このところ心身ともにグッタリしてます。
引越前にもらった薬がなくなったので、引越先の新しい皮膚科にかかったら、強力なかゆみ止めを処方されました。しかしこれ、効能はすごいんだけど、とにかく眠い……。昼間は何とかなっていますが、夕方、帰宅すると糸が切れたような感じでバタンキュー。一日が本当に短くなってしまった感じで、悲しい。
ところで、本屋へ行ってみたら2010年の課題図書が発表されていました。私は2006年以降「課題図書全作品の感想文を書く」という目標を持っていて、一昨年、はじめて全作品を読了することができました。そして昨年は6作品の感想文を書けました。それまでは結局、感想文を書くところまでたどり着かなかったんですね。
少しずつ前進しているので、今年はいよいよ……という期待があり、勢いでサイトを立ち上げてみました。こういう枠組みを作るのは楽しい。コンテンツで枠を埋めていくのは、半ば修行みたいなもの、かな。
読書感想文の場合、書こうと思って、本を買って、読むまでは楽しいんだけど、肝心のその先がつらい。全18作品の感想文を書くという大目標を掲げつつも、現実的には昨年と同じ6作品が第一目標、8〜10作品が第二目標、という感じかな。ともあれ、今はまだ『ハーバード白熱教室ノート』の空欄が埋まってないので、しばらく更新はないかも……。
それでも、課題図書18冊は購入済みで、既に8冊を読み終えてます。今年の課題図書は感想文を書きにくいのが多いですね。先が思いやられます。
ブログの方は……更新意欲が湧きません。
『ハーバード白熱教室ノート』の更新情報です。(最終更新 2010-08-17)
回 | 放送 | 講義 | 記事 | 主な内容 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
EX | 1-24 | アウトライン | 講義の大きな流れ | |||
1 | 4/4 | 1, 2 | ノート | 再検討 | 復習 | 2つの道徳原理 |
2 | 4/11 | 3, 4 | ノート | 再検討 | 復習 | 功利主義 |
3 | 4/18 | 5, 6 | ノート | 再検討 | 復習 | リバタリアニズム |
4 | 4/25 | 7, 8 | ノート | 再検討 | 復習 | 自然権と社会契約 |
5 | 5/2 | 9, 10 | ノート | 再検討 | 復習 | 同意の条件と限界 |
6 | 5/9 | 11, 12 | ノート | 再検討 | 復習 | カントの義務論 |
7 | 5/16 | 13, 14 | ノート | 再検討 | 復習 | 契約の性質 |
8 | 5/23 | 15, 16 | ノート | 再検討 | 復習 | ロールズの正義論 |
9 | 5/30 | 17, 18 | ノート | 再検討 | 復習 | 義務論の限界 |
10 | 6/6 | 19, 20 | ノート | 再検討 | 復習 | 目的論 |
11 | 6/13 | 21, 22 | ノート | 再検討 | 復習 | 共同体主義 |
12 | 6/20 | 23, 24 | ノート | 再検討 | 復習 | 正義と道徳 |
EX | 1-24 | 感想記事リンク集 |
備忘録で更新情報のために何度も記事を立てるのは面倒なので、以後、この記事を更新していくことにします。講義の最終回が6月20日なので、その1週間後の6月27日までに表の空欄を埋める計画です。まあ、『再検討』については面倒ばかり多いので、結局、空欄が残るかもしれない。
で、その6月27日になりましたが、空欄だらけですね……。5月末の引越前後から、心身ともにへたり込んでおりまして、苦心しております。
えー、8月17日に、まあ手抜きもいろいろやっていますけれども、空欄を全て埋めました。さて、今日からは読書感想文を書かなきゃ……。
- 津波と瀬戸大橋、そして相手の言い分を聞くこと(2010-03-02)
- 個人的には、坪田さん叩きを見るのは「つらいな」という感覚がある。あの橋の上を走る電車を見たことがある人なら、「津波警報でアレが止まるの?」という疑問を持つ人がいることは、理解できるんじゃないか。共感や賛同までは求めていない。理解はできるでしょ、と。
- 私は、理解できた。できたから、怖いな、と思った。(後文省略)
言葉の使い方がをかしいよ。 「津波警報でアレが止まるの?」には感情的(感覚的)に共感を覚える。 しかし、筋の通った理屈としては理解出来ない。 ──こういう事じゃないの? 感情的な話だからこそ「怖いな」という「感想」があり得る。 もう少し分かり易く言うと、感情(感覚や見た目の印象など)に対しては共感、筋の通った理屈に対しては理解を使います。
徳保さんの言葉の用法には、意識して居るのか無意識なのか分かりませんが、俺様流が散見される。 厳格である必要は無いけれど、だからと言って、俺様に都合の良い使い方は拙い。 「共感しろとは言わないけれど、理解しろ」。 これは理屈が通って居る場合に使う。 要するに、俺の主張は正しいと云う事を述べるケースです。 ゆえに感情的な共感を得る必要はありません。 たまにミスがあるのは已むを得ないけれども、断りなしに、または、無意識に、本来とは違う意味で使うのは良くない。
例えば、道を歩いていたら、車に撥ねられた猫の死骸に出くわしたとしましょうか。そのとき、「目障りだ」と思う人もいれば、「かわいそうに」と思う人もいるでしょう。人がそれぞれの感情を持つことを、私は「理解」します。しかし、私が「共感」するのは「かわいそうに」の方だけです。
ある話題について百家争鳴の状態になっているとき、「まあ、そういう考え方もあるよね」と「理解」できる意見はたくさんあるでしょうが、自分が「全くその通りだなあ」と「共感」できる意見は、ほんの少ししかないことが多いと思う。
私は上記のように「理解」と「共感」を使い分けているのだけれども、これは辞書に記された語義とも整合的ではないでしょうか。
1 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。「―が早い」2 他人の気持ちや立場を察すること。「彼の苦境を―する」3 「了解2」に同じ。→了解(りょうかい)
他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。「―を覚える」「―を呼ぶ」「彼の主張に―する」
人にはそれぞれ事情があり、思考の前提条件が異なっています。だから、それぞれの人にとって「理屈の通った意見」があるわけです。「あの人は、Aという前提を持っていて、価値観Bを大切にしているから、結論はCになる、と。なるほど、と思います」……これって、「理解」じゃないですか?
