鳩山由紀夫内閣の2010年度予算は残念でした。「実物給付から現金給付へ」という方針を貫徹してほしかったのですが、「実物給付を削減せず現金給付を増強する」という安直な道へ進んでしまいました。
民主党が支持を集めたのは、かつて小泉純一郎さんが推進したような、予算の増加を抑制する方向の「改革」を継承する政党だと目されたからだ、と私は考えています。それがどういうわけか、連立を組んだ国民新党の色にどんどん染まっていく。予算を増やす方は要所で「総理の決断」が飛び出して実現へ踏み出すのに、減らす方はむしろ「政治判断」で予算が復活することが多かったのでした。
しかも鳩山内閣は金融政策の効果を小さく見積もる学者を日銀の審議委員に推挙しました。当然のごとく日銀は「我々は万策を尽くすが来年もデフレが続く」なんて予想を出しています。名目GDPが伸びなければ税収は増えない。どうして自分で自分の首を絞めてしまうのか、私には理解できません。「日銀にできることはまだたくさんある。デフレは脱却できる」と主張する声望高い学者は何人もいたのに……。
そして年度末になって、今度は「郵政改革」と称してゆうちょ銀行とかんぽ生命保険の完全民営化を撤回し、預金や保険金の限度額を倍増するという政府案を通してしまう。私は唖然としましたが、亀井静香さんを郵政改革担当大臣に任命した時点で、予想されたことではありました。
小泉純一郎さんは、自身の方針に反対する人を閣僚に指名し、会議を設置して激論を展開させました。そして最後は閣議決定により、対立を乗り越えて、大筋で総理の方針を概ね貫いてきました。が、鳩山内閣では担当大臣の主張がそのまま政策になっていってしまうらしい。
個人的には、国債と普通預金の金利差だけでも案外、ゆうちょ銀行は存続しうると思う。国債の売買なんて面倒です。全国津々浦々に展開する郵便局ネットワークの利便性は、他の金融機関に真似ができないもの。低金利だけど安心・便利という特徴を売りにして、小額の生活資金の管理に特化していってほしい。
田舎の郵便局は「コンビニエンスストアなんだけど、郵便局もやっています」あるいは「ポストと無人機のみ」といった簡素な形態へ変化するでしょうが、ユニバーサルサービスを最低ラインで維持できる可能はありそう。もし無理ならば、「隠れた国民負担」を表に出して、国民の納得のもとに最低ラインを維持すべき。
鳩山内閣の郵政改革案では、グループ内取引の消費税を免除するという。こういうやり方をすると、国民は何となく他人事のように感じて黙認しがち。これはまず国民自身の問題ですが、維持コストを見えにくくすることで公共サービスを守ろうとする政治の姑息さは、きっと将来に禍根を残すと思う。
もし完全に民営化して「暗黙の政府保証への期待」が潰えるなら、預金や保険金の上限設定はむしろナンセンス。鳩山内閣の改革案の一番の問題は、(持ち株会社経由で)政府が大株主であり続けることで政府保証の幻想が存続してしまうこと。限度額の引き上げは、オマケの問題だと思う。
それにしても、「郵貯資金で国債引受はやらずに、基金を作って公共事業をやる」という政策は理解し難い。一段かませてわかりにくくしているだけで、結局は同じことではないのか。
どうして普通預金の金利って、ゆうちょ銀行の方が3大メガバンクより高いのだろう。少し調べてみても、よくわかりませんでした。「国債での資金運用が合理的」という状態が続いているから? だとすると、もし神風が吹いて力強い景気回復がはじまると、金利が逆転するのかな……。
ちなみに、限度額引き上げで「郵貯資金が増える」という予想が報道では支配的なのですが、実際のところはどうなるかわかりません。現在のゆうちょ銀行には税金で金利を補給するルートがないので、かつての定額貯金のような強力な商品はない。限度額引き上げは小金持ちにとって多少の使い勝手の改善にはなりますが、まとまった資金の運用は、ゆうちょ銀行の苦手分野です。
郵便局ネットワークの利便性は、生活資金の管理や出先での小額利用において発揮されるものであって、限度額引き上げとは結びつかない。それでもゆうちょ銀行にお金が集まるとすれば、景気の先行き不安+(法令の裏づけのない=暗黙の)政府保証への期待ゆえでしょう。
逆にいえば、「不況の底打ち」が本当なら、限度額の引き上げに大した効果はなく、郵貯の資産は今後も淡々と減り続けるのかもしれません。
「民主党の化けの皮がはがれてきた。今まで黙っていた民主党の小泉改革路線派が声を上げはじめた…」
亀井氏は最近こういって、仙石氏や菅直人副総理・財務相(63)らを「小泉改革派」だと非難した。
2005年、郵政民営化に反対して自民党を離れた亀井さんは、2009年の衆院選で民主党、社民党、国民新党の連立政権が誕生して以来、一貫して「小泉改革が間違っていたからこそ政権交代が起きた」という認識を示されています。そう思いたい気持ちは、よくわかるけれども。
私は自民党が負けたのは、小泉さんの跡を継いだ安倍晋三さん、福田康夫さん、麻生太郎さんの歴代3総理が「改革を十分に継続しなかった」ことが原因だと思う。これは鳩山内閣の支持率がダム事業中止と事業仕分けで高値安定し、膨張予算で下がり、子ども手当てと郵政改革で坂道を転げ落ちていった経過とも整合的です。
単純に「国民が支持すればよい政策だ」とはいわないけれども、自民党に続いて民主党もまた自滅していく様を見ると、「選挙なんて虚しいな」と感じます。不況下で緊縮財政はマズい、という認識が私にはあって、麻生内閣の財政政策には総論賛成でした。だから世論の反応には苦々しい思いがありました。が、こうも選挙結果がないがしろにされていいものか、と。
亀井さんらが世論に対して超然主義で臨んでいるならともかく、自らの政策には国民の支持があって、現在の逆風はひとえに一部の不心得な議員の政治資金問題のためである、という認識なのです。世論調査が個別具体的な政策について過半数の不支持を示しているにもかかわらず、です。
無残な失敗の連続を見せ付けられた今となっては、冷静に読み返すのが難しい1冊。政治理念の分析は興味深いけれど、「様々な意見の持ち主が集まった連立与党の意見をどう集約していくか」という実務面に関して、鳩山さんにどんな戦略があったのか……。
それでも、谷垣禎一さん率いる自民党は勝手に自滅しているので、夏の参院選でも民主党が勝つのかもしれない。
ナップスタージャパンが5月末で全サービスを終了して、会社を清算するのだという。
私の場合、CD換算で660枚くらい聴いて1,280円×28ヶ月=35,840円(税込)を支払いました。バカ安だったな、と思う。単純計算ではCD1枚55円だから、レンタルCDの3分の1くらいの価格だったということになるでしょうか。実際には、同じアルバムを何度も聞いたケースがあるので、「CD1枚あたり45円」が実際に近いイメージかな。
でもやっぱり、定額で好きなだけ聴ける気楽さこそが魅力でしたね。生活費に余裕がある私でも、従量制だと、どうも料金が気になってしまう。その心理的な制約を取っ払って、「聴きたい曲は全部聴ける」という開放感を与えてくれたのが、Napsterの一番いいところでした。
ちなみに、とうとう最後まで、楽曲のダウンロード購入をすることはありませんでした。私には出先で音楽を聴く習慣がない(移動には電車やバスなど公共交通機関を利用、手と目は読書に使い、耳は他人のお喋りを流し聴きするのに使うのが常)。そうなると、購入する理由がなかったんですよね。購入専用の楽曲もあったのですが、あまり音楽にこだわりのない方なので、定額で利用できる分だけでいいかな、と。
もっと月額利用料を上げて、邦楽のカタログを充実させてくれた方がいいんじゃないか……なんて感想を書いたことがあったのだけれども、最後までそうはなりませんでしたね。終了してしまうのは残念です。
電子メールのto欄を「名前<メールアドレス>」とすると、多くのメーラーは名前だけを表示します。ふつう、アドレス帳にデータを入力しておくと、メール作成時に宛先を設定するときアドレス帳から名前を選ぶと、自動的に「名前<メールアドレス>」というデータが入力されます。
現状、大半のメール受信者はto欄の宛名に敬称がなくても気に留めません。むしろメールの転送を利用して集約管理している場合、to欄がメールアドレスべた書きの方が、どのアカウントに届いたメールなのかメール単体で判別できて都合がよかったりもするくらいです。が、宛名の敬称を気にする人も、いるわけです。
はてブでは不評なんだけれども、世の中にはいろんな意見があっていいと思う。敬称がないと気になる人も、いたっていいはずです。何ら強制力のないマナー講師の発言ごときが「押し付け」になるなら、はてブで一斉にくさすのも「押し付け」になるのではありませんか?
やっていい「押し付け」もあるのだとすれば、「押し付け」=ダメ、という図式は成り立たない。いい「押し付け」と、悪い「押し付け」の基準を示して、西出博子さんの記事が悪い「押し付け」であることを論証しなければ、西出さんへの批判は意味不明です。
私には、はてブの反応は「自分たちは多数派であり、その直感は常識とイコールである。自分たちと異なる価値観に基づく非常識なマナーの普及活動は認められない」という、多数派感覚に胡坐をかいた、カジュアルな少数派排撃の色が濃いように見えます。
先に「マナー」を謳って大上段に構えたのは西出さんの方ですが、そういうことを問題視して空中戦を展開するのは不毛ではないかと。実際問題、「マナー」だといわれたから賛成する、という人が多いとは、私には思えません。もし西出さんの主張が世間で広まっていくとすれば、「たしかにメールの宛名に敬称あったら好印象かもな……」という共感があるからでしょう。この素朴な実感に、怒りと嘲笑で対抗するのは乱暴です。
西出さんの記事への対抗言論は、「実務的な利便性を優先して儒教的な道徳律を必要最小限にとどめることで、活発な文字コミュニケーションの実現に成功したのが、現在のメール文化です。西出さんの提案に従えば、相手を不愉快にさせるリスクを少し減らすことができるでしょう。しかし、そのような観点を推し進めると、メール文化は次第に書面文化へ近付きます。円滑な意思疎通のための知恵も、行き過ぎれば逆にコミュニケーションを面倒で重たいものにしてしまうのです。そして私は、現在のメール文化は、最適な状態よりも少し窮屈なくらいだと考えています。いまメールのto欄に敬称を求める人は珍しい。ならばマナーの枠を広げるより、個別に対処することを勧める方がよいと思う」といった感じでまとめるのがいい。
自分たちの感覚は「常識」に適っているから「正しい」、自分が違和感を持った西出さんの主張は「間違い」、という潰しあいには感心しない。敵失を攻めたって身内でウケるだけです。論敵の「ひどさ」を言い募っても、攻撃している側の「素晴らしさ」は証明されません。
お互い、世間の人々に向けて、自らの考えを訴えていく方が建設的です。
……。自分が違和感を覚えない「マナー」なら臆せず「押し付け」るんだな、やっぱり。もっと優先順位の高い「ビジネスメールのマナー」ってあるよね、という意図はわかるのですが、やっぱり「不毛だな……」と。だって、やっぱりそれって西出さんの主張への正面からの反論にはなっていないでしょう。
とはいえ、「西出さんは、より重大なマナー違反を見過ごす無能なマナー講師。だから西出さんのいうことなんか信用しちゃいけないよ。その点、大切なことをきちんと説明できる私は信用していいと思うよ」という搦め手からの攻撃は、仲間内で盛り上がるには効果的なツール。それは私も否定しません。しませんが、と。
まあね、私自身も過去に何度もこういう攻撃の仕方をしてきたし、これからだって、やることはあると思う。だから、自戒を込めて書いているわけなんですが。
私が何をいいたいのかわからないという意見があるので、簡単に補足します。
西出さんの提案は「敬称がある方がていねいに見える」という強靭な根拠に支えられており、これまでto欄など気にしたことのなかった人にも「それはそうだな」と思わせる力があります。「相手に不快感を与える可能性を低める」というマナーの原則に則っているのです。
これに対して頭ごなしに「非常識なマナーを広めるな」と怒るのは、反論になっていない。大勢が怒りを表明し、西出さんを嘲笑してみせれば、西出説への賛同者の多くを「黙らせる」ことはできるでしょう。しかし、そのようなやり方で「説得」が可能でしょうか?
