反論や冷笑なら受け入れるが、「黙ってろ」は許せない、といったら、人を不愉快にさせる言論なら「黙ってろ」でいいんだと。「黙っていればいいのに」「黙ってほしい」なら許容できるんだけど。
あるいは、法律の定めによる限定された意味での「侮辱」「名誉毀損」に該当する「不愉快」をいっているなら、同意もするけど。実際はそうじゃないからね。
現在は私の口をふさぐことはできないわけだけど、「黙ってろ」という人は、規制できるものならしたいわけでしょ。こっちに最終的な選択権を委ねずに、あくまでそちらの価値観で「黙ってろ」というわけだから。
不思議な反応。一ヶ月以上も前に公表されたマニフェストを読んでないのか。その後、修正が入りはしたけれど、大筋では変化していない。最初から民主党のマニフェストは4年計画だった。
大手新聞なら、民主党の政策の進行予定表を図解入りで説明していたはずだ。それも1回じゃない。マニフェストが出たとき、修正論議が話題になったとき、選挙の公示後、最低でも3回は掲載されていたはず。こういうとき、新聞を読んでいない人って困るな、と思う。ずっと説明し続けているのに、「知らなかった」といって怒るんだもの。
麻生総理の「日本経済は全治3年」と対比させてる意見もひどい。民主党が4年かけて実現したいといっているのは、景気回復じゃない。年金改革とか医療改革とか、そういうのだよ。どう変えるにしたって時間がかかるに決まってる。
自民党政権への批判も無体なものが多かったけど、民主党政権でもそれはちっとも変わりそうにない。私は民主党の政策に納得のいかないところが多いが、しかしこんな批判には与しない。
前回、そして今回と、小選挙区制の特徴が強く出た。比例代表の獲得議席を見ても、なるほど自民党は民主党に完敗している。だが「政権選択選挙」だとして民主連立と自公連立を比較するなら、差は縮まる。
注:下表の諸派は無所属を含む(以下同じ)
ただし今回の比例では、名簿搭載人数不足と重複立候補した小選挙区での得票率不足により、4議席が移動している。このイレギュラーがなかったとすると、結果は以下の通り。
少し差は開いたが、次回の選挙で逆転できないほどの差には見えない。しかし今回の敗北を受け、自民党と公明党は協力を解消する方向といわれる。そうなると自民党はつらい。10年、20年と政権から遠ざかり、次第に独自色を強めて、少数派の地位を自ら確実なものにしていきかねない。
民主党がよい方に予想を裏切って、堅実な政権運営(とくに経済政策、あとは安全保障政策)をしてくれるならいい。だけどもし不況下の緊縮財政+利上げといった破滅的な政策を実行し、日米同盟を毀損していくなら、しかもそれが国民の支持を集めるようなら、かなりガックリくる。
ところで、今後、衆議院の定数は比例代表分(180議席)ばかり減らしていく方向なのだそうだ。民主党も憲法改正を目指すわけか。来年の参院選に勝って参議院でも単独過半数を実現すれば、小政党と連立する必要はなくなる。そうなれば選挙制度の変更に障害はない。
個人的には、憲法改正は、とりあえず改正手続きの規定(第96条)だけ変更して、両議院の総議員の過半数の賛成で発議できるようにしてほしいと思ってる。数年前の議論だと、変えるなら一挙に全体を、みたいな過激な話になっていたけど、少しずつ変えていってほしい。
マニフェストと一緒でさ、そりゃ政策に相互の関連があるのはわかるけど、いくつかセットになると「それだけは認められない」みたいなのが絶対に入ってくる。可能な限り、個別に判断させてほしいな。
何かというと「文句があるなら海外へ行け」という人がいるんだけど、語学力を考慮するとマイナスの状態からの再出発。そこまで私自身は追い詰められていない。大学の新卒で大企業に就職したりして、自分の能力にかなりの高下駄を履かせて生活基盤を構築しているわけでね。おいそれとは捨てられないよ
日本の経済政策よりアメリカのの方がかなりいいとは思うけど、それは私個人が海外に移住して今より幸福な生活ができるほどの差ではない。だから私的な判断としては、日本にいた方がいい。国民の大半が、私のような立場だと思う。だから海外の政策を羨みつつ移住しないのは、不合理ではないんですよ。
- デフレ対策
- 日米同盟の明確化
- 雇用のための財政出動
賛成。でもリンク先で紹介されている新聞の社説の方が「そうだそうだ」っていう人が多いんじゃないかとは思う。
昨日、衆議院選挙があった。結果は民主308、自民119、公明21、共産9、社民7、みんな5、国民3、日本1、無所・諸派7となり、自公連立の麻生太郎政権は9月開催の特別国会で終了、民主党の鳩山由紀夫代表が総理大臣に就任することになる。
自民党の議席は6割減。中山太郎さん落選……。臓器移植法改正が最後の仕事でしたか。まあ、歳も歳だし、引退でしょうね。お疲れ様でした。世論に乗って総量規制などの地価抑制策に取り組み「バブル」を潰して高支持率を保った1989〜1991年の宰相、海部俊樹さんも落選。
うちの選挙区(東京10区)は民主党の江端貴子さんが当選、自民党の小池百合子さんが比例復活。今回の選挙、正直こんなの誰も選べない(=経済成長にコミットした【金融緩和+市場重視のマクロ経済政策】を掲げている候補者がいない)と思って七転八倒したが、結局は小池さんと自民党に票を入れた。復活当選してよかった。
でも小池さんは私の期待にはろくに応えてくれないだろうな。まともなマクロ経済政策なんて個人の得点にならない。ミクロ大好きは仕方ない。まあ、小池さんはヘンな人だけど、まじめに政策を語るときは意外と漸進主義なので、民主党が冒険するときは頑張って足を引っ張ってほしい。
経済成長に冷淡+需給ギャップの縮小に無関心+低金利批判+福祉予算を増額しつつ増税なき財政再建という民主党の経済政策は破滅的ないし荒唐無稽だと思う。が、江端さん個人には、淡い期待がある。江端さんの関心事は介護。【経済成長+適正な所得再分配】という政策と、本来は親和的なはず……。
少なくとも次の参院選まで民主党政権は続く。いや、参院選で負けても、自公政権と同様に任期満了近くまで引っぱるかな。下馬評どおり民主党が勝った以上は、よい方向で予想を裏切ってほしい。
教えて!というからコメント欄で回答したのにスルーか……。twitter見たら、そもそも面白半分の質問だったみたいだし。それならもっとPVの少ない媒体でやってくれたら、こっちも回答なんてしなかったんだ。私は遅筆だし、何度か書き直したので、あんなのでも30分くらいかかってるんだが。
文章の一部が誤解されやすい状態だったことには気付いたので、小見出しの追加+一部修正をする契機にはなった。修正以降の方がPVが多かったし、多少は無用の反発を抑制できたろう。でもそれだって加野瀬さんの方は単に「誤解」してみせただけなんだから、感謝するような話だとは思えない。
ウソをつかない人間はいない。
親が子に本当のことだけをいわせようとし、ウソを厳しく咎めるのは、無理があると思っている。
子どもが悪事を働くと、親はショックを受ける。窃盗は大きな犯罪ながら、少なからぬ子どもが一度は手を染め、親を泣かせます。リンク先記事にインスパイアされて、私の雑感を簡単にまとめてみました。エラソーな文体に反して、内容に自信はないです。テキトーに読み流してください。
私は親不孝者なので、自分の悪事で親を泣かせたことが何度かある。その体験からいうと、子どもが悪いことをするのは、基本的に親のせいではない。親が立派な人物で、多くの人から賞賛されるような子育てをしていても、子は悪事をなす可能性がある。そういうものだと思う。
私が***を盗んだのは、とある事情から、決してありえないと思われていた状況下だった。両親の絶望はいかばかりだったか。しかしとある事情の件もそうだが、両親は子どもの重大な過ちについては、その後、決して蒸し返さなかった。子どもの生意気な発言に怒っても、過去を持ち出して優位に立とうとはしなかった。
私のために、両親がどれほど超人的な努力をしてきたか。絶対の信頼を裏切った私を、父も母も再び信じてくれた。親業は、人間に可能な範囲を超えている、と思うことがある。
子どもが悪いことをすると、理由の追求に没頭する人がたくさんいる。でも、悪を為すのに理由なんてあるのか。たしかに一応はあるのだろうが、それを知っても予防できる悪事なんて限られていると思う。未来の破滅を予測しながら、私は***を盗んだ。そこには何の合理性もなかった。
反省の言葉を重視する立場にも与しない。悪事の誘惑を跳ね返す情動の核心部分(=恐怖や悲しみのようなもの)を言葉にするのは無理、と感じている。学校の反省文が、私は***にたいへんなご迷惑をかけ云々という外形的な内容となっているのは、先人の知恵だろう。
また、お説教の意義も疑っている。体験的には、叱られて意気消沈しているときには、頭が半ば痺れている。そんなときに話をされても頭に残らない。またお説教する側も相当に感情的になっているから、話に無理・無茶が混入しやすい。それでいて聞き手は反論を許されない。理不尽だ。
まとめると、人の悪事が露見した際に、性急に何かを教え諭して反省の言葉を引き出す対応に、私は疑問を感じている。親の危機対応は、子どもが観念して罪を引き受ける状況を用意すること。その作業は同時に冤罪も防ぐはずだ(後述)。道徳感覚は、日常会話を通じ丹念に養成するもの。お説教は安直。
あるいは。ぶっちゃけた話、みんながあまり悪いことをしないのは、損得勘定ゆえなのかも。問題が生じるたび厳罰化が支持を集める世論を見ていて、そう思う。子どもが何度も「悪に手を染め、バレて罰せられる」パターンを繰り返すのは、いざバレたらこんなにひどいぜ、という体験学習なのかもしれないね。
ともかく、子どもが盗みを自制できれば御の字。それ以上は人の手に余る話だと思う。
子どもを問い詰めれば、必ずウソをつく。悪の自覚がある、あるいは問い詰められたことで悪の自覚を持つからだ。人間は、そういう風にできている。この暗黒面から子どもを救い出す方法は、ひとつしかない。言い逃れのできない証拠を、あらかじめ調査・発見しておくことだ。これは無実の罪で子を責める失敗を避けるためにも必要なステップ。
私が***を盗んだ際、確実な証拠をひとつ掴んだ段階で父は休暇を取った。そして私が学校へ行っている間に、本棚の裏から学習机の下まで、徹底的に調べた。弟が家にいない時間帯を見計らって居間に呼ばれるまで、私は自分の悪事が露呈していたことに全く気付かなかった。両親は***の保管場所をリストにして、発見後も場所を移動しなかったのだ。
このとき***の件とは別の秘密を両親はいろいろ知ったはずだが、「関係ないことは全て忘れたから安心しなさい」という。どんな魔法を使ったのかわからないが、実際この件に関して、両親の演技が破綻したことは一度もない。余談はこれくらいにして、居間へ呼ばれた場面に戻る。
「隆夫、学習机の上から3番目の引き出しの青い書類袋の中に***を持っているね。そしてそれは***から盗んだものだ。同じく***、***、***もそうだね。それから4番目の引き出しの茶色の書類袋の下にある***と***も。これで全部だと思っているのだが、どうだい、間違い、不足があるかな」
私は顔面蒼白になった。そして観念して、「間違い……ありません」と小さくうめいて、うつむいた。
「そうか」
長い沈黙。不意に涙があふれて、止まらなくなった。完全な故意犯で、いつかこうなると予想していたはずなのに。全然、わかっちゃいなかった。心底から反省するのは、いつだって取り返しがつかなくなってからなんだ。どうして自分は、こうも愚かなのだろう?
