(小説のあらすじ)
「つきあってください」という言葉は面白い。
何か、したいことがあって、それは一人ではできないことで、だから「つきあってほしい」のでしょう。とすると、「好き」と「つきあってほしい」は別問題なのだ。その人が好きで、何か喜ばせたくて、だから「(相手がしたいと思っていることに)つきあいたい」というならわかるけど。
「なー徳保的には誰が好き?」さっさと帰ればよかった、と後悔する瞬間。けれどもここで態度を豹変させて場を盛り下げるのも無責任かもしれない。嫌いな人の方が少ないので、適当に一人選んで「**さん」とか答えると、「じゃあさー、告っちゃおうよー、ねえー?」あああああ、面倒くさい! 悪気はないのだろう、この場へ私を呼んだのも、今けしかけているのも、親切心からに違いない。
「好きです、でも、とくに付き合ってほしいこととか一切ないんで、よろしく」
いったい何がどう、「よろしく」なんだろう、と自分でも思う。「嘘つくなよ〜」とか頭をはたかれるけど、実際、もらった電話番号は帰り道の屑籠に捨ててしまうし、名前も翌朝には忘れてる。理解されたいとまでは思ってない。何かの冗談だとでも思ってもらえたら、それでいい。
切り捨てきれない人間関係の付き合いで私がここにいて、気苦労するのはいい。ただ、そこに他人を巻き込むのは、最小限にしたいんだ。
(小説のあらすじ)
メールをもらってもたいてい返事を書かないが、理由はひとつしかない。面倒だからだ。
電話が嫌いなのも、同じこと。勝手にかけてきたんなら、一方的に話したいことを話せばいいだろうに、こちらがわざわざ相槌を打ったりしなきゃ嫌だというのだから、電話は困るんだ。だからいつも留守電にしている。
他人様に「つきあう」のは、面倒くさ過ぎる。
私は毎日のように「寂しい」とかいってる人とはアタマの作りが違う。
「あなたさえいれば何とかかんとか」という歌詞は多いが、その「あなた」を必要としていないのが私なのだ。自分がしたいことと、相手がしたいことは違う。相手がどんな人か、全然理解していないのに、その人とつきあおうとするのは、不幸の元だと思う。
私は何も求めないのに、相手は面倒なことばかり要求する。私は、それなりに説明しているつもりなんだ。自分は面倒くさがりで、何もしたくないんだ、と。なのに、わかってくれないんだなあ。
「嫌いなら、そういえばいいのに!」
価値観の奴隷には、「嫌い」という解釈しかできないのか。
メールも電話も部屋に上がりこまれるのも、全部、うざったい。他人と関わるのは、面倒くさい。
電話の相手がほしければ、電話の相手をするのが好きな人に電話すればいい。メールに返事がほしいなら、返事を書いてくれる人にメールを出せばいい。休みの日に会いたいなら、会ってくれる人に声をかければいい。傍にいてほしいなら、いてくれる人を探せよ。
私に全部、自分の願望をぶつけてくれるな。
好きだった人が、そうしてあっという間に嫌いな人へ変わっていくのは悲しい。
もともと、眺めているだけで幸せだったなら、どうしてそのままでいてくれないのか。以前のあなたとなら、お互い幸せにやっていけたのに。
(小説のあらすじ)
「私は何でも話してる。だからあなたも隠し事はしないで」といいながら、こそこそと浮気。堂々とやっても私は怒らないのに。なぜ、できもしない約束をしたがるのだろう。
君は嘘をつくし、他に気になる人もいる。そんなことはわかっていて、それは単なる勢いだったかもしれないけれど「つきあうよ」といった。何かしてほしいことがあれば、私の心身が許す範囲内で協力する。できないことはできない。放っておいてほしいというなら願ったり叶ったりで、ずっと放っておく。何も問題ない。
ところが「あなたは私のことを愛していないから、そんなこと、平気でいえるのよ」だって。ドラマの台詞じゃないんだからさ、とげんなりする。
子どもはどれだけ親に嘘をつき、裏切り、悲しませるだろう。それでも親は子どもを見放さない。子どもは子どもで、ひどいことを散々してきたくせに、ぬけぬけと「お父さん、お母さん、大好き!」という。血のつながりなんてなくても、そうした親子愛は成立する。違うかい。男女関係は違うって? あ、そう。
いいよ、同意してくれなくても。わかってほしいともいわないよ。君の理想を演じることは、私にはできなかった。そうだね、最初にできもしないことを「する」といったのは私だった。
(小説のあらすじ)
メールが届いた。「**です。今度、東京へ行くので、ぜひお会いしたいです!」
返事を書く。たった一言「私は会いたくありません」……いくら「私に期待しないで」と書いていても、これはさすがに相手が怒った。
「都合が悪いので」とか適当なことを書いておくべきだったが、後の祭り。謝って、許されて、でも傷跡は残る。
私はふだん、あまりにも無口なので、ときどき声の出し方を忘れる。
「あ」って発音するとき、口の形はどうするんだったっけ? えーと、舌の位置は……。
たいてい、ちょっと練習するだけで思い出せるのだけれど、とうとうボケが進んでググる羽目に陥ったのには参った。どうしても「と」の口の形がわからない。
絵を見てもなかなか簡単にはできない。
苦心惨憺の結果、他人にきちんと聞こえているかはわからないが、自分の耳には「と」と聞こえる音が出たので良しとした。ちなみに私は日本語の発音に難があるらしく、よく人に聞き返される。「え? いま、何ていった?」
1歳からやり直さなきゃダメか。
いろいろな小説を読み、ドラマを見てつくづく思うのだが、現代社会の倫理観には人間を不幸にする大きな欠陥が少なくともひとつある。
「恋愛に独占欲を持ち込んでよい」というルールがそれだ。
1対1の関係のみを「正常」とし、恋愛関係に独占欲を持ち込むことを全肯定する考え方を幼少時より刷り込んでいく教育に起因する不幸が、この世の中にはあまりにも多すぎる。価値観なんてものは考え方ひとつなのに、生まれ持ったものではないのに、物心つく前から延々とひとつの考え方ばかり教えられてきた結果、大いなる錯覚をしてしまう。恋愛関係は多対多が正常で、1対1はバリエーションのひとつに過ぎない、ってことにしておけばいいのに。
家族愛や友愛は多対多で問題ないのに、どうして色恋沙汰になると1対1ルールの遵守が正しいという考え方を疑わないのか。価値観闘争に勝利してきた考え方なのだから、それなりにメリットがあるのだろうけれど、「価値観は可換である」という前提に立って、冷静に語りなおす価値は小さくないのではないか。
今日もまた、テレビの向こうの世界では「痴情のもつれ」とやらが原因で人が殺されている。どうせ殺人事件なんて、自殺や交通事故と比較すれば少ないものなのだけれど、私は釈然としない。
靖国参拝を「心の問題」で片付けるのが不満らしい。結果の損得をいうなら、痴情のもつれによる殺人こそ優先的に考えるべき問題じゃないのかな。首相の靖国神社参拝で死んだ人を私は知らないけれど、独占欲と癒着した恋愛感情の犠牲になって死ぬ人は毎年たくさんいるよ。
「ラヂオの時間」やっと観れた。素人作家が書いたラジオドラマ「運命の女」が女優のわがままをきっかけにズタズタにされていくコメディ映画。終盤にはホロリとさせるシーンもあって、無茶苦茶なオチを納得させられてしまう。私の母は以前、テレビ放映か何かで観たそうで、「話がよくわからなくて」という。皿洗いと入浴のついでに映画を観るのがパターンなので、なるほどそれではつらいかも。
で、ちょうどテレビ放映されていた「運命の女」という邦題をつけられた映画を観ました。感想はというと、ロケットにまたがった***が登場するシーンがなくて残念(死んだと見せかけてじつは……という展開をギリギリまで期待していたのですがね)。でも基本的な話の展開は「ラヂオの時間」の作中劇と似ていて、何だかおかしい。リチャード・ギアが最後に湖に飛び込みやしないかとハラハラしました。
「運命の女」は妻の不倫から始まる物語だけれども、同じ監督が夫の浮気を扱ったのが「危険な情事」です。ただしこちらはホラー映画。娯楽作品としては「危険な〜」の方が面白いかも。
ところで、「運命の女」→「ラヂオの時間」の順で観た人はどう思うのかな。やっぱり怒っちゃったりするのだろうか。
ぶははは。fujipon さん、また怒ってる。こんなことひとつでなんか、ジダン退場の脱力感だけが残る大会になっちまった
って、厳しいよね。ま、怒る人もいなきゃ世の中回らないのだけれど。
私は、こんなこと書いていることからもお分かりの通り、ありうることがたまたまこのタイミングで起きただけ、と思う。
ぶははは。発言小町って、妙に物分りのいい反応ばかり返ってくること(Ex.既婚者の私と独身の友達 : 発言小町)も多いので、何の心の準備もなしに説教大好き人に捕まって可哀想な目に遭う人も出てくる。まあ、連中なんか信用して相談したのがバカだった、という話。
発言小町は、愚痴を言い合って気慰めにしたいという需要と、ダメな人をバカにしてストレス解消したいという需要が混在している場なので、この手のトラブル(?)は日常茶飯事。正直、私には口うるさい人々を呼び寄せるテーマとそうでないテーマの境界がよくわからず(極端なケースはある)、グレーゾーンを幸せに通過できるかどうかは運の影響が一番大きいのではないかと思っている。
