引用部を再読していただきたいのですが、私の主張は、「差別だ」「侮辱だ」という批判は、「その言論の自由を認めない」と同義ではないか? というものです。実際、差別は多くの自治体が条例で禁じていて、「侮辱」に至っては刑法に規定があります。しかし多くの人はもっと広い意味でカジュアルに「差別」「侮辱」といっているのであって、きっこさんの言論の自由を制限する意図はないとするならば、私の心配は杞憂です。これも私が記事に書いていることです。私が批判する側の言論の自由を無視しているという読みは心外ですね。
ふつうのサイホンの説明で「真空が引っ張る」という説明に違和感があるのは、実際には真空は存在しないからだと個人的には思っています。「大気圧と水圧が一致すると、それ以上、大気圧が水を押し上げることができなくなって真空が生じる」というだけで説明は足りていますよね。
スポイトの場合も、ゴム袋が広がることで内部の気圧が下がり、「大気圧に押し負ける」ことで水が入ってくるわけです。これを「吸う」とか「引く」というのは、直感的にはそうかもしれないけれど、やっぱり不自然だと思う。
追記に注射器の例が出てくるけれど、「注射器の各小部分に外向きの圧力がかかる」のはどうしてなんだろ。
水は大気圧によって持ち上がるんだから、ピストンはスーッと動く……あ、そうか。ピストンにも大気圧はかかっているので、結局のところ大気圧は相殺されて、水を持ち上げる力が丸々残るのか。だから結果的に、ピストンに「引っ張られて」水は移動することになる。重力と引っ張る力によって外向きに力が加わる。
待てよ、そうするとやっぱり、ガラス管を持ち上げていくときも、ガラス管に「引っ張られて」水は持ち上がっていくんじゃないのか。実際、位置エネルギーは増加するのだし。頭がゴチャゴチャになった……。
一部でサイホンが話題に。
中学で、こんな実験をやりました。
内径5mm程度のU字型ガラス管を水に沈め、これを1〜4図のようにそっと引き上げると、5図のようにガラス管内に水が保持されます。これを傾けると6図のB端から水が流れ出します。
5図と6図の違いは何かと考えてみると、A端とB端の水圧に差がないのが5図、水圧に差があるのが6図だと思う。この差は、位置エネルギーに起因するのではないかな。
以上より、私の体験的な理解は、こうなりました。
だからサイホンというのは、この2つの性質をうまく組み合わせた仕組みなのだろう、と。ただ、もう少し話は続きます。
中学時代、理解に苦しんだのが、7図の実験結果でした。A端側に水溜めがあるU字ガラス管を使っても、やっぱり最初は水が流れず、B端を下にして傾けると、B端の方から水が流れ出すのです。さらに、A端側の水面が水溜めに到達すると、水面が乱れて泡が入り、両端から水が流れ出します。
7図の実験からわかることは、大気圧は「水の重さ」を支えているのではない、ということです。重さを支えているなら、A端とB端の高さが同じでも、支える水の体積が大きなA端側から水が流れ出すはずでしょう。
それに、バネはかりで調べてみたところ、水槽から引き上げたときのU字管の重さは、実験後の、流れ出た水とガラス管の重さの合計とほぼ同じでした。水の重さを支えていたのは、両端の大気圧ではなくガラス管だったのだと思う。水には粘り気があって、管が十分に細ければ、ガラス管の内壁が重量を支えるのです。
ちなみに図8のようなガラス管を用いても、A端とB端の水面高さが同じなら水は流れず、違えば流れます。圧力というのは不思議だな、と思いましたね。
とすると結局、図5で水が流れ出さないのはどうしてなんだろう。大気圧はいったい何をしているのか?