あるいは、子どもに算数を教えているとき、どうして子どもが計算を間違えたのか、「理解」できることって、あるでしょう。子どもがどんな誤解をしていたかがわかると、「ああ、そうか、なるほどね」と納得できるわけです。でも、自分はそういう誤解をしないし、過去にも同様の経験がないとすれば、「共感」はできない。自分の中に、その子どもと共通するものがないわけだから。
たいてい、人のいうことは、論理は正しい。が、前提は怪しい。だから、議論になったときは、まず「相手と自分の前提が違うのではないか?」と考えた方がいい。「前提は同じはず」と決め付けて、「それなのに結論が違うということは……論理が間違っているんだ!」といって攻撃を始めると、紛糾することになる。経験的に、私はそのように認識しています。
さて、三宅さんは、「理屈が通っている=正しい」という前提を置いているようです。私は、その点に異論があるのです。理屈の通った、間違った意見はいくらでもあるでしょう、と。
一方、気持ちの問題について、三宅さんは、「人は他人と交感できる」という前提を置いているようです。私は、「自分はこう思う、こう感じる」という気持ちは、個性と結びついたものであって、そうそう他人と同じような気持ちになるわけがない、と考えています。だから、「共感」なんてのは、まず成立しない、と。
もともとの話題に即していえば、「坪田さんは、論理展開を間違ったのではなく、前提知識に誤りがあったのだ」と私はみなしているのです。だから、坪田さんの考え方は「理解」できるけれども、私は賛成しない。また、坪田さんの価値判断にも同意できない点は多く、私が「共感」できる部分もほとんどない。私は、そう考えるんですね。
しかし三宅さんは、こう考える。坪田さんの主張は誤りだった。それは理が通っていなかったということだ(たぶん三宅さんは前提条件の間違いも「理」の内に含めるのだと思う)。だから坪田さんの主張を「理解」することはできない。しかし電車が止まって苛立った坪田さんの気持ちには、例えあなたが「津波がきているときに電車が止まるのは当然。苛立つようなことじゃない」と思うタイプの人だったとしても、「共感」することができるんじゃないか。
さて、あらためて辞書の語義説明と比較対照してみると、三宅さんの方が、言葉の用法に独自性が出ているように見えます。
先ほど、はやぶさに関連する記事をひとつ書いた。
単純に関心の大きさだけをいえば、例えば、大統領の失脚を期に中央政府の統制力が弱まった中央アジアのキルギスで、少数派のウズベク人が多数派のキルギス人に攻撃され、多くの死傷者と膨大な難民が生じている問題などの方が、私にとっては、はやぶさより重要だ。しかし私には、とくに記事を書くような意見がないので、何も書かないというか、書けない。
私は瑣末な話題についてごちゃごちゃ物をいうことが多いが、それは、その話題が私にとって非常に重要だから、ではなく、「その話題なら書きたいことがあるから」という理由であることが多い。私は面倒くさがりなので、誰かと同じ意見なら、わざわざ自分が口を開く理由がない。自分が何か意見を持っていて、また自分の観測範囲において自分と同じ意見と述べている人がいない、という状況がなければ、わたしはなかなか記事を書けない。
誰かの意見に賛成なら、ただそう述べればいいじゃないか。その通りだとは思うが、私はきわめてものぐさなので、はてブするのも面倒に感じる。twitterのアカウントを再始動してみたが、結局、アクセスするのも面倒に感じ、放置している。
私は多くの場面で少数派に属する人間だから、自分の意見を世間の多数派とすべく頑張ろうとする意欲は、何度も何度もへし折られてきた。だから、少数派同士が「同意します!」とかいいあうことに、「面倒の壁」を乗り越えるだけの意義を感じないことが多い。
しかし少数派が黙らされることには強い抵抗感があるし、少数派の存在自体が無視されることにも耐え難いものがある。これは、いまの私に残された、数少ない「物をいう大きな動機」のひとつだ。それゆえ、自分にとって重要でない話題でも、自分と同じようなことを書いてる人がいない状況では、意見を書きたくなる。
つまり、話題自体ではなく、「自分の思いついた少数派の意見」が世の中に見当たらないこと、を問題としているわけだ。だから、ときには、勝手に少数意見を想像(創造)して記事を書くことさえある。
「私自身の考えとは異なるが、こういう意見もありうるだろう。それなのに、こういう意見が見当たらないのは何故だ?」ということなのだが、「自分の意見でもないのに、何を熱くなってるの?」とか、「本当はあなたがそういう意見を持っているんでしょ?」といった反応をいただくことになりがち。
相当にひねくれた立場なので、共感はされないだろうが、何とか理解はしていただきたいのだが。なかなか難しい。
小惑星の探査を終えて13日に地球へ帰還した『はやぶさ』が話題になっていた。あっさり故障して行方知れずになってしまう衛星も多いが、はやぶさはトラブルを何度も乗り越えてきたので、次第に私のような一般市民にも耳に馴染みのある存在となった。ここ数年、新聞紙面では度々大きく取り上げられてきた。
そのはやぶさがついに旅を終えるということで、NHKの『クローズアップ現代』がはやぶさを取り上げたり、あるいは一般のニュースのひとつとして紹介されるなど、なかなか盛り上がった。私も、はやぶさのラストショットなどを見て、心震える思いをした。
まあ、それはそれとして。
はやぶさは少ない予算で苦労したんだ、もっと予算をつけるべきだった、みたいな話がある。そして、過ぎたことは仕方ないとしても、同型機の『はやぶさ2』や、後継機の『はやぶさ マーク2』の予算を絞るのはおかしい、ともいう。『はやぶさ2』は事業仕分けで予算が削られたのだそうだ。