だいたい発言小町の人生相談なんて「人ぞれぞれ+大まかな傾向はあるよ」以外に結論を導きようのないものが大半。悪口書く側も、もう少し手加減すればいいだろうに。というか、人付き合いについて説教している割には、「それでよくこれまで平穏無事に生きてこれたね」と皮肉のひとつもいいたくなるような物の言い方をする人が少なくない。仲違いしても困らない相手にはやりたい放題。
眺めている分には面白い。
URI に使用している deztec という言葉は、当サイトの方向性が定まらない中、既存の英単語などを使うのは避けようと考えて私がひねり出した造語です。
当初の案は、デザイン+テクニックで DezTech というもの。日経BP社公式サイトは現在 nikkeibp.jp と名乗っていますが、2003年当時は「日経BizTech」というタイトルでした。「business→biz」に倣って「design→dez」、「technology→tech」を真似て「technique→tech」と短縮表記し、「BizTech」風に「DezTech」としたものです。
当初案はキーボード入力が煩雑だったので、シンプルな表現を狙って推敲を重ね、最終的には大文字を排除し、h も捨てて deztec としました。「デズテック」と読みます。音を覚えれば綴りは何となく出てくる、そんな感じに仕上がったと思っていますが、いかがでしょうか。私は自分自身が物覚えの悪い方なので、暗記しやすい URI にしたいと、ずっと考えていたのです。
さて、造語だからドメインは取り放題かと思ったら、deztec.com はさすがに存在しました。そこで deztec.jp を取得したという次第。「デズテック、ジェイピー」を、今後ともよろしく。
私はアンチ・コミュニケーション志向の人間なので、「私がメールで質問する→回答をいただく→感謝の返事を書く→感謝への返信をいただく」という一連の流れにおいて、最後のステップは何となく蛇足のような気がしている。それでもまあ、社会の慣習には従っておこうと思い、自分も感謝の言葉には返信することが多いのだけれども。
サイトでよく読まれる記事は、産経新聞の“常識”とはかけ離れていた――産経新聞東京本社の社会部長などを歴任した阿部社長は、このほど都内で開いた説明会でこう明かした。
「私がやってきたような(堅い)記事が読まれるだろうと思っていたのだが、実際に読まれるのは柔らかめの記事や、ちょっとした話題。IT関係もよく読まれており、トラックバックが多く付く。いわゆる“産経っぽいコラム”はあまり読まれない」
この結果は「新聞を作っている側からするとショック」で、産経新聞社内でこの結果を示した時は「みんな驚いた」という。だが「ネットで読まれる記事ばかりを集めて新聞にしても売れない」とも語り、新聞に期待されるパッケージング――記事の選び方や並べ方――と、ネットに期待されるパッケージングは異なるという考えだ。
新サイト「iza!」は、ネットのパッケージングに特化した作り。ネットユーザーに受ける記事や、トラックバックしたいと思ってもらえる記事を前面に押し出して掲載していく。
北朝鮮による日本人拉致事件を最初に報じた阿部雅美さん、現在は産経デジタル社長ですか。さて、あまり読まれないという産経っぽいコラム
とは具体的に何でしょう。
産経新聞は読者の心情に寄り添った社説と記事を書きますが、紙面を隅々まで眺めると、社論とまったく異なる主張も提示されていることに気付かされます。外部有識者の談話やコラム、編集委員らの私見といった形でひっそりと掲載されているそれらの記事は、一部の熱心な読者の目に触れるだけで忘れ去られていく。目立つところに掲載すると「失望した。もうおたくの新聞は読まない」などと抗議の電話がかかってきたりするのだから仕方ない。実際、吉本隆明さんがオウムの麻原さんをすごい宗教者だと書いたら、苦情の電話が鳴り止まなかったそうです。
ひょっとすると、産経っぽいコラムとは、そういった庶民感情に冷や水を浴びせるような記事のことかも。産経デジタルがベータ版を運用中のイザ!(iza!)からひとつ拾ってみます。
「庶民がゼロ金利に喘(あえ)いでいるときに、その元凶たる福井俊彦日銀総裁は高利回りの村上ファンドで儲(もう)けていた」との非難の声が高まっている。
福井総裁の責任追及については、何の異論もない。
だが「庶民は超低金利で苦しんでいる」という理路は本当だろうか。
大分前から、銀行にお金を預けても碌(ろく)に利子が付かなくなったのは事実だ。だが、この間に物価の下落も起こっていたことを忘れてはならない。
仮に名目上の利子率が10%あっても、物価が10%上昇すれば、実質的な利子は差し引きゼロとなる。逆にデフレ時には、物価は下落するが、利子率はマイナスにはならないから、実質的な金利は上がるのだ。
実質利子率が高止まりすれば、お金を借りて投資をしようというインセンティヴ(意欲)が減退し、さらにデフレ不況が増悪する。そうなれば企業業績は悪化し、社員の給料は減り、下手をすれば倒産やリストラで失業の憂き目をみることになる。
そこで日銀は事実上のマイナスの利子率を実現すべく、ゼロ金利の維持に加え、徹底的な量的緩和政策を施行してきた。それによって日本経済はようやく立ち直りをみせた。株価は堅調に伸び、企業の投資意欲もかなり励起されはじめた。福井日銀の功績といえよう。
ところがここにきて福井総裁は量的緩和解除を強行した。その3月以降、株価は低迷し、景気の腰折れ感が漂いはじめている。もちろん日銀の動向だけが要因というわけではない。原油高やアメリカ経済の変調も無視できない。しかし、そういうときだからこそ、日銀はデフレ脱却のための断固たる意思を内外に示すべきなのである。それなのに、日銀はまったく逆にゼロ金利解除を志向している。
速水前総裁の轍(てつ)を踏むつもりだろうか。(評論家・宮崎哲弥)
案の定、寄せられているトラックバックの中で経済学に詳しい方は一人きり。他は総じて「この人、何いってんの?」といった感想。ちなみに【コラム・断】はこうした主張ばかり扱っているわけではなく、大半はむしろ庶民感情に乗っかった内容です。
まさか3日続けて福井さんが話題に取り上げられるとは。大月さんのコラムは面白いと思うことが多いのだけれど、経済問題を扱った今回のコラムを読むに、専門分野以外に関してはいつも無茶苦茶を書いているのだろうな……。こんな流れの中、マイペースで書く佐々木俊尚さんや呉智英さんは偉い。ただし今回の呉さんのコラムはいい加減な内容なので注意。
私がこれぞ産経っぽいコラム
と思った記事を、もうひとつご紹介。
報道は疑ってみることにしている。今、気になっているのは社会保険事務所が年金保険料の不正免除をした件。というのも、読者から「免除された人は保険料も払わずに年金が受け取れるのでしょうか。まじめに納めている者にとって不公平です」との感想を頂いたからだ。
しかし、今回、知らぬ間に保険料が免除されていたのは、ほぼ、申告すれば免除になる人ばかりだ。
所得が低いなどで、本来、免除になるのに、制度を知らないか、情報に疎いかで手続きせず、みすみす無年金になりかねない人を免除にしたのだから、この人たちは助かったわけだ。
では、まじめに納めている人には不利益になるのだろうか。
全額免除になった人は簡単に言うと、年金を「3分の1」しか受け取れない。「それだって、私の納めた保険料でしょ」と思われるかもしれないが、「3分の1」は年金財政に投じられている国庫負担分。つまり、税金が戻ってくるだけ。そもそも保険料を納めず無年金になったら、納めた税金分、払い損なのだ。
もちろん、年金は申告主義だから、勝手に手続きしたのは法律違反だ。しかも、「納付率を上げるため」という目的がこそくだ。だれのために仕事をしているのかと思う。
しかし、制度が複雑なのに、そもそも「申告しないと免除しない」のが不親切なのではないか。いっそ、免除対象者の手続きは社会保険庁が「組織的に」したらどうか。逆に、「食べるお金はなくても、保険料は納めたい」という人だけ申告する−。
一連の騒動で不公平な目に遭ったのは、だれからも「あなたは免除になるから、勝手に免除手続きしてあげますね」と言ってもらえなかった未納者だ。この人たちは「不公平だ」と怒っていいかもしれない。(ゆうゆうLife編集長 佐藤好美)
ひっそりと掲載されたこのコラム(+権丈善一さんの勿凝学問43)と、以下の社説を読み比べてほしい。
全国各地の社会保険事務所が、本人の申請がないのに国民年金の保険料を免除したり、納付を猶予したりしていたことが発覚し、川崎二郎厚労相が悪質だった大阪社会保険事務局の局長を更迭するよう指示し実行された。今後、調査を進め、関係者を処分していくというが、事態は想像以上に深刻だ。中身を変える大がかりな改革が求められる。
発覚したのは、大阪府、東京都、長崎県の計十九カ所の社会保険事務所で行われた計四万二千七百二人分の免除・納付猶予の不正手続きだ。三月には京都府の計五事務所で計八千二百二十七人に対する不正が表面化していた。こんな不正が起きるのは社会保険庁の体質が改まっていない証拠である。
昨年、社保庁は相次ぐ不祥事と無駄遣いで国民から愛想をつかされ、政府・与党が改革案を検討した結果、廃止が決まり、政府管掌健康保険業務は公法人が、年金業務は国の特別機関の新組織が引き継ぐことになった。
今年一月には、その新組織の名称を「ねんきん事業機構」と決めた。意思決定、業務執行、監査の各機能を分離し、年金運営会議が外部の人材を登用して意思決定機能を担う。特別監査官も任命し、監査機能を強化するとのうたい文句だった。
