少なくとも80年代までは何かを買うために何かを諦めるということは無かったはずです。新しいものは高いから買えないだけで、いずれ安くなれば買えるしそう安くならなくとも給料の上昇が追いつくはず、でした。(中略)経済は20年前の1.5倍に成長しているはずなのに、なんでボクらはクルマ一台を買うのにためらわなくちゃいけないんだろう。誰かこの質問に答えてくれないだろうか。
先進各国に差をつけられている名目GDP成長率ではなく実質GDPではそれなりに成長していると思うんだが、なのに豊かになった実感が湧かないというのも大きな謎の一つではある。実質で考えるとはどういうことかというと、給料が上がらなくても同時に物価も上がっていないのだから理屈では生活水準は不変のはずということ。しかし、実際の経済心理を観察すると明らかに消費に消極的になり、将来に備えて生活防衛型の生活スタイルにシフトしている人が激増しているように感じる。これはどういうことだろうと改めて思う。
生産性が2倍になって労働時間が半分にならない3つの理由(2010-02-19)にも書いたことだけれども、生産性の上昇の大部分は「量」ではなく「質」の上昇で、しかもその「進歩」は不可逆である、ということなんじゃないかな。
「量」と「質」はちょっとうまく定義できないので、ニュアンスを好意的に汲み取っていただきたい。(……と、ここで「アホか。それじゃ意味ないだろ。こんな駄文、読む価値なし!」と判断された方は、それで結構)
いまインドから車を輸入して、そのまま走らせることが可能なら、タタの激安新車は日本でも大ヒットするのかもしれない(注:当然そのとき車検制度は大幅に簡略化・低コスト化されているはずである)。でも、それは「ありえない」。その安全性の低さなどがすぐに問題視され、こんなのはダメだ、となるだろう。
自動車の安全性向上は日本の消費者が望んだことだ。何度、仮定の話として安全基準を緩和した状態をスタートラインに設定しても、シミュレーションを続けていくと、必ず復活してくる。もっと安全基準を厳しくせよ、人命を軽んじるな、となる。
生活の質ということについて。80年代にはクーラーが普及していなかった。学校の教室にクーラーがきたのは90年代の話。中小企業の(基本的に来客のない)オフィスにクーラーがきっちり普及したのも90年代のことでしょう。21世紀になって、やっと町工場の作業現場などにもクーラーが入るようになってきた。
私の勤務先は大企業ですが、本社併設の屋内現場にクーラーが入ったのは、私が入社した後のこと。冬の暖房はないと死ぬから用意されていたけれど、夏は「耐えろ!」といわれた。夏の暑い日に汗水たらして仕事して、みんなで冷たい麦茶を飲んで休憩したのは、いい思い出。今の新入社員はあの「ああ、夏だなあ!」という体験ができなくてかわいそう……なんて話をしたら、「営業、いきたい?」って睨まれた。すみません。
まあ、金属加工なんて材料の温度管理をしっかりしなきゃ精度が出ないんだし、クーラーのおかげでパラメータ調整の手間が減ってよかった。というか、所詮、もう思い出になっちゃったから「楽しかったな」なんで、「明日から気温32度の現場で3ヶ月働け!」と命じられたら、「ウッ」となる。
パソコンの性能向上について。パソコン市場では、たびたび「売れ線価格」の再調整が行われてきた。しかし「価格性能比の向上が止まった」ことはない。市場は性能に満足していない。
登場した頃のネットブックではリッチな年賀状の作成は厳しかったが、これには消費者の不満が噴出した。結果、昨年発売のネットブックは、どれも基本的に年賀状作成に十分な性能を有していた。「量」の革新は「質」の革新と速度が違う。在庫処分ではなく新規生産で赤字にならない価格を設定すると、年賀状作成に対応するかしないかで価格差は1万円程度にしかならない。これは最新機種の在庫処分価格より高い。だからネットブックの性能は、下がらない。
ネットブックが登場し、ヒットしたことをもって、「パソコンの性能競走は終わった」と評するのは間違いだった。技術の進展によってWindowsXPが快適に動作するネットブックが実現されたから市場が立ち上がったのであって、安くて小さいだけではダメだったのだ。
一般家庭においてパソコンは「家族で共用するもの」だった。そういう価格の商品だった。ネットブックは「真に個人用のパソコン」であり、その性能の向上は、これから本格化するのである。
昨年後半には「ネットブックの大画面化」が進んだ。「えっ!?」という声が聞こえてきそうだが、じつはネットブックはあまりモバイルされていない。「自分の部屋」に置かれることが多いのだという。リビングから個室へ。そもそも大画面ノートは「使うときだけテーブルの上に出して使う」という形で普及しのだった。
いまネットブックの小ささに利便を感じておらず、「安いパソコンは画面が小さいのしかないのか、残念だ」と思っているユーザーがたくさんいる。ようは人々の収入が増えない以上、「個人専用パソコン」の価格には上限がある。その枠内で可能な性能の向上は、全て実現されていく。大画面化も、そのひとつ。
話を整理すると。まず、実質GDPの成長は「質」の向上が大半であって、実質GDPが1.5倍になっても、消費できる「量」は1.5倍にならない。20年前に1台180万円で製造販売できた車を、いま120万円で製造販売することはできず、例えば150万円くらいがギリギリのラインだ、ということ。
しかも、その150万円の車は、市場で全く競争力を持たない。なぜなら、現代の衝突安全性の基準を満たしておらず、燃費が悪く、乗り心地もよくない。減税も補助金も、当然、ない。これらの欠点は、30万円の価格差では正当化できない。とくに安全基準の問題は致命的だ。「安全」の向上は不可逆な「質」の変化である。
かくて、新規に製造された自動車の価格は下がらない。「20年前の性能でいいから、安くしろ」というのは無理な話で、(画期的な技術革新がない限り)そういう商品が日本市場に出てくることはない。
携帯電話、パソコン、インターネット、クーラーの一般家庭への普及は、この20年の間に起きた。一人暮らしの若者にまで、これらの商品やサービスは浸透した。個々の商品の「質」が向上し続け、自動車のように全く価格が下がらない商品が多い中、よくこれだけ新しい消費の対象を増やしてこれたものだと思う。
私たち(あえてこう書く)は、「1.5倍の経済成長」というとき、ついつい「量」が1.5倍になると考えてしまう。「質」の向上、とくに不可逆に生じる「質」の向上は、意識されにくい。
不可逆の「質」の向上というのは、以前より改善されているのに消費者が「これくらい当然」と思っている状態、と考えてほしい。消費者って、「願望」が実現されたら喜ぶけど、「不満」が解消されてもすまし顔。
90年代以降の閉塞感、それは、新しいもの、新しい生活を得るためにそれまで当たり前だったものを諦めなければならない、あるいはどちらを取るかのトレードオフを迫られているためではないか、と思うのです。
60年代の本を読むと、高度成長期にも「生活が苦しくなっている」という人が異様に多かったことに気付きます。どうやら「平均的な人は、年率2%くらいずつ生活水準が向上して、ようやく主観的には生活水準が横ばいと感じられる」らしい。「これくらい当然」の水準が、年率2%で上昇していくといってもいい。
ゆえに、実質2%程度の成長では、「何かを捨てないと新しいものを選択できない」となってしまう。本当は「質」の向上が続いているのに、「それくらい当然」だからカウントしてくれないんですね。実際には「失われた20年」の平均成長率は2%未満なので、「質」を我慢して「量」まで減った、と実感される。
まあ、こういう人の心のバイアスはどうにもならないと思うので、処方箋としては「実質2%超の成長を目指す」しかないんじゃないですか。もっとも、個人へのアドバイスとしては、自分の意識を変える方を勧めますけれども。
個人的には、ピンとこない話。
これは中杜さんの記事とは関係ない話かもしれないけれど、少し。
『クロノ・トリガー』で有名な光田康典さんは、作曲にとどまらず、しばしば音響監督のような仕事もされているらしい。『ソーマブリンガー』の Creator's Voice では「自然なセリフ送りをすると音楽とピッタリ合うように作った」という趣旨の発言をされています。『ワールド・デストラクション』のイベント演出も同様の配慮がされています。
それはそれでよいのですが、問題は、いずれの作品も、セリフ送りの速度に制限が付いているのです。ボタンを押したら1画面分がパッと表示される仕組みだったら、1秒に2〜3画面分ずつドンドン読んでいけるのにな……と不便に感じることが多い。速読に対応してくれないわけ。
同様の不満を感じることが多いのが、ボイスつきのゲーム。せっかくボイスがあるのだから、ということで、セリフをパッと送らせてくれない。声優の演技に合わせてタイミングよくボタンを押させたいらしい。演出の意図にプレーヤーを付き合わせたいなら、セリフの自動送り機能を用意してくれたらいいのに、と思う。
『クロノ・トリガー』のサントラには、リメイク版に収録されたイベントムービー専用のアレンジバージョンが、みんな収録されています。編曲は光田さん。映像に合わせて、いちいち作り直したのだそう。光田さんは凝り性というか、何でも自分でやりたがる、ということがよくわかる。
それを歓迎する人も多いのでしょうが、私の感覚だと、そういう「こだわり」が、「製作者の考える理想的なゲーム体験の押し付け」を生んでいるように思える。そういうのって、ゲームと相性が悪いのではないか。シナリオ担当や音楽担当が、自分の理想を実現しようとすると、部分最適は達成してもゲーム体験は悪化するんじゃないか。