西出さんのマナー講座に欠けているのは、マナーの啓発が円滑なコミュニケーションが難しい社会を作り出していくことへの配慮です。「説得」に必要なのは、to欄に敬称をつけるのは次善の策であり、本当はお互いto欄など気にしない社会が一番いい、という視点を提供することではないでしょうか。
多数派が示威行為によって少数意見を封殺するのは悪手。多数派に敗北はないのだから、心に余裕を持って、きちんと説得の言葉を紡ぐべきです。
かつて北朝鮮への核攻撃を希望していた蓮池透さんが、対話重視の立場へ考えを変えていたとは知らなかった。私は、現在の蓮池さんの主張に概ね賛成。救う会、家族会の意見には首肯できないし、「悪を糾弾する」世論の流れには危惧を抱く。そして世論に迎合して、科学すら枉げてしまう政治のあり方は、まずい。
ただ、『現代コリア研究所』の人々が拉致被害者家族を「政治利用」している、という批判には賛成しない。現在の蓮池透さんが『マガジン9条』で好意的に紹介される、というのも「政治利用」だと思う。説得されて「なるほどそうだ」と思ったのを、別の価値観を基準に「洗脳だ」と決め付ける不毛さに近い。
私自身、このあたり、数年前とは見解が変わったところ。
2007年頃からやってる、サイトの情報をまとめて表示するサービスなのだけれど。
ドメイン情報は過去に何度も個人サイト潰しに使われてきたもの。本来の用途(サイトに生じている問題を解決するため管理者に連絡をとりたい場合に用いる)を外れた情報の流用はダメ、という注意書きを示さずに検索結果をポンと示すのはよくないと思う。どうせ何の責任も取る気はないのだろうし。
形式的でもいいから、「ご利用規約」と「免責事項」をまず表示して、「同意する」ボタンをした人だけ利用できるようにしてほしい。ちょっと「ご利用規約」は簡単すぎるが、それでも現状よりはマシ。あるいは、最低限、「ご利用規約」と「免責事項」はトップページに表示するか、目立つようにリンクしてほしい。
aguse.jpにはGoogleストリートビューと同様の問題がある。公道を撮影しただけの画像であっても、そのデータベースが各地から簡単に検索できるようになれば、それは問題である、という立場に私は与する。
ドメイン情報もそうだ。まともなドメイン名登録情報検索サービスが、どうしてこれまで、利用者に情報の取り扱いに注意を促してきたのか、考えてほしい。
まあね、こんな規約は、実際のところ、役に立ってはいないよ。毎年毎年、ドメイン情報は嫌がらせに使われている。だから高を括って軽い気持ちで悪用する輩が後を絶たない。
自分にも火の粉が降りかかってくるのが嫌で、大勢がワーワーやっている悪の現場を見ても黙っている私は、さらにここ数年、ヤバそうなところには近付かないことで悪の現場をなるべく見ないようにさえしている私は、それはそれは卑怯者だけれども。それは重々承知の上で、ひとつ声を上げておきたい。
サービスを運営する株式会社アイスクエアには意見メールを送りました。
高みを目指す人は入社前から大変ですね……。ま、頑張ってください。
でも、こういうことを個人の責任と努力でやらせることをよしとする風潮は嫌だね。Asmodeus-DBさん個人の信条は結構なんだけれども、こういう記事がウケる社会というのが、ホント嫌ですわ。
Asmodeus-DBさん個人が、職場の同僚とどう接しているかはわからないけれども、Asmodeus-DBさんの記事に感心しているような人々が形成する会社というのは、きっと「ダメな人を蔑む」会社だと思う。「あんなクズ、いなくなってしまえばいいのに。人の足ばっかり引っ張りやがって」みたいな。
だってさ、Asmodeus-DBさんの記事って、そこに書かれているようなことを「当たり前」とか「これくらい常識になってほしい」という風に書いているでしょ。それを実践していくことがいかに苦しいか、難しいか。そういう実際には多数派のはずの一般人の気持ちがわかっていないように思う。
いやさ、それはね、「そういう階層」に向けて書いているんだから、「本当にこれくらい基礎の基礎じゃなきゃ困るエリート向けの記事」なんだから、といわれれば、それはそうだろうと思う。ひとつの記事で万人への配慮はできない。だから繰り返しいっているように、Asmodeus-DBさん個人がどうといいたいんじゃない。
まあね、私は妄想というか、幻覚に対して恐怖を感じているだけなのかもしれないけれども。
自分自身、仕事は「できない方」だと思っているので、仕事の話はあまり書いていないつもりだったのに、案外あれこれ書いてました。全部紹介しても読む人がいないと思うので、「自分は、どんな記事なら安心できるのだろう?」という問いを念頭において、いくつかピックアップしてみました。
Asmodeus-DBさんの記事群とひとつ大きく違うのは、「お説教」で人を動かす、というアプローチを排除していることでしょうか。人は放っておくとマズい方向へ進む、というのが基本にある。お説教なんかで、それは止められない。もちろん、これは自分自身を含んだ話です。
ゆえに私は、「こんなダメリーマンを部下に持ちながら、上司が毎日ニコニコ笑顔で仕事をできるのはどうしてなんだろう?」という疑問に行き着きます。私は運がいい。周りの人を観察しているだけで、「これはすごいな」と思うことがたくさんあるのです。
私は「隆夫ちゃんはいい子ね」といわれて育ったけれども、実際には、私が平均の何倍も褒められるようないい子だったとは考えられない。ではなぜ、私の両親は、毎日私を褒め、「楽しい子育て」を実践することが可能だったのか?
これも、同じことなんです。「やれ」といっても、「やらない」から、怒ることになってしまう。「やらせる」ために本当に必要なことは何か、それを考えればいい。
「やらせる」仕組みは、個人の自由な発想を縛る面がある。また、仕組みを構築するのに、相当のエネルギーを要する。つまり管理する側の負担が相当に重くなる。それは認めざるを得ない。
会社では、各個が自律的に正しく行動できるなら、上記の管理コストはオーバーヘッドとみなすことができます。本来、管理職の頭脳をもっと有意義なことに使えるはずだ、と。だから、エリート集団の企業では、Asmodeus-DBさんの記事が有用なのかもしれない。お説教でうまくいくなら、お説教は正解なんですよ。
だから、いい加減しつこいけど、Asmodeus-DBさんの周囲で、うまくいっているなら、それはいいと思う。Asmodeus-DBさんの記事は、エリート集団に入ろうとしている新人向けなんだろうから、記事にも文句はない。ただ、それに感心してる人たちって、本当にその記事の対象層なんですか、と。
私はやっぱりね、新人にどんな説教をしてやろうかとてぐすね引いてる先輩方のいる会社より、まず無条件で仲間が増えたことを喜んでくれて、「仕事はね、大丈夫! 俺らがついているからね!」と迎えてくれる会社の方がいいと思うんだ。
2008年に大騒ぎになった、中国製の冷凍餃子に農薬が混入され、全国各地で腹痛を訴える人が出た問題について、事態の進展があった。
予想通り、個人の犯罪だったらしい。まだ裁判が終ったわけではなく、断定的なことはいえないが。
同じような事件は、日本でも起こりうる。これを完全に防ぐことはできない。それはグリコ・森永事件の再発を防止できないことと大差ない。だが日本の世論は、その無理を押し通すだろう。そうして中国への差別感情を強化していく。私の「冷静で賢明な日本人」幻想は、二十歳過ぎてからの10年間でボロボロにされた。
耐震偽装事件の建築士と同様、個人で賠償できない問題が起きると、周囲に過剰なとばっちりがいく構図は、今後も延々と繰り返されるに違いない。私が生きているうちに、こうした状況が改善されるとは思えない。ネットなんか、マスコミよりずっとひどいんだから、何の希望もない。泣けてくる。
任天堂の(立体視用の眼鏡が必要ない)裸眼3D液晶パネルを搭載した携帯ゲーム機が一部で話題になっていた。数年前なら全く興味なかったろうけれど、今は関心大。
ちょっと調べてみたんだけれども、3D表示をすると、やっぱり画素が減ってしまうのは避けられない。DSは横開きと縦開きの両方で使われるから、縦横どちらも画素が減ってしまう。単純に縦横ともDSの2倍の画素を用意すれば、3D表示でも画素数維持ということになるのかな。でもコスト的にそれは難しいだろうな。
まあ個人的には、高精細な画面を目指さないことには賛成だったりします。だって、DSでもプリレンダリングの動画は、やっぱりゲーム本編とは比較にならない。画素数を増やすより、エンジンを強化した方が、ゲームの表現の幅は広がるんじゃないか、と思っていたんです。YouTubeとかでも、重いばっかりのHD動画より、きれいなSD動画を拡大表示した方が、軽くてしかも見栄えがすることがあるでしょう。
それにしても3Dね……。液晶の厚さも消費電力も厳しい。どんな感じにまとめてくるのか……。1年後に発売なら、もう設計はほぼ完了して、量産の問題点を潰していくフェーズ。いきなり立ち上げが100万台規模なんだろうから、その心労は私などには想像もできない。無事に発売されるとよいと思います。
今年、仕事で行く予定。でも新携帯ゲーム機に直結するような展示はさすがにないだろうな。ゲーム機って安いから、じつのところあまりこういう展示会から見通せる領域があんまりないんだよね(少なくとも私程度の素人の場合)。自社製品以外の「実例」は発売後じゃないとまず出てこないし。
部署ごと東京本社から栃木の工場へ移転する件に関して、「予算を確保したから、ついでにいろいろ買っていいよ」とのこと。それで家電量販店へ行ったのだけれども……。
「仕事用のデジカメを探しています。基本、静止画を撮るので、縦持ちのビデオカメラではなく、横持ちのデジカメがいいと思っています。ただですね、動画の保存形式としてMPEG-1を選択できないか、と」
「少々お待ちください」
「ネットワークに繋がっていないパソコンには今でもWindows2000が導入されていまして」
「Windows2000は先日、マイクロソフト社のサポートが終了いたしましたが……」
「ええ、承知しています。しかし社内LANにもつながっていませんからね。またメモリが256MBくらいしかなく、加工機とセットになった特殊なソフトウェアが入っているという事情もあって、XPへのアップグレードも難しいんです。で、そのパソコンで個人的な事務作業を全部賄っている方がいまして」
「それでも加工データはUSBメモリか何かで移動させたりすることがあるわけですよね」
「たしかに。フロッピーディスクでデータをやり取りしていまして、最近のパソコンにはドライブがないので難儀しております」
「えー、たいへん申し訳ありませんが、MPEG-1で動画を保存できるデジカメは当店の取扱商品の中にございません」
「きわめて残念ですね。WMV形式またはMPEG-1形式で動画を保存できれば、無加工でWindows2000添付のWindows Media Player 7でも再生できるんですがね……。これは決して極端な話ではなくて、弊社のオフィスで9割以上のPCに導入されているWindows XP付属のWMP9でも同じことなんですよ。標準で対応している動画形式にMotion JPEGやH.264は含まれていないんです。しかしいったい、みなさんはどうされているんですか?」
「といいますと?」
「こんなことでは仕事の役に立たないでしょう。情報の共有ができないじゃないですか。弊社のオフィスでは、約半数のPC用ディスプレイが未だに1024×768です。私は3D-CADの都合で、とくにお願いして1280×1024にしてもらいましたけど、HD動画なんて全く必要がない。動画サイトを見ていても思うのですが、高解像度のボケた映像より、低解像度のシャープな映像の方がずっといい。古いマシンでもサクサク再生できますしね」
「ええ、そうですね」
「だから実際問題、高解像度の動画が必要になった場面は皆無です。社内メールの添付ファイルサイズは20MBに制限されていることもあって、動画はMPEG-1形式とするのが一般的なんです。MPEG-1なら、動きの激しい動画でも20MBあれば5分以上になりますから、問題の起きた工程や実験の様子を撮影して、会議前に回覧するのに都合がいい。HD動画よりMPEG-1対応の方がずっと嬉しいですよ」
「お役に立てず申し訳ありません」
「こちらこそ、すみません。えーと、それではですね、デジカメに添付されたソフトで簡単に動画形式をMPEG-1に変換できる機種ってありますか? 私のパソコンも古くてですね、YouTubeのHD動画もコマ落ちになるんです。そういう古いパソコンでも、事務文書を作成している裏で、多少は時間がかかってもいいから、パソコンの動作をあまり遅くせずに動画を変換してくれるとありがたいのですが……」
店員さんは5分間くらい、他の店員さんに話を聞いたり、たくさんのカタログをババババッとチェックしたりして頑張ってくれたんだけれども、「わからない」とのこと。「お手数かけてすみません。どうもありがとうございました」といってカメラのフロアを後にしたのだけれど、グッタリ疲れました。
「仕事用のノートパソコンを探しています。実験室用でしてね、データを取りながら、その場ですぐ実験結果をまとめて整理したいんですよ。あと最近の計測機器にはUSBでPCに接続して使うものが増えてきていますからね」
「機能としてはどのようなものをご希望でしょうか」
「正直、性能はネットブック並みでいいんですよ。メモリが256MBのWindows2000マシンでも全く不都合を感じることなく仕事できていますので。ただ問題は、映像の外部入力機能なんです」
「えっ、外部入力ですか!?」
「そうです。いま、モニターを必要としている計測器があって、ただそれだけのためにデスクトップPCを置いているんです。ノートブックで外部入力に対応しているものが社内にないので、2系統の入力が可能なモニターに、計測器とデスクトップPCを置いているんです。でもこれが本当に邪魔でしてね」
「申し訳ありませんがお客さま、安価なノートで外部入力に対応しているものはないかと」
「どうしてなんでしょうかね。仕事と関係なく、自宅でも、ノートパソコンに外部入力端子があればどんなにいいかと思っているんですよ。テレビとパソコン、両方とも机の上に置くともう邪魔でね」
「モニターをテレビにしまして、パソコンをデスクトップにされてはいかがでしょう?」
「解像度が不満なんですよ。テレビって画面の大きさの割に画素が少ない。四畳半の部屋のちゃぶ台に20型のテレビを置いて1440×900しか解像度がないとか、悲しすぎますよ。それに、ときどきブレーカーが落ちるので、バッテリーのないデスクトップパソコンは嫌なんですよ。いま10型のテレビと15型のノートパソコンを並べているんですけど、このテレビがなくなったらどんなにいいかと思うんですよ」
「そういうことでしたら、TVキャプチャという機器がございますが」
「ええ、でも遅延が相当ありますからね。テレビ番組を見ているだけならいいけれども……」