だが、どこが新組織というのだろうか。国民に信頼されるための組織に変わろうとしている矢先に「保険料納付率偽装事件」(民主党の発言)を引き起こすとは言語道断である。
損保ジャパンの副社長から初の民間人長官として登用された村瀬清司氏の指導のもと、社保庁は納付率の向上に懸命に取り組むとし、来年度までに納付率を六割から八割に引き上げることを目指してきた。
それゆえ、強制的徴収に取り組むと同時に、低所得者に対しては保険料納付の免除・納付猶予制度の利用を勧めてもきた。だが、本人の申請がないのに勝手に免除・納付猶予したのでは、単に納付率の数字を上げるだけでしかない。年金財政はいっこうに豊かにはならない。年金改革の精神に対する重大な違反行為である。
国会ではねんきん事業機構に引き継ぐための社保庁関連法案が審議中だ。社保庁の悪(あ)しき体質を引き継がないよう、慎重な論議を期待したい。
国民年金保険料の不正な免除・猶予問題が発覚したことで、社会保険庁改革関連法案は今国会(会期末18日)では成立せず、審議は次期国会に持ち越される見通しだ。
これにより法案が修正される余地も広がるわけで、不正な免除・猶予問題を十分調査し、しっかりした改革を実行してもらいたい。年金制度を持続可能にするには、できるだけ財源を確保せねばならないからだ。
改革関連法案では、社保庁を平成20年10月に解体し、年金事業を引き継ぐ特別の機関「ねんきん事業機構」と、政府管掌健康保険業務を扱う公法人「全国健康保険協会」にその事業を移す。ねんきん事業機構では代表をサポートする年金運営会議のメンバー4人を民間から登用し、意思決定機能を強化するのが特徴だ。もちろん、代表も民間から就任する。
だが、これで十分だろうか。「仏作って魂入れず」ということわざがある。器だけでなく中身である業務執行現場にも経済界などから民間の血を入れないと、改革が進まない可能性は十分にある。
不正な免除・猶予問題を起こした中心は、都道府県単位の社会保険事務局とその出先機関の社会保険事務所という業務執行現場である。そこでは初の民間人長官として登用された村瀬清司氏の方針に反発する職員組合の存在が問題視されている。改革に抵抗する勢力を放置しておくと、不祥事は繰り返される恐れがある。
社保庁改革は、年金保険料未納の急増だけでなく、年金冊子の監修料名目の裏金を組織ぐるみでつくったり、タレントや国会議員ら有名人の年金情報をのぞき見して漏らしたりと不祥事が相次いだことから始まった。問題の根がいかに深いかが分かる。
職員の仕事ぶりをきちんと評定し、降格人事を含めた適切な人事異動を実施することが不可欠だろう。
村瀬長官は民間企業並みのサービス向上を求めてきた。「ノルマで締め付けない」「職員の競争をあおらない」といった組合との旧来の約束事も破棄した。そして数値目標を課した。民間企業なら当然のことだ。
長官の辞任を求める声もあるが、追及されるべきはあくまで社保庁職員の体質なのである。
主力読者層にウケるのは社説の方なのでしょうね、残念ながら。だから社説はウェブで公開され、佐藤好美さんの記事は紙面の片隅にこっそり掲載されるのみ……。
正直、iza! の記者ブログを読んでいると、経済記事を書く記者が少なくともある面において素人の私にも劣る見識しか有していないのは事実です。しかしやはり精力的に取り組んでいるテーマについては「わかっている」のではないか。それでいて、読者の直感的な「正義」に反しない内容しか書けない、現場の記者の到達した結論がデスクや論説委員に理解されないのではないか。
これはよくあることで、年金問題に詳しい権丈善一さん(慶応大学商学部教授)の勿凝学問シリーズはたいへん説得力があると思うけれど、例えば権丈さんのご家族の方が「年金偽装問題」についてどんな見解を持っているのか、というと? 怪しい、と思います。
ところで、bewaad さんが4月に紹介されていた公務員年金の話題(2006-04-29, 30)については……佐藤好美さんもご存じないかも。お勉強してもウケる記事にならない分野だけに。
こちらは一般の弱者に関わる問題だけに、こんな記事を書いている記者さんも、じつはよくお勉強されているはず、と信じたい。例えば「90年代の格差拡大の主因は失業増か」といった議論だってご存知なのではないかな。
iza 読者ブログで20本記事を書いたけど、やっぱり数打つのも才能だと思うな。読者が少ないのをいいことに、好き放題に書いてやろうと思ってバリバリ書いたみましたが、すぐに息切れ。ここで書いていると「読者が多い不自由」を感じるけど、これくらいに落ち着いた方がむしろ「続く」というか、少し抑制しながら書くペースに慣れてしまったんだね。
iza は入力が WYSIWYG か HTML の直接入力か、ということになっています。記事の再利用も念頭におくなら HTML の直接入力しか私に選択肢はない。当初、ちょっと夢想したのは、iza で人気ブログにのしあがろうかな、みたいな話。でも夏バテでこちらのサイトを放り出してる人間が、どこからそんなエネルギーを調達できるのか。じゃあ、メモ的に使う? うーん、それでも WYSIWYG は私のセンスにフィットしないな(ふつうの人にはいいと思う)。やはり私の場合、メモ的に使うにしても、はてなダイアリーのようなシンプルなテキストベースのシステムがいい。
ま、アカウントは残しておくけれど、記事はどうするかな……。iza の記事は半年で消えるそうだし、半年経つか、1日の訪問者が0人になったら私の記事も消すか。トラックバックの管理も面倒くさいし。
こんにちは。はみ出し記者の原口和久です。フォントいじりとフランクな文体でおなじみの当ブログへようこそ。ちなみにフランクな文体は地で、当初は物珍しかったフォントいじりも最近はちょっと飽きてきました(この部分を読んで「ははあーん」と思った方は相当のブログ通かもしれません)。
ぶはははは。
フォントいじりブログ。フランクな文体は地なのか、何か狙っているのか。
それにしても、私の一言感想をどうやってみつけたのかな。……と思って調べてみると、
うわあっ、検索順位第2位って。なんで ITmedia より上なんだ?
おそらく現在、1日100〜200人が読むブログを最も簡単に作れるサービス。
これまでいろいろブログを書いてきたけれど、どうしても1日100人の壁を破れず悔しく思ってきた人にはお勧めしたい。
具体的には、アクセスの多い記事を表示し、「ブログを書く」とすればよい。iza のトラックバック一覧には、記事の概要が表示されない。本文が無内容でもリンクをたどってみなければ判断がつかない。無論、しょうもない記事ばっかり書いていればそのうちに「こいつはダメだ」とクリックされなくなるだろうが、そうなったらブログの名前を変えてしまえばよいだろう。
……ただし将来的には、アクセスの多い記事にはたちまち3桁のトラックバックがつくようになることが予想される。mixi ニュースがまさにそのような状態だ。そうなると、たくさんの関連記事(親切にも iza の方でリストアップしてくれている)に検索トラックバックするとか、タイトル設定の妙とか、そういった涙ぐましい努力の時期がくる。とくに前者の方法は衝撃的なまでに効く。
もっと時間が経つと、人気ブログとそうでないブログの差は歴然としてくるので、今のうちに頑張って常連読者を少しでも増やしておくこと。iza はブログ単位での売り込みはしづらい仕組みになっていて、基本的には弾数の多い者が圧倒的に強いのではあるが、β版がはじまって半月あまりで早くも人気ブログとそうでないブログとの間には100倍近い人気の差が出ている様子だ。
慣性の法則はブログのアクセス数においても(そこそこ)有効で、成り上がりの簡単な時期にいいポジションを獲得してしまえば、その後、少々休んだってどうということはなくなる。今日、人気のあるサイトは、基本的には、今日面白いサイトではない。では何なのかというと、今日、読者の期待を集めているサイトなんだ。その期待はどこから来るの? そりゃもちろん、過去の実績からくるわけさ。
読者ブログの人気トップ3がコレ。私のいいたいことも、実際に人気ブログをご覧いただければ、よーくご理解いただけるかと。
ともあれ、10万人を超える読者が読むサイトが全記事にトラックバックを無制限に受付けているわけであり、今ここで頑張って1日100人が無理なら、今度こそ諦めなさい、といいたいね。もちろん、あるとき突然に目覚める人もいるわけなんだけど。
いやー、軽ーく書いているけれども、「1日100人に読んでほしい」という思いの切実さ、この目標の遠さについては私自身、半ばトラウマのようになっている体験があるので、ときどきメールで寄せられる「どうしたらいいんでしょう?」という質問には胸を締め付けられる思いがする。
今なら簡単ですよ! この機会を逃さず、頑張ってほしい。切実にそう思います。
CNN.co.jp : こぼれ話の産経新聞バージョン。
対談の全容を見せることを原則とする「ほぼ日」ならではのインタビュー記事。やっぱり説明に一定の分量を要する話というのはありますよ。
「Advice」の過去ログが参考になったとのこと。こうした感想は嬉しい。
「夏休みの宿題」を紹介してくださった記事。で、お役に立ったのかな?
