備忘録

平成22年4月30日

クビにならないビジネスメール 〈特選〉世渡り上手フレーズ100

ここ数日、読んでいた本。内容は、リンク先に書いたレビューを参照してください。ココロ社さんの本はどれも独特の「ぶっちゃけ感」が漂っているのですが、本書は「ふつうのビジネス書」への擬態レベルが高い。タイトル、紙面のデザイン、いずれをとってもハウツー本としてこなれています。

いやまあ、ふつうにタイトル通りの本として読んで全く不都合はないというか、素晴らしい出来だと思うので、「擬態」という表現は不正確かもしれない。それでも、別にビジネスメールの言葉遣い自体には関心がない人が読んでも面白いのが本書の特徴です。『クビにならない日本語』や『超★ライフハック聖典』も同様の特徴を持っていましたが、職場でも読みやすいという点で本書は優れていますね。

あと、昼休みなどに読んでいるとき、誰かに「それ、どんな本?」と話しかけられても表紙を見せるだけで済むのもいい。趣味の読書をコミュニケーションの道具にしたくない人にとっては、無個性なハウツー本っぽい装いなのは美点です。

ところで、ココロ社さんの本はこれで3冊目ですが、どれもカバーがビニール紙じゃないんですよね。書店の棚にある時点で既に少し汚れてしまっていたり。まあ、そんなにひどいことにはなっていないので、神経質な人以外はとくに気にしなくていいと思いますけれども。

表紙がすぐボロボロになってしまう本といえば、リリー・フランキーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が有名。白いマット紙にヤワな箔押しの帯という「読み終わるまでの数時間で見るに堪えない状態になる」装丁は著者の意図によるものだそう。ココロ社さんにもきっと何か考えがあるんだろうな……。

ちなみにリリー・フランキーさんの場合は、「古書流通を抑制するため」という目的だったと思う。でも『東京タワー』の表紙は弱すぎて、新刊で買っても傷だらけだったりしました。ひょっとすると古書店だけじゃなくて、ネット書店も嫌いだったのかもね。ネット書店で新刊を買う場合、本をコンディションで選べませんからね。

「表紙が汚れやすい本」といえば単行本の『容疑者Xの献身』の単行本カバーも、やらためったら手の脂が染み込みやすかったですね。翔泳社の『NET TRAVELLERS 200X』レーベルの本も、カバーを外すと指の跡がクッキリ残る黒い紙の装丁。こういうのって、みんな意図的なのかなぁ? まあ、汚れやすい表紙にしたら売れ行きが下がる、みたいなことはないようなので、単に「本をきれいに保ちたい派」のことなんか気にしていないのだろうな。

平成22年4月29日

20日付の記事 雲南省北西部の迪慶チベット族自治州徳欽県には公式には「解放(=1949年)」以降はなくなったはずの一妻多夫の伝統が、実際にはまだ残っている。兄弟が大半。財産分与による土地の細分割が進み生活の維持が不可能になることを防ぐ目的。漢化教育が進み、若い世帯では一夫一妻世帯が過半。鳥葬と同様に消えつつある伝統。矢板明夫記者

平成22年4月28日

理由はよくわかりませんが、この『ノート』は苦労しました……。

なお、5/2放送分は、5/3の更新を計画しています。

平成22年4月27日

もともと『ハーバード白熱教室ノート』は、講義の内容をノートにまとめる『ノート』、講義中に思ったこと・考えたことをまとめる『再検討』、ディスカッションガイドに取り組む『復習』、という3本立て構成にする計画でした。しかし『再検討』を書き始めたら収拾がつかなくなり、まず『ノート』を公開し、続いて『復習』を書き、一区切りとしてきました。

このたび、ようやくLecture1/2の『再検討』を最後まで書き終えることができました。制限なしにリソースを投入し、「思いついたことは全部書く」という方針で記事をまとめようとしたら、こんなに時間がかかってしまいました。1回だけならいいけれども、これでは手間がかかり過ぎて、続かない。

『ハーバード白熱教室』の番組内容の紹介や感想などを書いているブログがどんどん増えています。手間をかけるなら、埋もれてしまうことは避けたい。そこで、初回から最終回までペースを維持して記事を書き続けていくことで差別化を図ろうと思っています。

平成22年4月26日

週1程度のペースで複数のエコノミストが時事問題について自説を述べる『村上龍が聞く金融経済のスペシャリストからの回答』に関心があり、メールマガジンを購読しています。このコーナーは毎回、「次回の質問」が公開されるので、4月からメルマガを

平成22年4月25日

ノートと復習をページ分割。Lecture3/4の内容を更新。

とりあえずこれで放送から2週遅れの更新ペースを1週遅れに短縮する目処が立ちました。本日放送分は数日内に更新できそうです。

平成22年4月24日

事業仕分けのニュースなどを見ていて感じた、素朴な疑問をメモしておきます。

行政仕分けをやっている行政刷新会議には、財務省と仕事が重なっている、という批判がありました。まあ「行政刷新会議」なんて名称の組織が事実上の予備査定をやるのは、たしかに妙な印象はあります。だけど、そもそもどうして財務省に他省庁の実施したい政策を諦めさせるほどの力が与えられているのか、そのことの方が私には不思議です。

だってさ、会社で経理部が各事業部の予算を(財務省がやっているように)査定するなんて、聞いたことがない。私の勤務先の経理部長は、10人程度任命されている取締役の中に入っていない。最高財務責任者にあたる方は、もちろん取締役です。けれども、財務執行の実務部隊はごく少人数だし、大した権能を持っていない。「偉い人たち」の決めた方針の下で、粛々と与えられたルールに則って仕事をしているのです。

だから例えば日銀のように、職員が実務と資料作成を行い、有識者を集めた政策委員会が意思決定を行う、という仕組みを真似ることはできないのか。いや、もっと民間企業のやり方に寄せるならば、目玉政策と省庁単位の予算圧縮目標を「偉い人たち」が決めて、細かいところは各省庁の中で査定をすればいい。その両方を中継ありの場でやれば、多くの国民は歓迎するんじゃないかな。

「今までの仕組みがうまくいかないので屋上屋を架す」というのは民間でもありがちなことだと思う。だから当座は仕方ないのかもしれない。けれども、いずれは財務省と行政刷新会議だけでなく、国家戦略室や会計検査院あたりも合わせて、予算の取りまとめとチェックを司る組織を再編してほしい。

ともかく、注目が集まる公開の場で素人の議論をやって、結局は非公開の査定で予算案がまとまる、という現在の仕組みには違和感があります。

平成22年4月23日

そもそも単一の漢字を変換するのに SKK は向いてません。「げん」からだと「現」といふ漢字を出すのに、何回もスペースキーを押す必要がありますが、そんな必用(場面)は殆んど無いでせう。有りそうな場合、例えば「現実」とか「現に」ならば、一発で変換できます。

私がSKKを使ったのは1998年から2000年までの3年間です。その間、送り仮名には散々泣かされ、SKKが1字ずつ平仮名・漢字を指定する仕組みであることをずいぶんと呪ったものです。

例えば、「笑う」を「笑らう」と覚え違えていると、SKKは使えない。手書きなら覚え違いをしたまま「笑らう」と書けて、文意もちゃんと伝わりますよね。MS-IMEなどなら、変換キーを叩けば「笑う」が出てくるから、「あー、正しくはこう書くのか」とわかる。SKKだけが、何のフォローもしてくれない。

あと工学部のレポートなど専門用語の多い文章を書いていると、SKKが熟語辞書の弱さを思い知らされました。仕方なく1字ずつ変換するという場面が非常に多かったんです。個人の計算機なら辞書を鍛えればよいのでしょうが、学生時代に使っていたシステムは共用でしたし、いま仕事で使ってるPCも共用で、個人の勝手で辞書はいじれない。それでもMS-IMEはSKKと比較するとイライラが少ない。標準搭載の辞書の出来がいい。

しかし私がSKKを使っていた頃から、もう10年が経っています。「最近のSKKは進歩してますよ」という可能性はあるので、昔話として書いたつもりです。しかしいずれにせよ、かつて私がSKKにイライラさせられた最大の理由は、私自身の漢字力不足でした。SKKの基本構想には、今でも魅力を感じます。

「IM としての SKK の頑張り」に限界はあるだらうが、「ユーザの頑張り」によってその限界は打破できる。といふか、SKK はユーザにとって頑張り甲斐が有る IM を目指してゐるのではないか。で、その意図は成功してゐるし、実際頑張り甲斐は大いに有ったと爺は自負してゐます。

費用対効果のバランスは人それぞれ、という前提が組み込まれた話だと思うので、この点に異論はありません。

私がSKKを週に1〜3日程度使用していたのは10年前の話です。しかし3年間も使って少なくとも原稿用紙数百枚分の文字をSKKで入力したので、それなりの使用経験はあるといっていいと思いますよ。

自分はSKKを使いはじめて1年未満だけど、「先日は 釣りをして 楽しい時間を 過ごした」のように単文節で考えています*2けど。入力するためには途中でShiftキー等を押してやらなければいけないけど、そこは無意識に指が動いてくれる。頭の中で「先日 は 釣 りをして 楽 しい 時間 を 過 ごした」なんて分割して考えない。しいて言えば「指が(頭の変りに変換して)考えてくれている」のかな。車の運転と同じで、ブレーキを踏むのに「右足よブレーキを踏め」なんて考えない。ブレーキと思えば右足が勝手に動く。

(中略)

もし、野嵜さんが1年間SKKだけを使い続けたならば、「SKKだと、部品としての語を打込んで、それを組立てて、思想を作り上げる。」という感想とはまた違ったものになるだろう。

私の意図もこれに近い。野嵜さんがSKKに不満を持ったこと自体は共感できるけれども、SKKの支持者は文節を理解しないとか、そういった批判は全く見当外れだろう、と。また野嵜さんは、頭の中で漢字と仮名を明示的に指定しているなんてありえない、とも仰ったから、「いや、私は明示的に指定してますよ。だいたい、そうでなかったらペンで紙に字を書くとき野嵜さんはどうしているんですか?」という話も書きました。

野嵜さんだって、遅くともペン先が紙に触れる前の段階で、漢字が仮名かを決めているはず。ペンで書くときはあらかじめ漢字と仮名を決めているのに、キーボードを使うときは決めていない、なんて器用な頭の切替がどうして可能なのか、私はむしろそのことの方が不思議なんです。で、自分の場合について考えてみたら、私は喋るときですら漢字かな混じり文が頭の中にあることに気付いたんですね。これは面白いな、と。それで記事を書きました。

野嵜さんは変換する際に引っかかる、ストレスになるのが嫌だと言っているのだから。溢れ出る観念を固定させている時にストレスがあったら、良いアイデアを忘れてしまうかもしれない。だから使い慣れた連文節変換でスイスイ入力できたほうが(使い慣れていないSKKと比べて)良いに決まっている。

野嵜さんがそういうことだけ書いていたなら、「そりゃそうでしょうね」という以上の感想はない。私自身、SKKを使う気にはなれないわけですし。でも実際には、私が引用した箇所のような発言をされていたので、それを契機としてあれこれ考えたわけです。