私は素朴に「結果が同じなら、予算は少ない方がいい」と考える。はやぶさの当初予算がもっと多かったなら、はやぶさは故障しなかったのだろうか。そうだとすれば、もっと人件費を節約できたろうし、優秀な頭脳をこれほど長期間拘束することなく、何か新しい別の事業でさらなる成果が出ていたのかもしれない。増やした予算の額から浮いた人件費を引き、さらなる成果と比較検討する。そうして「予算をもっと増やすのが正しかった」といっているなら、私も「なるほど」と思うのだが。
私も開発の仕事をしているので、もっとお金があれば……という愚痴は、しばしば耳にする。けれども、増やした予算に見合った成果の積み上げに勝算があるのかというと、とくにないことが多い。残業すれば残業代は出る。体力的な「苦労」には、対価が支払われている。頭を悩ますのは、技術者の仕事そのもの。「予算があれば楽なのに」なんてのは「会社の金で仕事をサボりたい」というのと同義ではないか。不満があるなら他社へ移ればいいんだ。実際、自分の優秀さに自信のある人は、みんな転職している。他に行き場がないなら、ここが自分の能力に見合った環境だということ。ならば、ここで頑張るしかないだろう。
はやぶさが成功しようと、はやぶさ2の計画に予算削減の余地があるなら、税金を節約するに越したことはない。繰り返すが、少ない予算で同じ結果が得られるなら、その方がよい。予算が豊富なら、貧乏くさい工夫をしなくてすむのに、なんてのは説明になっていない。
ようするに「はやぶさの成功を見れば、はやぶさ2の予算を縮減した判断は間違っていた」という主張は情緒的で、実がないと私は考える。
プロ野球の契約更改を見ても、同じようなことを思う。チームが優勝したからといって、去年と成績の変わらない選手の給料が大幅アップするなんて、不合理だ。結果としてチームが優勝したことと、その選手のチームへの貢献度の高低は関係がない。ポストシーズンをフルに戦えば15試合にもなるので、勤務時間が長くなった分だけ給料を上げるのが妥当ではないか。あるいは、2年続けて好成績を残したことで信頼感が上昇した、という理由付けなら納得する。しかしやはりチームの優勝は関係ないだろう。
「優勝ボーナス」がないことに選手が怒っても、他のどの球団も現状以上の給料は出してくれないとすれば、優勝ボーナスに合理性はない。もちろん、優勝ボーナスがないとわかれば選手たちはやる気を出さず、結果として優勝ボーナス分を年棒に上積みしないとチーム運営が成り立たない(だから優勝ボーナスは退職金のような「給料の後払い」に相当するものであって、ふだんは目に見えないが、実質的には常に存在し、選手のパフォーマンスに影響を及ぼし続けている)、という可能性はある。しかし、優勝ボーナスを当然視する人々がみな、きちんとそうした理屈付けをしているのだろうか。
別の例を挙げると。450円の山菜そばがとてもおいしく、これなら600円払ってもいいな、と思っても、実際には定価分しか払わないだろう。そして、味、分量、店の雰囲気、調理の速さなどいずれも同等の店が隣にできて、そこの山菜そばの定価が380円だったら、多くの人が店を乗り換えるのではないか。
その結果、最初の店の山菜そばの定価が380円に値下げされた場合、私たちは最初の店に対して「事業仕分け」をしたに等しいのではないか。
その山菜そばに600円の価値があると思うなら、600円払うべき、なのか? 払いたい人は、どうぞ、払っていただきたい。だが、圧倒的多数の人々は、自分の財布の話になると、実際にはそのような行動を取らないはずだ。なのに、支払いが間接的になったりすると、コロッと態度を変えるのは、どうしたわけか。
まあね、国民は自分が払った税金の使途を、自分で決められないからね。気に入らないあれを削れば、こっちの予算を増やすことは可能なはずだ。だから、この予算増額の要望は、決して増税の覚悟を伴うものではない、といったことになる。
妄想アイデアだけど、納税者のガス抜きとして、所得税の一部を「この事業に使ってほしい」と指定できる『使途指定納税制度』があったら面白いかもね。制度を利用する人も少ないだろうし、上限10万円くらいなら、大混乱は避けられるような気もする。どんな指定が人気になるだろう? 案外、国債の償還かもな。
同じ団地に暮らす女子のクラスメートと一緒に帰宅すべく、毎日のように出待ちをしていた高校生男子が、ストーカー
aozora21さんのコメントに共感する。
教師がアホだろ…一方的な話だけ聞いてそのまま本人に伝えるなんて。
前のアパートの大家さんから聞いた話をまとめた記事、なぜ賃貸物件には軽量鉄骨造や木造が多いのか(2010-06-13)から、更新料に関する内容を分割。
近年、更新料を否定する判決が相次いでいるが、どう考えているか、訊ねてみた。
えっ!? うーん、それは、学生向けではなく会社員向けの賃貸の場合、家賃+共益費だけで比べる人が多い、という事情を汲んでほしいところ。以前から、相続税対策として人件費を考慮しない賃貸アパートとの勝負を強いられている業界なので、うちのように賃貸だけやっている業者はどこも利益率が低い。
最初に話した通り、賃貸の家賃は真っ先に比較されるので、多少、品質に差があっても、市場の圧力によって、立地・間取り・築年数の3要素で平準化されてしまう。同じ築10年でも、きっちりリフォームをしている物件と、ペンキの塗りなおしくらいでリフォームと謳っている物件の家賃が、同じになってしまう。今では仲介業者の方もていねいに説明してくれるようになっているが、状況に変化はないのが現実だ。
