備忘録

平成18年6月30日

ぶははは。ま、id:gotanda6 さんのコメントは、前々から思ってたことをいい機会だからメモしておくか、ってところなんじゃないですか。

切込隊長に関して、私の記事で「炎上前」「炎上後」を振り返るとこんな感じ。

切込隊長でもこうなってしまうのだから、ふつうの人が「炎上を(平身低頭の平謝り以外の方法で)うまく捌く」なんて無理だな、とは思った。

平成18年6月30日

以下、簡潔に語り直します。「応答」はしません。あとは読み比べていただければ。

  1. 碓井真史さんの発言は、「反社会的性向を持つ人間はイジメにあいやすい」という内容を含むが、これは決して「反社会的性向を持つ人間はイジメにあって当然だ」という意味ではない。畠山鈴香さんを主題とする文章ゆえに、イジメの加害者に対する批判は割愛されているが、いじめられる「理由」を「正当な理由」と読み替えるのは誤読だ。→原因と責任(2006-07-01)
  2. 個々人の判断の集積がイジメの構造を作り出す。ふつうの人々が「自分の気持ちに素直になる」とイジメが生じる。多くのイジメには「理由」があるが、どんな「理由」もイジメを正当化しないことをみなが自覚し、「嫌いなあいつ」との関係を再考しなければ、イジメは撲滅できない。それはあまりにも困難で、私は絶望的な気分になる。自分はイジメなんかしない、と自信満々の人が(ある意味で)うらやましい。

平成18年6月29日

日本の新聞は news paper ではなくて日刊総合雑誌なんだよね……。だから思いつきで放言するエッセイがたくさん載っている。私もそれが好きで読んでいるのだけれど。

(もう3回目くらいの紹介になりますが)新聞記事って、こんな放言までしていいのか、と驚かされたコラム。記者の退社で終了してしまったときは本当に残念だったな。

世界は腹黒い―異見自在 情報鎖国・日本―新聞の犯罪

平成18年6月29日

個人的には、参ったなあ、という感じ。管理人としては公開されているブックマークコメントを全部読みたい。はてなが9割超を占め、他が1割未満にしかならない現状では、その他のサービスを端数として何とか無視できたけれど、はてなとライブドアが人気を二分するようなことになると面倒くさい。もしはてなブックマークより人気が出るなら、そのまま圧勝してほしい。

面倒くさがりなので、巡回先はなるべく絞り込みたいのです。アクセス解析と新着ブクマ一覧と mixi 検索と 2ch 検索で既に4つ。リンク・言及元以外の巡回サイトが現在9つあって、個人的に上限値としている15まで残り2席しかない。巡回サイトのひとつが休止状態にあるから、8つに減らそうかな。

平成18年6月29日

検索といえば、「ザ!世界仰天ニュース緊急特別版」で光クラブ事件が取り上げられたとかで、当サイトにもアクセスが集中。それほど検索順位は高くないのですが、さすがゴールデン帯のテレビ番組というところでしょうか。

平成18年6月29日

九十九式、404。心配になってメールしてみたところ、健康を害されたとかそういった事情ではないそうで、安心しました。

九十九式メールフォームは稼動中ですので、応援のメッセージはちゃんと届くようです。また最新の状況をチェックするには *** reader がお勧め。*** は生きてます。サイトの原状回復の目処は全く立っていませんが、じっと待ちましょう。

Google で「九十九式」と検索すると当サイトの記事がトップに出るため、大勢の方がいらしてます。そこでこの記事を書いたわけですが、中途半端な内容で申し訳ない。事情を察して行間を読んでください。伏字も気合で判読のこと。

平成18年6月28日

1.

K さんの体験談。

息子が小学校1年生のときに同じクラスだった女の子のお母さんが病気でお亡くなりになったのです。私は息子に「○○ちゃんのママは死んでしまったのよ。学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」と言いました。しかし、その後、私が意図していたことと大きく反していた行動を息子はとってしまったのです。

聞けば、息子は休み時間中に女の子に声をかけたのだそうです。

「ママ、死んじゃったんだってね」。

気丈に振舞っていたその子も、家に帰れば悲しくなってしまったのでしょう。気になったお父様が問いただしたときに、息子の名を口にしたそうです。お父様は担任の先生と相談し、その出来事を文書にしてお手紙を学校側に出しました。その手紙が息子の担任の先生のもとへ行き、先生も息子を叱り、先生と息子で謝りに行ってくださったそうです。

先生から連絡を受けた K さんは、「叱って解決できる問題ではない」とお考えになりました。そして「100万回生きたねこ」を親子で一緒に読み、たまごっちの死と愛する者の死の違い、その重みについて、考えるきっかけを与えようとされたのです。お子さんは、100万回生きたトラ猫が愛と死を得る物語に胸打たれ、涙を流したという。

100万回生きたねこ

2.

K さんは、教育熱心で優しいお母さんだと思う。ただ、私の心には引っかかるものがありました。

「やさしくしてあげる」とは具体的にどうすることなのかを秘密にして、正解を自分で発見させようとするのは残酷です。子どもの行動を意図に反すると評するからには、K さんは正解を持っていたはず。ならばどうして、事前に(そして事後にも)具体的な行動指針を与えなかったのか。「死の重み」を考えることは大切です。しかしその体験が次回の成功を保証しないことも、私は知っています。

自分でもよくわかっていないことを抽象的な言葉で説明できたような気になっている大人は多くて、子どもはいつも苦労します。いいつけ通りにして、これで誉められると思ってワクワクしていたのに叱られてしまう。この理不尽、悲しさを、私は心に強く刻み込んでいます。だから、おそらく精一杯優しく声をかけたのに、逆に相手を深く傷つけ、誰にも誉めてもらえず、先生に叱られて気落ちしたお子さんに、私は同情しました。

繰り返し「ママ、死んじゃったんだってね」と声をかけられた女の子は、悲しみで胸がいっぱいになり「学校へ行きたくない」と父親に訴えたという。K さんのお子さんは気持ちを伝えられなかった。ただ、悲しみを封じ込め、包み込んでいくのが唯一無二の正解ではないこともたしかです。やり方は稚拙だったにせよ、K さんのお子さんの方針が間違いとはいいきれません。

私は26年も生きていますが、母親を亡くした人にどう声をかけたら励ますことができるのか、いくらかでも相手のためになるのか、わかりません。明らかな間違いはいくつか思いつきますが、正解は、わからない。全ての間違いをリストアップすることもできません。だから、人を傷つけてしまう。ある人が「そんな言い方はないだろう」と驚くような言葉を口にしさえするのです。

私が長い時間をかけてようやく理解したのは、一人一人、異なる正解を持っているということ。そのくせ、みんな自分の考える正解に一般性があると確信を持っている。そしてもっとおかしいことは、みな、誰かが正解の言葉を口にすると「それだ!」と思うのに、自分ではその言葉を発見できないこと。だから、みなコミュニケーションに自信を持てない。

世界はあまりに複雑で、誰も失敗は免れません。しかし幼い頃の人生には、もう少し、成功体験が多くていいと思う。親の期待に応えようと努力した子どもは、もっと報われていい。「宿題しなさい」やらない。「夜更かししてはいけません」布団に漫画をしのばせる。「歯磨きしなさい」面倒くさいのでサボる。「忘れ物は?」今日もしました。前科は多い。けれども、そうであればこそ、本当に頑張った可能性があるときは……。

たいていの子どもは、親に好かれたいと思っています。暫定版でいい、不出来でもいい、親には正解を示してほしい。もしよその大人には叱られても、ちゃんと教えられた通りにしたら、お父さん、お母さんだけは誉めてくれる。そんな正解を、教えてほしい。

無論、常に具体的な正解を示すのは事実上、不可能です。やむなく抽象的な課題を与える場面もあります。ならばせめて、結果を問う前に、まず子どもの勇気ある挑戦を誉めてほしい。自分が子どもに与えた課題の大きさ、重さ、難しさを再認識してほしい。

……そう、思ったのです。(2006-06-30 全面改訂)

3.

当サイト内の関連記事。

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平成18年6月28日

ジワジワきてるな、と思っていたが。とうとう議論になるほど賛否が拮抗するようになったか。しかしまあ、数十年かけての価値観転換には違いない。……と思ったら、こんな一節が。

今回の件に関する批判は高齢者に多いとのことなので、主婦や高齢者を対象とした健康情報で人気の長寿番組としては、配慮が足りなかったかもしれない。

え〜っ!? しばし呆然としたけれど、そうか、60年安保世代が高齢者になり、テレビ局に抗議するほど暇になったということか、と納得。

こうして名人芸を手軽にテレビで鑑賞できる時代が終わり、私が死ぬ頃には正規ルートで神業を収めた映像を入手できなくなるのだろうな。「骨泳がし」のすごさを全国津々浦々に伝える価値は、魚の生命の尊厳が云々といった問題を超越している、と考えているから、個人的には残念なことになったと思っている。

私の中では、「骨泳がし」の許容は闘牛や盆栽を OK と考えることにつながっている。人は自分の楽しみのために他の生物の生命をもてあそぶ。みだりにそのようなことをしてはいけない、という倫理規範には存在価値を認めるが、むしろその濫用が長い時間をかけて多くの人々が育ててきた文化を破壊していくことを危惧する。人間様の「文化」の方が大切だと思っている。

まあ、もともと見たくない人もいる映像ではあったろう。どちらが我慢するべきか、という問題なんだ。「見たくない人がいるから放送するな」という主張は、「見たい人が見られなくなる」ことについて、どう考えているのか。その点に配慮した主張が、たくさんあるコメントの中にひとつも見られないのは不思議。

昼に放送したからいけない、深夜ならいい、という意見も。どうして深夜ならいいんだ。深夜にだって「うわキモい!」「グロい!」という人はいるだろうし、「食べ物を粗末にしやがって」と怒る人もいるだろう。自分がテレビを見ない時間だから? それとも抗議する人の割合はどうでもよくて、絶対数だけが問題なのか?

あと、いつもいつもいつもそうなんだけど、自分がこう思った、という感覚の一般性を疑う人って、やっぱり少ない。どうにかならないのか。

イタリアのルールはイタリア人が作ればいいよ。日本のルールは日本人が作る。さて、日本で生きたロブスターを氷の上に載せて展示することが違法行為となるのは何年後だろう? それとも、どこかでこの価値観転換に歯止めがかかるのだろうか。

平成18年6月28日

id:muffdiving さんは、自分には正当な批判とイジメの違いがわかる、やっていいことといけないことの境界線が見えている、と信じて疑わない。自分には悪党を見分ける能力があって、しかもその悪党に対してどの程度の攻撃まで許されるかがきちんと判断できる、と素朴に感じている。自分が「当たり前」「常識」と認識していることが、他の全ての「まともな人々」にとってもそうであるはずだ、と考えている。

現在の勤務先は過去に何度も書いてきた通り、「みんな仲良く」といったサヨク的価値観が職場に浸透しているので、イジメもまた目にしない(少なくとも私が明瞭にイジメと認識するような状況を見ていない)。けれども、過去のバイト先にイジメが全くなかったとはいえない。そして小学校には確実にイジメがあった。

イジメにもピンからキリまである。程度の問題もあるし、原因についても様々だ。仲良しに見えた女子グループの一人がある日突然、グループメンバーからシカトの対象となった事例は、私の知らないところで何かあったのかもしれない。しかしあるときグループ内でボス的な存在だったはずの子が対象者となったことには驚いたものだった。ジャイアンの機嫌ではなく、グループの空気が支配力を持っていたのだと思う。自分もいつイジメの対象になるかわからない、その微妙な雰囲気は、「平成マシンガンズ」がうまく言語化していると思う。

平成マシンガンズ りはめより100倍恐ろしい

しかしイジメの多くは、いじめる側に安住する多数と、いじめられる側に追いやられる少数という構図を持っていることを私は否定しない。「平成〜」などを読むと、最近の小中学校では「誰もが被害者となりうる」イジメの方が「ふつう」で、むしろ明白なマイノリティはきちんと保護される心理的な仕組みが浸透しているのかもしれないが、1980年生まれの私の時代は、明らかにそうではなかった。

中学時代の事例を出す。クラス全員で文化祭の準備に勤しんでいるときに、不向きな分野を割り当てられたようで、何をやってもうまくいかない人がいた。ついには何かに躓いて倒れこみ、他人の作業の成果まで破壊してしまう。自分一人で後始末できるわけもなく、予定を延長して作業班の仲間たちが補修している中、所用があって先に帰宅。悪気はなかった、先約もおいそれとキャンセルはできない、誰だって失敗はする、そうとわかっていても、周囲の目は冷たくなり、不平等な扱いが始まった。

