備忘録

平成18年12月27日

今夏は体調不良で何も書かなかったが、昨年までは夏場に1日1〜3PVの駄文ブログを運営していたことは、これまでに何度か書いてきた通りです。

で、そのログを読ませてほしいという要望をメールでいただきました。しかし残念ながら、といいましょうか、ブログと一緒に削除してしまっておりますのでね……。

平成18年12月22日

「ごきげんよう」
「じゃあ、試合の件は電話して。9時までに」
「うん、携帯かけるね。9時までに」
「キミちゃんにも電話するね」
「あ、いいよ。私にかけるとお金かかるし」
「そっか、SoftBankじゃないんだ」
「ゴメン…」
「いいよ、キミちゃんが悪いんじゃないんだし」
「そうだよ、気にしないで」

こんなんでいちいち怒る人がいるのだから、クリエーターもたいへんですね。

そういえばソフトバンクモバイルの前身であるボーダフォンも「LOVE定額」というのを打ち出して、某非モテ界隈の憤激を買っていましたよね。

ソフトバンクの11月の時点での国内のシェアが16%、ということは、4人のうち3人がソフトバンク、というシチュエーションは、0.16×0.16×0.16×0.84×4で、答えは0.0138、パーセントに直すと、約1.4%になります。要するに、70組に1組の割合、なんですよね。

あはは、計算上はそうなんだろうけど、学生時代は研究室(10人くらい)の全員がドコモユーザだった(私は携帯電話を持っていなかった)し、先日参加した九十九式感謝祭では4割がウィルコムユーザ。案外、そういうものでは?

入社してみたら同期の6割強が J-PHONE でした。しかし写メール以降、J-PHONE はパッとせず、ずるずるとシェア後退。au が勝つかドコモが勝つか、と思っていたら、PHS 使いの私の周りにポツポツとウィルコムユーザが増えてきました。面白いものだなあ、と感心しています。

ちなみに九十九式は管理人のザ・ニンジャが初代京ぽんのユーザ。感謝祭参加者に PHS ユーザが多かったのは予想通り。

間もなく活動停止。長らく楽しませていただきました。ありがとうございます。

これでとうとう、自宅にウェブ接続環境を構築してから1年以内に読み始めた個人サイトの最後のひとつが止まってしまうのですね……。

ていうか、九十九式の話題だけでひとつの記事にすればいいのに、とか思った、今。

端末を買い換えました

これまでPCカードでネットに接続し、電話機は電話専用としていたのですが、新規契約から5年経って始めての機種変更でモデム機能付の電話機にした結果、通信料金は月額5000円に(通話は受信しかしないので……)。これで年間約1万3千円の節約になりました。

ウェブでの口コミ情報にはウィルコムに好意的なバイアスがかかっているみたいです。要注意。

平成18年12月21日

取材と休暇をかねて、アメリカに旅行してきた。インディアナポリス、シカゴ、ニューヨーク、ナイアガラとツアーしてきたんだけれども、ケータイに関して、とても気になることがあった。電車の中でのビジネスパーソン、自宅にいるティーネイジャー、街中を行き交う人たち、空港の旅行客、観光地での行動など、ついついケータイを観察するクセを発揮してしまったけれど、今回は割とショックを受けた。日本はケータイを利用するライフスタイルにおいて、アメリカに突き放されてしまったのではないか、ということである。

8月にこの記事を読んで以降、「本当か?」との思いをぬぐいきれずにいた。何せ数字がサッパリ出てこないのだ。たった600万人、ウェブ利用者の1割弱しか参加していない mixi を「いまどき常識でしょ」という人と同じような間違いを伝えている記事ではないか、そう思っていたのだった。

疑問に思ったことは一応、ググってみるのが流儀。しかし10本くらい記事を読んでダメなら保留状態へ移行し、その後は関心の網を張って情報が引っかかるのをジッと待つ。そうして4ヶ月、ついに所望のデータに出会うことができた。

世界最大市場の南北アメリカ。2005年は対前年比20.2%増の約2億5000万台だった。その半分以上は米国で販売された。

ブラジルの販売台数が増えたものの、まだ米国市場と1億台の差がある。カナダ、メキシコを含めると北アメリカで7割に達する。まだまだ南北の差は大きい。2006年の南北アメリカ全体の販売台数は同7.9%増の約2億7000万台の見通し。そのうち米国は、同7.5%増の1億4530万台。

世界最大の経済大国である米国の携帯電話機の平均販売単価は意外に低い。第3世代機の普及も進んでいない。

「第3世代よりも先にスマートフォンが普及する。スマートフォンの販売台数は、2006年でまだ500万台程度だが、確実に台数が増えている」(ジーエフケー マーケティングサービス ジャパン シニアアナリスト 平岡卓朗氏)。

1億4530万台売れた携帯電話の内、500万台がスマートフォンなのだそうだ。割合にして3.4%である。

私は別に、日本の方が進んでいるとかそういったことをいいたいのではない。アメリカの若年層にスマートフォンが普及しているという話は本当か? そこが知りたかったのだ。

最後にもう1つ、彼女がPCからツールをSidekick 3に変えた後に起きた変化について1つ触れておこうと思う。今までPCばかり使っていて、ケータイは一応持っていたが、ほとんど使わなかった。しかしSidekick 3でネットコミュニケーションをすませるようになってから、逆にケータイの音声通話を使うようになったという。文字だけのコミュニケーションを音声通話付きの端末で交わすようになったら、通話が増えたというから、利用する端末の変化というのは面白い。

シャープ製のパーソナル用途に向いたスマートフォン Sidekick 3 を歓迎しているのは、ふつうの女の子じゃなさそうだ。(ちなみにビジネス用途でウケているスマートフォンが BlackBerry らしい)

アメリカ発のドラマや映画を見る限り、向こうの人はやたら音声コミュニケーションが好きなようだ。恋人同士だけでなく、家族とも友人とものべつまくなしに喋っている。アメリカでも多数派はケータイ族なのではないか。こうした補助線なしにスマートフォンの興隆を語るのは危なっかしい。

関連する話題

これは「広義のスマートフォン」のニュース。上で書いているのは W-ZERO3[es] のような端末の話。言葉の定義があやふやになってくると困るんだよなあ。

平成18年12月21日

1.

先日の記事に寄せられた意見の中で、気になるものがありました。

血液型性格診断程度には、検証する価値のあるデータだと思うが、いかがか?

これにはまったく同感です。ただし、血液型性格診断と同じように検証する価値が全く無いという意味でですが。

菊池誠さんも度々説明されていることですが、血液型と性格は、現代では無関係とみなすに十分な材料が揃っていますが、昔はそうではありませんでした。血液型が性格に影響を及ぼす可能性はいろいろ考えられたからこそ、「血液型と性格の相関」が検証されたのです。

いまだに血液型と性格に深いつながりがあると主張するようでは、不勉強な人か、現代の科学が基盤としている信頼の体系に満足できない人……などとみなされても致し方ない。しかしそれは先人の努力の結果であって、自明の結論ではなかったことに注意しなければなりません。

2.