ニコニコ動画には、近年の曲の8bitアレンジとか、逆に古い曲のオーケストラアレンジ、あるいは音楽を変更したゲーム動画などがたくさんあります。それらを視聴してみた感想は、ゲーム音楽の要諦は「短時間でループする。しかし数時間も聞く」ということなんだな、と。
音楽的雰囲気だけなら、音楽を作成できるプロの人なら多くの人ができるでしょう。しかしゲームでは雰囲気にあわせて曲をその場に貼り付けるだけでは、不十分なのです。
たとえば、ゲームは多くの場合プレイヤーの進行スピードにあわせる必要があるので、ループをさせます。しかしそれはゲームの長さにあわせて適切な長さで、きわめて自然にしなければいけません。
1分程度でループすれば、よほど特殊なケース以外は合う、というのがド素人の感想。「きわめて自然に」なんていっても、そもそもプレーヤーの操作の方にイレギュラーが多すぎるので、ひとつの理想的なプレイを前提とした音楽というのは、むしろありえない。
『ソーマブリンガー』はアクションRPGなので、フィールドとバトルの切り替えがない。「だからフィールド曲をかなり長くした」という趣旨の発言を光田さんはされてます。でも個人的には、同じアクションRPGでも『聖剣伝説2』などの短時間でループするフィールド曲の方が印象深いし、不満も感じた覚えがない。
DSでリメイクされた『SaGa2』では、原作において容量の制約ゆえ非常に短時間でループしていた曲について、2ループ目をアレンジして2周単位で大ループするよう変更されています。が、プレーヤー的には、さして意義を感じない。新作ゲームに30秒ループの曲があると叩かれたりしますが、私には理由がわからない。
『ドラゴンクエストソード』の作曲について、担当の松前真奈美さんに、すぎやまこういちさんは「曲目を減らして、自然とメロディが記憶に残るように」と助言したという。1ループを適当に短くするのも、同じ理屈で推奨できます。懐かしのゲーム音楽といっても、思い出せるのは1分足らずの主旋律だけ。
ゲーム音楽の要諦は「短時間でループする。しかし数時間も聞く」……それ以上は考えすぎなんじゃないのか。作曲家はフォーマットを守って仕事をして、曲の使い方はディレクターに任せる、というくらいの方が、結果はいいのでは、なんて思う。
骨川家はお金を持っているから金持ちらしい生活をしていたのではなく、常にその状況で出来る限り最上質な生活を営もうとしている人達だったてコトなんですね。だから、たとえお金が無くなってもその中で出来るベストの生活スタイルを作り上げる。その為になら努力は惜しまない。
ちょっと骨川家を見る目が変わったなぁ。
小学館の藤子・F・不二雄 大全集を予約購読しているので、そのうちに原作も読めるのかな? と思っていたのだけれど、これはオリジナル作品なのだそう。これは見たかった。『ドラえもん』といえば少なくとも映画は東映だから、そのうちに公式配信があるかも……と思ったら、いまは東宝なのだそうで。とりあえずは諦めモード。(ちなみにアニメ製作はシンエイ動画)
ときどきこういう、「視聴習慣をつけておけばなあ……」という話題が出てくるのが『ドラえもん』のすごいところ。
「不可解」な描写のあった放送回について、スネ夫が裏山へ行く理由のあるストーリーだった、という説があります。本当かどうかを確かめたいのだけれども……。まあそりゃね、手間を惜しまなければ意外と簡単な話のような気はしますけど。
あるある。
上の話とも関係してると思う。ウェブ日記の話題なんて、書けるものから書けばいい……というのは当たり前の話なんですが、しばらく間があいてネタがたまってくると、自分の中で敷居が高くなっていく。いまさらこの話? みたいな。(ほとんどの)読者は気にしないだろうけれども、書き手のモチベーション的に。
ポリシーを持つのは悪いことではないとしても、「信条に反する」ことを気にして、やったほうがいいことを「できない」のは問題。
半月ほど更新を休んでましたが、いくつか下書きしてたこと、書きたいと思ってたことはあります。別に忙しかったわけじゃないんですよね。なんというか、優先順位の問題。過去の日付を、適当に埋めていくつもり。作家が雑誌や新聞に載せてる「日記」も、実際に書いてるのは締め切り直前だったりするでしょ。その内容を思いついたり考えたりしたのが、その日あたりだったなら、そんなに変な話でもないと思う。
ところで、東映はバンダイと並んで作品のネット配信に積極的な企業のひとつ。それでも最新作の配信には及び腰らしい。新作はレンタルDVDで視聴してほしいらしい。現在、第八巻(29〜32話)まで。DVDのレンタル開始日は放送の約4ヵ月後となっており、完結は6月の予定。ネット配信はその後の適当な時期になりそう。
いまフジテレビでは土曜深夜に『24 シーズン7』を放送中。昨年の晩秋に放送が始まった頃の主なスポンサーは、ちょうどその頃にDVDレンタルを開始した『バーン・ノーティス』でした。ところが2月になると、日本テレビで『バーン・ノーティス』が放送開始。『24 シーズン7』のCMは『プリズン・ブレイク ファイナル』のDVDレンタルにチェンジ。
理由はわからないけれども、DVDレンタルの市場規模はネット配信とは桁違い、らしい。『プリズン・ブレイク ファイナル』なんて関東では2月の頭まで地上波で深夜放送されていたはずで、DVDレンタルの需要がそんなにあるというのが不思議。しかしともかく、10万人か20万人かわからないけれども、その程度の人数が1枚300円とか400円でDVDをレンタルしているから、『24 シーズン7』の無料放送が成り立っている。面白いな。
ていうか、深夜ドラマをみんなリアルタイムに視聴しているのかな。録画するのが当たり前になっていたら、DVDレンタルの需要ってどこから出てくるのだろう。
というのは、『24 シーズン7』って、レンタル用のDVDが完結する前に放送が始まっているんだよね。テレビ放送を見て「これは面白い! 続きが気になる!」と思ってレンタル屋さんへ行っても、途中までしかない。結局、放送開始から2ヶ月くらいでDVDは完結したと思うけれど、それだけ待てるならテレビ放送を待っても大差ないんじゃないかなあ。
あるいは。TBSの『LOST シーズン3』の放送が終了したから、半ばお布施のような感じで『LOST シーズン4』のDVDをレンタルしてもいいかな、なんて思っていたんだけど、そのまま次の週からシーズン4の放送が始まった。そんなバカな、と思ったね。アメリカでの本放送では半年の休止期間があったんだよ。
テレビ朝日の「ハリコレ」で放送されてた『ナンバーズ』の場合、テレビでシーズン1が放送されている途中でシーズン2のDVDレンタルがはじまったから、「なるほど」と思ったんだけど。
まあ、『LOST シーズン3』を見てると、シーズン1とシーズン2を視聴したくはなる。ずっと無関心だった『プリズン・ブレイク』も、今ひとつ魅力を感じないファイナルを見てると、評判のよかったシーズン1が気になる。でも、実際にはまだレンタルしてないんだよね。
私みたいに金と暇のある視聴者すら腰が重いのに、よく商売が成り立っているよな……と。
海外ドラマもけっこういろいろ見てきましたが、私の一押しは『Dr.HOUSE』かな。偏屈な名医が患者の病気の正体を突き止めていく。視聴者おいてけぼりの治療法を巡る専門的な議論に、セリフの多くが費やされる。そんなの何が面白いの? まあ、見ればわかりますって。日本市場では製作不可能な作品ではなかろうか。
日本のドラマも面白いですよ。海外ドラマが重厚に見えるのって、単純には画面に影が入り込むからじゃないか。人の顔にバッチリ陰影がつく。日本の職場は蛍光灯でピカピカに照らされているから、顔にも床にも影ができない。日本の素晴らしい労働環境と住環境が、ドラマの画面を薄っぺらくするのだと思う。『西部警察』だと夕日の差し込む部長室がカッコいいけど、あれはリアリティー無視だから成り立つ話であって。
『24』に登場するCTUもFBIも、部屋の端の方が暗く見える。廊下とか、驚きの暗さ。『CSI』や『BONES』を見ていても、あんな暗い部屋で試料観察をするなんて信じられない。登場人物が屋内で会話するシーンで顔アップになると、背景は黒く沈む。息が詰まらないか。
そういえば『相棒』の特命係の部屋って、いつも薄暗いですよね。おかしいのは、鑑識の米沢さんまで暗い部屋にいること。『臨場』でも主人公の職場は窓を光源にして画面に奥行きを出してたっけ。どれもこれも嘘っぱちでしょ。日本の現代ドラマも、だんだんアメリカ作品っぽい絵作りが増えてきたのかな。
日本人からしてみれば、日本より組合が強く労働時間も少なく休暇も多い欧州のような国々の方がよほど改革の余地があるんじゃないか?って素朴に思う。なのにかの地でそうした供給側の改革を喧伝するような気配があまり見られないんだけど、どうしてだろう。長期的成長のための割り当てとしてそうした改革が必要なことはおそらく理解してるだろう。しかし、金融危機後優先されてるのは明らかに需要側の政策だよね。
この話の前提として、日本では景気回復のために「将来の生産性を上げる」供給側の方策が主に議論され、目下の需要不足による失業増やデフレの進行による経済停滞に対して、素直に需要を増やそうとする方策に世論が冷淡だ、という状況認識があります(注:私の理解です/以降、繰り返しません)。
日本経済のマネーは増え続けていますが、その回転がゆっくりになる方が勝っているため、需要が縮小して供給が余り、物価が下がるデフレになっています。だったらもっとマネーを増やす速度を上げたらどうか、というのがひとつの考え方。もうひとつは、人々がお金を貯め込んで使わない理由を解消したらいいんじゃないか、という考え方です。
後者に与する人々は、企業の設備投資や家計の消費が弱気な理由を、「将来、生産力は頭打ちになる。しかし財政再建+少子高齢化への対応で、多大な出費が予想される。よって貯金に励もう」という考え方が蔓延しているため、と考えています。