「……ごめんなさい」
「明日、一緒に***へお詫びに行こう」
それまでずっと黙っていた母は、私をしっかりと抱きしめ、「明日、きちんと***に謝ったら、今日の気持ちを忘れずに、胸を張って新しい人生をはじめなさい」といった。両親は、それ以上、何もいわなかった。
それから、弟が帰ってきて、いつもと変わらない夕食の時間になった。
こういうのって、相手が大人でも同じだと思うな。お説教の無意味さも含めて。ただ、いういうのって沸点の低い人はダメなんだよね。自分で考えずにすぐに当人を問い詰めちゃって、理解不能の回答に怒って説教、みたいなパターンにはまりがち。それなら何もしないほうがマシだ、っていう。
あと【3.】について、子どものプライバシーを気にする意見があるんだけど、ひとつ確実な証拠を見つけた後なので、警察なら確実に捜査令状を取れる状況。ことの軽重を取り違えてはいけない。ただ、これはあくまで盗品の調査、事件と無関係の秘密を知っても全て忘れる、それが両親の方針だった。
病院の待合室でのこと。
小学校1年生くらいの男の子が、おばあちゃんと一緒に順番を待っている。5分くらいはおとなしくしていたけれど、次第に我慢がきかなくなって、もぞもぞし始める。
Tシャツをまくりあげてパタパタしたり、靴をぬいで長椅子の上であぐらをかいたり、雑誌を読むおばあちゃんの腕に抱きついたり、「ねーねーねー」と話しかけるんだけど「なに?」とおばあちゃんが応えると「なんでもない」だったり。
それから、トイレに行くので靴を履きなおしたんだけど、面倒くさがりなのか、マジックテープがきちんと留められていない。どうも自分では何もしなくて、ただなりゆきで重力が適当にテープをくっつけた感じ。
ずーっとイライラしており言葉が刺々しかったおばあちゃん、とうとう怒る。「くつをきちんとはきなさい! みっともない……。どうしてお前は小学生にもなって(以下略)」
男の子は言葉では何も言い返さないが、グズグズとして靴を直さない。きっと、暑い中を歩いてきたので、蒸れて嫌なんだろう。大人の手先・足先は心臓から遠いせいか気温同等に冷えやすいが、子どもの手足は体温とあまり変わらないことが多い。病院の待合室でも、きちんと靴を履くのが気持ち悪いのだと思う。
しかしふつうのおばあちゃんにそんな理解を求めるのは酷な話。公共の場でだらしない姿を晒して恥じない孫に怒りを覚える気持ちはわかる。
顔面が石仮面となった男の子の態度に業を煮やしたおばあちゃんは、とうとう奥の手を出した。「わかった。そんなにいうことが聞けないなら、あとでお父さんにいいつけるからねっ! いくらいっても靴をちゃんと履こうともしない。しっかり叱ってもらわなくちゃね」
よっぽど怖いお父さんなんでしょうね。男の子は全身で「ぼくは嫌々やってます」と主張しながらも、長椅子をおりてしゃがみこみ、マジックテープをいったんはがして足をきちんと靴に入れ直し、テープをきっちり留めた。そしてまた長椅子に座り直して、また雑誌を読んでいるおばあちゃんの背中にしなだれかかる。
背中を振って、男の子の手を払いのけるおばあちゃん。相変らず不機嫌。たかが靴を履かせるくらいのことで、どうしてこんなに手間がかかるんだろう。ああ嫌だ、嫌だ。子どもは面倒くさい。やってられない。そんな感じ。男の子の、達成感で高揚したウキウキ顔が、またもとの石仮面に戻ってしまう。
男の子が、こっちを見た。「徳保さーん、診察室へどうぞー」グッドタイミング。軽く深呼吸。
「よく我慢して靴を履けたね。偉いね」
男の子、ニコッと笑う。おばあちゃんは雑誌から目を離さない。いい笑顔なのに、もったいないな。そんなことを思いながら、待合室を後にした。
子どもが親の指示に反抗し続けると、次第にイライラが募る。だいたい最後にはやることをやるんだけど、あからさまに嫌々オーラを発散させるから許せない。わかる。自然な感情だよね。素直に表現すればいい。
ただ、嫌なことをするのって、ものすごくエネルギーの要ることじゃないですか。褒めるに値しますよ。というか、褒めるに値する、という物の見方もあると知ってほしい。靴をきちんと履いた後でおばあちゃんの背中にくっついた男の子は、なぜウキウキしていたのか。
やって当然のことをしたって、世間は褒めてくれない。でも、家族が世間と同化する必要はないはず。
こういうことを書くと、よく勘違いされるのですが、親が頑張りを褒めても、子が立派に育つわけではない。怠け心や不清潔を正し、道徳を育てるには適切な厳しい指導が必要なのでしょう。一方、子どもを褒めて得られるのは、一瞬の笑顔だけ。それでは不足だ、という方に、無理をいうつもりはありません。
叱るな、怒るな、自律的な成長を待って現状の問題は大目に見よ……それは私の考えと全く違います。子のなす悪・堕落・間違いは、いちいち正すべきで、だから親はたいへんなんでしょう。ただ、子どもの笑顔って、数少ない子育ての報酬だと思うんです。苦労の仕上げに、親子が笑顔になれたらいいですよね。
それに、子どもを叱って楽しいわけがない。だから、「成果は現状と同等以上、叱る回数は減り、笑顔が増える、そんな指導方法を模索していきましょう」と提案し続けているのです。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
大人は子どもの都合なんか考えずに引越しを決める。一応、意見は聞いてくれたりするけれど、どんなに抗議したって「話は聞いた」でおしまい。主人公は9歳の少年ブルーノ、司令官の長男。物心ついた頃からずっとベルリンで暮らしている。親友も3人いる。その街を出るのだという。
帯の宣伝文句は「フェンスで区切られたこちら側とあちら側、それでも、ふたりの少年は友情で結ばれた」なのだけれど、フェンスの向こうの少年・シュムエルが登場するのは本を半分くらい読み進めた頃だ。それから数十ページ進んだところでフェンスのこちら側の少年・ブルーノはシュムエルを裏切り、最後にもやっぱり約束を放り出して帰ろうとするも引き止められ、そのままアリ地獄に飲まれるように死地へと導かれていった。
主人公は「銀の匙」の主人公のように
見知らぬ他人を怖がって銃で撃ってしまうアメリカ人だけど、顔見知り程度のベビー・シッターのことは不思議と信頼するんだよね。幼児だけで留守番させると虐待として罰を受ける国なのに、ローティーンのベビー・シッターが珍しくない。日本とはずいぶん感覚が違う。
幼少の頃は子どもにプライバシーなんかなくて、むしろ何から何までチェックして「ふさわしくない」ものを排除することが推奨されたりするが、小学校卒業くらいの年齢になると、一転して子どものプライバシーが大人と同等に保護されたり。そして子どもの自由が急に広がっていく。
この物語では、主人公の両親が、主人公のクラスメートに幼児の面倒を頼んでパーティーに出かけることが悲劇の種になる。ところが最後までこの両親は誰からも責められない。たいへんな目に遭った主人公も、両親を恨むことはない。
日本の読者にはこれに納得できない人が少なからずいるようで、「リアリティーがない」「無責任だ。許せない」「中学生にこんな重荷を背負わせる親が悪い」といった内容の感想をいくつか目にした。でも、舞台がアメリカなのだから、私たちの常識は通用しないんだな。もちろん、日本の読者が日本の常識に基づいていろんな感想を持つのは自由なんだけど、相手の事情をもう少し理解した方が物語を楽しめるはず。
アメリカはそれほど公的な子育て支援策が充実しているわけじゃない。それでも、日本と較べたら子育てがラクだ、という人は多い。親だって四六時中子どものために自由を奪われているなんて嫌だよね、という感覚が社会に埋め込まれている。電話一本でベビー・シッターを頼んで夫婦水入らずでデートへ行ける社会に慣れたら、日本で子育てなんか窮屈でやってられないだろうな。
日本だと子連れ入店お断りの居酒屋が子育て層(の一部?)から批判され、逆にそういう人が「身勝手」とか「親の自覚がない」などと批判されたりもする。面白いのは、電話一本で子どもの世話を他人に任せられる社会にしようぜ、という意見が誰からも出てこないこと。アメリカだと酒場に子どもを連れて行くと公機関に注意されたりする代わり、幼児の親でも気軽に酒場へ通える仕組みが用意されているわけだ。
さて、日本の中学生は、都合のいいときばっかり「もう子どもじゃないでしょ」といわれて、実際には完全に子ども扱い。学校が当たり前のようにアルバイトを禁止してくれたり。持ち物検査とかもね。ナイフだ銃だという話じゃなくて、漫画や携帯電話や化粧品を取り上げる、なんて文脈だから嫌になってしまう。
その点、この物語の主人公には、いろいろな自由と、責任ある仕事が与えられている。その責任感が、物語を駆動するエンジンとして機能する。
学校でクラスメートの女の子を怒らせてしまった主人公は、その晩、「ベビー・シッターには行けなくなった」という女の子の電話に頭を抱える。両親はパーティー、幼い妹はクラスメートに任せ、自分は友人と一緒に移動遊園地へ行くつもりだったからだ。両親との押し問答の末、不本意ながら主人公が幼い妹を連れて遊園地へ行くことになった。