(私はあまり関心がありませんが)疑似科学を批判するのは結構です。しかし非科学的主張を忌避するあまり、安直な発言が目立つことには、違和感を覚えます。血液型と聞いただけで「関係があるわけがない」、星座という言葉に触れただけで「占いでしょ」、それがリテラシーですか。違うでしょう、と。

血液型はたしかに性格には関係ありませんでした。でも、ある種の病気の生存率とは相関が発見されるかもしれない。どう考えても血液型の違いそのものは無関係と思われても、そうしたデータが見つかったなら無視はできない。研究を進めてみたならば、血液型を決定付ける遺伝子が、他の酵素か何かの形成にも関与していることが分かって……とかですね、そうした成果につながる可能性があるからです。

血液型と性格には相関がなかった、その事実によって強い先入観を抱き、「血液型と**に相関がある」という主張に片っ端から難癖をつけ、検証する価値もないと突き放すような態度は、疑似科学にはまる人々とは逆の方向で問題があると私は思います。

私は工学部を卒業しメーカーで開発業務を担当していますが、製品改良の出発点は「理由は分からないが環境Aと事象Bには相関がある」といったデータであることが少なくありません。

だいたい最初に思いついた説明は間違いなんです。実験で否定されてしまう。精査の結果、環境Aと事象Bの関係が根本的に否定されてしまうことも珍しくありません。それでもなお「なぜ当初は相関が見出されたのか」を探求することで、事象Bを引き起こす真の要因にたどり着いて万歳ということがよくあります。

「無関係に決まってる、どこか間違っているんでしょ、検証する価値なんかないよ」そう決め付けていたら、(理論先行型の開発手法が大の苦手な)不勉強な技術屋に開発できるものなんてありはしません。

「水からの伝言」は水が言語を理解し物理的挙動を変化させるという主張であり、仮にそれが真実なら現代科学は根底から覆される代物です。これほど明確に誤った主張に反証実験は必要ないし、反証実験なしでは納得されない状況があるとすれば、むしろそこに深い問題があるというのがリンク先のお話。

私はこの立場を支持しますが、それはやはり「水からの伝言」が特級のオカルトだからであって、「ウソっぽい」仮説を軒並み「反証するまでもなくこれは誤り」と決め付けることまで賛成するものではない。

3.

id:DocSeri さんがいろいろ検討されている通り、星座と交通事故の関係には疑わしい点が多い。けれどもこれは二択問題じゃない。程度の問題なのです。「こんなのはニセ科学に決まってる、検証の価値なし」と断じるのは行き過ぎでしょう。

今回、「性格」は「星座」と「事故率」をつなぐ仮説に過ぎません。本題は星座と事故率の関係なのです。ところが安直に持ち出された「性格」仮説への拒否感から、いきなり「星座と事故率に相関などありえない」と決め付ける。拙速といわざるをえません。

私はとりあえず、件の調査結果を発表した保険会社が保険料率の査定に星座を利用すべきだ、と提言しました。本当に星座(=生誕時期)と事故発生率に相関があるなら、会社の利益率は必ず改善されるはずです。

既に述べた通り、星座と事故率に直接の関連がなくとも、相関を示すデータさえ信頼できるものなら、それは有用です。星座と軌を一にして変化し、交通事故に関連する「何か」を探せ、というヒントになるからです。とにかく相関が本当に存在するのかどうかを検証しなければ、話は始まらない。

余談

与太話である、と断言してかまわないと私は考えますが、この研究それ自体はどんどん進めてほしいと思っています。ステルス性に優れることと人間が気持ちよいと考えることを結びつける仕組みは全く明らかでない。にもかかわらず、ここには一定の相関が認められるようです。

おそらく真の要因はステルス性ではない。でもそれはそれとして、今はまずステルス仮説に沿って「本当に相関があるのか」を検証すればいい。その知見は、必ずや未来のデザイン学を豊かにし、社会に資することでしょう。

逆リンク!

平成18年12月19日

「チェーン」スタイルとはてな村

これは烏賀陽弘道さんがあちこちにメールを出して「転載して広めてください」とお願いした結果、津田大介さんによって書かれた記事。今、チェーンメール・チェーン日記の呼びかけ部分は削除されているけれど、約1日、転載の呼びかけが続いていた。音ハメは人気サイトなので、かなり効果があった。

はてブのこのエントリーを含む日記が3桁に達している。メールの再転載も散見される。多くの人が、事実の検証抜きで直感的に烏賀陽さんに同情し、オリコンに冷淡な態度を決め込んでいる。そして「チェーン」スタイルへの違和感を表明する人は少ない。

注:その後、烏賀陽さんのサイトに原文が掲載された

この話題に関心を持ったある人(ブクマしたつもりだったが見当たらなくなってしまった……)が、Yahoo ブログとはてな村では「チェーン」スタイルへの忌避感に大きな違いがありそうだね、みたいな感想を述べていた。なるほど、違いはあるのだろう。けれども、「チェーン」スタイル即ち悪、と反射的に反応する人ははてな村でも少数派らしい。

結果的に、転載のお願いを目にしても大半の人はリンクするに留めた。面倒くさいとか、いろいろ理由はあったのだろう。ただ、「チェーン」スタイルは悪だから、という理由で転載を避けた人が多かったのだ……とは、とても考えられない。

こうした状況を見るに、私のカウンター記事は過剰反応だったか、と思わないでもない。

裁判について

訴えられた烏賀陽さんの記事は噂話をそのまま右から左へ流したもので、「こういう噂があるよ」という事実を紹介しただけ、との抗弁はありえる。しかし私は、原理的にはオリコンに同情したい。

津田さんらは「反論は言論の場で」との主張だが、そもそも他人の悪口を書く側には、もう少し緊張感があっていいはずだ。他人の利益を破壊する側に立証責任があって然るべきではないのか。噂話だけでオリコンの評判は低落する。オリコンが烏賀陽さんのコメントと同レベルの反論をしても聞く耳をもたれない。これは非対称戦なのだ。

例えばオリコンの集計データに「予約」が含まれているのか否か。オリコンは実売データであると主張し、烏賀陽さんはそうじゃないという。立証責任は烏賀陽さんにあるはずだ。ところが人々は烏賀陽さんのコメントをワケもなく信じ、イメージだけでオリコンはダメ集団と口々にいう。

こんな世界は不健全である。個人をいじめるのはよくないが、企業ならイビリ倒してOKなのか。自分の勤務先が同じ目に遭ったらどう思うか。「文句があるなら企業秘密を開示せよ」で納得できるのか。

オリコン側の問題は5000万円という賠償請求額だ。紛争額が大きくなると、一般的には弁護士費用も高くなるらしい(参考データ)。烏賀陽さんの言論活動に5000万円分の効果があったとの主張には具体的な根拠がなく、これはオリコンの意趣返しかと思う。

無検証でオリコンに不利な噂話を拡散し、言論の場で一方的に有利な攻撃を仕掛けた烏賀陽さんに対し、オリコンは自らが有利に立てる場で反撃を行ったのだろう。言論の自由の名の下にカジュアルな誹謗中傷がまかり通る世界を憎む私は、原理的にはオリコンを支持するが、賠償請求5000万円はえげつないという。

イメージ先行の大衆は魔女狩りバンザイだから、(現実的に可能な範囲で)誌上反論などしても無意味。だから裁判を起こしたのは正しい。法廷なら静かに話ができる。しかし請求額はもう少し何とかならなかったのか。勝てばいい、というのでは噂話で攻撃する連中とレベルが同じである。

平成18年12月19日

InsuranceHotline.comの調査では、年齢よりも星座の方が交通違反や事故に大きく影響すると示された。ワーストドライバーはどの星座?