図5において、大気圧≧水圧なら、水は流れ出ない。大気圧は栓の役割をしているのであって、大気圧が水の全重量を支えているのではない。……いったんはそう考えて納得したのだけれど、図6では、大気圧≧水圧であっても、水は流れます。実験を繰り返しても結果は同じ。何故だ! 私はブチ切れました。
まあ、自然を相手に怒っても仕方ない。仕切り直します。
今でも直感的には違和感を拭えないのだけれど、水というのは、じつはひとつの塊のようにみなすことができるのだそうです。1箇所に圧力を加えると、他の箇所にもほぼ一瞬で同じ圧力が伝わっていくようになっているらしい。だから、A端で上向きに作用している大気圧は、B端では逆に下向きに作用するんだって。だけどB端にも大気圧が加わっているから、図5では水は流れない。
ただし、A端の大気圧は、A端の水圧によって少し相殺されます。B端の大気圧も、B端の水圧によって少し相殺されるんですね。だから、図6のようにガラス管を傾けてA端よりB端の方が水圧が大きくなるようにすると、
(A端の大気圧ーA端の水圧)>(B端の大気圧ーB端の水圧)
こうなって、A端とB端の押し合いでA端側が勝利し、B端から水が流れ出すのです、たぶん。
頭では一応、そう考えて納得したのだけれど、サイホンから直感的に連想するのは相変わらず天秤やシーソー。だから図7のような状態を見ると、超常現象のような感じがしてムズムズします。どうしても開放部だけで水を支えているように思ってしまうのですね。
「お金にならないから」という理由での涙なら理解できますよ。私が「詭弁」だと言っているのは、これまでに数え切れないほどの牛や豚を殺してきた人たちが、今回だけは殺すことを「かわいそう」と言っているのが理解できないだけです。
リンク先に発言が掲載されている人々の中での多数派(以下、多数派と書く)の判断によると、きっこさんによるこの発言は「差別」なのだそうだ。畜産業に従事する人が傷付く言葉なので、きっこさんは反省して謝罪しなければならないらしい。私は、賛成しない。
牛や豚を利用するために「殺す」のは悪いことだ、という考え方がある。それは世間の多数派の意見ではないかもしれないが、思想・信条の自由は認められていいだろう。そして、憲法が擁護する思想・信条の自由とは、単に内面の自由のみを指すものではなく、その表現としての言論の自由をも含むものと私は解する。
表現の自由には制限があり、名誉毀損や侮辱は禁じられている。きっこさんを批判する人は、きっこさんの発言は畜産家を侮辱している、と主張する。
仮に多数派の意見を是とした場合、「少数派には言論の自由がない」ということにならないか。価値・道徳に関する話題において、多数派が正しいと考えている行為を間違っているといってはいけない、と。そうではない、というならば、きっこさんがどのような書き方をすれば、持論を主張しつつ、「侮辱するな」「差別するな」といわれずに済んだのか、正解を示してほしい。どのような言葉遣いをしたとしても、持論を述べることができないならば、「言論の自由は奪われている」といえるだろう。
私は、「言論の自由を徹底的に認めるべきだ」という立場には与しない。例えば、特定の人物・集団に対する殺意の表明は、その影響を鑑みるに、制限するのが妥当と考える。事実に反する言論、あるいは事実であっても公益に資するより私益を害する程度の方が大きい「プライバシーの侵害」に属する言論によって、特定の人物・集団を攻撃することも、制限されるべきだ。
しかし、言われた側が「傷付く」言論は全て禁ずる、という立場は採らない。
自分の中で明快なラインを引くことにはまだ成功していないが、両者の中間に、「ここから先は、言論の自由が制限されても止むを得ない」と考える境界が存在する。
これは多くの人が同意されることだと思う……といいたいところだが、実際には自分が事実に反する主張をしたときには開き直り、他人が同様のことをすると怒り狂う、という人が多いように見える。まあ、それはそれとして。
きっこさんは、獣肉食をしない人だそうだ。食べるために命を奪うことに心理的な抵抗がある生き物は食べない、という規範に従うためだという。魚介類や植物ならば、自分でも殺すことができるので、食べていいのだそうだ。きっこさんがブイヨンなどを使った料理を全く口にしないとは考えにくいが、そうしたことを言い募るのは揚げ足取りのように思う。
ちなみに私は、肉も魚介も野菜も食べている。動物に限らず、魚介類でも、植物でも、自分でその命を絶つときには躊躇する。かつて母の家庭菜園を手伝って「雑草」を抜いているときなども、「何の権利があって、自分はこの草の生命を奪うのだろうか」ということを、よく考えていた。今も、蚊をパシンと叩き殺したりするとき、「人の命だけ特別扱いするのは、人間の都合でしかない……」と思ったりする。
物心ついた頃から、私は、自分の命が、他の多くの命に支えられていることを認識していた。そして、自分にそれほどの価値があるとは、どうしても思えなかった。牧場へ行って柵の中で暮らす牛や豚を見ると、申し訳ない気持ちになった。幼稚園のイベントで芋掘りへ行けば、本来、サツマイモは翌年に新しい芽を出すために根を太らせるのだと教えてくれる。どうして人間がそれを食べてしまってよいのか、私にはわからない。