もうそろそろ小学生は夏休み。作文と自由研究についてはまあ、現状で十分かと思う。今年は図画講座などを拡充しようかな。あと算数の宿題などについても少しだけ書き足すつもり。
例年、暑くなってくると私は更新を休止します。休止といいつつ、ちょこちょこ書くのだけれど、ともかくトップページに「休止」宣言を出すわけです。今年も本日をもって「休止」とさせていただきますので、よろしく。
例年、休止中にはどこかのレンタルブログを試用しまして、「1ヶ月たっても1日0〜3人がアクセスするだけの零細ブログのまま→やっぱり自分の書いてることなんてそんなに面白い内容じゃないよな、と再認識→帰ってくる」という経験を繰り返しています。今年もどこかで何か書く、かもしれない。
ちなみに、アカウントはあらかじめたくさん用意してあります。以下はその一部。
……無論、リンクしたアカウントは使いませんのでご注意を。
fc2blog は Folio の編集者用ブログとして以前、利用しており、現在はその過去ログ保存の役割を担っています。いわば「使用済」のため、リンクを控えた次第。
すごいらしいが、ナローバンドなので閲覧不能。
この話題に関連して。
こんな妙な転職があったとは全然知らなかった。報道されなかったよなあ。そういやDNA鑑定が出た直後に村上龍が「なぜ第三国に依頼して説得力を高めないんだ」とえらく筋の通ったことを言ってたが。これはヤバイだろ。
産経新聞は2005年3月26日朝刊の社会面にて、遺骨を鑑定した帝京大学の吉井さんが警視庁へ引き抜かれた件について報じています。こういうことは、多い。→報道は不十分なのか(2005-08-18)
北朝鮮が提出した「横田めぐみさんの遺骨」が偽物であったと日本国政府が発表したのは2004年12月8日午後の官房長官会見の場でした。新聞報道は翌9日朝刊に始まっています。
横田めぐみさんのものとされる「遺骨」はDNA鑑定により、二週間余りで「別人」との結論が出された。
「北」が遺骨を焼いたため、鑑定は困難とみられていたが、現在は一億八千万人中の一人を判別するまで鑑定技術が向上している。捜査関係者は「北は日本の科学捜査を甘くみていたのでは」と話している。
めぐみさんの事件を捜査する新潟県警は十一月下旬に警察庁科学警察研究所(科警研)と帝京大に依頼。遺骨は高温で焼かれた上に細かく「やってみなければ鑑定できるかどうかも分からない」(警察庁幹部)という状態で、科警研での鑑定はDNA検出が困難で「鑑定不能」だった。
しかし、帝京大で最先端のDNA鑑定の結果、「遺骨」から二人の人物のDNAが検出された。関係者によると、横田さんの両親が大切に保存していためぐみさんの臍(へそ)の緒から抽出したDNAと異なることが、七日に判明した。
帝京大の鑑定技術は「国内最高水準」(新潟県警)。オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件など、事件捜査で鑑定を行っているほか、旧ソ連に抑留されて現地で亡くなった戦没者の遺骨鑑定も担当、遺族の特定につなげた。
帝京大での成功について、民間のDNA鑑定会社「DNAソリューション」の船越一弘社長は「DNAの抽出に使った検体の違いや、試薬の種類、抽出後の鑑定作業の違いが結果につながった」とみる。
鑑定は、DNAを包んでいるタンパク質を試薬で酵素分解してDNAだけを抽出、これを比較対象のDNAと特徴を比べて行う。
「研究レベルであれば、試薬は最新のものも含め何種類もあるだろう。二人の人物のものとまで鑑定できたのであれば、正常なDNAが抽出できたと思われる」と船越社長。抽出したDNAの一部が破損していても「破損程度によっては時間と労力をかけDNAの正常な特定部位を割り出し鑑定することも可能」という。
そして国会論戦の模様は以下の通り。
- 首藤委員
- そういう話は我々はもう新聞でも何でも読んでいるわけですけれども。
では、何で障害になっているのかというと、それはやはり日本と北朝鮮との関係ですよね。障害になっているのは二国間の関係なんですよ。その二国間の関係のどこが起点かというと、それは昨年に外務省が派遣団を送って、そこで横田めぐみさんの遺骨と称されるものが送られてきた、それを科学分析に回したらにせものだった。そういうことで十二月から一挙に緊張感を強めて、日本は小泉さんが約束した人道支援まで打ち切っちゃったわけですね。
では、そのもととなった、横田めぐみさんの遺骨がにせものだった、かくも不誠実な国だ、かくも私たちをばかにしている国だ、こういうふうに一方的に言っているわけですけれども、では、その科学的分析というのは、これはもう前回言わせていただきましたこのネイチャーで、いや、そんなことでは、火葬になった骨の断片からは、今の技術ではミトコンドリアのDNAは発見されないというのが科学的知見であり、発見されたとしても科学的にそれを確証できないという記事が出ました。
私は、世界を代表するような科学雑誌のネイチャーがそういうことを発表したのは驚いたんですけれども、さらにまた、それの継続でネイチャーは、日本政府をもう一度、日本政府のやっていることは科学を政治でゆがめているとエディトリアルで書いているわけですよ。
このネイチャーは、御存じのとおり、何か趣味の人が見るのではなくて、世界を代表するような科学者、何十万人の大科学者がそれを見ているわけですよ。だから、もしそういうことで、ネイチャーの言っていることに日本も反論できなければ、これはもう本当に日本の科学の水準、そしてまた科学を日本が悪用しているんじゃないかという批判にこたえられないわけですよ。
これは既にもうネイチャーだけではなくて、韓国でも大変強烈な批判があって、韓国は日本と違って、例の有名な地下鉄の火災事件というのがあって、地下鉄で犯人がガソリンをまいたために百人を超える人が焼死体になっている。本当にたくさんのサンプルがあるわけですよ。そこでも、こんなに限られた空間で、こういう火葬とかシステム的に高温の熱を与えるんじゃなくて、火葬というのはばらばらな条件があって、靴を履いていれば温度が下がったりいろいろなことがある。それにもかかわらず、韓国では、その焼死体の中の焼けた骨からは一切DNAが発見されなかったということなんですよね。
それから、九・一一のアメリカのテロの中でも、あれも本当に限られた、しかも火葬とかいうんじゃなくて本当にいろいろな条件があって、もっと検査という点ではよりDNAが残りやすい状況にあったにもかかわらず、何と四割が確定できなかったというように言われているんですよ。
どうしてそれが日本で認められるのか。そんなだったら、日本の科学的水準が本当に怪しいものだ、しかも、それを政治がゆがめているという評価が定着していきますと、例えばBSEの問題に関しても、日本がこういう科学的な成果があるからアメリカじゃなくて日本はこちらへ行くんだと言っても、世界で通らないじゃないですか。
ですから、そうしたネイチャーの第二回のものが、エディトリアルが出て、世界じゅうから日本のこの検査に関しては大変な批判がある、これに対して日本政府はどういうふうに対応しようとしているんでしょうか。いかがでしょうか。- 町村国務大臣
- ネイチャーが立派な雑誌であるということは私も承知をしておりますが、一々の報道等には、それは必要があれば反論してもいいのですが、私どもは一々それについて言う必要はない、こう考えております。
御指摘の取材を受けた関係者に対しても、これは私ども、直接というよりは捜査当局の方から事実関係を確認したわけでございますけれども、その関係者は取材の中で、焼かれた骨によるDNA鑑定の困難性一般論を述べたにとどまっておりまして、当該鑑定結果が確定的ではないんだという旨を言及したことではないということをその方が言っておられると私どもは聞いております。
いずれにいたしましても、この当該報道が今回私どもがやったこの鑑定結果に何らの影響を及ぼすものではない、私どもはそう判断をいたしております。- 首藤委員
- 違いますよ、外務大臣、これは日本の、あるいは東アジアの安全が絡むかもしれない大きな問題なんですよ。いろいろ緊張関係があって、もっと大きな深刻な問題になったとき、あるいは日本が国際社会で拉致問題を解決するために訴えて、その起点がどこにあるか論争になったとき、日本の態度というものが、こんなに非科学的なことで日本が主張してきたということが明らかになれば、我が国は再度、私たちの名誉を失っていくわけですよ。ですから、このことは本当にそんな一雑誌の問題ではないんですよ。
私自身も、その雑誌の記事を書かれたシラノスキー記者にインタビューして詳しく聞きましたよ。そうすると、やはりこれは、それを分析された吉井講師自身が、これは驚いた、自分でもまさか出てくるとは思わなかったというぐらい、彼らにとってもたまたま出てきたことなんですね。