自分が以下に書くみたいなタイプの人間ではないので飽く迄も推測として書きますが、若し日本語の文章を書き言葉の文字列の形態で想起できる人が存在するのであれば、其の文章中漢字で表現したい部分をピンポイントで変換させる事が出来るSKK みたいな日本語入力も利用価値はあるかも知れません。書き写したい漢字かな交じり文が既に想起されてるんだから、後は想起された文章を何らかの手段で複写してやる丈です。

私にとっては、ペンで紙に文字を書くのも、キーボードから文字を入力するのも、まさにその「想起された文章を複写する」作業なんです。

ついでに書く

ドメイン情報のどの部分で嫌がらせが出来るのか見当も付きませんが、嫌なら独自ドメインをやめてプロバイダや無料ホームページサービスを利用するようにしたらどうでしょう。

ドメインを取得するには住所氏名の登録が必要なので、数年前までは、ドメイン管理者情報を調べると、個人情報がわかることが多かったんです。それで何か具体的な被害が発生した事例はほとんどないのだけれども、自分に対して怒りや憎しみの感情を抱いている不特定多数の人々に住所や氏名を知られているというのは、十分に怖いことです。

サイトが「炎上」したときなどに、管理人の自宅の近所の写真がネットにアップロードされたケースなどは知っています。私自身はその画像を確認していないのですが、ワーワー騒いでいる人々の話の流れからすると、ブラフではなく本当に近所で撮影されたものらしい。でもやっぱりそれは例外ですね。「こっちはあんたの家を知ってるぞ」という圧力をかけるにとどまるのがふつう。

で、今度は架空の住所氏名を登録するという対抗策が出てきたんだけれども、それはそれで「規約違反だ」と通報してサイトを潰そうとする嫌がらせが登場する。

そんなこんなで、近年ではもうすっかり、ドメイン取得代行業者の名前と所在地をドメイン管理者情報として書き込むのが一般的になりました。それでも、意外と今でもハンドルネームを使っている人の本名がドメイン検索をすると出てくるということは多いみたいです。住所が出てくることは本当に減りましたが、名前は意外と出てくる。個人サイトにアクセスできないときなどに、サーバーの一時的な問題なのか、それとも閉鎖されてしまったのかを判断する材料のひとつとしてWhoisを調べてみることがあるのですが……。

*4:この頻度で登場するということはリアル友達なのか?

違います。面識もありません。日頃から顔を合わす相手なら、ネットでやり取りはしません。だって文章を書くのはものすごく面倒くさいことなので、リアル知人が相手の場合、どうしても、より手間の少ない会話という手段に流れてしまいます。形になって残るものがないのは残念だけれども、それだけの理由で文章を書くのは、なかなか難しいです。

追記(2010-05-04)

3年間SKKを使ったのは、私がPCを所有しておらず、メールのやり取りや、一部のデータ処理とレポート作成には、大学の情報処理室のUNIXで作業するしかなかったためです。単語登録は不可でした。

「だ+か+ら(略)」の件は、結局、私はキーを打つのが遅いので、全く手書きと感覚が一緒なんですね。連文節変換でも、私は「ひとつひとつキーを叩いている」という感覚なんです。

もうひとつは送り仮名の問題ですね。頭の中で「笑らう」というフレーズが浮かんでいるとき、「WaRau」では変換できない。「笑う=WaraU」しか受け付けてくれない。送り仮名には散々泣かされたので、「笑=Shou」「う=U」なんて入力をよくやっていました。通ると思った変換指示が通らないことが一番のイライラ源なので、少し面倒でも、絶対に成功する入力方法を選ぶことが多かったんです。送り仮名をマスターできればよかったのでしょうが、辞書が手垢で黒くなっても、送り仮名は覚えられませんでした。何回でも同じ漢字で送り仮名を迷う。「覚えられない」とは、そういうことです。

タッチタイピングも私が挫折したことのひとつです。100時間頑張ってダメだったことは、諦めてきました。

もし最近のSKKが「Warau」で「笑う」、「Kieru」で「消える」、「Okurigana」で「送りがな」「送り仮名」と変換してくれるなら、かつての苦労はもはや過去の話となるのですが……。単文節変換に完全対応してくれたらなあ、みたいな。それはもうSKKじゃないような気もしますが。

でも「消える」と「消る」、「送りがな」と「送くりがな」みたいなことでいちいち迷い、「Shou」「Eru」、「Sou」「Kurigana」と入力してた記憶は、いまもSKKの印象に大きな影響を与えています。

「大きな」「大おきな」、「与える」「与たえる」、「迷う」「迷よう」……これらをいちいち迷う人を想像してください。

平成22年4月22日

以下に示す私のtwitter投稿は、連続して書かれたものです。途中休憩はありません。

@otsune 利用規約は何度も読んでいますが、「ユーザーは、この規約及び関係する地方自治体、州、国の法律・規則並びに国際法律・規則のすべてに従わなければ本サービスを利用できません。」というのだから、日本の著作権法は当然、守られなければなりません。(11:01 AM Apr 18th webから otsune宛)

@otsune (承前)その上で、特別な利用規約によって、法の認める権利の一部を自ら放棄することになるのは、twitterの運営者による発言の再利用に限られる、と読めます。逆にそうでないとしたら、「Twitterの権利」や「著作権に関する規定」は意味不明です。(11:07 AM Apr 18th webから otsune宛)

@otsune (承前)結論として、非公式RTやtogetterなどは利用規約の同意を踏み越えていると思う。APIを使って検索結果を引っ張ってくるようなサービスなら、投稿者がDBから発言を削除すれば消えるけど、転載された記事は消えない。これは一線を超えていると思う。(11:16 AM Apr 18th webから otsune宛)

20分間で、たったの387字しか書いていない。熱心にキーを叩いていたつもりなんだけど、終ってみればこんなもの。文章を考えていて手が止まっている時間というのも少しはあっただろうけど、私の記憶がたしかなら、推敲やら何やらでずーっと手は動いていたはず。

skkによる表現の感覺といつたら、「ワレ・ワレ・ハ・ウ・チュー・ジン・ダ」みたいな。

実際、私が文字を書くスピードは、そんなものです。キーをひとつひとつ叩いていく、という感じかな。手で文字を書いても、スピードに差がない。キーボードの方が手が疲れにくいので持久力に優れるとか、カットアンドペーストができるので推敲が楽だとか、そういった点でパソコンで文章を書く方が最終的には速いのだけれども。

小学生の頃は原稿用紙3枚の作文を清書するのに、たっぷり3時間かかりました。もう文章には手を入れないと決めて、ひたすら文字を書いていくだけで3時間ですからね。文章を考えつつ20分で387字というのは、私にとっては「ずいぶん書くのが速くなったなあ」と成長を実感できる数字ではあります。

觀念的な入力モードの切替が一文字一文字である事は、入力の際の感覺を考察するのに、何の意義も持ちません。入力モードの切替が実際に行われるタイミングだけが重要です。そのタイミングが、日本語の文章に出現するリズム=日本人が日本語で考へる際の思考のリズムと完全にずれてゐる、この事がskkの使ひ辛さの原因だ、と、さう私は指摘してゐるのです。

私にとっては、ひとつひとつの文字を書くというのが、なかなか骨の折れることなんですね。いまちょっとストップウォッチを使って測ってみると、1字書くのに、平仮名で0.2〜0.5秒、漢字なら0.5〜3秒かかる。平仮名は、手書きでもキーボードでも同じ速さ。漢字は、変換候補の出方次第ですね。

野嵜さんのおっしゃる「リズム」というものを体感できるステージに、私は立っていない。そういうことなのかもしれませんね。逆に野嵜さんも、ためしに1秒2文字のペースで文字を入力してみてください。それが面倒なら、1秒2文字のペースで私の文章を読んでみてほしい。私が「手書きとSKKはとても似てる」という感覚を理解していただけると思う。このスピードなら、1文字1文字について、じっくり考える時間があるのですよ。

私は、それ以上、速く手を動かせない。でも、それでイライラしたことはほとんどないです。とってもゆっくり、文章を考えて、1文字ずつカタカタと文字入力しているんです。頭の回転が鈍いので、この程度の出力速度で、とくに不便を感じないんですよね。

あ、ちなみにこの記事を書くのに1時間かかってます。おおよその内容は構想3分ですが、それを文章にして書くのには1時間かかるんですね。

例えば、このページはここまで2時間余りで書いています。という一節があるので、調べてみると、そこまで2602字。140分で2602字書いたとすると、平均で1文字3.2秒。ちなみにこの記事では、引用部も一部は文字を入れ直しているので、1198字を約1時間で書いた=1文字3秒ですね。

文案を考える時間を含めると、1文字3秒前後というのが、私がブログの記事を書く速さのようです。(途中で行き詰らなかった場合)

補記:

音で考へるとか文字で考へるとか、そんなのはナンセンスです。人は語に基いて考へます。頭の中にあるのは觀念であり、觀念としての語=詞が、文法機能を司る辭によつて接續されて、一聯の思考として作られます。觀念としての思考を外部に客觀的なものとして表現する爲、我々は文字や音韻を利用します。文字を使へば書き言葉となり、音韻を使へば話し言葉となる――が、それは飽くまで表現であり、觀念それ自體・思考それ自體ではない。ただ、表現は思考・觀念を反映したものであります。

表現は思考の反映であって、思考そのものではない、というのはわかる。わかるけど、実態として、私が「考える」と称している作業は、脳内での言葉のやりとりです。言葉にならない部分は、観察も記録もできず、意識的な活動ではない。私が「もやもや」とか「グルグル」とかいってる状態がそれ。

私が「考えている」ときというのは、脳内のAさんとBさんのチャットログを「私」が読んでいる、みたいな感じです。だから私は「文字で考える」タイプなのかな、と。文字でも音韻でもない「語」というのは、私にはイメージがわかない。

関連:

平成22年4月21日

野嵜さんがSKKを好きにならなきゃいけない理由は全くない。私だってSKKにはイライラさせられた記憶しかない。けれども、それはそれとして、野嵜さんの「SKK批判」と「連文節変換を礼賛する理由」は、私には納得できないわけです。

徳保さんは、文節は全く認識出來ない人なのだと云ふ。それならそれで仕方がない。本當かどうかは知らないし、どうもとぼけてゐるのでないかと思ふのだが、もし本當にさうなら仕方がない。けれども、skkは、野嵜さんってを一つの文節と看做す私の心理に反し、「野嵜」と「さんって」を分離して認識する事を要求する。私はキーボードを叩きながら文章を考える方だけれどもを「私は」「キーボードを」「叩きながら」「文章を」「考える」「方だけれども」ではなく「私」「は」「キーボード」「を」「叩」「きながら」「文章」「を」「考」「える」「方」「だけれども」と分割して考へよと要求する。これはまだ増しな方であつて、「きながら」が解らない程度で濟む。しかし、だから野嵜さんのいってることは、何だかよくわからない。になると、「だから」「野嵜」「さんのいってることは、」「何」「だかよくわからない」になつてしまふ。「さんのいってることは」つて何。「だかよくわからない」つて何。氣狂ひになりさうだ。ところが徳保さんは、「さんのいってることは」と考へる。

??? 私の主張は全然違いますよ。だって、こう書いてるじゃないですか。

私は「子ども」と書くのだけれども、これは小学生の頃からの慣れで、もう私の脳内では「子ども」という3文字が「子ども」なんですよ。「こども」を「子ども」に変換してるわけじゃない。作業としてはそういう手順なんだけど、それは仕方なくそうしているだけなんですね。本当は「子」「ど」「も」と入力したい。

つまりですね、ペンで紙に字を書くとき、1文字ずつしか書けないですよね。私はもちろん「子ども」と書こうとしているのですよ。だけど、それを書くときには、1文字ずつしか書けない。キーボードで入力するときも同じです。同時に3文字「子ども」と書くことは不可能。これは了解していただけると思う。

そして手書きの場合は、1文字ずつ、漢字で書くか平仮名で書くか、決めているわけです。これも了解していただけることと思う。私は、SKKというのは、「1文字ずつ漢字/平仮名を決定していく(=手書きにきわめて近い)文字入力ソフトウェア」だと認識しているのですよ。

野嵜さんの例に倣って「だから野嵜さんのいってることは、何だかよくわからない。」という文章を「書く」ケースを考えてみますと、平仮名の「だ」、平仮名の「か」、平仮名の「ら」、漢字の「野」、漢字の「嵜」、平仮名の「さ」、平仮名の「ん」、平仮名の「の」、……以下略、となります。

私にとって「書く」というのは、そういうことです。「文章を考える」ことと、それを「書く」ことは全く違う。「書きながら考える」といっても、文章は「だから野嵜さんのいってることは」というフレーズ単位で頭の中に浮かびますが、書くときは1文字ずつ書いていくしかない。そうでしょう?