私がムスッとしているのを見つけた先生が「焼きイモおいしいね!」という。私は板挟みになって悩み、結局、笑顔を作って焼きイモを食べてしまう。自分は、こんな、こんなことを言い訳にして、サツマイモが何ヶ月もかけて太らせてきた命の源を食べてしまうのだ。悲しかった。イチゴ狩りにも行った。イチゴの実には、小さな種がたくさんついている。「この一口で、どれだけの命が未来を奪われるのだろう?」私はいまだに、種の数を調べたことがない。
自分が死んだら親が悲しむとか、そんなことはいくらでも思いつく。だが、それが私の生き続ける最も重要な理由ではないことには、気付いていた。私は、死を恐れ、快楽と怠惰を求め、ただそれだけのために他の命を犠牲にし続けているのだ。
幼い頃、私は夜、布団の中で丸まってシクシク泣いていることが多かった。静かで長い夜は、あさましく生きる自分を見つめる機会を提供してくれた。私が泣いていることで母がひどく胸を痛めていることを知って、私は感情を押し殺して心の中で泣くようにしたが、基本的な世界認識に変わりはない。
今も、高地へ旅してキャベツ畑に出くわせば、まずキャベツに感情移入する。もちろん、キャベツは何も考えていない。だが、花を咲かすことも許されず、刈り取られていく様子を見ると、「お前は何のために生まれてきたのだ……」と泣けてくる。
実家の庭の池の金魚をひたすら遊びのためだけに殺す野良猫、ドングリを溜め込んだまま忘れて腐らせるリス、獲物を木の枝に突き刺したまま忘れ去るモズ……生きるための最小限の殺傷のみが許されるとするならば、罪深いのは人間に限らない。だが、その事実が「自分が生き続けることへの疑問」を軽減することはない。
話が脱線した。
私は、きっこさんの意見に(少なくとも全面的には)賛成していない。しかし、きっこさんの言葉を「差別だ」「侮辱だ」「許せない」と批判する意見には、異を唱えたい。端的には、「謝罪が必要な発言」だとは考えていない。
残酷な殺戮が嫌なら転職すればよいでしょう。生き物の命を奪って現金に換えるという罪深い生き方を選択しているのはご本人でしょう。
この発言を捉えて、多数派は「畜産農家や屠畜業者への差別だ」という。仮にそうだとしよう。では、「家畜の屠畜は不道徳である」と考える人に、言論の自由はないのだろうか。
これが、「屠畜業者の方は入店お断り」とか、そういった差別行為なら、私も賛成しない。しかし言論まで封じてしまってよいのか。大勢が善しとする行為であっても、自分が「いや、それは罪深いことなんだ」と思うなら、そう主張してよいのではないか。屠畜を「残酷な殺戮だ」と思った人が、その思いを言葉にしてはいけないのだろうか。
不愉快な発言に対して「不愉快だ」「ショックを受けた」「悲しい」「怒っている」「心が折れた」などと反応することを、私は否定していない。
じつのところ、「差別だ」「侮辱だ」「許せない」といった人たちも、言葉が上滑りしただけで、とくに深い考えはなかったのかもしれない。あるいは、法律用語としての「差別」や「侮辱」ではなく、もっと広い意味でその語を用いただけ、かもしれない。そういうことならば、私の心配は半ば杞憂だ。
それでも、「差別」や「侮辱」は、人々が法律を作って少数派の自由を制限することにした事柄である。「あなたの発言は差別にあたる」という認識を素直に受け取るならば、「あなたがそのような主張をする自由は、社会によって制限されるべきだ」という意味にならないか。「差別だ」「侮辱だ」という言葉は、法律を背景として過剰に作用し、対等な言葉の応酬を破壊することにならないだろうか。
きっこさんの主張への批判のうち、よくわかるものを2つ。まずyoichiro51さんの意見。
食用で屠殺することと、口蹄疫で殺処分することとではそこに従事してる人達の無念さや悲壮さって全く違うものだろ。(後略)
続いていっしょうさんの意見。
親類が宮崎で牛を養っています。出荷にする際になんとも思ってない訳ではありません。感謝の気持ちを持って、でも自分達の生活がある、という複雑な思いで出荷しています。涙ながらに牛を殺したという発言を詭弁だとするあなたには畜産業者に対する想像力がなさすぎる。
私なりに言葉を補って、きっこさんでも納得できそうな整理を試みると、こうなった。
畜産農家も屠畜には抵抗があるが、人々の幸福な生活のための犠牲である、という理由付けによって精神的負担は大いに軽減されている。口蹄疫の拡大防止を目的とする殺処分もまた世のため人のための行為だが、家畜の血も肉もただ埋められて、それ自体は直接には何ら人々の幸福に役立たない。ゆえに、平時の屠畜と比較して、大切に育ててきた家畜を失うことへの納得感に乏しい。このとき、相対的に「死にゆく家畜がかわいそうで仕方ない」という気持ちが前面に出てくるのは、自然なことだ。これは矛盾でも詭弁でもない。なお、家畜を肥育してきた苦労が水泡に帰す無念、生活の基盤を失う悲壮さについては、双方とも基本的に認めていて、とくに争点となっていないので略す。
つまり、家畜の死への抵抗感はもともと存在していたのであって、殺処分だから「かわいそう」、ふつうの屠畜なら「とくに何とも思わない」、というわけではない、と。これはよくわかる。