しかし、問題は、それがうそだとかいうんじゃなくて、明らかに、吉井講師自身が認めているように、骨というものはまるでスポンジのようにいろいろなDNAを吸収してしまう。そこで人が話していて、例えばつばが飛んでいったり、あるいはそういう何か生体の微妙な飛沫、汗とか空気の中の湿気とか、そういうものでもDNAというのは吸収されていくわけですね。
そこで、例えば、違うというならば、ほかの人のDNA、ミトコンドリアが出るというならば、例えばそこの研究室にいるすべての女性のDNAをチェックしたか、そういうことが本当は必要となるわけですが、この問題がどういうふうにされたかは大変疑問なまま、あたかも科学的な証拠だとして外交の関係を断絶するぐらい大きなことをやり、それが六カ国協議の障害になっているんですね。この責任というのは、やはり政府の責任というのは余りにも大きいと思うんですね。
問題なのは、ではもう一回骨を出してくださいと言ったら、それは実験の過程で粉砕しちゃってなくなっちゃいましたと。証拠がなくなったら、これは反論しようがないじゃないですか。いかに北朝鮮のいわゆる備忘録がインチキだとかいったって、こちらも立証できなければいけない。
そこでお願いしたいのは、分析ですけれども、クローン化していくわけですね。ただその骨からDNAを取り出すんじゃなくて、それを、そのミトコンドリアのDNAをクローン化していく、いわゆるネステッドPCRという方式で吉井講師が独自にやられるわけですけれども、当然のことながら、その結果として出たものは何かの形で残っているんです。
骨自体は、粉砕しそれを溶液に浸して溶かしてしまったかもしれない。しかし、その結果を遺伝子に写したプライマーや、あるいは、もし細菌とかそういうものに写したら、それはそこのコロニーには当然のことながら残っているわけですね。それは果たして残っているのか。もし残っていなかったら、私は、それは証拠を隠滅したことになる、そうじゃないでしょうか。警察の御意見をお聞きしたいと思いますが。- 瀬川政府参考人
- お答えいたします。
本件鑑定は、まず申し上げますと、横田めぐみさんの遺骨であるとして北朝鮮側から提供があったものにつきまして、刑事訴訟法の規定に基づきまして、厳格な手続によりまして、国内最高水準の研究機関であります帝京大学及び科学警察研究所でDNA鑑定を実施したものでございます。
今御質問の中で、いわゆるコンタミネーション、汚染の可能性ということも御指摘をされましたけれども、そういった問題については、鑑定人において十分考慮され、骨片をまず十分に洗浄した上で鑑定を行ったものと聞いております。その表面を洗浄した液からはDNAは全く検出されていないということでございまして、骨表面の汚染物質によるDNA鑑定の結果ではないということが鑑定書の中においても明らかになっているところでございます。
それから、お尋ねの鑑定に供したDNAの増幅物は保存されているのかということでございますが、具体的な鑑定の内容につきましては捜査上の問題でございますので差し控えさせていただきますけれども、一般論として申し上げれば、こういった鑑定に際しましては、鑑定の客観性を確保するために、可能な範囲で再鑑定のための考慮というものが払われているものであるということは申し上げておきたいというふうに思います。
ただ、本件の鑑定は、事の重大性、重要性を十分考慮しまして、鑑定人において二度にわたって行われました。二度とも同様の結果が出たものであるということを申し上げておきたいというふうに思います。- 首藤委員
- いや、局長、それはおかしいですよ。刑事訴訟法でこういうような手続で、例えば人の罪科が決まり、警察は柏に巨大な科学警察研究所、科警研を持っていて、にもかかわらず一私学の一講師がやっている研究機関が日本の最高水準というんだったら、それなら科警研は廃止したらいいじゃないですか。膨大な人間がいて。そんなことで有罪、無罪の証拠が出たら、科学警察じゃないし、近代警察じゃないですよ、それは。
それは、当然のことながらクロスチェックをして、もしこういうような国際的な問題だったら、国際機関にも頼んでやって、それから例えば先ほど言っていたネステッドPCRの結果、サンプルが残っているならそれを今提示されたらどうですか。我が国も吉井講師以外にもいろいろな法医学の専門家がたくさんいて、その方たちが見て、ああ、それは間違いない、これは確かにそういうことがあって、コンタミネーションじゃないということがわかれば、それはそれでまた一つの外交をバックアップする事実になっていくわけです。ですから、どうしてそういうことをされないかですよ。
私は、吉井講師に会う必要はもちろんあると思いますけれども、それはまたこれからの話題として、その吉井講師が何と警視庁の科捜研の研究科長になっちゃった。これ、職員ですよ。科学警察の研究所へ出向されるとか、そういうことならともかく、一民間人のおよそ警察的な訓練を受けていない人が警視庁の科学捜査の、捜研の、それの職員になってしまう。それは、多くは今既に言われているように、証人隠しじゃないですか。
こんなことをやっていては日本がやはり世界から認められるわけないですよ。こんなこと、分析結果、私は北朝鮮の今までやったことも言っていることもでたらめだと思いますよ。しかし、相手がでたらめだからといってこちらがでたらめをやっていいということは何もないんですよ。やはりきちっとやっていかなければいけないんだと思うんですよ。
そうした問題に関して大臣にお聞きしたいんですよ。ですから、客観的に言うと、これは韓国でもアメリカでも、このネイチャー誌を見た人からもうぼろくそに言われています。それならば、なぜこんなインチキなものをやったか。二つしかないんですよ。
一つは、もういいから、北朝鮮との間はもう完全に国交を断絶するつもりでばんとぶつけてやる、もう言い言葉に返す言葉でぶつけてやると。あるいは、横田めぐみさんが本当にどこかで生きていると確証を持っていて、だから遺骨なんというのは全部うそなんだということを考えておられるのか。どっちのケースでしょうか。外務大臣、いかがでしょうか。- 町村国務大臣
- 委員から我が方の科学的な鑑定のその信憑性をまことに疑わしめるような、そういう御発言があったのは、私は大変残念なことだと思います。私どもは、何の予断も持たずに、あらかじめどういう結論を引き出そうということで警察の鑑定を受けたわけではございません。あくまでも鑑定は鑑定として、客観的、第三者的なものに答えを出してもらおうということで警察の方がなさったわけであります。
それについてまことに今の委員の発言は、何かあたかも結論を持ってそういう結果をもうどんどん書いたと言わんばかりの御発言は、ぜひこれは、私どもがこの問題に真剣に取り組んでいるということに対する半ば侮辱ともとれるような御発言でありますから、ひとつ私は、その辺はよく慎重に言葉を選んで御発言をいただきたいとお願いをいたします。- 首藤委員
- いや、外務大臣、今おっしゃった言葉はそっくりお返ししますよ。私は、こういうことを言えば、私のところにはたくさんの抗議メールが来て、いろいろな電話がかかってきて、大変な思いをしているんですよ。しかし、私は、日本の名誉のために、国会議員として真実を明らかにしなければいけないと。
私は、別に政府を批判しているんじゃないんですよ。真実はどこにあるのか。真実を確証できるならば、証拠があるなら、もう一度確証したらどうですか、そういうことを言っているわけですよ。それは、ですから外務大臣、まさに同じ言葉をお返ししたいと思います。
残念ながら時間になりましたけれども、私は、この問題を明らかにしなければ必ず国際社会の場で日本が再度たたかれることになる、したがってやはりこの問題はしっかりして先へ進んでいきたい、そういうことを切に切にお願いして、質問を終わります。
どうもありがとうございました。
首藤信彦さんは2005年9月の衆議院議員選挙で落選しました。私は首藤さんの日頃の主張には感心しないことが多い。けれども与党に真実をきちんと明らかにする意欲が欠けている問題について、野党の追及は必要だとあらためて思う。
遺骨は偽物と発表して以来、「なぜ経済制裁しないのか」と世論が盛り上がっています。しかし政府は、次第に包囲網を狭めつつも、現在に至るまで強力な制裁を発動していません。それは何故か? という問いに対する、ひとつの答えがここにあるのだと思う。
ビリヤードの世界を描いた映画。「ハスラー2」は冒頭にナインボールの説明があるのだけれど、「ハスラー」(あらすじ)にはストレートプールのルール説明がなくて困った。まあ、わからなくてもストーリーを追うには困らないのですが。
「ハスラー」が1961年、「ハスラー2」が1986年で、25年の間隔があります。「ハスラー2」に閉鎖されたビリヤード場が登場しますが、ルール説明の有無に時代背景が現れているのでしょうね。