立地・間取り・築年数の3要素と家賃の比較をくぐり抜けた先で、礼金などの部分で価格幅を持たせ、様々な品質の物件を提供していく、というのが基本的な戦い方だ。性急な規制は、地味に高品質な賃貸物件を淘汰する結果を導く。これは業者側の理屈かもしれないが、司法の市場介入は、消費者の利益にならないと思う。
更新料等の対価性が不明瞭だという批判はその通りだが、ここに濡れ手で粟の不当な利潤が発生していると見るのは事実に反する。
ちなみに私は、礼金も更新料も払った。それで納得して契約をしているのだから、当然だ、というのが私の発想。とくに更新料の場合、契約期間で割って実質の月額家賃を計算するくらい、大した手間ではないだろう。この程度のことを「わかりにくい」と言い募って、市場の知恵を否定することには賛成できない。
更新料や礼金は、消費者心理と市場経済のすり合わせに適しているから、存続してきた。自由な市場の知恵であり、これを観念的な「正義」によって市場から排除することには、賛成できない。現状でも、更新料なし、礼金なしの物件は多数存在する。消費者の選択に任せるべきだ。
現状、立地・間取り・築年数の基本3要素と家賃の比較で物件をふるいにかけてしまう消費者が多い。こうした商環境で、高い品質をストレートに家賃に反映させるのは、リスクの高い行為だ。品質を「最優先」とする消費者は少数派だからだ。とくに独身者向けワンルーム物件の市場においては、その傾向が強い。
「家賃は横並びだが、礼金や更新料には幅がある」という従来の仕組みは、「まず重視するのは基本3要素だが、次に大切にしたいのは品質だ」という消費者の嗜好にマッチしていた。候補を絞った中から、礼金や更新料の違いを眺めつつ、内覧を繰り返して適当な部屋を選択するのは、よくできたシステムだと思う。
最初に家賃でフィルタリングされる市場で、品質を家賃に反映することを強要すれば、「平均より品質のいい部屋をご提案したい」と考える不動産業者が淘汰されやすい。とくに「築10年以上だがリフォームをきちんとやっていて壁や床の品質がいい物件」が割を食う。新しい物件がイメージ先行で過大な人気を集める状況、高品質で長く住める賃貸住宅が建設されにくい状況に拍車がかかる。
価格の多様性が失われれば、品質競争の幅は狭まる。最大公約数の需要を満たす、見た目はきれいだが造りの安いアパートを、建てては壊し、建てては壊し、のサイクルが固定化されていく。それが本当に、より多くの消費者の利益になるだろうか。
この記事で、私は更新料を擁護する側に立った。だが、私の意見は、間違っているかもしれない。それは、わからない。が、これは消費者の利益に関わる問題なのだから、可能な限り、判断は市場に任せるべきだ。
私は、「正義」を振りかざして、市場を上から再設計しようとする試みには賛成しない。現状に挑戦したい人は、起業して自分でリスクを負ってほしい。自由経済は、挑戦者に門戸を開いている。北海道のように、更新料なしの物件が多い地域もある。更新料がない方がいいと考える消費者が多いなら、更新料なしの不動産業者が必ず市場でシェアを伸ばしていく。
既存の業者が結託して更新料なしを謳う新規参入組を妨害するなら、それは市場の機能を損なうものだから、排除しなければならない。生産者・サービス提供者が自由にアイデアを試し、消費者が自由に選択できる環境を守ることは必要だ。しかし、それ以上の規制を行うことには、慎重の上にも慎重になってほしいと願う。
賃貸物件の更新料については、様々な論点があるので、興味のある方はいろいろな記事を参照なさってください。
こうした記事を読むと、市場でちゃんと価格競争があって家賃等が決まっているのに、更新料はぼったくりだとか何とかいう人が世の中にはたくさんいることがわかる。そのような感覚で更新料を憎み、司法や行政を通じた上からの市場改革が支持されているのだとすれば、結果は悲惨なものとなる可能性が高い。
総務省の横槍が携帯端末の買い替え消費を冷え込ませて市場の縮小を招き、端末メーカーの淘汰に至った事例は記憶に新しい。だが総務省はもちろん、審議会で意見を通した学者にも反省の弁はない。「今までがおかしかった」と堂々主張している。たかが「端末価格・通信費の分離・見える化」が、淘汰されたメーカーの社員・関係者の苦しみに見合うものだったとは、私には思えない。
こんな「正義」に何の利益があるのか。同じ過ちが繰り返されないことを望む。
家具付賃貸という概念は、あるいは物件は、日本にはない。
レオパレスは家具付き賃貸の成功例だと思う。大学生や新社会人に人気。私の弟なんか、今では私より年収が多いのに、学生時代からレオパレスの家具付きワンルームを渡り歩いて暮らしている。考えることが少なくていいよ、という。とりあえず、耳栓とかイヤホンとかがあれば、とくに不自由はないそうだ。
電話しても不在のことが多いので、もしかすると、ふだんは他の家で暮らしているのかもしれないけど。
以前の部屋を契約更改したときに大家さんから伺った話を少し。ただ、何の証明も裏付けもない話だから、不動産の素人である私の創作だと思っていただいてもよい。約半年も前のことだし、聞き手の私の勘違いも含まれていると思う。文責は全て私が負う。
賃貸物件を探す人の大半は、まず、位置(交通の便など)、間取り、築年数など、紙の資料で簡単に比較できる項目だけを基準として、家賃と比較してふるいにかけてしまう。賃貸物件に鉄筋コンクリート造の家が極端に少ないのは、そのせいだ。住んでから、音を気にする人は多いけれども、一番最初に品質に見合った価格というものを考えない客が多い以上、遮音性に優れた賃貸物件が多数派となるとは考えにくい。
