どちらの意見にも不同意。急進的な大改革を志向する、一種の「根本病」だと思う。過去、根本病で組織が疲弊した事例には事欠かない。放言の自由を守るためにも、この手の意見が話題になったら、批判の方も盛り上がってほしいと思う。じゃあお前がやれ、ってことになるから困るんだけど。
根本病は普遍的に見られるもの。例えば食糧問題について、以前こんなブックレビューを書きました。
日本国内での食糧増産を提言する本です。現時点では少数派に属する著者の主張が強く前面に出ており、初心者の「1冊目」としてはお勧めできません。初心者の「1冊目」は、網羅的な構成を有し、幅広い意見を落ち着いた筆致で紹介する本が望ましく、例えば末松広行「食料自給率のなぜ」がその条件を満たすと思います。
本書は一般向けにわかりやすく書かれています。「世界的に食料の需要が増える一方、供給は頭打ちとなっており、食料価格の高騰は続く、日本は減反をやめ食糧を増産すべき」という論理が一貫しており、リズムよくすらすら読めます。裏付けとなるデータも豊富です。
ただ、本書には著者が自明と考えて説明していない「前提」がいくつかあることに注意してください。そしてじつは、その「前提」が実際には必ずしも自明ではないために、政府が食糧の増産を「目指す」ことに消極的な意見、反対する意見が出てくるのです。
著者の主張の特色は、「今すぐ」食料の増産を目指すべき、とする点にあります。その理由は、農業従事者の平均年齢が高く、近未来に農業人口が急減すること。しかしこの議論には、「農業技術の継承には非常に時間がかかる」「農業への新規参入は難しい」といった前提が隠れています。いずれも手強い反論がある事項です。
より根本的には、著者は「社会を予め調整して状況の変化に備える」計画経済と同様の考え方を採り、自由経済の「価格による調整」を忌避しています。資源配分の歪みを嫌う市場重視の立場とは対立する考え方です。
海外の食料価格が高騰した現在も、国産品価格とは3〜8割の価格差があります。強引に食料自給率を上げれば、税金による補助と合算した真の食料費は激増します。著者の提案は国民の大きな負担を伴うものだけに、著者の議論の「前提」は絶対ではなく、様々な異論がありうることに注意しながら読んでください。
私は基本的に市場を信頼する考え方に与し、「一部のエリートが社会を善導する」というタイプの意見には懐疑的です。政府の役割は市場がよりよく機能するような制度と環境の調整にとどめ、市場の直接操作には慎重になってほしいのです。
私の意見をまとめると、計画的に日本語を滅ぼすとか、天下り式に政府が「簡単」な新日本語を制定し普及させるとか、そういう意見には賛成できない。個々人の自由な判断の集積の結果、日本語使用者が減っていく、「簡単」な新日本語が普及していく、それを待つことに何の不都合があるのか。
この本は、議論のある集団が、議論のない集団より、おかしな結論を出しやすい可能性を示していて面白い(ただし著者は何も証明していない)。その問題について、人々の自然な判断より、エリートの計画の方が優れている、と考える根拠は何か。
言葉の定義の問題なんだけど、私も0人と答えるかな。多少のお金を貸せる(返ってこなくても諦めがつく)知人は何人もいるけれど、ふだんから彼らと交流があるかといわれれば、全くないに等しい。冠婚葬祭に呼ぶことも呼ばれることもない。
幼い頃から交流のあるいとこの結婚式すら、2回も招待を断った。直近の1回だけは何となく参加したんだけど。そういえば、いとこに子どもが生まれたときも、そのときは何のお祝いもしていない。が、万が一の時には私がその子を守り育てるよ、という話は、その後でしていたりする。そういう信頼関係はある。
ふだん私が世間話をする相手というと、会社の同僚と仕事で会う人だけ。それも毎日ではない。ときどき。さすがに出勤すれば、仕事上の会話はある。研究部門にいたときは、本当に72時間くらい一言も発しないまま生活していた(後で気付いてビックリした)こともあるけれど、今は職場を移ったので、さすがに……。
たった30件しか辿れない電話の履歴に、2008年9月22日の記録が残っている。私という人間をパターンに当てはめるのにちょうどいい情報だろうと思い、私的な場で自己紹介を求められると、このエピソードを示すことが多い。
怖い目に遭えば「心細い」思いをするが、一人でいて「寂しい」とは思わない。ひょっとすると、私と他の人とでは「寂しい」という言葉の定義が違うのかもしれないが。
知人らの「家に帰ったら家族が待っているって、いいもんだよ」といった話は、黙って聞いている。でも私は、家に誰かいるのが嫌で、わざわざ家を出た。その気持ちは全く変わっていない。電話嫌いも同じだ。そもそも会話というか、人とのコミュニケーションがあまり好きじゃない。