作者がいちいち説明していないことを少し補足すると、アメリカでは大人の集まりはだいたい子連れ禁止となっているから、両親が幼い娘の面倒を見るなら、パーティーへの参加自体を諦めるしかない。これに対して、主人公が行く予定の移動遊園地は妹連れでも行ける。友人と二人で行く方がいいに決まっているけれど、家族全員の幸福総量を最大化するのは、主人公が我慢する案、ということになる。主人公は一人前の年齢なので、子どもだからかわいそうなどといって親の方が無理に我慢したりすることはないのだ。
遊園地は楽しい。主人公は、まだ判断力の乏しい妹を独りぼっちにしてはいけないとは思うものの、どうしても友人と一緒に幼児連れお断りの激しい遊具に乗りたくなってしまう。「絶対にここを動いてはいけないよ」と妹に繰り返し言い含めて主人公は行列に並んだのだが、犬が大好きな妹は、ふらっと現れた野良犬を追いかけて道路に飛び出し、車にひかれて植物状態になる。
悲嘆に暮れる主人公は、夕方に家を飛び出したとき、ヘンな老人から人生やり直し機「パワー・オブ・アン」を貰ったが、どこかへ落としてなくしてしまったことを思い出す。
その後、主人公は機械を無事に発見し、人生を少しだけやり直す。だが奮闘も虚しく、今度はクラスメートの女の子が主人公の妹を助けて車にひかれる。再挑戦。ついに主人公は捨て身で悲劇に立ち向かう……。
こういう物語を読んだら、主人公の勇気に感動するのが素直な読み方なんだろうと思う。でも、私は違うことを思った。この作品の主人公は特別な人間ではない。だから共感できる。そんな彼が、いきなりヒーローになって読者を感動させるなんて、ヘンじゃないか。
少しページを戻して何度か読み返してみるうち、「作者は恐怖を描いているんだ」と考えたら、ストンと胸に落ちた。自由が極大化すると責任もどんどん重くなって、ついには平凡な人間が持つ巨大な死の恐怖さえも凌駕してしまう、これはそういう怖い話なんだ、と。
人生は偶然に支配されている。主人公の妹の前に野良犬が現れ、その野良犬が妹を危険へと導いたのは、偶然のはずだった。人生を何度もやり直した主人公だけが、それが何度でも繰り返される必然だったことを知っている。
予測不能の事態に、人間は責任を取れない。だが、何が起きるか知っていて、そして自分はそれを止められると確信していながら、傍観者でいられるだろうか。しかも不幸が襲い掛かるのは、赤の他人ではなく、自分自身でもない、よく知っている身近な人なのだ。
繰り返された悲劇は、主人公のリミッターを破壊する。
彼は人生を15分だけ巻き戻し、なりふり構わず人ごみを掻き分け、捨て身の覚悟で全力疾走し、最後には思いきりジャンプして危険の核心部へ突っ込んでいく。それまでは、ただ祈ったり、大きな声を出したり、そうした平凡で無力な反応しかできなかったのに。
人生をやり直す機会を得て、彼は小さな願いをいくつか叶えた。この人の手に余る自由は、失われた人生の復活さえ実現した。だがそのために、主人公は生涯最大の恐怖に支配され、大きな代償を支払い、残された人生の大半を費やして解決すべき課題を背負わされることになる。
でもこれって、意外と「勇気」の本質なのかもしれない。自分には選択肢がある、そう思えたとき、人は恐怖から超人的な行動をとってしまう……。
主人公は、悲劇の元凶とも思える野良犬を、妹の希望を受け入れて飼うことにした。この犬が彼のその後の人生を支えていくことになるのだから、縁とは不思議なものだ。
小学生の頃、人里に熊が現れるのは、人が山を切り開いていったからだ、と習った。本当だろうか、と私は思ったが、いまだに事実をきちんと調べてみたことがない。
私が首を傾げたのは、「まんが日本昔ばなし」などを見て育ったためだろう。そこでは、昔の人はみんな山の中か海辺のどちらかに暮らしていたかのような描写になっていた。
現実には、農業に適した平野や台地に人口が集中していたそうだ。アニメの山は、平野の中にも数多ある丘陵などを誇張して表現していたものらしい。とはいえ、見渡す限りの平らな水田は、土木技術が普及し干拓や灌漑整備が進むまでは、限られた場所にしかなかったという。
古い街には大地の凹凸がよく残されている。いま私は東京に暮らしているが、関東平野の河口付近につくられたこの街の、坂の多さには閉口させられている。
実家は千葉の北総台地にある。近所を流れるふだんの川幅が1m程度しかない小川が、高低差10m、幅300mにもなる緩やかな谷を形成している。川沿いを走る鉄道をまとめて越える長い跨線橋から谷の全景を眺めると、日本地図では関東平野の一部にされている平らな土地も、昔の人は山また山と認識していたことを実感できる。
数年前に千葉県立中央博物館の方に訊ねてみたところ、自分の専門外ではあるが、と断った上で「かつては千葉県にも熊がいました」という。全域に人口密度が増えていく過程でかなり昔に房総半島からは消えてしまったようだが、今も関東平野周縁部、例えば多摩丘陵などには一定数が生息しているのだという。
となると、小学校の先生の話は、いささか滑稽に思えてもくる。人はずっと、熊が暮らすような山の中、あるいは熊の棲む山のふもとで生きてきた。いま私たちの多くが熊の心配なしに生活できるのは、先人たちがニホンオオカミと同様に熊を駆逐したからではないか。
既に大型の野生動物を追い出し終えた土地に暮らす者が、熊の近くに暮らす人々を「山を切り開き野生動物の領域を侵食していく人間の傲慢」「撃たれる動物がかわいそう」などと批判するのは偽善的ではないか。
そんな問題意識を持ってみると、100万都市の仙台や札幌の山林には今も熊が生息しており、時々ニュースにもなっていることに気がついた。熊は意外と身近な動物らしい。とくに2009年の夏は、全国的に梅雨が明けない異常気象のため、山に熊の餌が少なくなった。そのため、熊が人里で目撃される事例が増えている。
自然動物保護の啓蒙活動が進んできた日本だが、人と熊が共存する社会を実現するための取り組みは、ここに重大な挑戦を受けることになった。
さて、本書はマタギの伝統と現代の姿を伝える一冊である。
マタギとは東北地方・北海道で山での狩りを生業としてきた人々という。狩りに適しているのは緑が生い茂る前の春浅い季節。まだ山に雪が残る頃だ。マタギは専業の猟師ではなく、一年の大半を農耕、炭焼き、川魚漁、商工業などを営んで過ごし、機会を得て狩りを行ってきた。
マタギが獣を仕留める伝統的な道具は槍(やり)だ。昔の銃は精度も威力も低く、獣を追い立てるのが主な用途だった。槍で熊と1対1の勝負に挑むのは無謀だから、マタギの熊猟は集団で行われた。マタギは山では里の言葉を使わず、山の言葉だけでやりとりする。そして猟に成功するとケボカエの儀式を行い、祈りの言葉を唱えた。マタギは山の神を敬い、人の欲望の暴走に歯止めをかけてきた。
600年の伝統を持つマタギの末裔、吉川さんが営む「熊の湯温泉」は、白神山地の青森県側に位置している。最寄の集落まで3km、カラカ山と然ヶ岳に挟まれた赤石川の沢沿いにガッシリとした建物を構える。雪に閉ざされる季節を避け、6月から10月までを営業期間としているそうだ。
吉川さんはある年、マタギの掟に反して2歳未満の子熊の母親を仕留めてしまう。これは吉川さんにとって3度目のことだった。幼い熊は放っておけば死ぬ。吉川さんは、子熊を家へ連れ帰って育てることにした。2歳まで育て、森に返すのだ。ところが、今度の子熊は放獣しても翌朝には家へ帰ってきてしまうのだった。
諦めて子熊をずっと面倒見続けると決心した吉川さんだが、その後も狩猟は続けている。子熊の命をいったん山へ返したなら、山から再びその命を分けてもらうこともできる。しかし預かっている命は大切に守り育てねばならない。だから、かつての子熊を大人に育てつつ、山で猟をするのは矛盾ではない。
マタギはいつまでマタギでいられるのだろうか。1994年に兵庫で熊猟が禁止されたことを嚆矢として、熊と人の関係においても、野生動物保護の理念が重要な地位を占めるようになってきた。青森県は熊猟の規制に及び腰だが、いずれ禁猟になるだろう。他方、安全を名目とした熊の捕殺は続いている。
マタギは命を分けてもらうことを通じて山を敬い、山を荒らさぬよう守ってきた。だが今や、人の移動・転職が自由になり、生活水準に比して熊猟の利益は小さい。もはや山から直接に命を分けてもらう必要は乏しい。伝統の維持という名目も、高性能銃の導入による猟の個人化、山言葉の廃れなどから、趣味の狩猟との差異が狭まり、説得力を失いつつある。
今夏、石川、秋田、青森などでは、人里で目撃された熊を餌でおびき寄せ、わなで捕獲し駆除(射殺)することになった。人の安全を優先順位のトップに置き、リスクを背負って熊と共存する道を捨てた。マタギは転機を迎え、熊は有害獣として排除される。そして「安全」な街に響く環境保護の掛け声。
うまくまとまらなかった……。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
残念ながら感想文を書けず。難しかった。
失敗は成功の母、というけれど。実際のところ、何らかの成功によって失敗が帳消しになることって、まずないんだよね。失敗はいつまでも失敗のままで、成功はまた別の話。だから、といっていいのかどうかわからないけれど、失敗したときに大切なのは、そのつらさ、悲しさに負けずに生き抜くことなんだと思う。