野嵜さんとの対立点は、SKKの仕組みの解釈です。私は、SKKは1文字ずつ漢字か平仮名かを決める仕組みの入力ソフトなのであって、「だ+か+ら+野+嵜+さ+ん+の(以下略)」という仕組みですよね、といっているのです。一方、野嵜さんは「だから+野嵜+さんの(以下略)」という入力をさせる仕組みだからSKKはダメだ、と批判されています。

たしかに、入力モードの切替が実際に行われるのは、野嵜さんが区切りとした部分だけかもしれない。けれども、「入力モードの切替をする/しない」という判断は1文字毎に行われます。私はその「1文字ずつ判断を行う」ことこそ真に重要なのであって、「判断の結果、モードの切替が行われた箇所」に着目するのはおかしい、といいたいのです。

補記:カナ漢字変換、連文節変換とは何か

これまでの考察を踏まえて、カナ漢字変換、そして連文節変換について、考えてみたい。

カナ漢字変換とは、「呪文を入力すると、本来書きたかった文字に変化する」仕組みではないだろうか。「げん」は「現」、「じつ」は「実」と書くのと等価。

ただ、この呪文は文脈依存です。呪文が「げん」だけだと、狙い通りの魔法が発動する確率が低く、変換キーを何度も叩くことになります。そこで「げん」「じつ」「に」と呪文を並べてから魔法を使う=変換キーを叩くと、相互作用が働いて、狙い通り「現」「実」「に」と変化します。

このように考えてみると、連文節変換というのも、じつは1文字ずつ入力する仕組みの集合体なんですね。手書きならいきなり「現」「実」と入力できるけれども、キーボードでそれは無理。だから呪文を介さざるを得ない。連文節変換は、その呪文の成功率を上げる仕組みに過ぎない。

つまり、哲学的に状況を分析すると、「げんじつ」が「現実」に変換されているのではない。「現」「実」という1文字ずつの入力を高確率で成功させるために、「げん」「じつ」「に」まで入力してから、変換してもらう。それが連文節変換。

補記:SKKと連文節変換の違いとは

SKKにも熟語の変換機能はあったわけだし、SKKと連文節変換の差って、時間差調節が可能な範囲の違いでしかないのではないか。

そう考えると、連文節変換のソフトでも単漢字変換は可能なわけで、「SKKの優位点って何?」という疑問はありますね。10数年前には、一応、あったんですよ、優位点が。

昔の連文節変換ソフトだと、「げん」「じつ」という呪文を入力したはずが、「げん」「じ」「つ」と誤解され、しかも「げん」「じ」で相互作用が働いた結果、「源」「氏」「津」なんて変換結果になってしまうことが多かったんです。だからといって連文節変換のソフトで1文字ずつ変換しようとすると、妙に手間がかかって面倒で仕方ない。

SKKは、単漢字変換+少々というスタイルに特化して、サクサク単漢字変換を行っていけるよう工夫を凝らしていました。だから私がSKKに触れた当時は、バカな連文節変換ソフトよりSKKの方が作業効率がよさそうだな、という感触がありました。漢字の読みの間違いなどを許容してくれていたらなあ……。惜しい。

でも結局のところ、原理的に「既に書かれた文字列」しか参照できないSKKは変換精度の壁に行き当たってしまう。「前後の文字列」を参照できる連文節変換が天下を取るのは、SKKがどう頑張ったところで必然だったと思う。

追記:

徳保さんは私の主張に反對だ。そして徳保さんは、自分の書き方を反省して、或種の理論を發見した。それは良いけれども、私の主張と徳保さんの主張が對立するからと言つて、その原因としての理論を、徳保さんは自分主體に勝手に定めてしまつた。自分の主張と對立する野嵜の主張は、自分の理論と對立する理論に基いてゐるに違ひない! 徳保さんは、「漢字仮名交じり」と「音韻」の對立構造を設定して、「音韻」を私の立場として設定し、私をやつつけようとした。ところが、これは飛んでもない勘違ひだ。徳保さんは、私の文章を讀んだが、私の原理を知らうとしないで、頭で考へてしまつてゐる。これは私を非難する人が必ずやる間違ひだ。

左翼の人が、野嵜が氣に入らない事を言つてゐる、野嵜は敵だ、左翼の敵だから右翼に違ひない、野嵜はなんとか主義だ! ――とか、そんな身勝手な論理で私の主張を極附ける事がある。その私とは何の關係もないなんとか主義の缺陷を理由に「野嵜は馬鹿である」と云ふ結論を引出して、嘲るのだけれども、私にしてみれば全然關係のない何處かの理論の尻拭ひを要求され、擧句、何の罪も無い筈なのに何らかの罰を受けてる状態に追込まれるわけで、迷惑千萬な話だ。

えっと、野嵜さんの書き方から推察するに、野嵜さんは「文字で考える」「頭の中にある文章は漢字かな混じり文である」という点で私と違いはない……ということなのかな。

リンク:

関連:

平成22年4月20日

1.

SKKは日本語入力用ソフトウェアのひとつ。漢字入力と平仮名入力が分離しており、シフトキーでモードを切り替えるのが特徴です。連文節変換に慣れてしまった人には、とても面倒に思えるかもしれない。けれども、ペンで紙に文章を書くときには、誰でもやっていることなんです。まず平仮名で文章を書いて、それを清書する段階で漢字かな混じり文に書き直す、なんて人はいないでしょ?

高校時代に文藝部室のワープロに躓いたのは、連文節変換が原因でした。何これ? と思ったんです。こんな不自然な日本語入力ソフトしか世の中には存在しないのか? だから、大学の情報処理の授業でUNIXを触り、SKKと出合ったときには感動しました。ところが、5月連休に自分のワープロを買って、たくさん文章を書いていくと、連文節変換の便利さに魅了されました。

最近はどうだか知らないけど、10数年前のSKKだと、送り仮名の知識が不正確な人(=私)は「なんで変換候補が出てこないんだ!」となることが多かったんです。あとは熟語の読み方を勘違いしていると、これもまた手詰まりに。「不正確な日本語でもいいから、とにかくこっちの脳内にある文字を出力させろよバカヤロー(怒)」と苛立つことが多かったんですね。

大学1年の頃は、情報処理室へ行くときには国語辞典を必ず持参してました。人生で一番、辞書を引いた時期かもしれない。で、辞書を引いたら納得できたかというと、さにあらず。「おい、辞書ではこの送り仮名も許容じゃん。融通きかせろよ、バカSKKがーっ!」かえって怒りが増幅されることもしばしば。

今にして思えば、前後の文脈を判断して変換候補の順番を調整するとか、よくある入力ミスには対応するとか、それって別に「SKKだからできない」ってことじゃないんじゃない? という感じはします。SKKが商売として成功せず、開発リソースが足りなかったというだけの話なのかもしれない。

ともかく私の場合、自分の漢字の知識があやふやなので、SKKの几帳面さにはついていけなかったんですね。その点、連文節変換は、使用者のルーズさに、頑張ってついてきてくれました。だから連文節変換を好きになりました。

2.

だーかーらー。單語を變換するのでは使へないんだよ。だつて俺は文章全體をまとめて思ひ浮べるんだから。少くとも、「今日は」は一續きで考へる。「今日」「は」と分けては絶對に考へない。日本語なのだから、詞と辭とは膠着してゐるのが當り前だ。それを分斷するのだからSKKは駄目だ。

そもそも文節を意識せず、單語を變換出來ればそれでいいなんて發想で日本語の入力ソフトを作つてゐるのが間違だ。

頭の中でこの文字列は漢字! この文字列はかな! と明示的に指定して考へますか。そんな事は絶對にあり得ません。一聯の思想が頭の中に浮ぶのであつて、それを兔に角書附ける・打込む――それが最優先であつて、形のない思想を形のある文章として定着させる事、それが出來なければ入力プログラムとして何の價値もない。

この意見が、よくわからない。野嵜さんってペンで紙に文章を書くとき、「なんで1文字ごとに漢字・平仮名・片仮名といった最終出力を確定しなけりゃならないんだ?」とかイライラしてたりするの?

私はキーボードを叩きながら文章を考える方だけれども、それでも、どの文字を漢字にしようかなんて、キーを打つときにはもう決まってるよ。ペンで字を書くのと一緒。字を書き始めたときにはもう、決まってる。というか、私が「日本語で考える」とき、私の頭の中では漢字が使われています。同音異義語を漢字で区別しているんですよ。いま、頭の中で思考を追いかけてみたけれど、たしかにそう。

意外と、その言葉が指す具体的な事物を思い浮かべていない。……ん? あーっ、いま気付いてビックリした。そうか、もやもやと言葉にならないグルグルした思考をしてるときはイメージで考えてるけど、それを言葉で腑分けして検討し始めると、例えば「野嵜さん」なら「野嵜さん」という記号で象徴的に扱ってるんだな。もう人間の姿ではイメージしていない。へー、面白いな。

まあ他の人はどうだか知らないけど。私の場合は、思考言語が既に漢字かな混じり文なんですね。だから野嵜さんのいってることは、何だかよくわからない。私も後から仮名漢字変換を修正することはあるけれど、それは一種の思考の訂正。最初に漢字と平仮名を区別しない「ことば」で考えてるわけじゃない。

多分、だけど、漢字は弱者排斥という見地から平仮名だけで書かれた文章が「全然、頭に入ってこない……」という人は、私のお仲間なのかも。最初から漢字で考えている人にとって、平仮名で表記された言葉は、「漢字に変換される前の姿」じゃないから、外国語を見るような感覚なんだ。

実際問題、「じっさいもんだい」なんて平仮名で書かれた文章を目にする機会って、ないんだよね。だから「じっさいもんだい」という音、「実際問題」という漢字表記、このふたつが私にとっての「実際問題」なのであって、平仮名で書かれた「じっさいもんだい」という文字列は、私の中では「実際問題」とは別物。

私は「子ども」と書くのだけれども、これは小学生の頃からの慣れで、もう私の脳内では「子ども」という3文字が「子ども」なんですよ。「こども」を「子ども」に変換してるわけじゃない。作業としてはそういう手順なんだけど、それは仕方なくそうしているだけなんですね。本当は「子」「ど」「も」と入力したい。