(中略)

星座別ワーストドライバーランキング
順位星座備考
1天秤座(9/23-10/22)素早い決定を好まない
2水瓶座(1/20-2/18)衝動的でスピードと反抗の星の下にある
3牡羊座(3/21-4/19)自己優先的な性質を持つ
4魚座(2/19-3/20)空想にふけるのを好む
5蠍座(10/23-11/21)報復に走る性質がある
6牡牛座(4/20-5/20)頑固で、赤信号に突進したい衝動にかられる
7射手座(11/11-12/21)リスクテイカーではあるが、経験のあるリスクテイカー
8山羊座(12/22-1/19)目標指向型。交通ルールは自分が目的地に早く着けるよう、ほかのドライバーが守るべきものと考える
9乙女座(8/23-9/22)細部を気にする。リスをひかないよう急ブレーキをかけたら、10台の玉突き衝突を起こしてしまった、というタイプ
10蟹座(6/21-7/22)家庭的なタイプで、路上のほかのドライバーを家族のように考える。ただし気分屋
11双子座(5/21-6/20)マルチタスクを得意とする。運転しながら飲食や新聞を読むことなどが可能
12獅子座(7/23-8/22)寛大で、快く道路を共有することができる

(※編集部注:統計的分析に基づくものであり、科学的に立証されたものではありません。)

はてブを見ると、端っから「ありえないこと」と決め付けている人もけっこういる様子。血液型性格診断程度には、検証する価値のあるデータだと思うが、いかがか?

表をよく見ると、せっかちがまずダメで、1〜3月に生まれるとそういう性格になりやすいらしい。逆にのんびり過ぎるのも危ないというわけでワーストは10月の天秤座だが、5〜9月生まれは落ち着いた性格が運転にもよい方向に作用するのだそうだ。11・12・4月は中間で、順位も中間。

天秤座はイレギュラーだが、説明のつくイレギュラーといえなくもない。馬鹿馬鹿しい、と一笑に付せるものかどうか。

調査したのは保険会社だそうなので、まずこの会社が星座で保険料率を変えてみたらいいと思う。それで経営が改善されたなら、今回の調査結果の信頼性は高まることになるはずだ。

トップリーグであるJ1に所属する選手たちの数を誕生月別に調べたところ、トップが4月で73人、次が5月で64人と、生まれが4月に近いほど数が多いという傾向が現れた。

逆に最も少ないのは2月(24人)で、4月と比較すると、3倍以上の差。「同学年が一緒になって運動すると、早生まれの子供は4月生まれと比べ、体格面でどうしても劣る。すると、『自分は運動ができない』という意識が根付いてしまい、運動から離れるのではないか」と、Jリーグ技術・アカデミー部のマネージャーを務める山下則之さんは分析する。

詳細は記事中のグラフを参照していただきたいが、これは全数調査であり、非常に明確な傾向が出ている。これは季節云々ではなく社会環境の問題と分析されているが、理屈はなんであれ、生誕時期が精神・身体に及ぼす影響を無視できない分野が存在することは確かなようだ。

ちなみに ITmedia が統計的分析に基づくものであり、科学的に立証されたものではありません。と補記しているのは、喫煙と肺ガンには統計上有意な関係があるが、タバコがガンを引き起こすメカニズムは解明されていない、といった意味合いだろう。

ともあれ、反オカルトに凝り固まることがメディアリテラシーではないだろう、と思う。微妙な情報を鵜呑みにしないことは大切だが、よく考えずに間違いと決め付けるのではおっちょこちょいが裏返っただけではなかろうか。

星座別ワーストドライバーランキング
順位徳島福井石川豪州カナダ
01魚座水瓶座双子座双子座天秤座
02山羊座魚座山羊座牡牛座水瓶座
03水瓶座牡羊座牡羊座魚座牡羊座
04天秤座蟹座牡牛座・射手座乙女座魚座
05射手座獅子座蟹座蠍座
06双子座双子座・射手座蟹座水瓶座牡牛座
07獅子座魚座牡羊座射手座
08蟹座牡牛座天秤座・蠍座獅子座山羊座
09牡牛座天秤座天秤座乙女座
10牡羊座蠍座・山羊座獅子座射手座蟹座
11乙女座水瓶座蠍座双子座
12蠍座乙女座乙女座山羊座獅子座

その後、紹介された資料いくつかに目を通してみたが、内容のばらつきは小さくない。各地域内で星座と事故率に多少の関連はあるとしても、重視すべきデータとはいえそうにない。(追記 2006-12-20)

関連記事

「リテラシー」つながり

「ていねいに読みたい」つながり

逆リンク!

少し補足しておきますと、「生誕時期と交通事故発生率の関連」と「性格と交通事故発生率の関連」は別問題ですし、仮に「生誕時期と性格の関連」が実証されたとしても、関連の程度が低ければ三段論法は成立しません。

平成18年12月18日

1. はじめに

いろいろご反響をいただいた中で、私の意図とかけ離れた読み方も散見されました。

とくに目立ったのが「結論オリエンテッド」を倫理的劣位者のレッテルとして活用しようと考えた方々。彼らには「結論先行」という既存の言葉をご紹介したい。

次に気になったのは「結論オリエンテッド」思考の活用領域は議論の場に限定されると考えた方々。これは私の書き方が悪かったかもしれません。

2.補足解説

結論オリエンテッド(結論第一主義、結論志向)という考え方は、読解の技術です。あなたが「理解し難い主張」に向き合わねばならない全ての場面で役立ちます。

通常の「理解」は、理由オリエンテッド思考に基づき、結論を理由に因数分解することで実現されます。多くの場合、抽象的な結論は多くの具体例から導かれ、具体的な結論はいくつかの抽象的な「べき論」から構成されることが明らかとなります。

なぜ結論を理由に因数分解すると、理解が進むのでしょう? それは、ある「場」に参加する人々の多くが同様の解釈を示す具体例と、同じく大多数の人々が共感する抽象的価値観が存在し、説明を求められた人々が慎重にそのいずれかに当てはまる理由を提示するよう心がけているためです。「理由の説明」とは「伝わる言葉で語り直す努力」なのです。

「努力」と書いたことに注意してください。頑張って書いた「理由」が理解されず、「理由の理由を説明せよ」と展開するケースは、それほど珍しくありません。仮想的には「理由の理由の理由の……」と無限に続けることが可能ですが、現実には2〜4階層掘ったあたりで力尽きます。ふだん私たちは、深い階層にある理由を無意識の領域に任せており、出発点を曖昧にしたまま思考しているからです。

どんどん理由を遡っていくと、いつしか人々は結論から逆算して理由を考案するようになります。このようにして発見された理由を、ウソと決め付けるのは早計です。無意識世界の探索は困難です。サーチライトで照らしても全体像は杳としてつかめず、その深淵を見通すことは誰にもできません。

さて、少なくとも日常会話において、共通の結論が必要なケースは滅多にありません。だから賛成や共感は不要です。お互いに主張を理解しあうことができたなら、十分でしょう。いえ、もう一歩後退して、せめて自分が相手の意見を「わかる」と思えたなら、まずまず満足していいのではないでしょうか。

いま、問題は何でしたっけ?