小学校で、私は「美化委員」を務めたことがある。美化委員の主な仕事は花壇の管理だった。ある日、私は花の終ったチューリップを引っこ抜いて次の花を植えることを指示された。私は、拒否した。「それでは花が咲いた意味がない」と先生に訴えた。ちゃんと種を取って、来年また植えたらいいではないか、子育て中の植物を醜いと判断して、ただそれだけの理由で殺してしまってよいのか、それは母親を大切にしなさいという教えと矛盾しないか、自分が美醜だけで判断されたら怒るくせに、人間はあまりに身勝手ではないか。
先生は、私の意見をじっくり聞いてくれたが、「隆夫くんの意見は、よくわかりました。でも、仕事として、花壇に花を絶やさないようにしてください。花を楽しみにしている人はたくさんいます」という。自分がやらなければ、他の人がやるだけのことだ。ならば、その命を絶つときに痛みを感じる私がやった方がいい、そう思った。
はじめのうちは嫌々やっていたことだったが、植物が立派に育って花壇に花が咲き乱れると、とても嬉しかった。こんなものは、人間以外の命を全く単なる道具として扱う、人の身勝手の象徴だとは思ったけれども、それでも感動していた。いつの間にか、私はせっせと花壇の手入れをするようになった。
ところが、秋になると、駐車場の端に作られた水はけの悪い花壇で、ケイトウが枯れてしまった。秋の長雨に対して、私が不注意だったせいだ。枯れたケイトウを抜いて植え替えたときは、本当に悲しくて悲しくて仕方なかった。
「あと1ヶ月はきれいに咲いていられたはずなのに」と思うと、最初にチューリップを抜いたときの重さが、すっかり蘇った。「10月下旬まで咲き続けてほしい」なんて、ケイトウに対して人間が一方的に与えたミッションだということは、重々承知していた。ケイトウは人間のために花を咲かせたんじゃない。それをわかっていながら、私は、花が終ったらケイトウを引っこ抜いて捨てることにしていた。
それでも、その人間の勝手をきちんと通すことができず、任務途中でケイトウを死なせたとき、私は打ちのめされた。作業に慣れていくうち、私が次第に鈍感になっていったことは事実だ。しかし私は、植物の命を奪うことについて、何とも感じない人間に変わってはいなかった。感情に蓋をする言い訳を失ったとき、痛みと悲しみは再びドッと噴き出してきたのだった。
スーパーの店内掲示などで、牛や豚のキャラクターが「**産の肉はおいしいよ!」とか笑顔でアピールしているものを時々見かけるけれども、個人的には違和感がある。人間に食べられたくて太った家畜はいないと思う。牛乳や鶏卵だって、家畜が人間のために生み出したものではないだろう。
だからといって鶏に感情移入して怒るというのもおかしい。私が一時期、観察した限りでは、鶏は卵を人間に取られたことを認識できていないか、日々忘れていっているように見える。餌さえもらえれば、喜ぶ感じだ。鶏は怒っていない。卵を取ることに胸の痛みを感じるのは、自分の問題であって、じつは鶏は関係ない。
まだ若い実を奪われるイチゴも、当然、何も考えていない。イチゴは悲しまないし、怒りもしない。逆に、イチゴは人間のために実をつけているのでもない。ただ、生きている。
今後しばらく、deztec.jp以下のコンテンツはGoogleから検索されないらしい。
deztec.jp のウェブマスター様
このたび、貴サイトにおきまして、Google のインデックスへの登録中に Google の品質に関するガイドラインに沿わない箇所が確認されました。品質に関するガイドラインは次の URL にてご確認いただけます。 http://www.google.com/support/webmasters/bin/answer.py?answer=35769&hl=ja
今回は特に「隠しテキストや隠しリンク」に該当する不適合が確認されました。具体的には、http://deztec.jp/x/03/faireal/articles/6/22/ における次の内容が不適合箇所の一例です。
RA→AVI, RA→MPEG, RA→MPG, RM→AVI, RM→MPEG, RM→MPG, RAM→AVI, RAM→MPEG, RAM→MPG, ストリーム録画, ストリーミング録画, ストリーム録音, ストリーミング録音, RealPlayer, RealMedia, ローカルに保存, ファイルを保存, ダウンロード
隠しテキストや隠しリンクに関する詳細は、次の URL をご参照ください。 http://www.google.com/support/webmasters/bin/answer.py?answer=66353&hl=ja
Google の検索結果の品質を保つために、deztec.jp の一部もしくは全体が検索結果から一時的に (最低 30 日間) 削除されます。
引き続き、Google のインデックスへの登録をご希望される場合は、ガイドラインに違反する全てのページ (提示した例が全てとは限りません) を修正していただくことをお願い申し上げます。修正後は、https://www.google.com/webmasters/tools/reconsideration?hl=ja にアクセスし、詳細を確認のうえ、再審査のリクエストを送信してください。
お手数をお掛けしますが、何卒ご理解とご協力賜りますようお願い申し上げます。 Google サーチ クオリティ チーム