ただ、私自身も漢字の詳細をきちんと記憶していないことが多い(脳内漢字と社会漢字にはズレがある)。だから、さっきは「仕方なく」と書いたけれども、実際には連文節変換が都合いい。空欄補充問題より選択問題の方が易しいでしょ。正解って、見れば「あっ、これですよ、これ!」となるから。

3.

skkだと、部品としての語を打込んで、それを組立てて、思想を作り上げる。これは不自然極まりない。言語とは、思想を定着させたものか、それとも、部品を組立てたものか――根本的な言語觀の違ひです。

野嵜さんは言葉の本籍を音韻の世界に置いているんだろうな。私なんかはそうじゃなくて、言葉は文字で基礎付けられていて、音はそれに付随する情報なんだよね。

だから例えば、文字にすれば「雰囲気」だ、というのが私の基本的な「雰囲気」認識なわけ。そんな私にとって「ふんいき」は「雰囲気」出力する呪文でしかないので、「ふいんき」と声に出しつつ手は「ふんいき」とキーを叩いて「雰囲気」を出力していたりする。

仕事の打ち合わせなんかでも、略語の読み方の違いで相手が首を傾げたときなどは、手近な紙にその言葉を書いて、相手に見せることがあります。すると「あー」と納得されたり。その後、お互い異なる「読み方」を維持しつつ話を続けちゃう。議事録は文字表現なので、情報共有に支障はない。

このように私は「文字で考える」タイプなんですね。最初から「漢字かな混じり文で考えている」のだから、SKKで文章を書いていくことは、私にとって部品としての語を打込んで、それを組立てて、思想を作り上げる。ことを意味しないわけです。

アメリカのドラマや映画を見ると、きちんとした文書の提出を求められる仕事をしている人は、まず音声を録音して、それを聞きながら報告書を書いたりするのがふつうらしい。英語には「ひらがな」しかないので、「文字で考える」人は少ない、ということなのかもね。

関連:

平成22年4月19日

ノートと復習をページ分割。Lecture3/4の内容を更新。

平成22年4月19日

看護師が人手不足だというので(他にも理由はあるが、ここでは捨象する)、日本は発展途上国から多くの研修生を受け入れた。日本には大勢の失業者がいる。人手不足は労働条件の悪さを反映している。失業者の生活保護をしつつ海外の安い労働力を頼るという政策は支持できない。

先進国では次第に「どうしても機械化できない仕事」の値段が上がっていく。それは意外と、単純労働だったりする。看護師のような専門的な技能を要する職種の給与アップさえ許容できないのが日本という社会の現状だとすると、日本ではもはや産業構造の転換は不可能ということになるだろう。

問題は、そのくせ医療水準だけは、進歩を続ける「先進国レベル」に喰らいついていくことが求められていることだ。これは矛盾である。医療サービスのいっそうの充実と、コストの維持を両立させろ、と。デフレ下で名目コストを維持するという条件ならともかく、実質コストの維持が求められるのだから無理がある。

「他人」には構造改革を押し付ける国民も、いざ自分が改革の対象になると頑として受け入れない。医療に適正な対価を払うか、医療水準を先進諸国の10年遅れの水準で固定するか、いずれかを受け入れれば道理が通る。これ以上、健康保険の保険料を上げることが不可能なのだとすれば、医療水準を固定するしかない。サービスの水準を固定すれば、年率1〜2%程度の生産性の向上によって労働環境は徐々に改善されていく。

混合診療の解禁は、いわば折衷案。保険診療の水準を据え置き、先端医療は追加料金とするわけ。混合診療が解禁される領域が広がれば、「金持ちは助かり、貧乏人は死ぬ」という場面は増える。どれくらいの増加なら、国民は許容できるだろうか。

国民の無理が通って、外国人看護師を受け入れて医療費を抑制することになった。この政策には隠れコストがある。国内の失業者の存置、今後も改善されない看護師の労働環境、などがそうだ。医療費を抑制できてよかったね、では済まない。

じつのところ、今回、日本へやってきたのはたいへん優秀な看護師で、いまのところ年あたり数百人という規模でしかない。いまこの方々を拒絶することに、合理性は乏しい。ただ、記事にもある通り、この話は「労働力不足を外国人で補う」という発想に直結している。人材の相互交流ではない。

いま日本では、単位看護師の資格を持ちながら、看護師の仕事から離れてしまっている人がたくさんいる。それはなぜなのか、というところから考えていくべきだ。こんな状況下で、よその国(とくに貧しい国)から優秀な看護師を連れてくるなんてのは、「不道徳だ」とさえ思う。

「変化」なくして成長なし。と書いたら、「外国人労働者を受け入れるのも立派な変化だろ」みたいな反応をいくつも貰った。まあ、それは、そう。だけど、どうせ変化のコストを負担するなら、もっとマシなやり方があるはずだ。

「失業者と特定の産業に負担を押し付けて、大多数の国民の生活を変えない」という案が支持されがちなのは、年率3%程度のインフレで怒りを爆発させるデフレ親和的な世論と同様、民主主義の陥穽だな……。

平成22年4月18日

「復習」を更新。書いてて思い出すのは『24』のジャック・バウワーでしたね、やっぱり。

ハーバード白熱教室』は下記の日程でNHK教育テレビにて再放送されます。興味があって、見そびれていた方は、今すぐ予約録画した方がいいです。もし録画を忘れた場合は、おそらくNHKオンデマンドで視聴できるんじゃないかと思います。現在、本放送の第2回、第3回が見逃し番組枠で視聴できます(放送から2週間)。

平成22年4月17日

批判の対象が消えると怒る人には与しない。批判すべき発言を相手が取り下げたんだ。いいことじゃないか。

なんか発言消しちゃ駄目みたいなことホザく奴っていろいろ理屈つけるけど人のミス指摘するの好きなだけなクズ野郎ばっかしだよな。

消極的に同意。批判対象の記事が消えて怒る人ってのは、いったい何が目的で批判しているんだろう。

他人の間違いを指摘するのは楽しいし、馬鹿な人を馬鹿にするのも楽しい。許せない相手には、怒りをぶつけたいし、その怒りを共有する仲間を増やしたいというのは、多くの人が持つ欲求だと思う。しかしそれは克服すべきものではないだろうか。消すのは無理だとしても、飼い馴らす努力はした方がいい。

世のため人のために批判記事を書いたのに、リンク先が消えて意味不明になっちゃった? でもさ、それが特定個人を攻撃するだけの内容ではない記事なら、単独でも有意義な内容を持っているんじゃないの。あるいは、本当に世界のために記事を書いているなら、少し記事に手を入れるくらいの手間はかけたっていい。

社会制裁欲求みたいなものが、世間には充満している。私もそれを全く否定するものではない。無理をいっても仕方ない。結果として制裁状況が生じるからといって人々の口を封じる、というのは、むしろもっとヤバイ社会への第一歩になるだろう。

しかし、個々人が自分の感情を制御する努力をするのは、大切なことだ。

自分に正義があると確信できて、しかも仲間が大勢いる、そんなときこそ、心に余裕を持ってほしい。勝手な決め付けで、相手を無敵だと仮定していないか。絶対有利の状況が、自分の言葉を過剰に攻撃的にしてはいないか。他人を多面的に捉える手間を惜しんでいないか。

平成22年4月16日

「パクリ」は、パクラレ元にとってだけじゃなくて、パクッた側にもアンハッピー。

パクリ行為を常習的にやっていると、オリジナルで優れた文章を書いても「これも何処かのパクリだろう」と疑われてしまうから。

そして「それがパクりではないという証明」は悪魔の証明で立証が出来ないので、疑いを晴らすのが困難極まりないから。

どんなに素晴らしい事を書いても、パクリ常習犯の書いたものには胡散臭さが染み付いてしまう。

私のようにパブリック・ドメインで書いている場合、記事が筆者個人にメリットをもたらすことを期待していないわけです。素晴らしい記事を書いたすごい人だね、という賞賛は期待していない。

だから、逆に私の場合、「どうせ誰かの話の受け売りでしょ」と思ってもらって全く結構なんですよ。それで何の損もない。「こういう考え方があるんですよ」と、より大勢に伝えたいということが最大の動機なんです。それによって僅かでも世界が自分の望む方向に変化することへの期待が、記事を投稿する目的だといっていい。

もちろん私だって、名誉欲を完全に捨て去ることはできない。それでも、名誉欲が満たされないことは「重大ではない」のです。

だいたい私の書いていることなんか、たとえ個人的な体験の裏付けがあったとしても、ある程度まで一般化してしまえば平凡なものですよ。どこかで誰かから聞いた話や考え方を、書き直しているに過ぎない。私の記事にオリジナルな部分なんか、とくにない。そう思っていただいて結構。

ただ、「パクリ常習犯の記事は胡散臭い」という考え方には抵抗していきます。「パクリだから読むに値しない」といった考え方が広まってしまうと、私の記事をパクる人がいなくなってしまう。それは、自分の意見を世に広めたい私としては、ひとつ道具を奪われることに等しい。

補記:

賞賛という「名誉の増大」については進んで放棄する私だけれども、「名誉を傷付けられること」は許容しない。例えば、「受け売り」と思われるのは構わないが、身に覚えのないことで「他人の著作権を侵害している」と誹謗されたなら、それを唯々諾々と受け入れるつもりはない。

私はあくまで合法的にやっていこうとしているのです。先日、私は青木理音さんのtwitterでのつぶやきに対し不快感を表明しました。私は「他人の権利を軽々しく侵害するな」という立場だからこそ、自ら著作権を放棄することを説いているのに、権利者の同意なしに世にある著作物を自由利用することを是とするアナーキズムと同一視されたからです。幸いすぐに誤解は解けた(と思う)。

著作権の侵害というのは、殺人などと違って、権利者がOKといえばOKなのであって、合法的な著作者名詐称はありうる。合法か違法かという問題ではなく、そもそも悪いことなんだ、という立場の人と意見が対立するのは仕方ない。しかし違法でないものを違法だといわれたら、それは話のステージが違う。

平成22年4月15日

続くかどうかわからないけれど、放送から1〜2週遅れ程度のペースで更新できればいいと思う。

それにしても……まじめに取り組むと、お勉強って結構しんどいですね。昨日、自分が書いた言葉に触発されて勢いでサイトを立ち上げてしまったんだけど、本当に続くのだろうか。

平成22年4月14日

そもそもの話題は「子どもに勉強の意義を訊ねられたら、どう答えるべきか」というものだった。私の回答は「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)にある。もう昔話だが……少し引用してみる。

個人的に、**ができたら幸せになれる、という言い方は避けたいと思っていた。なぜなら、やっぱり全員がテストで満点を取れるようにはならないからだ。トップクラスへの展望がない、底辺で悩む子どもに功利主義で勉強の意義を説くのは、残酷ではないか。彼らはその果実のほとんどを手にできないのだ。向学心を最後まで支えるのは、学ぶこと、それ自体の魅力なのだと私は信じる。

実際、私は「なんで勉強しなきゃいけないの?」という質問には、こんな風に答えていた。

「いけなくなんかないさ。勉強をしなくたってお父さんお母さんはごはんを食べさせてくれるだろうし、君はずっとみんなにとって大切な存在であり続けると思うよ。それは安心していいんだ。勉強なんて、何か不安に駆られて嫌々するものじゃない。したいからする、という以上には、とくに理由はいらないと思う」