「たしかにゲーム機等の接続には向きませんね」
「結局、机の上が片付かないでしょう。ちゃぶ台ひとつの上に、携帯電話の卓上ホルダと電気シェーバーと目覚まし時計とテレビとノートパソコンと無線マウスとバックアップ用のポータブルHDDがあるわけです。これらを上半分に押しやって、下半分で食事をしている。もう限界だな、という感じなんです!」
「は、はい」
「すみません。えーと、高級なノートなら外部入力端子があるのですか?」
「だいたい20万円以上の機種になりまして、テレビ番組の録画機能が内蔵されているものですね」
「残念ながら予算の3倍ですね。わかりました。諦めて今のデスクトップを使い続けます」
ノートパソコンにPS2やPS3やWiiを接続したいのだが……というのはネットではFAQになっているのだけれども、それはようするに「狭い部屋で一人暮らしをしている世代がネットをアクティブに利用している層と重なっている」というだけの話なのだろうか。
実験室で、普及帯のノートパソコンに映像の外部入力があればいいのに、と思った最初は学生の頃だったので、もう10年来の希望になる。だけど、ちっともそういう商品って、出てこない。逆にAVパソコンとかいって16型くらいのフルHDディスプレイを搭載してさえ、外部入力のない機種がいくつもある。不思議だ……。
いや、だってさ、それほどの画面のあるノートパソコンがあれば、一人暮らしの場合、もうひとつディスプレイを持つのって、全く無駄でしょ。リビング需要と個室需要、と考えてみても、パソコンが個室の設備なら、個室用の録画機器とパソコンを接続できたら嬉しいじゃない。なんで大画面テレビが他にある前提なのか。
……といってみても、実際にマーケティングしたら、「パソコンよりテレビに優先的にお金をかける」人が大半なんだろうな、そして「仕事用ならデスクトップでいいよ」という声が大きいんだろうな。
「16型でWUXGA(1920×1200)くらいの画面解像度のPC用ディスプレイはありますか?」
「申し訳ありません。そのような商品はございません」
「でもノートパソコンだと16型くらいからフルHD(1920×1080)液晶とかいってるのがあるじゃないですか」
「申し訳ありません」
「では何型くらいからWUXGAになるのでしょうか」
「だいたい23型以上ですね」
「そんなデカいの、会社のデスクに置く場所がないですよ……。みんなそんなに広い机で仕事をしているんですかね。教科書や講習会のテキストや書類なんかが机の上になくていいのかなあ。そんなに書誌の電子化が進んでいるとも思えないんだけど……」
「申し訳ありません」
「えっと、話を変えますが、視野角が狭いディスプレイってあります?」
「珍しいですね。後から覗き見防止シートを貼っていただくのが一般的かと思います」
そのシートというのがまたやたら値段が高いんだ。視野角の狭いチャチな液晶を使ったディスプレイがあれば、値段も安くて一挙両得だろうに。なんでそういう商品がないのか。
こうして5年以上も「こんなのが発売されたらすごくほしいのになあ」と思いながら心待ちにしている商品が、いくつもある。どれも大ヒットはしそうにない商品案なので、まあ無理なんだろうな。私も責任は取れないし、こうしてネットの片隅でつぶやくだけ。
いつものことではあるのだが。
Twitterの反応やはてブの反応も大筋で2chに同調。これ、スレ立てした人の誤解が拡散しているという事例。疑問を呈している人を含め、元の情報や他の専門家の意見を確認しようとする人が(ほとんど)いないらしい。情報発信力の大きな人の誤解をベースにみんなで騒いでいる。
それもさ、単に驚き戸惑っているだけならまだいいけれども、自分の不勉強を少しも不安に思わずに、他人に対して「死ね」といえてしまうのだから、ゾッとする。
ポイントは、新しい放送法が通信分野も扱うこと。そこで第二条を改正し放送の定義を拡げている。
「放送」とは、公衆によつて直接受信されることを目的とする無線通信の送信をいう。
「放送」とは、公衆によつて直接受信されることを目的とする電気通信(電気通信事業法(昭和五十九年法律第八十六号)第二条第一号に規定する電気通信をいう。)の送信(他人の電気通信設備(同条第二号に規定する電気通信設備をいう。以下同じ。)を用いて行われるものを含む。)をいう。
うるさい語注を略すと、ようするに「無線通信」が「電気通信」に変わったわけ。そして話題の第六十四条は、現行法の第三十二条と一字一句同じ。
協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第百二十六条第一項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。
焦点は、「放送の受信を目的としない受信設備」という記述の解釈。「NHKの番組は視聴していません」と抗弁しても、テレビにアンテナ線をつないでいれば受信料を徴収される、という体験から敷衍して、(NHKオンデマンドを受信できる)WWWを利用可能なパソコンからも受信料を徴収されてしまうのでは? と不安になるらしい。
NHKオンデマンドは子会社がNHKから番組を買って提供しているサービスで、そもそも協会の放送たりえない。それにNHKオンデマンドは会員制サービスであって、「公衆」は受信できない。だから大騒ぎしている人には、「杞憂ですよ」といいたい。
「今はそうでも、将来、NHKオンデマンドが本体サービスになったら? 誰でも自由に番組を視聴できるようになるかもしれないよ? そういう可能性はあるじゃないか。不安だね」と突っ張られたら、私の知識では論駁は難しい。でも法律の改正というのは必要最小限にとどめた方が安全確実なのであって、生命に関わる重大な問題でもないのだし、小さな可能性にいちいち対処するべきなのかどうか。
それに、たいていの人は既にテレビ放送の受信設備を持っているのだから、NHKと契約しているはず。であれば、パソコンは2台目以降のテレビ受像機と同じ扱いになるので、ほとんどの人に追加の負担はない。これは携帯電話のワンセグ放送受信機能と一緒。
おそらく改正案がストレートにヒットするのは、「有線放送」は「放送」ではないので受信料を支払う義務はない、と突っ張ってきたケーブルテレビ利用者の一部ではないかと思う。放送法における「放送」は「無線通信」なので「有線放送」の上位概念ではない、という主張を支えてきた法文が消えてしまうわけなので。
数kmも歩いた挙句、最後の最後にJRが止まった……。ちょうど私がホームに辿り着いたとき、目の前に滑り込んだ山手線なのに、緊急停止の無線が入ったとか何とか。目白-池袋間で、線路に何か物が落ちてきて、架線が切れてしまったのだそうだ。
架線接続作業のため、といって電車が停電になった図。個人的には2度目の経験、だと思うのだけれど、前回がどんなシチュエーションだったか思い出せない。既視感は記憶の捏造なのか、それとも別の記憶と混同しているのか……。
ともかく、今日は荷物も多いし、そのうえ雨まで降ってくる。回送になった電車内につまらないものを忘れてしまうし……。1時間待った挙句、池袋から大塚まで、3kmまた歩き。疲れ果ててしまった。散々だった。
しかしアレだな、鉄道会社というのは。事故を起こしたくて起こしているわけではないのに、こうしてつまらない八つ当たりまでされて。たいへんだな。
今日も改札口付近でギャーギャー騒いでいる人がいた。それを止める人は誰もいないんだけど、露骨に「いい加減にしろよー。駅員さんが悪いんじゃないだろ」って仲間内で囁いたり、遠巻きに眺めたりしている人が多数派で、少しホッとする。駅員さんにとっちゃ何の足しにもならない話だが。
先ほど列車運行情報を確認したところ、事故から2時間半ほどで復旧したらしい。お疲れ様でした。
いろいろ思うところあって、コミュニケーションの指針をいろいろ変更中。今月中を目処に、「携帯電話を持ち歩く生活」をはじめる予定で、それに伴ってサイトの方にも手を入れました。
これまでは、とにかく待ち受け時間の長い機種を、1ヶ月に1回くらい充電して、ふだんはずーっと引き出しにしまいこんでいました。それは私の主張でもあったんです。ずっとそうしてきた結果、たった30件しか保存されない受信履歴が、1年以上前まで辿れるという状況でした。
今後も、とくに誰かと電話で話す予定はない。ただ、祖父母の体調が思わしくない。急死するタイプの病ではないので、いざとなってから新幹線で急行しても、話はできるらしい。もちろん、できないかもしれない。それは確実ではない。しかし、できることはしておきたい。
といっても、万が一のためだけに携帯電話を持ち歩くなんてのは、経験的に継続不可能と予想できます。そんなことがサクッと実行できるなら、もっとスマートな人生を送っていると思う。
だから、機種変更することにしました。モバイルSuica対応機種に変えます。携帯電話なしでは出勤できないようにするわけです。これで会社に持って行き損ねることはなくなるでしょう。会社のロッカーの鍵も、出勤用のカバンに紐で結びつけるという荒業で、どうにか忘れることがなくなったのでした。
これまでずっと電話は留守録応答でしたが、今後はふつうに出ます。
あと、10年以上メールをやっていて、結局、「晒す」ことでしか対抗し得ないような相手には出会わなかったし、私の方にも考え方の変化があって、もうそのような反撃はするつもりがないので、メール応対のエクスキューズをひとつ減らしました。
Trackbackも特殊な形で受け付けますが、しかし今後も、ご意見・ご感想はなるべくはてなブックマーク経由でください。
東京圏と大阪圏ではじまった、ラジオ放送のIP通信による同時放送サービス、ちょっと興味を持って聴いてみたら、これが楽しい! ハマってます。
CoRadikoというユーザー作成のミニツールが私好み。録音とかはしてない。ながら聴取がいい。あーあ、4月下旬か5月上旬あたりに栃木の工場の近所へ引っ越すの、ちょっと考え直そうかな。調べたら、埼玉県の端っこでも家賃にほとんど差がないんだよな……。
いま取ってる新聞も、栃木は配達エリア外。工場は栃木県南部の町にあるので、未練がましく埼玉県の北辺にしがみついて、電車で15分の通勤を我慢しようかな。電車の時間の都合で、家を出るのは15分ほど早くなるのだけれど。東京、神奈川、埼玉、千葉の南関東と、茨城、栃木、群馬の北関東とで、何かと違いがある。
しかしね、テレビのバラエティもひどいひどいと思っていたけれども、AMラジオのバラエティー番組(?)の企画はもっとひどかった……。放送作家の給料が安いというのは、つまりこういうことなんだなー、みたいな。まあ、そういう番組に引き寄せられてしまう自分の問題なわけだけど。
その点、TOKYO FM はオアシスだよなー、なんて思いつつ、また「引越し先はどこにしようかな」という問いに囚われていく。
ところで、ニコニコ実況のテレビ版は人気あるみたいだけど、ラジオ版の寂れっぷりはすごい。1番組にひとつもコメントがなかったりする。まあ、ぶっちゃけ面倒くさいしね。習慣になってしまえば無意識のうちに手が動くのでしょうが……。
地デジ対応のテレビがないので、来年7月までには小さいのを買うつもり。ROBROいいなあ、BRAVIAもいいなあ、なんて思う。個人的には、ちゃぶ台の上にノートPCと並べて置けるサイズを希望していて、そうなると現状の10.1インチと同等のがいいんだよね。その観点からいうと、ROBROもBRAVIAも大きすぎる。
まあサイズの希望は絶対じゃないとはいえ、今の生活スタイルを維持するなら、SKNETのCLAiRが13.3型でギリギリOKかな。薄くて軽いのもいいな。4月下旬発売のパナソニック10.1型HV100には「おおっ!」と思ったものの、入力端子がアンテナ線だけ。なんで? もったいない……。
白黒テレビの登場以来、いつの時代でもテレビは娯楽の王様として、そしてまた一番身近な情報の窓口として、生活に無くてはならない存在です。そのテレビの歴史における大変化である、2011年7月のアナログ停波まで、すでに500日を切りました。
そのような中、多くのご家庭でリビングの1台目のテレビは地デジ化が進んでいるものの、今後、2台目以降のテレビの地デジ化に向け、低インチサイズのテレビの急激な需要増加(駆け込み需要)が想定されます。なかでも小型の地上デジタル放送対応テレビと、ワンセグ放送対応携帯電話の中間に位置する、「5〜10型」サイズのテレビに対するニーズが急拡大すると予測されます。
私の場合、「1台目」として10型くらいのテレビを買おうとしているのだけれど、そんなのは「大企業が手を出す気になれないニッチな需要」ということなのかな。ま、「2台目」なら入力端子は割とどうでもいいのでしょうね。
それでも、小型フルセグ地デジテレビの需要増加に対応して各社のラインナップが充実してくるとすれば、差別化戦略で入力端子を充実させた機種も登場するんじゃないか、なんて期待しています。
私が「何を考えてこんなのを作ったのかなあ」と思うような商品にも、それぞれ裏に熱いドラマがあるのだろうな……ということを、あらためて思いました。以前から、何かというと「愛がない」とか「志が低い」とか「やっつけ仕事なんじゃないか」とかなんとか、そういう種類の非難には違和感があったんです。
大手家電メーカーにとって"ネットに繋がっていることが前提の家電"をゼロベースで思考することは想像を絶する難しさだった。また、既存家電の形状・UIを大きく見直すことも、これまた社内調整だけで年単位...という状況。
だから、独立して企業されたのだという。正直なところ、私は CEREVO CAM が大成功する商品だとは思わない。
カメラ機能の充実を売りにする携帯電話や、無線LAN機能を搭載した(近接撮影もズームもできる携帯電話とは一線を画す水準の)デジカメの方が、ネット対応の部分では荒削りだったりチグハグな箇所があるとしても、やっぱり商品としての訴求力は高いだろうな、と。
何だかんだいって、大抵の工業製品では、大企業でなければ最先端を走れない技術こそが、消費者に対して大きな訴求力を持っているのではないか。つまり、「3G対応で基本機能を押さえた携帯電話であること」や「(トイカメラ扱いとならず)デジカメとして売れるカメラ性能」がないと、あまり売れないだろう、と。
本製品を「デジタルカメラ」として単純にとらえ、既存の無線LAN搭載デジタルカメラや普通のコンパクトデジタルカメラと比較すると、ユーザーには物足りなさしか見えてこない。筐体の質感やボタンなどの各部品の収まり、手触りやボタンなどの押した感覚、液晶のサイズや品質など、ハードウェアとしての完成度を既存のデジタルカメラと比較すると「こんな“カメラ”使えない」と判断するかもしれない。
しかし、ハードウェアとしてでなくサービスとして考えると、「CEREVO CAM」の価値が見えてくる。つまり、日常を写真として切り取って、インターネット上のコミュニティで活用する、このようなサービス、ライフスタイルを実現するためのデバイスであるとユーザーが考えれば、カメラとしての性能に関係無く、この製品の価値が見いだせるというわけだ。