私には思い当たるふしのない話で、一読ポカンとしたのだけれども、問題のあるページの例が転載コンテンツだったので、「あー」と思った。
問題を指摘されたページを見た感じ、転載コンテンツのCSSを全部削除すればいいんだろうと思った。しかし、2003年に転載した『妖精現実』はサイト構造が複雑すぎて何がなんだかよくわからない。当該ページだけの問題なら、簡単に解決できるけれども、他に同様の箇所がいくつあるのか、想像もつかない。『妖精現実』は2005年にもディレクトリを廃したフラットな構造で再転載しているので、2003年版は削除することにした。
そういえばもう長いこと、Googleで転載元の『妖精現実』が出てきていなかった。私はてっきり、管理人がGoogleを拒否したのだと思っていたけれども、Yahoo!には出てくるのが不思議だった。ようやく謎が解けたよ。私はたまたまウェブマスターツールに登録していたから、検索インデックスから削除された理由がわかった。けれども、2003年に転載したまま放ってあった記事が原因となって、今頃こういう対処をしてくるのだから、ふつうでは理由を理解できないと思う。私も2005年に再転載して以降、2003年版なんて忘れてた。
最近のページビューの半分を占めていた『ハーバード白熱教室ノート』へのアクセスは約7割がGoogle経由だったので、アクセス解析の画面が急に寂しくなった感じだな。
サイト内検索をGoogle頼りにしてたので、最低30日間もGoogleなしというのは、ちょっとつらいな。一時的にYahooへ切り換えてもいいんだけれども、こういうとき、静的記事生成のブログツールを使ってると、腰が重くなるんだよね。
過去にも何度か書いてきた話題だけれども、あらためて。
「オンラインブックマーク禁止」「無断リンク禁止」と謳うことについて、私は肯定的です。現時点で、法的な後ろ盾はないのですが、これらの意見に与する人が増えていくならば、いずれ「相手の希望を無視してオンラインブックマークする自由」「相手が嫌がっていても無断でリンクする自由」は規制されるでしょう。
法律というものは、ある日突然、登場するものではありません。現状を良しとしない人々が少しずつ賛同者を集めていった結果、民主的な手続きによって制定されるものです。
しかし法律というのはあまり融通がききませんから、できれば法律なしで問題が解消されるのが一番いい。
こうした構造を無視して、「現時点で、オンラインブクマは自由! 文句をいわれる筋合いはないね」といって自由を無駄遣いする人が、はてブ界隈には目立つ。気軽に人を傷付けて恥じない。「相手が嫌がっていても、世のため人のため、はてブするべきなのだ」という場合に限って、その自由を行使すべきだと私は思う。
人の悲しみが、怒りが、法律を生み出す。世界を、例外を許さない窮屈な場所に変えていく。自由を守るためには、自制心が必要なのです。既に私たちの自由が、どれほど奪われているか、考えてみてほしい。
私は「オンラインブックマークの自由」「無断リンクの自由」を擁護したい。守り抜きたい。だからこそ、カジュアルに自由を行使し、他人の気持ちを斟酌しない人々に批判的なのです。
「禁止」と謳ったからといって、本当に禁止できるわけではない。その注意書きが閲覧者全員に読まれる保証もない。しかし、「禁止したい」という意思を感得したとき、その心を尊重することはできるはずです。
唯々諾々と相手の主張を受容せよ、と主張したいのではありません。相手の悲しみや怒りを理解した上で、「なぜ自分がオンラインブックマークをしたいのか」をきちんと語ってほしいのです。暴力的な自由の行使ではなく、説得による状況の突破を目指してほしいのです。自分の方が正しいのは明らかで、間違った世界認識のために相手が傷付くのは自業自得だから、その痛みを自分が受け止める必要はない……といった発想は、他人の人格を軽視するものです。
よりよい世界のためなら、この犠牲はやむをえない、と切り捨てる考え方は、私も否定しません。しかし、「相手が勝手に誤解して傷付いたんだ。こっちが気に病むことじゃない」というのは、話が違う。私は功利主義に肩入れすればこそ、人を平等に尊重しようとしない考え方には与しません。人の苦しみを勝手に小さく判定したら、「差し引きすれば世界はよくなりました」なんて主張は、成り立たない。
こちらがそのつもりでも、向こうの方こそ、他人の意見を理解しようとする意思を欠いているじゃないか……。そうかもしれません。しかし、だからこっちも「議論の余地なし」という態度でいくんだ、と突っ張った先に、どんな展望を描けるのでしょうか。
Googleストリートビューへの批判には、「勝手に私道に入り込んでいる」といった大方の同意が得られる指摘の他に、「公道だからといって勝手に撮影して容易に検索・閲覧できるようにしていいの?」というものもありました。
「えっ!? 公道で写真を撮っちゃいけないんですか?」
「個人の家を他人にジロジロ見られたりしたくないですよ」
「へー、じゃあ道を歩く人はアスファルトしか見ちゃいけない、と」
「そうはいってません。地図情報とリンクさせて、世界中から容易に覗き見できるのは嫌だ、といっているんです」