まあだいたい、「じゃあ、授業をはじめようか?」と問うと、「うん」と生徒は答えた。私はというと、「子どもを説得しようと躍起になってる大人は多いが、実際に自分が勉強に打ち込んでいる大人がどれだけいるんだ? 自分も説得できずに子どもを説得なんてできるわけないだろ……」なんて考えていた。いや、いまもその考えは変わってないかな。

そういえば、生徒が宿題をやってこないと授業のはじめにグチグチ小言をいう講師が多かったのだけれども、アレは何だったんだろうな。宿題をやった方がいい理由があるなら宿題を出すときに話して、生徒が宿題をやってきたら褒めればいい。だいたい宿題を出すのは授業の最後で、残り時間は少ない。時間に余裕があると説教が長くなる。つまんない話は短く済ませた方がいい。そういう意味でも、授業の最初に生徒がやってこなかった宿題について小言をいうより、残り時間が少ない時に宿題を出すと同時に簡単にその意義を語る方がいい。

こういう考え方は私にとっては自然なものなのだが、どうもつまらない話ほど長々とやりたがる人が世の中には少なくないらしい。なんでだろう……。

授業が進まないのを生徒のせいにしたりしてさ。お説教で授業時間を浪費してるわけ。それで教え切れなかった分を宿題にしてしまう。おいおい、自習で問題が解けたら授業は要らないだろ……。で、次の週になると、宿題をやってこない生徒にまた腹を立てている。横で見ていて、人間の思い込みは恐ろしいと思った。

生徒がかわいそうなので自習時間につかまえて宿題をワイワイガヤガヤして一緒に解いたりしたんだけど、講師の人がやってきて「自分でやらなきゃ力がつかないでしょ」とかいって怒るので参ってしまった。ニコニコ笑顔で勉強してたらそんなにいけないのか、と悲しくなった。

平成22年4月14日

昔、『Folio』というウェブ雑誌を手伝っていたとき、作品を書いてもらってる作家さんにアクセス解析を解放するかどうか、という話題になったことがある。『Folio』開始前の段階では「オープンにしようよ」という立場だった私だけれども、実際に始まってみると意見がコロッと変わってしまった。

というのは、小説を複数ページに分けたところ、リンクひとつ辿るたびにアクセスが1/3になっていったという事実がある。あまりに残酷で、「これは書き手には見せられない」という結論になった。

平成22年4月13日

1.

fromdusktildawnさんが、記事を盗用されたといって怒っている。fromdusktildawnさんがtumblrへの転載に文句をつけているのを見たことはないから、原典をきちんと紹介していればトラブルにはならなかったのだろうか。

keitaro2272さんは過去にも何度か、よその記事を盗用していると指摘されてきた。一例を示す。

ここではkeitaro2272さんがコメント欄に登場し、「オリジナルとコピーの境界線」という記事を自分のポリシーをまとめたものとして紹介している。青木さんの返答は、要約すると「keitaro2272さんの行為は剽窃だ。パクられた側に何らメリットがなく、許容できない」というものだった。

fromdusktildawnさんや青木さんの感覚は、現代の日本では常識的なものだと思う。keitaro2272さんの行為が問題視されることに不思議はない。

ただ、「私の記事なら、転載も改変も盗用も商業利用も全て大歓迎なのに……」と寂しく思う。私がfromdusktildawnさんや青木さんと同等以上の書き手で、もっと魅力的な記事を大量に書くことができていたなら、こんなトラブルは起きなかったはずだ。自分の無能が恨めしい。

2.

keitaro2272さんの特徴は、参照した記事を大幅にリライトすることだ。元の記事を自分のブログのフォーマットに変換し、わかりにくいと思った部分は大胆に書き換えたり、バッサリ削ぎ落としたりする。

法の認める「引用」や、fromdusktildawnさんや青木さんが黙認してきた「転載」といった手法にkeitaro2272さんが飽き足らなかったことは、理解できる。青木さんの事例はピンとこないけれども、fromdusktildawnさんの事例では、keitaro2272さんが改訂したバージョンの方が、私には読みやすい。

原典へのリンクがあれば、fromdusktildawnさんや青木さんは、こうした記事の書き換えを認めただろうか。fromdusktildawnさんはどうかわからないが、青木さんは「引用」という形式を守ることを求めていたので、おそらく認めなかったろう。

いまのウェブには、編集者が欠けている。カウンター文化が後退し、自分の文章が読まれる場所はRSSリーダーでもtumblrでもいいよ、という感覚が広まってはきたが、一見してパクリだとわかるような「書き換え」まで許容されるようになっただろうか。まだ、そこまでは進んでいないだろう。

タイトルを変え、本文に手を入れることで、原典のままではリーチし得なかった層に届くようになる、というケースは少なくないと思う。それを「もったいない」と思う感覚は、私の中にもある。が、記事のリライトはハードルが高い。まず認められない。だからゲリラ的にやっていくんだ……しかし当然、それでは叩き潰されることになる。

3.

いま、原本を紹介しないスタイルがまかり通っているのが、美人や風景の写真など。画像掲示板や、そのまとめサイトでは、誰がその写真を撮影したか、被写体は誰か、といったことは、ほとんど問題とされない。そして画像をスレに貼った人が賞賛されている。

写真家と、こうした掲示板やまとめサイトとの間で、世間の注目を集めるようなトラブルが発生した事例を、私は知らない。じつはたくさんあるのかもしれないが、世間の「別にいいじゃん」という流れを揺るがす力を持っていないことはたしかだ。

しかしどうして多くの人々は、ブログ記事の「剽窃」には怒るのに、このような状況には不安を感じないのだろうか。

私なりに考えてみると、ポイントは「スレに画像を貼った人=撮影者ではないという暗黙の了解」があることだろう。勝手に画像を貼った人への賞賛の中に「その画像を作成したことへの賞賛」は含んでいない、だから「名誉の横取り」はない。2chまとめ系ブログが、元スレにリンクしていなくとも「剽窃」とはいわれないのも同じ理由だ。

ブログ記事の「剽窃」では、その暗黙の了解がない。それゆえ、コンテンツから得られる利益の横取り=著作財産権の侵害に加えて、著作者人格権まで侵害されている、と感じられる。多くの人は、名誉の問題に敏感らしい。

写真と文章の違いは、あまり重要ではない。商業ニュースサイトは出典をきちんと書かずにtwitterの発言やブログの記事を再構成していることがあるが、「ネットで拾ったネタです」という文脈で書いているから、「名誉の横取り」という印象が薄い。それで社会にギリギリ許されているのだと思う。

4.

keitaro2272さんは、過去の多くの同種の事例とは異なり、剽窃を指摘されてもブログを畳んでこなかった。私はここにひとつの希望を見る。

ちょっとすぐにリストを作ることはできないのだけれど、私と同様に著作者名の詐称もOKとしているブロガーは10人以上いる。私の記事だけでも2000を超えており、全体で10000本くらいの事実上パブリックドメインの記事が既に存在するのだ。keitaro2272さんとしては非常に厳しい制約になるが、その自由に使える記事だけをネタ元として、半年くらい更新を頑張ってみてはもらえないか。

もし、keitaro2272さんのリライトによって、全く注目されなかった記事が世間で大受けするといった事例が相次ぐならば、「盗用でもいいからネタ元に加えてほしい」というブロガーが少しずつ増えていくのではないかと思う。

いわばゴーストライターの逆をいくわけだ。個人の名誉を報酬として差し出す代わりに、アイデアの伝播を依頼する、という関係になる。面白いアイデアを持っているが文章力が低く無名のブロガーは、固定読者が多く文章力の高いkeitaro2272さんに名誉を譲り、自分のブログでは不可能だった、大勢に自分の意見を伝えることを実現するわけだ。

腰を据えてやっていく覚悟がkeitaro2272さんにあるなら、こういうことも可能だと思う。私はいい加減に、記事をパクったのパクられたのという問題をこの世からなくしたい。誰もが怒る行為ならともかく、パクられてもOKな人が世の中には何人もいるのだ。両者をうまくつなぐ仕組みの不在こそが問題なのである。

補足:

ほとんどの読者はリンク先なんか読まない。

5.

別解としては、「原典へのリンクさえあれば、文章のリライトを歓迎する」という文化が広まっていけば、状況は一歩進む。リンクを条件に転載を許容する(いちいち怒る方が神経質に見えるという)空気を作ったtumblrtogetterのように、だ。

海外記事の翻訳、書籍の紹介、講演会の参加報告などでは、大胆なリライトがまかり通っている。とくに書籍や講演会に関しては、著者や講演者が「そんなことは書いてない」「そんなことはいってない」と困惑するトラブルが何度も起きている。ところが、有料コンテンツのエッセンスを無料で享受できる利便性がウケているのかどうか、書籍の内容紹介や講演会の参加報告自体を著作権の観点から問題視する意見は少数派だ。

もちろん、個別のトラブルについては、著者や講演者に味方する人が多い。だが、「その手のコンテンツ」をことさらに問題視はせず、大きなトラブルが起きない限りは「こんなのは犯罪だ。許せない」とはいわない。むしろ権利者がその手のコンテンツの公開をやめさせると、反発する側が多数派になったりするくらいだ。

言語が違えば勝手にリライトしてもOKというところまで「多数派が容認するライン」は迫っている。「日本語→日本語」のリライトも、「リンクがあればOK」になる未来は、全く考えられないという話でもないだろう。

この記事にはいろいろな読み方がありうるが、私は「リンクさえあれば、商業ニュースサイトが行っている現状程度の情報の再構成は、不満は大きいものの、許容できなくもない」と解釈した。あるいは、既にリンクなしの「日本語→日本語」リライトは行われている、とも読める。

追記:

とりあえず私にできることとして、個別記事の末尾に「転載・改変・盗用・商用利用、いずれもご自由にどうぞ。」と入れた。

逆リンク!