このサイトは面白いと思う。メルマガのバックナンバーも読める。以下は関係ない話。
なんで TOSS ってこういうことができないんだろう。またその話か、といわれそうだけど。やっぱり残念なんだよね。向山式跳び箱指導法が四半世紀かけても教師の常識にならなかったし、今後もなる気配がないのだから、現在の活動の形は当初の目標を達成できないことが明らかだと思う。
高々数万人の教師に教育技術の重要性を説くことに成功して「私たちはすごい」と士気を鼓舞している間に、100マス計算のようなくだらない指導法にしてやられたり、昔から提唱していた音読がブームになっても時流に乗れなかったり。ようするに、狭く深い洗脳は得意だけど、広く浅い洗脳が決定的に苦手。
これではいつまで経っても局地戦の専門家のまま。大局的な勝利をつかめないゲリラの強さでしかない。TOSS インターネットランドの閉鎖性、検索エンジンでの弱さは、まさに向山流運動術の限界を示すものだと思う。
野口嘉則さんは企業向け研修の企画・管理を本業とされている方。ブログで日々情報発信をする中で読者の反応が飛び抜けて高かった1本の記事を見逃さず、ここぞとばかりに圧倒的なエネルギーを集中投下してウェブでプチブームを巻き起こし、書籍版もヒットさせ、本業の成功にまで結び付けた。こういった才能というか、やり方の妙を TOSS は真似できない。
法則化(TOSS)の本が売れているといっても仲間内で一定部数を捌いている事情がある。実際、本を読んでみても TOSS の教師が TOSS を自画自賛する内容ばっかり。サラッと読むだけでも宗教めいている、といって敬遠される。学生運動の体験をベースにした向山洋一さんのやり方では、党員数と政治資金では最強だが肝心の議席数が貧弱な共産党の立ち位置しか狙えない。
「小さな成功体験」から現在のような運動の展開方法に固執する限り、展望は開けないと見る。
私は単にウェブ戦略の観点から TOSS は野口さんのやり方を真似すべきといっているわけなんだけれども……。仲間じゃない人のリンクを禁じた TOSS とは逆に、野口さんは無断リンクどころか無断転載まで容認して自らの主張の口コミ普及に努め、書籍の販売に当たっては多くの読者を巻き込んでキャンペーンをぶち、実際に Amazon で瞬間風速的に1位も獲ってみせた。
教育技術の普及で子どもたちを救うのだ! というなら、無断転載だって何だって認めればいい。みっともないことだってすればいいんだ。向山型算数をはじめとする各種指導法などを、TOSS と縁もゆかりもない人が書籍や雑誌で勝手に紹介することに目くじら立てるべきではなかった。そういう話を、私はしているのです。
地下鉄サリン事件はいわれるほど規模の大きなものではなかったのかもしれないね、という読み方も、じつは可能。つまりさ、全否定のバカバカしさはこれで伝わるとして、規模の議論が延々と続く理由はよくわかる。最近の大事件でさえこんな調子なんだから、昔の大事件の実相がわからないのも当然だな、と。
いろいろ思うところはあるが、リンク先は抄録なので保留……と逃げる。
この手の話題、ずいぶんいろいろ読んだけれど、そろそろ飽きモードの循環期に入ってきたな……。
血液型を性格に結びつける俗説と一緒。水が答えを知っているという人なんか、放っておけばいいし、学校で江本さんが講演してもそれで世界が終わるわけじゃない。日教組もゆとり教育も少年犯罪を増やさなかったし、平均の学力はいまだにアメリカより高い。
気になるごく一部の人が怒って声を上げる、それくらいで十分、バランスしているような気がしてきた。W杯サッカーで精神力とか奇跡とか祈るとか何とかヤバげなフレーズが連発されていたけれども、あれだって一部の人が「おいおい」と突っ込みを入れるくらいでバランスしちゃってるんでしょ。
私は今、仮に地元の豊島区で学校が「ゲーム脳」の講演を主催したりしても、何もしないよ。税金の無駄遣いをするなという気力もない。(って、こういう記事を書く気力だけはあるというのが、どうもね)
VIP ブログ騒動でいろいろ心配したけど、騒動直後の6月にもこれほど多くの 2ch 系ブログが誕生していたとは……。金儲けが非難を集めるなら、アフィなしのまとめサイトが登場するだけ。
と私は書いたが、まさかここまで騒動の全体への影響が小さいとは予想していなかった。
騒動のあおりをくって更新停止となってしまったデータベース系サイトがいくつもあったが、もったいないことをしたものだとあらためて思う。
教科書の「本文」がこなれすぎていて、文法学習用の例文としては使えない、という話題。
私が塾で採用していた講義手順は、1.単語学習 2.各レッスンの末尾に用意されている構文演習 3.応用問題として本文を読む ……というもの。基本的にはこれでうまくいく、ような気がします。
関係ないけどついでに書けば、プリント攻勢は学力中位以下の子には拷問。教科書だけ使うのがいいですよ、家庭教師のアルバイトをしている(ふつうの)大学生の皆さん。学校配布のワークブックはギリギリ可。これはプリントの内容がいいとか悪いとかいう以前の問題なのでご注意。学習環境をシンプルにすること。
こうした事件が起きても MySpace に本名と住所を掲載する人が多い。まあ、そういう文化なんだな。
「メリットがなければ匿名でいいよ」が日本の文化、多くの諸外国の文化は「格別に大きなデメリットがない限り実名でいいよ」なのでしょう。
mixi って匿名の人ばっかりだから、旧友を探す役に立たない。かつての「ゆびとま」はその点、ばっちり機能していて便利だったんだけど。いまさら同窓の旧友を探そうなんて単一の目的を掲げて成功する SNS なんてありえないことは、先日、CURURU が証明してしまったんだよね……。
いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関
を標榜する長周新聞の記事だということに留意してご一読を。
死後数カ月たって見つかるケースが増えていることについて、夫婦共働きが増えてほとんど家にいない親が増えていることや、市の予算削減で、市営住宅に管理人をおかなくなったり、自治会のお祭りや行事が極端に減ったことで地域のつながりが希薄になっていることなどが語られ、社会保障費を切り捨てる「自己責任」政策の結果と語られている。
地域のつながりが希薄化したのは、つながりたくない人が増えたから。お祭りや行事の減少はその結果として起きたが、希薄化に拍車をかけたのも事実だろう。
2人の小学生の子どもを持つ30代の母親は、「パートで老人施設に働きに出ているが、そこでも親族もお金もない老人は悲惨だ。亡くなったあとも病院には引き取り手のないお骨が放置してある状態。わたしの母も年金5万円で暮らしているのでなんとか引き取ってあげたいが、子どもを抱えて家計も厳しい。夫婦共働きだが、税金から家賃、光熱費、医療費などは値上げされ、食費から切り詰めているくらいだから引き取ることができない」と話す。
いま、年金5万円で母親は何とか生きている。だから母親を引き取れば、家賃分くらい、むしろ家計を援助してもらえるはず。しかし人と人が同居すると、お互い相手に過剰な期待をし、過剰に尽くそうとする。母親は5万円を家計に入れて6万円分のサービスを求め、娘も期待に応えるべく奮闘して疲れ果てる。そうなるとわかっているから、娘は母親を歓迎せず、母親は娘に遠慮して孤独に死ぬ。
数年前に離婚して、20代の息子1人、初年性認知症の母親をかかえ、家事さえまともにできない体では店もたたむほかなく、息子も失業中でアルバイト生活。収入はないが、医療費はかかる。藁をもすがる思いで区役所に生活保護の申請を相談にいった。
「働けるようになるまででいいから助けてもらえないか」と必死に頼み込んだが、母親がかけていた生命保険があることを理由に断られ、それからは何度頼んでもノレンに腕押し。生命保険は母親の葬式代としてとっていた唯一の蓄えであって切り崩すわけにはいかず、その後は、家族3人が月7万円の母親の年金での生活となり、電気はつけない、トイレの水も流せないという毎日を2年間送った。
貧乏で葬式を諦める人、私の母のように個人的な信念で葬式も墓も無用という人がいる中、葬式に固執して生保を解約しない人に生活保護を出せないのは当然、との見方もあろう。
「働けないため収入がなく、年金もまだもらえない。寡婦手当をあてても医療費が5万円もかかっては生活できないので、区役所に生活保護の相談に行っても成人した子どもがいるということでけんもほろろに断られた。20代でまだ経済力がないうえに家族もちの息子を頼るわけにはいかない。孤独死は他人事ではない」と語った。
現在この母親はギリギリ医療費を払えているらしい。息子と同居すれば家賃が浮く。孫の面倒を見れば保育園の保育料も要らなくなる。それでも息子を頼るわけにはいかない
といって独居を選ぶ理由は?