言い換えるなら、「隣がうるさい」というのは、入居してから文句をいう事柄であって、部屋選びの際にはそれほど重視されていない。大家に訴えて隣人に静かに生活してもらえばいい、といった、マナーの問題と捉えている人も相当に多い。隣同士でお互いに騒音の苦情を出しているケースもある。楽器を演奏する人などは別として、たいてい「自分は静かに暮らしている」と思っている。
防音の優れた物件なら、自分も自由に気楽に生活できるというメリットがあるが、なかなか理解されない。うちも高級物件として提供しているが、苦戦している。独身者向けワンルームと防音は両立が難しい。
もっとも、地図を見れば一目瞭然な「線路脇」物件は、家賃が下がる。隣人選びは運次第、不運でも大家経由で文句をいえばいい、と思う人も、さすがに鉄道会社に文句をいおうとは考えない。また当たり前のことだが、線路脇に高防音の物件を建てても、価格競争力がなくなるだけで成功しない。駅近のメリットがあっても、線路と垂直に100m離れた物件と、線路沿い100mの物件の価格比較をされるからだ。
レオパレスの成功は、紙1枚の資料の段階でお得感を演出するのがうまい、という点にあった。これはネットで家賃を比較される状況にもマッチしている。
敷金・礼金が0〜1ヶ月、直接申込中心で仲介手数料ゼロ(ブランド力ゆえ)、家具付き、ネットあり、宅配ボックスやCATVなど物件情報として記載しやすいオマケを充実、同時に価格を比較されにくい保険料等を少し高めに設定するのも抜け目ない。コストメリットのアピールが上手だ。
ちなみに、同等価格帯の他の賃貸物件より壁や天井の遮音性能が低いとか、窓枠が安くて虫が入りやすい、といった事実は把握していない。たしかに単純にサービスと価格を比較すれば、レオパレスは安価だ。しかし、大手ならではのスケールメリットは相当にあるだろうし、うちの物件も自慢できるほどの品質ではない。価格ほどの差はないのでは、と予想している。
保証人の条件が緩かったり、故障設備を簡単な審査で無償修理するといったサービスには、コストがかかる。実際は価格相応なのに、価格の全く違う実家との落差に驚いたり、間取りだけ見て同等家賃のアパートと比べている人も多いだろう。ネットの評判は、単純には参考にできないと考えている。
ただ、最近は不況の影響か、豊富なオマケで「それなりの価格」をリーズナブルに見せるより、単純に家賃の安いアパートが強い。今は我慢のときだと思う。
では、なぜマンションを購入するような場合だと、途端にコンクリートの人気が高まるのか。コンクリートの物件が多数派なので、むしろ鉄骨造や、木造の低層集合住宅が安っぽく見える、という「卵が先か、鶏が先か」の議論もある。が、多分それは正しくない。
これは推測だが、心理的な問題ではないか。人には、大きな買い物をするときには、日常の節約観念から解放され、品質を追う傾向があるという。一点豪華主義なんて言葉も人口に膾炙している。月々の家賃を払うのも、数十年にわたってローンを返していくのも、形式的には大差ない。だが、毎月の家賃負担と、大きな買い物の分割後払いとでは、心理的に大きな違いを感じる人が多いらしい。
家賃は日常の生活感覚の内側にあり、品質より価格を重視しがちになる。だから木造や軽量鉄骨造が選ばれてしまう。この構造がある限り、少なくとも日本の賃貸物件の品質(とくに防音・防振)は、なかなか向上せず、当面は、都市ガス、追い炊き対応給湯器、温水洗浄便座、CATV、光回線、ゴミ収集ボックス、宅配ボックスといったオプションの充実を競う方向になるだろう。
だが本来は、建物で勝負したいというのが、不動産屋の心意気だ。首都圏でも、断熱性の高い壁、二重サッシ、天井裏換気など、気温や湿度のコントロールに優れた部屋を提供したい。現状ではニッチな需要しかないが、エアコンと浴室乾燥機で事足れりとするような風潮には満足していない。床暖房も研究しているが、東京ではエアコンの効きをよくすることが優先課題、という認識だ。
もともと、高度成長期に海外へ旅行して、日本の住環境の水準の低さに衝撃を受けて、この業界に飛び込んだ。分譲マンションはかなりよくなったが、賃貸はまだまだ。今後も、微力ながら、快適な住環境の普及に努めていきたい。
大家さんの話は、デジカメの画素数競争にも通じる。大切なのは写真の品質であって、という建前には、大勢が賛同する。けれども、店頭に並ぶ数十の製品群を前にして「実際に写真を何枚も撮って比較しようぜ」という提言が現実味を持たないこともまた、よく理解できる。
そして、こういう話を聴いた私も、栃木県へ引っ越す際、住宅の品質で物件を絞り込むことはしなかった。自宅の玄関から職場の自分の席まで30分(職住隣接)、自動車を持ちたくない(駅近物件)、這って行ける距離に病院がほしい(一定以上の人口密度)、あと予算、という条件を優先にしたら、適当な高品質物件がなくなってしまったのだ。
家族向け分譲マンション(数年間の転勤に伴い、個人が不動産屋に委託して時限的に自宅を貸す物件)は完全に予算オーバー。中古の家族向け分譲マンション(空き部屋を不動産屋が買い取って賃貸にした物件)は自動車前提の立地で築20年オーバー。他の高品質物件は通勤1時間超。選択肢が乏しかった。
輸入野菜なんかもそうだけど、品質を価格の問題とは考えず、倫理や規則の問題だとみなす消費者が多ければ、生産者が「安くてギリギリの品質で綱渡りを続ける」状況は変わらない。自分は高品質物件を選ぶぞ、というだけではダメで、大勢に「品質を買う」価値観を普及していかねばならない。
いや、そんなの無理だろ……というなら、まあ、「文句をいっても始まらない」のだと思う。