当人は頑張っているつもりなのだ。放課後1時間も2時間も残って作業すれば、進捗状況と関係なく人並みに疲れる。「私は一生懸命やってる!」その自負が、表情にも言葉の端々にも如実に出た。それがまた仲間の怒りを買った。「他人に迷惑をかけているくせに一人前の顔して、許せない」というわけだ。そして作業班の打ち上げに、その人は呼ばれなかった。ところが、そのことが教師にバレるや、彼女らは「連絡ミス」と言い張った。ハブりは不当なイジメとの認識を自白したようなものだ。

碓井真史さんは、社会への適応に難がある人が周囲にどれだけのマイナスの感情を呼び起こすか、よくご存知だ。攻撃の口実に飢えた性悪な人々ばかりがイジメを行うのか? 答えは NO である。私も、そしてあなたもイジメを行うことはありうるし、現に(程度の問題はあれ何らかの)経験があるだろう、というところから出発しなければならない。

「先日、秋田県で近所の小学生を殺害した畠山鈴香さんには高校時代より反社会的な性向があり、それがイジメにつながった可能性がある」という碓井さんの説明を「イジメを助長しかねない」と非難するのは、自らの罪から目を逸らすことにもつながりかねないことに気付くべきだ。ある行為をイジメと断定した途端に「被害者の無謬性」を仮定し、加害者の一方的な断罪を行う非現実的思考法は、自分が行う「理由ある攻撃」を「これはイジメではない」と免罪する心へと通じている。

イジメかそうでないかの判断は、可能なのか。

極端な事例については、なるほど明々白々なのだ。加害者の嗜虐性向が被害者を求め、イジメの口実は粗捜しのようにして見出される。しかし大半のイジメはそのようにして起こるものではない。ふつうの人が、怒りを制御できない自分を安直に許すところからそれは始まり、拡大していくのである。「なぜ俺が我慢しなきゃいけないんだ! そんなの、あいつの自業自得だろ!」荒ぶる気持ちと、私たちは向き合わねばならない。

「肌の色の違い」を許容する心を説くように、「仕事が遅い」仲間を許容する心が持てるか、しかもその人が(少なくとも現在)あなたと大差ない待遇であることを認められるのか。「品性に欠ける」「他人を傷つけるようなことをいってしまう」そんな彼らも、同じ人間として扱えるか。

id:muffdiving さんは憎むべき主張を掲げている(と自分が判断した)人物を人間として問題あると決め付け、反社会的というかキチガイだと罵り、医師免許剥奪したほうがいいと責め立て、しまいには死んでくれとまでいう。そんな人が、もしいじめに加担するチンカスになるぐらいだったら死を選ぶよ。俺。といい、人並み以下に他人の痛み知らない人間は、平気で他人を傷つけて、なんとも思わないですし。他人事のように書く。ああそうさ、私だって大差ない。

再び、「私は一生懸命やってる!」と当人は思っていたのに、慰労会に呼ばれなかった人の話。「ある意味、当然かも」という空気が当時の教室にはあった。それでも、先生の前で、大勢のクラスメートの前で、作業班の仲間たちは、「仲間外れにして何が悪い!」とはいえなかった。仲良しグループではない、学級会の決めたルールの中で作られた作業班が「嫌われ者」を排除すれば、それはイジメに他ならない。釈明の嘘が突き崩された彼女らは、うなだれ、謝罪した。

無言で彼女らを見つめ、イジメの「悪」を糾弾した私(たち)もまた、悄然としていた。イジメはどこかの誰かさんの犯罪ではない。悲しみに顔を歪めた人を見て「しょうがないよ」と心の中で冷たく突き放した自分は、心を入れ替えられるだろうか? 無理だ、と思った。

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平成18年6月28日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

トップページから2つにわかれ、一方はイラスト・アイコン・スキンを主にしたサイト(こちらを主にしています)で、もう一方は自己流で勉強したことを忘れないために作ったHP作成支援サイトです。

なにか思いつくたびにどっと追加したり、長い間更新がなかったりで、サイトの更新はばらばらです。

デザインは改装を繰り返していましたが、ここ1年ほどこの状態で、これからもこれでいきたいと思っています。

どちらもシンプルデザインを意識しているつもりです。

ウェブサイト作成支援サイトについては、数年前に一度、備忘録でご紹介したことがあります。当時、管理人のくらげさんは学生さんだったかと思いますが、現在は会社員とのこと。なぜ海月屋というタイトルなのかわからなかったけれども、ハンドルネームがくらげさんだったのだと、ようやく理解しました。

3月には何かご病気で入院されましたが、全快されたようでよかったです。退院に間に合うようにアドバイスを書くつもりだったのですが、もう6月……。アドバイス依頼より今日までの間に、ここ数年、主に更新されているイラストサイトが大改装されましたね。マークアップが改善されたり、交流系 CGI の新設・改装が進んだり。いっそう美しく整ったデザインとなったように思います。お疲れ様でした。

ご相談の内容

最初はひっそりとイラストを展示するつもりで2002年の夏にはじめたサイトなんですが、いつのまにかかなり大きくなってしまいました。

2つのサイトといってもいいほど別な内容なので、どちらかを名前を変更して独立させるかどうかも考えていますが、リンクしている人がいることを考えるとできていません。

訪問者はけっこういると思うのですが、反応はあまりありません。

自分が気づいていないこともあるかと思い、サイトデザインについて誰かの意見を聞きたかったので、よろしくお願いします。

サイトデザインの良し悪し(内容とデザインがあっているかどうか、見やすさや移動しやすさ)、コンテンツのばらつきや量などについてご意見をいただきたいです。

アドバイスいろいろ
1.サイトの分離について

更新が続いているイラスト系サイトは既にサーバも分かれており、URI に「kurageya」の文字はない、といったことを考えますと、イラスト掲載とのサイト名を変更することには賛成します。

サイトを移転したり閉鎖したりするのは管理人の自由といってよく、実際、長らく更新の止まっているサイトを閉鎖してみても「どうされました?」なんてメールが来ることは滅多にありません。主に閲覧者の立場から「閉鎖する前に考えてほしいこと」という記事を書いた私ですが、じつはマイナーなサイトを過去にたくさん閉鎖しており、そのあたりの実情はわかっているつもりです。閉鎖でさえその程度の反応なんです。移転や改名くらいは、気ままにやってもかまわないと私は思いますね。

しかしながら、少しでも無用の軋轢を避けるためには、更新の止まっているサイトはなるべくそのままにして、現在進行形のサイトに変化をつけるのが得策です。

つまり総合トップページと作成支援サイトには手を加えず、イラストサイトの名称変更を検討すべきです。

現在、イラストサイトから総合トップへのリンクは1箇所しかなく、リンク案内も xrea サーバのトップへのリンクを推奨していますね。かなりの期間、そのようにしているわけですから、アドレス上の独立については、十分に告知されているものと思います。

アクティブに更新されているサイトの読者には、訪問頻度の高い熱心な読者が多いため、変化への対応力も高いといえます。サイト名を変更したいということであれば、思い切ってやってかまわないと考えます。無論、いつまで経っても新サイト名へリンクテキストを変更してくれないケースも多いでしょうが、それらのリンク元からやってくる閲覧者は決して多くないはずです。どうしても無視し難いケースについては、メールでリンクテキストの変更願を出すことを勧めます。

「趣味のWebデザイン」も複数回のタイトル変更を経た名前です。大規模な移転も1度経験しました。それでも熱心な読者の方はついてきてくださいました。移転も改名も、閲覧者からみてあまり望ましいものではないのは確かですが、管理人が我慢してストレスをためるようなものでもないと思っています。

くらげさんの美意識にしたがって決断されるとよいでしょう。

2.反応を増やすには

「大勢が訪問しているはずなのに反応があまりない」のは、異常なことではありません。たいていの人が、自分が他サイトを訪問しても何ら感想を書かない事実を忘れてしまい、「どうしてだろう?」と思っていますけれども、ようするにそれがふつうの状態なのです。

1日に100人が訪問して掲示板に10個の書き込みがつくようなサイトが稀に存在しますけれども、例外中の例外というべきです。そのようなサイトこそ異常なのであって、基本的には真似しようとしても真似できるものではありません。

基本的な考え方は、こちらに書いた通りです。あまり景気のいい話はできません。

ぜひ感想をお願いします、とか、何かご要望があればお応えします、などと日記に書いてもほとんど何も返事がない。ちょっとガッカリしてしまうわけですけれども、単なる DL 報告でもないよりはマシなのですね。本当に DL 報告もなくなってしまうと、そういったことに気付かされます。

DL 報告もないなんて管理人の方にもちょっと問題があるのではないか……と思われますか? そういうケースもないとはいえませんが、たいていは違いますね。くらげさんのサイトでも、DL 報告の100倍くらい、アイコンやスキンはダウンロードされているはずです。報告掲示板が毎日にぎわっている人気サイトだって同じなんですね。たいていの利用者は、一言も感謝の言葉を口にしません。「とりあえずダウンロードしただけで、実際に使うと決めたわけじゃないし……」とか思っているうちに忘れてしまう。

とはいえ、こんな話ばかりでは気が滅入ってしまうかもしれませんね。

くらげさんは CGI 設置や、ブログのカスタマイズに長じていらっしゃいますから、少しだけ、積極的な対策についても書いてみます。

現状、訪問者からのフィードバックの方法は3つあります。掲示板、日記のコメント欄、メールです。アイコンやスキンをダウンロードしてからお礼を書くまでのステップは、1.表紙に戻る 2.掲示板へ行く 3.書き込みをする 以上3段階。メールやウェブ拍手も3段階ですね。日記へのコメントは、1.個別記事をクリック 2.コメントする 以上2段階。リンクを1〜2回たどるくらい、それほど面倒ではないのですが、1ステップで感想を書けるようにすることは可能です。

例えば、ページのレイアウトを縦2段組としまして、サイドバーにミニ掲示板を設置してみてはいかがでしょう? ape board による作例otd での作例などを見ての通り、スキンひとつで掲示板の方は作れそうですよね。問題は掲示板の埋め込みでしょうか。iframe は XHTML1.0 Strict では使用できない要素。レンタルブログパーツでは標準的となっている JavaScript で呼び出す方式なら iframe を必要としませんが、自分で設置する CGI でこの方式をサポートしているものは少ない!

というわけで、ちょっと頑張って探してみました。

JS 呼び出し式の掲示板 CGI で安心して世評が高いのが inobbs です。設置簡単、動作安定。まず問題ないと思いますが、もし使い方がよくわからないということであれば、JS 呼び出し特化型の旧版 inobbs を利用されたらよいと思います。inobbs では書き込みフォームの呼び出しが必要なので1ステップでの書き込みはできないのですが、いくつか書き込みが見えていることが、精神的な敷居を下げるのではないでしょうか。

その他の JS 呼び出し式の省スペース型掲示板としては電光!のような1行掲示板タイプも人気があります。SSI が使えるなら蓄々一行掲示板もお勧めできますね。これらは1ステップでの書き込みが可能。

この手の埋め込み式掲示板であれば、あちこちに設置しても、更新されるログファイルはひとつです。ひとつ書き込みがあれば、掲示板が読み込まれる全ページに更新が反映されますから、仮にサイト内全ページに掲示板を表示しても、レスポンスのための書き込みチェックの手間は大きくありません。

ただ……いつもいうことですが、頑張ってサイト内の全ページから掲示板に書き込みできるようにしてみても、決して掲示板への書き込みは3倍、4倍になんてなりません。長期的にはわからないし、逆にごく短期的な効果ならあるかもしれない。けれども、私は結果を保証できません。最悪、全然フィードバックが増えないということもありえます。

手間暇かけて掲示板を設置するだけの価値があるかどうかは、まあ、微妙なところなんですね。

ここで話は最初に戻りまして、やはり「同人」活動をやるのがお勧めなんです。常連のお客さんを見つけて仲良くなりまして、サービス事業者とモニター会員のような関係を築いていくことが可能であれば、それがベストではないかと。なかなか、誰かと仲良くなること、そしてよい関係を続けるのは難しいのですが、それでも、というところ。

新作ができたら、毎回、「どうかな?」と意見を求められる相手、そこでやる気をうまく引き出してくれる言葉を返してくれる相手がやっぱりほしい。どこかの誰かさんに期待してもそれはまず無理な話で、ある程度、特別な関係がそこには必要なんですね。

