろ書いたことなんだけれども、今、この問題について多くを語る気力もなければ、言葉もありません。だからこうして、ありがちな意見を再生産していて(いつだってそうなのかもしれないけれど今はとくにそれを意識していて)、ただただ呆然としているといった状況。
帝京大学の高山正之教授といえば、イラン・イラク戦争をイラン側で長年現地取材した叩き上げのジャーナリストで、「異見自在」「情報鎖国」などの怪作を物した方です。土曜夕刊に連載された「異見自在」は、毎週とても楽しみにしていたものでした。現在は週刊新潮で「変見自在」を連載中。そろそろ本にならないかと思っているのですが、こういう時事ものの連載って、あんまり本にならなかったりしますよね。さて、この高山教授が、イラク戦争について興味深い意見を書いていらっしゃるので、ご紹介します。
今頃になって紹介したのは、日本財団図書館にて無料公開されていることに気づいたからです。新聞紙面で読んで衝撃を受けたのですが、WWW には公開されなかったので紹介できませんでした。日本財団はいつも地味にいいことをしますね。
ちなみに、外務省の発表しているサウジアラビア王国の基礎データでは、サウジ内政は次の通り。
- 王制の維持、イスラム法の堅持及び国内開発の推進を基本方針とする。
- 絶対王制。国王が閣僚会議を主催、重要ポストは王族が占める。他方、石油、財政、経済開発等の実務はテクノクラートが運営。
- 現ファハド政権は、基本的には伝統的なコンセンサスを重んじる慎重な政策運営。湾岸危機後、内政改革を求める国内の動きに応えて、92年3月、国家基本法、諮問評議会法及び地方制度法を制定。93年12月に評議会開設。95年8月、ファハド国王の即位以降初めての大幅な内閣改造を実施。
参考文献というか、メモをいくつか。