そう、「理由を突き詰めていっても、ちっとも理解にたどり着かないケースがある」ことでした。

では発想を転換しましょう、というのが私の提案です。理由を考えて「納得」しようとするから理解できないのであって、結論をそのまま素直に読めばいいではないか、と。そして結論オリエンテッドという考え方で相手の主張を読み直すならば、驚くほどすんなりと思考の流れがよく見えてくることが多い。

理解と共感は別だ、と自らに言い聞かせても、気に入らない結論を受け入れるのは大変なことです。しかし異文化との交流は、この苦難を乗り越えた先にしか実現し得ないのではないか、私はそのように考えます。

3.余話

a)

先日の記事では、最初に誰の主張に対してであれ、明確にNOを突きつける人は、立場のハッキリした人だと規定し、そのような相手の意見を理解するための手法として「結論オリエンテッド」思考を解説しました。そして多くの人は、たいていの問題について、自らの立場を持っていませんと注釈しました。

私は「理由の説明など要らない」という立場を取りません。

最終的に異なる結論に至った相手と延々議論を繰り広げても「納得」する・させることは難しい、と私は考えますが、まだ立場の定まっていない人に多くの思考材料を提供することは、社会を豊かにするものと信じます。一見、不毛な議論も、それを読む大勢の読者の存在を視野に入れるなら、有意義なものかもしれません。

ただし徳保隆夫、いよいよ死に体か(2006-12-07)に書いたとおり、経験上、議論モードの記事は読み飛ばされる傾向があります。

b)

共通の土台の上に意見の構築を目指す議論の処理には「理由オリエンテッド」思考が、結論の衝突からはじまる議論の処理には「結論オリエンテッド」思考が有効です。(76字)

c)

私の提案には「現実をよく見よう」という(いつもの)主張が隠されています。本当に「理由」は「結論」に先行するものだろうか? 必ずしもそうとはいえない、との観察があるならば、結論を保持して理由を交換した相手を硬直した物差しで測って追い詰め、勝ち誇る愚に気付いてもいいはずです。

しなやかなコミュニケーションを心がけたいものです。

平成18年12月12日

1.

最近、議論せずとも異論をぶつけてくる相手の考え方が理解できる(ような気分である)と書いたところ、「そのコツを教えてほしい」と要望が寄せられました。以下、回答いたします。

結論オリエンテッド(結論第一主義、結論志向)という考え方を理解することが、唯一最大のポイントです。

2.

誰の主張に対してであれ、明確にNOを突きつける人は、立場のハッキリした人だといえます。従来、こうした相手の考え方を理解するために発せられてきた言葉は「なぜ、そう考えるのか?」でした。相手の主張の背景には「理由」や「根拠」があるはずだ、というわけです。

しかし結果はどうだったでしょうか? 要求に応じて提示された論拠をていねいに潰していっても、相手の主張の根幹はブレないことが多かったはずです。「でも、でも」といっそう意地を張り、ますます手がつけられなくなっていった記憶、皆様にもあろうかと思います。

逆に、枝葉末節にこだわりネチネチと言葉尻をあげつらう論敵に暗い炎を燃やした経験もあるでしょう。補論を重ね持論の正当性をあらためて確認しているこちらを嘲笑うがごとく、「論破されているのに見苦しい」……それはこちらの台詞だ、といいたい。決め付け、悪意の解釈、ワザとやってるだろう、この嫌がらせ。

こうして最初は紳士的に始まった議論も、延々と続く限りは内面のドロドロ化を避け難い。なぜか?

それは、人々が「結論オリエンテッドな議論」をしているからです。(……と「考える」ことで疑問は解消されます)

3.

「事実」を共有できても、「価値観」が異なれば解釈は違うものとなります。意見対立は究極的に解決され得ないケースが多い、と見てきました。

多くの人が説得の第一歩として、相手が反対する「理由」を訊ねるのは、同じ人間として根源的な価値観は共有されていることを信じているからです。そしてゼロ地点からひとつずつ議論を積み上げていけば、結論を共有できるはずだと思っているのです。

しかし現実には、議論を掘り下げていっても「価値観」はなかなか見えてこないのでした。手強い反論があればアッサリと諦め、別の手を繰り出してくる。これではタコの足切りです。本当の足はどこにあるんだ?

そして私は気付きました。そうか、タコの足は頭から生えてくるんだ。相手が絶対に守りたいもの、彼/彼女の価値観、ひいては人格を体現しているのは、この議論の「結論」だったんだ、と。

4.

多くの人は、たいていの問題について、自らの立場を持っていません。まず「無関心」、次に「よくわからない」、続いて「どちらともいえない」ときて、ようやく「賛成」とか「反対」などということになります。こうした人々は、ふつう、紆余曲折を経てようやく自分の意見を定めても、それは当座の在所に過ぎません。ちょっとしたことでまた根無し草となってゆらゆらと曖昧の海に泳ぎだします。

そうなる原因は、各人の持つ価値観と、現実の諸問題とが遠いことです。

平和な社会を望む、といった漠たる要求と、だから靖国神社に首相が参拝すべきとかすべきでないといったテーマは、たいていの人の頭の中で、まっすぐには結びつきません。遠い遠い道のりを歩く間に、あっちから誘われ、こっちの声を聞き、そうしてようやく現在地点にたどり着くわけです。頭の中に賛成・反対、両方の材料があって判断保留の状態。

「ハイ、あなたの意見をどうぞ」そんなこといわれても困るのです。あるいは、仮に「賛成」側に身を置いたとしても、それは現状のバランスを前提とした結論。「反対」側の情報(反論)にたくさん接してみれば、途端に気持ちがグラつきます。

そんなわけで、ほとんどの人はほとんどの問題について議論を忌避します。動機もなければコストの負担を肩代わりしてくれる存在もないのですから。

「理由オリエンテッドな議論」は、知的好奇心にあふれる人同士の幸運な出会いなくして継続不可能です。また多くの人の持つ「価値観」はたいてい深い深い階層にあり、高度に抽象化されているので、滅多なことでは激突しません。したがって多くの意見交換は対話のレベルで極めて短期間に処理されます。

こうした日常体験のために、人々は「結論オリエンテッドな議論」というイレギュラーへの対応を誤るのです。

5.

いくつか「なぜ」を遡ってから「これ以上は問答無用」というケースと、最初から「門前払い」するケースとの間に、本質的な差異はありません。倫理は倫理でしか説明できず、世界から倫理を取り出す最初の一歩は、無根拠な断言でしかありえないのです。

様々な議論を眺めてみた経験からいえば、「なぜ」を突き詰めてスタート地点に辿りつくのは稀です。2〜4階層掘って満足される方が多いようですが、疲れたか飽きたか。何もかも曖昧なままです。その点、最初から「門前払い」するケース即ち結論オリエンテッドな議論は、明快です。

以上より、冒頭の質問に回答します。

議論せず(=説明を求めず)に異論を理解するコツは、理由ではなく結論に着目し、素直にそのまま受け止めることです。泥沼の議論を読み解くコツも、同様です。人は結論オリエンテッドに発言し、議論すると「みなす」。この発想の転換が、閉塞感を打破します。

練習問題1

mixi のコミュニティをまとめて本を出すことをコミュの管理人が決めたら、他人の金儲けが許せない人々が怒り爆発。ありがちな嫌儲問題です。掲載拒否といえば不掲載になるのだそうで、著作権は論点にならないはずが、なぜかそのあたりも槍玉に。

印税を全額どこかに寄付すればいいらしい。なんで? と訊ねるのは無意味です。「これは許せない」が価値観の基礎であり、思考の出発点なのだから。形式的に理由を問うても、結論から逆算して回答が構築されるだけ。そんな「理由」を潰したところで、本質的な反論にはなりません。

練習問題2

以下、問題文のみ。回答は不要でしょう。書いてある通りに読めばいいのです。

練習問題3

練習問題4

逆リンク!