語り手・達也くんの姉、そして物語の主人公の加奈さんは、小学校6年生。運動会の華というべきリレーのアンカーを任された。見事に1位でゴールテープを切るが、バトンミスで失格になる。バトンを受けたのが、規定の範囲を1メートル出たところだったのだという。
自分一人がガッカリするだけなら、まだよかった。加奈さんが台無しにしたのは、みんながつないだバトン。その重さに、小さな心は押しつぶされてしまった。
素晴らしい走りへの賞賛も、一瞬の歓喜の記憶も、これまでの努力の積み重ねも、「気にすることないよ」という言葉も、かすかな慰めにしかならない。今回の失敗に懲りてバトンパスの練習に励んでも、小学校最後の運動会に再挑戦することは決してできない。
かといって、もし加奈さんが失敗を気にせずニコニコしていたら、ムッとする人は少なくないだろう。そしてそれは、加奈さん自身の気持ちでもある。取り返しのつかないことをいつまでもクヨクヨ悩んでいたって、具体的な成果は何もない。それでも、人が一歩踏み出すためには、ときには足踏みだって必要なんだ。
人はどうして、失敗すると悲しくなるのだろう。加奈さんは誰にも責められはしなかった。みんな優しかった。それでも、悲しくなってしまった。
私の経験に照らしても、感情的に自分を責めたり、「ぼくはなんてダメな奴なんだ」と貶めたりしても、そのこと自体が直接に未来をよくすることは、ない。いろいろな場面で私の前に現れた「泣いていたって意味ないだろう! 対策を考えろ!」と怒鳴る人々は、その感情的な大声は無意味ながら、言葉は正しかったと思う。
ただ、バトンミスは今後もなくならないに違いない。どんなに練習を積んでも、スタートダッシュとギリギリのタイミングを追求する競技、その一連の動作の中のことである以上、不確実な領域は残る。1996年のアトランタ五輪、400メートルリレーの3走だった朝原宣治選手は、バトンを受け取れないまま規定の距離を走り抜けてしまった。日本トップクラスの選手だって、バトンミスをする。
反省の意味というのは、じつのところよくわからないことが多い。それなのに反省は有意義だということになっている。だから、やる気の問題だとか、気の緩みとか、反省の有効性を訴えるために問題の原因の方が創作されてしまいがち。
みんな自覚はしないまでも、こうした状況を肌で感じてはいるよう。私的な相談の場では、例えば「しばらくおとなしくしていればいい」といった、反省なんて世間向けのポーズですよ、みたいなアドバイスをくれる人がたくさんいる。
ただ、その意見は有用なものかもしれないけれど、聞いた人の沈んだ気持ちを救う効果は乏しい。もちろん、自分にガッカリして意気消沈する時間というのも長い人生の中では貴重なものだから、直ちに救い出そうとするのはお節介かもしれない。それでも、誰からも見捨てられたかのように感じている子どもに、大人たちが救いの手を差し伸べるのは、大切なことだと思う。
加奈さんは失敗から一晩経っても食欲がわかず、部屋に閉じこもっていた。折り悪く、両親は知人の結婚式に出席するため、家を空ける。傷心の姉と二人きりになり、達也くんは困惑する。そこへかかってくる一本の電話。声の主は、近所に暮らすおじいちゃんだった。
たまたまおじいちゃんの家に親戚が多く集まるので、達也くんと加奈さんもくるように、という。おじいちゃんは渋る加奈さんを説得し、家から出すことに成功する。昨日の運動会を観戦していたおじいちゃんは、一計を案じていた。
おじいちゃんの家では料理の準備に忙しい。大好物のハラン寿司づくりを、加奈さんは無言で手伝う。
料理が揃う頃には全員が集まった。元応援団のおじいちゃんが乾杯の音頭を取り、和気藹々とした空気で宴がはじまる。
宴席の話題は、みんなの失敗談。最初はいとこの洋くん、次にその姉のまなみさんが、今ではひとつの思い出となった失敗のエピソードを語る。おじいちゃんは、話に区切りがつくタイミングで「失敗に乾杯!」と音頭をとる。達也くんはおじいちゃんの気持ちを理解した。
今度は達也くんが失敗談を話す。さらに横浜のおばさん、おじさんが続く。
他人の失敗談は面白い。加奈さんは座がワッと盛り上がるそのときには小さな笑顔を見せるけれど、やっぱり表情は暗い。それはそうだ。大失敗から1日しか経っていない。加奈さんは「私の失敗も笑って話せる日がくるのかしら……」という。「くるとも」と、おじいちゃん。みんなで失敗に乾杯して、物語は終る。
つらいときにお説教は最悪だし、暗い顔と共存するのが嫌なだけの人が口にするおためごかしの慰めも役に立たない。加奈さんを力づけたいという気持ちは本物でも、実際にどうしたらいいかというのは、難しいところ。この物語は、フィクションらしい理想像を描き切ってすがすがしい。
大勢に愛されている加奈さん。みんなの話を聞いてもすぐに心が晴れることはないけれど、この宴が加奈さんを勇気付けたのは間違いない。失敗の悲しみがずっと心の片隅に残るように、自分を支えてくれた温かい記憶も末永く生き続ける。加奈さんはもう大丈夫、達也くんも安心して眠れるね。
あと、肝心なときに家を離れてしまう両親は冷たく見えるかもしれないけれど、おじいちゃんの手厚いフォローをセットで考えれば、大正解だと思う。あまり身近すぎる人の体験談は、自分を客観視する材料にはしにくい面があるから。そういえば物語中、おじいちゃんは音頭取りに徹して失敗談を語っていない。すごい。
異様な物語である。粗筋はこうだ。
物語の舞台は、きつねとうさぎが出会ったら必ず「おやすみなさい」という約束に支配された土地。
迷子の子うさぎは、きつねと出会う。きつねはすぐさま子うさぎを食べようとするが、子うさぎはきつねにルールを突きつける。仕方なく、きつねは形式的に「おやすみなさい」と声に出す。だが子うさぎは、「おやすみなさい」とは単なる言葉ではなく、きちんと実質が伴わなければ、約束を守ったことにはならない、と主張する。
子うさぎはまず「おやすみなさいのお話」をさせる。続いて「おうちのベッドまで自分を運ぶ」ことを要求する。きつねはうさぎよりはるかに敏感な鼻を使い、においをたどって子うさぎを家まで送り届ける。きつねの期待に反し、家の中は空だった。だが子うさぎも、いよいよ追い詰められた。子うさぎの最後の希望は「ぼくが眠るまで子守唄を歌い続ける」こと。子うさぎはギリギリの賭けに勝ち、きつねが先に眠りに落ちた。
そこへ子うさぎの家族が帰宅する。父うさぎはきつねを棒で殴って殺そうとするが、子うさぎはルールを盾にきつねを守る。きつねを眠ったまま家の外へ引き出したうさぎの一家は、扉を固く閉ざしてベッドで眠りにつくのだった。おしまい。
「約束」って何なのだろう。作中の大人たちはみな、子うさぎに約束を突きつけられると、なすすべもなくそれに従わざるをえない。うさぎが自分の巣を知ったきつねの命を助けるのは致命的な判断ミスだし、きつねがうさぎを食べられないのでは生存権すら脅かされてしまう。
カーチェイスに出くわした子どもが、逃走車に「速度違反ですよ」といったらスピードがガクンと落ちる。これ幸いとパトカーが追いつこうとするも、やっぱり子どもに「速度違反ですよ」といわれて法定速度に。そのまま逃走車とパトカーは等速で延々とカーチェイスを続ける……私が連想したのは、そんな光景。
「はだかの王様」の逆バージョン、ともいえそう。ふだんはみんなルールを知りつつも半ば無視して生きているのだけれど、目の前に突きつけられたルールを堂々と破るのは難しい。お互い様だと思うから大人は黙っているのに、子どもは平気でルールを持ち出す。無邪気で素直な発言には、世界の空気を変える力がある。
それでも解せないのは、きつねと迷子の子うさぎはしばらく2匹だけで行動していたのに、なぜきつねが約束を破らなかったのか。きつねが約束を破ったところで、周囲にその判断を咎めるものはいない。
とすると、きつねに約束を守らせたのは、きつね自身に他ならない。しかしこの約束は不条理なものだ。それでも守らねばならないのか。そもそも誰が、こんな約束をしたのか。この物語ではレアケースできつねも助かったが、ほとんどの場合、うさぎが一方的に得をするルールなのである。
こうした土地のしきたりというのは、一見したところ意味がないようでいて、じつは……ということも時にあるから、全く無視してしまうのも危ないのかもしれない。それでも、どんどんエスカレートしていく子うさぎの要求に翻弄され、いいように使役された挙句、腹ペコのまま荒野に放り出されるきつねは哀れだ。
私は何となくきつねに感情移入していて、子うさぎの「ちょっとまって!」が出るたびにイライラさせられた。しかしもちろん、子うさぎはきつねをいじめているわけではない。生死の瀬戸際で脳をフル回転させ、たったひとつの約束によって自らを守ろうと必死に言葉を紡いでいるのだ。
あらためて、読み直す。
「あいさつ」だけでは一瞬の時間稼ぎにしかならない。「お話」をねだってみても、きつねの創作力は低く、あっという間にお話は結末を迎えてしまった。さあ、どうしたらいい? ゆっくり考える時間はない。きつねは再び大きな口を開ける……。もはやこれまでか。もう家族にも会えないのか。お父さん! お母さん! ぼくは、ぼくは……。
「ちょっとまって!」
本って面白いな。さっきまで「またか!」といらだっていたセリフに、今度は「待ってました!」と拍手したくなる。