この説明はよくわかる。わかるけど、「それが本当に多くの消費者が求めていたことなのか?」というと、疑問があるわけです。こんなことを書いていると、3年後に恥をかくのは私かもしれないのだけれど、今のところ、方々のレビューを読むに、多くの購入者は最初にカメラ性能のところで「うっ」となってる。
CEREVO CAM は新しいジャンルの商品なので、「カメラ」ではない。だからカメラ性能を割り切ったのは決して本末転倒ではない……まだ発売3ヶ月だし、そうかもしれないな、とは思う。思うけれども、ふつうの消費者の「これってカメラだよね」という先入観と戦っていくだけの魅力があるのかなあ、という疑問は拭い去れない。
なかなかこうした商品が成功するのは難しいよね、と思う。例外は例外じゃないか、と。隔靴掻痒の感はあっても、地道に既存製品への機能追加や機能の改良に努めた方がいい……。私なら、そう考えてしまう。が、世の中にこうして挑戦意欲に富んだ人がたくさんいればこそ、死屍累々の先に新規なヒット商品が生まれる。
とても真似できないことをやってのけた人を、私は尊敬こそすれ、バカにするつもりは毛頭ない。世界を席巻した iPod やニンテンドーDSも、その企画にケチをつけるだけの人はいたそう。私はきっと、そのケチをつけて後で恥をかいた側の人間だ、という自覚はある。
CEREVO CAM がそれなりに大きなヒットを目指した商品である、という前提がそもそも間違っていて、最初からニッチ向け商品のつもりなのだとしたら、私の違和感は無意味なもの。
でもブログのタイトルが「キャズムを超えろ!」なんだから、そういうつもりで起業したんじゃないのかなあ。大手家電メーカーでは超えられないキャズム(谷)を超える新商品を作るには、起業するしかない、という話なんだろうな、と、そう思ったのですが。
高校時代、いちばん得意な科目は『政治経済』だった。内容豊富な科目だが、その中でも「比較優位」という考え方は、衝撃的だった。あらゆる分野で「絶対劣位」にある者でも、分業と取引によって利益を得られるというのだ。
「そんなバカなこと、あるわけない」と思った。騙されているような気がして、何度も何度も教科書の説明をノートに書き写して、途中の計算を追いかけてみた。しかし、私より200年ほど早く生まれたリカードさんの議論は、シンプルで頑健だった。私はうちのめされ、そして憤激した。
クリントン政権の日本イジメって、いったい何だったんだ。高校レベルの経済学、しかもこれほど単純明快な理屈で否定されることを、どうして世界トップの政治家たちが堂々と主張していたのか。日本の政治家もなぜきちんと反論しなかった! 報道機関は何をやっていた? わからん、世の中さっぱりわからん……。
私は興奮して級友相手にまくしたてた。だが、政治や経済のニュースに関心がなく、教科書の薄さに惹かれて地歴ではなく政経を選んだという彼に、私の高揚した気分を伝えることはできなかった。
続いて私は、先生に食ってかかった。先生は、「うん、だからウルグアイ・ラウンドなどで交渉をだね……」と説明してくれたが、私はおさまらない。「人類は、200年間も何をやってきたんですか。こんなに明快な、反論のしようもない理屈があるというのに、どうしていまだに……。ぼくの人生だって、あと半世紀あまりしかない。今ここにある教科書で示されていることすら、現実にならないまま、終ってしまうのですか!」
先生も困ったろう。「徳保くん、いいかい。あえていうが、人生は短い。君がいま、学校で勉強していることの大半は、私くらいの年齢になるまで、ずっと役に立つんだよ。人類は、2回も世界戦争をやって、ようやく、貿易によって全員が繁栄する世界の建設をはじめたんだ。気長に、頑張っていくことだよ」
先生は、戦火を知る人だった。ちょうどその年、延長雇用も終り、退職された。私はというと、ニュースを見て適当に素人談義をしている方がリーズナブル この記事、途中で投げる。
中断
子どもに海穏(みおん)と名付けようとして反対された人の話なんだけど、個人的に興味深かったのが、やたら大勢の人が「海が穏やか」という名前を「海に隠れる」と読み違えて「不吉な名前だからやめた方がいい」とアドバイスしていること。それも「参考意見のひとつとして聞いてください」という調子じゃない。
こういう経験、私もある。全体として助言者の感覚の方が正しいな、と思っても、こういう致命的なミスがあると、「なるほどなあ」とは思いにくい。「こちらの相談をよく検討もしないで頭ごなしにいい加減なことをいいやがって。ふざけんなよ!」という怒りが先に立つ。逆に自分がミスしたときは、「そんなのは瑣末なミスだろ……」と考えがち。
今後、どちらの立場になったときも、なるべく冷静に実利を得られる判断をしたいものだと思う。
このところ、ネットの一部で話題の件。私のスタンスはコンセンサスに基づく児童ポルノ規制(2007-10-26)に書いたこととあまり変わらない。誤解を恐れずに書けば、日本が直接民主主義の国ならとっくに決まっていたことが、間接民主主義によって判断保留となっているのが現状だ。
この変化は、おそらく個人の人生程度のスパンでは、不可逆のものだろう。人権擁護法案への反対運動と同様、今回もデマでも何でもござれの大盛り上がりだ。以前は、一方的な憶測・決め付けを恥じず、そもそも事実の確認を疎かにして他人を罵る姿勢を苦々しく思っていた。しかし絶対に多数派にはなれない者の抵抗というのは、むしろこれが正解らしい。議論の土俵に上がってもメリットがない。ノイジー・マイノリティとして暴れに暴れて、「面倒くさいから結論を先延ばしにする」という果実を得る。案外、そんなことで5年、10年と現状を維持できる。
日本の民主主義というのは、一体どうなっているんだ、と思うよ。ま、約9割の規制賛成派も、それほど本気じゃないわけだ。今のところはね。だから、必死になってる少数派の意見に配慮するのが「バランス感覚」ということなんだろうな。
あと、ダウンロード違法化の件もそうだけど、いったん可決しちゃったらもうほとんど何の抵抗も見られない。ネット暗黒時代が到来するんじゃなかったのか。「こんな地獄は嫌だ! 元に戻せ!」という運動は起きない。「非常識」なことをいっている人たちでも、その辺の状況の読みはバッチリなのが不思議。
今回の件だって、今はコンテンツ産業崩壊とか騒いでいるが、実際は産経のインタビューにある程度のことにしかならないだろう。そして大半の人は、「元に戻せ!」という運動などやらない。「無駄なことはしない主義」の人が多いということなのかな。
恣意的な記述を含む法律や条令なんて、既に世の中にいくらでもある。なのに、新しいものばっかり怖がる。「そんなに心配性なら、現在の名誉毀損罪なんか、さぞかし恐怖の対象だろうね」と皮肉をいいたくもなる。遺伝子組換食品と自然交配、狂牛病と食中毒、こんにゃくゼリーと餅、エレベーターと階段……もう見飽きたパターンだ。
それにしても、ネットで声の大きい層の偏り具合ってのは、正直よくわからないな。世論調査と同じだったり違ったりする。どうしてニコニコ動画のアンケートだと自民支持が多いのかも、全然わからない。
それに加えて、現在の18禁のゾーニングの運用のされかたにも問題がある。宣伝を打てないとか片隅に追いやられるなどの理由で、18禁に指定された途端に本来リーチしてもいい大人にもリーチしない存在になる。
これは全くその通りだと思うな。もしコンテンツの過半が「18禁」という世界なら、消費者も成人向け商品のコーナーへ足を運びやすくなるし、成人向けメディアの中で広告・宣伝が成り立つようになる。
私がこういうことを考えるようになったのは、CEROで「Z区分」や「レーティングなし」になるのを恐れてゲーム開発者が萎縮する、輸入ゲームの内容が削られる、といった話題に接したときからかな。もはやゲーム購入者の過半が18歳以上なのに、どうして「Z区分」がつらいのか、と疑問に思ったんだよね。
テレビだって視聴者の大半は18歳以上。新聞も雑誌もそう。「子どもは区別する」というのが社会的なコンセンサスなら、少数派である子供の方を切り離して、「子どもが接触していい」という区分を、逆に作ったらどうなんだろう、と。だけど……
エロいものを規制する側の目指すところや言い方としてはざっくりいって
- エロは子どもの教育によくないので子どもの目の届くところから排除すべき
- エロは大人の私が目にすると不愉快なので、大人の私の目に届くところから排除すべき
- 特定の傾向のエロを嗜好する人間は排除(あるいは矯正)すべき
の3つがある。で、「2」や「3」の思想を持った人間が「1」を全面に押し出して主張している面が多分にある。
というわけで、現在の「18禁」のあり方というのは、おそらくは多数派の価値判断にピッタリ合致しているのだと思う。
個人的には、坪田さん叩きを見るのは「つらいな」という感覚がある。あの橋の上を走る電車を見たことがある人なら、「津波警報でアレが止まるの?」という疑問を持つ人がいることは、理解できるんじゃないか。共感や賛同までは求めていない。理解はできるでしょ、と。
私は、理解できた。できたから、怖いな、と思った。(後文省略)
言葉の使い方がをかしいよ。 「津波警報でアレが止まるの?」には感情的(感覚的)に共感を覚える。 しかし、筋の通った理屈としては理解出来ない。 ──こういう事じゃないの? 感情的な話だからこそ「怖いな」という「感想」があり得る。 もう少し分かり易く言うと、感情(感覚や見た目の印象など)に対しては共感、筋の通った理屈に対しては理解を使います。
私は、瀬戸大橋を見た人が、「海上50mの橋桁を走る電車が高々3m程度の高さの津波の警報で止まるのかおかしい」と考えることに不思議はないな、と理解したのです。経験Aが考察Bを導く構図を理解した。そういう理屈の話なので、「理解」でよいと思います。
私は坪田さんではないので、同じ経験Aがあっても、経験Cや知見Dと重ね合わせた結果、考察Bではなく考察Eに到達しました。しかし、経験Cや知見Dがなかったら、坪田さんと同様の考察Bを結論とした可能性がある。そのとき、「(一方的に)叩く」というのが周囲の反応だったとしたら、悲しい。怖い社会だと思う。
私が坪田さんに「共感」しないのは、私の場合、考察Bに至っても、坪田さんのようには怒らないから。「どうしてだろう?」と首を傾げて、ボヤッとしていると思う。しかし、それは私がそういう性格だという話であって、坪田さんのように思考Bから怒りを導く感情関数を搭載した人もいることは、「理解」できる。
あー、私の場合、「そのように状況を把握して疑問が解消された」ことを「理解」という言葉で表現することが多いのですが、これって誤解を招きやすかったりするのでしょうか。「理解」と書くのが、いちばんコンパクトで好きなんですけど。
坪田さんの主張は、理屈としては通っているんですよ。矛盾はない。けれども、坪田さんが根拠とした前提事実にも、結論を導く価値判断にも、異論のある人は多いでしょう。だから、「賛同」はできない人が多いでしょうが、「理解」は難しくないはずです。
面倒くさいから。ていうか、どうせ「こうすれば完璧」なんて解決策はない。むしろ「失敗しても何とかなる」ような、フォローの効く職場体制作りをお互いに心掛けた方がいい、みたいなケースが多いと思う。
そもそも真に申し訳なく思ってる奴が、同じようなミスを二度も三度も繰り返すのかっつー話だ。
- 「忘れていました」⇒ 忘れない工夫は何ができる?
- 「後回しにしていました」⇒ 優先順位を正しく把握する or その作業に対する抵抗感を取り去るには?
- 「やったつもりでした」⇒求められていることを正しく認識するにはどのような確認を?
「本当に反省したならミスを繰り返すわけがない」なんて本気でいってる人は、特別な人間か、自分には甘いのか、記憶力に問題があるのか、のいずれか。私の経験では、特別な人間が多い。「できそこない」に仕事の足を引っ張られるのにムカついて、平気で無茶をいう。
もちろん「忘れない工夫」は、可能ならした方がいいね。でも時間が経つと、その工夫を忘れたり、あるいはサボったり、ということになりがち。で、結局は精神論にいってしまったり。
先日、ある人が得々と後輩にアドバイスするのを横で聞いていた私が、シュンとした後輩の去った後で「さっきいってたこと、自分は実践してるの?」と訊ねると、「いや、やってない」「だよね、おかしいと思った。そんなことしてるの、見たことないもん」「でもさ、あいつはいろいろ忘れ過ぎ!」という。
私が不思議に思い「ちょっと待って。**さんも稀にポカをすることがあるよね。たしか一昨年、健康診断の日時を忘れてて、「**さんはもう行った?」って私が話しかけたら驚いてたよね。**さんも、さっきお説教していたことを実践したら、度忘れを完全に撲滅できるんじゃないの?」というと、嫌な顔をされた。まあそうだろうな。
でもさ、それって後輩くんも同じなんじゃないだろうか。100の仕事があって97くらいは忘れずにこなしてきたのに、3つのミスの方ばっかり責められて、あれをしろ、これをしろ、って、堪らないよ。
「おいおい、3%も言い付けを忘れるなんて、社会人失格だろ」という人が、この記事の読者には多いかな? 頭がよすぎて、いろいろ見えてないんじゃないか。いま失業率が高くなったといっても5%でしょ。小中学校のクラスメートを思い出してみてよ。その若くて記憶力が衰える前の頭脳が、どの程度のものだったか、よく考えてみてほしい。
本当に重要なことなら、組織として問題解決に取り組んでシステム化するべきで、個人の努力で創意工夫して切り抜ければそれでいいことなんて、「所詮はその程度の話だ」ともいえる。
工場の場合、「忘れてました」で死亡事故になるから、全く頭を使わなくても事故だけは起こさないように安全設計をする。生産技術の人たちと一緒に仕事をすると、「本当の本当に100%を目指すと、こういう風に世界を組み立てていくんだな」と勉強になって面白い。(いずれ機会があれば、この日記でも紹介したい)
他人にあれこれ指図するときは、まず自分がやってみた方がいいと思う。たいてい、思いつきの「対策」は、そのメリットに対してあまりにも面倒くさすぎる。自分でやってみると、「これは無理だな」と気付くことが多い。……というこのアドバイス自体、実践はなかなか困難ですよね。
ま、イライラしたときは「他人に甘く、自分に厳しく」と3回唱えるといいですよ。自分の一番ダメなところを基準に考えてみる。そして、できる限り、無理・無茶をいわずに、状況をよい方向に転換できる方法はないか、もう一度、検討し直す。私がそういう余裕を持てる職場環境を作っている上司はスゴイな、と思う。
ギスギスした職場は嫌だ。「次にミスをするのは自分かもな」と思ったら、「ミスをフォローする体制作り」に目が向くのは自然なこと……のはずが、世間では意外とそうでもないみたい。なんでかなあ。素朴に怒ってる方がリーズナブルなのか?