「讀む事によつて初めて本は意義を發揮する」と云ふのは本を讀まない人にとつての常識だけれども、實際は、讀まない本でも「ある」事は大變に重要な事だ。と云ふのは、あれば何時でも情報を取出せるからだ。本を集めてとつておく事は、情報をとつておく事にほかならない。本があり、情報があれば、何時でも必要な時に參照出來る。例へば、論爭をする時には、參照する本がなければならない。
讀まなくても、良い本がある、と云ふ事は、安心感に繋がるし、家の中の雰圍氣を變へる事にもなる。本が無い生活は、すつきりして氣樂だらう。けれども、本がある事で、家の中の氛圍氣は大きく變る。「それが堪らなく嫌だ」と云ふので「捨てる」「賣る」と云ふ選擇肢を選ぶのだらうけれども、それは要するに「本が嫌ひだ」と云ふ事を意味する。
「本をばらしても平氣」と云ふのも「本嫌ひ」のうちに入ると思ふ。「形」もまた「意味を持つ」のだけれども、今の人は「中身」だけにしか「意味を見出す」事をしない。
「本嫌い」という言葉には反発がある。「それほど本が好きではない」といった言い方なら、素直にうなずけるのだけれども。
私という人間が、現在の通貨価値で生涯に1億円とか2億円とか稼ぐような生き方をして、両親の遺産を権利分きっちり受け取るんだ、ということなら、ざっと3万冊くらいの蔵書を持てるはず。以前、そういう試算をしたことがある。本をたくさん持てるものなら持ちたい。
いや、現状でも5000冊くらい本を持つことは可能だ。可能だが、他に優先順位の高いことがあって、蔵書を抑制してきたわけだ。
この30年余りで、私は7回も引越しをしている。そのたび、ノイローゼ気味になって、自分の持ち物をバカスカ手放している。モノを手放すのは一種の自傷行為であり、精神的に疲労する。そして麻痺した感覚で処分を加速する、というパターンになる。
じゃあ「引越しが嫌だから仕事を辞めます」とか、「引っ越さないことを最優先にして仕事を選びます」とはならないのか? ならない。理由は自分でもわからない。
ここでは、本が家にたくさんあること自体が問題なのではなく、「いずれ引越しがあって、そのときにつらい思いをすることになるだろう」と考えてしまうのが問題。そんなもの、そのときに苦労すればいいので、今から気に病むことはないのだが、私は結局、強迫観念に負けて、読み終わった本はどんどん手放していく。
あとワンルームの部屋に暮らしていたときは、地震も怖かった。これは本の存在自体への恐怖。本に埋もれて死ぬイメージが、何度追い払っても、ふとした拍子にまた脳内を埋め尽くしていく。転倒防止器具では、安心を得られなかった。本棚そのものが倒れなくても、本の重さだけで死ねると思う。真実は不明だが、イメージでは死んでいる。いずれ死ぬのは構わないけど、まだ両親が生きているから、今はダメ。
私の伯父の一人は、定年退職後、蔵書を爆発的に増加させて図書館の分館並みにした。もう書斎で死んでも後顧の憂いはないという。私の場合、経済的に何万冊も本を持つ余裕はないが、それでも伯父のように状況が整えば、持てるだけの本を持ちたい、とは思う。
奧附をながめる、なんて事すらも、「本嫌ひ」の人は、しないのだらうと思ふ。書誌情報も必要とするなら、本をばらしてデータ化し、データだけとつておいて、紙は捨ててしまふ、なんて事は、出來なくなる。
必要性の度合いの問題。コストとメリットを勘案して、何かを諦めることは、誰にもあると思う。奥付を眺めることは「ある」し、書誌情報だって「ある方がいい」。紙の手触りだって、それは魅力的ですよ。でも、それを維持するためにどれだけのコストを負担できるのか、それが問題なわけで。
「決断」した人には、自分の中の迷いを吹き飛ばしたいという気持ちがあるから、電子化のメリットを強調する意見を述べがちなのは、致し方ないことだと思う。時間とか手間とか気力とかいろいろな都合があって、気持ちを全て言葉にすることは不可能なのだから、「書いていない=そういう気持ちがない」と決め付けるのは揚げ足取りに近い。
何も諦めない人だけが「本好き」で、何かを諦めた人は即ち「本嫌い」だというのは、辛らつ過ぎないか。もし本の所有に何らかのデメリットを見出すこと自体が「本嫌い」の証拠、といったご意見なら、そういう言葉の選択も理解はできるけれども。
もちろん、素朴に「本嫌い」で、紙とかインクなんて虫唾が走る、という人もいるかもしれないけれども、それが本の電子化を進める人の多数派だと予想する感覚が、私にはよくわからない。
……と書いてからネットで検索してみると、意外と、本の電子化をあっけらかんと肯定しているというか、悩んだ感じのしない文章を書いている人がいるのはたしか。でも、私はやっぱりそこに、読み手の妄想かもしれないけれど、書き手の「強がり」を見る。そうは書かれていないけれども、裁断された本の写真に、撮影者の一抹の悲しみを感じる。真実は、文章から素直に受け取れる内容そのものなのかもしれないけれど。
私の昨日の文章に「蔵書なんか」というフレーズが出てくるのだけれども、ここには一種の気負いがあって、強い言葉を前面に押し出しているんですね。いやだから、そうまでして蔵書を減らす必要がどこにあるんだ、と。そりゃ、ないわけですよ。ないんですが、私の場合、病的に不安が盛り上がるとき、物を持ち続けることへの不安が、物を失うことへの不安に勝るのです。そういう、きわめて個人的な事情が背景にある。
ゴチャゴチャいってるけど、総合的には「本嫌い」で合っているのか……? 私としては、首肯できない。それは、どうしても。だって、ふだんは蔵書を増やす方向にあって、嬉々として本棚を買い増したりしてるわけで。本を減らすときの方が変なんだと思う。