将来不安こそが問題の根幹。しかし少子高齢化は、今からあらゆる政策を実施し、それが成功しても、人口ピラミッドが正常化するのは100年後の話。財政再建は景気回復なしに実現不可能。とすると、唯一「将来の生産力増大」を確信させる政策こそが、設備投資と消費を促進し、日本経済を需要不足から解放、復活させる役に立つものだ、というわけ。
ではどうして、このような議論が日本でだけ盛り上がっているのか? というのが、すなふきんさんの疑問です。
私の回答は、欧州も東アジアも北米も「将来の生産力増大」を疑う世論がない、いま需要が不足気味だとしても、それはあくまで短期的な要因なので、短期的な視点でなされる需要補給策でよいのである、そういうことなんじゃないですか。
すなふきんさんの記述に寄せて書くと、つまりこういうことです。欧州人はいま、のんびりしている。ということは逆に、将来の成長余地は十分にある。よって将来不安はない。そもそも財政赤字が日本ほど累積していないし、日本より少子高齢化の進展は緩やか。将来不安が原因で投資や消費が冷え込むとは考えにくい。東アジアや北米も、そのあたりは同様です。
逆に日本はというと、「死ぬほど働いているのにこんな給料? 絶望した!」という感じ。欧州よりよっぽどあくせく働いているつもりだからこそ、自分たちが将来、もっと多くを生産できるようになるとは、とても考えられない。それでいて財政と年金の破綻は目前に迫っている(と国民が考えている)。これで投資や消費が活発になるわけがない。厳しい時代を生き抜くため、お金を貯めておきたい、と考えるのは道理です。
私自身は「まずマネー供給を増やすべき」派です。というか、長期的な生産力向上のための施策の必要性は否定しない。大いに進めればいい。けれども、そちらは金融政策以上に様々な意見が飛び交っている状況。政策を具体化するだけでも年単位の時間がかかりそう。
デフレの害、とくに失業は放置できない。優先順位としては、より短期的に効きそうな政策を、やれるところまでやるべき。私は、通貨発行益による国債の償還がよいと思う。「企業の設備投資や家計の消費が増進してデフレが解消されるまで」満期がきた国債を黙々と償還していく。必要な法改正は、やるべき。
日本にとって明白な解決手段は、単に巨額の債務をマネタイズすることだ。これは一石二鳥どころではなく、一石で雁の群れ全部を殺すようなものだ。考えてみると、紙幣の印刷には以下の効果がある。
- 期待インフレ率を高め、実質金利を下げる。
- 円を弱める。
- ドル建て資産を保有し、負債が円建ての金融機関のバランスシートを改善する。
- 日本の純輸出を改善する。
- 日本が将来返済すべき債務の額を減らす。
将来不安を縮小しつつマネー供給を拡大する、一挙両得の方法だと思う。けれども、これはあくまで金融政策として実施するのがポイントながら、「デフレを脱した後に通貨発行益が財源化して大変なインフレに至るのでは?」という懸念の声が強くて実現は難しいらしい。
個人的に、べつやくメソッド自体は、実践したいと思わない。多分、私がやっても、面白くならない。ただ、手書きの円グラフの見た目には心を射抜かれるものがあり、会社の資料に一度でいいから使ってみたいと思っていた。最近、ようやく機会に恵まれて、資料の中休みのページに入れることができた。大満足。
具体的には、別ページの円グラフを手書き風にリメイク→淡色に加工→サイズを拡大→スライドの背景に張り込む、という手順。ふつうにスルーされたわけだが、食いつかれても困るところではある。
「円グラフ作成君」は見事にべつやくれいさんの円グラフを再現できるのだけれど、中心角に合わせて文字配置を整えるのには、かなりの手間がかかる。覚悟はしていたものの、資料の中で一番、図版の作成に時間がかかった……。まあ、この円グラフの部分だけは昼休みに作ったので、誰からも文句は出ないと思うが。
リンク先とはあまり関係ないのだけれど、超有名企業の方のプレゼンでも、パワーポイントの資料のデザインは、たいてい素朴。「office 98」っぽい感じのが意外と多い。別にそれで誰も困らないわけで、じゃあ書店にたくさん売られてる「きれいな資料の作り方」解説本って誰が買っているのかなあ、と。
数年前までは月に1〜2回のペースでパワーポイントの資料を作成していて、そうなるとパワポが好きになって、パワポで作る必要のないものまでパワポ任せにしていたりした。「何でもエクセル」というのも同じような感覚なんだろうな、と思う。いまは「何でもワード」です。ソフトウェアの使い分けをしたくない。理由はわからないけど……。
そういえば九十九式オフで「やってみた系のテキストサイトっぽいネタは、全部デイリーポータルZが持っていった」という話を、ちょっとだけしたのを思い出した。
昔、やってみた系のテキストサイトは一大ジャンルをなして人気を集めていたのだけれど、サイトがなかなか続かない。やっぱり更新の負荷が大きなジャンルは、書き手同士のつながりがないと継続が厳しいんじゃないか、と思っていたんです。DPZには、ぜひ続いてほしいと願っています。
(問)中長期的にみたマクロの需給バランスの重要性について話されていますが、デフレの構造要因、そしてそれを克服するために総裁が重要とお考えになっていることを改めて教えて下さい。
(答)やや比喩的に答えると、デフレは経済の体温が低下した状態です。より根源的な問題がデフレというかたちで症状として現れているといえます。従って、その克服のためには、基調的に体温を上げていくための体質改善あるいは治療が必要だと考えています。生産性の向上に地道に取り組むことによって、趨勢的な成長期待を高めていくことが大事だと思っています。将来にわたって所得が増えていくという期待が生まれてきて初めて、本格的に物価が上昇していくと思います。生産性の向上は、現在日本経済が直面している最も大きな問題だと思っています。生産性の向上自体がわが国経済にとって不可欠であるとともに、デフレの克服のために大事な課題であると考えています。
私は「日本銀行は現下のデフレに対し十分な対策を行っていない」と考えていて、過去に幾度も批判的な記事を書いてきたつもりです。大規模かつ継続的な金融緩和によるデフレ脱却を求めている点で、arnさんやすなふきんさんと意見の相違はないと思う。
が、白川方明さんの発言を「嘘」という言い方で単純に否定することには、賛成しません。おそらくそのような否定の仕方をすればするほど、むしろ日銀の主張に共感する人を説得することは困難になっていくでしょう。いや、そんな説得は不要だ、という意見もあります。しかし私は、この壁を乗り越えなければ、リフレは実現できないと思っています。
バブル崩壊後、マネーサプライは増加を続けてきました。デフレ下でも、伸び率が低下しただけで、日本円は増え続けているのです。なぜ日本人や日本の企業は、お金を消費や投資に十分回さず、貯蓄に励むのか? 様々なアンケートから、その答えは「将来に不安があるから」だとわかります。
そして白川さんは、将来不安の根本原因を「未来の収支悪化を予測しているため」と考えています。生産性が上がらなければ収入は横ばい、しかし少子高齢化が進んで老人比率が増大する。政府の借金もいつか返済しなきゃならないだろう。これでは、みんなが貯金に励むのも当然だ、というわけです。
arnさんらは、「いま、日本の生産力には余裕があって、需要さえあれば、もっと収入を増やせる」ことを指摘しています。私も同意します。生産力が余っているから、デフレになってしまう、不況になってしまう、それこそが人々の元気を奪っているんだ。だから、まず需給ギャップを埋めて、デフレを解消しよう、仕事をしたいのに職がない人に仕事を与えよう、そうすればみんな自信を回復するだろう。……しかしながら。
いま生産力に余裕があること自体は、現実問題として、将来不安の解消に役立っていない。それもまた事実ではあるわけでしょう。
あるいは。白川さんは長期的な生産性の上昇を実現する施策の必要性を説いているのであって、現下の生産性がポンと上がる場合について話しているのではない。
つまり何をいいたいのかというと、短期的に供給側ばかりが増強されたら、なるほどデフレギャップは拡大するのだけれども、いま話題になっているような施策は、いずれも10年単位で効いてきそうなもの。だからここで白川さんを「嘘つき」呼ばわりするのは、違うんじゃないか。
たしかに白川さんは、今すぐ実行可能な金融政策を、「副作用」を理由にやらない。目の前にある大量の失業、たいへんな需要不足に対して、いっそうの金融緩和を躊躇するというなら、もっと精緻にその「副作用」の見積もりを示すべきだと思う。いまの説明では納得できない。許せないと思う。
が、しかし、白川さんが将来の成長戦略を云々する動機は、やっぱりわからないわけだし、百歩譲って「無策の言い訳、逃げ口上」だと決め付けるとしても、「逃げ口上だからその内容まで全否定してよい」でしょうか。私は、白川さんの説明にも一理はあると思う。
だからその理屈は認めたうえで、長期的な解決策と同時に、短期的な対処についても、いっそう手を尽くすべきではないですか、と。最近、とある知人にようやくこうして話をきちんと聞いてもらうことに成功したので、ちょっと書いてみました。
繰り返し出てくる、この話題。
生産性が2%/年向上すると、理屈では36年後には現在と同等の材やサービスを半数の労働者で生産でき、その半分は賃金、残りを失業手当に回せます。以後も失業率は漸増しますが生活水準は一定。
主要先進国では年平均2%弱の生産性上昇が続いてる。それに応じて需要をきちんと増やしてきた国では、直近20年で国民1人当たり実質1.5倍程度の経済成長を実現してる。とすれば、もし生活水準を固定すれば、国民の総労働時間は20年前と比較して3割は減らせるはず!?