年々、コタツを出すのも、片付けるのも、遅くなる傾向にあった。冬物のコートも同じ。正月までコートなしで通したのに、サクラが散ってもコートを着ていたりして。私は現状維持バイアスが強く、合理的な判断ができないということがよくわかる。
今年度は一念発起して、冬になると同時にコタツとコートを用意して、春になると同時に両方片付けてしまった。途中、やたら寒い雪の日があって、その日だけは、まだクリーニングに出さずにおいたコートを着たけれど、コタツは使わなかった。翌日には暖かくなるのだから、さっさと布団に入って眠ればいいのだ。
コタツを片付けられないのって、HDD録画しかしないのにDVDやBDにも録画できる機種を買ってしまうのに似ていると思う。「この先、寒い日があるかもしれない」そりゃ、あるかもしれないよ、でもさ、という。
あるいは、いったん上がった生活水準が下がるのは許せない、という感覚にも通じていると思う。「面倒くさい」という程度の理由でコタツを出すのを渋っていた頃は、一時的に寒くなっても「ちょっと我慢すればいいや」と思っていたのに、いったんコタツ生活に慣れてしまうと、「また寒くなったらどうしよう」と不安でたまらない。片付けた数日後に寒くなると、「あーっ、もうちょっと待てばよかった!」なんてね。
いつだったか、5月連休に実家へ帰ったら、まだコタツがあって、たまげたことがあった。千葉県でそれはないでしょ、と。「でも、ときどき肌寒いから……」と母。無論、1週間の滞在中、一度もコタツが必要になることはなく。帰りがけに、私がお節介で片付けた。
同じようなことばかり書いているので、いい加減、記事タイトルを考えるのにも飽きた。今後、「またか」という話には『memo:政治雑感』の題をつけることにする。
昨夏の総選挙の様子を鑑みるに、民主党政権は世論を読み違えているので、きっと失速すると思っていた。国民は民主党のマニフェストに書かれた「新たに行う政策」ではなく、自民党政権の「無駄な財政支出」を批判する姿勢を支持していたのだ。だから当初から「マニフェスト通りの政治をしなくてよい」という意見が多かった。そして秋の事業仕分けを大歓迎した。「政府は事業を減らせ」と国民はいっている。
報道各社の世論調査によると、鳩山由紀夫政権の支持率が4割を切って、不支持率が5割を突破したそうだ。自民党は「政治とカネ」の不祥事が相次いだことが原因と考えて、衆議院では延々、「どうでもいいこと」に時間を費やし続けた。与謝野馨さんの『堂々たる政治』は「与党を倒すのが野党の仕事」という中曽根康弘さんの言葉を紹介している。「政治とカネ」で与党を倒せないことは、社会党が実証してきたではないか。与党の不祥事を追及して自党の支持が増えるわけがない。2月には、与党幹部の証人喚問を求めて審議拒否までやった。私は唖然とした。
万年野党を真似したって、永遠に政権の奪還などできはしない。自民党は数合わせ的に連立に加えてもらうような政党になるつもりなのか。まだ政権を失って半年なので、追及がブーメランになりかねない要素は多い。それでも民主党政権の予算案には、攻めどころが多々あった。
子ども手当ては見送るべきだ。高速道路の新規建設は論外、高速道路会社の債務の早期完済を目指せ。高校授業料無料化はそもそも不要な政策であって、朝鮮学校を対象とするかどうかなど瑣末な問題である。……こうした主張を展開すれば、民主党政権に失望した有権者の耳目を集めることができたろう。
そうできなかったのは、民主党政権の新事業が、いずれも少数の強力な支持を集める政策だったからかもしれない。薄く広い不支持より、厚く狭い支持の方が重要だ……それは、3割、4割の支持で政権党になれる選挙の実情を知る政治家の肌に、染み付いている感覚なのだと思う。
しかし、小泉政権の成功も、民主党が実現した政権交代も、都市部のサイレント・マジョリティーの支持を得ることの重要性を指し示している。民主党はどうやら「撃てる弾を全部撃ったら、まぐれ当りをした」だけだったようだけれども、自民党はどうなのか。
景気対策は必要だ。少子化対策もやるべきだ。が、なるべく財政支出を伴わないやり方を模索しなければならない。国民が「官僚の天下り先」とみなす組織の大幅縮減と矛盾しない方策に知恵を絞らねばならない。
……となれば、景気対策は主として金融政策に委ね、財政は直接税と中心として所得税の累進を強化しビルトイン・スタビライザーによる景気循環の緩和にとどめることになろう。家族政策は、出産・育児休暇後の職場復帰保障、育児休暇の取得率目標値の達成などに強制性を持たせていく、保育所事業の規制を緩和して民間参入を増やす、といった施策が検討されよう。
与謝野馨さんの経済観や政策論には賛同できない点が多い。そういう意味では、読んでいてイライラが募る1冊なのだけれども、一人の政治家の自己紹介としては、かなり面白い。面倒くさいからやらないけど、ちょっと引用して紹介したいエピソードがたくさん入ってる。
とかく「政策通」をみなされがちな与謝野さんだけど、本人の自己認識は全くそうではないということがわかる。素朴な素人の実感で政策を語っているんだな。テレビ番組などで拝見したときの印象と重ね合わせると、無意識の挙措で「頭がよさそう」という印象を周囲に与えてしまうタイプらしい。本当は受け売りの話でも、自分の言葉で語っているように聞こえる。それが与謝野さんにとって損なのか得なのかは、よくわからない。
Amazonのレビューではまず星の数で5段階の評価をする。悩むな、こういう本は。評価基準によって、星の数は全然違ってくると思う。で、結局、私はレビューしていない。
「「政府は事業を減らせ」と国民はいっている。」俺の将来負担を増やすなと言っているのだと思うが。
BUNTENさんはこの日記をずっと読んでいるのに、私の書いているのは「そういう意味」だと読み取ってはくれないのか。最近も「不安」を刺激しない政策が求められる時代(2010-03-08)とか内閣支持率の維持に必要なこと(2010-03-09)なんて記事を書いたばかりだ。
「「俺の将来負担を増やすな」と国民はいっている。」と書いた方がわかりやすい、あるいは、そう書かないと誤解されかねない、ということなら納得できる。なのにどうして、「考え足らず」や「勘違い」を指摘するような言い方をするんだろう。常連読者でさえ、つい先週に書いた記事と関連付けて文章を好意的に補って解釈してくれることはない。何というか、空しい気分だ。
どんな政策も、やめるとなると、ノイジー・マイノリティが大騒ぎする。民主党政権の「事業仕分け」は、その抵抗を叩き潰す世論のうねりを顕在化させたところに大きな意味があった。「へぇ、世間の注目さえ集めれば、予算を削った方が票になるのか」と。
これで国会の審議も面白くなるかと期待したのだが、サッパリだ。政権も民主党も支持を落として、「支持政党なし」が急伸している。
選挙というのは、所詮、出馬した候補の誰かが当選するものだから、「どの政党もダメだ」が国民の気持ちでも、結果として民主党が勝ったり、自民党が勝ったりしてしまう。そうして政治不信が募っていく。「衆愚政治」を恐れることも重要だろうが、何回選挙をしても政治に民意が反映されないことこそ、眼前にある民主主義の危機だ。
歴史的な知見から、真に国民のためになる政策と世間知の不整合が指摘される金融政策の分野は、あえて選挙から距離を置く仕組みになっている。しかし政治が全面的に国民の意志と遊離していいはずがない。国民が判断を誤ったら、その痛みをフィードバックして、新しい判断を促すのが基本線であるべきだ。
官主導で法人や団体を作って実施する事業を片っ端から整理して財政赤字を減らせ、と国民はいっている。政治家は、各論に反対する少数の(しかし大きな)声に屈せず、愚直にやりぬいてほしい。不景気に緊縮財政では、よい結果は望めまい。が、それでもやるべきだ。代理人が主権者を騙し続けても、未来はないと思う。
前日銀総裁の福井俊彦さんが就任当初にスルスルと当座預金残高を積み上げ、結果的に巨額の為替介入が非不胎化され金融緩和による景気の下支えが実現された(注:この解釈を私は支持する)ように、日銀が豹変して、最低限の水準であれ、景気の下支えをしてくれないとも限らない。
そんな神頼みではダメだというなら、国民を説得する努力を、もっとするべきだ。国会に国民の声を代表する政党がないから、論戦がつまらない。「高校授業料の無料化それ自体には賛成」してしまい、朝鮮学校の扱いに焦点を当てる現在の国会は、「新聞の社説レベルで政治をやる間違い」(与謝野馨『堂々たる政治』より)に陥っている。
何が「政治の責任」だ。「地獄」を回避して「最悪」を実現しました、という水準だから国民が怒るんだろう。結果で納得させられないなら、エージェントとして仕事をしてくれた方がいいよ。
民主主義は悲惨な戦争さえ招く。しかし、戦争を止められるのも民主主義だ。第二次世界大戦の際、独裁者が支配したドイツは、全土を蹂躙されヒトラー総統が自害するまで戦争を継続してしまった。
またぞろ、消費税増税で財政再建という話題が、報道を騒がせています。
以前も書いたことですが、所得税の累進緩和で「有能な人がやる気をなくす」という意見は、現在の所得格差が「ふつうの人のやる気を削いでいる」問題を見落としているのではないか。評論家層は、例えば「2:8の法則」の例えで自分を優秀な2割の方に分類する人々が多く、8割の側の気持ちがわかってないと思う。
バブル崩壊後、累進緩和が進みました。それで本当に「有能な人々のやる気」が増したのかどうか、まず検証してほしい。8割の側の不満の声はハッキリ出てきているわけで、エリートが仲間内で「異議なーし」と唱和して「累進強化が経済成長の足を引っ張るのは自明」といって何の証拠も示さないまま持論を押し通すのは、許せない。
だいたい、大多数のエリートは、どうせ国内に残るでしょ。発展途上国だって、そうじゃない。先進国で起業した方が儲かるに決まっているのに、母国で起業する人が大半。人間それほど、個人が独立で生きてはいないということだと思う。家族や友人を捨てるのも、土地から引き剥がすのも、つらいことなんでしょう。
あるいは、日本で生まれ育った人のビジネスのアイデアは、いきなり海外へ持っていっても成功率が低いのかもしれない。少なくとも、当人がそう予想する、という傾向はあるのかもね。
私の勤務先は社内で所得の再分配をしていて、40歳前後の課長と定年間際の一般社員の給料が同等。部長とだって10万円くらいしか違わなかったと思う。それで部課長がどんどん他社に移っていくかというと、そうはなっていない。逆に大企業のかなり高位の立場を捨てて中途入社してくる人が、毎年いる。
むしろ辞めていくのは、管理職ではない(課長代理以下の)20代、30代の社員たち。でもそれは私の勤務先に限ったことではなくて、どこでも若い社員は会社を移りやすい。同業他社と比較して、特段の傾向はない。
しかし再分配が一般社員のやる気を保持できていないじゃないか、って? 一応はそうなのですが、このところ会社の業績がいまひとつで、「年功序列の果実を得られるまで会社が存続するかどうか?」という不安の影響が、かなり大きい。完全歩合制賃金を希望する人には出会ったことがなく、つまりは再分配自体の否定ではないのです。勤続年数による傾斜分配を批判して、同一労働同一賃金を志向しているのです。
「でも、毎年、給料が増える方がやる気出るんじゃない?」
「かもしれないけど、いま会社を移れば給料が5割も増えるんだよ。昇給の約10数年分。これは釣られるでしょ」
「長く働けそうな会社なの?」
「それはわからないけどさ、このまま残っても会社がなくなってしまいそうじゃん」
「そう……。ぼくはここが好きだから、絶対に存続させたいんだけど」
「嫌いじゃないけど、そこまでの思い入れはないな。会社は会社、自分は自分。ここは個人としてのステップアップを優先させた方が、絶対に得だと思う。ただ待つなんて、耐えられない」
私はいまの勤務先について、「かなり理想的な職場です」と繰り返し書いてきました。労働者の権利がきちんと守られていて、健康を害するような長時間労働、希望に反する異動・勤務地変更はない。失敗した人を怒鳴りつけるような社員が(ほぼ)いない。一般社員が荷物を運んでいれば、社長が廊下を譲る、そんな会社。
それでも、毎年、辞めていく人がいます。ただし同業他社と比較しても特段の差異はなく、「若い社員ほど出入りが激しい」という一般的な傾向の範囲内のようです。逆にいえば、「こんなにいい会社でも、とくに若い人を引き止める力がない」わけです。
先月、6人しかいない私の所属部署から1人が辞めるということを知って、驚きました。市役所職員に転職されるのだという。私の前年に入社された方で、
といった理由で転職を決めたそう。2番目の理由を補足すると、同僚氏は自分を「平凡なサラリーマン」と認識しており、奥さんの「希少な仕事」を優先するべき、と考えています。だから東京から栃木への職場移動にはついていかず、部署を移って東京本社で働き続けるつもりでした。もちろん、私の勤務先はそれが許される会社なんだけれども、そもそも勤務地変更の打診がなければ、それを断る心労もないわけです。
私にとっても、理由1は切実です。けれども、私には理由2と理由3はない。私の社外の知人の多くは、零細企業の社員、派遣、フリーター。だから主観的に私の年収は「かなりよい方」。それに、過去のあちこちでのアルバイト体験から推察するに、現在の職場ほど居心地のいいところは滅多にないと断言できます。だから、会社の存続のため、可能な限りの努力をしたい。
職場の誰が既婚者なのか、みんなちゃんと把握していないというくらい、お互いプライベートに踏み込まず、それでいて「家族の急病」などには優しい。こんな人たちが集まっている会社に、再び運よく巡り合うことができるとは、とても思えない。
でも、「この会社では俺の能力を十分に伸ばせない」「給料が少な過ぎる」などといって、同期や同僚はポコポコ抜けていきました。研究や開発の部署にいたから、客観的に能力の高い人が多かったという事情もあるとは思う。しかしその後、みんな幸せにやっているのでしょうか。給料が安くても残っていればよかった、と後悔していないか。