現状、電子化した本なんて読みにくい。少なくとも元の本より読みやすいということはまずないと思う。CDなどと違って、本はそれ自体が「情報再生機」でもあって、紙面は個別の再生環境(=本の装丁など)に最適化されている。だから、紙面のデータを抜き出して、汎用の再生機に突っ込んだら読みにくくなるのは当然の話。
iPhoneとかで読む人は、電子データをOCRにかけてテキスト化し、それを画面に合わせたレイアウトに割り付けて読むのだとか。そこまでやるなら未読本の電子化も理解できるけれど、手間暇の点で相当に高コストだから、「そんなに本を持ち歩くのってつらいですか?」という素朴な疑問が。
あと、既読本の場合は少し話が違ってきて、電子化して検索に引っかかるようにしておいた方が、結局は読み直す頻度が上昇するのではないか。資料的な本とか、何かのときに参照するという使い方をするなら、やっぱり書棚にあるより電子化されていると好都合なことが多い。
とはいえ、「それって、本を裁断しちゃうほどのメリットなの?」という疑問は拭えない。私自身は金銭的な事情なども勘案した上で「苦渋の選択」として蔵書を減らすことにしてきたのだけれども、結局、そういう結論に至るということは、さしたる「本好き」ではないのだな、とは思う。
なるほど。これは納得。
これくらい厳しい「本」の定義を掲げるなら、ほとんどの人は蔵書の置き場には困りませんね。また、娯楽や暇つぶしに読む本、あるいは野嵜さんが「読む価値がない」とみなす本を、個人の便宜のために「自炊」して電子化するのに、何を悩む必要もない。それによって損なわれる文化的な価値は存在しないので。
私の場合は、せいぜい書棚を1mも確保しておけばお釣りがきそう。私が「本」を手にする、持とうとするペースから考えて、まあそんなものでしょうね。
おもしろいな、と思って、ノイローゼ気味の偏屈がぼんやり考えたら、こうなった。
まず、いちばん無駄な家具といえばベッドだろう。そんなものなくても、眠るのに支障はない。和室があれば、布団を直に敷ける。しかも和室がある賃貸アパートはたいてい古く、家賃が安い。いいことばっかりだ。だからまず、ベッドは捨てる。
ていうか、最初から持ってなかった。フローリングやクッションフロアに直で布団を敷くと汗が抜けずひどいことになるので、これまではスノコを2段重ねて簡易ベッドにしていたんだった。
登山の経験がある人ならわかると思うけれど、テントって狭いんだよね。キャンプ場専用の素人向けテントは妙に大きくて快適なんだけど、厳しい登山をやってる人のテントは小さい。で、その小さなテントに3人とか4人とか入ってしまう。それを可能にしているのが、寝袋だ。
ペラペラの生地のテントの中で、こんな薄っぺらい寝袋で風邪を引かないか? ところが、そんな寝袋が暑苦しい。考えてみると、ホテルのベッドも薄い……あれ、何ていうの? ブラケットだっけ? それしか掛かってない。だけど断熱効果がちゃんとしていて、周囲を敷き布団……じゃなくて、マットレスだっけ? その下に折り込んでいるから、あれも暑くて目が覚めることがある。
人間てのは自己発熱しているから、断熱すればあったかくなる。掛け布団がふわふわなのは、通気性を重んじていたりするからなんじゃないの。モノを持たない、空間を作るんだ、と本気で考えるなら、捨てていいと思う。
まあ、寝袋は極端だとしても、とにかくふわふわの掛け布団は持たないことにする。……と、押入れがない部屋でも平気になる。畳んだマットレスは座椅子の一種と考えればいいと思う。ソファベッドみたいなもの。
死ぬまでかけても、読みたい本を全部読むことは無理。ジュンク堂へ行ったら、ザッと目に付いた本だけでも3万冊くらい読みたい自分に気付いた。ブックオフへ行っても、読みたい本が5千冊くらい、すぐに見つかる。時間と体力の問題で、やむなく10冊とか20冊とか選ぶのだけれど、本当はダンボール箱をたくさん持参したいくらい。
私は、少しの本を何回も読むより、たくさんの本を読みたい人らしい。あるいは、入手の難しい本に執着するより、今そこにある本を読みたい方なんだな。だから、蔵書なんか、全部、手放していいと思う。実際、今の蔵書は7割が「これから読む本」です。読み終えたのに手許に残っている本は100冊くらいしかない。その内、ブックオフに引取りを拒否されたので、捨てるのも忍びなく、仕方なく持ち帰ったのが40冊。25冊は、古書店でも絶対に手に入らない本。35冊は、いったん手放した後で、再読しようとして3年以上を要した本。
本を電子化しても、それを読む端末がない。パソコンのディスプレイで読むのは嫌だな。会社では業者がくれたパンフレットとかを片っ端から電子化したけど(耐震性チェックで倒壊の恐れが高い建物がたくさん発見され、補強工事も不可能な建物は取り壊されて、そこで働いてた方々が安全な建物に避難した結果、各職場の書類棚が半減した)、やっぱり紙の方が見やすいし、扱いやすい。机の上に並べて比較したりもできるし。
世の中には、仕事の資料だけじゃなく、未読の本をみんなPDFにしちゃう人も増えつつあるらしい。個人的には、PDFは読みたくない。手放しにくい既読の本を電子化するのはいいんだけど、未読の本をPDFなんかにしたら、それきり一生読まない気がする。
……とか何とか考えた末、3年以上、積読になっている本は、ほぼ全て手放した。本棚がスカスカに。
1冊100円で本をPDFにしてくれるサービス。依頼殺到で4ヶ月待ちだそう。「ふぅん」と思って、待ち時間なしのプレミアム会員サービスに登録。2年縛りとかだと嫌だけど、別にそんなことはないので、1ヶ月とか2ヶ月とか、みんな一時的にプレミアム会員になったらいいんじゃないの。
あと、個人的には絶版本でも裁断はとくに気にならないな。本当の本当に自分しか持っていない本というのは、ないと思うし。世間に300冊くらいしか出回ってない絶版本(おりがみ関係です)はあるけれど、バッサリやっちゃうつもり。