……といった考え方が現実と整合しない理由は、主に3つあると思う。
「かつての高級リンゴの味は、現在の普及帯のリンゴの味にも及ばない」「鶏卵にサルモネラ菌が付着している確率が、この半世紀で100分の1になった」といった「質」の向上が起きても、私たちが飢えないために食べる必要がある「量」は全く変わらない。
100円ショップなどが物価の岩盤をかなり崩したとはいえ、「量」の革新にはなお壁があり、最低限の生活に必要な費用はあまり下がらない。畜産物や加工食品の品質保証水準の向上には、目覚しいものがありますが、こうした目に見えにくい「質」の改善は意識されず、生産性の上昇を実感できない人が多いのかもしれない。
それからやっぱり、保険診療の水準が現状維持で固定されたとき、海外の医学の進歩が羨ましくなるのは必定。「今後、低コスト化と省力化につながらない医療の進歩は認めない。いま助からない人は、もう諦めなさい」という話に諸手を上げて賛同する人は珍しいと思う。死んでたまるか、ふざけるな、と思うよ、きっと。
定常社会論を形而上的に支持する人は多いけれど、具体的に考えて、それでも賛成するという人は、私の周囲では見かけたことがない。
あらすじ:私ははてなブックマークを日記のネタ帳にしているのだけれども、年に数回、記事にならなかったネタをバッサリ整理しています。もったいない、ネタをそのまま出すのも有意義だよ、という意見をいただくも、私は納得できない。まず面倒くさいし、「よくない」記事を補足説明なしで紹介するのも嫌だ、と。
何か話が變なんだけれども? 徳保さんの「ネタ」連發と、Kirokuroなんかの嫌がらせと、何が同じだと言ふのだらう。
例のネタ出し記事は、ネタ帳から消すことにしたネット上の文章の一部をご紹介します
とある通り、とくに選んで紹介したものです。賛同できない内容の記事も多いけれど、これくらいなら「補足説明なしでリンクできる」と判断した記事だけを残したのです。この選別にはけっこう手間がかかり、「ネタ出し記事は2010年1月版限りにしよう」と思った理由のひとつとなっています。
野嵜さんのレスポンスは全部で8,000字くらいあって、さまざまな問題提起がなされています。大きな論点はひとつだと思うけれど……。じつのところ、私の方にはとくに考えがない。ネタ出しには意義があるといわれても、実際問題、身体が動かない。記事に書いたようなことは、「なぜ身体が動かないのか?」という疑問に対して、思いついたことを書き並べただけで、肝心なところが抜けているかもしれない。
斯うした「社會的影響」を問題にする場合、「惡い影響を及ぼす可能性がある」と云ふ「可能性」を根據に「すべきでない」とする意見は多い。が、徳保さんは、その邊の「理論」の微妙さを解つてゐるので、理性的には何うしやうもないから、「嫌」と云ふ感情的な理由を示してゐるのだと思ふ。
「嫌」といえば、無言で紹介すると「消極的に支持している」と誤解されやすいのも、「よくない」記事をリンクだけで紹介したくない理由のひとつかな。よく読んでいる日記なら、紹介する側の意図を、少なくとも極端な事例では判別できます。でも、たまにしか目にしない日記、初めて見る日記の場合、書き手のふだんの主張を知らないので、どういうつもりでリンクしているのかわからない。
わからなければ無色透明になるかというと、そんなことはないです。私はアクセス解析をちょくちょく見るのですが、個人ニュースサイトとか、ほとんどコメントなしでリンクだけされるでしょう。ふつう、そういうのは消極的支持と考えると思うんですね。無言・タグなしのソーシャルブックマークや、twitterでのURIだけの紹介だってそうです。個別の事情はわからないけれども、平均すれば、不支持や中立より支持に近いとみる。
何でもかんでも「あれはあれ、これはこれ」といったら言葉を操ることもできなくなる。私自身、よくわからない無言でのリンクは消極的であれ支持とみなしており、自分が無言でリンクした場合も同様に見られると想像できます。実際、ただリンクしただけなのに、リンク先と一緒に批判されたことはありますし。
そんなに「誤解が嫌」なら日記なんか公開しなければいい、というのは話を単純化しすぎ。日記の公開には一定の精神的充足が伴う。だから日記は公開したい。けれども、ひどい誤解をされまくったら、そのコストがメリットを上回ってしまう。したがって、誤解を招かないよう配慮しながら日記を書くのがベストなんです。
もちろん、あんまり気にしすぎたら、何も書けなくなる。日記を書く面倒が一線を超えてしまう。そのあたりは試行錯誤ですね。ただ、「よくない」記事をコメントなしでリンクするのは、経験的にNGです。リンクしても(少なくとも私は)面白くないし、賛同していると誤解される確率も高い。いいことがないです。
徳保さんの何時もの記事、いらいらしてゐるやうには全然見えない。「問題」を、パズルを解くやうな感じで、淡々と解いて見せてゐるやうな印象がある。だから「何でこんな問題を採上げてゐるの?」と、私は屡々不思議に思つてゐた。
私にとって印象深いのが、「イライラして書いた」記事なんでしょうね。記事の一覧を眺めてみると、「ふと思いついたことを書き始めたら、何となくいいたいことがまとまった」という、淡々と書き始めてそのまま書き終わった記事の方が、たしかに多い。
個人的な興味関心をいえば、「日銀は許せん」というのが本当に大きいんだけれども、同じことを何度も書くだけにしかならず、その話題で「記事を書く」のは飽き飽きしてます。何回でも同じことを書くのは悪いことじゃない。実際、それで大勢の読者の支持を集めている日記は数多い。でも私は「面倒くさい」「もう飽きた」に負けてしまう。それで、関心の順位が低い話題が記事になることが多い。
結果的に「いつもの話」になっているケースが大半だとしても、とにかく書き上げてしまえば、もう「面倒くさい病」はうるさいことをいいません。あ、記事をブログツールにコピペして、タイトルを考えて投稿するという作業が残っていたか……。ここで挫折することも多い。
私にしてみれば、さうさう問題は簡單に片附かないものであつて、となれば、そもそもの「問題がある」程度の事を言立てるくらゐの事でもしておけば、それで無名の人間の出來る精一杯の事だらうと思つてゐる。そして人は、自分に出來る事を、精一杯やつてゐれば良いのだ。常連さんが解つて呉れればそれは有難い事だし、わからない人が出て來るのは仕方がない。
その通りだなぁ、と思うのだけれど、たぶん行動は伴わない。最近は日銀の話題なんかネタ帳への登録すらしていない。ブックマークレットひとつポンとやるだけなのに。いちばん気になってる話題すら「あー面倒だ、もう知らん」状態。この「やる気のなさ」にあれこれ説明をつけても、あまり意味ないかもしれない。
単純にネタ帳をバサバサ整理するのには「物を壊す楽しさ」があって、それでザクザク消しているのかもしれない。よくわからない。
神崎智徳さんが『「相對主義」とは何なのか』という疑問を提示されていたので、私なりの回答をメールで送ったのは昨秋のこと。そのレスポンスが昨日あって……。
記事のタイトルに驚いた。なんで「相対主義=多数決絶対主義」などと解釈されるのか、何度か読んでみたけれど、よくわからなかった。なので、以下は「反論」ではなく、単に私の意見の「再論」です。
「相対主義」にもいろいろあるけれど、「素朴な相対主義」では、「事実は共有できる」と考える。人と人とが共有できないのは、「事実の解釈(を導く価値観)」である、とします。
哲学の世界では「徹底した相対主義」がよく論じられていて、そこでは人間が世界を認識する能力の制約などを理由に、事実の共有も不可能とされています。ただ、一般人の日常生活レベルで、そういう「徹底した相対主義」を唱える利益は乏しい。以下、簡単のため「素朴な相対主義」を相対主義と書きます。
神崎さんは物事は人の數だけ樣々な見方があり、それぞれの見方は侵してはならないとする主義
を「相対主義」としているのだけれども、素朴な相対主義者の実感は「何が絶対に正しいかなんてわからない」だと思う。つまり、価値観闘争を「してはいけない」のではなくて、「やってもいいけど、決着は付かないと思うよ」という見方。
だから相対主義者は、議論が事実の争いから価値観闘争へ移行したら、「降りる」ことが多いと思う。
ここからは入り組んだ話をするので、注意して読んでください。
相対主義の見地からは価値観闘争に決着は付かないはずなんだけれども、実際にはそうならないことが少なくない。なぜならば、議論することによって、現実は影響を受けてしまうからです。とくに少数派は損をすることが多い。そのため、議論が結果的に少数派の沈黙を導くことがあります。
絶対主義者より相対主義者に「他者の価値観に干渉すべからず」と考える人が多いとすれば、「絶対に正しい価値観」はなくとも、「絶対に議論に勝つ価値観」はある、という観察の結果かもしれません。結論を求める議論は最終的に少数意見を潰すので、議論を拒否して、価値観の並立状況を守ろうとするわけです。