これまでもこれからも常連であり続けるお客さんを見つけるのが無理なら、スキン配布仲間のような、同業他社みたいなサイトの管理人さんと仲良くなるのが次善の策です。無論、これだって難しい。当然ですよね、趣味が同じだからといって気が合うとは限らないことは、中高の部活動や大学のサークル活動などで身に沁みていらっしゃることと思います。

結局、一人さびしくやっていく人が多い。それもわかります。経費と利益を見比べると、それが正解と思えるケースが、じつは過半数なのかもしれないのです。でも少なからぬ人は、単に食わず嫌い、果報をひたすら寝て待っているだけ。とはいえ、人事を尽くさずに天命を待ってもダメだと悟ることができない……それもまた人生といえば、そういうものかもしれませんね。

3.デザインについて

「基本デザイン」はさすがによくできていますね。シンプルな力強さの中に独自性をうまく織り込んで、レイアウトもスッキリまとめています。落ち着いた配色ながら、ありがちなクール路線に向かうのではなく、可愛らしさも追求している。長く気に入っているのも納得です。

「クールデザイン」は基本デザインでは少し物足りない人にぴったり。といって決して品を落とすことはなく、ベーシックな配色と画像の選択で多くの訪問者に好かれる画面構成を実現しています。空に鳥、水色と白ですから、まさに教科書通り。なるほど個性的とはいい難いけれども、たいへん手堅い。なかなかこういったレベルでまとめられるものではありません。

「キュートデザイン」「黒デザイン」も、手堅いデザイン。黄色背景に白文字で「手堅い」などと書くと驚かれる方もいるでしょうが、対象読者層を考えればこれもありえない選択ではないのですね。それに、注意して見るならば、読めなきゃしょうがない部分は白背景に黒文字になっているのだからお見事。

基本デザインが一番個性的で、代替スタイルに標準的な、いうなれば配布用スキン的なデザインを並べるのはよい戦略だと思います。下手な人がやれば独りよがりでしかないのですが、くらげさんの場合は個性的な基本デザインが最も読みやすく見易いのだから、素晴らしいですね。

なお表紙やイラストに関しては、大きな画像の色合いとの兼ね合いがありますから、現在のトップ絵については「基本」や「クール」が映えます。「キュート」は少し厳しい。「黒」はアリだがベストではない感じ。「シンプル」は万能(その代わりに諦めている部分が多々あることはよくご存知の通り)。トップ絵は時々変わるわけですから、あまり振り回されても仕方ないところではあります。

全体として、作風にマッチしたデザインだと思いました。自信を持っていただきたいですね。

4.コンテンツのばらつき

気にする必要は全くありません。更新したいコンテンツを更新していくのが一番です。

つまらない思い込みさえかなぐり捨てることができるなら、好きなようにサイトを運営していくことが、結局は自分自身の満足度を最大化できると、経験的にそういえます。

「こうありたい自分」「こうありたいサイト」について考えることが無意味だとはいいません。目標に向かって頑張るためには夢見ることが必要です。けれども、それが本当に「夢」なのか、「思い込みによる自縄自縛」なのか、時々でかまいません、見つめなおす機会も持ってください。

5.ナビゲーション

今のナビゲーションは、現状程度のコンテンツ量なので成立しているのです。2倍、いや、3倍くらいまで、このまま大丈夫かな。でも、それ以上になると、スキンのページをさらに分割しなければいけなくなります。アイコンの分類も、もっと細かくなっていくでしょう。

将来的には、ナビゲーションの階層がだんだん深くなっていくと思います。すると、現在はとりあえずホームに戻せばいいという方針になっている部分について、グローバルナビゲーションを準備する意義が大きくなってくるでしょう。全ページから掲示板や利用規約へ1クリックでいけるようにする、といったことですね。

まあ、今から心配するようなことではないかもしれません。ただ、例えば日記を読んでいて、「新作スキンを作りました」と書かれているときに、スキンのページに1クリックでいけたらいいのにな、と思ったりする。そのあたりに、次のナビゲーションについて考えるヒントがあるということです。

全ページに、他の全ページへのリンクを用意するのは現実的ではありませんよね。だから割り切りは必要なのです。では、どこまで割り切るのが妥当なのか。そのラインの見定めが大切なのです。繰り返しますが、今はいいのです、サイト全体がそれほどの規模ではないから。毎回、ホームへ戻ってもいい。

これから、の話です。

アドバイスは以上です。

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平成18年6月22日

みな論理的に話をしている(2006-06-06)のご感想かと思います。私は同記事で意図的にネタ元の記事から主題をずらして自分の書きたいことを書いていまして、本来のテーマに正対した意見は当該記事のコメント欄に書き込んでいます。……という留保をつけた上で、以下、少々。

自分の要求を認めさせるのが主眼目だから、前提のすれ違いとかってな次元じゃないわけ。そういうご婦人と議論したら分かるが、前提のすれ違いを認識したとしてもそこから議論が再出発せずに、別の方向から同じ要求を認めさせる論を組み立てる。だから、全くもって議論にならない。そういう意味で、「感情は据え置きなのに(本当はI want なはずなのに)、正当化するために物語を作る」というのは、もうもう全くそのとおり。論理は多かれ少なかれ物語だけど、いろんな事実を指摘していって前提の溝を埋めていっても、それを全部無視してもっともらしい理屈を作るから「物語」とか「非論理的」とか言われる。そりゃもう実に見事な「物語」を作りますよ、事情を知らない人をころっと騙してしまうようなね。

のまネコ問題や VIP ブログ問題における2ちゃんねらの物言いにもこれは通じているのだけれども、これはある程度までは致し方ないのだと思います。なぜなら、私はこれこれの理由でこう結論付けました、なんていってみても、言葉に思いの全てを詰め込むなんて不可能。「これでいいたいことは全部書ききった!」なんて満足できるのは一瞬だけ。何かリアクションがあれば、どんどん新しい言葉を思いついてしまう。

最初に全ての論点を示すなんて、無理なんですよ。推論Aはつぶれた。しかしその過程で推論Bを思いついたので、これを示す。それに対して「当初の主張は崩れたじゃないか、往生際が悪いぞ」と怒っても仕方ない。当初提示された「理由」が間違いだったからといって、「結論」が間違いだとはいえないからです。新たに示された「理由」が「結論」の正しさを人々に納得させるかもしれない。

数学の証明問題だって、そうだったでしょう。「キミの証明はここに不備がある」と答案を突き返されても、命題は否定されていない。筋の悪い方針を捨て、新たな構想を練ればいい。「結論」の正しさに確信があれば、みな何度でも「理由」の発見に再挑戦するのです。

どうしてそこまで「結論」の正しさを確信できるのか? 「その結論が自分に都合いいから」という説明は便利に使われることが多いのですが、そう単純でもないと思う。あるいは、仮にその勘繰りが正しかったとしても、その「結論」に付された大義名分が「場」を構成する人々を説得したなら、アイデアの出自を攻撃する意義はどこにあるでしょう?

「大勢に利益のある話だとしても個人的利得が絡むなら許せない」という主張はかなり強力ですが、嫉妬心渦巻く日本の社会においても無敵ではありません。

評決のときDVD 文庫版 上巻下巻

ジョン・グリシャムの処女作「評決のとき」は法治国家の原則がどうのとか、弁護士の個人的な名誉欲やら何やらまでごった煮になっている法廷劇。明々白々な犯罪に対して喧々諤々の議論となり、評決直前までどちらが勝つか予断を許さない。ところが結論を導くのは強烈な感情論の一撃。私は唖然としました。

平成18年6月21日

試作版の Opera9 では document.styleSheets に対応し、JavaScript でスタイルシートを追加などできるようになったとのこと。まだまだ不安定、暫定的な対応にとどまっており、Opera9.0 正式版への搭載は見送られました。しかし次期バージョンでは正式にサポートされる可能性が高まってきました。

JS 経由で CSS を提供するのは、二重の意味で安全です。JS がきちんと動作すれば JS の機能として製作者スタイルを無効化できますし、JS が動作しなければ製作者スタイル不適用となります。製作者スタイルを確実に無効化できる環境を整えた上で、現時点ではやむなく製作者スタイルを提供せざるを得ない相手には提供する、その方法としての JS 経由なのです。

というわけで、Opera 次期バージョンの実装が safari のような中途半端なものとならないことを期待します。(注:safari では JS 有効の場合 CSSthink.css が強制的に適用される)

平成18年6月21日

ふと思い立って、mt4i.cgi を導入。いろいろ考えた末、継続して運用することにした。わざわざ携帯電話向けのバージョンを用意するなら XHTML Basic の方が未来志向でいいのではないか、というのが従来の主張だった。しかし mt4i.cgi の設置は非常に簡単で、基本的にメンテナンスも不要。そうか、Compact HTML 形式で出力する mt4i.cgi は後方互換と割り切れば素晴らしい CGI だったんだ。

……たったこれだけのことに気付くのに、約3年。長かった。でも、おそらく3年前に「後方互換のオプションとしての Compact HTML だよ」という意見をもらっても、私は聞く耳を持たなかったろう。テーブルレイアウトに対する考え方の緩やかな転換など、いろいろな心境の変化を経て、ようやく現在地点にたどりついた。

mt4i.cgi の作者:太鉄さんが MovableType を開発・販売する Six Apart 社へ転職されたので、6月リリース予定の MT3.3 は無理にしても、2007年にリリースされるであろう MT3.4 では携帯電話対応も標準機能のひとつになるのかもしれない。

平成18年6月20日

ネット議論を見ていて。

「『○○をするな』っていう意見を言ってるあなた自身が○○をしているじゃないですか(禁止要求するならそれを自身にも適用させなければならない)」という指摘はよく見る。

なんで。

価値観対立はたいてい解消されないため、多くの議論は何の結論も導かない。しかしながら、結論なんか要らない、相手の考え方が理解できればそれでいい、と割り切れるケースばかりでないので、両者が共有できる価値観を何とか見出し、結論を出そうと頑張ることが多い。

「言動を一致させよ」「他人に求めることはまず自ら実践せよ」といった主張は、理由は不明だが、多くの人々に共有されている価値観であるらしい。私自身はあまり賛同しないのだけれども、相手がこうした価値観の持ち主であることが多いから、便利に利用させていただいている。たいていの人は矛盾の塊で、そうそう他人に厳しいことをいえたものではない。

個人的に気に入らないのは、「**さんは責任ある立場だから」みたいなことをいって、「自分はいい加減でいい」けれども「**さんはしっかりやってくれなきゃ困る」とか言い出す人々。大企業だの官僚だの政治家だのといった相手にはやたら厳しい連中が典型的で、私は大嫌い。

そういう彼らだって、ある面では「責任ある立場」だったりするので、私はその方面に批判の糸口を探したりする。「私たち」でない誰かさんを適当な理屈をくっつけて別扱いにしていながら「私はダブスタ野郎じゃありません」が通るか、と。でも、ふと気分を落ち着かせてみれば、彼らに「すみません、ダブスタでした」と認めさせても私に何の得もないよなあ……。

逆に「ダブスタでいーじゃん」という人を説得するのは難しいと私は思う。完全志向を破るには反例ひとつあればいいけれど、不完全志向を破る手立てはふつう、ない。程度の問題として着地点を探すしかないと思う。

平成18年6月20日

全然レベルの違う話で恐縮なのですが、「RSS に全文を入れてくれ」なんて要望があって、負荷軽減になるならいいかな、と思ってそうしてみたのだけれど、結果は逆。はてな RSS で当サイトを登録している人が100人くらいいるわけだから、100人分のアクセスを1人分のサーバ負荷で代替できるかといったら、そんなことはない。なんかね、しょっちゅう RSS をチェックしに来るんだよね。

はてなだけじゃないんだけど、速報性を重んじるユーザの声に応えるとか何とかで、RSS リーダの巡回ペースが尋常じゃない。いつの間にか RSS の転送量がトップページの HTML の転送量より大きくなってしまっている(リクエスト数は2倍)。今のところ転送量に余裕があるからいいけれど、将来的には RSS に本文を入れるのをまたやめようかと。高価なサーバに移るつもりはないし、閲覧者も既に多すぎるので、サービスを後退させたっていいだろう。

誤字を修正するだけでも上がってしまう「アンテナ問題」のときも思ったんだけど、1日1回のクロールじゃダメなのか。RSS を出す側で、そういう設定をできるサービス、普及しないのかなあ。メタタグを使う方式でも何でもいいんだけど。