「でも、イベントやお祭りのとき、自宅の周辺を見知らぬ大勢に見られるのが嫌だ、なんて理由で問題視する意見は聞いたことがありませんけど」
「通行人の視界に入るどか、友達とのスナップ写真の背景に写り込むとか、そういうことに神経質になるつもりはないんですよ。でも、たとえ一人でも、ジーッと生垣を覗き込まれたりしたら嫌でしょう。しかも地図情報と結び付けられてしまってる。気持ち悪くないですか」
「だからそれは、ストリートビューがなくても起きてる問題ですよね?」
「敷居が低くなっただけ、と仰りたいのはわかります。けれども、劇的な省力化が起きたのに、程度の差といって片付けるのは、議論が乱暴ですよ」
(中断)
そもそもオンラインブクマの危険は過大評価されている、という指摘。こんにゃくゼリーや回転扉と同様、「マイナーは迫害される」のパターンだと思う。ただ、実態と関心の大きさのズレは優先順位の問題を提起するが、オンラインブクマが検索除けの穴になる、という論理を突き崩すものではありません。
(中断)
4月下旬に宮崎県で口蹄疫が確認された。その後、新たな感染例が続々報告され、過去最大の家畜殺処分が決まるに至っている。政府の対策の遅れが指摘されるとともに、報道が不足しているという意見もネットの一部で話題を集めている。
私が考える「必要な報道」は、されていると思う。
こうした情報を、私は全て新聞から得た。薬局の待合室でテレビ報道に接する機会があったが、まず「人には感染しない」ことを強調し、また「畜産物を食べても問題ない」ことを伝えてもいた。みんなが知るべきことは、きちんと伝えているな、と思った。
対策費が数百億円規模なら、全国民的な同意を必要とはしないだろう。「農家の生の声が報道されていない」といって怒る意見には、賛同し難い。当事者の声は、状況が落ち着いてから、静かに報道するべきだ。
現在進行中の事態に機動的に対処する必要がある場合、過去の教訓の上に組み立てられた行動指針を遵守するのがベストだ。現在の当事者に多くの不満があることはわかるが、その声は次の機会に活かすしかない。混乱した状況で適切に意見を吸い上げて冷静かつ客観的な判断を下すことはきわめて難しい。
報道が足りないという人は、報道量がもっと多かったら、国民の後押しによって、こうした対策の遅れの要因となっている課題がサクサク解決されたはずだ……といいたいのだろうか。
私が思うに、口蹄疫は95%の国民にとって「よきに計らえ」で済ませたい問題であって、自分なりに勉強して意見を持ち、政府に物申したいと考えるようなテーマではない。宮崎産の畜産物、農産物の買い控えはすべきでないこと、旅行の自粛は必要ないことだけ確認できれば十分だろう。新聞では基本的な情報については既に1回は特集を組んで報道しているのであり、その後は淡々と数字の報道を続ければいいのではないか。
国会では野党がきちんと与党の尻を叩き続けている。自民党は総裁自ら口蹄疫対策本部長を務めているそうだ。誰からも忘れ去られた危機ではない。
政府の対策にどのような問題があったのかということは、口蹄疫がおさまった後で、専門家の調査を待って、NHKスペシャルのような番組で取り上げてくれたらいいと思う。そのときに、野党は4月の段階から云々みたいな話も出るなら、口蹄疫に関心のある人には十分、伝わるものは伝わるだろう。
ちなみに、遅きに失したという意見はもちろんあると思うが、政府は10日、患畜の埋設処分場として国有地を提供することを宮崎県に伝達した。具体的にそれがどこなのか、殺処分の遅滞がいつ解消されるのかは明らかでない。それでも、大多数の国民の理解とは関係なく、問題は少しずつ解決へと向かっている。
入社して半年ばかりたった男の子が、「来月友達と旅行行くんで1週間休んでもいいですか?」とかいってきた。
急にそんなこと言い出したから「ちょっと、さすがに一週間は無理でしょ」って注意したら、酷く怯えたような、物悲しいような恐ろしい顔で私のこと見てたけど、今考えるもっととソフトな言い方すればよかった。
とくに立て込んだ予定も入ってなかったから休ませてあげたい気持ちもないことはなかったけど、そんな習慣はなく、そもそもだれも有給休暇を消費しない社内環境で、上司や他の同僚が聞き耳立ててる状況ではやっぱり無理だよ。そんな恐い顔しないでよ。
あっても使えなくてさらにへんな罪悪感を植えつけるような制度なら最初から無くなって欲しいよ。
一読、ゲンナリする。不景気ってのは嫌だね、こんな会社をさっさと辞められないんだもん。
私は新人研修のときに、偉い人から「新人のみなさんは、ぜひ自由な発想で、会社のおかしなところを指摘してください。我が社では中途でも多くの方を採用していますが、とくに分けて新卒も採用しているのは、社会人の色に染まっていない、皆さんの若い感性を大いに取り込みたいと考えているからです。素朴な意見、取り繕わない正直な意見を大歓迎します」というガイダンスを受けた。
だいたいさ、自分が勇気がなくてできないことを、まだ空気を読めてない新人がやってくれるのって、すごく嬉しいことじゃない? これ幸いと新人をダシにして、前例をどんどん作っちゃえばいいのに。「部下ばっかり休んでいるのもどうかと……」とかいって、そのうちに自分も休みを取るようにするの。