注:私自身は「他者の価値観に干渉してはいけないなんて誰が決めたの?」という立場。内面不干渉を「絶対に正しい」と考えて凝り固まっている人に辟易させられることの方が多いから、緊急避難が必要な場面を「例外」として、「基本」は価値観闘争OKがよい、と思っています。
自分の意見が絶対に正しいとは思わないし、他人の意見もそうだと考える相対主義者は、議論に冷淡でもよさそう。でも世の中を見ると、相対主義の人も議論をしています。それはなぜかといえば、現実に存在する不利益は解消したい、という点では、価値観を共有できることが多いからです。そこに議論の基盤がある。
「現実に存在する不利益」といってもいろいろあって、ウェブの議論の少なからずは、「お互い、相手の考え方がわからないのは不安だよね」という「不利益」をテーマにしています。だから、自分の説明を「理解」してほしいと思って、いろいろ説明する。
相対主義者同士の議論なら、お互いの結論が異なる理由を探求した結果、「***に対する価値判断が違うため」と判明すれば、それで納得します。お互いの事情と考え方を理解したら、後は「衝突を避けて不利益が少ない形で住み分けをしようじゃないか」という話になっていく。それ以上の説得は不可能だし、不要。
もちろん、社会が何らかの価値判断を行う必要に迫られる場面はありますよね。価値観闘争を否定する人も「生命などに関わる重大なテーマでは、多数決の結果が個人の価値観に優先することを認めて、その他の切迫した生命存続の問題に直接関わらないテーマでは、それぞれの立場を守る」といった折衷案に落ち着くことが多いようです。
困ったときの多数決。多数決の正しさに保証はないが、多数派が「ここはもう多数決しかない」と考えれば、社会的には通用します。
相対主義は絶対主義を否定していない。否定する根拠がないから。「徹底した相対主義」は絶対主義を本当に否定するけれど、「素朴」な方は、「わからない」「判断保留」みたいな立場。
あと、よく勘違いされるんだけど、相対主義者って、自分の意見は持っているんですよ。ただ、それが絶対に正しいという確信はない。確信はないんだけど、相手の方が正しいと納得できないのに、「向こうは確信を持っている!」なんて理由で相手の意見を受け入れられる? それはヘンでしょ。
だから、ネットで時々見かける「相対主義者のくせに俺の意見に少しも賛同しないなんておかしい」というのはズレてる。多分、自分の価値観を「守る」ことにかけては、絶対主義者以上に頑なだと思う。
相対主義は、文化相対主義として浸透しています。「未開」の部族を不幸だと決め付けて西洋の価値観を押し付けることへの反省、みたいな。だから、相対主義のポイントは「押し付けの自粛」であって、自分の意見に自信がないから他人の押し付けをどんどん受け入れる、とはならないんですよ。
「反論」未満の感想を箇条書き。
もうちょっと(いやまあ「ちょっと」では足りないかもしれないが)、相手の主張に筋が通るように言葉を補って読んでほしいと思う。
これでひと段落。
人気ブロガーになりやすい人、なりにくい人(2010-01-28)とmemo:記事にならなかった話題(2010年1月版) 他(2010-01-25)について。
はてブなんだけれど、あんな物に登録されても嬉しい事は一つもなかったし、役に立った事もない。 落書きのような「一行レス」を見て何うしろと。 ただのブックマークなら、ご自分のブラウザにでもどうぞ。 何か異論、反論があるのなら、ご自分のブログにでも書いてリファラでも一回投げて下さい。 こう言って居るので、はてブのコミュニティからは嫌われて居るようです。
私は自分の書いたことに何かしら(できれば好意的な)反響があると嬉しい、と思っているのです。ただ、好意的な反応というのは、言葉数が少なくなりがち。するとブログにいちいち書くのは面倒くさいな、と思うのは、非常によくわかる。だから、はてブはいいな、と思っているんです。
好意的な(注:無言は好意的とみなす)反応に接する機会は、はてブ大歓迎という方針にしてからすごく増えました。異論・反論も嬉しいですが、そればっかりだと精神的に消耗してしまう。もちろん、論題を深めるような長文記事や、意外な展開・転回を見せてくれる文章からのリンクは、いちばん嬉しい。で、そういう反応をたくさんもらうためにも、コミュニティに食い込んで読者を増やす意味はある、と思っています。
ところで、私が三宅さんのWeblogをたまにしか読まない理由は、まずアンテナに反応しないからです。ブログ検索にもひっかかってこないし、読者数が少ないせいか1日1回は見てるはずのアクセス解析にも出てこない。だからせっかく長文でご意見をいただいているのに、気付かない。今回、久しぶりに拝見したら、度々いろいろなご意見を下さっていて、驚きました。
多分RSSリーダーを利用すればいいのでしょうが、私は未だに馴染めないんですよね……。それでも三宅さんのWeblogについては、私がその存在を知っているから、年に数回はこちらから読みにいけるわけですけれども、私の知らないところでいろいろご指摘くださってる方もいるのかもしれない。
せっかくの反響だから、私としてはぜひ読みたいのだけれど、アクセス解析でもブログ検索でも発見できない記事をどうやって見つけたらいいのか、よくわからない。
個人的に三宅さんのWeblogは読むと面白いのだけれど、日頃の巡回パターンが「はてなアンテナ」「アクセス解析」「ブログ検索でエゴサーチ(検索結果のショートカットをアンテナのフッターに並べてる)」の3つで完成されている(時間的余裕をこれで使い果たす)ので、三宅さんのWeblogを読むためだけにプラス1するのが億劫なんですよね……。
でもこれほど高頻度でご意見くださるとなると、気付かないのが本当にもったいない。悩ましい。
コツは「現実的な期待値」を設定すること(2010-01-16)について。この記事で三宅さんが何を指摘されているのか、よくわからない。「学生と社会人はやっぱり違うよ」ということでしょうか。
私は日常業務を快適に回す職場作りの話をしたつもりです。私の提案した仕事改善の方法を実践すると、三宅さんが例示したような勇気ある社会人を育てる障害となるのでしょうか? そういうことではなくて、「それだけじゃダメだよ」というお話なら、納得できます。それはその通りだと思う。
ただ、私には「清冽な精神を育てる方法」の知見がありません。もしそれが具体的に記述できるようなものならば、ぜひ教えてほしいです。
memo:上念司『デフレと円高の何が「悪」か』の感想(2010-01-21)について。上念さんの著書にあったジャンケンでも、10億回ぐらいやれば、たぶん10連勝できる時もあるでしょう。
という記述を私が明らかにマズイ
と評した件について、三宅さんから数学的に 60,000 分の 1 の確率であったとしても、実際には稀に 10 億回に 1 回だったり、逆に稀に 10 回に 1 回だったりする。それが確率です。
との指摘をいただきました。
これは私の言葉足らずでした。上念さんは著書で対立意見を非科学的だと批判しており、きわめて低い確率でしか生じない問題をことさらに言い立てるのはナンセンスだ、といっているのです。「ジャンケンで10連勝」は「きわめて低い確率で起きること」の比喩として登場します。それを実際には「6万分の1」の確率なのに感覚的な物言いで「10億分の1」と書いてしまうのは、自らの足元を崩す行為だと私は感じたのです。「科学的な検討によらず、事実とかけ離れたイメージの世界の確率を前提に議論をする」という点で、上念さんは論敵と同じではないか、と。
上念さんが反証(データ)を要求して居るのに対し、穏当な表現の方が、真に多くの人を説得できる という「感想」を述べて居る。 異論が無いのだったら、明らかに拙い、と言ったのは何だったのですか。(中略)確かに「似た事例」で同じ結果になる保証は無いけれども、原理原則は何か、なら言える。 それを研究するのが学問です。
大規模な金融緩和によりデフレを脱したとき、名目金利が急騰するかしないか、それは学者の間で議論(の趨勢)が決していない問題です。学者さんや慎重なエコノミストは、「急騰しなかった事例があります」とはいっても、その再現性には留保をつけています。金利が急騰する理論的可能性は多々指摘されており、帰納的に証明されているといえるほど実証研究は進んでいません。
なお、私の疑問に対する上念さんの回答は、「私は一般向けの啓蒙活動に注力している。そして一般向けには、学者的な慎重さよりも、テレビコメンテーター的な明快さの方が訴求力が高いと考えている」というものでした。金利は急騰しない可能性が高い、という合意はあるので、
記事を書くのもネタ帳を整理するのもイライラの力(2010-01-29)について。
マーク附けは情報の本質たり得ないゆえに適当で良い。 徳保さんも「適当で良い」と言って居た記憶があるけれど、その根拠が分かり難かった。 というより、世間が「正しい HTML 」と騒いで居るから、それに「反抗」して見せて居た。 ばんばんアクセスが稼げる。 そんな感じがするけれど、何うですか。