あと検索エンジンね。月にサイト全体で数万ページ見るくらい、別にいいっちゃいいんだけど、同じページを何百回もクロールしてどうするんだ、という。それで Google キャッシュが毎日最新版になってるなら感心するけど、そんなことないというのがね……。一体、何が楽しくて毎日チェックに来てるのかなあ。

平成18年6月19日

イザ!記者ブログが記事へのフィードバックとして機能するようになれば、じつはいろいろ明るい展望が開けるのではないかと思う。産経の経済関連の社説は論説副委員長の主張とほぼピッタリ重なるので、ご不満の向きはいちいちコメント欄に顔を出して批判・反論を繰り広げたらよろしい。

その他、ホントに一線級の記者が顔を揃えているので、自分の興味・関心のある分野の記者を発見したら、ていねいにその人の発信する記事をフォローしていくといいのではないかな。3つ誉めて1つ苦言、といったペースを守る限り、邪険にはされないと思う。現実にはそれは難しくて、つまらないことで「炎上」したときばかり盛り上がって、ふだんはほとんどコメントなし、みたいな結果にしかなりそうもないのですが、62もブログがあるのだから、ひとつかふたつは「成功例」になってほしい。

それさえも高望みでしょうか。

平成18年6月19日

産経新聞社はウェブでの活動に以前から力を入れているのだけれども、今回の新サイト「イザ!」は流行らなさそうという点に目をつぶれば面白い試み。驚いたのは炎上予備軍というべき記者ブログが一挙に62もスタートして、軒並みコメント欄を開放していること。早速、「詳細は紙面で」と書いた記者が「ウェブの無料記事で読めない」と突っ込まれている。ひどいね。先が思いやられます。

記事の感想がほしいと記者さんが書いても、実際に寄せられているコメントやトラックバックは、ブログの記事への感想ばかり。私などは「そりゃ、そうなるに決まってるよね」と思うけれど、記者さんもだんだんそういったことに気付かれることでしょう。で、ブログをバリバリ書くようになるか、飽きて何も書かなくなるか。早くも三日坊主の気配濃厚なブログが少なからずあるのはご愛嬌。

月額2100円で過去の記事まで全部読める。1992年9月7日以降のデータしかないのが読売のデータベースなどと比較してつまらないところだけれども、1日分ごとの記事を「1面」「総合面」「経済面」といった区切りで読めるなど、紙の新聞をウェブで代替するという観点からは素晴らしいと思います。過去記事検索はオマケだと思えばいい。

でも、新聞なんて無料が当たり前だと思っている人は不満なのでしょうね。

以下、私なりの記者ブログの見所、勘所など。

やたらブログを書きまくってる記者さんがいるなあと思ってプロフィールを見てみたら、案の定ココログで10ヶ月も修行してた方でした。既にブログ更新が習慣になっているのですね。しかしベテランとはいえ安心は禁物、なぜなら公式サイトで不用意なことを書くとやたら食いついてくる人々が世の中にはたくさんいるからで、不幸のないことを祈ります。

更新頻度が高く、扱っているネタ的にも炎上の可能性が高いライン。正直、ヤバげ。とくに阿比留瑠比さんは(一部では既に)有名な記者なので、揉め事ウォッチャーは先物買いでブックマークしていくといいかも。あと阿比留さんは他の記者ブログのコメント欄によく登場しているので、そちらも注目のこと。

フォントいじりブログ。フランクな文体は地なのか、何か狙っているのか。記事に荒れそうな雰囲気はないものの、タイトルが「特ダネより子ダネ!」や「サイタマ」だから、一抹の不安が。

御大の日記。文体に時代を感じます。大島さんも新聞記事ではふつうの文章をお書きになるのですがねえ……。ちとショックを受けました。

女子記者のすすめが「産経新聞社の常識、世間の非常識」全開という感じで期待大。メディア批判が激しい昨今、読者が増えたら間違いなく荒れるネタなので、読むなら今のうちですね。

もともと週刊Gallop編集部にいて、趣味と仕事が一致している幸せな人。けっこう危ないことも書いているので、心の狭い人々に潰されないことを祈ります。今は自由にのびのび書いていらして、読んでるこちらも楽しい。

上司に書けっていわれてブログするなら、こういう風にやるべし、と思う。これなら、よほどのヘマをしない限り炎上しない。ただし入ってはいけない場所に入ったとか、撮影禁止の場所で撮ったとか、そういったレベルでルール破りがあると証拠とセットで押えられてしまって「ジョークです」みたいな言い逃れはできないわけですが。

新聞紙面でミーハー全開のコラムを書いている記者なので「大丈夫か?」と心配していたのだけれど、今のところ無難にやってますね。でも根がチャラチャラ系(のキャラを演じたがる人)なので、心配です。おじさんたちに「若い女の子に受ける記事を書いてよ」とせっつかれてずれていってしまったのだと思います(……って、勝手にこんな物語を考えてる方がヤバイだろう、という)。

面白い写真がたくさんあります。300mmの長玉が見事に破壊された画像はカメラファン必見。「大山鳴動してブタの貯金箱?」も面白い。専門外の話題になると放言癖が出るので、危ないのはそのあたりか。

アダルト面担当者のブログだから、ハメ撮りがどうのこうのとかいった話ばっかり。それはともかく、個人的に衝撃を受けたのが、執筆している記者がハンドルネームを名乗り、本名を隠していること。記者ブログで匿名かよ、という。

こんなおとなしいブログにも火種があるのだから、「記者」の肩書きは恐ろしい。ドクター中松情報は任せた。東京文化両記者!のコメント欄を参照のこと。

全ブログを紹介する気力はないので、ここで打ち切り。

最初から会社公認の場で書くのは、じつは案外、記者さんにとっては気楽かもね。「バレる心配」というのがないのは、いいですよ、やっぱり。あとはとりあえず、千野境子論説委員長岩崎慶市論説副委員長が最初に炎上すると、ペーペーはホントに安心できると思う。

世の中、なんで実名出してブログやってるのが社長と自営業者ばかりなのかといったら、ブログでトラブったとき仕事に響くと死活問題だから。自分がオーナーでなきゃ安心できなかった。今回こうして、偉い人からペーペーまでこれほどの更新頻度で(はてなスタッフなんてメじゃない)書きまくっているのは壮観です。大過なく1年、2年と継続していけるといいのですが。

平成18年6月19日

最近の雑誌は長期連載物が多くて、1話完結の読みきりタイプ(こち亀やスランプみたいなヤツ)が少ないから普段読んでいない人には楽しめない、つー事を書いているのになんで「途中だけ読んでえらそうに批判するな」という的外れなコメントが書かれるのだろう?

タイトルに適切な言葉を補うことができないから。つまり読解力不足。「(えっけんが)少年ジャンプがつまらない(と思う)わけ」と読めばいいものを、「(客観的に)少年ジャンプがつまらないわけ」と決め付けて本文を流し読みしているのですね。

小学校の国語の教科書には言葉足らずのタイトルや、もったいぶった表現のために趣旨が掴みにくいタイトルがつけられた説明文がしばしば掲載されています。そこで熱心な先生は、「内容に適したタイトルを本文から導く」というテーマを授業で繰り返し扱います。えっけんさんのつけたタイトルは「わかりにくい」ものだったかもしれないけれど、怒るような話ではないと思う。こうしたことでいちいち頭に血が上る人は、国語のお勉強をやり直したら楽しいかもしれない。

簡単な問題が大半なのに平均点が6〜7割、10代のフレッシュな脳みそを酷使して受験勉強した結果がこの程度。大人の平均点はもっと低いことが予想されます。えっけんさんのいう「的外れ」なコメントをつける人がたくさんいるのも理解できますね。

ところで、テレビドラマの脚本はよくできているなあ、と思う。1話だけみても面白く、続けてみればもっと面白い。視聴率は振るわなかったようだけれども、「マチベン」は1話完結の部分と背景を貫くストーリーのバランスがよく、全6話なのに2話も見逃しながら強く惹きつけられるものがありました。

平成18年6月17日

手で文字を書くことがあまりないわけだけれども、まさか平仮名の「な」が書けなくなるとは。思い出すまでに約30秒間、必死になって試行錯誤した様々な「な」の出来損ないが悲しかった。過去、似たような経験をした際には、正解にたどり着けば「あっ、これだ!」とわかったのだけれど、今回はわからなかった。試行2回目で正解を得ていたのに、その後も延々と記号の創作に没頭し続けたのでした。

結局、「明らかにおかしい」作例を排除していったら正解しか残らなかったわけだけれども、こりゃけっこう重症だな……。

平成18年6月17日

もう誰も愛さない BOX

1991年に放送され、脚本家:吉本昌弘の名を天下に知らしめたジェットコースタードラマの嚆矢。「面白いよー」というのでレンタルしてみたのだけれど、いやー、こりゃすごいですね。「面白ければ何でもあり」で暴走の限りを尽くすサスペンスもの。最終的に主要登場人物が全滅してしまう。銃殺される人はまだいい(?)として、伊藤かずえさんに至ってはバラバラ死体にされてしまいます。

あらすじと人物相関図はこちらで確認できます。

主要登場人物にはスーパーマンが多く、会社を任されるや軒並み繁盛。だったら犯罪に手を染める必要なんてなかったんじゃないか。大企業の顧問から庶民の相談まで一人でこなす弁護士も謎。高々数千万円の再審費用とやらを何故か用立て(られ)ない主人公。終盤で争奪戦の対象となる孤児院だって、5億円もあるなら地方に移転すればいいじゃないか。……とか何とか、ぶつぶつ言い出すと止まらないので、ぶはは、と笑いながら見るのがいいのだと思う。面白かったです。

加野瀬さんが紹介されていたポニーキャニオンの商品紹介ページには薄幸のお嬢様から復讐に燃える女性に変貌する田代美幸役を熱演し、本作で女優として一気に知名度を上げた山口智子。牛乳で汚れた足を吉田栄作に舐めさせるシーンなど、ファンならずとも必見の名場面が満載。とありますね。山口智子さんの変身はなるほどすごいのですが、驚き顔のシーンを見比べてみたら、なんだかメークが違うだけのような気も。

TVドラマ仕事集によると昨年も大映テレビ制作ドラマ「聞かせてよ愛の言葉を」の脚本をなさっていて、主演の伊藤さんのコメントなどを見るに久々の大映ドラマらしい大映ドラマとなっている様子。細々とであれ需要があるのはいいことだと思う。

大映テレビの研究

仲谷昇つながりというわけでもないのだけれど、平行して観たドラマが「青い鳥」。こちらは「もう誰も愛さない」の対極に位置するゆったりとした展開で、それがいいところ、という作品。

青い鳥 BOXセット 青い鳥―シナリオ集〈1〉

平成18年6月15日

別に不思議でもなんでもない。大量に発生する駐車違反ひとつひとつについて自動車の運転責任者を特定することが人員と予算の制約ゆえに不可能となっていて、当人の出頭以外にその責任を問う道筋がないということ。使用責任者は登録情報を調べるだけで簡単に判明するから、確実に責任が問われる。

おそらく「殊勝にも出頭したのだから罪が軽くなってもいいはずだ」といいたいのだろうが、そもそもそのような利己的な動機で「自首」しようというのがおかしな話。罪を償うつもりで出頭して、きちんと処罰を受ける、何の不思議もない。それを「不利」と書く感覚こそおかしい。……ようするに、駐車違反が悪いことだとは思っていないわけだよ。だから処罰されるのは「不幸」でしかなく、「不幸」を小さくできる方法があれば「おトク」だなんていうんだね。

私は嫌いだな、こういうの。形だけでも、もう少し後ろめたさを感じさせる記事にすればいいのに。

タイトルはともなく、内容的には納得できる記事。

1990年から2003年にかけて約150万台分、割合にして96.5%も駐車場が増えているのだという。この間に駐車違反の取り締まり件数が年間約100万件減少したのは自然なことと思われる。ところが駐車関係110番は1.5倍に増えている。交通事故が減少していく中で厳罰化が進んだように、現実が改善されるペースが理想の急上昇に追いつかず、ギャップを埋める方策が求められる構図がここにも。