この絵本、幼稚園などでの読み聞かせでは人気があるという。「ちょっとまって!」がいいリズムを作って、繰り返しを重ねるたびに場が盛り上がっていくそうだ。
当初は「約束」について「宗教的戒律の暗喩なのだろうか」なんて考えていたりした。しかし今では、単純に弱者が強者の追跡をかわすフィクションならではのツールなのかな、といったあたりに落ち着いている。例えば、日本昔話の「三枚のお札」のような。
ただ、「三枚のお札」は結末で和尚が山姥を食べて退治してしまう。人と山姥は排他的な存在なのだ。しかし本作の結末は、うさぎときつねの共存を示唆している。無論、きつねが小動物を捕食して生きる存在であることは今後も変わりない。
父さんうさぎは扉を角材で補強したが、問題は、うさぎの食べる植物は家の外にしかないということだ。うさぎ一家の未来は不穏な空気に包まれている。自然界の調和は、緊張感あふれる共存関係により成り立っている、ということなのだろうか。
面白い絵本だけど、これで感想文を書くのは(私には)相当につらい。
作文の材料としては、こんなところかな。「世の中にはこんなルールがあるんだ」といわれたら、初耳でも「そんなものかな?」と思ってしたがってしまうキツネの悲しさに焦点を当ててもいいけど……って、やっぱりこの本、小学校低学年向けの課題図書としては相当に厳しいよね。
「叱る」と「怒る」は違う。私は怒っていない。叱っているんだ。大人は、たいてい、そういう。
苛立ちを隠そうともせず、大きな声で、人の心にナイフを突き立てるような言葉で、目じりを吊り上げて。鏡を見ても、胸を張って同じことがいえるか。
「あなたのためを思っていっているのよ」それは否定しない。でも、それだけじゃないよね。
「あなたが憎くていっているんじゃない」基本的には、ね。でも、100%そうだ、って言い切れる? 絵本で世界の物語を読んでみれば、親が子を憎むなんて珍しくもない。ちっとも思うように行動してくれない子どもを叱り飛ばすとき、どのような種類の憎しみもその行為の中に含まれていないということが、あるだろうか。
「叱る」と「怒る」の境界は曖昧で、広範囲にわたって両者は混じり合っている。まずその現実を直視してほしい。両極端の事例を持ってきて、「ほら、やっぱり違うでしょう」とごまかすから、自分の言動をろくろく検証もせずに正当化できてしまう。
自分は子どもを愛している、この子のためを思えばこそ過ちは放置できない……そうでしょう、そうでしょうとも。けれども、だからあなたのすることは正しいのだろうか。強い動機は、自分の中にあるその他の気持ちを覆い隠して見えなくしてしまう。
絵本の主人公「ぼく」は、七夕の短冊に、ただひとつの願いを書いた。「おこだでませんように」と。
「ぼく」は、毎日、朝から晩まで怒られ続けている。「ぼく」が怒られるのには、いちいち理由がある。理不尽も非常識もそこにはない。そうだから、「ぼく」の悲しみを想像する人が誰もいない。学校の先生も、そして、父親のいない「ぼく」にとってたった一人の親である「おかあさん」も、傷ついた心に気付かない。
もちろん、「ぼく」にだって言い分がある。あるのだが、それは「正しくない行動」を正当化するだけの力を持っていない。だから、怒られているときに「ぼく」が何かいえば、ますます怒られてしまう。
いま私は、「だから」と文章をつなげた。直感的に「おかしい」と思った人が、どれだけいるだろう。悲劇の源泉は、こうしたところに隠れている。
「ぼく」と同様、私も弟とつまらないことでしょっちゅう喧嘩しては叱られた。叱られるのは嫌だから、次第に親の前では我慢するようにもなったが、親がいない場所や状況になれば、途端に喧嘩をはじめたものだった。しかし当然のことながら、弟は親に訴え出る。私は叱られた。
良い悪いをいうなら、喧嘩はよくない。そんなことはわかっているのだ。「どうして喧嘩なんかするのよ!」質問のようでいて、質問ではない。喧嘩は悪いことだ。でも、それが何だっていうんだ。どうしても許せないことがあるから、喧嘩するんじゃないか。私は怒りに震えるしかなかった。何もかも、諦めていた。
だが、弟は、諦めていなかった。弟は粘り強く両親と戦い続けた。両親が激昂するのも厭わず、自分の言い分を高らかに謳いあげるのだった。「口の減らない子」といわれ、「いい加減にしなさい」と頬を張られても、わんわん泣きながらも、挫けなかった。あの小さな身体のどこに、そんなエネルギーがあったのだろう。
つまるところ、弟が主張し続けたのは、「最終的にとった行動が間違いだったことは認めるし、謝る。でも、自分がそのような行動に至った経緯、どうしても我慢できなかった気持ちは理解してほしい」ということだった。私はそんな弟を「そんなもの通用するわけないだろバーカ」と冷笑的に見ていた。
バカだったのは、私の方だ。弟は、生誕以降10数年の戦いを経て、圧倒的な劣勢を挽回し、少しずつ戦果を勝ち取っていった。変化は、まず母に現れた。最初に子どもの言い分を聞き、その気持ちに寄り添う努力をするようになった。子どもの行動に対する価値判断は、子どもの言い分を理解することとは分離できる、という事実を発見したのだ。
両親の「叱り方」は、次第に変わっていった。子どもを糾弾するのではなく、「正しくない行動」につながる気持ちの乗り越え方を、子どもと一緒に考えるようになった。さらに、そもそも、そういう気持ちが生じないよう生活の仕方を変えていくことに、知恵を絞るようになっていったのだった。
私は、両親もまた「子どもを叱るなんて嫌なこと、なるべくしたくない」と思っていたことを知った。
「ぼく」の物語にはハッピーエンドが待っている。学校の先生も、「おかあさん」も、短冊を見て、たちどころに「ぼく」の悲しみを理解する。「ぼく」は抱きしめられ、自分の価値を知る。
現実には、なかなかこうはいかない。「だで」じゃなくて「られ」が正解だとか、「ま」が鏡文字になっているとか、「私は怒っているんじゃない、叱っているんだ」とか、「叱られるようなことをするからいけないのよ」とか、そんな反応しかないことが多いだろう。
こんな現実は、私たちが変えていくしかない。そして、それは不可能な挑戦ではないのだと思う。
私が生まれたとき、最初に受け止めてくれたのは、看護師さんの手。最初にお尻をピシャンと叩いたのは産婦人科の先生の手。最初に抱きしめてくれたのは、母方の祖母の手だった。
出産予定日を何日過ぎても、私はスヤスヤと眠ったまま、母のお腹の中で太っていった。このままでは、母体がもたない。先生の判断で、母は何本も注射を打たれて、決死の覚悟で私を産み落とした。看護師さんは血まみれの私を受け止めて、きれいにしてくれた。しかし私は、初めて触れる外の世界の空気も、母のうめき声も、手術室の喧騒も、何も気にせず、昏々と眠り続けていた。
首を傾げる看護師さんから私を受け取った産婦人科の先生は、小さなお尻をピシャンと叩いた。夢から覚めた私は、フワワァン、と、か細い声で泣いたという。
4000gを超える赤ちゃんだった私は、生まれたときから白っぽく丸くふっくらした顔をしていた。健康に不安のある様子ではなかったので、私はすぐに祖母の腕に抱かれた。本当は最初に母子の対面をするところだが、母は意識が混濁した状態で、それどころではなかったようだ。
「かわいい! こんなにかわいい赤ちゃんは初めてだよ! よく生まれてきたね、ありがとうね、いい子ね。まーちゃん(私の母の愛称)が頑張って産んだ甲斐があったわ。丸々と太って、本当に幸せに育ったんだろうね、よかったね。こんなに元気な姿で生まれてきてくれて、嬉しいよ……。まーちゃん、本当に、頑張って……」祖母は、泣き崩れた。
夜が明けて、目を覚ました母は、ベッドの隣にいる私と出会った。母はそっと手を伸ばして私の頭をなで、鼻をなで、ほっぺたをなで、小さな手に指をさしのべた。朝日の差し込む病室で安らかな顔で眠っていた私は、掌をくすぐる母の小指を、あわあわと指を丸めて、そっと包み込んだ……というのだけれど、本当だろうか。テレビドラマと現実を混同しているような感じがしないでもない。
母の家族はみな愛知県に暮らしているから、母は父と暮らす千葉県を離れ、実家の近くの病院で私を産んだ。父は3交代の忙しい仕事をしており、ようやく長期休暇を取って病院へやってきたのは、半月後のことだった。
「あれっ!? まだ産んでなかったの?」
今や伝説となった、父の第一声。母はガックリした。私を産んだら、母はスーッとやせて、結婚当初の顔に戻ると父は思っていたらしい。お腹が平らになるだけで、他は変わらないに決まっているじゃないか、と笑われても、父は合点のいかない顔をしていたそうだ。
私はそのときも眠っていた。毎日毎日、空腹も忘れて眠り続けていたという。放っておくと食事をしないから、母は私を一日に何度か起こして、おっぱいを飲ませていた。ときどき「ふぇふぇふぇ」と泣くこともあるけれど、すぐに泣き飽きて眠りに落ちてしまう。
「起こしちゃダメよ」と母にいわれた父だが、そうなるともう、何もすることがない。スイッチが入ると壊れたレコードプレーヤーと化す父だが、自分で話題を設定して会話をするのは苦手だ。母の方も、ずっと病室のベッドの上にいる毎日だから、話すことがない。