これまでに転職された方とは「それっきり」になっているのだけれども、今度お辞めになる同僚氏とは、今後も交流が続きそう。1年後、2年後にまたお話を伺いたいと思う。
今年度、私の勤務先は史上最悪の赤字決算になるため、職場親睦費は例年の半額となった。1人当たり1万円。とすると今年度の慰労会の場所は、「ふだんは絶対にいけないお店」ではなく、「ちょっと手が出ないお店」が適当だ。
毎年、お店選びは幹事が頭を悩ます問題だ。今年の幹事は私なので、「鮟鱇鍋はどうだろう?」なんて考えていた。ところが、数人にリサーチしたところ、どうもイメージがわかないらしい。「別に、それでもいいよ」というのだけれど、やはり事前に「食べたい!」と気分が高揚しないと盛り上がらない。
2月になって、課内の1人が職場を辞めて市役所職員に転じるという発表があった。これ幸いと、慰労会を送別会と兼ねることにして、その方の希望で決めることにした。
結果、行き先は『叙々苑』と決まった。概ね好評。家族持ちの方は「食べ放題」の焼肉店に親しんでいて、高級な焼肉店に憧れがあるらしい。私なんかは、焼肉店自体に行くことがないから、じつはあまりピンとこないのだけれど。ともかく、日常生活の中でその一端を知る機会のあるジャンルが人気、ということのようだ。
数年前には2万円の予算で繰り出して6千円ほど余り、自腹で少し足して7000円の商品券をもらって親睦費を使い切った。今年は予算が1万円なので大丈夫か? との声があったが、電話でお店に問い合わせたところ「十分でしょう」とのこと。『特選』という種類の肉を注文しなければいいらしい。
そして当日。じつは過去2回(商品券を消費すべく再訪した)の叙々苑では、肉の注文が多くてバランスが悪かった、という反省があった。そこで、肉類の注文はみなさんに任せて、幹事の私はサラダ、ライス、スープ、冷麺などを適当に注文していくことを意識した。とりあえず、自分自身では納得のいく食事になった。
『特選』はダメですよ、というルールをみなさんが守ってくれたおかげで、「もう満腹で食べられません」というタイミングで会計をお願いしたところ、58,740円だった。電話の通り、ピッタリ1人1万円なので、驚いてしまった。本来なら幹事がいちいち計算しておくべきなんだけど、私は注文開始5分で匙を投げていた。
最後にデザートを注文するかどうかという話があって。杏仁豆腐やシャーベットを注文しようとしていた私たちは、「アイスがサービスされます」という店員の説明に、グラッと心が揺れた。そこで「注文しましょ」と即決した私に、「本当にいいの?」という視線が集まった。後から思えば、そこが勝負の分かれ目。
いやまあ、会社が赤字なんだから、安く済ませて残額を返金すればいいわけなんだけど、何となくみんな「我慢せずに満腹になるまで食べて、しかも貰えるお金は使い切ろうぜ」っぽい使命感を帯びて臨んでいたわけで、微妙に300円徴収とか、逆に1人1000円以上余るとか、興醒めな結果にならなくて本当によかった。
こうして私は、何もしていないのに「名幹事!」とかおだてられ、気持ちよく次の人にバトンを渡すことができた。
職場親睦費が1人1万円出るので、6人で予算6万円。今年度の行き先は『叙々苑』と決まった。
結果、みな話したいだけ話し、満腹になるまで食べ、飲みたいだけ飲んで、58,740円也。誰も個々の注文の小計をとっていなかったので、「奇跡だ!」と大盛り上がり。
1人の送別会を兼ねた慰労会で、「寂しくなっちゃうね」「これから大丈夫かな……」なんて雰囲気もあったのだけれど、きれいにまとまってよかった。
「**だったら買うのに」という意見を素直に聞いても、あまり結果は芳しくないことが多いもの。
はてブの反応は山本一郎さんに概ね同調しており、「表紙の大きな写真が購買意欲を下げる」という認識が共有されているらしい。
しかし勝間さんの本は、主にファンの方々によく売れているはずなので、パッと見て「あっ、勝間さんの本だ!」とよくわかるようにした方が売れるのは、間違いないと思う。どんな本も国民の95%は買わない。勝間本の表紙を貶している人の大半は、どんな表紙だろうと勝間本を買わないに違いない。
勝間さんは自著へのひどいレビュー(実際の内容と全く異なる妄想で中傷するレビュー、本と無関係の著者攻撃、など)を放置する方針なんだけれども、私は、それはよくないことだと思っている。しかも、やるだけやって諦めたらともかく、最初から「賑やかでよい」という姿勢なんだもの。
おかげで、勝間さんが関わっている本にまずまず好意的なレビューを書くと、もうそれだけで「参考にならなかった」票がポンポン入る。「参考になった」票が入るたび、一昼夜で対抗票が入る。私の他の本のレビューと比較して、勝間本のレビューだけそんなにひどいという理由があるなら、誰か説明してほしい。
これは以前、2chで話題になっていた福島瑞穂さんの著書のレビューを書いたときも同じだった。ネガティブキャンペーンを管理しなかったらレビューの存在意義は相当に毀損されてしまうのに、それを放置している Amazon にまず苛立つ。そして同時に、著者がそれをよしとしているのもやるせない。
もっとも、『ドラゴンクエストIX』の先例を見ても、レビューがどうあれ売れる商品は売れる。ネガキャンしたい人々をレビューの放置でガス抜きできるならリーズナブル、という判断は合理的かもしれない。
ふつうにレビューしたい人が逃げてしまうのはもったいない……とはいえ、Amazon にレビューするような読者はきわめて少数だから、彼らのレビュー意欲を削ぐようなレビュー環境を放置しても、多くの読者はとくに不満にも思わないだろう。好意的な評を書きたい読者は、Amazon を諦めて、twitterやブログを選択すればいいのかもしれない。
Amazon にたくさんレビューを投稿している珍しいタイプの人間としては、残念な話だ。
ひどいレビューを削除すればネガキャンは沈静化するのか? という問題は、たしかにある。小さな火種はそれで消せる(実例をいくつか見てきた)が、勝間さんクラスになると難しいかもね。
最後に付記するけれども、勝間本の場合、誹謗中傷とは一線を画した批判的なレビューがいくつもなされている。それを「ひどい」といっているわけじゃないので注意してほしい。
知人が『みんなの党』の党員になった。その際の事務局とのやり取りが面白かったので、許可を得て転載。
「たった2000円のカンパ」のつもりで入党を希望します。ただし、3つの質問をさせてください。とくに回答を希望してはいません。無回答なら消極的肯定と判断いたします。でも、「絶対にダメ」なら、今のうちに教えてください。後から文句をいわれたくはないです。
1.年会費を払う以上のことをするつもりは全くない(選挙ポスターを貼る手伝いなどはしたくない)のですが、それでもいいですか?
2.民主党の代表選で1票を投じたいというだけの理由で民主党員になったこともあるのですが、そういう軽い気持ちでもいいですか?
3.将来、人間関係のしがらみなどで、他の党と掛け持ちになってもいいですか?
***様
お世話になります。
みんなの党本部事務局です。
この度は入党手続きを頂きありがとうございました。
お問合せの件ですが、3点とも問題ございません。
今後ともご指導ご鞭撻宜しくお願い致します。
みんなの党本部事務局
これ、もともとは私が「21世紀の日本で“みんな”の党であろうとすれば、かなーり緩くないとダメだよね。入党する際に、確認の質問はしておいた方がいいよ」と話した内容。「ちょっとハードル高め」のつもりが、あっさり。党費を送金すると、すぐ返信がきたそう。
なんていうか、今日、みんなの党を支持したことで、明日の自分を縛りたくない。自由に判断できるのが有権者の特権でしょ。それを手放したくない。そういう人、多いんじゃないだろうか。でも、「企業献金は問題の温床。かといって、税金で政党を養うのもどうかと思う」といったら、個人献金をするしかない。けどなあ……というジレンマがある。
私の勘違いかもしれないけど、私と同世代の30歳前後の層には、「政党」について「よくわかんないけど、怖い」「秘密結社の親戚、みたいな?」というイメージがあると思う。だから、
というのは、ホッとしたというか。あー、こういうのが「ふつう」になっていくなら、「宗教じみた政党以外はみんな資金不足で滅びちゃう未来」は見ずに済むかな、と。もちろん、これだけ敷居が下がってもなお、9割超の有権者にとっては、今後も入党なんて「考えたこともない」って話であり続けるとは思いますが。
さっき調べてみたら、党員の紹介を入党要件にしている自民党も、知人がいなければまず支部に電話してね、ということになってた。以前からそれはそうだったんだろうけど、いまは目立つところにそう書いてある。へー、という感じ。まあ、そうはいっても敷居は高いかな。
民主党の入党案内を見ても、掛け持ちOKとは書いてないな。ダメだとも書いてないけど。問い合わせがあったら答える、という感じなのかな、どこでも。
こちらは主要政党の年会費などのまとめ記事。
みんなの党には一般会員(年会費2,000円)とネット会員(年会費1,000円)があって、一般会員は「希望者にメルマガ配信」なんだけど、ネット会員は「メルマガ配信」となっている。個人的にはこれ、ちょっと面白いと思う。
「充実した学生時代」を過ごすのって、たいへんなんだな。ま、こういうのを読んで劣等感を持っても得することはない。「ご苦労様です」と祭り上げておけばよいと思う……のだが、私なんかでも「先輩として何か一言」なんて話を振られた経験はあって。無碍に断れないから、こんな話をしたと思う。
「留年」のコストを意識すれば、たいていのことがうまく回っていく。「失業」不安が多くの不真面目な人をそこそこちゃんと働く社会人に変身させたり、「中退」を忌避することで高校生活を自分で律していくことが可能になったりするのと同じ。多くの日本人は危機感駆動型なので、自分に上手に負荷をかけるとよい。
「留年したくない」と思えば、自ずと勉強や研究に意識が向く。「試験? ギリギリ通過でOKじゃん」なんて危険を冒す考え方とは、距離を置くことになるだろう。
留年すると、年収1年分などが消え、生涯収入が減る。これが大きい。入社1年目の収入はバカにできない。生活費は留年しなくたって必要になる出費だが、就職すれば住宅手当がつく。さらに「入社が1年早い=出世も1年早い」と仮定すると、定年は決まっているのだから、最も給料が高い1年分の収入が消えることに気付く。年金の支払い免除期間が伸びれば、将来の受取額が減る。現在割引価値で考えても小さな額ではない。
もちろん、収入が減るだけではなく、出費も増えることになる。まず授業料。私大なら80〜200万円くらいにはなる。同じ科目なのに教科書の指定が変わって買い直しになったり、といったロスも地味に痛い。一人暮らしなら家賃の負担もある。
その他、就職活動で留年をプラスに転化するのは容易ではない。面接のポイントが少なくともひとつ明確になるという意味では、「対策しやすくなっていい」といえなくもないが。それでも生涯年収の期待値が2%程度は減るかも、という算段は成り立つのではないか。
以上の話を逆に読むと、学歴が利益につながらない世界へ進むなら、大学で時間を無駄にしない方がいい。早く仕事を始めた方が、生涯収入は増えることになる。
ともあれ「留年」は、もしその理由が単なる怠惰だとすれば、相当にコストが高い。しかしその多くが「生涯収入の減少」によるものなので、「ま、いいか」となりやすい。もったいない話だ。人生は長いが、しかし1年は1年だし、500万円は500万円である。
まじめにお勉強してる学生は就職に有利である、という「当たり前」のことが、きちんと書かれている本。個別の採用担当者にはいろいろな考え方があるだろうけれども、傾向としては、遊び呆けていた学生より、まじめに授業に出て、研究に打ち込んでいた学生の方が人気があることは間違いないと思う。
留年のコストを出費の方だけで見積もって「これならトントン」と判断して実行してしまった人は、就職活動の面接で話す予定の言い訳を見直した方がいい。留年を正当化するなら500万円分のコストを説明できているかどうか、「反省してます」なら状況認識の度合は適当かどうか、ぜひ再検討してほしい。
……なんて書いてみても、これを読む人の大半は高校生でも大学生でもないだろうし。ていうか、そもそも「充実した学生生活」なんて、どうせ大半の人には無理な話なんだ。できもしないことを目指して、当たり前のように失敗して、自己嫌悪に陥って。それで人生、楽しい? ハイ、といえる人はご自由に。私は降りる。
留年だって、したっていいんじゃないの。500万円くらいの損、どうってことないよ。現に大勢が留年してるわけでさ。それで人生が終るわけじゃない。だから本当の本当にひとつだけ、敢えていうなら、
これだね。意外と、死んじゃうんだよ。一番、身体が丈夫な時期のはずなのにさ。父の友人は、山で亡くなった。先輩の知人は、酒で亡くなった。祖父の弟は、南方戦線で散った。みんな、死にたくて山に行ったわけでも、酒を飲んだわけでも、出征したわけでもない。それなのに、二十歳前後で命を絶たれた。
誤解を恐れずに書けば、「いま自分は生きている」。何を気をつけてきたわけでもない。運がよかっただけ。そして、馬齢を重ねてさ、「俺がアドバイス? 無理だよ、そんなの」って困った顔をしながら新入生にお説教をする。小さな幸せ、だよね。
あ、ちなみに、【4.】は社員寮自治会主催の新入社員歓迎会に呼ばれたときに私が話してきたことの一部改変バージョン。私にお鉢が回ってくるのはいつも二次会なので、まあこれでいいと思う。立派なことは他の人が散々話してくれているし、1分もスピーチすれば長すぎるくらいでしょ。
3月2日、連立与党の来年度予算案が衆院本会議を通過し、年度内成立が確定した。一般会計総額92.3兆円、税収を国債の発行額が上回る計画。世論はこの予算案を支持しなかった。鳩山由紀夫内閣の支持率はガックリ落ち込み、とうとう不支持率が上回った。