平成18年6月15日

よくわからないのだけれど、あれから約2年、輸入盤文化は滅んだのだろうか。

坂本龍一さんの曲は好きで、「complete index of gut」など数枚のアルバムを買っているのだけれども、予言者としては微妙。アジテーターとして有能ならそれで十分という見方もできるのだけれど。坂本さんの戦いが無意味だったとはいわない。PSE 騒動でもそう。でもやはり、手放しの賞賛はありえない。

complete index of gut

平成18年6月15日

ULTRA BLUE

宇多田さんは新作アルバムの発売ペースがゆっくりなので、私のようなあまり音楽に興味のない者にも付き合いやすいアーティスト。「First Love」が1999年、「Distance」が2001年、「DEEP RIVER」が2002年だから4年ぶりか……。そういえば前作のときもワールドカップが盛り上がっていたんだっけ。

というわけで、早速、購入。個人的には最近の作品ほど好みで、今回も期待に違わずという印象。新聞の紹介記事は通り一遍の内容だったけれど、日経エンタテインメント2006年7月号の特集記事は(少なくとも音楽に疎い私には)面白かった。ゆるいファンの方なら一読の価値がありそう。

日経エンタテインメント ! 2006年 07月号 [雑誌]

部屋を片付けていたら CD が300枚くらい出てきてびっくり。いつの間に? 大半は雑誌の付録だったので、即決で処分したのだけれども、その下から大きな紙袋にいっぱいになるくらい音楽 CD が出てきて、不思議な感じがした。それぞれ買った記憶がないではない。私なんかでもこんなにたくさん CD を持っているのだとすると、ふつうの人が1000枚、2000枚くらい CD を持っていても全然おかしくはないわけだ。

どうしようか迷ったが、私はコンポどころかラジカセも持っていないので、CD を所有し続けても収録曲を聴くことはなさそう。まとめてブックオフに持ち込んでみると、買取価格は総額 6840 円。意外な高値。

Apple iPod shuffle 512MB M9724J/A Apple iPod nano 4GB ホワイト [MA005J/A] Apple iPod 30GB ホワイト [MA002J/A]

私には必要なさそうだけれど、CD の山を前に呆然としたときには、「iPod が売れたのもわかるな」と思った。CD のままじゃ取り扱いが面倒すぎて、宝の持ち腐れ。私にもその悔しさは少しわかる。その一方で、大量の音楽資産をパソコンの HDD に取り込んでいながらバックアップに無関心な人々の感覚は謎だ。

Acronis True Image Personal I-O DATA USB2.0/1.1対応 耐衝撃シリコンジャケット採用 ポータブルハードディスク 80GB [HDP-U80]

Acronis True Image と外付けのポータブル HDD のセットを私は利用しています。私のように年に1度はパソコンを壊すような乱暴な人であれば、買って損はないと思う()。私はよく物を落とすので、HDD はジャケット付のを使ってます。PC Watch の記事も参照のこと。

平成18年6月15日

多くの国民はこの間の超低金利策で利息が付かないことに不満を募らせている。結果的に年20%以上で回ったファンドに、日銀総裁が投資を続けていれば不信感を持つのは当然だ。

権力者が何かで儲けると、「きっと何か悪いことをしたに違いない」と考えるのが儲かっていない人々。何の証拠もなくたって、ルール違反でなくたって、こうした庶民の不信感は「正しい」ということか。VIPPER の嫌儲がどうのこうのなんてのは氷山の一角に過ぎない。VIPPER は世間的には少数派だったから彼らの「おかしさ」を指摘する人が何人もいたが、この社説を「おかしい」と思う人はどれだけいるだろう?

私は閣僚の資産公開だって無用と考えていて、こんなことを政治問題にしようとする方がおかしいという立場。政治問題になったからいけない、というのは今そこにある価値観・考え方をそのまま受け入れた場合の話で、私はその前提を否定する。自分が疑惑をぶつけられ、資産公開を求められるようなことはありえない、という確信に寄りかかって他人を責めている人々は醜い。

マルサの女

映画「マルサの女」では他人の脱税は許せないのに自分の脱税が摘発されると怒り狂う庶民様の生態が生々しく描かれていて面白い。しかし観客の大半は、物語の後半で金持ちが摘発されるシーンに快哉を上げて前半を忘れたろう。

マルサの女2

「マルサの女2」は全編が巨悪との戦い。しかし注意深く鑑賞すれば地上げに抵抗する側の微妙さも浮かび上がってくる。なぜ東京圏で職住隣接が実現されないのか。土地の有効利用が行われないのか。それは「金の問題じゃないんだよ!」と頑なになった人々が招いた当然の帰結であり、その心情に共感したこの社会が引き受けざるを得ないコストだった。

平成18年6月14日

なるほど、と思った。インサイダー取引は株価と企業の実態との乖離を縮小するから望ましい(のではないか)、という話。

一見わかりやすいが、ここには陥穽がある。そもそも株式投資は株価の値上がりを期待するものではなく、配当を期待するものではないのか、と。つまり株式も土地などと同じく保有すること自体に価値がある商品であるべきで、現状がそうなっていないのはインサイダー取引が不十分なために、株価の大きな変動が日常の風景となっているからだ。

会社勤めをしていればわかることだが、企業の価値が1日に1割も変動するわけがない。なのに株価は変動する。インサイダー取引が企業価値と株価との関係を「正常」なものとするならば、インサイダー取引により株価は安定し、この企業の株価はこの価格で正当なはずである、という市場参加者の信任も得られるようになる。このとき株式投資は、積立式の保険や銀行預金と同様に信頼できる資産として、多くの国民にとって身近なものとなるはずだ。

……とはいうものの、現にインサイダー取引全面解禁の株式市場システムを採用している事例がないのは、果たして倫理的直感への盲従によるものなのだろうか? そうかもしれないけれど、そうでもないような気もする。おいおい、結論が「気がする」かよ、とは自分でも思うが。

ともあれインサイダー取引が刑事罰に値するのかという池田さんの問いは一考に価するのではないか。あと、これは当初から各所で指摘されていたことだけれど、どこから有罪にするか、という線引きも微妙。報道では「明らかに有罪」の流れであり、それがマスコミの予想する庶民感覚ということ。

産経新聞が意外に落ち着いた報道をしていた。「福井俊彦さんは悪くない」けれども世間の風当たりは強くなるだろう、という観測記事。産経の論説副委員長はゼロ金利解除派の岩崎慶市さんだから、金融引締めに方向転換した福井さんを応援したい空気があるのかもしれないな。とりあえず「疑念を持たれる行動は慎むべし」の服務規程を楯に辞任を迫るのは行き過ぎ。これで辞任なら、自分の支持する人物も志半ばで失職する未来が先に待つ。

過去に「疑惑」で辞任した人はたくさんいるけれど、私はそもそもそうしたこと一切に反対。例外はいくつか認めないでもないが、基本的に「疑惑」への対処は「推定無罪」の原則を堅持してほしい。疑惑を持たれた側を責める対症療法ではなく、安直に疑惑を表明する人々の無責任さ、この程度の疑惑で揺れる社会の不安定さこそ改善が必要だ。

今回の話題はファンドだけれども、そういえば98年の金融危機当時、有力政治家がどこの銀行に預金口座を開いているかが(週刊誌や夕刊紙を中心に)話題になったと記憶している。公的資金投入論議が私利私欲によるものという疑惑。結局、閣僚の公開した資産で目立ったのは郵貯だったような。

ところで量的緩和解除前の2月に解約を申し入れたことを株価下落を見込んだインサイダー取引だったとする主張もある由だが、清算は6月末の予定であり、つまり現時点でもまだ清算されていない(はず)という状況を見落としている。

もうひとつ、私の勤務先にも様々な心得があるが、喫煙許可区域外でタバコをふかしたからといって即座に辞職を迫られるようなことはない。田中・山形論争では服務規程違反が争点だが、仮に違反だとしても、「疑惑を持たれた」ことが辞職相当かどうか。注意かファンド運用益の返上で十分ではないか。

その他、備忘録の関連記事。

平成18年6月14日

マンガの無断転載で懲役2年、執行猶予3年、罰金50万円の有罪判決を受けた村元寅次さんが帰ってきました。村元さんはボランティアではないのであって、無料でずっとやっていくつもりだったのではありません。無料で多少の立ち読みを許しつつも、最終的には定額制の読み放題サービスを実現するつもりだったわけです。けれども村元構想と著作者たちの希望する金額には大きな落差があり、交渉は失敗に終りました。

まあ、著作者の言い分を丸呑みするとバカ高い金額になってビジネスにならないことが容易に想像がつくわけで、マンガ業界にも JASRAC のようなものがあればよかったのにね、と思う。JASRAC の提示する価格を高いと思う人もいておかしくはないけれど、いちいちアーティストと直接に交渉するようになったら、交渉費用も含めてコストアップは間違いないところ。アーティストの意地や誇りといったゴチャゴチャと難しい部分をパスできるといったことを含めて、JASRAC は現実的な落としどころをよく見据えている。

[155] カラオケ 投稿者:you*me@highwave 投稿日:2002/05/09(Thu) 04:13
キヨサクの書き込みに対するみなさんのご意見・ご感想・・・いっぱいでスゴイですね。
「ワンダフル」出演やCM起用への経緯は、キヨサクの書いてあるとおりです。ちょっと前にBBSにCM起用の件で、真実と違う書き込みがあって、残念に思っていたのですが、今回ちゃんと伝えることが出来てよかったです。

今BBS読んで「通りすがり」さんのカラオケに関するカキコがあったので、戻ってきました。
カラオケ、イヤです。そう止めたいです。
メンバーも快くは思っていません。
いわゆるカラオケ業者から、使用許可の依頼を頂いた時は、全てお断りしました。アーティストの意向でもあるので、カラオケに使用するのは止めて頂きたいと・・・・・着メロもね・・・

しかし、悲しい事に JASRACに登録してある楽曲は使用料さえ支払えば、アーティスト、所属事務所の許可なくしても使用していいのだそうです。で、勝手に使用されている訳です。
ソレを伝えた時のメンバーの悲しそうな顔・・・・・

インディーズなので楽曲の権利を全てアーティストサイドで管理できると思っていたのですが間違いでした・・
その方法はあると思うのですが、勉強不足でメンバーにもイヤな思いをさせてしまったと思います。今後の課題でもあります。

しかし、これだけモンパチの曲がカラオケで普及してしまっては、今更なくすことは不自然であり難しいかなぁ〜とも思っています。
カラオケ・着メロに関する書き込みがBBSに多く寄せられているのを見ては いつも複雑な心境です。
誰だって、好きなアーティストの歌を歌いたいし、着メロにしたいという気持ちも分からないではないです。
カラオケ好きな人達にはショックかもしれませんね・・すみません。

でもやはり「モンゴル800」としてはカラオケ・着メロは望むところではないのです。
[157] カラオケ・着メロ パート2 投稿者:you*me@HW 投稿日:2002/05/11(Sat) 22:34
こんばんわ・・・・
昨日のMeetingは夏以降のスケジュールについてでした。
結構調整が大変なのです。サトシにもいろいろ確認しなくちゃ!!

KARAOKE〜ですが・・・
下記の書き込みのあと、カラオケに対するご意見、ご感想をいろいろ頂きました・・・
「メンバーがイヤなら私もうカラオケ歌いません。」「着メロも消します」と言う意見多数・・・・
本当に皆さん良い子すぎて・・・・少々困惑。
もっとカラオケ・着メロ推進派の皆さんから反撃がくると思っていましたから・・・

自分で「カラオケは嫌だ」なんて書いといてナンなんですが・・・現実として今モンパチの曲はカラオケに入っているわけだし、着メロにもなっています。
かく言う私も着メロはほとんど全曲視聴してみました。
だってやっぱ気になるし・・・(何曲かはDLもした)
カラオケはほとんど行った事がないので、歌ったことはないのですが、でもやぱり行ったら行ったで好きなアーティストの曲を探して歌いたい気持ちはよ〜くわかる。 うん!!
だから 皆さんどんどんカラオケ・着メロ 利用して下さいじゃないんだけど・・・今は自分の意志で判断していいじゃないんですか?
「メンバーが嫌がってるから、カラオケ・着メロ止めよう」なんて盛り上がられてもなんか違うんですよね〜 ムズカシー。

ただ現状としてのこの複雑な思いを伝えたかったのですが、難しい〜ですね。 私の書き方もマズかったですか?