とうとう限界に達した父は、眠っている私の右手と左手を包み込んで、万歳をさせたり、ラジオ体操の手足の運動をさせたり。私は、ふいに目を開けて、ニコッと笑顔を作った。そのとき父は、私の小さな手から、ポカポカとあたたかいものを感じたという。
胸をズギューンと撃ち抜かれ、はじかれたように直立不動の姿勢をとった父は、母に「あっ、ありがとう、本当にありがとう」といった……というのだけれど、母は「そんなこと、あったかしら?」。母方の祖母も「記憶にないわねえ」と不思議そうな顔をしたが、「でも、本人がそういっているのだから、いいんじゃないのかしら」。母はたまらず吹き出して、「私だって当事者よ」。
それから、30年近い月日が経った。
まだ看護師学校を出て1年に満たなかった、看護師さん。「こんなに可愛い赤ちゃんは初めてです! 私もこんな赤ちゃんがほしいです!」と上気した顔で母にいってくれた。母は何年も何年も、その話を自慢にしていた。今頃、ベテランの看護師として活躍されているのだろうか。母が退院するとき、手を振って送り出してくれたのも、この看護師さんだったという。
ご老体だった産婦人科の先生は、私が5歳の誕生日を迎える前に、亡くなられたそうだ。
そして昨年、母方の祖母が亡くなった。この世界にやってきた私を、最初に抱きしめてくれた人。心から歓迎してくれた人。おばあちゃん。気難しいところもあったけど、いつも気にかけてくれていた。表裏なく、どこでも私を「いい子なんだ」と紹介してくれていた。「やあ、坊ちゃんが自慢のお孫さんかい? 話はいろいろ聞いているよ」祖母の知り合いは、みなそういう。
おばあちゃん。最後にその手を握ったのは、一昨年、祖母に癌が見つかって3ヵ月後。癌の影響か、ボケが始まったというので、会話が成り立つ内にと思い、慌ててお見舞いに行った。あたたかい手だった。この手に抱かれて、私は、「この世界は、素晴らしいところだ」って、安心して眠りについたんだ。おばあちゃん。ありがとう。
そして母は。いったんは元の体型に近づいたけれど、弟を産んだ後は、もう元には戻らなかった。父は居間に二人が手をつないで写っている結婚記念の写真を飾ったけれど、母には何の効果もなかったようである。
読書感想文の書き方を指南する人はたくさんいる。私もその一人だ。が、だいたいそういう人は、読書感想文を自分では書かない。私もその一人だ。
ただ、私は「読書感想文なんて簡単だ」とはいってこなかった。「実際に自分で書こうとしたら、つらくて、苦しくて。だから大人たちは子どもを怒鳴りつけるだけなんだ」と語ってきた。かつて、生徒の指導と平行して何枚も読書感想文を書いてみて、私は疲れ果てた。が、それも10年近く昔の話だ。
いい加減、記憶が妄想と化しつつある。これでは、いけないな。だから、書いてみた。
何冊分になるかは未定だけど、8月中に原稿用紙30枚分(6〜8冊分相当)は書くつもり。
6冊でダウン。ホントは全部、書きたかったんだけど、燃え尽きました。いや、やっぱりつらいって。
「風をおいかけて、海へ!」「しあわせの子犬たち」「ぼくの羊をさがして」「8分音符のプレリュード」「縞模様のパジャマの少年」の5冊は、たぶん感想文を書きやすい本。私にも、いろいろ構想はあったんですけど、ガス欠です。まとまらないうちに8月が終ってしまい、やる気が抜けたというか。
2005、2006年は、8月末までに課題図書を全部読むことができず。2007年は夏の間に課題図書を何とか読了。たった18冊で、しかもハズレは基本的にない。なのに、意外と読めないのは不思議。今年は課題図書を全部読むまでは早かったから、この勢いで感想文も18本書こうかと……まあ、6本仕上げたのは悪くない結果。
2010年は10本以上感想文を書けたらいいな。とりあえず、18本全部というのは無理だと思った。検索エンジン経由の訪問者数を見るに、中学生・高校生向けの課題図書の感想文を読みたい人がすごく多いらしい。でも中高生向けの課題図書って内容豊富だから、読者の方でテーマを設定しないと感想文が書けない。それが難しいんだよね。「夏から夏へ」「カレンダーから世界を見る」で完全に詰まって時間を浪費したのが今年の敗因。
ところで、こうして課題図書で感想文を書くと、コピペして学校に提出する人がいるんじゃないか、なんて心配する声がありました。でも、こんな個性的な文章をコピペしたら100%バレるだろう、という。杞憂じゃないですかね。
コミケが大盛況で史上最高の来場者数(56万人)になった、なんてニュースをテレビでやっていた。東京モーターショーの来場者数が130〜150万人だから、4割くらいか。
来場者が多すぎて周辺地域にもずいぶん迷惑をかけているそうだし、会場の混雑も無茶苦茶になっているという。東京モーターショーは次第に来場者が減りつつあるが、16日間開催のスケジュールを守っている。この我慢の姿勢が奏効して、土日+人気メーカー+人気車種という条件が重ならない限りは、落ち着いて会場を回れるようになった。今思うと80年代はひどかった。
もちろんモーターショーとコミケは違う。じっくり立ち読みされたって、サークルとしてはあまり嬉しくないだろう。きちんと車を見てもらって好印象を与えることが利益になる自動車メーカーとは事情が異なる。コミケ参加サークルが、現状の人口密度にすら満足していなかったりするのは、理解のできるところ。
それでも、コミケに用事がない人間の無責任なつぶやきではあるが、サークルと来場者のバランスは、もう少し来場者寄りにシフトした方がいいんじゃないか、とニュースを見て思った。会場に人がぎっしりで「ものすごい熱気です!」なんてのは80年代のセンス。人に優しくない。
実現性を無視して私案を述べると……。
コミケの開催日数を増やせず参加者のマナー違反も十分に取り締まれない理由は、私が少し検索した限りでは、人的リソースの問題らしい。コミケの参加料が安すぎるので、ボランティアに頼った運営になる。必要な種類の人材を必要な人数だけ柔軟に確保できないところに不都合がある。
コミケでは受益者が相応の負担をしていない(一般参加者が無料で入場できる、など)から、サービスが行き届かず、外部不経済まで生じている。理念優先で経済合理性を欠いた組織が陥る、典型的な問題状況に見える。が、声の大きい層は断固として理念を守ろうとする。実際問題としては漸進的な改善しかありえない。でもそれが正解なんだろうな。
お客様満足度って難しいよね。客観的には状況が改善されたとしてもさ、チケットの実質値上げと引き換えとなると、かえって不満が高まったり。期待と現実のバランスだからね。現代の方が凶悪犯罪が減っているのに「昔はよかった」になる、みたいな。東京モーターショーでも「昔はよかった」って意見はよく聞く。
コミケの抱える問題って、お金で解決できる事が意外と少ないから、ちょっとやそっとの増収はあまり意味がないし、意味があるレベルの増収だと多分参加する人がいなくなります。続いたとしても一部セレブだけのイベントになっちゃう。
詳細はリンク先をご覧ください。実務的に考えていっても、現在の運営方式は完成度が高く、画期的な改善策はなかなか見つからない、という内容です。
この記事は、何度か書いてる大学改革の話と同じで、ネットで声の大きい層のいう理念なんか多数派の実態や本音と全然違っちゃってるじゃないか、そしてそれは大勢の自然な判断の結果なのだから、システムを実態の方に寄せたら幸福の総量が増えるだろう、という持論を書いたもの。
machida77 「お客様」じゃねえっつーのを何回言ったら分かるんだ外野どもは!こいつの提案ってコミケの多様性を排除して大規模同人ショップの平棚にするだけじゃねーか
feather_angel お客様満足度って何様だ
jaikel うーん、だからフリマと勘違いされても困るんだけどなあ。カタログ=参加費だよ。確認していないだけ。というか確認無理。
私は文藝部出身なんで、高校時代からコミケ通いしてる知人は何人もいるの。で、彼らが「参加者」の自覚なんか持ってなくて、百貨店のバーゲンに乗り込む80年代の主婦と何ら変わらないメンタリティでコミケに臨んでいることを目の当たりにしてきた、という体験がベースにあるんです。
カタログの回し読みとか、昔からある話。お目当てのサークルの位置と、好きなジャンルの固まってる場所を事前にチェックするだけなら当日には必要がない。どうしても現場でカタログを見たくなったらゴミ箱から拾えばいい、と知人らは話してました(しばらく前から不可能になったそうですが)。
あと、カタログの確認が無理なのは、コミケが儲かってなくて、スムーズな確認に必要な設備と人員を用意できないからでしょ。最盛期のモーターショーでもチケット確認はできてた。ただしカタログは高コスト。だから入場券は、値段据え置きでペラい地図に変えないと、必要な利益が出なさそう。
とにかく、現実に一般参加者のかなりの割合がコミケを入場無料の巨大な同人誌即売会と認識していて、お祭りの観光客の気分で集まってるわけでしょう。ならば、状況に対応した変化が必要なんじゃないか、と。啓蒙で徹夜組を撲滅なんてできやしないでしょう。……と以前に知人と話した内容がこの記事の原案。