有給休暇なんてのは、誰かが戦わなきゃ使えるようにはならないんだ。私の勤務先でも、「GWと有給休暇を組み合わせて半月連続で休む」というのは、ちょっと気後れする人が多くて。「新婚旅行に行かなかったので、銀婚式の記念に」とか「この機会に自動車の免許を合宿で取ろうかと……」なんて理由を作って、一生に一度の思い出作りくらいのつもりで使うというのがパターンだった。
ところが、中国からやってきた新入社員が、正月休みでいきなり半月休み、次のGWでまた半月休んでみせた。その後も毎年、年2回、半月連続の休暇を取り続けている。「うわっ、スゲー」と話題になったんだけど、3年経ったら「とくに理由はないけど」別の社員が半月休んだ。そうして少しずつ、その中国人の社員のいる職場だけだけど、半月連続で休むのに「言い訳はいらない」という常識が形成されていった。
私の勤務先ですら、労働者が当然の権利を行使しているだけなのに陰口をいう人がいる。「スゲー」じゃなくて、「何だアイツ……」っていう。不思議に思って、「あの……彼が休んで何か困ったことでもあったんですか?」と訊ねたが、答えはなかった。
念のため、書いておきたい。実際問題、誰も有給休暇を取っていない会社というのは、それを前提に給与水準と人員配置が設定されている。急に社員全員が有給休暇を消化したら、売上が落ちて、翌年の給与は減ることになるだろう。これまでの仕事の仕方には無駄があったはずなので、生産性を向上させれば……なんてのは理想論で、現実にはそうはいかない。
そういう意味では、休みを増やすより給料を維持したい人が、直感的に反発することには3分の理があるとは思う。もしずっと1人だけが有給休暇を消化し続けるなら、実質的には一種のフリーライダーになるわけだからね。
有給休暇取得の戦いに必要なのは、「無責任さ」というより「鈍感さ」かな、と思っている。
サイゴンで日本人駐在員の方と話をする機会があった。彼は40代後半、日本人なら誰でも知っている一流企業勤務の幹部社員である。海外勤務が長く英語も堪能で「社畜」と呼ぶにはあまりに紳士的ではあるのだが、次のようなことをさらっと語った。
プロの条件は、2つある。有能である(able)ことと、いつでもつかまる(available)こと。夜9時・10時でも客から掛かってきた電話には応対しなければならない。さもなければ新しい仕事を逃す。子育てのために残業が出来ないという女性は、プロになれない。
(中略)
私も批判ばかりでなく、ではどうしたらいいのか、ということを考えて発表したい。(中略)なにかヒントがあれば教えてください。
これね、端的にいえば、「長時間労働を排する代わり同業他社より給与を低く抑えます」という企業がもっと増えればいいんだよね。生産性を上げて短時間労働でも同業他社と給与は同等にする、なんてのは、無理。そういう夢を持つのはいいけど、現実には無理なんでね。
「遅番管理職制度」をご存知ですか? 大きな労働力を用意する必要はないのだけれど、時間外にも即応を要する仕事が飛び込んでくる状況が恒常化している職場にピッタリの制度です。管理職待遇の社員を増やしまして、管理職のみ早番、遅番という2種類の勤務時間を設定します。
フレックスタイムの拘束時間を職場単位で設定する自由度があれば、テストは簡単です。拘束時間を午後のみにして、「朝出勤、夕退社」の早番組と、「午後出勤、夜退勤」の遅番組に分け、ローテーションを組むのです。恒常的に完全2交代体制が必要なら絶対に制度の整備が必要ですが、忙しい時期でも少人数、ふだんは1人くらい待機していればOKというくらいなら、大きな制度をいじる必要はありません。
こういう工夫って、研究開発の職場では時々実践されていると思います。実験の都合で数ヶ月にわたって「1日12時間くらい、実験機器に人が張り付いていなきゃならない」みたいな場面があって、「みんな9時5時」では不都合があったりするわけです。でも残業代を払うのは嫌ですからね。人件費を節約しつつ、長時間労働も避けたいと考えたら、当然に出てくる発想なんです。
ちなみに技術者の場合、昇進が「上がり」になって課長や部長といった職を外れても、「主任研究員」みたいな肩書きは残ることが多い。だから研究開発の部署には、「管理職待遇だけど管理職の仕事はしてない」ベテラン社員がたくさんいたりします。管理職待遇の少ない職場だと難しいのかな。
あと、こういう制度を運用できるかどうかを決める最重要のポイントは、「仕事の二重化」ができているかどうか。平たくいえば、ある人の仕事を、他の人がほぼ完全にフォローできるかどうか。「Aさんにしか判断できないこと」があるとダメなんですよね。
私の勤務先では、「今日、体調が悪いので有給とります」という連絡から、「これを買いたいんですけど」という決済承認まで、全て複数の人が判断権限を持っています。情報共有がきちんとしていれば、とくに混乱は生じません。だから部長や課長が「親族の不幸」や、「子どもが万引きした!」といった事情で急に早退しても、業務は遅滞しません。
この恩恵を一番受けるのは、じつは一般社員ですね。「今日は何となく会社に行きたくない……」と思ったら、気軽に有給休暇を取れてしまう。さすがに堂々とそう公言する人は珍しいですが、体調不良といって休んだ同僚に翌日「もう大丈夫なの?」と声をかけたら「じつはね……」と聞かされたことは何度もあります。私のように「昇進しない人」というのは、仕事より自分の気持ちが大事という人が多いので。