JASRACの方もこのHPをよく覗いているようで、メールにてアドバイスを頂きました。その他一般の方からもいろんな事を教えて頂きました。ありがとうございます。

今すぐカラオケや着メロの結論が出せるわけではないのですが、今後の課題としてメンバーの意向を尊重しつつ、タイミングを見て対処していきたいと思います。
なので、なにか動きがあったらまた報告します・・・と言うことで、おわり。

モンゴル800は著作権管理に厳しいことで知られています。彼らのCDはレンタルできず、楽譜も販売されません。気に入らない使われ方を制限するのは当人の権利かもしれませんが、各人が好き勝手なルールを設定するようになると、それを調べるだけで大変。それくらいのこと、して当然? ところがそのひと手間が、現実には大きな壁。

日本のレンタルCD文化は日本レコード協会とレンタルCD商業組合の一括契約でメジャーレーベルの権利関係が整理されている明快さに支えられ、カタログの充実と低価格を実現しています。この大きなメリットをどう考えるべきか?

平成18年6月13日

何だか誉められている。

平成18年6月13日

ここから探すのがまた一苦労。

平成18年6月13日

趣味のWebデザインのスタイルがOperaでも適用されるようになるとのこと。案外、時間がかかったなあ、と思う。プレーンな状態に慣れちゃったからすごく違和感があるということであれば、スクリプトの機能でスタイルを切ることができると思うので、そちらでの対応をよろしくお願いします。

平成18年6月13日

メカニズムはともかく、価値観対立については単純に「場」を支配する多数派を正義としているように読め、全体としては不満がある。多数決万歳だとしても、「場」を支配する多数派が、もっと大きな世界で多数派かどうか微妙じゃないか、といった問題は気にされていないようだし……。

平成18年6月13日

他人の経歴をばらすのは云々という意見がはてブで出ているけれど、hamuhamuhamuさんがコメント欄に顔を出したから誰のことをいっているのかわかったわけで、問題視するような記事かなあ、と思った。

平成18年6月13日

定額制の音楽配信サービスが導入すべき音楽紹介システムのひとつ。日本ではダウンロードして CD-R に焼くようなサービスの話しか聞かないような感じだけれど、アメリカでは定額制聞き放題(CD には焼けない)のサービスがけっこう人気あるらしい。日本でもそういったサービスが広まるといいな。

平成18年6月13日

略称に「ぶつ森」「どう森」などがある。

私の周りでは「おい森」っていわれてる。「おいでよどうぶつの森」の略で「おい森」ね。

平成18年6月13日

goo ブログのコメント数の上限は2000だとはじめて知った。50くらいで十分だろうと私は思う。

平成18年6月13日

何だろう? と思って単著もないのにとは - はてなを読んでみた。catfrog さんも今後、こうした話題が出るたびにシステムソリューションの注文がくるとなると、こりゃ大変だな。

平成18年6月13日

何でもかんでも検証していられるはずもなく、まじめな人の検証がちょっと注目される他は、気に入らない言説への攻撃としての検証が人気を集めるにとどまるのではないかと。この手のブームは、そういった形でしか盛り上がらないものだと思う。

平成18年6月13日

中学1年生の頃の友人に鹿児島出身の人がいて、「向こうは桜島の火山灰がたいへんなんだ。風向き次第では洗濯物も安心して干していられない」とかいっていたような記憶があるのだけれど、何かの間違いだったらしいなあ、と昨今のニュースを聞きながら思った。だって噴煙は60年ぶりだっていうじゃない。社会科資料集の図版に写っているのは水蒸気だったのか。

それにしても、こんな様子ではたまらないだろうな。

追記

はてブのコメントでご指摘いただいたのだけれども、58年ぶりに噴火したのは「昭和火口」であって、桜島の活動はずっと続いているのだそうだ。長年激しい活動を続けてきた南岳が少しおとなしくなってホッとしたところに古い火口の復活が起きたので関東にも伝わるニュースになったものらしい。

1988年には観測史上最多の降灰が記録されているそうで、そういえばそんなニュースがあったような記憶がぼんやりと。当時、私は小学2年生か。九州は他にもたくさん火山があって、なかなかたいへんなところだと思う。

平成18年6月13日

法案は可決されたとのこと。日銀の利上げも「預金生活者バンザイ」で強行されるのかもね。で、国民は歓迎するけど政治家は反対して「庶民の敵! 銀行の肩を持って!」と叩かれる。

平成18年6月10日

zarutoro さんの主張がよくわからない。まとめサイトに書かれていることが「農村のふつうの状況」だと思ってほしくない、と書いた私の記事にリンクしてはてなは誤解をまき散らすと仰るのですが、私はまるっきりの嘘だとはいわないし、ホントにひどい人もいることは事実と書いています。何がご不満?

「多い」「少ない」は主観の問題なので、例えば知り合いの農家の人の10人に3人が「子どもは男の子がいい!」といっていたとして、これが多いか少ないかの判断は難しいところだと思う。ただ、10人中10人が「子どもの性別は気にしないよ」というまで許さない、という人が仮にいたら、その方が極端じゃないかなあ。

ところで、まとめサイトのトップ記事がジャーナリスト宣言 @Wiki - 北朝鮮人権法案を紹介する内容になっていて苦笑しました。なるほど、こういった不安感に共感する人が管理しているわけか、と。

コメント欄が例によって例のごとく。興味のある方も、100個くらい読んだら十分だと思います。

今回の件に限らず、もしウェブで糾合し声を上げている人々の主張が本当に「当然」で「常識的」で「説得力がある」もので「まともな思考力のある大人なら誰もが正しいと思う」内容なら、それらを政策として掲げる政党が遠からず誕生するのかもしれないね。人権擁護法案に反対して、著作権を緩やかにして、北朝鮮に経済制裁して、朝鮮人は入国禁止にして、外国人参政権は認めなくて、ネット・ゲーム規制はしなくて、あと何でしたっけ。

ま、多くの日本人が本当にそういうのを望んでいるなら、日本は民主主義の社会システムを採用しているのだもの、自然とその要望は実現されていくでしょう。おかしいのは、その結果が失敗でも人々には被害者意識しか残らないこと。政治家も社長も、よく成り手がいるものだ。

平成18年6月8日

自分に甘くしてほしいなら、他人にも甘くしなければならない。日本人は日本人の価値観でバランスする点を探せばいい、と思った。で、日本の社会が窮屈なら、海外に行くのも一手ではあるよね。簡単じゃないけど。

多分、大半の日本人は、他人に厳しい要求を突きつけながら生きたいのだろうと思う。電車が正確に運行される社会を希求してきたような心性が、コロッと変化することはなさそう。もし仮にこのことが少子化に影響していることが明らかになったとしても、他人に甘くするなんて日本人には我慢ならないはず。イライラが募って暴発する人が増えるかもね。

最近はそうでもないようだけど、昔、東南アジアに進出した日本企業の駐在員はみんな額に青筋を立てていたという話をよく聞く。で、脳溢血で倒れる。

個人的な思い出話をすると、私の母親は子育てが楽しかったという。子どもが一人で遊びに行くことを当然だと思っていて、活発な弟なんて2歳の頃から一人で公園まで遊びに行っていた。心配した人が家まで届けてくれたことが何度もある(注:服に住所氏名電話番号が書かれていた)。交通事故に遭ったらどうするのか、と心配する人が多いのだろうけれど、母は「それはそのときよ」という。完璧を目指さず、適度に無責任になれば、子育ては気負わず楽しめるものらしい。

あまり他人の目を気にしていなかった母は、電車内で私たちが騒いだときも、常に自分の価値観から躾(しつけ)を行った。「周囲の人が迷惑するから」ではなくて、「電車の中では静かにするのが正しいと私は思うから」おとなしくしなさい、というわけ。なので当然、私たちの家族しか乗車していないときだって、車内を走り回ることはきつく禁じられた。大浴場で泳いではいけない、というのも同じ。

ただし、母は家事全般が得意で好きで、子どものお勉強の面倒も自分で見ることができた。父は無能の人で母に頭が上がらなかった。だからよかったのかもしれない。いろいろ苦手な人だったら、周囲の目があろうとなかろうとつらかったかもね。塾でも何だか親業に自信をなくして肩身狭そうにしてるお父さんお母さん、よく見かけた。世間体云々じゃなくて、自分の中で、理想と現実の差異に納得できてない風なのだった。

死んだようにおとなしい子どもだった私は品行方正でよく先生に誉められたし、弟は元気で文武両道に秀でてた。屈託なく我が子を自慢する母の姿を私も何度か目撃している。空元気ではなかなか気持ちが続かない。我ながらよくやってきた、と素直に自己評価できる母は、なるほど幸せな人生を送ってきたのだと私は思う。

やっぱり第一には性格の問題なのかな、幸せになれるかどうかって。他人がどうこうじゃなくて、日本の社会に生まれて、空気のようにまとっている文化というかね。私の母だって、私に元気がないことや弟のやんちゃが過ぎることをくよくよ悩んでもおかしくはなかったと思う。他のお母さんたちと同じように、うちの子はここがダメで困ってる、と愚痴っていたかもしれない。まあ「愚痴る幸せ」ってのもあるけれど。

平成18年6月7日

責任を問うた者は、いずれみずからの責任も問われる。結局のところ、だれもアウトサイドに出ることはできない。アウトサイドに出ることができるのは、発言しない人たちだけなのだ。

インターネットのフラット化の果てには、まだ広大な地平が広がっているように思える。

私も意図的に韜晦に書くことがあるので人のことはいえないが、これ、意味不明。

「誰もアウトサイドに出ることができない」はぁ?

佐々木俊尚さんの発言を引用して finalvent さんが意味不明と感想を述べた、という状況。

私の解釈は、「発言」は何らかの価値体系を背景に持つため、あらゆる「発言」は価値体系の外側から簡単に攻撃されうる。ただしその批判もまた言語化された時点で拠って立つ価値体系が限定されてしまい、包括的な批判とはなりえない。したがって、「外側」で安閑としていられるのは「まだ言葉を発していない大勢の人々」という漠然とした存在だけなのではないか。……といったところ。

また責任を問うためには特定の価値観を奉じる必要がある。単に「こんな考え方もあるよ」と紹介するだけでなく、責任まで追及していくなら、発言者は特定の価値観と一蓮托生になります。

佐々木さんや、あるいは(もう少し素朴な感覚として)花岡信昭さんが疑問を感じているのは、どんな言説も価値体系の外側から批判されてしまうような世界ではあっても、しばしば大勢がひとつの方向でワッと糾合する話題があるということを、どう考えたらいいのか、という問題だと思う。炎上の現場を見て私が感じる違和感は、参加者の大半が自分の正義を確信していること。たまたまその「場」において自分たちが多数派となったのではなくて、自分たちがその「場」で多数派となっているのは当然だ、と考えている様子なのです。

世の中にどれほどたくさんの価値観があるにせよ、特定の問題について対処の選択肢は多くない。もっと書けば、価値観の多様性はパチワークのような仕組みによるものであって、特定の問題をどう考えるかについて、無限のバリエーションはない。ここに「場」を支配する多数派が登場する理由があります。しかしそもそもなぜ、自分の主張を相対化しない(できない)人が多いのか。

私がウェブを知ってから「そうだったのか!?」と驚いたのは、日本人にも頑固な人が多いこと。そうか、自分の考える正しさを貫いても失うものがないならば、ここまで突っ張るのか、と。

ふだん話し合いで自説をすぐに引っ込めてしまう人も、きっと心の中では「バカなくせに声ばかり大きいあいつにまたやられたっ! ムカつくっ!」とか思っているのだろうな。そして、何度そういった経験を積み重ねても、人は自説の相対化をしない。「私の(正しい)主張が通らないのは、おかしな連中が権益を牛耳っているからだ」と思い、会社員は上司の悪口を語り合い、高校生は親への不満を友人にこぼす。

インターネットのフラット化は「同じ土俵に上がることができる」という意味で歓迎されており、自分の「正しさ」がフラットな世界でもやっぱり否定されてしまう可能性を直視していない人が多い(ように見えます)。

ただ、自分が正しいと信じることをウェブで他人にガンガンぶつけ続けて3年余、ようやく私も少し丸くなったというか、他人を説得できるなんて思ってた自分は傲慢でした御免なさいという気持ちになってきました。ここまでやらなきゃ気付かないか、という感じ(私は特別にバカだったのかもしれませんが)。しかも「悟った」ところで個人としては何の利益もない。消極的に現状維持も「あり」なのかな、と思うときもあります。