とはいえ、現在のコミケが営利目的の活動じゃない以上、理念を捨てたら組織が持たない。名前だけ引き継いで関係者を総替え、なんてうまくいくわけないし。一般「参加者」は「客」じゃない、というのは譲れない理念なのでしょうから、私の意見なんか全く実現性がない。だから、企業ブースの導入とか、これまでやってきたような漸進的な変化を続けるのが正解だと思うんですよ。それが結論。ちゃんとそう書いてあるでしょ。
私もこうして必死に反論してるわけだけど、カリカリしないでほしいよ。最初から実現性がないと断って「ぼくのかんがえたすごいコミケ」の妄想を書いてるだけなのに、黙ってろ
はひどい。具体的にどんな迷惑があったのか。自分の好きなジャンルに規制論が出たら怒るくせに、なんでそういうこというのかね。
反論や冷笑ならいいですよ。補足説明の2.や4.のような対応も不可能ではない。でもさ、不愉快な表現(意見文も含む)は「するな」って、それはあなた方の敵と全く同じ発想じゃないか。本音はそれでもいいよ。だけど、言論の自由とか掲げてさ、建前で戦おうとしてるんじゃないの。
temtan 「じっくり立ち読みされたって、サークルとしてはあまり嬉しくないだろう」ブブッー!!読んでもらえるだけで嬉しいっつうか、「展示」即売会なんだから見てもらうだけで目的達成だっつーの
優等生の意見はそうなんでしょうけどね。
高校の文化祭で文藝部の冊子を売った自分の経験からいうと、実際それじゃ満足できないよ。人口密度が高まると立ち読みが減って、よく売れる。やっぱり立ち読みより売れる方がいい。在庫が減らないのはつらいよ。完全スルーよりは立ち読みされた方がずっといいけど、小説とか、3分程度で読み終わるものじゃないし。
文学フリマに参加して店番やったこともあるけど、人口密度があまりに低いと物好きの絶対数が足りないから、立ち読みすら貴重。そうなると立ち読みも嬉しい。でもさ、人口密度が上がって売れ行きが上がるなら、その方がもっといい。だから店番をやってる間、「もっと混雑しろー」って思ってたよ。
撤収後の飲み会で「今日はガラガラで、本を手に取ってくれた方がじっくり立ち読みできてよかったよねー」みたいな話もあったような記憶があるけど、それが発言者の100%純粋な本音だったと私は思わない。
テキストサイトのリンク集。ここから、ちょくちょくリンクを辿ってくる方がいる。それが人間なのか、何かの巡回システムなのかはわからないが……。
当たり前といえば当たり前だけど、ますます消えまくってるな……。うちなんか、これでもまともに更新してる方なんだな、やっぱり。
ところで、消えてしまったサイトは Internet Archive から読める、と思っていたんだけど、試しにいくつか探してみたら、意外と読めないサイトが多かった。
場所を変えてブログをやっている人もいくらかいるのだろうが、自分では探索のしようがないな……。
有名芸能人に逮捕状が請求されると、新聞(一般紙)は淡々と書いているのに、報道の受け手は大騒ぎだ。松本サリン事件では、「重要参考人」を犯人扱い「しなかった」マスコミに嫌がらせの電話が相次いだ。犯人に同情的な報道は許せない、という発想らしい。マスコミは商売だから、客の求める商品を作ってるだけだ。
自称ファンが「ショック……」とかいっている。逮捕状の「請求」くらいでファンの信じる心がポキンと折れる。なんなんだろう、この警察への絶大な信頼って。国民がこうだから、請求の段階で大報道になって、実際に裁判所がいつ実際に逮捕状にお墨付きを与えたのかさえ、ハッキリしない。裁判所が逮捕状の発行を拒否する可能性を疑う人がいないので、きちんと取材している記者が少ないのだろう。
ともかく、ファンの人くらい、警察より本人(というか自分の中の**さんのイメージ)を信じてあげればいいのに。ま、家族や友人が逮捕されても、当人より警察を信じるような人が世の中には少なからずいるくらいだから、私のいっているのは無茶な話なのかもしれないが。
補記:私の印象では、マスコミが調子に乗るのは世論の反応を見てのこと。それでも一般紙で下品な侮蔑表現は出てこない。他人の名誉など全く気にかけず気楽に***などと呼称するのは庶民様の特権となっている。
また元警視庁捜査一課長の田宮榮一さんが、いつも通りに嘲笑されている。これは「ネタ」であって本気でバカにしてるのではない、という発言もあるが、素の人も確実にいる。(ちなみにYahoo!知恵袋では明らかに素でバカにしてる発言がほとんど)
- 269 名前: ヒサカキ(大阪府):2009/08/09(日) 13:11:50.49 ID:SlYM5afz
- 警察の中の人たちは、田宮さんのコメントを
どんな風に思っているんだろうか…- 283 名前: ストック(東京都) 投稿日:2009/08/09(日) 13:13:35.64 ID:ovbirb8s
- >>269
マジレスするなら
「これだ!」って決め付けないのが捜査では当たり前なので彼の言い方は正しい
一般人には理解されないだろうが
「これだ!」ってきめつけたら真実には近づけなくなる
考え方は正しいが結論が出せてないのに対して「証拠不足め」と思っていると思う- 293 名前: セイヨウタンポポ(catv?) 投稿日:2009/08/09(日) 13:14:05.39 ID:3W7ieS6F
- >>269
盲目的思い込みを払拭された人も多いだろな
いくつの事件が解決し何人の冤罪者が救われたことか- 326 名前: デージー(愛知県) 投稿日:2009/08/09(日) 13:16:44.44 ID:+POjI0Hq
- >>269
捜査員の立場なら誠に正しい姿勢じゃね
初動の決めつけ捜査の結果、難航って事件はいくらでもあるから
ヒサカキ(大阪府)の発言はネタフリではなく素の疑問だろう。今回のリンク先記事ではPower2ch管理人が数少ない「マジレス」を積極的に拾っており、過去の有名2chまとめサイトの田宮スレまとめ記事と比較して、大いに救われている
そしてはてブはというと……相変らず嘲笑する人が多数派という印象。冗談だとしても、素で田宮さんをバカにしてる人がいる状況を助長することに鈍感なのはいただけない。マスコミに振り回されないことを自負するネット民さえこの通り。みんな、不確定な状況をそのまま受け止めずに印象で決め付けていきたいわけだ。
もちろん、それは私も同じだ。が、それでいいとは思っていない。自分自身を含めて、日本の社会は「わからない」ことを受け止める力をもっと育てていく必要がある。少なくとも、いま確信を持っていえることだけをいう人がバカにされるような状況は、許せない。
みんながこんなだから、容疑がかかっただけで社会生活が破壊されてしまうんだ。冤罪が晴れても元の生活には戻れないんだ。
言動に責任を取らないことにかけては、政治家よりマスコミ、マスコミより庶民様の方がもっとひどい。
夏休みに読んだ、元新聞記者の大学教授が書いた本。マスコミは誤報を撲滅できずにいるが、それを批判する一般人はどうなんだ。自分の記事について、どれだけ責任を持っているのか。間違いについて自省しているのか。私なんかホント不真面目なので、マスコミの人の努力には、頭が下がる思いがするのだが。
今日、新裁判員制度による最初の判決が出るという。
70代男性が顔見知りの60代女性を感情的対立から殺害した事件。
被告は殺人行為そのものについては認めている。検察の求刑は懲役16年だが、裁判で検察の主張に一部反論しているのは、ディテールまできちんと事実に基づいて判断してほしいからであって、刑罰を軽くしてほしいという意図はないのだという。
被害者側遺族は死刑判決を望んでいるが、それが無理なら無期懲役、最悪でも懲役20年(最高刑)を希望している。死ぬまで社会に戻ってこないでほしいのだそうだ。なるほど、72歳+20年なら、寿命がきそうだ。
被害者の遺族は、被告の証言を取り入れて構成された検察の主張する「事件の経緯」に不満があり、被害者は温和で人を傷つけるようなことのない人物だ(=被告は異常者であり、常人には全く理解できない思考過程から被害者への憎しみを募らせ殺害に至った、つまり被害者には何らの原因もない)と主張してもいた。
遺族もまた、ディテールまできちんと事実に基づいて判断してほしい、と考えているわけだ。
私が模擬裁判で裁判員を務めたのは2005年のことだった。恋人の浮気を疑い、恋人の相談相手を殺害した20代男性の裁判。居酒屋での1対1の話し合いに被告は刃渡り20センチのサバイバルナイフを持って行き、酒を飲んで酩酊した後、店の前の路上で被害者の首を切って殺害した。実際には、恋人は浮気していなかった。
閉廷後、率直な感想は「こんな裁判のやり方には無理がある」というものだった。
裁判員にはかなりの自由度がある。私が参加した模擬裁判は検察、弁護の双方が犯行時における被告の心神喪失を認定していた。通常それならば被告は無罪なのだが、検察は「原因において自由な行為」という法理で被告の罪を問おうとしていた。
が、裁判員と裁判官は、検察官と弁護士の主張をいずれも却下して「被告は心神喪失ではなかった」と判断してもよいのだという。私は驚いた。
評決は、まず心神喪失を認定、続いて犯行直前の殺意を否定、そして傷害致死を認定して有罪、量刑は懲役8年となった。私は愕然とした。被告が思慮を欠く行動の積み重ねが生んだ事件であることは明白だったが、殺意の立証は不十分だった。だから殺人罪を回避する。それはわかる。でも、傷害致死って?