安倍晋三内閣以降、これで4代続けて同じような展開が続いている。最初は一定の期待を集めるものの、半年前後ですっかり人気を失くす。その間、参院選、衆院選が1回ずつあったが、「民意」は政治家に伝わらなかったようだ。
すなふきんさんの疑問は、菅原琢『世論の曲解』を読めば氷解すると思う。
菅原さんは自民党の敗因にフォーカスしており、「有権者がどのような政策を期待しているのか」について歯切れの良い説明をしていない。けれども、求める答えは自民党が支持を失った理由から類推できて、それは即ち「構造改革」と「財政再建」である。
ここでいう「構造改革」とはイメージ語であって、小泉純一郎政権では「不良債権処理」が「構造改革」最大の成功例という説明だった。
また「財政再建」は、「今後10年以内に税収が支出を上回るようにする」というくらいの急戦論を指す。
「青い鳥」は明確だ。財政を緊縮的に運営して、そのために必要な「改革」は何でもやっていくことだ。これには小泉政権の前半という前例がある。国民は新政権を熱狂的に迎えた。だがしかし、不況が深刻化するにつれ、支持率は次第に下がっていった。「青い鳥」政策を愚直に推進しても、未来はない。
小泉政権の後半は、「りそな銀行救済」「テイラー・溝口介入+量的緩和」といった金融政策で景気を持ち直し、支持率の低下を食い止めた。世論はこれらの金融政策に不満顔だったが、結果として生じた「不良債権処理」や、税収の持ち直しによる「プライマリー・バランス黒字化」の計画策定を好感したようだ。
そこそこ高い支持率を保った小泉政権の歩みを振り返るに、国民の期待に応える現実的な政権運営の道筋は明確なように思われる。具体的には、
以上の3項目だ。鳩山政権が「コンクリートから人へ」をテーマに予算編成をするのはよいが、予算の総額を増やさないための努力・工夫がもっと必要だった。財政による景気刺激に色気を出してはいけなかった。
衆議院で、最大野党の自民党は何をしていたのか。与党政治家の不祥事の追及に注力し、ついには審議拒否に至ったわけだ。的が外れている。先の政権党であり、前政権の麻生太郎内閣が財政刺激を志向したので、批判が難しかったのはわかる。しかしここで「自民党は変わった!」と宣言せずに政権奪還が可能だろうか。
予算案の「バラまき」を批判し続けた舛添要一参議院議員が「首相にふさわしい人物」として人気を集め、また政党別支持率でみんなの党の人気が高まったのは当然の話だと思う。とはいえ、有権者は冒険を避ける。新しい政党、小政党が、政策への共感だけで突然に大勢力を形成するとは考えにくい。
財政タカ派の与謝野馨さんが、大きな経済の落ち込みに直面して財政支出による景気刺激を企図した予算を組んだことは記憶に新しい。民主党も選挙前に主張した緊縮財政の逆をやってみせた。有権者が「政策」より「安心感」で投票先を選ぶのは道理だし、実際、みんなの党だっていざとなれば豹変するだろう。
いま「国民に支持される政策」を何が何でもやり抜く力のある政治家は見当たらない。人々の政治への不満は、当面、解消されないのではないか。
私は「有権者の多数派が支持する政策は正しい」とは考えていない。しかし失政ストッパーとして民主主義は必要であり、世論を無視した政治はありえない。小泉政権は、予算自体を減らさず、増税をせず、金融政策を(不十分なりとはいえ)頑張った。無茶をいう世論との付き合い方がうまかった。
少しわからないことがある。マスコミでは政治家の指導力指導力とうるさいが、「指導力」っていったい何なんだろうと最近思う。マスコミがイメージする指導力とはただ単に人気が高い政治家とかそんな感じだが、それがどう指導力と結びつくのかさっぱりわからない。
これは簡単な話。ようするに、いま国民は「政治の世界では国民の求める政策が実現されていない」と認識しているわけ。
マスコミも商売なので、消費者の見解を代弁しようと頑張っていると判断するのが妥当。ネット世論との意識のズレは、読者層、CMの対象層とネットで発言する層のズレによる。ネットで政治・経済に関心を持って発言している人はテレビニュースの視聴者より断然少ないので、ブロゴスフィアの多数意見の方が偏っている。
そういうわけだから、「指導力のある政治家」が「人気のある政治家」なのは当たり前の話だ。にもかかわらず、政治家が「指導力を発揮する」ことが難しいのは、世論の求める政策に賛成しない政治家が多いからだ。
どうして投票で選ばれたはずの政治家の少なからずが、世論を代弁しないのか。それは有権者自身が政策より政党・候補者への信頼感を重視して投票しているからだろう。つまり究極的には、有権者は政策を政治家の専門知に委ねている。だから有権者の怒りは、ある程度、抽象化して理解した方がよいのではないだろうか。
「政治や経済の詳しいことは、自分にはわからない。わからないが、方向性が間違っていないか?」と。端的には、将来への不安が増大するとき、有権者は政治家を批判する。
だいたい、この3つが大きな不安だと思う。まず大抵の政策は財政支出を伴うので、財政不安に結びつく。お金の流れがよく見える政策は、叩かれやすい。少子化対策の必要性は共有されているが、子ども手当てはダメで、仕事と子育ての両立を支援するさまざまな(個別の必要経費がよくわからない)施策が人気を集める。雇用対策も同じで、公共事業はNGで、有給休暇取得の義務化などが支持される。
おそらく、とくに財政支出に関して、政治家の「専門知」と国民の「不安」がぶつかりやすいのだと思う。政治家は、すぐに予算を増やす政策を口にする。それで助かるのは一部の人で、大多数は財政不安を募らせる。定額給付金への反発は、「不要」な給付の利益より、財政悪化の不安が勝った結果だ。それでもみんなが受け取ったのは、「どうせ政治家が浪費するなら自分でつかう方がマシ」と判断したためと考えれば納得がいく。
道路公団の民営化をはじめ、小泉純一郎政権の「官から民へ」が支持されたのは、それが「財政不安を解消する方向の政策」だと国民の目には映ったからだ、と私は考えている。
とはいえ、国民が飛びつく個々の施策を実施すること自体は、あまり意味がないと思う。小泉政権は、りそな救済や量的緩和をはじめ、とくに国民の支持のない政策をいろいろやった。そうして景気が底を脱したら、「不良債権処理を頑張った。エライ」なんて評価された。それは結果として実現できたことなんだけど……という反論はせず、素直に政権が進めてきた「構造改革」の成果として、誇ってみせた。
ともかく国民は、膠着状態や悪い雰囲気を突き抜けて、将来不安を縮減してほしいわけだ。しかし最終的に不安を解消できる政策も、短期的に不安をガツンと増大するのでは、国民の強烈な反発を喰らう。小泉さんは、世論の不安を刺激しない政策を選ぶ眼を持っていた。それで従来型の政策を打ち出す議員と喧嘩になった。
年金の持続可能性を上げる施策にせよ、雇用の確保にせよ、それ自体は誰もが賛成すること。小泉さんは結局、個別具体的な政策において「古い政策論」と戦っていたのではないか。そして国民は小泉さんを支持した。「不安」に支配された時代には、「不安」と折り合いをつけた政策が必要とされている。
「孤独死は怖い! でもルームシェアはもっと嫌!」な日本人(2010-02-03)にも書いたとおり、私は、孤独死なんてのは本人の自由な選択の結果という側面が一番大きいと考えている。
そりゃもちろん、満足はしていない人が多いのでしょうよ。「もっと子どもが親孝行だったらなあ」「嫁や婿が自分を苛立たせないキャラクターだったらなあ」「結婚したかった」「こんなに貧しくなかったら……」「全部、酒のせい。俺は悪くない」とか何とか、言い分はいろいろあると思う。
それでも、「孤独死こそが最悪であり、その回避は人生の最優先事項なのである」とすれば、「ルームシェアすればいいじゃない」で終了。その簡単な解決策を実施できないのは、もっと他に大切にしていることがあるからであって、ようするに「そういう水準」ではあるものの、自らの意思で孤独死を選択しているのだ。
私も夢見て来た個人の自由を追い求めた一つの結果が「無縁死」「行旅死亡人」だとすると考えさせられた。
現に孤独死を恐れる人が世間にたくさんいる以上、有効な対策があれば実施すべきだが、この手の「人々が自由な選択を行った結果、生じた問題」は、解決が非常に難しい。ああすればいい、こうすればいい、という解決策はすぐに出せるが、「いくら孤独死が怖いといっても、それは嫌です」ということになる。
アパートの隣の部屋の住人の顔も知らない都会の寂しさ、なんてことがいわれるけれども、「隣近所の人にプライベートへ踏み込まれたくない」というお互いの気持ちが核にあるのだから、基本的には解決不能。こっちは近所のことを把握しておきたいけれど、自分の情報を開示するのは絶対に嫌だからね! 論理エラー。
それでも。金持ちの場合、(スタッフの水準や入所者の階層などについて)自分の納得できる老人ホームを選択する、という形で孤独死を避けることができる。だから貧乏な老人でも入れる老人ホームを……と、上の水準に全員を引き上げようとすると、お金が足りない。そんな「過剰な福祉」に税金を湯水のごとく使われてたまるか、と喧嘩になる。
では行政にできることは何もないか、というと、意外とそうでもなさそう。現在、自由の結果貧乏人がルームシェアを募っても、おそらく応募者がいない。老人ホームという概念は普及したが、長屋という概念は、逆に滅びてしまった。しかし、親子同居が減少し、生涯未婚率が上昇、離婚も増加したいまこそ、シェアハウスやルームシェアという概念を世に広報していくべき時期ではないだろうか。
概念の広報と同時に、環境整備も行う必要がある。「事故物件にしたくないから、死にそうな老人はお断り」という不動産業者を規制・指導し、そもそも「事故物件」などという不合理な概念の撲滅キャンペーンを張っていくことだ。
逆に行政が関わることの不安は、老人向けシェアハウスに、補助金と引き換えに、やたら規制をかけてしまいそうなこと。バリアフリーでなければならない、とか何とか。シェアハウスと老人ホームの違いは、管理者をおかず、各々が自己責任で生活を営むこと。設備の水準と価格の兼ね合いは市場に任せるべきだ。
昔から文通だけの縁というペンフレンドなんてのがあった。
通ってる病院に先日行ったら「予約システム稼働開始しました!」みたいなビラが配られていた。
ようやくネットで予約できるようになったのかと思って見てみたら、電話をかけて「日時を入力してください ピッ」みたいに流れてくる音声に従って入力するシステムだった。今時それはないわ。そうまでしてネットを使いたくないのか。
この記事は、「お年寄りがネットを使えない」から病院の予約が電話を利用した仕組みになるのだ、と説明する。私は、これは単純に「使える」「使えない」という話ではないように思う。
「あるある」「それはないわ」……いろいろな感想があると思う。ともかく、お年寄りがどうこうといわず、「まず自分がどれくらいネットを活用しているか」を考えてみてほしい。携帯電話を使いこなしている私の弟でさえ、プレゼント選びは全くの行き当たりばったりだった。「どうしてそこでネットを使わない?」と、自分に問いかけてみてほしい。
ひとつの仮説として。私は「不確実」を忌避しているのではないか。実際には記憶ほど当てにならないものもないのだが、いざというときほど、記憶に頼る。それで、喘息に苦しむ私は、耳鼻科の広告板のところへ行った。そこには絶対、耳鼻科の場所が記載されているはずだ。病院の定休日も、ネット上に情報があるかどうか、あったとしてそれが正しいかどうか、わかったものではない。病院の入り口の看板なら、確実だ。
あるいは、私は「決断をギリギリまで先延ばしにしたい」と考えているのではないか。映画のチケットを予約したら、その日の行動は、予め定まってしまう。それで何の問題がある? ないよ、ないんだけど、フリーハンドを維持すること、それ自体に私は価値を感じているのではないか。流動性選好と相似。ほしい本をAmazonで買わないのは、無意識の迷いがあるケースなのではないか。商品を手に取って最終判断をしたい、と。
後はもう単純に、「事前調査」のコストが、そのメリットに見合わないケース。「ひどい店に入っちゃった。先に評判を確かめておくんだった……」と思っているのだけれど、無意識の情動まで加味したとき、じつは「グチグチいって、後で調べてお店の悪評判を眺めるのが、かなり楽しい」のかもしれない。そうであれば、無策で突っ込んで成功したら文句ないし、失敗しても総合的に見て不都合はないことになる。
歯科医は基本的に予約制なんだけど、私は「何時間でも待つ」といって、予約しないで行くことがある(あった)。病院の待合室では、目移りする要素がないから、読書がスイスイ進む。これが嬉しい。そもそも「予約」という仕組み自体に魅力を感じない、ということも十分に考えられるわけ。
リンク先の記事の筆者は、病院をネットで予約したいらしい。そういうこともあるとは思う。でも、電話を使った仕組みにガッカリする理由が、私にはよくわからない。
私が連想するのは、宅配便の再配達依頼。不在連絡票には、「ドライバーに電話」「集配所に電話」「電話の自動応答システムで依頼」「ウェブサイトで依頼」という4種類くらいの依頼方法が書かれている。電話受付が可能な時間帯なら、私は必ず「ドライバーに電話」を選択する。帰宅が遅くなった場合は、24時間受付の「電話の自動応答システムで依頼」をする。「ウェブサイトで依頼」したことは、一度しかない。
予定表との連携とか、繰り返し作業の自動化とか、そういったことを考えなければ、やっぱり電話が簡単でいい。最初に電話番号を入力した後は、自動音声にしたがって数字キーをピコピコやるだけで予約を完了できる簡便さは、ネット予約にはないと思う。
行政の電子申請システムがほとんど利用されないという問題がたびたび報じられるのだけれど、「稀にしか書かない書類」が電子化されても、正直、メリットを感じない。窓口で人に相談しながら空欄を埋めていく方がいい。
「えっと、ここに苗字ですよね」
「はい」
「ふりがなは、えーと」
「ひらがなでお願いします」
「はいはい」うん、たしかに「ふりがな」と書かれている。
「住所は東京都から?」
「はい、都道府県からよろしくお願い致します」