平成18年12月8日

「事実は小説より奇なり」なんてよくいわれますが、傾向としては無論その逆。

「面白い」にもいろいろあるのだろうけれど、「笑える」ということでは2chの圧勝だと思った。ていうか、2chの方を読んでいたらリクナビの記事の内容を全然思い出せなくなってしまった。

平成18年12月8日

備忘録を MT 任せにして以降、マークアップにひとつの制限が生じていました。

備忘録はサイト内の1コンテンツに過ぎず、サイトのトップページにおいて、趣味のWebデザインというサイト(h1)の Note カテゴリ(h2)の何月何日(h3)の個別記事(h4)という位置づけでひとつひとつの話が登場します。個別記事内の小見出しは h5 以下の見出ししか使えません。

これに対して個別記事のページでは、日付が h1 でタイトルが h2 となっています。この状況下では、小見出しは h3 以下となります。(注:当サイトでは個別記事の分類に日付を用いている+個別ページに日付を入れたい→個別記事のタイトルを h2 で表示する ……といった考えで、少々奇妙な文書構成を採用)

以上より、トップページと個別記事とでは小見出しに用いる見出し要素の階層が違ってしまう。小見出しは h5 にする、と決めてしまえばいいのでしょうが、個別記事で h2 の次の見出しを h5 とするのは私の美的感覚にそぐわない。それで小見出しの必要な文書では dl 要素を使ってきました。

かなり面倒くさいのですが、仕方ないと諦めていました。ところが、世の中偉い人がいるものです。

石川さんご紹介の convert hn というプラグインで、イライラが一撃で解消されました。過去に遡ってマークアップを変更したいな、と久々に思いましたね。にしても、2004年5月公開ですか……。調べ物をサボっちゃいけませんな。

ちなみに私の場合、下書きファイルにおいて個別の見出しが h2 になっているので、その流れで小見出しは h3 でマークアップ、個別記事はそのまま公開、トップページでは見出しレベルを2つ落として表示する、ということになります。

なお残る制限

HTML4.01 の見出し要素は h6 までだから、小見出しは h3 と h4 の2段階に制限されます。原稿で h5 を使って2段階落とすと h7 になり、これは存在しない要素型。ま、たいてい問題ないでしょう。

平成18年12月7日

紛糾している部分の議論はさておいて。

芦屋:坂本,この「貴方の営業ご担当者様が販売活動しやすいように工夫しています」という表現は,抽象的で意味不明じゃないか。意味が分からないから,「先方へのアピール」になってないんじゃないか。説得力もないよ。ここは,具体的な事例を使って修正すべきだな。どう修正すればいいか考えてよ。

坂本:いや,ここはこれでいいんですよ。この文章はあえて抽象的でいいんです。いろいろ,イメージを膨らませてもらう効果が出ればいいんですよ。

芦屋:駄目だよ。そんなんじゃ「いい加減な提案」と思われてしまうよ。もっと,訴求力を持たせなきゃ。それには,具体的に書いた方がいい。

坂本:なんで,そう言い切れるんですか?絶対正しいといえるんですか。なら,変えますけど。

芦屋:そういう問題じゃないだろ。お前が自主的に変えなきゃ意味ないだろ。納得して変えなきゃ,何もならないだろ。

坂本:自分は,これでよいと思うんですよ。でも,変えろというなら,変えますよ。私は,芦屋さんの部下ですしね。

芦屋:お前,嫌な言い方だな。まあ,分かった。じゃあ。俺はいいよ。もう,言わない。俺はチェックしないから,次長と部長に見せてきなさい。

坂本:そうですか。じゃ,そうさせてもらいますよ。

1対1の議論には勝てなくても、豊富な経験から正しい判断を下す人はたくさんいる。そういう人を活かすための役職制度でもある、と思う。「全社員を平等に扱い、議論で勝った意見を採用する」というやり方でうまくいっている組織を見たことがない。

新入社員研修のグループワークで早速体験したことをひとつ。

「話し合い」で対抗意見をぶっ飛ばして主導権を握ったつもりが、どうも不満顔が目立つ。そこで多数決を採ってみたら、案の定。提案者も支持者も私の批判にうまく反論できないが、それでも「徳保くんの主張は採用し難い」という人が多かった。私はスパッと諦めて多数意見に鞍替えしましたが、結果的にそれで成功だったと思う。

グループを組み替えたら、最初から議論をリードする指導者肌の人と一緒になった。多数決も何もない、いきなり彼の色で方針決定。私は例によって天邪鬼を発揮したものの、「ま、そういう意見もあると思うが、ここはこれで行こうよ」無論、快諾する。結果的にも大成功。でも失敗してもグループの雰囲気は悪くなかったのではないか、と思った。

経験上、ということになるけれど、仮初の理論武装に成功した意見ではなく、大勢の心をスッと掴んだアイデアを採用するか、全責任を負う人の決断に従うか、このいずれかの道を選ぶことが組織運営に禍根を残さないコツ。個々の挑戦には成功も失敗もある。問題は、その先だと思う。

で、芦屋さんのテキスト。お前が自主的に変えなきゃ意味ないだろ。納得して変えなきゃ,何もならないだろ。ここがポイントかな。

部下が納得する必要はないと思う。ただ、納得していないからといって、上司の足を引っ張るようなことをしない、それがルール。違うかな?

上司のコメントには2種類ある。ひとつは意見、もうひとつは命令。意見には反論していいし、従う必要もない。命令には従う、ただし最初に一度だけ、自分の意見をいってよい(多忙時や急ぎの案件ではその限りでない/後でブツブツいうのはよくない/でも1年くらい経ったら解禁)。

芦屋さんはどこで躓いたか。

それは自分が全責任をかぶる「命令」を回避し、納得による(精神的な)共同責任を押し付けるため「意見」をゴリ押ししようとした、そのとき。

こんなことのために芦屋さんは次長や部長を巻き込んだパワーハラスメントを計画・実行し、ダークサイドに落ちることになるのだから、人生どこに落とし穴があるかわからない。

その他

平成18年12月7日

たまに例外もあるけれど、たいていリンクやブックマークが集まるのは最初の問題提起。以降、異論・反論に応えていっても、どうも今ひとつ反応がない。それも当然か。主張の核心をひっくり返す場合を除けば、ようするに言葉足らずを補っているだけなのだから。

私の場合、立ち位置が決まるときにはスパッと収まることが多い。しばらくAさんとBさんの対話を眺めていて「どちらの主張にももやもや感があるなあ」と思っていたものが、Cさんのコメントを読んだ途端に「これだ!」と天啓を受ける。面白いのは、そうして定まった主張は必ずしもCさんに賛同するものではないこと。

このところ、私は異論・反論を黙殺することが多くなっている。自分の経験に照らし合わせてみても、いったんスタンスが明確になってしまうと、ちょっとやそっとのことでは動かない。安定してしまうのだ。過去の対話を思い出すに、これは私一人の傾向ではなさそうだ。