法廷で確実に立証されたのは、(過失)致死、銃砲刀剣類所持等取締法違反、脅迫罪の強要未遂。併合罪としても最高刑は懲役4年半。軽すぎる、と全ての裁判官と裁判員が考えた。検察は法廷では殺人罪前提の議論ばかりしていたが、起訴状には傷害致死も書き添えられていた。そこに全員がとびついた格好だ。
茶番じゃないか。法廷でも評議の過程でも、誰一人として被告の「被害者に怪我をさせてやるぞ」などという意思の存在を論証してこなかったくせに、最後の最後で取ってつけたように傷害致死で懲役8年。死刑もありうる殺人罪を回避して、量刑から逆算して納得のいく罪状をもってくる……何それ?
念のため補足すると、「あー、みんな量刑から逆算してるな」というのは、各裁判員が裁判官へ質問する文脈、言葉の端々に現れる価値判断、回答への反応などから私が推察したもの。銃刀法違反+脅迫未遂は最高4年半という解説に、裁判員たちがうつむいたり天を仰いだりして、しばし言葉を失った場面は印象的だった。
誰も「4年半じゃ短すぎますよね。仕方ないから、確実な立証はされてないけど傷害致死にしましょう」なんて言葉は発しなかった。みな、積み木を重ねていくような法廷の流儀を尊重して、ちゃんと材料から結果を導き出しますよ、という建前を守った。
それでも、被告に傷害の意思があったと力説する人は最後までいなかった。殺意については侃々諤々の議論の末に評決で決着したのに、傷害の意志については私を除く全員が無言のまま評決で手を上げて認定したのだ。この裁判の欺瞞が露呈した瞬間だった、と私は思っている。
結局、素人は、最初に有罪か無罪かを考え、次に量刑を考える。罪状なんてのは、本音をいえば、どうでもいいわけだ。にもかかわらず、裁判はディテールを積み上げて結論を導く形で進行し、みなその形式に従う。だから最後の最後、決定的な場面で、本音と建前の矛盾が露呈してしまう。
評議のはじめに、「疑わしきは罰せず」の原則が示され、みな同意したはずだった。それなのに。
帰宅後、私はなかなか寝付かれなかった。
実際の裁判の話に戻る。
報道を見る限り、裁判員はやっぱりつらいだろうな、と思う。法廷で争われているのは、だいたいが事実認定なんだよね。でも判決は価値判断がなければ決められない。事実はひとつでも、それが悪いことなのかどうか、仮に悪いとして、どの程度の刑罰が妥当な悪さなのか、その判断は無数にありえる。
今回の裁判では、事実を伝える方法はいろいろ工夫されているようだが、価値判断を簡単にする工夫はない。法廷では相変らず枝葉末節の事実が争われ、裁判員が本当に大きな判断を迫られる領域が見えにくい。
被害者がしばしばきつい言葉で人を傷つけることのある人だったとして、だから何だというのだろう。被告には何の生命の危険もなかったのに、口喧嘩に娘の形見のナイフを持ち出して一方的にメッタ刺しにした行為を評価する裁判において、被害者の性格がどんな意味を持つのだろうか。
裁判官がごちゃごちゃ長い判決文を書く習慣を変えないから、こんな裁判になるのだろう。細かいことまで事実認定しないと判決文を書けないかのような思い込みというか、従来の裁判文化は、市民参加の新制度の下では徐々に変わっていくべきではないか。
4年前、模擬裁判の判決文に、私は頭を抱えた。判決文は、「証明」されたとはとてもいない細かな事実を次々認定して裁判所の考える「真実の物語」を原稿用紙何枚分も書き連ねた挙句、結局は何ら客観的な基準を示すこともなく「以上の諸事情を考慮し、主文の刑に処するのが相当と判断した」と結論していた。
おいおい、評決を取ったのは、有罪か無罪か、殺意の有無、傷害の意志の有無、量刑の4項目だけだったじゃないか、俺はこんな事実認定に同意なんかしてないぞ……。
この記事の話題と直接の関連は薄いが、元裁判官が書いたこういう本もある。
判決が出た。懲役15年。
読んでてゲンナリする。被害者の生い立ちがどうの、「ぶっ殺す」といったかどうか、それが何なんだ。懲役15年という結論に、それ、本当に関係あるの?
次々に事実認定される事件のディテールはほぼ検察と遺族の言い分そのまま。疑わしきは被告の利益に、なんて原則はポーンと吹っ飛んでいる。MSN産経の法廷ライブを読む限り、争いになった箇所について、検察がまともに「立証」できていた項目はほとんどなかったと思うのだが。
結論はいいよ。だけど、争点になったという殺意の程度ですか、それって裁判員にとって本当にこの裁判の争点だったのだろうか、と私は思う。
模擬裁判の評議で、裁判官役の学生が質問を募ったときのこと。ある模擬裁判員が「懲役何年、っていいますけど、そもそも犯人を刑務所に送って、それで社会にどんないいことがあるんでしょうか」と問うた。他の裁判員からも口々に「刑務所で反省する人って、別に刑務所にいなくても反省するように思う」「逆に反省しない人は、いつまでも反省しないんだから、反省するまで閉じ込めておくというのが刑務所の(更生と並ぶ)もうひとつの意義なのだとすれば、万引きくらいの犯罪でも終身刑が妥当というケースもあるのでは」などなど。
多分、というか、乏しい経験から推察するに、裁判員が本当に欲しているのはこうした議論なんじゃなかろうか。瑣末な事実争いにつきあって、どっちがより信用できるとかできないとか、そんなことを頑張っても、なんで懲役15年が妥当なんだか、サッパリわからないじゃないか。
そもそも刑事罰って何なのか。懲役刑に期待されている社会的効能とは? 囚人にとって刑務所はどんな場所か? 刑期を決める際に考慮すべきことは? ……こうした知識を踏まえて、では今回の事件はどう裁くのが妥当か。判断のため必要だが、まだ欠けている情報はないだろうか。
法廷が、こうした流れで議論を進める場だったら、そして判決文が、何から何まで事実認定を行わなければ結論なんか決められないというイズムから解放されたら、いいのにな。
イメージとしては、アメリカの法廷ものの小説や映画みたいな感じ。弁護士も検察官も、原理原則をぶつけ合うでしょう。そして判決文は簡潔。本当のアメリカの裁判がどんな風だかは知らないけど。裁判員にとっては一生に一度のことなんだから、飽き飽きしても毎回ちゃんと原理をぶつけ合ってほしいんだよね。
数年前とか数ヶ月前とかの発言をひっぱってきて、「言ってることが変ってるぞ!!」とか批判する人いるじゃないですか。あれが僕は嫌いなんです。数ヶ月も経てば主張が変わるもんだろうと。
“ユニクロ”や“ニトリ”が真摯な商品開発と価格合理性で国民ブランドの地位を確固たるものとする中 【小島健輔さん 2009-07-31】
“ユニクロ”や“H&M”、“マクドナルド”や“ニトリ”で満足してしまうファスト消費文明が落日の日本を象徴しているように思う 【小島健輔さん 2009-08-04】
流石に五日間しか経ってないと「どっちなんだよ!!!!」って思う。
引用されている二つの記事に矛盾はありません。他社より明らかに安い価格で同等(以上)の品質を実現するためには、「真摯な商品開発と価格合理性」の追求が必要です。
マスを狙う企業というのは、個人的な理想を実現する商品ではなく、一般消費者の需要にマッチする商品を供給するために全身全霊を傾けるわけです。だから、ユニクロやニトリが現在の主力商品と同等の価格帯では絶対に実現不可能な品質を、メイン部署で追求することはない。こうした人々の努力があって、私たちの現在の生活が成り立っている。それは尊いことです。
ゆえに小島さんは企業の努力を賞賛します。他方、「そこそこ」レベルで品質には満足し、あとはひたすら価格を重視する消費者に、ガッカリしているのです。おそらく小島さんは、もう少し価格と品質の高い商品が主流となる世界を理想としているのでしょう。
小島さんのことを私はよく知りませんが、日頃の言動によっぽど問題があるのでもなければ、「変だな」と思ったらまず自分の読解力の方を疑った方がいいんじゃないか。自分の直感に全幅の信頼を置いて、言葉を切り取って他人をバカにするのは、なかなか危ない行為だと思う。
こういう話題になると、しばしば「誤解されるような文章を書くほうも悪い」とかいう人が出てきます。第三者ならともかく、当事者が言い出すこともあって、「ふざけんなよ」と思ったケースも。
そりゃ処世術としては、そう外れていない。実際、私は国語の成績に関してはだいたい世間の上位5%に入っていたんだから、世の中の大半の人がどれほど悲惨な読解力しか持っていないかは、よくわかる。自分の低水準を知るだけにね。だから、大勢に伝えたい言葉があるなら、よくよく注意して書かなきゃならない。
それでもね、自分が誤解に基づいて相手を嘲笑していたことを理解したときに、最初の言葉が「誤解されるような文章を書くほうも悪い」になるような人は、国語力云々とは関係なく尊敬できない。私にも当然、そういう面はあって、ついつい自分を守る言葉を発してしまう気持ちはわかる。だけどね。
せめて、本当は自分の誤読を恥ずかしく思ってます、というような、そういう雰囲気というか態度というか、あるじゃないですか。ウェブの端的なコメントからでは何とも読み取りようがないし、判断が付かないときは、なるべくいい方に解釈しようとは思っているのですけれども……。