私の「著作権を放棄しようぜ」という提案は、そもそも他人の権利に無頓着なくせに自分の権利にばっかり敏感なネット世論への怒りに端を発している。まず自分が権利を放棄して、同志を増やし、仲間内で著作物の自由な利用を実現するのがスジだろう、と。私の主張のベースにあるのは、同意・了解なしに他人の権利を侵害するのはおかしい、という考えなのだ。

相手の同意なしに他人の著作物を転載する身勝手な文化を作ったtumblrやtogetterにも、私は疑問を表明してきた。青木さんはそんな私の記事を評してアナーキズムだという。とんだ誤解で不愉快な話だが、私の文章がわかりにくいのだろう、きっと。だから、ひとつコメントを付けた。

平成22年4月12日

どうしてこんな事実に反する主張が「論証するまでもない常識」として世間で通用しているのかわからん、という話題を集めた記事。私も携帯通話料金、テレビ離れ、音楽配信ビジネスについては、ウェブに書いたことがある(このブログ内ではない)。

こうした錯誤が噂話の水準にとどまっているうちはいいけれども、なぜか政府の審議会などの議事録にも登場してくるから困惑する。大野さんの応答を福田尚久さんが無視したのは典型的だが、不思議と事実に基づく反論がスパッと拒絶されてしまうことは少なくない。

私もWikipediaで「テレビ離れ」についてはいくらかやりあったのだけれども、どうしても「テレビ離れ」を事実にしたい人がいて疲弊した。元データが平日、土曜、日曜の3分類になっているわけだが、そのうちの土曜日のデータだけを見ると10代の「テレビ離れ」が起きている、これは事実だ、なんていう。日曜日に10代の視聴時間が延びているのだから、そんなの番組改編の影響でしかなかろうに……と私は思った。

大野さんは何年も頑張っているから、偉い。私は次第に、お互いいい加減なことを言い合ってる社会の方がラクかもなあ……なんてダメな方向に流れてしまいつつあって。実際、他人の意見を批判しているうちはいいのだけれど、自分が何かをいうとき、いちいちデータを探すのって面倒くさいんだよね。

なので今は、せめて誰かがちゃんとデータを出してきたら、虚心坦懐に眺めましょう、と。所詮、直感で発言してるだけだという自覚は持っておこう、と。そんな感じですね。

平成22年4月12日

私は長らくドラめもんさんと銅鑼衣紋さんをごっちゃにしていた。銅鑼衣紋さんは皮肉屋で、まあ私も皮肉屋なんだけれどもとにかくそのモノの言い方にカチンとくることが多く、遠くからお勉強させていただく、という感じだった。

私はほとんど見ることがなかったけれども、銅鑼衣紋さんは経済/経済学@ichigobbsを中心に活躍されていた。あちこちの経済の話題の多いブログのコメント欄にも登場されていて、発言を追いかけるのが面倒くさいからブログを作ってほしいと思っていた。有志による「苺経済板まとめ - ドラエモン語録」というまとめWikiもあるのだけれど、半ば放置状態。多分このまま膨大な発言はネットの海に散逸してしまうのだろう。もったいない話だ。

ところで、その銅鑼衣紋さんの活躍などを念頭に置いて、経済学者同士の議論が盛んなアメリカのネット論壇とは対照的に、日本では市井の人々が匿名で高度な議論を展開している、なんて書籍や雑誌で紹介されているのを読んだことがある。しかし銅鑼衣紋さんは岡田靖さんの仮名だったのだという。著名なエコノミストの一人だったわけで、「なーんだ」「やっぱり」という感じ。

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

岡田靖さんはたくさんの論文を書かれたが、書店で買えるような単著はなかったと思う。生前に飯田さんとの対談が共著で出ている。これは面白かった。この機会に、Amazonのレビューを少し改訂した。

平成22年4月11日

9日から3夜連続放送の合計8時間(CM抜きで7時間くらい)に及ぶ大型ドラマ。脚本の三谷幸喜さんが好きなので、撮影中のあれこれが新聞に載った頃から気になっていた。

1.

のっけからドラマとほとんど無関係の自分語りをはじめるのだけれど。

私の場合、授業参観も運動会も嫌いで、とにかく学校へ両親がやってくるのは嬉しいことではなかった。これは「照れ」ではなく、本当に不愉快なことだったのだ。

幼稚園の頃には、両親が観に来るのが嫌で、お遊戯会をボイコットしている。このときは「トイレに行く」といって教室に戻り、アップライト・ピアノの裏側の隙間に潜り込み、そのまま不貞腐れて昼寝してしまった。黒いカバーに日差しが当たっていて、その内側は眠気を誘うような気温になっていたらしい。このとき、両親はもちろん幼稚園の先生も、私を見つけるまで1時間以上も駆けずり回らされたということだ。

これはいまだに私にとって「かくれんぼ」の最長隠棲時間記録だ。高校時代に一時期、美術部の中で「かくれんぼ」が流行ったときも、とうとうこの記録を抜くことはできなかった。

それで私の母は、泣く泣く運動会を見に行くのをやめた。私が運動会で走っている写真は、幼稚園のときが最後である。ちなみに私が通った小学校では、共働きだったり片親だったりで、仕事が多忙なため運動会に保護者の来られない子が何人もいたため、昼食は全員、教室で食べるのが慣例だった。

2.

『わが家の歴史』第三夜の最後の山場は運動会で、家族がみな運動会に集まってくる。私がそれを見て白けているかというと、じつは全くそのようなことはなく、感動して涙ぐんでいるのだった。こういう話をすると「どうして?」と首を傾げる人がいる。すごく乱暴にいうと、物語の好き嫌いが激しいタイプの人。

何でもかんでも自分に置き換えて考えちゃうのね。自分なら好きになれないタイプの人と恋に落ちるキャラクターがいたりすると、途端に「信じらんない」とかいいだす。私の場合はそうではなくて、運動会のシーンはようするに家族愛を描いているわけで、いったん抽象概念に置き換えてから、共感するわけ。

「よくそんな器用なことができるね」なんていわれるんだけど、いちいち推理小説を読むのに殺人犯に自分と一体化するような共感の仕方なんてしていたら、むしろ頭がおかしくならないか。ともかく、世の中にはこういう人もいるのだから、表現規制に熱心な人が出てくるのも当然だな、とは思う。

3.

さらに関係ない話。私は、父と遊ぶこと、母からプレゼントをもらうこと、なども嫌いだった。いや、今も、かな。

父は私とキャッチボールや将棋などをしたかったのだそうだけれども、私が嫌がるので、人生の夢は事実上、叶わなかった。たしかにキャッチボールも将棋もできたのだが、私は始終ブスッとしていたのだ。というか、そもそも私はずーっと父が好きではなかった。理由はとくにない。父にとっては、全く不幸な話である。

母はときどき私にプレゼントをくれたが、私は何をもらっても喜ばなかった。あれこれ試し続けた挙句、母が理解したのは、私がお金を物に替えること自体を嫌っているという事実だった。私はお小遣いをひたすら貯金し続け、何も買わなかった。服は穴があくまで着続けることを望み、母が早めに新しい服を買ってくると、私は怒ってそれを着なかった。そのまま年月が過ぎて弟のものになった服が何着もある。

父は早々に匙を投げたが、母は子どもに物を贈るのが「楽しい」ので、我慢して受け取りなさい、といい続けた。近年、東京へ寄席の見物にくるついでに冷凍食品などを持ってきてくれることがあるのだけれど、母は必ず事前に「冷凍食品を持って行くけど、いいかい?」と訊ねてくれる。私の偏屈も今ではかなり和らいだので、「ありがたくいただきます」と返事をする。

だいたいテレビドラマに出てくる子どもって、お父さんが家に寄り付かないと寂しがるし、お母さんに新しい服や靴なんかを買って貰うと喜ぶ。そうでない場合は、特別な理由が付けられている。中学生になる頃には、テレビの中の世界に自分みたいな人間は存在できないらしいな、と私は気付いていた。

「リアリティー」って、何なんだろうね。

平成22年4月10日

ジャングルめがね (すきすきレインボー)

1971年に雑誌発表され、1977年に刊行された、筒井康隆さんの数少ない絵本の復刊バージョン。77年版の長尾みのるさんの挿画も悪くないのだけれども、新版のにしむらあつこさんの絵は本当に素晴らしい。思い切って全面的に本を作り直した甲斐のある出来。

本の感想はリンク先にレビューを書いているので、そちらでどうぞ。読了後、あと2ヶ月くらいすると今年の読書感想文の課題図書が発表されるんだよな……なんてことを思った。過去4年の課題図書は、全て読んでいる。どれも面白くて大ハズレがない。自分で童話を選ぶのが面倒な人にはお勧めしたい。

平成22年4月9日

コンバージョンという言葉がよくわからなかったのだけれども、「商談が成立する確率の高さ」みたいな意味なのだそう。そういえば先月もワケわかんない言葉を見かけたよな……と思って検索してみると。

「ナショナルクライアントのブランディング広告を獲得する紙媒体のベストプラクティスを研究しつくせ!」

そうそう、これだ。翻訳すると、「大企業による、知名度や印象の向上を目的とする広告を獲得する紙媒体をつくる、最も効率的な手法を研究せよ」といった意味になるらしい。

安直に翻訳すると、言語が持つ微妙なニュアンスが抜け落ちてしまうという理由はわかるけど……って、私もいきなりカタカナ語を使ってしまった。この「ニュアンス」は「微妙な差異」と書いても何の問題もないのにね。どうして「ニュアンス」なんて英語の綴りも知らない言葉を使いたくなるんだろうね。

自分のことなのに、わからない。ましてや他人のことなんて、そう簡単にわかるものではない。とりあえず自分は、微妙な意味の違いより、確実におおよその意味が伝わることを重視して言葉を選びたい。無意識に任せていると、ついついカタカナ語を使ってしまう。気長に戦っていくしかない。

逆リンク!

平成22年4月8日

私は他人の顔の見分けがつかない方なので、こういうデータベースは楽しい。楽しいが、写真がAmazonの写真集へのリンク画像などではなく、あちこちのブログなどから持ってきていることに気付いた。とすると明らかに肖像権や著作権の問題があるわけで、自ずと忌避することになる。

こういう話をすると、「いちいちそんなこと気にする?」と不思議な顔をされる。でもさ、自分の写真が勝手に使われたら嫌だろう。芸能人ならいいじゃん、なんて勝手なことをいう人がいるけれども、いいわけがない。そりゃ気にしない人もいるのは事実。でも「ちゃんと事前に許可を取るのがスジだ」という人も少なくないだろうし、それは理の通った意見だと思う。

しかもsoKKuriを見ていくと、芸能人ですらない、ただ単にニュースで取り上げられて肖像写真が新聞に掲載されただけの人もいる。そんなの本人の希望で顔を公開したのですらない。報道に求められて写真を提供しただけに過ぎないことは容易に想像がつく。

いや、想像できないのかな……?

平成22年4月8日

昨日の記事とほぼ同内容だが、「それでも民営化はした方がいい」という意見を書く。あと妄想アイデアを少し。

1.

今の政府が考えているように政府出資を残せば、業務の制約が残らざるをえず、収益はおのずと限界が出てしまう。こうなると結局、郵政職員20万人以上を食わすためには、民営化しないときと比較して最大年間1兆円の国民負担(逸失利益)が避けられなくなる。

この見解を素直に肯定できないのは、日本郵政には「ユニバーサルサービスの維持」という制約があることだ。職員数を20万人と書いている以上、法律の本文でユニバーサルサービスの維持を義務付けられていないゆうちょ銀行単独の生き残り策を考えているわけではないだろう。

つまり、国民が主に地方でのサービス低下を許容しない限りは、日本郵政には何らかの支援が必要だ。そうしなければ、ほぼ確実に同業他社との競争に敗れる。非正規雇用を含めて約43万7000人もの職員が必要なのはなぜか、ということだ。

単純には、官営でも民営でもユニバーサルサービスの維持に必要な追加コストは同じだ。基本的には利用者負担でほとんどのコストを賄うことができる。足りないのは少しだけだ。

「法人税・固定資産税・消費税等の免除+特定分野の市場独占を許容する」という従来方式は、一見「税金の投入」を必要としないので、国民が許容しやすいものだった。しかし実際は、独占によるサービス価格の高止まりは国民負担そのものだし、免税と税金による補助金の支給は形式的な違いに過ぎない(国民感情においては不思議と大きな差があるのだが)。

高橋洋一さんの仰る通り公的な支援が業務の制約が不可分ならば、ユニバーサルサービスの維持を捨てない限り、仕方のないことに思える。しかし……。

2.