対話のパターンはだいたい決まっていて、お互いの意見の相違をまず確認し合い、続いて双方が相手に疑問をぶつけていく。分からず屋同士だと、回答がまた新たな疑問を生む循環が止まらないが、少なくとも一方が自分とは異なる価値観を理解する能力に長じていれば、双方が疲弊する前に対話は終る。滅多に結論は出ない。妥協にメリットがないのだから、当然であろう。相互理解の促進に成功したなら御の字と考えねばならない。

賛同者の大半は、核心の主張を提示した段階で味方になってくれる。政治ニュースなどに関心のある方なら、よくご承知のことと思う。反対の立場を明確にした政党の質問にどれほどていねいに答えても、法案への賛成票は増えない。態度保留とか態度未定の政党が相手なら、見込みがあるが。では国会の論戦とは何なのか。端的には、妥協ラインをめぐる攻防なのである。

で、私が対話をあまりしなくなった理由。

一言で書けば、対話そのものが面白い、という感覚が薄れてきてしまった。説得に成功する確率があまりに低いことは早々に気付いたが、その後は他人の意見を理解する楽しさがあった。ところが最近は頭が老人化して、すぐに全てを理解した気になってしまう。結論を必要としていない以上、これでは対話のコストを支払うスポンサーがいない。

他人の考えがスイスイ読める、という全能感は心地よい。錯覚なのはわかっているけど、具体的にどのように現実と異なっているのかを知るのは、あまり楽しい作業ではない。このままではいかんなあ、と思ってはいるのだが、努力の動機付けがなかなか難しい。

今の私を怠惰の泥沼から引きずり出せるのは怒りの感情だけか。くだらない(と思ってる)相手に罵倒されて「貴様なんかに!」とか。でも優越感は大いなる勘違いで返り討ちに遭う……と、そこまで予想して逃げ続ける先読み貧乏。いよいよ死に体か。

平成18年12月5日

SMU-WM10 B 光学式USBワイヤレスマウス (ブラック) SMU-WM10 W 光学式USBワイヤレスマウス (ホワイト) SMUーWM10 R 光学式USBワイヤレスマウス (メタリックレッド)

コンパクトなワイヤレスマウス。いろんなイライラが一発で解消した。さっさと買うんだった。

……と思ったんだけど、パソコンに標準で添付されていたマウスで必要は完全に満たされていた状況下で、このケチな私がマウスを買い換えるためにはこれだけの不満の蓄積が必要だった、ということなのかな。

ちなみにこの四角いマウスをどう持っているかというと、親指と小指を左右に添え、人差し指、中指、薬指を3つのボタンの上に並べています。手が大きくないためか、かなりしっくりくる感じ。手のひらがマウスに触れていないとダメ、って人には使えないデザインだとは思う。

ワイヤレスマウス選択のポイント

平成18年12月4日

Yahoo ブログの転載機能を積極的に擁護する私は、チェーン日記やチェーンメールの全否定論にも違和感がある。

いずれも何だか巨悪の温床のようにいわれるわけですが、何をもってして「チェーン」といわれるのか、といったあたりを考えるに、「コピー許可」「広めてください」この2点であろう、と。するとこれは学校の電話連絡網と同じであり、社内の通達とも形式上の違いがない。

私は「不幸の手紙」を悪と認識しますが、これは「チェーン」スタイルでなくてもよくない。チェーン日記で広まるウソと通常の口コミで広まっていくガセ情報にどんな違いがあるか? 善意のチェーン日記が支援団体の代表電話をパンクさせたなんて話もあったけど、銚子鉄道の騒動はチェーン日記抜きで起きている。

情報を扱う人々の賢さが急所、「チェーン」スタイルを反射的に拒否する感覚が大切なのではない。「コピー許可」も「広めてください」も様々な場面で(最適な補足ルールを付して)有意義な使われ方をされています。だから、そういう情報伝播手段はあっていいのです。

「コピー許可+広めてね」の「チェーン」スタイルは、バカな怠け者の背中を押す魔法の組み合わせ。でも所詮、「チェーン」スタイルを撲滅しても情報再伝達の最大の武器=口コミは止められない。愚かしい都市伝説や陰謀論の数々はどのように広まったか思い出してほしい。

私はチェーンメールを過去に1通しか受け取っていませんが、口コミで嘘っぱちを教えられたことは数え切れない。その発信源の何割かはテレビと雑誌。だからマスコミ批判の方が、まだしも有意義だと思います。

「チェーン」スタイルという形式に警鐘を鳴らすことを第一義とする活動には、違和感があります。やればいいじゃん反証実験(J2さん)に対して「デモンストレーションとしての反証実験で納得するような人はどうせ困った存在なんだ」みたいな感想を述べた人に近い感覚、かな。

こうした事例は(主張に賛同するしないは別として戦術自体は)許容できるのに「チェーン」スタイルなら入り口で拒絶、なんて感性を育てるのがリテラシー教育なのか? という疑問。

国会議員にメールを送ろう、チラシを配ろう、みたいな活動こそ、他人の善意を利用して悪意なきスパムをばら撒く典型例。違いますか? そして、こうした手法自体は正当なものなんですよ。単純な「チェーン」スタイルへの忌避感植え付けでは、ここで論理エラーになりませんか?

そして蛇足を承知で書くなら、世の中を見るに、Yahoo ブログの転載機能で誰かさんのアジビラを自分のブログにコピーするくらい、何が悪いのか、と。そしてアジビラのコピーを配布したがる人の気持ちが何故に理解できないか、むしろそのことの方が不思議。

平成18年12月4日

1.

またぞろ Yahoo ブログの転載機能批判である。じつのところえっけんさんの発言はまずまず穏当なのだけれど、その周辺で、ね。でもそのあたりにリンクすると面倒くさいことになりそうなんで、えっけんさんに向けて書く、というスタイルを採ります。これは信頼? 甘えかな。

2.

リンクよりも転載を勧めます。これが私のポリシー。そもそも文章の素材屋としてはじめたのがこのサイトだった。Yahoo ブログが私にとってもう少しストレスなく使えるサービスだったなら、私はとっくに移転している。

気に入ったサイトを何らかの基準で整理してリンクするだけで十二分に意義があり、とくに才能のある者の作成したリンク集には多大な価値が生じることを示したのが Yahoo ディレクトリの始まりであり、様々なリンク集文化の枠組みであった。

更新頻度も需要も減って今では見る人も少ないが、当サイト初期の人気コンテンツはサイト批評サイトリンク集だった。ページビューの過半がこのリンク集にあった。その頃、日々苛立っていたのが、リンク先の消滅である。転載さえ許可されていたらなあ……と悔しく思うことしばしばであった。

サイト批評「サービス」のリンク集だから転載しても意味がない? そんなことはない。私がひとつアドバイス記事を書くと、それを数百人が読んだ。往時はサイトの表紙より過去ログ集の方がページビューがあったくらいだ。サイト批評サービスの真の価値は、公開されている過去ログにある。実際に批評を依頼した数人だか数十人はコンテンツ作成の切っ掛けに過ぎない。

過去ログ非公開のサイトを転載する意味はないが、過去ログを公開しているサイトは全て転載したかった。それが可能なら、リンク集の価値は永続的になるはずなのだった。

今では廃れてしまった小中学生の「HP評価」ブーム、数年前には3日に1つは新規参入があり、同じペースで廃業も続いていた。毎月ふみコミュニティなどで数千件のインデックスを人力でサーチして新規参入を発見し、累計1000超のサイトをリンク集に書き加え、また削除してきた。

賽の河原で石を積むような作業である。大した法益もないくせに著作権法に守られることを選ぶ人々への憤りに震えたものだった。アッサリ消すようなものなら、転載したっていいじゃないか。しかし転載依頼のメールに返事が来るのは稀であり、たまに来る返信は「お断りします」と決まっていた。

「あなたのサイトに掲載しても数十人しか読まないことはカウンターから明らか。当サイトに掲載すれば数百人が読む。数年後には消してしまうなら、転載を許可してほしい」なんて主張は門前払いされた。そして彼女らは平均3ヶ月でコンテンツを刷新し、苦労ばかり多く見返りの薄い「HP評価」を過去ログごと葬り去っていくのだった。

3.