正直なところ、私は finalvent さんの問いに回答するには力不足です。以下は背伸びを自覚しながら書きます。

私はこの備忘録でいつも浮ついた話をしています。価値を相対化しているお利口さんはオウム的なものから市民社会をどう守るのだろうか?という質問に強いて答えるなら、「法治主義に賛同する私としては、法の枠内でしか守れない、が答えです」となります。本気で言ってるの? と問い質されたら、「言葉遊びです」という他ない。けれども。

ルールの恣意的な運用がもたらす不幸を、私はこの備忘録で何度も書いてきました。なのに数年前、私はイラクに大量破壊兵器があると聞いて「怖いな」と思い、イラク戦争にあっさり賛成しています。大規模な調査団がじっくり査察を行い、報告をまとめるのを待てなかった。かつては、なぜ警察は成田で暗躍する左翼過激派を叩き潰してくれないのか、と憤ってもいました。

私はぶっちゃけフラット化とかお利口さんみたいなことを言うのは、私たちの市民社会に関係ないポストモダンだったか無害なフィールドされれば関心ももたない。

いま私は、逆の感覚を強く持っているのです。痛みの感覚を黙殺し、生活から遊離した言葉を操る方が世界は良くなる、と。暴論と断って書きますが、仮に法の限界があの時、国家が機能していなかった原因だとしても、それは信頼をベースとする社会が招く悲劇と比較して、まだしもマシだったのではないか。そんなバカな! と怒る人、呆れる人は、当然いると思う。

平成18年6月7日

中国産割り箸の価格が上昇し、安売り競争をやっているお店がコストアップに苦しんでいるのだそうな。しかし国産の木材で割り箸を作ったら1膳5円となり、高価すぎて誰も買わなかったという。日本の林業は立ち行かなくなっており、廃林が増加し続けているのだそうな。

NHK は危機感を煽っているのだが、ようは輸入割り箸の価格がもっと高騰して1本5円より高くなれば、日本の林業も復活できるということ。今はまだ価格が上昇しているとはいえ輸入割り箸に価格優位性があり、国内で林業をやれる状況にないだけの話。林業には時間がかかるとはいうものの、間伐材収入も考えれば、木材の売価さえ十分なものとなれば5年目からは一応、軌道に乗る。50年スケールで考えれば大増産だって不可能ではない。今は将来の林業復活に備えて冬眠準備の時期。

林業の知見もずいぶん書籍化・マニュアル化が進んでいる。自然相手のことだけに個別対応の部分は残るのだけれども、基本的には技術革新による作業の効率化が圧倒的に効くので、全国津々浦々の山について一般性のないノウハウを全て記録できなくとも、それは致命的な問題とはならない。

林業が衰退して竹林が増えている昨今だが、日本の気候は温暖湿潤なので、放っておいても砂漠にはならない。廃林は人間にとって利用価値が低いのだが、もともと江戸期以前にはその廃林が国土を覆っていた。人口がどんどん増えていく中で次第に人手の入った山が増加した。それが元に戻っていくのを環境破壊と呼ぶのがふさわしいかというと……?

無論、外来種の竹が広がっていくことで生態系は変化するが、私の価値観において、それは許容範囲。山間部に杉林や檜林がこれほど増え、沿岸部に松林が帯状にダーッと並ぶのだって人間の都合でやったことであり、平野を田んぼが埋め尽くすのも同様に奇妙な光景だ。いわゆる雑木林だって人が作ったもの。散々好き勝手やってきた人間が、竹林だけをことさら問題視するのはおかしい。

ところで、割り箸価格が5円よりも上がって10円20円となっていくなら、再利用可能な箸が復権する。洗うのが安いか、使い捨てるのが安いか。単にそれだけのことなのに、輸入割り箸の多少の価格上昇で箸文化が消滅するとか何とか、「不安になりたい」症候群の典型ではないか。

補記

「もともと江戸期以前にはその廃林が国土を覆っていた」これは幻想。幕末の写真を見ると松の木が数本生えているだけの山の方が普通の景色。

それは人里のごく近くの山。その外側には木々の生い茂る山々が広がっていた。まあ、人が見るから「景色」なんだろうから、普通の景色はそうだったといってもいいのかも知れないけれど。

杉とか松とか間伐しないでほっとくと土砂崩れで偉い目にあうんですが。林業する気がないなら広葉樹とかに植え替えるべき。

林業の一環としてこれをやるのは無理。なので治水事業として予算をつけることなら可能かもしれない。けれども実際のところ、大々的にやるのは難しそう。土砂崩れが現にたくさん起きている地域に限定して事業を展開するしかないのではないか。

日本の割り箸製造は生産量に限界があるというのは番組中でも指摘されていた。1本5円というのは現状の生産量での話であって、大幅に増えると原材料費が急激に上がるはず。間伐材が安いのは主力商品の材木生産のための副生品だからで、主力の材木が売れない状況で間伐材だけを安く採る事は出来ない。割り箸用を主力にすると、そこに大きな経費が乗るので価格は材木並みになるだろう。日本の林業が本格的に復活するには、割り箸の価格でなく、材木の価格が上がって国産材木の需要が増える必要がある。5年10年でどうにかなる話ではない。割り箸で日本の林業が復活する事はないし、国産割り箸は量的に輸入品の代替には成り得ない。

そもそも割り箸なんて木材需要のごく一部に過ぎないはず。1000膳入りの箱をいくつも運んだことがあるけれど、体積は意想外に小さかった。短期的には工場の生産能力の問題で割り箸価格の高騰が起きるにせよ、長期的に効くのは原材料の価格。輸入割り箸の価格が恒常的に高騰していくとすれば、その背景には木材需要そのものの高まりがある。だから、輸入割り箸が5円になったとき、日本の林業は復活に向けて動き出す。

平成18年6月7日

世間的にはいろいろと問題が取りざたされている消費者金融なのですが、実際に現場で働いている人の多くにとっては、ちょっとした良心の痛みに耐えることができれば、「優良企業」であることは間違いないみたいです。

なぜ良心の痛みを感じなければならないのか? と問うことはできるのだけれど、個人の問題ではなくて社会的な誤解なのでいっても仕方ないか、という感じがする。

私もこの道の玄人ではないので、素人なりにこう理解する、という大雑把な話を書いておきたい。

この記事はボツ。

平成18年6月7日

農村は今や「どこか遠い世界」なのか?

極端な事例を引っ張ってくるとこうなる、という話。祖父母と伯父夫婦が専業農家だからいわせてもらうけれど、上記リンク先に書かれているような状況が「農家のふつうの状況」だと思ってほしくない。いったいどこのでこんなことをやっているのか? と私は疑問に感じたな。

農家が非常に少なくなって、農家の人が「ふつうの日本人」にとって「どこかの誰かさん」になっている中でこういったものが流行ると、どんどん誤解が広まってしまう。こうして根拠のない農村差別が始まるのか、と暗澹たる思いだ。

ここでいう「農家」とは決して単なる農業従事者を指すわけではありません。積極的に新しい技術や手法を取り入れ、家業である農業というビジネスを成功させようと真摯に頑張ってらっしゃるまともな農業従事者は沢山います。誤解のなきようお願い致します。

この注意書きもミスリードではないか。なぜかというと、このまとめサイトに集められているのは、前近代的な価値観が現代にも生きているというエピソードであって、農家の経済問題については、感覚的な話しか載っていないからだ

そして、真摯に農業ビジネスの成功を目指すことと近代的な価値観を持っているかどうかには、あまり相関がない(と私は感じている)。その日暮らし的な農業をやっている人にも、都会的な考え方をする人が少なくない。だって、みんな同じテレビ番組を見て、同じ新聞を読んでいるんだよ?

戦後、時間が経つにしたがって戦中を描くドラマや映画の描写がどんどん一面的になっていくわけだけれども、農村への誤解もまた同様に進んでいるように思われる。

「男尊女卑体質の農家」批判であって、「農家の男尊女卑体質」を批判してるのとは違うということであれば、最初の注意書きに書くべきはまさにこの点ではないかと思う。

これなどは読者が誤解しない方がおかしいという典型的な記事。こんな非常識な農家もある、と読み替えるべし。いや、実際の農家の知り合いがいる場合でもね、ひとつやふたつは思い当たることがあるのではないか。けれども実態を知っていれば、「農家スゲー」みたいな他人事感覚には陥らないはず。面白おかしく誇張されている程度も読み取れる。まるっきりの嘘だとはいわないし、ホントにひどい人もいることは事実。だからといって……ということ。

1906年1月に発表された「野菊の墓」は明治時代の農村を舞台とした物語。薄い本だし、案外すいすい読めると思う。この作品が当時の人々に好評をもって迎えられた事実には、「あれっ?」と感じるところのある人が多いのではないか。そうでもないのかなあ。

野菊の墓ほか

関連・逆リンク!

平成18年6月7日

会社の同僚に浜崎あゆみのファンがいるという話は以前どこかで書いたような気がする。「浜崎さんって地声と歌声にずいぶんギャップがあるよね」という話をしたら、「昔はそんなことなかったんだけど……」といって勧められたのがこの作品。1995年公開、撮影当時、浜崎さんはまだ16歳。

なるほど。たしかに、ふつうの少女の声。

でも私にとっては作品そのものの方が衝撃的だったな。ワケわかんないのだもの。少女の心象風景を見事に描いた作品らしいのだけれど、あの時代の女の子(といっても私にとっては2〜5歳年長の世代)って、こんなよくわからないことを考えてたの? 職場にもこの世代の先輩がいるけれど、これではコミュニケーションとっていく自信が持てないな……。

何せメイキング映像まで理解できないのだから、いろいろきついなあ、という感じ。

ところで、少年漫画誌でいうところのサービスカットを担当している桂木亜沙美さんはこの後、もともとなりたかったマッサージ師になられたとか。ファンっていろいろ知っているのだなあ、と感心しましたね。

月に沈む

案外、よかった。主演女優を代えて長編映画にしたら面白そうな感じ。監督は行定さんだし。(注:本作は浜崎ファンのためのミュージックフィルムなので浜崎さん主演で全く不都合ない)

……あれ? この作品も劇場公開されているの? 浜崎さんってすごいな。

黄泉がえり スタンダード・エディション 月のしずく 黄泉がえり

こちらは RUI のミュージックフィルム。原作小説も好き。

平成18年6月6日

でも、存在自体明かしてないブログの存在知ってるのは変ですよね?誰かに教えてもらったとしか思えないですね。そういうふうに変に嗅ぎ回れるのは嫌いですし、大体ある程度信頼があって教えたものをこういう形で裏切られるのは結構不快です。5に至ってはほとんど教えてないんで大体目星はつきますねえ。

というのは id:VanDykeParks5 のことなのですが、1 と 2 があるのだから 4〜9 くらいはあってもおかしくないと思って、私は一通りはてな ID の存在確認をしています。当初は 99 まで調査するつもりでしたが、9までで飽きました。

同様に調べたケースのひとつが「世に倦む日々」です。エキサイトブログで運営されているのですが、画像容量の制限がきついので、http://critic.exblog.jp/ から http://critic2.exblog.jp/ へ、さらに http://critic3.exblog.jp/ へと移転を繰り返しているわけです。とすると当然、critic4〜9 あたり、気になってくる。結論からいいますと、critic7 までアカウントが取得されています。過去、8〜9ヶ月で1アカウント分の画像容量を使い切っているので、あと4年くらいで更新を終了される予定なのかもしれません。

平成18年6月6日

1.

以前も書いたのだけれど、感情論はたいてい、論理がしっかりしている。

私は白い壁が好き+あなたは壁にポスターを貼るのが好き+あなたにとってポスターを貼ることより私の気持ちの方が大切なはず→我慢してくれるわね?

といった感じ。(大筋で)論理の破綻はない。無論、前提がひっくり返れば結論は変わりますけれども、話者の想定している条件が満たされている限りは、おかしなところはありません。

id:chanm さんがもうひとつ問題視しているのは「屁理屈」ですが、これもたいてい、論理はしっかりしています。

「感情論」や「屁理屈」がなぜ反対者への説得に効果的でないのかというと、論理に誤りがあるからではなくて、前提条件への同意が得られないからです。もっと書けば、「感情論」とか「屁理屈」といった呼称は、(多くの場合)前提条件に同意できなかった人々が、気に入らない主張に貼るレッテルに過ぎない。

自分のお節介や自己中を常識や論理にすり替える才能は評価に値するけど、あれどうにかならんかなあ。

それは「すり替え」ではないのですね。「私」の提示した前提条件を「お節介」とか「自己中」とみなすのは価値判断の問題であって、それを「常識」とみなす「私」の世界観との対立があるだけのこと。狭い経験から書くなら、その人は本気でそれを「常識」と考えていることがほとんどのはずです。

そして、「論理」は価値判断とは別の次元でただそこに存在していると考えた方が、頭がスッキリしてよろしいかと思います。

2.