先に「単純には」官営でも民営でも同じと書いたけれども、実際には違いがあると思う。官営では経営合理化のインセンティブが乏しい。ユニバーサルサービス維持の仕組みが「固定額の補助金」なら、民営化された日本郵政は、経営努力によって利益を増やすことができるし、そうしようとするはず。

ユニバーサルサービス負担金の金額見直しを3年毎にすれば、2年目以降は、合理化努力がうまくいけば、補助金の内のかなり部分が利益になるということもありえる。

この観点からは、固定電話のユニバーサルサービス制度をそのまま郵政に応用することには異論がある。NTTは上下一体方式で民営化されたため、固定回線について他社とまともな競争にはなりえない。だから半年毎に負担金額が改定され、NTTが頑張っても利益は出ない。ゆえに経営合理化のインセンティブを欠いている。

もし郵政のユニバーサルサービス負担金も半年毎の改定になるなら、動機付けの点で官営と民営に大差はない。公費が投入されながら利益を競うことには、医療や介護の前例がある。郵政の場合、郵便も貯金も保険も競合他社が存在する。頑張れば儲かる仕組みにして、競合各社に門戸を開く仕組みにならないか。

ネット銀行やネット保険でよければ、今でもほぼ全国どこでも利用できる。それでは足りないといわれるのは、ようするに店舗の問題だろう。とすると、郵政のユニバーサルサービスとは、端的には郵便局をいかに維持するか、という話になる。そうであれば、例えば市町村単位での参加もありなんじゃないかな。

地方の信金などが、補助金があれば利益が出ると思えば手を上げる。あるいは窓口管理専門の会社を新規に立ち上げて参加することも認めたらいい。複数の会社が手を上げた場合は、公開入札方式でほしい補助金の額を下げていく方式で決める、とか。

3.

グループ内取引の消費税を免税するといった「特権を与える」方法では、競合他社から文句が出るのは当たり前だ。そんなズルをするなら、民間と競合する事業からは手を引くべきだ、ということになる。しかし実際にそのようにしたら、暇な人員を全国に配置することになって、非効率だ。

クール宅急便はヤマト運輸が開発した商品であり、政府に優遇されている日本郵便株式会社が提供するのはおかしい、なんて議論がある。それはそうかもしれないが、郵便サービスには一定の人員が必要であり、官にしかできないサービスだけを提供していては人件費が重すぎて大赤字になる。

bewaadさんの案は官と民の役割分担が明確でわかりやすいのだけれども、経営の合理化を進めて国民の負担を最小限とするインセンティブ構造がどうなっているのか、疑問なしとしない。

ユニバーサルサービス維持のための補助金をどの業者でも受け取れる仕組みなら、政府が日本郵政を特別扱いする必要はない。政府は株式を完全に売却できる。免税措置も不要だ。固定電話の事例のように、電話利用者から負担金を徴収するなら、財源の手当ては不要だ(増税と実質的な差異はないが……)。

というわけで、上記のような形でユニバーサルサービスを維持するならば、郵政を官営から民営へ変更することで、財政の改善にも多少の貢献が見込めるだろう。

現在でも郵便局株式会社はかんぽ生命以外の保険会社の商品を代理販売していたりする。信書郵便の全国集荷+統一料金配達とサービス窓口の維持こそが課題で、それを担うのが日本郵政でなければならない理由はない、という発想の転換が現実に可能なら……夢物語かな。

余談:

リフレ派ブログを見ても細かい話が多くて、どうもスッキリしない。私はユニバーサルサービスの維持コストと、ゆうちょ銀行はリスクを取れない(し取るべきじゃない)ということ、この2点がポイントなのかな、と思って考えをまとめてみたのだけれども、同じような整理をしている記事を見かけないので、少し不安。

重大な問題を見落としているよ、といった指摘は大歓迎。郵政改革は、参院選の投票先を選ぶポイントにしようと思っているので、よく考えたい。

平成22年4月7日

1.

竹中正治さんの記事なので、論旨はわかる。でも、編集者がつけた記事タイトルとはスッキリつながらない。記事の内容は、郵貯の運用がデフレ予想に賭けて長期の国債に偏っているため、インフレ・利上げ局面では定額貯金の「6ヶ月経過後は解約自由」という商品性が不利に働き、大幅な損失を出すだろう、というもの。

私なりにタイトルに合わせて内容を補うと、多分こういうことだと思う。

限度額の引き上げで増えるのは高い運用利回りを求めるお金であり、その大半は定額貯金に入るだろう。現在の定額貯金の金利は、民間金融機関の長期の定期預金より低くなる仕組みだが、デフレ・低金利局面では、金利差は僅かなので「暗黙の政府保証」幻想で人気を集めるだろう。

しかし定額貯金は簡単に借り換えや解約が可能な商品だ。インフレ・金利上昇局面では、民間金融機関の長期定期預金との金利差が大きくなり、貯金の流出が起きると考えられる。このときゆうちょ銀行は高値(低金利)で買った国債を安値(高金利で割り引いた価格)で売って現金化せねばならず、膨大な損失が出る。

ゆうちょ銀行が破綻を避けるためには、低金利を維持しても郵便局ネットワークの利便性ゆえに口座を解約されない小額の普通預金需要に特化していくべきだ。デフレと低金利が続けば財政の悪化は止まらず、いずれ国債価格は下がる。インフレ・金利上昇局面がこないことを祈っても未来はない。

となれば、預金限度額は引き下げた方がよい。貯金残高×平均利ざや=粗利益だから、限度額を引き上げれば短期的には利益が増えるだろうが、それは郵政崩壊への道なのだ。

郵貯が「暗黙の政府保証」幻想を抱えつつ破綻しないためには、国債中心のローリスク運用を続けつつ、民間銀行より金利が低くなっても見捨てられないであろう普通預金需要を中心に細々とやっていくしかない。

2.

物価をはじめ経済環境の異なる国々の間で郵便物の集配を実現するために万国郵便条約が存在し、郵便にはユニバーサルサービスが必要だ、ということが謳われている。日本もこの条約に参加しているので、郵便はユニバーサルサービスを維持しなければならない。

が、「山小屋等を含む、全ての人家から徒歩30分以内の場所にポストを設置し、毎日郵便物を集荷しなければならない」なんて無茶を要求されているわけではない。過疎地から郵便局がなくなっても、それがただちに条約違反だということにはならない。そのあたりは国民の価値判断に任されている。

しかし残念なことに、国民の意見はよくわからない。だから私も勝手な予想を書くのだが、ユニバーサルサービスの維持コストが明確になれば、多数意見は「もっと水準を下げてよい」となるのではないか。

しかし割を食う田舎の人々は、きっと大きな声を上げるだろう。だから多くの政治家は、何かしら詐術を編み出してコストを見えにくくし、サービスを維持しようとする。例えば、信書事業を独占させ、高い郵便コストを黙認することが、その一例だ。これは資本主義の原則に反する政策だが、税金を投入すると強烈な反発があるので、このような形でユニバーサルサービスの維持コストを捻出している。

改めて強調するが、これは詐術である。税金だろうと、独占による価格吊り上げだろうと、結局は国民が薄く広くユニバーサルサービスのコストを負担していることに変わりはない。だが、増税より独占価格に日本国民は甘い。理由はわからないが、ともかくそうなっているので、こんな詐術が成り立つのだ。

3.

郵貯の限度額引き上げは、本来、不要なはずだった。信書事業の独占により、ユニバーサルサービスの維持コストは確保できるはずだったのだ。ところがヤマト運輸や佐川急便のメール便などに市場を侵食され、状況が変わってしまった。

みんながやりとりしていた封筒の中身のほとんどは「信書」ではなかったので、例えば定形郵便を80円を100円に値上げしたとき、ストレートに「収益が改善する」とはいいきれない。メール便などに需要が流れて、かえって赤字になるかもしれない。

日本郵政に信書市場を独占させる理由を「ユニバーサルサービス維持のコスト捻出のため」と明確にしたうえで国民の了解を取り付けていれば、こうはならなかった。しかし実際は、信頼性やら何やらという説明を前面に出していたので、メール便を認めざるを得なくなった。そうして、信書市場の独占だけではユニバーサルサービスの維持は不可能となり、「だったら郵貯で稼げるようにしよう」という話になったわけだ。

しかしその問題点は既に述べた通りだ。「暗黙の政府保証」はそもそも幻想だし、インフレ・利上げ局面で大きな金利差すら相殺するほどの魅力があるとは考えられない(実際、税金の迂回投入による金利補助がなくなって以降、利回り比較で優位性のない郵貯の残高は次第に減りつつある)。

ゆうちょ銀行はむしろ運用目的の預金需要とは距離を置き、将来の破綻懸念を払拭するべきだ。郵便事業のユニバーサルサービスのコストをゆうちょ銀行に押し付ければ、いずれ大変なことになる。こうした公共サービスのコストは、きちんと国民の理解を得て、わかりやすい形で徴収する方がよい。

例えば、固定電話のユニバーサルサービスの維持コスト負担を参考にできないか。もともと郵便の価格を10円、20円上げても利用者が減らなければ何とかなるという程度の話なのだ。信書の独占を廃止した上で、個配サービス業者みなが、配達物ひとつにつき1円とか5円とかその程度の価格(未検討)を上乗せしてお金を出し合えば足りるはずだ。

4.

が、それでは郵便事業の支援どころか、ゆうちょ銀行自体の維持経費も賄えないのでは? という疑問がある。田舎ではゆうちょ銀行が唯一の金融窓口であり云々。しかし端的にいえば、そのような土地には民間金融機関が支店を置いても儲からないから郵便局しかないのであって、その維持に無理があるのは当然である。

全国にくまなく展開しているところにゆうちょ銀行の強みがある、と私は思う。その利点が収益に結びつかないか。つかない、ということならば、税金を投入するか、何らかの特権を与えるしか、窓口を維持する方法はないだろう。

「日本郵政のグループ内取引は消費税を免除する」という亀井案は、ひとつの特権のあり方。他にも、これは全くの素人考えだけれども、「田舎の郵便局はコンビニ等の商店を兼業してよい(=家賃や人件費の大半は兼業する商売の収益で賄うようにする)」といったことも考えられると思う。

田舎の小さな郵便局へ行くと局長が昼寝をしていたりする。クリーニング店、衣料品店など、店員が暇そうに談笑していることの多い商売となら、兼業しても激務で死ぬようなことにはならないと思うのだが、どうだろうか。

郵便事業と異なり、銀行や保険の窓口にユニバーサルサービスを義務付ける根拠は乏しい。が、国民が「採算に合わなくてもやれ」というなら、そのコストを明示して、やればいい。ただ、郵便の場合は条約という大義名分と信書市場の開放という取引材料があったから民間業者を巻き込める可能性があるけれど……。なので、前段では民間金融機関を巻き込まないアイデアを書いてみた。

5.