以前、そういえばあの「友人」と10年くらい話をしていないな、と思って、何人かと連絡を取り合って、それぞれ差しで食事をした。さすがにお互い積もる話があって、3時間くらいあっという間だったが、それからまた何年も交流が途絶えている。向こうは「また来月あたり、どう?」なんて連絡をくれたんだが……。
アンケートで友人の人数を問われたら0人と答えるのは、世間の常識を基準とすれば、結婚式に呼ばれないのは友人じゃないだろ、直近の10年間に1回しか会っていない、電話もしない、そんなの友人じゃないだろ、ということになるから。
もちろん私自身は、そうは思っていない。いざとなれば、自分にできることは何でもしたい、と思える人が友人じゃなかったら何なんだ。でも、こうしてネットでつぶやいている分には、理解してくれる人もいるけれど、世間に私の考えを認めてほしいとは思わない。いや、本当は認めてほしいけど、無理だから。
まあ、別に困ってないしね……。黙っていれば、余計な衝突もしないで済む。「友達がいないなんて寂しくなぁい?」「はぁ、よくわかりません」「つまんないヤツだなぁ」「はぁ、どうもすみません」……。こういう人たちに説明したって、徒労なんだもの。
職場の同僚は、他人の生き方に口出ししないでくれるのがありがたい。恵まれた環境だと思う。会社から一歩出ると、いやホント、世間てのは恐ろしいな、って思うことが多い。今の勤務先がなくなっちゃったり、あるいはクビになったりしたら、人生つらいな。
学校や会社でだけ顔を合わすという人間関係のあり方は、私にとってちょうどいい距離感なので、まず人を嫌いにならずに済む。私の「友人」は、基本的に学校(に類する場)で出会い、その敷地の外で会うことの滅多になかった人が大半。例外は高校の文藝部の仲間。彼らとは学校外でも交流を重ねた。
近所の書店ではずーっと平積みになっているのにAmazonではあまり動いてないみたい。関志雄さんの本って、Amazonだとカスタマーレビューも少なかったり。
中国経済をテーマにした本には、根拠をロクに示さずに悪口を書いたり、中国の成功=日本の滅亡という決め付けを前提とした脅威論を説くようなひどいものが多い。その点、本書は客観的なデータが多く、分析も穏当です。こういう本が売れるといいと思うんですけどね。
世界同時不況の中でも高成長を維持して世界の注目を集める中国経済の現況を豊富な統計数字で総覧できる、便利な1冊です。さらに中国経済が直面している課題を整理し、それらに対する政府の経済政策を紹介、近未来を展望します。手堅い内容であり、いま最も信頼できる中国経済の解説書です。
データ量は類書を圧倒しており、本書と比較対照すると、多くの本がイメージから出鱈目を書いていることがわかります。とくに特徴的なのは、10〜20年ほどのスパンのグラフを多く採用し、歴史的な観点を随所に盛り込んでいることです。それゆえ著者は、安直な中国脅威論や蔑視には与せず、手際よく人口大国の実力を腑分けし、抑制された筆致でその行方を予想します。
かつて共産党指導部は計画経済による重工業の発展を企図しましたが、比較劣位の産業に注力する政策は失敗し、中国経済は停滞しました。この反省から漸進的な自由主義経済の導入を進めてからの30年間は、年平均9.8%の高度成長を持続しています。結果、巨大な人口を背景に、多くの経済指標で世界一となり、GDPも米国越えが視野に入りました。
しかし今なお中国政府の経済政策は計画経済の尾を引きずっており、労働集約産業の十分な発展を待たずに資本集約産業の高度成長を促進し、資本の移動を制限し、為替の管理に腐心し続ける一方、再分配の仕組みは整備不足のまま。その歪みが、増えない雇用、高まるインフレ率、資本の余剰、格差の拡大による社会不安として現れています。
以上の筆者の分析から導かれる経済政策は、1)自由な経済環境の整備、2)市場の失敗を補う枠組の構築、3)社会保障制度の充実、のはず。ミクロ経済に介入し続ける中国政府の経済政策を筆者が好意的に紹介するのは不思議です。日中FTAの実現による国際分業の推進を説く終章の提言には納得できるのですが……。
雨宮処凛さんの対談本2冊。ネットでたくさん感想が読めるのは「脱貧困の経済学」なんだけど、書店で目立っているのは断然「国家の貧困」のほう。こういう違いって何に起因しているんだろう。
枯れたジャンルと思われがちだけど、大勢が毎日研究に勤しんでいるだけあって、ちゃんと技術革新が続いているんですね。この機会に私が意識的に選択している文房具を2つ紹介します。
生産終了。私がこれまでに唯一、箱買いしたペン。10本入りを2箱買ったと思う。