先の例文には、隠れ条件が多々あります。「ポスターを貼ることを我慢するあなたの気持ち私が白い壁を諦める気持ち」とかですね。でもこれは別に、論理的な破綻を意味するものではない。「あなたより私の方が大切」という主張を自己中心的だと批判するのは全くかまわないけれども、それは「私」の論理を外側から攻撃するものであって、論理的な誤りを突いてはいません。

「矛盾を指摘したのに言い逃れをされた」といって怒っている人がいますが、私が見るところ、その大半は隠れ条件をめぐるやり取りです。相手の意見を「非論理的」と決め付けて、相手が書いていない部分を自分の主張に整合するように補ってしまう。例えば「私」と「あなた」は平等だと決め付けて、「あなた」に一方的な我慢を強いるのはおかしい、とか。けれども「私」が白い壁を切実に希求しているなら、「あなた」がちょっとポスターを貼りたいと思っているだけのことと平等に扱う方がおかしい、ともいえます。

全ての材料を最初に提示しておくのは難しく、また相手の語ったことだけを議論の材料としていくことも難しい。お互いに手探りで意見を詰めていく過程で、「言い訳をするな」とか「後出しジャンケン」といった批判を始めるのは感心しません。相手の主張には論理的整合性があると予想し、柔軟に想像力を働かせながら、お互いの言葉の隙間を埋めていきたいものです(これが難しい)。

すると最終的に、議論の焦点は価値判断の差異か、ある事実の有無に帰着します。

事実の調査はともかく、ここで「価値観は人それぞれ」といってしまうと合意は永遠に得られません。もし結論が必要ならば、「私はこう思う」ではなく「あなたも私もこう思う(よね?)」といわなければならない。議論が「常識」争いとなりやすい所以です。

id:chanm さんが疲れてしまうのは、結局のところ、id:chanm さんもご自分の「常識」に自信を持っているから。自分がそうである程度に、相手もそうなのだろうな、と考えることができれば、ある種の徒労感からは解放されるのではないでしょうか。相手も私の「非常識」に呆れ、「なぜこんな簡単なことがわからないのか」と苛立ち、そして「意地を張らずに意見を変えたらいいのに」と思っているに違いない。

3.

id:tot-main さんの「感情的」の反対は「理性的」で「論理的」の反対は「非論理的」なんじゃないの?というまとめは明快。

そこに付け加えたい私の主張は、「感情的」とか「理性的」というのは価値判断によるので、お互いに相手の意見を「感情的」だとか、「理性を欠いている」などと思っているのだろうね、という話。

4.

ところで今回の話題は「論理的」が嫌いな理由(id:fujipon さん)から辿ったのですが、この id:fujipon さんの意見は謎のまま。どうやら、説明を端折って「非論理的」とだけ断じることを批判している様子なのですが、結論がおかしい。

「論理的」なんて書いている時点で、どんな偉そうな人でも、底の浅さが見えまくってしまいます。と飛躍し、本当は、その背景に「確固とした論理」なんてないからこそ、こんないいかげんな言葉を使っているのに。と決め付ける。肝心のところに手抜きをしているのでは?

もうひとつ、id:trivial さんの指摘はもっともだけれど、私(たち)が「議論の交通整理をしたい」という観点からあえて「論理的」という言葉に形式論理学を援用した価値中立的な定義を与えようとしていることも理解してほしい。

議論のレッスン 説得の論理3つの技法

平成18年6月6日

扉が開いたままエレベーターが上昇し16歳の高校生が死亡した事件。エレベーターに問題があったことは明らかとして、なぜ高校生が逃げられずに亡くなってしまったのか、不思議に思っていた。

調べでは、3日午後7時20分ごろ、市川さんは自転車にまたがりながら後ろ向きに降りようとしたが、扉が開いたまま突然、エレベーターが上昇。市川さんは体をくの字に曲げた状態で自転車とともに挟まれた。解剖の結果、圧迫による窒息死とみられる。

なるほどね。自転車にまたがったままエレベーターに乗る基本的なミスを犯していたのか。

自転車を乗せていいエレベーターはそう珍しくもないが、自転車にまたがったまま乗っていいエレベーターを私は知らない。たいてい取扱説明書の中で禁止事項として明記されているはず。この程度のことは常識であるべきだ。

エレベーターの管理体制を問うこととは別に、自転車にまたがったままエレベーターに乗り込んではいけないという啓蒙も必要かと思う。この絶好の機会を逃す手はない。

人が線路に落ちたら、非常停止ボタンを押して駅員を呼ぶのが正解。人助けはいいが、やり方を考えるべき。

閉まりかけの回転ドアに頭から飛び込んではいけない、安全柵を勝手な判断で乗り越えてはいけない、親は子が危険な行動をしないようよく教えなければならない、というのが第一の教訓。

エレベーターの管理会社や回転ドアの製作社から賠償金を勝ち取っても、死者は蘇らない。

平成18年6月6日

6月4日のNNNドキュメントは耐震偽装事件で倒産した木村建設の元東京支店長、篠塚明さんの取材記録だった。元一級建築士、姉歯秀次さんによる最初の構造計算書偽装は木村案件ではなかったことも判明し、不十分なチェック体制のため個人の犯罪が放置されてきた構図がハッキリしてきた。篠塚さんしかし、恨み言をいわない。姉歯さんに仕事を依頼した私には責任があり、どんな罰も受ける、と。

捜査を通じて木村建設の粉飾決算が明らかとなった。検査を担当したイーホームズの架空増資も暴かれた。姉歯さんの名義貸しも出てきた。4月26日、木村建設元社長の木村盛好さん、篠塚さん、元専務森下三男さん、元常務橋本正博さん、イーホームズ社長の藤田東吾さん、元監査役の司法書士岸本光司さん、姉歯さん、姉歯さんから名義を借りた建築デザイナー秋葉三喜雄さんの8人が逮捕された。

マンション販売会社ヒューザーの小嶋進社長も5月17日に偽装発覚後に数軒を販売した詐欺容疑で逮捕されたが、そういえばヒューザーと一緒に国会へ社長が呼ばれた不動産会社シノケンはどうなったか?

ようするに、そういうことか、という感じがした。木村建設やヒューザーやイーホームズに自力で補償する能力があれば、姉歯さんはともかく、他の人々が逮捕されることはなかったのだろう。森田設計事務所の森田信秀社長と姉歯さんの妻という2人の自殺者を出した(他にもいるかもしれない)が、地震で倒壊したマンションやホテルはまだない。

検察って、ホント国民のいいなりなんだな、と思う。無論、犯罪の証拠もないのに起訴はできない。それが最後の歯止め。ところが国民の多数派は、その歯止めを「救い」ではなく「つまらない制約」とでも思っているらしい。

木村建設のコンサルタントなどをしていた総合経営研究所の内河健所長は不起訴となった。罪に問えるような行為が見当たらなかったということだ。そして、司法権力のふがいなさを嘆く声が、新聞にもテレビ報道にも充満している。会社の同僚は耐震偽装のニュース自体に無関心だったが。そんなものか。

ともあれ「法の下の平等」なんて、お題目でしかないらしい。しかし自分が恣意的な法運用のために苦しめられると「不当な扱い」に怒り狂う。そのくせ、「他人に厳しく自分に甘い人が大嫌い」ときている。鏡を見て自殺でもしろといいたいが、「隗よりはじめよ」といわれても困るので口をつぐむ他ない。

逆リンク!

平成18年6月6日

VIP ブログがどうのこうのという話に関して、2ちゃんねるのニュー速VIP板やニュース速報板でブログ潰しに狂奔した人々は批判に値すると私は思う。マスコミからネタをパクりながら「マスゴミ」呼ばわりすることを何とも思わないくせに、自分たちに対しては「敬意」を表わせ、と言い募る。

よくわからん。

これも、よくわからん。まあ、わかることはわかるんだけどね。

平成18年6月6日

1.

私たちが生きていくコストの大部分は、社会的な関係を維持するために使われているのであって、だから、そういう諸々の関係性から降りて、一日中部屋に籠もってTVをぼんやり見て、ただ「生存」するだけだったら、そんなにお金は必要ない。

職場と家を行き来するだけなら、お金はかからない。

だから年収300万円ちょいちょいでも、貯金が1年に100万円以上増えていく。物価の安い田舎じゃないよ、山手線の内側で一人暮らしして、この結果。バス・トイレ・エアコンつき。しかも古書店が近いので本は好きなだけ読めるし、何の不満もない。

そういえば1ヵ月半もの間、一度も外食していない。コンビニ食(=惣菜パン+飲み物 といった無調理食)もない。確実に自炊していれば食費なんて安いもの。

家計簿をつけてみると、私が徹底的に人付き合いを避けていることがよくわかる。一度も外食をしていないということは、休日に遠くへ出かけることが全くないことを意味する。弁当箱は持っていない。ちなみに入社後4年余りで、手許にある自分が写った写真は4枚しか増えていない(更新された免許証を含む)。

これは極端なのだけれども、ふつうの人は100万円も貯金しないだろうから、そこそこいい生活ができるはず。それくらいで満足しようよ、と私はよく人にいうのだけれど、友達に金持ちが多いとプライドが邪魔をするらしい。可哀想にね、とお互いに思っている。

現代の日本では、家から社会へと押し出すには、かなりのお金が必要であって、だから、裕福な家庭よりも貧しい家庭の方が若年無業者を生み出しやすいということも十分にあり得るし、実際に、低所得層な若者の方が、家から離れられないという状況もある。

そんなわけで、この結論にはあまり同意できない。仕事をするだけの社会的な関係に、大したお金はかからない。ただ、仕事をしなくてもあまり困らないという状況は理解できる。

というか、高度成長期、みんな貧乏だったのに専業主婦がどんどん増えたのは、奥さん一人養うのにそれほどお金がかからなかったからだ。そして仕事なんかしたくない人が世の中にたくさんいた。その後、給与が増えていったのに共働きが再び増えたのは、貧乏生活が嫌になったから。私の両親が結婚したのは78年頃なので、アッサリ仕事を辞めて何の後悔もなく、「お金には困っていない」のでパートに出ることもなかった母は古風かな、と思う。

60年代に貧乏サラリーマンの専業主婦におさまるより現代の若年無業者の方がいろいろ恵まれている。だから、つまらなくて薄給の仕事を続けられない人の気持ちは判る感じがする。バイトをいくつかクビになっただけでめげちゃう学生とかもね。少なくとも異常なこととは思わない。

2.

かつて私の両親はフォスターペアレントをやっていて、貧困国の少年たちの就学を支援していました。一応、私の小遣いの半分がそれに使われているということになっていて、だから被支援者の少年が送ってくる手紙には、私の名前が書かれていました。「**様、いつも温かいご支援ありがとうございます……」

強く印象に残っているのはネパールの少年です。私よりふたつくらい年上。ひょろひょろで背が高く、いつも小さな母親を大事にする孝行息子で、大勢の弟や妹の面倒をよく見る優しいお兄さんでもあったという。最初は字が書けないので現地ボランティアの聞き書きが送られてきました。その次は幼稚園児の描いたような絵。それが次第に小学校1年生のような絵手紙となり、小学3年生の作文くらいまで成長しました。結局、支援事業は失敗し、彼は学校をやめて農業に専念することとなるのです。そのとき、私はまだ中学1年生。

「これまで**様のおかげで学校に通うことができ、文字や数字を知ることができました。絵を描くことも知りました。どうもありがとうございました。**様には言葉でいいあらわせないくらい感謝しております。(以下略)」

淡々と運命を受け入れた彼の手紙に悲壮感はなく、ただただ感謝の言葉だけがありました。彼は字を覚え、絵を描くことを知ったけれど、結局、それらと無縁な世界に帰っていきました。紙も鉛筆もない、誰も字を読めない家族と暮らしていくのです。では全部、無駄だったのか。そうではない、と私は思いたい。

彼の本音は知らない。大勢が読む手紙です、カッコつけだったのかもしれない。それでもいい。

平成18年6月4日

こういうのを見て「おばあちゃんが悪意ある閲覧者に襲われる危険性が!」とかいう人もいるのかなあ、とか思った。

平成18年6月4日

コメント欄に私から見て妥当と思われる主張があって安心しました。