実家の広辞苑は最近10年間で1回しか利用されなかったけれども、電子辞書の中の広辞苑は毎週のように利用されているそう。これはまあ、辞書だから、という特殊事情はあるのだけれど。ともかく、私の蔵書の場合、本の物理的な希少性より、面倒がらずに利用できることの方が、自分にとっては大切かな。
多分、一生かけても聞ききれないだけの音楽が世界にはあふれているっぽい。世間で話題になってるアレを聞きたい、コレを聞きたい、と考えなければ、CDを持つ理由がない。どうも、私は音楽にあまり関心がなかったみたい。
毎回、洗うのだから、1食分だけあればいい。茶碗ひとつ、お椀ひとつ、湯のみひとつ、小皿ひとつ、皿ひとつ、小鉢ひとつ、中鉢ひとつ。こうして数え上げてみると、1食分といっても、意外と数があるんだよなあ。
自炊は、する。でないと、仕事を辞めた後の生活が成り立たない。そもそも「モノを持たない生活」というのは、なるべく仕事をしないための準備だと私は思ってる。だから、自炊に必要な物は捨てない。
座布団でいいような気がする。
ひざを痛めるまでは、ちゃぶ台と座布団でいいと思う。椅子とセットでテーブルも処分。
ちゃぶ台もないと、食事に困る。床に皿を置いても、私はとくに「みじめ」とか思わないが、腰が痛くなるのは具体的な弊害。だから、椅子に座らないとひざが痛い人は椅子を捨てられない。それは当然だと思う。
椅子とか、洗面器とか。アメリカへ短期留学したとき、向こうの風呂場にはそういうものがないことを知った。だったら、なくていいんじゃないのか。少なくとも、なきゃ死ぬというようなものではないと思う。
引越で持っていくのは樹脂ケース4つ分と決めて、半分くらい処分した。
通勤用のスーツ(夏、春秋、冬)、コート、ワイシャツ、靴だけで3ケースに迫ってしまい、愕然とした。服ってこんなに体積があるのか。あと靴の体積は完全に読み違えていた。で、スーツの数も減らすことに。
ていうか、私みたいに年平均で衣料品の消費が3万円に満たない人間ですら、こんなに服とかを持っているのは、一体どうしたわけなんだろう。
10型のアナログ液晶テレビ。別に邪魔ではないのだけれど。要らないかもしれないな。
デスクトップは要らないとして。ノートもネットブックでいいや、もう。いまのが壊れたらそうしよ。ちなみに会社のデスクトップはエプソンのNP11になった。最初は不安に感じたけれど、何の問題もないので衝撃を受けた。キーボードとマウスはロジクールのMK250に。ワイヤレスになって机の上が広々。マウスの線って場所食いだったんだな。
どうもしない。
モノがないと声が響いて面白いよ。
あるいは、家賃を節約できると思う。すると、死ぬまでに必要なお金がグッと減るので、給料が安くて楽な仕事を選んだり、さっさと引退したりできるんじゃない? もしくは、今の仕事がきついなら、「とりあえず辞める」という判断をしやすくなる。
世の中、楽でそこそこの給料がもらえる仕事というのは実在するので、苦行を続ける必要はないです。
知らんがな。自分で判断しろ。
5月29日に、転勤に伴って東京から栃木へ引っ越しました。アトピー悪化に2年ぶりの喘息の発作でダウン。土曜引越しでよかった。月曜から出勤して職場の方を片付けて。
何やかやで、もう2週間くらい経ちましたが、新しい環境への最適化が不十分なためかどうか、余暇が半減してます。Yahoo!路線情報とかで調べた限りでは、今も通勤時間は片道20分程度であり、バッチリ職住隣接できています。しかも今回は駅と自宅の途中にスーパーがある。以前は自宅をスルーして4分くらい歩かなきゃならなかったので、より楽になったはず。
なのに、何でかな。ちょっと寄り道してるだけのはずが、帰宅に2時間かかってしまう。へとへとに疲れ果てて、バタンキュー。
街のどこに何があるかを調べているのですが、なかなか見つからないものもいろいろ。古書店まで3kmは遠い。階段も坂もある。もっと近くにないの? 徒歩圏内にクリーニング店があるはずなんだけど、意外とネットで調べた情報が古くて、2回も無駄足に。散髪の場所も未定。美容院は10軒くらいみかけましたが、予算に見合わない。カット専門1000円というお店はあります。でも、今まで洗髪なども込みで1500円というお店を利用していたので、同じようなお店が他にないかなあ、とか。マピオン経由で片っ端から電話をかけていけばいいんだけど、電話するくらいなら歩いて看板を見る方がいい。私の電話嫌いは、そういうレベル。
ワンルームから2LDKになって、延べ床面積が4倍になったことも、余暇の減少に影響しているかも。引越しに伴って荷物を減らしたのに、掃除も片付けもたいへんになった。家事だけでなく、何をするにも手間がかかって仕方ない。荷物が3部屋に散らばってしまって……。ゲンナリしてます。
そんなこんなで精神的に疲れて、例えば、ホームで電車を待っていると、背後に殺気を感じます。電車がゴーッと入ってくると、見知らぬ他人に線路に突き落とされるイメージが頭の中をグルグル。仕方ないから、ホームの先端まで行く。ここなら突き落とされても電車にぶつからないから、骨折くらいで済むんじゃないか。そうしたらさ、「3番線を、電車が通過します」だって。勘弁してください。
背後から蹴り落とされる、なんて実際には全く経験がないのに、エスカレーターでも階段でもそういうイメージが湧き出てくる。エスカレーターなら手すりをギュッと握ればいいけど、階段ではどうしようもない。だんだん収まってきたからいいけれど、不安ていうのは、怖いな。つくづくそう思いました。
自宅や会社に到着するとホッとして開放されたので、睡眠や仕事には支障がなく、助かりました。