ようするに、孤独死も(多くの場合)選択の結果なのだ。最低限の衣食住+義務教育だけの子育ては嫌だ、あるいは仕事が楽しい or 貧乏暮らしは嫌だ(から共働きしたい)といって子どもを作らない少子化問題と同じこと。親を扶養したくない子、邪魔者扱いを甘受してまで強引に子どもの家庭に入り込む気のない親、共同生活したくない老人たちが作り出す孤独死。
みな、これ以上は引き下がれないというラインを引いて、その前で戦っている。生活保護制度は、生き方へのこだわりを捨てることを要求する。自分の所得をちょっとだけしか再分配されたくない私たちは、この冷酷な仕組みを必要としている。
五分位階級別の所得の状況によれば、第二階層の収入は第一階層の2倍を超え、第三階層にいたっては4倍近い。なのに「生活が苦しい」などという。そして6倍の収入がある第四階層の人までもが、「俺には貧しい人を助ける余裕なんてない」。上ばかり見て足るを知らぬ人々は、今日もまた同情だけしてカネは出さない。
面白かったのでご紹介。日本人の生活の実相がよくわかります。ただし概要ながら、けっこう分量はありますので要注意。お急ぎの方は新聞報道を参照してください。やっぱりこうした資料を一般人が直接に見るのは面倒くさい。新聞記事はよくできているな、と実感します。
本当に貧しい人がどれくらいいるのか、金持ちがどれくらいいるのか、一目瞭然。とりあえずこの図だけでも、目に焼き付けておく価値はあるかと。
この図で注目すべきは、世帯人員1人当たりの平均所得金額。年功序列の必要性が理解できます。
ま、こうした図表が何となくイメージとして頭に入っていると、例えばこういった記事の見え方が割とクリアーになってくるのではないかな、と。
1カ月の生活費は、時給608円で22日間(1日8時間)勤務したと想定して計算。賃金10万7008円、手取り額9万4227円とした。住居費は青森市の標準生計費を基に、一律2万1820円に設定した。
という。労組がやっている実験なので、結果ありきなのはわかりきっているが、それでも面白いね。
毎日新聞の記事は、きちんと出費の内訳を報じていた。3週間で食費が1万4千円〜2万7千円となっていて、なるほどね、と。私は初めての一人暮らしでも週4千円からのスタートだった。今では週3000円まで落ちている。自炊なら、それでお腹いっぱい食べられる。当初、牛肉は無理だ、と思っていたけれど、特売を利用すれば問題ないことも判明。そういうものか、と思った。なお30代女性は家族で暮らしているそうなので、これは本当に奮闘した結果なのかもしれない。
食費 | 住居費 | 衣料費 | その他 | 支出総額 | 残金 | |
---|---|---|---|---|---|---|
40代男性 | 21796 | 21820 | 800 | 11460 | 55876 | 38351 |
20代男性 | 14251 | 21820 | 105 | 50114 | 86290 | 7937 |
40代女性 | 15895 | 21820 | 0 | 2806 | 40521 | 53706 |
30代女性 | 26838 | 21820 | 0 | 41065 | 89723 | 4504 |
ま、とりあえず一人暮らしなら、最初は慣れなくて苦労するにしても、すぐに家計は黒字になると思う。そうしようと努力すればね。私の家賃+光熱費+通信費を除く全支出は3月83605円、4月79363円、5月74483円、6月51086円となっている(家計簿による)。これくらいお金を使うと、4ヶ月で100冊の本を読み、98枚のDVDと11枚のCDをレンタルして視聴できる。満足というか、これ以上は時間が足りなくて無理。
ところで、高度成長期の日本人はもっと貧乏だった。当時は、みんなどうしていたの? 訊ねてみると、ルームシェアしたり、友人の家に泊めてもらったり、そうして家賃を少しでも浮かせていたんだ、という答えが返ってきた。なるほど、それなら生活の知恵も共有できるよね。そうしてレコードを買ったり、映画館へ行ったり、いろいろやっていたわけだ。
こちらは京都の事例。青森より大規模にしっかりデータを収集している様子。家族のいる人は給与補正を入れている。なのに、なぜ結果データを公開しないのかなあ。統計処理した結果ならプライバシーには引っかかるまいに。
ふと思い立って、個別記事に広告を貼ってみました。半月くらい試してみて、(私にとって)目障りなままなら止めます。今のところ、けっこう邪魔な感じ。
Amazon Search の方が自由度が高く記事の内容にも見合った広告が出ていいかな、とは思います。現在はおまかせリンクを試用中。内容との対応精度が悪いと、本当に単なる広告にしかならない。私自身が本を探すのに役立つといいな、と期待しているのですが、今のところ打率はあまり高くないですね。
ところで、おまかせサーチは Amazon 謹製のツールにしては珍しく外観の設定可能項目が多く用意されています。デフォルトの配色はけっこうどぎつい。でも、ちょっと調整すれば、おとなしい見た目になります。
ドコモ子会社アルシェール社長大野聡子氏は元AV女優(涼川あんな)では無いと証明しよう!まとめサイト内の1コンテンツ。
こんなことをやいのやいの追究しようというエネルギーがどこから出てくるのか、私にはよくわからない。サルでもわかる
というので期待したが……。
- 公共性の高い一部上場企業であるNTTドコモが、ほぼ100%出資している社内ベンチャー企業である事。
つまり本人はほとんど金を出しておらず、NTTドコモの金(=顧客から徴収した通話料&株主からの出資金)で起業している。- ほんの数十人にアンケートを取るだけ等、業務内容に疑問の多い、怪しい企業である事。
しかもそのアンケート結果も、人数と%の計算が会わない等、本当に行っているのかも疑わしい。- その程度の業務で、社長の年収が1,000万(テレビ朝日談)を超えている事。
- そんな利益の見込めない会社に、NTTドコモは4,500万も出資している事。
- 社員募集の項目に、「女性のみ」という、男女雇用機会均等法に抵触する記述がある事。
- 社長がブログで、「ニートやフリーターは親に恥ずかしい肩書き」と、顧客になる可能性のある人達への侮辱を行っている事。
大野聡子さんは「彼ら」にとって共感できないタイプの金持ちなので、足を引っ張りたいということなのかな。だいたい「問題だ」といっていることと、サイトの主眼とは無関係じゃないか。「疑惑」のある人間をつぶすために確実にダメージを与えられる材料を探そうということ?