広告収入があるわけでもなく、叩かれても楽しくないですし、アクセスを増やすこと自体を目指してはいません。それに、よく勘違いされるのだけれども、多数意見に反することを書いても、ふつうは注目されない。天邪鬼な人なんて、割合は少なくとも人数としてはたくさんいるからだと思います。
しかしそれはそれとして、私が「自分の視界の内側でワンサイドゲームを展開している意見」に横槍を入れるのは、たしかにある程度は意図的なものです。「少数意見の側にも言い分があることを、誰かが言葉にすべきだ」という使命感のようなものが、私にはあります。
ただ、私の見ている世界は偏っているので、その「場」における少数意見=世間では多数派に属する意見、ということが少なくない。そのあたりが、「徳保さんのスタンスがよくわからない」といわれる原因のひとつとなっています。
私は意識して右翼活動家※である事を公言して居る。
- ※個人や集団に対して啓蒙しようとは考えて居ない、という意。 それは偉い人がやる事です。 今年の年頭所感にも書いたけれど、今日一日を精一杯に生きる、だけで精一杯。
私は、みんなそれぞれに「偉い」ので、お互いに啓蒙活動をする(しようとする)のは自然というか、おかしなことではないと思っています。
いま私は「偉い」とカッコつきで書きましたけれども、私自身は、自分の意見を正しいと思って他人を説得しようとするのは万人に許されたことだと考えているから、それをいちいち「偉い」とか何とかいう方が違和感があります。
でも、他人の考えを変えようとするのは尊大だ、偉そうにするな、みたいな反応を繰り返し受けて疲れたので、「言語感覚の違い」と割り切ることに。近年では、「あんたは人様に説教するほど偉いのか」という反応には、「そうです。偉いのです。私に意見しているあなたと同程度には、ですね」と返すことにしています。
議論の入口で揉めても利益がないので、「思い上がり」「偉ぶっている」「尊大だ」といった言葉は受け入れて、まず話を先へ進めたい、ということです。
三宅さんからはたびたびご意見をいただいています。「なるほど」と思うところあり、よくわからないところあり。今、というタイミングにとくに意味はないのですが、ここで主に疑問・反論についてまとめたいと思います。
子どもの悪事が明らかになったときの対処(2009-08-25)について。
自分の事を、こういうホームドラマのように仕立てて気持ち悪くないのだろうか。
言葉のイメージにずれはあるかもしれませんが、私も「気持ち悪い」と思う。思うけれども、私は記事に書いたような意見を、より多くの人に伝えたかったので、その意味で「目的に合致した表現だ」とも考えています。いろいろ批判はあっても定石となっている方法は手堅い。
三宅さんのように、かえって「引く」方がいることはよくわかります。私自身、自伝を美談で彩ってしまう人を胡散臭く感じますし。それでも、下手な私小説を書けばこそ、あちこちからリンクもされて、そこに付随する意見を多少なりとも広めることができたのです。だから、あれはあれでいい。
「で、そんなことをして何の意味があるのか?」と自問するに、公益はとくにないかもしれない。虚栄心が多少、満たされて気分がよくなった、というくらいの話のような気はします。
物的証拠うんぬんは、躾では あまり意味がありません。 善悪を教える場合、証拠の有無に拘らず、悪い事は悪い。 善事を為そうとするのは信仰に拠るけれども さて措いて、うちの親父は駄菓子屋に、きつく叱って措きましたから、と言って頭を下げたらしい。 叱るも何も、殴られて、ほったらかしにされて終わり。 謝りに行けとも言われない。 親父が謝罪して「事件」は済んだ。 しかし、私はあの痛さを忘れない。
やってもいないことで殴るのも、殴られるのも、嫌でしょう。三宅さんの事例の場合、たまたま駄菓子屋の主人が「勘違いで濡れ衣を着せる失敗」をしていなかったから結果オーライだったのです。無実の罪で痛い目にあっても躾になどならず、理不尽な親を恨むだけでしょう。
また、これはホームドラマの前項に書いていることですが、「善悪を教えるのは、ふだんの会話によるべきで、特定の事件にかこつけて指導しようとするのは安直」というのが私の考えです。価値観を理屈で説明できるわけがない。悪いものは悪い、その判断基準を言行一致で示していく。それ以外にないと思う。
私の書いたホームドラマでも、「なぜ盗んではいけないのか」なんて誰も説明していない。そんなもの、説明なんかできないと思う。
長くなったので、他のご意見については記事を分けます。
吉山さんの記事って、すぐに消えてしまうからリンクしにくい。どうせ5年も経てばデッドリンクだらけになってしまうのだけれど、私の中で記事にした話題がホットな状態な間くらいは生存してほしいのだけれど、その信頼が持てないんですよね……。最近も、はてなダイアリーが消えましたし……。
今の私にとって、転載はなかなか面倒。探せばいいツールがあったりするのかもしれないけれど。だから、転載OKだとしても、転載はしない。だから転載OKかどうかを調べることも、滅多にない。サイトの閉鎖予告があれば、権利関係を調べて転載することもありますが、たいていは無言でパッと消えてしまう。
転載リソース集をはじめたときは、「きっとこのコンテンツがサーバー容量の大半を持っていくんだろう」なんて思っていたんですけれども。
私の悩みの種は、日記と作り話では体裁が異なる、というか書き方が異なることだ。 このブログの過去ログは出来も良くないためほとんど一から書き直さなくてはならない。おまけに私が書いた文章は、どれもこれも異なる体裁で扱うべきだったというのに、ほとんど同じように扱わなければならないという問題までも抱えている。従って、私は自分が書いた文章を分かりやすく分類をしていく作業に苦労していた。そんな状態なものだから、このままでいいのかなあと私はよく思う。
野嵜さんが私に対して「ネタを公開せずに消すのはもったいない」といいたくなる気持ちは、引用したような吉山さんの主張に対して抱くもやもやに近いのかもしれない。
吉山さんが「書き直したい」を突き抜けて「書き直さなくてはならない」と思い詰め、「改訂作業が済むまで元の文章は公開を取りやめる」となってしまうのは、私としては残念です。とはいえ、私自身、「こんなものは公開しておけない」と思って消してしまった記事、全面的に改訂した記事はいくつもあります。
「書き手」の基準と「読み手」の基準が異なることは、よくわかります。
近い将来削除されることが判明しているWeb文書は、リンクするとWWWの傷になるので控えた方がベター。
私はそこまで峻厳に考えていないけれども、過去記事を読んでいてリンク先が消えていると、つらい。どういうわけか、リンク先も含めて自分の記事、という風に考えている自分がいるのです。「リンクが死んでも記事単体で意味が通じるように」とは、もう長らく考えていることですが、いずれも多少の意味があってリンクしているのだから、リンク切れが何のダメージにもならないわけがない。
個人的には面白いと思うDS版の『ドラゴンクエストVI』なんだけど、Amazonやレビューサイトなどではネガティブな意見が目立っている。最近のドラクエやFFをめぐるネガティブ側の声の大きさというのは、一体どうなっているのだろう。
大体そこで引き合いに出される「昔はよかった」というその作品が、2009年あたりからどんどんWiiのバーチャルコンソール(VC)や携帯アプリとしてプレイできるようになってきているのだけれど、ほとんどスルー。実際にプレイしてみたら、いうほど面白くないからじゃないのか、と邪推したくもなる。
DS版の『FF3』はFFリメイクで初のミリオンを達成した作品だけれども、私の見ている領域ではネガティブな意見が目立ち、首を傾げた。私自身は、実際にプレイしてみて、これは原作よりずっといい、と思ったので。VC版をプレイしてみると、やっぱり原作はつらい。リメイク版を叩いた人は、本当に原作の方がいいのか。
まあ、本当に原作の方がいいんだろうね。『ドラゴンクエストIX』でも、レビューの結果は厳しいが、アンケートでは好意的な意見が大勢という結果になっている。ネットで声の大きい層の偏りというものを実感させられる。
『DQ6』は『DQ9』の半分の容量のROMを搭載したカードで発売されたから、「容量不足なんておかしいじゃないか」という意見が出ている。これは製造原価の根本に関わる話で、私の感覚では、堀井さんの説明に違和感はない。
半導体の製造工程は特殊で、それゆえROM容量のラインナップは64MB→128MB→256MBという感じになっている。192MBというのもあるらしいんだけど、2チップ構成なんじゃないかな。中間のサイズのROMを作れないわけではないのだけれど、数量が出ないと半導体ってものすごく割高になってしまうのだ。
ドラクエの製作の様子はわからないが、私の周囲の仕事の進め方から類推すると、ROM容量は開発の初期に決めるものだと思う。部品代としてシンプルに原価を左右する要素であると同時に、ここを定めることで、全体の作業量の目処が立つ。大きな枠組みをまず設定して、それから仕事の配分を考えていくわけ。