「んー、丁目は略して、1の46の、と書いてもいいですか」
「丁目は入れていただけると助かります」
「了解しました」
この例はちょっと極端かもしれないけれど、慣れない書類を書くときって、細かいところが妙に気になるじゃないですか。
ネット予約は、電話よりビジュアルに優れた面はあると思う。最初から「もう無理」な時間帯が表示されていれば、希望時間帯を入力してから「混雑しています。他の時間帯を指定してください」と返されてガッカリせずにすむ。それでも、電話方式のシンプルさは、過半の予約システム利用者にとって有意義だと思う。
同じようなことばかり書いているので、いい加減、記事タイトルを考えるのにも飽きた。今後、「またか」という話には『memo:経済雑感』の題をつけることにする。
景気対策としての「一過性の支出」によってハイパーインフレが起きるだろうか。
それはそれとして、私も「日銀の国債引受」で財源を作って財政政策を実行することには賛成できない。金融緩和が目的ならば、物価の様子を見て機動的に「止める」ことができる方がよい。財政政策だと、そういうことができない。
だから、政府貨幣で国債を償還していく方がいい、と私は思っている。いい加減、しつこいけど。国債を償還するか、借款債を発行するかは、短期間の検討でしがらみなく決定できることなので、物価をモニターして適当なところでスパッと止めることが可能だ。
これは実質的には金融機関の国債を現金で置き換える政策になるので、財政政策よりはGDPギャップの縮小に手間取るし、より多くのマネー供給が必要と予想できる。けれども、この方法ならば、財源は不要だし、国債残高はデフレ脱却に手間取るほど減っていく。国民の将来不安も減るし、中立命題でも無効化されない。
この政策は国債市場の縮小を招くので、国債暴落どころか国債価格の上昇(金利低下)が予想され、大量の国債を保有する銀行の財務体質は強化される。それでいて、国債はどんどん償還されていくから、銀行の国債保有額が拡大することはない。
うーん、私の頭で考えると、日銀の国債引受より政府貨幣で国債を償還した方がいいのは間違いない。
よく「円建てなんだから紙幣を刷れば国債は返せる」なんて言い方を目にするのだけれど、そもそも紙幣を刷る必要なんてあるのだろうか。
日銀が市場にマネーを供給する際、いちいち紙幣の印刷をしているとは思えない。過去、日銀は巨額の資金供給を即日実施してきた実績があるが、そのたびに紙幣を刷っていたら、印刷ミスのチェックが間に合わない。……というところで私は既に何か思い違いをしているのだろうか。
政府貨幣による国債の償還も、政府が日銀に専用口座を開いて、「1兆円硬貨」数百枚を日銀に預け入れ、銀行と政府の口座間の送金という方法で償還手続きを行うなら、「政府貨幣の市中流通による混乱」なんて問題は起きるわけがないと思うのだけれど。
「年率2%の経済成長=主観的な生活水準は横ばい」仮説(2010-02-28)に関して。
何が書いてあるのかよく分からない。高度成長でも苦しくなったと感じるなら2%超どころじゃ全然ダメじゃん。新製品の値段が下がらないってのもよく分からん。同じ価格で質が向上してるなら、値段下がってるでしょ。
まず、高度成長期にも産業構造の変化はあって、衰退産業に従事する人と、その家族は生活が苦しくなるのは当たり前の話。とはいえ、高度成長期に1割超の人が「生活水準の低下」を感じていたという事実、さらには6割近い人が「生活水準は横ばい」と感じていた事実は、かなり重い。
たしかに仰る通り、2%超どころでは人々を幸福にするには足りないように思うけれども、「デフレさえ解消すれば実現は堅い」といえそうなのは年平均2%の実質成長まで。それ以上は、挑戦の領域。
それに80年代は、実質2%ちょいちょいの成長で「生活水準の低下」を感じる人が減少傾向にありました。定常志向による目線の低下と2%+アルファの実質成長が均衡しつつあった……のではないか。2%成長が「質」で全て使われるのだから、「新しいもの」を選ぶためには何かを我慢しなくてはならないのだけれど、それは「生活の組み替え」であって、「生活水準の低下」ではない。とすれば、定常志向なら、不満はないはず。
この話題の発端であるWATERMANさんの疑問は、「日本は経済成長しているはずなのにどうして何かを選ぶのに、別の何かを我慢しなくてはならないのか」というものだと認識しています。おそらく人は、「質」より「量」の増進に反応しやすいのでしょう。しかしそれはそれとして、WATERMANさんはともかく、多くの人々は「生活水準が横ばい」と実感できるなら、概ね満足ではないかと。
だから、まずは2%超を目指せばいいと私は思うのです。
新製品の値段が下がらないといっているのは、「質」はそのままでいいから、とにかく値段を下げろ、というケースをいっているわけ。「あなたの収入が実質1.5倍になりました」というとき、月給で買える物の「量」は1.5倍に満たないわけです。しかし「質」の向上を考慮すると1.5倍になった、と。
私の記事は、WATERMANさんの疑問に答えようとするものです。その点に注意して読み直していただければ、そんなにわかりにくい話ではないと思う。
端的には、WATERMANさんは「質」の向上のボリュームを見誤っている、といいたいわけです。年率2%、20年で実質1.5倍の経済成長、と聞くと、「量」が1.5倍になることを想像しがち。ところが現実には、年率2%程度の経済成長は、人々が意識しない「質」の向上に吸収されてしまう。だから、「新しいもの」を買う、つまり「量」を増やす余裕なんてありはしない。
80年代までは、実質2%+アルファの成長をしていたので、+アルファの分だけ、他の何かを我慢せずに「量」を増やす=新しいものを買うことができたのでしょうね、と。そういう話です。
「年率2%の経済成長=主観的な生活水準は横ばい」仮説(2010-02-28)に関して。
今から 40 年前に発売された KPGC10 (箱スカ GT-R )は、およそ 150 万円でした。
- 5.
- その150万円の車は、市場で全く競争力を持たない。なぜなら、現代の衝突安全性の基準を満たしておらず、燃費が悪く、乗り心地もよくない。減税も補助金も、当然、ない。これらの欠点は、30万円の価格差では正当化できない。とくに安全基準の問題は致命的だ。「安全」の向上は不可逆な「質」の変化である。
確かに、
なぜなら以下は KPGC10 にも当て嵌まる。 今、シートベルトの無い自動車に乗った事のある人は少ないのではないか。 着用が法制化されたのは比較的最近ですが、シートベルトじたいは随分前から附いて居ました。 それ以前の車です。 また、スポーツ走行を目的として居るので、足回りは硬い。 つまり、乗り心地なんぞは ほとんど考慮されて居ません。 そんな KPGC10 ですが、市場で全く競争力を持たないかというと、決してそうではない。 発売時を上回る価格で取引されて居ます。 何度か書いたけれど、S20 というエンジンに価値がある。 もう少し正確に言えば、このエンジンを設計した櫻井眞一郎さんの考え方(思想)に価値があります。
いや……それは私の書いていることとは違う話だと思います。だって、KPGC10を新規に生産しても商売にはなりませんよね? 輸送機械は大量生産をベースに非常に安い価格を実現している商品なので、100台、1000台という数で作ったら、とんでもない値段になってしまいます。
定価1500円の本が古書になってプレミアが付いて数倍の価格になっていることはよくありますが、増刷して利益が出るかというと、残念ながらそうはならないことが多い。印刷の版下が揃っていればまだいいけれど、それがもうなくなっている場合、100冊くらい増刷したのではプレミア価格よりも高くなってしまう。
ニッチな中古市場もちゃんと雇用を生み出しているわけですが、規模としては小さい。全体の傾向を云々する際に持ち出す話ではないと思います。
人命を守るのは先づドライバー(人間)であって、自動車の機械的な安全性ではない。 当たり前だと思うのですが、これが分からないとしたら何うかして居ます。
と言うと、安全基準を無くすべきだ、みたいに読む人が居るので困る。
新規に生産される輸送機械は、厳しくなる一方の安全基準に従っていくしかない。「なぜ中古なら基準未達の商品が売られていいのか?」という疑問はありますが、少なくとも日本では多数意見によって、現状のようになっている。新規に生産される商品は、現代の安全基準を満たさねばならない。
個人的には、「中古ならいい」というなら、基準を満たさない商品も、その事実を客に伝えることだけを義務化して、製造・販売は許可すればいいのに、と思います。そうならないのは、貧しい人が安全性より価格を優先して危険な自動車を買うのは認められない、「安全」という「質」の向上は不可逆でなければならぬ、という発想があるからでしょう。
安全基準を厳しくするだけで人命が守られると思って居る人
はいないでしょう。でも、2005年のマンション・ホテルの耐震偽装事件では、新基準の施行前に建てられた基準未満の建造物は中古市場で取引され続けているのに、新規物件の基準未達は絶対に認められない、壊して建て直せ、という反応でした。散発的に発覚する「健康に影響のない水準の食品衛生法違反」への反応も、似た感じです。
なるほど、安全と健康について、日本の世論は「そう考える」のか、と。
ところで、世の中には「質」が下がっても「価格」の方を優先したい、という方向に流れていくものも少なからずあります。電話の安定性は、そのひとつ。携帯電話の交換機は、かつての固定電話の交換機とは比較にならない脆弱さです。
NTTの固定電話用の交換機は非常に堅牢だったので、その製造メーカーの商品は、自衛艦の設備など軍事用途にも、多少のカスタマイズをして流用されていきました。地震が発生しても電話がつながるように、という設計だから、甲板にドカーンと着弾して大揺れに揺れても止まらない電源として重宝されたのです。
しかし趨勢としては、「質」は「上がって当然」とみなされがちではないか。毎年、少しずつ「質」は向上しているのに、それは「当たり前」として評価されず、なかなか「量」の豊かさが向上しないことに人々は苛立つ。「日本は低成長でいい」という言説がまかり通るのは、そろそろ勘弁してほしいな、と。
先月末、チリで大地震があり、1日かけて日本に1m程度の津波が押し寄せるという出来事があった。気象庁が最大3mの津波を予想して太平洋側を中心に各地に津波警報を出した。それで電車が止まったり、イベントが中止になったり、逆に「問題ない」と予定通りにイベントを開催して論議を巻き起こしたりした。
文筆業の坪田知己さんが、twitterで私怨じゃないけど、津波警報を金科玉条に電車を止めるJRはアホじゃないかと思う。危険度と乗客の生活、仕事のバランスを考えるべき。田舎だから許されると思っている野k、東京だと訴えられるよホントに。私のホテル代、返せーーーーーーっ!!
と呟いて、多くの批判を浴びたのだという。
私も九十九式の記事を読んだ段階では「みんながそんなことをいったら、防災も気象予報も成り立たないじゃないか」と素朴に思ったのだけれど、後日に坪田さんが補足された内容を読んで、少し印象は変わった。
JR四国は、高知県に津波警報が出てるので、運休にしたのでしょうが、高知から岡山は太平洋には面してなくて、瀬戸大橋もかなり高いところにあるのですから、津波の影響はないはず。それを止める判断はちょっとやりすぎと思いました。
なるほどね。たしかに瀬戸大橋の橋げたは海面から50m以上の高さの位置にあって、下界が津波に飲み込まれても電車が運行するのに不安はなさそうです。ちなみに高速バスは当然のように通常運行だったのだけれど、満員で乗れなかったのだそう。なんでこれで電車が止まるんだ、おかしいだろ、という気持ちはよくわかる。
もっとも、それでもJRが運行を止めた理由は想像できます。山手線のどこかで「線路への立ち入り」が起きると、環状線だから、一周の反対側でも電車が止まってしまう。
そしてじつは、電車というのは、環状線でなくとも、どこかで止まると、広範囲で麻痺しやすい。とくに田舎暮らしをしたことのある人は経験があるのではないかと思うけれど、電車で2時間弱の距離の場所で発生した問題のために電車が止まることは珍しくない。鉄道会社は限られた線路にたくさんの列車を同時に走らせているので、遠くで電車が止まると、連鎖的にその影響が波及していく。
坪田さんとしては、「瀬戸大橋だけピストン輸送してくれたらそれでよかったのに」ということかもしれないけれど、電車が高いところを走っているのは橋の上だけ。香川側の宇達駅、坂出駅も、岡山側の児島駅も海沿いの低地にある。香川県はたしか大丈夫だったけど、岡山県には警報が出ていたと記憶しているので、JRが運休したのは正しい判断だったと思う。いざというときの柔軟な対応力は、バスと電車ではかなり差がありそうなので。
個人的には、坪田さん叩きを見るのは「つらいな」という感覚がある。あの橋の上を走る電車を見たことがある人なら、「津波警報でアレが止まるの?」という疑問を持つ人がいることは、理解できるんじゃないか。共感や賛同までは求めていない。理解はできるでしょ、と。
私は、理解できた。できたから、怖いな、と思った。きっと私もこういう「間違い」をする。いや、今すぐピッタリの思い出話を引っ張ってくることはできないけれど、私も同じような「間違い」をして、全然、言い分を聞いてもらえないまま一方的に非難されて、悲しい思いをたくさんしてきたはずなんだ。
「たしかに、橋の上を走っている分には、電車は安全でしょうね」と、その一点だけでいいと思う。まず相手の言い分を聞ける人に、私はなりたい。
瀬戸大橋をタクシーで渡ると、いくらくらいになるのだろう。泊まった方が安かったりするのだろうか。
ハッキリわかる「障害者」の支援だと、「いい話だ」「見習いたい」と、口先だけであれ、賞賛の声が集まる。どうせ他人事だとでも思っているのではないか。まずは自分の職場の一番デキの悪い人との付き合い方から見直してはどうだろう。その無能が「脳の障害」のせいでないと、どうして断言できようか。