ま、責任感の強い人でも、有給休暇くらい気兼ねなく取りたいでしょ。当日の朝になって急に「今日は休む!」という人ばかりだと、さすがに会社も困ると思います。だけど「他の人に迷惑がかかるから休めない」なんて職場は嫌だなあ。前日の朝に申し入れたら全く遅滞なく業務が進むというような、そういう職場がいい。
同僚が子どもを産むのを祝福できない職場なんて嫌だよね。同僚が「子どもが熱を出した!」といって急に休んだときに「ちっ」とか舌打ちする人にみんなが共感するようなところで働きたくない。「大丈夫かな。早く治るといいね」って素直に人間らしい心を持てる環境を用意できない会社はダメだと思う。
私の勤務先では、管理職になった人が「この人はこれ以上昇進させられないな」と判断されると、「***」(すみません、伏字に変えました)という謎の肩書きになります。ポストは限られているので、例えば課長止まりの人が定年まで課長を続けると後進がいつまでも課長になれない。それを防ぐ仕組みです。
営業にも管理部門にも***の方はいます。これを「無駄じゃん……」というのは、違うわけ。業務の二重化を支える根幹が、***の存在なんです。管理職待遇だけどポストはない***の方々が、常にバックアップとして存在していれば、出張や外出もしやすいし、私的な緊急事態があれば「後はよろしく」の一言でサッと早退もできるんです。
日常の管理職業務は当然、管理職に一本化されています。しかし情報へのアクセスは管理職待遇の***にも許可されていて、ふだんから***は管理職のよき相談役となっています。だから、いざとなれば業務を代替できるのですね。
いま「官僚の天下り」が問題になっていて、後進にポストを空けるためには早期退職する他なく……なんて説明を新聞などでよく目にします。どうして「***制度」程度の知恵が実践されないのか、私にはよくわかりません。
と、ここまでの話には「うんうん、そうだね」と頷いてた人でも、「給料が同業他社より3割少なくて、大卒30代で手取り月給は約20万円なんだけど、それでもいい?」と迫られると、「ゴメン、やっぱり無理っ!」となる人が多いんじゃない?
どうして同業他社と同等の給与水準を保とうとする企業が多いのか、それはもう、内側から見れば、よくわかる。会社の将来を支えるはずの優秀な社員が、ボロボロ抜けていくんだもの。体力に自信があって、給与で報われたい若手社員には、ホント逃げられやすい。逆に「残る人」って、まあ、そういう人でしょ。だから臆病だったり自信がないといった理由で転職できない人は、「やる気のない中年社員のせいで俺たちは割を食っている。こんな会社に未来はないよ」といって憂さ晴らしする。言論の自由は抑圧できない。
生半可な胆力では「給料を抑制して多くの人員を雇い、長時間労働を排する」なんて経営方針は貫けないよ。
本当にその日に働かないと、組織は回らないのだろうか?
そして、蓋を開けてみると、そんなことはないのだ。
ふだんから「自分がいなくても会社は(さして)困らないんだね」という経験を積み重ねておくのは、よいことだと思う。
もう5年も同じことをいい続けています。私の勤務先みたいな会社の説明会に学生が殺到するようなら、日本の労働事情は現状のようにはなっていないよ。
問題の岩盤は、経営者ではなく労働者の側にあると思う。分相応の給料で満足しない労働者が多いので、「同業他社の給料」がサービス残業前提の数字になってしまう。そして優秀な人ほど「やっぱり給料が高い方がいい!」と転職してしまう。逆パターンはきわめて珍しい。
NHKの教養番組『ハーバード白熱教室』がLecture10まで進んだので、ここまでの議論の流れを簡単にまとめておきます。
講義の内容をより詳しく知りたい方は、私が更新を続けている『ハーバード白熱教室ノート』を参照してください。
『復習』については追々。
久々に自動車で長距離を移動して感じたことをいくつか。
目的地は100[km]先である。途中の道路の制限速度は平均40[km/h]とする。目的地に到着するのは何時間後だろうか?
平均の移動速度は、(制限速度+10[km/h])÷2=(40[km/h]+10[km/h])÷2=50[km/h]÷2=25[km/h] と予想される。
よって、距離を平均の移動速度で割って移動に要する時間を求めると、100[km]÷25[km/h]=4[h] となる。
答え:4時間後
実際には、きちんと途中休憩をとっても、30分程度は早く着くことが多いだろう。しかし計画段階では、移動に4時間を要すると考える方が安全だ。
ケース | 平均移動速度 |
---|---|
近所への移動(市街地) | 15[km/h] |
近所への移動(郊外) | 25[km/h] |
関東平野を長距離移動 | 25〜35[km/h] |
高速道路(平時) | 40〜60[km/h] |
高速道路(行楽シーズン) | 25〜45[km/h] |
具体的な数字についてはいろいろ意見があると思うけれども、「高速道路を利用するからといって、距離を時速80kmで割ったりすると現実に裏切られますよ」という点だけ了解していただければ幸いです。