個人ニュースサイトが典型的なのだが、ある種のリンク集によって、単独ではウェブの大海に埋もれていく他なかったコンテンツが、大きな価値を持つようになるケースが実際に存在する。私が手を入れていたリンク集も、そうした力を持ちつつあった。

私は自分でもアドバイスをしていたが、だったら他人のアドバイスの過去ログなんか転載する必要ないだろうとかそういう話ではないのだ。リンク集という編集成果物を経由することで、無名サイトの高々数十人にしか読まれなかった記事が、数百人の役に立つ、喜んで読まれる機会を提供することになる。

それが「編集」の力なのである。さして高度な話でもないと思うのだが、中間情報産業は世間に理解され難いらしい。個人ニュースサイトを毎日のように利用している人々でさえ、てんで理解していない。

「リンクでいいのになぜ転載?」って、そんなこともわからないのか。リンクするくらい手軽に何の障害もなく転載できるなら、私は全ての外部リンク先記事を転載してきただろう。私自身がそうであるように、他人様もまた、リンクしている側の都合なんか考えずにコンテンツを消すからだ。そうしてリンクした側の記事の価値を落とすからだ。

Yahoo ブログの転載機能は素晴らしい。転載ボタンひとつで自分の好きな記事をスクラップできる。そして自分がサービスを解約するか、Yahoo がサービスを終了するまでコンテンツを永続的に保有することが可能だ。事故でも起きない限りは、Yahoo が連絡もなしにサービスを終了するはずもないから、いよいよとなっても手許にログをダウンロードするくらいの猶予はあるだろう。

えっけんさんらが騒ぎ立てる懸念と比較して、このメリットは現にそこに存在する、確実で大きなものだ。少なくとも私の価値観においては、そう判断できる。

4.

自分が利用したいと思わない機能を無価値と断じ、デメリットばかり言い立てるのは、私も身に覚えのあることだ。誰も完全には排除できない心性であろう。しかし私がそこから連想するのは、「ゲーム脳」なんてでっちあげにすがってまで気に入らないモノを世界から排除しようとする人々の姿である。行き着くところはそこなんだ、と私は思う。

えっけんさんは、どれほどひどい使われ方が横行していようとも、トラックバック機能そのものをウェブから排除すべきとはお考えでないらしい。人々の「善意」といって悪ければ「知恵」に期待し、正しい使われ方が世に広まる未来がありえるし、現に一部では正しく使われているではないか、と認識されている様子。

私はえっけんさんのいう「正しいトラックバック」だって馬鹿馬鹿しいもので、全てのトラックバックは手動の「逆リンク」と同様、管理人が精査し紹介する価値があると判断した記事のみ厳選して表示するようなものに限定すべきで、ならばリンク通知専用のメールフォームで十分だという思いを未だに捨てていない。

けれども世間の人々がこれほどまでに歓迎したからには、トラックバック全廃論などを唱えるのは、自分の美意識で世界が統一されねば気がすまない、身勝手な感性の暴露になろう。少なくとも現状の安直な全否定はありえないと考える。

転載機能も同様であろう。転載なんかして何が楽しいんだ? そうかアイツら馬鹿なんだ。だからこんなくだらないことをして喜んでいられるんだ。……これで問題が解決するか。本当に疑問が解消されたことになるか。ならないよ。断言していい。

他人の心なんて、理解できないよ。でも、最初から理解しようという努力もなしに、価値観の壁がもたらす諸問題をどうにかできるわけがない。「連中」は馬鹿で、あなたは頭がいいというなら、あなたが相手を理解し、歩み寄れる地点を探す他ないじゃないか。

5.

長文を読ませておいて何だけど、1年半前に書いたこの記事の方が、よく書けているとは思う。

ただ、端っから「転載機能=悪」という認識で凝り固まって、粗捜し的な読み方しかしないような人の一部には、今回の記事の方が、ほんの少しでも胸に響くものがあるんじゃないか、そう期待して書きました。

平成18年12月2日

1968,70,71,72,73年に製作された「猿の惑星」旧5部作をやっと見ました。面白かったなあ。

以下、ネタバレありで、私なりの「猿の惑星」シリーズのストーリー解説をします。また、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001年)と、『猿の惑星:創世記』(2011年)についても少しだけ触れます。

猿の惑星(1968年)

地球を発って1年半、宇宙船はオリオン星座に属する惑星の湖に着水し、沈没した。宇宙船は亜光速で飛行してきたため、地球では2000年の時が流れている……。

この星には人間そっくりの生き物と、類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オランウータン)そっくりの生き物が暮らしていました。船長は人間そっくりの生き物を外見から即座に「人間」と断定し、また類人猿そっくりの生き物を「類人猿」と決め付けます。そして「言葉を持たぬ人間たち」と「文明を手にした猿人たち」に驚き、猿人が人間の知性を否定して動物扱いすることに憤ります。

この惑星は地球と大気組成が同じで、文明を司る猿たちは英語を話しています。しかしテイラー船長が「ここは2000年後の地球だ」と気付くのは、新天地を目指して歩いていた海辺で、自由の女神像を発見したときでした。

猿人=日本人?

『猿の惑星』は日本でも大ヒットしました。原作者ピエール・ブールの経歴から「作中の猿人と人間は、有色人種と白人の関係を模したもの」という解釈があり、「劇中の猿人ってのは日本人のことなのに、あんな国辱映画を歓迎した日本人はどうかしている!」と怒る知識人もいたそうです。

私は原作を読んでいませんが、少なくとも映画『猿の惑星』では、猿人=日本人という解釈は成り立ちません。映画『猿の惑星』に登場する猿人たちは、「猿人は猿人を殺さない」「猿人は自滅を招くほどの環境破壊をしない」といった点で人間に対して倫理的優位を誇っています。1968年といえば日本では公害問題が深刻化しており、かつて戦場にいた人々がまだ中年だった時代です。この猿人たちは、当時の日本人のイメージとはあまりにもかけ離れています。

砂漠の遺跡から、かつて人間が猿人より遥かに高度な文明を築いていたことがわかり、いま言語でコミュニケーションを取れないからといって、高度な知性を否定する根拠にはならない……という構図は、捕鯨反対運動にも通じるもの。しかし、この1点を持って猿人を日本人と結びつけるのは無理筋だと思います。

続 猿の惑星(1970年)

『猿の惑星』では、肥大化した欲望を制御できず核戦争で文明を失った人類に対して倫理的優位を誇った猿人たちですが、第2作『続 猿の惑星』では、ゴリラ族に仮託された俗物性によって猿人の理性と高潔さは打ち消されてしまっています。第2作では、猿人と人間は見た目が違うだけで、人格には差がありません。