インクやペン先は、これといって特徴のない、ふつうのゲルインクボールペンです。JJ100-BKの個性は、その構造と形状の仕様にありました。
基本色の黒で、これらの条件を満たすものは他にない。ないのは当然だと思う。Jell-popで最初に消えたのが黒、赤、青の基本色で、その後、パステルカラーの12色セットが発売され、現在は「プチコロン」という香りつきインクのペンとなっています。簡単に説明しましょう。
Jell-popの構造は、まさにこうした大多数の消費者の要望に反していました。クリップなしの小さなキャップ、単軸構造らしい細身で凹凸のほとんどない丸軸、これらの特徴は、女の子がペンケースにたくさんのペンを入れて持ち歩く用途に最適化されたものです。
ちょっと使ってすぐしまいこむのだから、小さな隙間にスッと入り込むスタイルがよいのです。また、プチコロンのようなペンは、まず使い切らないものだし、仮に使い切ったとしても、他の色や商品を試すのがふつうでしょう。だからリフィル式にするより、単軸構造にして中のインクをきれいに見せる方がいい。
というわけで、基本色は「サラサラクリップ」(←前述の常用ペンに求められる構造・形状を全て満たしたペン)、マイナー色は「プチコロン」といった住み分けは、全く合理的だといえます。
ただ、私は、少数派の消費者なんです。小さな筆入れに、ゲルボールペン、油性ボールペン、油性サインペン、カッター、定規、修正液を入れて持ち歩くので、キャップのクリップは邪魔だし軸は細身がいい。ゴム嫌いの丸軸好きは私的なセンスの問題。
自分のような消費者が少ないことを私は理解したので、店頭からJJ100-BKが消えていくのを目の当たりにして、慌てて2箱買ったというわけ。このようなペンは、もう二度と手に入らないかも、と思ったんです。
会議中に個人的に参照する資料をどうしようか、ということを考えていまして。2穴の書類綴じはいろいろありますが、「綴じたまま水平に開いて書き込みができる、しかも薄い」のは、この商品だけかもしれない。
リングファイルは背中がどうしても分厚くなります。ふつうのファスナーファイルだと、水平に開けないし、ファスナーのストッパーがかなりの面積を無駄にしてしまう。クリアポケットに1枚ずつ書類を入れていくのは面倒だし、書き込みができない。さかさまにしたら書類が落っこちてしまうのもクリアファイルの欠点。
そんなこんなで、コクヨのファスナーファイルに辿り着きました。実用的には60枚くらいしか書類を綴じられないけれども、頻繁に閲覧・書き込みする書類は限られています。古いものは通常のバインダーに綴じていけばよく、これで不便を感じていません。
あと、水平まで開けるから、綴じ穴周辺まで情報が印刷されている困ったファイルでも大丈夫。ときどきあるじゃないですか、バインダーに綴じたままだと一番重要な数字が読めない書類というのが。
先に紹介したのは廉価版で、私が実際に使っているのはこっち。前述の通り、ファイルを溜め込むのに使う道具じゃないから、量は必要でない。ならば、多少の価格差はあっても気持ちよく使えて強度のあるものを選びたい、という判断です。
この記事に関して、なぜ同じブックオフなのに買い取り価格に差があるのか、という感想をちらほら見かけました。
元古本屋アルバイトの知人に以前聞いた話によると、古本屋チェーンの書籍買い取り価格は店舗の在庫が一番重要なのだとか。そうだからこそ、同じ書籍が、定価の半額、105円と分かれるのだという。よほど在庫の回転が早い商品でもなければ、所定の在庫数に達した段階で105円本扱いになるのだそう。
一部のゲームソフトなどを例外として本部から買い取り価格の強い指示がないのはなぜか、知人が地域マネージャーに訊ねたところ、「意外と本の売れ方には地域格差があるから」だとか。書籍は点数が非常に多く、また単価が安いため、店舗間で商品を融通するコストがペイできないらしい。
だから、在庫が積み上がっている本は、その店舗では、とにかく安くしか買わない。他の店舗なら売れるかもしれない本でも、買い取りを断ることもあるという。
この本の中でも、マッキンゼーから転職して入社した現社長の佐藤弘志さんが単品管理に挑戦したものの、なかなかうまくいかなかった話が出てきます。佐藤さんの挑戦はイーブックオフやコミかるに結実しているのだけれど、今も実店舗への全面導入には至っていない。
注:知人がアルバイトをしていたのはブックオフではありません。だからこの記事で私が書いていることは、ひとつの類推です。
私は長らく、「いずれわかること」をスクープするために血道をあげるマスコミに疑問を感じていた。企業の合併話などのスクープが、過去にどれだけのビジネスを破壊し、大勢を困らせてきたか。無益どころか有害じゃないか。