5年前、構造改革より金融緩和の徹底こそ優先すべき、という話は理解できたけれども、正直なところbewaadさんが郵政の民営化自体に首を傾げる理屈がよくわからなかった。が、いま読み返してみると、ものすごくシンプルな話で、いったい何がわからなかったんだか……。

ようするに、日本郵政が競合他社にないユニバーサルサービス提供という制約を課せられるなら、何らかの補助なしに事業を継続できない。日本郵政が優れた事業体だとしても、民間企業の弛まぬ努力にハンデ戦で勝ち続けることは不可能に近い。国民が田舎の生活水準の低下を我慢できないとすれば、「民営化」など国民負担を見えにくくするだけのまやかしでしかない。

既に書いた通り、郵便事業だけなら、完全民営化+ユニバーサルサービス維持負担金という形で実現し得ると私は思う。しかしゆうちょ銀行やかんぽ生命の窓口も維持しようとすると、いまのところ具体像が想像できない。必要な公共サービスなら官営の方がわかりやすい、逆に民と官が競合するのも馬鹿げた話だよね、というbwaad案が、ようやく腑に落ちた。

平成22年4月6日

最近の、よくわからない問題のひとつ。ユーロなんてのは管理通貨版の金本位制みたいなもので、デフレ不況を耐え忍んでまでユーロに固執する意味があるとは思えない。

2000年代の好景気の波にドイツとフランスはうまく乗れなかった。それはユーロが足枷となったからだ。欧州は最適通貨圏とはいい難く、相対的に発展途上国に近い国にとっては緩和的な金融環境を、逆にドイツやフランスなどにとっては引締め的な金融環境をもたらしてきた。ユーロ参加国の苦労を見て、アジア統一通貨構想の類も下火になるといい。

為替相場の変動ってみんな嫌なんだよね。それはわかるんだけど、経済の調整弁として優秀なのは、やっぱり物価より為替の方だと思う。

こちらはラトビアの話。通過の切り下げで景気回復を目指すのは勘弁してほしい、というのが債権者側の意見。そこで、デフレを敢行して国内産業の輸出競争力を回復させたのだそう。ラトビアの人々は激痛に耐えて頑張っているようだけど、債務デフレの問題は大丈夫なのかな。そこがよくわからない。

しっかし全国民的に給料の3割カットとかやってるそうで、すごい話だな。為替を3割切り下げても大した混乱はないが、物価を3割切り下げるのは大変なこと。しかし内政の混乱で昨年3月に首相交代劇はあったものの、連立与党の枠組みは変わっていない。今年の秋に4年の任期が終って、選挙になる予定。結果が気になる。

平成22年4月5日

今週は春の交通安全運動で駅周辺の交差点にお巡りさんが立っている。

池袋東側、ジュンク堂前の交差点

ピピピーッと鳴る笛の先を見ると、たいてい「ちぇっ」という感じの表情をした人がいる。あー、警察官ってつらいなぁ……と思う。あんな風に恨みがましい視線を受けても、交通事故を減らすべく日々努力を続けていかねば鳴らないんだもんな。こんなやつら自業自得だろ、勝手に死ね、と思うこともあるのだろうけれど、その気持ちを押し殺して、また背筋を伸ばして持ち場に戻っていく。

かくいう私も、朝、急いでいるときは信号が赤-赤になったらフライングしたくなる方。なので、お巡りさんが目を光らせていると、ちょこっとイラッとしてしまう。自分がもう少し早く家を出ればよかっただけなのにね。申し訳ないな、と思う。

平成22年4月4日

4月になって、あちこちで研修生バッジをつけた人が増えた。ぎこちない手つき、あやしい接客言葉で頑張ってる姿を見ると、私はなんだか気持ちがほこほこする。でも世の中には不慣れで余計な時間のかかってしまう研修生にイライラする人も少なくないらしい。

だったら……ということで、この時期、私は意図的に研修生の立っているレジに並ぶことがしばしばある。今日も書店でたくさん本を買って、一部の本について領収証をもらう、という面倒なことを研修生バッジの人にやってもらった。予想通り時間はたっぷりかかり、店員さんは「申し訳ありません」という。「いや……研修、頑張ってください」といって店を出た。

前から、いってみたかったんだよね。だけど(理由はわからないが)気恥ずかしくてなかなかいえなかった。でも、かつてアルバイト先でお客さんから応援の言葉をもらい、それが心の支えになったという経験が私にはある。これからも少しずつ、恩返しをしていくつもり。

平成22年4月3日

1.

なんで嫌なことをやめないんだろうな……と見出しを眺めて思ったんだけど、本文にはこうあった。

新入社員だった当時に「歓迎会で何かをしなくてはならず、嫌な気持ちになったことはありますか」とたずねたところ、72.5%は「ない」と答えたものの、4分の1強となる27.5%は「ある」と回答。

嫌な気持ちになった経験があるのは少数派なのか。ま、かくいう私も、とくに嫌な思いをしたことはない。ただしそれは、先輩方の努力の成果なのだった。数年前に延長雇用も終了した、私が新人の頃にたいへんお世話になった方は「昔、配属先の先輩に潰れるまで飲まされてね……」と語っていた。

2chで注目されたのは、記事の後半部。ざっと読んだ感じ、72.5%の「常識」的感覚がまかり通るのがふつうの集団なんだろうな、と。ボンヤリしていたら、そういうことになってしまう。27.5%のやりきれない思いに周囲が気付いて、世代交代を待たずに社内の文化を変えていった先輩方を、私も見習っていきたい。

自分と違う世代の感覚の場合、驚きつつも「違い」を理解しやすい。しかし年齢等、自分に近いグループの場合、偏見のため一人一人の気持ちの「違い」に、かえって気付きにくい。時代が移っても少数派のまま、という価値観も多い。自分が救われたいのなら、自分も人の悲しみに敏感でなければならない、と思う。

2.

先輩に教えられたこと。一般性があるかどうかはわからないけれど、ちょっと思い出したのでメモ。

「会社に、先生はいない。ルールを変えたかったら、周囲を説得して、自分で変えるんだ。全ての社員に、そのために必要な権限とツールが与えられている。こんな貧弱な道具では無理だ、できっこない。みんな最初はそう思う。でもね、基本的には、社員も社長も大差ないんだ。だんだんわかってくるよ」

もっと端的な表現として、これは別の先輩の言葉だけれども、「この会社に、神は存在しない」という説明にはシビレタ記憶がある。

平成22年4月2日

中古ゲームを買わず、売らず、と誓約したら、パッケージソフトを1本も買わないまま1年半が経ってしまったのだという。個人的には、これ、法律が経済の事情と不整合なので業界が困っているという事例のひとつだと思う。まあ「業界」の側も「販売差止」を求めて裁判を起こしたのだから、負けてよかったのかもね。

裁判で争われた当時、あるいは現時点においても現実的に実行可能なことかどうか、私には判断がつかないが、シンプルに考えれば、中古販売からも一定のリターンがあれば、権利者は納得がいくはずだ。2002年の段階では、そんな仕組みを強要したら、流通が煩雑になりすぎて中古市場が成立しない、といわれた。

が、不可能が可能となって、一度は滅びたビジネスが復活した事例はある。例えばコミックのレンタルだ。IT技術と個配流通の発達により、安価な漫画本の単品管理と、顧客との取引情報管理が現実的なコストで実現できるようになり、高度成長期に権利問題をクリアできずに滅びた貸本業が復活した。以来、私はコミックに関しては古書店の利用を極力減らし、権利者に利益が分配されるレンタルサービスを積極利用している。

コミックレンタルの成功例がそのままゲームにも適用できるとは思わない。しかし、中古市場と並立する形で、権利者にも利益が分配され、消費者にとってほぼ同等の利便性が提供されるビジネスが、いずれ始まることを期待したい。ただ……海外ではどうだか知らないけれども、日本では長く続いた法律は道徳のようになって価値観と融合してしまうこともあって、スッキリした解決策はなかなか実現されないんだろうな……。

どっちもいい感じのサービスだと思う。漫画を読むのが遅くて、「漫画喫茶だと急かされているような気分になってしまう」という人に、まずお勧めしたいかな。

余談:

やまなしさんは昨年もずーっとゲームの話題で意欲旺盛に記事を書き続けてこられた方なので、今回の件は正直、驚きました。

・つまんないかも知れないから様子見
→ 根下がりするかも知れないから様子見
→ 廉価版が出るかも知れないから様子見
→ 廉価版が出たということは続編が出るかも知れないな様子見

私の場合、シリーズ作品はなるべく第1作から遊びたいと思う性格なので、「続編が出そうだから様子見」はないですね。でも映画でもゲームでもテレビドラマでも、前作の評判を受けて続編が大ヒットという例には事欠かない。私のようなタイプは少数派なのかもなぁ。

ゲームソフトの場合、だいたい続編は前作よりいろいろよくなっていることが多い。首を傾げるのは大抵、物語ですね。いきなり続編をやると、進化したグラフィックや、改善された操作性が「当たり前」になってしまって、欠点にばかり目が行きがち。そういう意味でも、旧作から順にプレイするのが正解だと思ってます。

同様に、リメイク作品をプレイするときは、まず原作を見ますね。画面写真とか、プレイ動画とか。だいたいレビューサイト等では原作ファンがリメイク作品を酷評するのだけれど、正直なところ、本当の本当に原作の方に大きな魅力を感じたことは、私の場合、ほとんどないです。

そりゃまあ大雑把な見た目だけの判断なので当たり前なんですけど、人と会うときと同じで、ネガティブなイメージを払拭して、明るい気持ちで向き合うための儀式なのだから、それでいいと思うのです。

平成22年4月1日

経済成長の続く中国で、ようやく人手不足が実現しつつあるのだという。リンク先記事は中国人を雇う日本企業経営者の視点で書かれているので、なんだかネガティブな書き様になっています。しかしこれは、たいへんよいことだと思う。

チャイナ・アズ・ナンバーワン

チャイナ・アズ・ナンバーワン』で関志雄さんが示されている通り、中国は長らく比較優位にある労働集約産業に十分に力を入れず、先進国っぽいイメージを追い求めて(?)資本集約型産業の発展を目指してきました。その結果が、年率10%近い経済成長にもかかわらず膨大な失業者を抱え続ける歪な経済状況でした。労働者の使い捨てがまかり通ったのは、失業者があふれていたからです。

社会主義国といえど、労働市場の基礎条件を改善しない限り、こうした状況は改善できないことは歴史が教える通りです(賃金規制、雇用規制などは補助的にしか効果を発揮しない)。高度成長期の日本と同様、労働者を救うのは、何よりもまず人手不足です。

余談:

久々に『チャイナ・アズ・ナンバーワン』のAmazonページを見たのだけれど、こんな堅い本でさえイデオロギッシュなレビュー合戦の対象になっていることに、少し驚きました。

自在に国内株式市場を操作する、為替を国内物価のインフレなしで元安に固定する、最低賃金を失業率の悪化を伴わずに強制的に上げる、他国とFTAを結べば自国だけに利益をもたらす、そんな経済学無視の魔法が使える中国政府なのに、地価のバブル的な高騰にだけは対処する術を持たず破局と隣り合わせ?

中国政府の統計を信頼に値しないと切り捨てる慎重さを持つなら、自分の直感にも疑いの目を向けるべきだと思う。私も関さんの意見には賛同できないところが多々ありますが、海外できちんと評価を得た中国人エコノミストを政府の代弁者と「非難」するようなレビューが「参考になった」票を集めるのは悲しい。

しかも、ちゃんと読んでレビューを書いているみたいなんだよね。2ちゃんねらーが「中国叩きができれば何でもいいや」とばかりに適当なタイトルを検索して叩きレビューを投稿している風ではない。こういう本を読む層でさえ、こんなレビューを書くのか、と。

まあね、私だって、もっと「わかってる」人からは同じように思われているのでしょうけどね。