人間と猿人に共存の意思はなく、ニューヨークの地下で細々と文明を保って生き延びていた人類の子孫と、知性のある人間など許せない猿人たちの最終決戦が行われます。人類の子孫は地球破壊爆弾である「コバルト爆弾」を持っており、決戦が人間側の敗北に終ったことを見て取ったテイラー船長は、ついにコバルト爆弾を起爆。地球は最後の日を迎えます。

『猿の惑星』の続編として1970年から毎年製作された『続 猿の惑星』『新 猿の惑星』『猿の惑星 征服』『最後の猿の惑星』の4本に対しては、「矛盾」とか「続編は蛇足」といった指摘が少なくありません。しかし私は、第2作の『続 猿の惑星』はさすがに擁護し難いものの、その後の第3,4,5作は、うまく持ち直してきれいな着地を決めたと思っています。

新 猿の惑星(1971年)

第3作は地球消滅の衝撃で過去に戻った知性ある猿人夫婦の悲劇譚。第1作とは逆に、知性を持った猿人を人間は恐れ、悲しい誤解の果てに、猿人たちの命を奪って全てを闇に葬り去ろうとします。

猿の惑星 征服(1972年)

未来からやってきた進化猿人の子孫が、類人猿の指導者となって反乱を起こし、人間と激突するまでを描く作品です。

「猿の惑星」シリーズ作中世界の歴史について

この第4作は、前作までに語られてきた歴史からは、大きく外れています。

猿人の歴史学者コーネリアスの語るところによれば、元々の歴史では、類人猿が人と共に暮らすようになってから言葉を覚えるまでに、2世紀を要したとのこと。猿人が反乱を起こし、核戦争によって文明が消滅したのは、西暦2200年以降の出来事なのです。(その後、猿人は文明を再建しましたが、人類はそれっきり言葉と精神文化を失う)

なお、第1作の舞台は西暦3900年代半ばで、その第1作に登場した猿人社会の「聖書」によれば、猿人文明は2000年前に始まったことになっています。これは矛盾ではなく、「聖書」では猿人が人間から文明を学んだ歴史が隠蔽されているということ。時を越えて文明人テイラーが現れたとき、コーネリアスは、猿人に言葉と文明を与えた神の正体を知るわけです。

ところが、第3作でコーネリアスらが1900年代に現れたためか、第4作では1991年に早くも猿の反乱が起きてしまいます。そして第5作では、21世紀初頭に核戦争が起きます。人類の文明が早い段階で崩壊するため、第2作で世界を滅ぼしたコバルト爆弾や超能力者は、第3作以降の改変された世界には存在していません。コバルト爆弾がなければコーネリアスが過去へ飛ぶことは絶対にありません。

旧5部作を「3→4→5→1→2」という時系列で解釈している方が多いのですが、素直に「1→2→3→4→5」の順で理解すべきでしょう。第5作の中で強調されているように、未来は選択できるというのが作品の基本設定なので、タイムパラドックスの問題はありません。コーネリアスが現れたことで、地球の歴史は分岐したのであって、コーネリアスが現れた地球から見て、コーネリアスは「別の世界からの来訪者」なのです。

猿人の進化について

「猿人が言葉を話すのは、未来からきた猿人の子孫だから」という説明を目にしたことがあります。その人は、だから本作はタイムパラドックスに陥っているとも主張されていました。しかし、この説明は誤りです。

未来からきたのはチンパンジーだけなのに、後の世界ではゴリラとオランウータンも文明社会の一員となっています。また、第4作の終盤、ふつうのチンパンジーの中の一匹が、猿人コーネリアスとジーラの子孫に触発されて、言葉を発します。その十数年後を描く第5作では、全ての類人猿が人間並みの言語コミュニケーションを取っています。

ようするに、未来世界で猿人が知性を持ち、人並みの生活をしているのは、生物学的な進化によるものではなく、「きっかけ」と「教育」があったからなのです。念のため申し添えておくと、これは映画の中の設定であって、現実には、人間と同じように育てても、類人猿が人間のように言葉を操ることは不可能です。

最後の猿の惑星(1973年)

類人猿と人間の核戦争により、両者ともに大半が死滅してから10数年後(21世紀初頭)の世界を舞台に、猿人へと進化した元類人猿と人間との和解を描く。

映画が始まった時点では、物語の舞台となっているニューヨーク周辺では猿人の方が人口で勝り、主流派となっています。しかし映画の冒頭と結末に登場する約600年後の2670年には、猿人と人類は対等の立場で、人口もほぼ同等の状態で共存しているようです。

「猿の惑星」シリーズの舞台の狭さについて

じつは「猿の惑星」シリーズ旧5部作の中で、猿人が地球全土で人間を支配しているという描写は、全くありません。徹頭徹尾、アメリカ北東部の海岸付近(しかも徒歩で移動できる範囲内)だけで物語が展開されているのです。第2作では領土拡張のためには核汚染された禁止地帯へ進出する他ないとされ、第1作でも禁止地帯の向こうにある世界は謎とされています。第4〜5作でも、それは同様らしい。

シリーズ全作を通して猿人の街はひとつしか登場せず、その人口は高々数千人です。現在の先進諸国の倫理観から考えて、人類の文明が残っているなら、汚染地域に取り残された人々を放置するわけがない。そう考えれば危険地帯の外側に文明が継続している可能性はないと判断できますが、世界地図の点みたいな場所に小さな猿人の街がひとつあるだけの世界を「猿の惑星」と呼ぶのが妥当かどうか。

PLANET OF THE APES/猿の惑星(2001年)

何かと評判の悪いバートン版ですが、いわゆる「SFとしてよくできている」のは新作の方。

主人公が墜落した「猿の惑星」は衛星が2つあり所属する恒星系の様子も異なるから「地球ではない」とわかるし、ラストに辿り着く惑星は宇宙からハッキリ見えるアメリカ大陸から地球であることがわかる。セード将軍の部下が沼に沈んだ宇宙船を発見する描写もある。きちんと情報を提示しており、納得できます。

また、話のスケールも理屈の通るサイズにまとまっています。バートン版はスタート時点の人口をごく少数に設定しており、数十億の人類が一挙に文明を失う大法螺を回避しています。ただ、それだけでは話が小さくまとまりすぎてしまうからか、馬鹿馬鹿しいのは承知でラストに「いかにも」な「猿の惑星」を一瞬だけ見せていますね。

バートン版の不人気は、「SFはマニアのせいでタコ壺化してつまらなくなった」みたいな話なのかも。旧作レベルのアホらしさが、広く一般にアピールするには適当なライン。新作はマジメに作り過ぎてケレンが足りなかった、と。

『猿の惑星:創世記』(2011年)

舞台は21世紀初頭。薬物投与が切っ掛けで1頭のチンパンジーが知性を得る。成長した彼は、やがて類人猿の知性を目覚めさせ、人類に対し反旗を翻す……。

まさか新作が出るとは思いませんでした。ものすごく大雑把に捉えると、『猿の惑星 征服』のリメイクに近い作品。でもディテールなどは全く違いますし、断然、新作の方が面白い。日本では小ヒットにとどまっていますが、アメリカでは意外な大ヒットとなったそうです。