ユーザー視点では、「容量が足りないなら、ROMを大きくすればいいじゃない」という話なんだろうけれども、開発予算も人員配置も128MBを前提にやってきたはずで、それを簡単には覆せない。「そんなの客には関係ないでしょ」といえばその通りかもしれないが、そんな批判が成り立つなら、製作者は黙るしかない。
インタビューをするのは、「言い分を聞く」ということ。SFC版『DQ6』の仲間モンスターは、堀井さんの仰るとおり、ゲームの内容と整合が取れているとは言い難かった。いや、そもそも仲間モンスターが登場した『DQ5』の時点で、矛盾ははっきり現れていた。
『DQ4』『5』『6』には人間の仲間がたくさん登場する。それぞれ個性的で、主人公とともに旅に出る理由を持っている。仲間をみな馬車に乗せて一緒に旅をできる『DQ4』はいいけれど、『DQ5』ではどんどんモンスターが仲間になるから、馬車に入りきらない。イベントで仲間になる人間より、戦闘の末にランダムで仲間になるモンスターの方に愛着がわく、というタイプのプレーヤーも多く、ここにはジレンマがあった。
リメイク版では仲間と会話できるようになったが、『DQ5』ではモンスターが喋らない。100体以上も仲間になるモンスターに個性を持たせることは不可能だったわけだ。こうなると、セリフが楽しい人間と仲間モンスターの選択は、いよいよつらい。ひとつの解決策は、パーティーに人間枠とモンスター枠をそれぞれ用意することだったろうが、それはそれで不自由だし、理屈付けにも難がある。
それでも『DQ5』が2度のリメイクを経ても仲間モンスターを残したのは、それなしでは成り立たないゲームだからだ。矛盾は承知で我慢するしかない。だが『DQ6』ではモンスターを仲間にできることに必然的な理由付けがない。前作で好評だったから、中途半端に残してしまった、という事情は堀井さん自身が語っていることでもある。
最初から仲間と会話するシステムが搭載された『DQ7』では、仲間モンスターは廃止されている。やっぱり会話システムと仲間モンスターは相性が悪い。
DS版の『DQ6』ではふだんの戦闘でモンスターが仲間になることはなくなったから、戦闘後の「仲間になるかな?」というワクワク感はなくなってしまったけれども、ゲームの完成度は上がったと思う。
会話システムの方を廃止すべき、という反論はありえると思う。でも、そういう意見はあまり見たことがない。そして私自身は、会話システムがとても好き。イベントの進行に応じて街の人々のセリフがどんどん変化していくのだけれども、そのひとつひとつに仲間が異なる反応を見せる。『DQ7』、リメイク版『DQ4』『DQ5』と比較しても、そのボリュームは圧倒的。感嘆しました。
会話システムが嫌だ、という意見で目立つのは、セリフをコンプリートするのが面倒くさい、というもの。でもドラクエの場合、類似の作品と異なり、わざわざBボタンを押さなければ仲間のセリフは出てこない。だから、面倒なら表示させなければいい、ということだと思う。「ご自由にどうぞ」といいつつ、セリフのコンプ率を記録してエンディングの分岐の材料にするような作品とは違うわけで、カリカリする方がおかしい。
とはいうものの、武器が100種類あると知ると、それを全部揃えたくなるとか、所持金が99万でカウンターストップだとわかると、それを実現したくなるとか、ゲームってそういう楽しみ方があるのは事実。理不尽だとは思っても、会話システムなんてものがあるからBボタンを連打しなきゃならなくなるんだ、という気持ちはちょっとわかります。
2年余りかけて歴代のドラクエをプレイしてきました。「ドラクエは昔のまま進化してない」というイメージがいかに間違っていたか、ということを実感させられました。『DQ4』は非常にシンプル。『DQ9』と比較すると、ビックリしちゃう。そして、どれも面白い。ドラクエってすごいな、と。
入社した頃、「1980年生まれです」と自己紹介すると、先輩方が衝撃を受けるのが面白かった。今ではもう、1990年代に生まれた同僚が何人もいる(職場は違うけど……)。
父は30歳になって2週間後に母と入籍した。母は、弟を産んだ翌月に30歳になった。両親にとって30歳は人生の節目となったわけだけれども、私は節目と無縁の「何もない」人生を送りたい。10年後、「30歳になっても何も変わんなかったね」と述懐できたらいいと思う。せっかくだから、目標を立てておこうか。
30代の目標「死なない」
両親が健在な間は……と思ってます。本当は「生きる」なんていってみたい気もしなくもないんだけど、グッと水準が上がってしまうからね……。正直、そんなに頑張りたくないよな、と。でも、「死なない」ってのも、そう簡単じゃないよ。
まず交通事故に注意する。労働災害を避け、喧嘩になりそうな場には近付かず、人の恨みもなるべく買わないように気をつけて……。あと、仕事をなくさないこと。病気で死ぬ可能性は高くないが、つらいことの少ない人生を送るためには、健康への配慮は欠かせない。はぁ、けっこう面倒くさいな。
私の一生も、これで半分すんだか……。実際には明日にも死んでしまうのかもしれないけれど、とりあえず「これで半分」と思うことにしている。まだまだ、先は長い。とはいえ、未来を予測することは難しいが、私の生きている間に空を飛ぶ車が普及する可能性はほとんどない。30年とは、その程度の時間ではある。
父は「あと40年近く生きる」つもりだが、母は「残り10年足らず」という。「私の人生は50年」と認識してきた母は、その50歳を過ぎた後、「残り10年足らず」と言い続けている。いまはもう、「余生」を過ごしているということだ。
大相撲の横綱、朝青龍さんが引退を決断したそうで、池袋駅前で号外をもらった。産経、毎日、日刊スポーツの3種。日刊スポーツの号外の裏面は、朝青龍さんの軌跡を、たくさんの笑顔の写真でまとめていた。いろんな人と交流して、世界にいっぱい笑顔を生み出してきたんだな。電車の中で、涙がこぼれそうになった。
ことによると、これが私が受け取る生涯最後の号外かもしれないな。千葉県にいた頃は、号外なんてテレビ画面の中の出来事でしかなかった。せっかくだから保存しておこうか、とも思ったが、こういうのをいちいち取っておけるほど部屋は広くない。また、これまでの人生を振り返るに、だいたいこういうのって、それっきり二度と見ることはないんだよね。帰宅後、もう一度眺めて、新聞紙の回収袋へ。
テレビニュースを見ると、街の反応は「解雇しろ」が大勢だった。横綱というのも、公務員とかと同じ「他人」なんだな、と思った。
どうして多くの人は、「他人」の問題となると、「職を奪う」という社会的制裁に簡単に賛同してしまうのだろう。仕事を失うというのはたいへんなことだ。
交通事故で人を死なせてしまっても、以前は仕事を続けることができた。そうでなければ、賠償金だって支払えないだろう。しかし近年は、飲酒運転の場合は即刻解雇する、という流れである。個人的には、放火・殺人と飲酒運転が同列というのは違和感がある。交通事故を起こしたくて飲酒運転をする人は(滅多に)いない。というか、「意図的な事故」なら「殺人」の範疇だ。
社会的制裁というのは結局、私的な制裁だ。客観的な基準がなく、世間の空気が事の軽重を場当たり的に決めてしまう。酔って暴れて、でも被害者との間で示談が成立して助かった、なんて話は私の周りにもある。「横綱だから解雇でいいんだ」という切断思考に、私は与しない。
「被害者の立場になって考えろ」なんてことをいわれるわけだが、酔漢が横綱なら許せないが、一般人ならいい、なんてことがあるのか。自分が酔払い運転の車のせいで怪我をしたとき、運転手が公務員や有名企業の社員なら許せなくて、貧乏な自営業者なら許せるのか。
「他人」にばかり厳しいことをいわないでほしい。横綱の「引退」を「生ぬるい。解雇すべきだ」とまでいった人が、酔って人を殴るようなことがもしあっても、私は「仕事を辞めろ」なんていわないよ。
長野県伊那市の洋菓子店『菓匠Shimizu』の店主は、隣町で起きた殺人事件について、こう考えた。
なんで事件があったその日の夜にうちのケーキを食べていただけなかったんだろうと。うちのケーキを食べながら語らってもらえば、そんな事件は起きなかったはずなんです。その日の夜、お菓子を囲んで親子が語らう時間を提供できなかったことは、うちの大きな責任なのではないか。本当に偏った考え方かもしれないですが、そう思ったんです。
そうして、子どもが絵に描いた夢をケーキにして届けるイベントを始めたのだという。
多くの人々が、各自の得意な領域で、こうした「私にできることは何だろう」という考え方を持つようになると、世の中もっと暮らしやすくなっていくのではないか。私の場合は、ブログ記事のパクり騒動が起きるたび、同じようなことを考えてきたから、店主の考え方には大いに共感できた。
「ブログの記事が盗用された!」なんてトラブルを、私は少しでも減らしたい。「転載・改変・盗用OK(著作者名詐称や商用利用も大歓迎)」を謳う私の文章が、もっともっと魅力的で、大勢の目に留まるものだったならば、罪を問われた方々が、盗用禁止のブログから無断で文章を拝借するようなことはなかったはずだ。