AV女優として得た労働報酬を元に起業し、社長となった事が知られている方は何人もいます。その事には何の問題もありませんし、彼女達がその事で、2chで叩かれた事もありません。
預金者の努力の結晶が銀行経由で融資されるなら気にならないのかな。独立系の企業で銀行と付き合いのない会社はないだろう。もし、社内ベンチャー制度を活用して通話料や株主様の出資金が使われることが銀行の融資より気になるとすれば、これも貯蓄率の低下と携帯電話普及の影響なのだろうか。
いずれにせよ大野さんの過去が取り沙汰されなければ(アルシェールがどんな会社にせよ)何の騒ぎにもならなかったはずで、結局、元AV女優という経歴は差別の対象である、と。ふつうに生活している限りはいいけれど、という。この手の「上に行ったら足を引っ張るよ」タイプの差別は庶民様には他人事なので、なかなか撲滅の機運は高まらないだろうな、残念ながら。
あ、ちょっと付言しておくと、この騒動は週刊誌の報道から始まっているので、ネット特有の何とかかんとかではないです。
去る4月21日阿弥陀堂にて指定暴力団組長の回向法要を執り行い、延暦寺の信用を著しく損なう事態を招きましたことは、延暦寺当局の不明の結果であり、延暦寺に心を寄せていただくすべての方々に対して誠に申し訳なく心よりお詫びを申し上げます。また、暴力団等の反社会的団体の排除が求められている中、甚だ軽率な行為であり、警察や仏教会その他関係者各位に多大なご迷惑をおかけしたことを併せて深くお詫び申し上げます。
つまり、御仏の前でも、悪人は救われないよと。慈悲の心も、反社会的団体は排除するよと。念仏唱えたところで、悪事を働く奴は、往生できません。言い直すと、地獄へ落ちろ。
個人的には、天台宗の総本山が暴力団組長の回向法要を執り行ったくらいで「社会の信用」を失ってしまう、あるいは、そのような「社会の信用」なしに延暦寺が存続し得ないということに悲しみを覚える。日本の社会の「同調圧力」を批判する人もたいてい、こうした「正しい同調圧力」には諸手を挙げて賛成なんでしょ。
「赦しの秘跡」も日本では認められないのかな。犯人が懺悔に訪れたことが何らかの理由で露見したとき、「犯人を庇うなんて許せない」とか責められそう。「一般社会の枠組みの外側に基盤を置く存在」の必要性を感じない人が多いのだろうな……。
ところで、日本で普及している仏教では、100回忌まで法要を行うと地獄にいる祖先も天国へ救い上げられるよ、という教えがあるそうな。お寺で買ってきた「天国と地獄」という絵本も、八大地獄で責め苦を味わい続けた人が子孫の積んだ100年の功徳によって天国へ上げられる物語だった。
うまい商売だな、と思ったけれど、よく考えてみると、たいていの人は永遠に地獄にいるということ。何せ絵本の中では、「おぬし、嘘をついたな」という理由で地獄行きになってしまうのだ。子孫が功徳を積んでくれなくては誰も助かりそうにない。
暴力団の組長が市民から巻き上げたカネで天国へ行こうとするなど許せない、という考え方はわからないではないが、100回忌まで続くものだろうか。カネだけで100年は続かないと思う。もし続くなら、本当に地獄の沙汰も金次第ということになるよね。
なるほど! そういえば真言宗も朝敵・平将門の乱を平定するため関東に寛朝さんを遣わすなど、勧善懲悪が基本路線なのかもしれない。ただ、私は真言宗系の仏教校で小中高と学んだけれども、あくまでも「懲悪とは慈悲の心による救いなのである」といった説明だったと記憶しています。
私には法然さんの素朴な解釈の方がすんなり耳に入るかな。ちなみに法然さん親鸞さんともに、もとは比叡山で学ぶ天台宗の僧でした。日蓮も比叡山へ遊学したことがあるとか。
なんで白鳥があひるよりいいんだよ、働かないアリ、カメになりたい(id:MrJohnny さん)で紹介されていたサイト。「アリとセミ」の物語がいかにして「アリとキリギリス」へ変化したのかを追いかける。面白かった……が、こりゃお勧めはし難いな。読み物としては全くこなれていないもの。「よーし、自分で語りなおそうか」と思ったけど、すぐガス欠に。
ところで、id:MrJohnny さんの日記は面白いね。毎回、ちょっとずつ引っかかるところもあるので、追っかけ感想日記を書くだけでブログになりそう。なりそう、というだけで自分ではやらないのだけれど。いや、書きたいのですがね、続かないんですよね。とりあえず1回分、書いてみるとこんな感じ。
アンデルセン童話の「みにくいあひるの子」は「白鳥はあひるよりも上」という価値観につらぬかれております。菊池寛訳の「醜い家鴨(あひる)の子」では、あひるの子は最後に「ああ僕はあの見っともない家鴨だった時、実際こんな仕合せなんか夢にも思わなかったなあ。」と述懐するのです。こりゃあんまりです。
異論あり。
「みにくいあひるの子」は、「家鴨には家鴨の生き方、白鳥には白鳥の生き方があって、白鳥が家鴨として生きようとしてもつらいばかり。でもみんな、自分の生き方を選べないよね。いや、選べるということさえ気づかない。だけど大丈夫、頑張って生きていれば、いつか本来あるべき生き方に辿りつける(こともある)よ」といった現代的な解釈が可能な物語だと思う。
白鳥は素晴らしい存在なのだけれど、その白鳥の子が家鴨として生きれば「見っともない家鴨」にしかなれない。つまり id:MrJohnny さんの引用された述解は過去の自分について語ったことであって、家鴨に対する一般的な評価ではない……と私は読みます。いかがでしょう?
ところで、幼い頃の私が一番つらく、涙をポロポロこぼして読んだのは、あれは全くのところ、きりょう好しではございませぬ。しかし誠に善い性質をもっておりますし、泳ぎをさせますと、他の子達くらい、――いやそれよりずっと上手に致します。
あるいはきりょうなんか大した事じゃないさ。今に強くなって、しっかり自分の身をまもる様になる。
と我が子を庇い続けた母家鴨の心がついに折れてしまうくだり。
家出した白鳥の子は苦難の道をたどり、ついに生に絶望して、殺されようと思って白鳥に向かっていくのだけれども、そのときも母家鴨を恨みはしなかったろう、と。まあ、これは私の思い入れであって、本文からそう読めるわけではないのですが。
要因Aと要因Bが重なったときに起きる悲劇Cがあるとき、結果に責任を負うのは要因を作った全ての人々とは限らない。Bだけが責任を問われたり、どちらも無罪放免となったりする。
因果関係と責任の所在は、単純にはリンクしていない。
駅前に停められた、鍵を挿しっぱなしの自動車。運転手は道路の向かう側にある自販機でタバコを買っていて、他に乗っている人はいない。通りがかった人が、ふと出来心を起こして自動車泥棒をする。運転手は慌てて駆け寄ったが、後の祭り。さて、「悪い」のは誰?
もちろん、泥棒が「悪い」。罰を受けるのは、泥棒だけだ。
では今後、少しでも犯罪を減らすためにはどうしたらいい?
ひとつには、鍵を挿したままの無人自動車を見て泥棒を思いつく人を、社会から消し去ること。その手段として、学校教育、社会教育、そして不幸にも既に悪事を行ってしまった人々に対する更生教育がある。
もうひとつは、鍵を挿したまま車を離れないよう、車の持ち主が気をつけること。自動車の鍵を挿したままにするのは「悪くない」。今後も、当人の自由だろう。ただ、キーが抜かれ、ドアがロックされていたら、運転手の目の前で車を盗むなんて不可能だったろう。運転手の行動が犯罪の要因となったことは事実なのだ。
「誰に責任があるか」と「原因は何か」の違い、ご理解いただけるだろうか。運転手の不用意な行動と、悪人の登場が重なったから、犯罪が起きた。「悪い」のは泥棒だ。しかし「原因」は両者にある。
私はかなりわかりやすく書いているつもりなのだけれど、これでも、「キーを挿しっぱなしで車を盗まれるのは自業自得だというのか!?」と怒る人が出てくる。因果関係を「原因を作ったやつが悪い」と解釈することしかできない人がいて、「要因Aの存在を指摘するのは被害者を攻撃する許しがたい行為だ」と主張する。
「悪くない」側が何らかの「対応」を求められることを理不尽だと思う感覚はわかる。けれども、「誰も悪くない」のに起きてしまう悲劇だってある。責任の有無とは別に、原因を取り除く努力はしていいと私は思う。無論、「悪い」側は強制、「悪くない」側は推奨、という差異はあっていい。
以下は応用問題。
小泉内閣の主要な支持層がB層となっているのは、いわゆる有権者の主力という意味でしょう。実際、衆議院議員選挙の投票率は60%もあるわけですから、近年の大学進学率より高い。いわゆる有識者の人数は限られており、自民党に限らず、どの政党の主要支持層もIQ軸の下位領域に存在するはずです。この資料について「(有権者に)全く失礼な話」などと怒るのは、理念を優先して現実を無視する考え方。私は好みませんね。(参考:6月23日の国会審議抜粋)
街頭演説で「私を支持する IQ の低い皆さん、お早うございます」とやったら怒られるだろうけれど、現に IQ の低い人が多い事実を認めないような政治家では安心して仕事を任せられない。……と、思う人が少ないのだろうな、きっと。
就職活動の1次面接で落とされた企業から就職活動を振り返るアンケートの依頼がきたという話題。
短期は損気。キリンじゃないけどこういったアンケートには私もいくつか答えました。やはり就職活動中だったけれども、不愉快には思わなかったな。応募した時点で最初に就職活動に関するアンケートの提出を求める企業だって珍しくなかったし。状況整理のいい機会かも、と思って丁寧に回答した記憶があります。
それにしても、好きで面接に臨んだ企業に、こうも悪態をつける感覚が、いまひとつピンと来ない。私は嫌いな会社は受けなかったから、落とされた後のアンケートだって喜んで協力したんだけどな……。社員として仲間に加わることはできなかったけれど、消費者として共存共栄していけたらいいと思ってる。こんなアンケートひとつでカッカして不買運動を呼びかけるような人が、面接に通るものなのでしょうか。
あと、5年前を思い出して実際に全設問に答えてみたけれども、必須項目だけ答えていけば、10分でも時間が余ることを確認。自由記述形式の設問に対して20字以内で回答するよう心がけることがコツ。
なんつーかそっちの都合で勝手に落としておいて、落としたら落としたで「キリンビールの採用活動の振り返り」のための貴重なデータとしてさらに搾り取ろうとする。そういう死体に鞭打つような態度に不誠実さを感じるのは私だけなのでしょうか。
ともあれ、取引先の担当者がこういった被害者意識の強い人だったら嫌だなあ、と思った。商売だから、ときには都合で切らざるを得ない案件もあります。長い目で見て仲良くしてほしいのだけど。ま、id:konagona さんもどこかに就職なさる。世の中、いろんな人がいるから注意しないといけないな、と再認識。
昨年はなぜか夏場も更新しまくっていましたが、例年、暑くなってくると更新意欲が減退します。今夏もそうなる、予定。いきなり閉鎖ということは、おそらくないので、サイトのトップページから「最近の備忘録」が消えても、RSS が空になっても、心配はご無用。