私の至らなさゆえに、無用のトラブルを撲滅できずにいるのだと思う。ある人が文章を無断で流用されて怒るのも、流用した人が社会的制裁を受け信用を失うのも、本来は必要のないことだ。ハイレベルな文章が「ご自由にお使いください」という形で世の中にあふれてさえいれば、八方丸く収まる。私はそのような社会の建設に貢献したい。
しかし残念ながら、私は無力だ。上記の理想だけで、日記を書き続けることは難しい。もちろん私も精進は続けていくが、私の意見に賛同して、ブログの文章を「再利用自由」とする方が、少しずつでも増えていったら嬉しい。
現在の著作権啓蒙活動は、「自分の権利意識を喚起することで、他人の権利への想像力を養成する」方向性に偏っている。「コンテンツを開放しよう」という話は、せいぜいクリエイティブ・コモンズくらい。現状を考えれば、無理もない話だ。「CCマークによると、この画像は非商用なら勝手に使えるっぽい」とかいって、大切な著作者名表示を怠っている人はじつに多い。まだまだ啓蒙が足りない。しかし将来的には、「ただし勝手に自由に使えるコンテンツもあるよ」という話も広まるといい。
なし崩し的に、それで生活しているプロの作品がフリー素材扱いされる(MSN産経ニュースの写真などは無断転載されまくっている)一方で、具体的被害のないケースで激しいバッシングが起きるというような、今の状況はおかしい。テレビ番組を切り貼りした動画がPVの過半を占めるYouTubeを受容する前に、人々はまず自分のコンテンツの素材化を許容するべきだ。
……と訴えても、人々に言葉は届かない。「もう8年ほどこのようにしていますが、全く不利益はありませんよ」と、自ら実績を積み上げていくしかない。
「これってまさに俺がいいたかったことだよ!」という文章があるなら、いちいち自分の下手な言葉で書き直す必要のない世界がいい。今日の気分を iPod に入れる曲目で表現するように、あるいは服装をコーディネートするように、日記だって心に響く言葉の取り合わせで十分なんじゃないか。
他人が作曲して作詞して歌っている音楽で、私たちは満足している。他人がデザインして縫製した服で、私たちは満足している。選択で個性は表現できる。日記だって、いちいち自分で文章を書くなんて、重くない? リンクだけじゃ嫌だよね。原作者が勝手に消したり、書き換えたりする。それに全部じゃなくて一部だけほしい、ってことも多い。やっぱり、転載したいよね。
待て待て、音楽や服は「盗用」してないだろ、って? まあそうなんだけど、人に会うたびいちいち「この服、俺がデザインしたんじゃないよ」とかいわないよね。日記だって、盗用が当たり前になれば、いちいち「この文章、俺が書いたんじゃないよ」とかいわなくて済むようになると思う。
ブログサービスがたくさんテンプレートを用意するようになって、「素晴らしいデザインですね!」という誉め言葉のニュアンスは自然と変化したと思う。
以前からあちこちで同じことをいっているのだけれども、孤独死の最大の原因は、人々の価値観にある。家族でもないのにひとつ屋根の下では暮らせない、孤独死が何だ、他人との同居なんて真っ平ごめんだよ、ということ。ルームシェアの相手を募集する個人広告が街にあふれているような社会と、日本との大きな違い。
他人と同居するのに結婚なんて高いハードルを設けているから、孤独死することになる。結局、孤独死なんてのは「怖い、怖い」というだけで実際の行動に結びつかない程度の問題なのであって、多くの人は現実に赤の他人と気軽に一緒に暮らすことをこそ真に恐れ、忌避しているのだ。
国民年金では生きていけないとか、生活保護が足りないとか、あるいはベーシック・インカムが日本では非現実的といわざるをえない理由も、この「ちょっとでも気の合わない人とは一緒に暮らしたくない」という価値観が浸透しているところにある。貧しい人が肩を寄せ合えるなら、ベーシック・インカムは月5、6万円程度あれば足りるので、現実味を帯びてくる。これを年額150万円にしようというと、まず不可能。
今では家族介護の悲惨さが啓蒙されて「老人ホームに入れるなんて金持ちはいいわね」みたいな風潮も出てきたけれど、私の幼少期(1980年代)、施設へ「入れられた」人々は「かわいそう」といわれていた。今もそういう感覚は残っているようで、金持ちが家族の介護に勤しむと美談になる。私の感覚だと、お金を払って他人に世話をさせた方が、当人に余計な気を遣わせることが少なくていいわけだが。
私の実家方面では、親戚や友人に家の鍵のスペアを渡していたりする。私のアパートの鍵も、両親と弟がスペアを持っている。この程度のことでも「えっ!?」と驚かれることが増えた。最近は親が勝手に家に入る「可能性」すら許せない人が珍しくないらしい。
そりゃ鍵を渡せば、自分が仕事に行ってる間に家に忍び込むことは可能だろう。でも、そんなことはしないでくれよと子どもがいっているのに、それを親が無視することを「ありうる」と考える信頼のなさって何なのだろう。寂しい話だ。
私自身は、別に自分の留守中に両親が部屋に入ってもいいと思っている。具体的に困ることを思いつかない。私の両親は決して勝手に物を捨てたりしないし、偶然、秘密に類するものを見かけた場合には確実に「見なかったことにする」ので。ただ、世の中にそういう人が滅多にいないことを、今の私は知っている。
無茶をいうつもりはない。しかし、みんなが自由に振舞って、されたくないことは物理的にブロックすることで対抗する、というような社会の方向性には危惧を抱く。それが多様な価値観が共存する社会のひとつの解であることは否定しない。否定しないが、私はその解に満足していない。
全く同じ記事なのに、ブックマークの付き方が全然違う。読んだ人数も大違いだと思う。転載先のブログは、ちゃんと原典へのリンクをしている。しているのに、この結果。
『増田にゃんねるβ』の記事は、多くの場合、原典よりブクマが少ないから、単純なことはいえないけれども、「リンクすればいいじゃん」が現実に即していないことはたしかだ。
もし増田にゃんねるがリンクだけしていた場合、原典に1000以上のブクマがついただろうか? そうはならなかったに違いない。アクセス解析をしてみれば明らかだが、リンク先を読みにいく人は少数派だ。リンク以外にほとんど何の情報もない記事ですら、特定のリンク先を過半の読者が参照することはない。
転載記事っぽく見えて、じつは肝心な部分が改変されていた、なんて事例はしばしばある。あるいは「中略」の部分を読んでみたら印象がガラッと変わったり。そういうことはみんな知っているのに、それでも原本を確かめる人は少ない。
はてブで政治家の「失言」が話題になると、「前後の文脈はこうだ」なんて記事が、後にまた話題になったりする。それが本当に労作である場合もあるけれど、しばしば官邸や官庁の会見録をまとめ直しただけのものだったりする。それをありがたがってる人たちが「情報をコピペしてるだけのマスコミ報道は使命を終えた」なんて意見を称揚していたりするから、私はポカンとなる。
結局、大多数の人は情報の収集整理を他人に任せたいわけだ。その生活スタイルはネット以前と全く変わっていない。コミュニティで話題になっているブロガーの記事を、それが自分の直感に反しない限り根拠なく信用するなんて、新聞を毎日きちんと読むより、世界を見つめる態度として劣化していると思う。
また今日もリンク先と関係ないことを書くんだけど。
だいたい仕事ひとつにあれもこれも期待するから迷うので、宝くじが当たったら仕事なんてしたくないという私のようなタイプは、「生活の糧を得るため」とシンプルに割り切った方がいいと思う。
世の中には仕事(そのもの)こそ幸福の源泉という人がたくさんいて、あれこれ啓蒙活動をやっているのだけれども、そうした風潮には表向き従っておけばいいだけ。いちいち反発してエネルギーを費やすのは得策ではないと個人的には思っているけれど、違和感があるのに、長いものに巻かれる必要はない。
私のような生き方をするならば、仕事は(少なくとも大枠では)上から降ってくるもの。自分の倫理に反しない仕事かどうかだけをチェックして、後は黙々と給料分の仕事をすればいいのだと思う。「なんでこんなことを」「だって、これをやれば給料をもらえるんだもの。需要と供給ってやつ」「はいはい」
こういうことをいうと、「そんなんで楽しい?」って訊かれることがあるんだけど、「深刻な悩み」から解放されると、ものの見え方が変わることが多い。「どうしてこんな作業に金を払う人がいるんだろうな」と思って、あれこれ観察してみるのも楽しいし、「戦略とかそういう難しいことはエライ人に任せる」ことにして、今やってることに集中すると、意外な奥深さを発見できたりもする。
多分、仕事って、どこまでいっても「誰かがそれを望むから」という天下り式の構図から完全には逃れられない。ならば当座は「上司がやれといっているから」やる、でいいと思う。自分に行動を選択する余地がある領域なら、考える価値は大いにある。でも、選択肢がない場面で悩んでも実り少ない。