しかし、こうしたネットの騒ぎを見るにつけ、「なるほど、マスコミは消費者の期待に応えていただけか」と。ゲームの発売日を1週間早く知ったところで何の意味もないはずだ。こんなことで大喜びするのは、なぜなのか。
他人の名誉を少しも尊重しない、自分の気持ち優先主義。証拠もなしに他人を犯罪者扱い。逮捕されただけで犯罪者扱いするマスコミに私は怒ってきたが、一般国民は何の証拠もなしに人を攻撃する。お話にならない。こういう人々も、冤罪事件には怒っていたりするのだろう。やるせない。
昨今のテレビドラマなどでも、繰り返し同じ問題構造が登場していますよね。環境の変化に対応して、周囲の協力を仰いで生き抜く能力がないと、生活が破綻しますよ、という。個人の自由を徹底的に貫こうとしても、なかなかうまくはいかない。
弱い生命を守ることと、生命の尊厳を守ることの両立は難しい。自分なら清太のようにはしない、と思うけれど、「社会的な責務を果たさねば生きることを許されない」ことへの悲しみは私の中にもあります。みんなそれでも頑張っているんじゃないか。その通りだが、大多数の人が我慢できる悲しみなら放置してよいのか。
テレビドラマの脚本は、この割り切れなさによく取り組んでいます。人生はつらくて苦しいんだけれど、自由なんて幻想で、だからプライドなんか邪魔なだけだったりするんだけど、それでも生きているのは素晴らしいことなんじゃないか、小さな誇りが人を支えるんじゃないか。そう訴えることに挑戦し続けている。
逆説的だけど、そうした状況が、「火垂るの墓」を許容するんじゃないかな。みんなが清太に心の底から共感してしまったら、社会は維持できない。でも、そうではないから。清太を批判せず、ただ涙することができるのではないか。
意外と映画は短い。原作はもっと短い。
昔の学園ものと違い、友人が後景にひき家族が前面に出た物語展開に特色があった。これは脚本家の井上由美子さんらスタッフの取材に基づく。本作以降、若年妊娠を扱う作品の多くが、この路線になった。
あとノンフィクション3篇を加えた小説版はご覧になったことのない方も多いと思う。コンパクトなので、興味のある方はどうぞ。ドラマは出産で終ったけれども、当然、その先の方がずっと長い。その一端を伝えようとする作品。
ドラマ版はお母さんが絵をほめてくれる場面が好き。原作の漫画は連載継続中。掲載誌の「BE・LOVE」は私の好きな漫画雑誌なんですが、はてブの人気記事「漫画雑誌の表紙の作り比較」とその反応の中に名前が登場せず。はてな界隈ではマイナーなのかな。
2003年に宮本さんが提唱された個人サイト4年寿命説は、そろそろ見直すべき時期かも、という話題。
なんというか、自然界の生き物みたいな感じですよね……。「作っただけで放置」から始まって、「三日坊主」、「1ヶ月の壁」、以降、3ヶ月、1年、2年、4年と進むと、どんどん減っていく。まあだいたい4年も続けばすごいね、という感覚は今もあるように思います。でも生物学的な限界寿命は数十年にもなるんですよ、みたいな。
九十九式も、私のこのサイトも、いよいよ「10年」が視界に入ってきましたね。なんて思っていたら……。
完全にスルーしてたけど、知人のウェブサイトの中に(更新継続中で)10周年を突破したのが3つもありました。すごいな。とくに「サバのほね」は、初期コンテンツのゲーム改造講座が今年に入ってからも更新されているし……。
両手で数えられるほどしか知らないリアル知人のウェブサイトの中に3つも10年選手があるのだから、サイトごと消されてしまわない限りは、意外と続くものなのかもしれませんね。
そういえば昔から、サイトを消して名前を変えることでひとつのネット人格は死んでも、じつは別の名前で細々とオンライン活動を再開していることが少なくないよ、という話はありました。まだネットがあまり普及していない時期にウェブサイトに惹かれたような人が、そう簡単にネットから完全消滅するわけがない。
「サバのほね」で更新が続いている日記「ひとりまおう21」が学生時代のログを消してるのは何だろう? 何かヤバいこと書かれてたっけか。それはさておき。
さて、毎年恒例となった日記容量チェックですが。
今年は5MBちょっととなっており、昨年より1MBほど増量したようです。
今回日記の容量にピッタリなゲームはありませんでした。
ペース的に来年あたりには、SFCでもっとも大容量の「スターオーシャン」に届くかと思います。
私の備忘録は毎年0.6〜1.7MBくらい書かれています(下書きファイルのサイズ/ブログ記事をダウンロードして保存すると、ずっと増えます)。全然更新しなかった印象のある昨年でも、結果的にはそこそこ書いているのが不思議な感じ。累計で10MBくらい。SFCのカセットにはもう入らないんですね。
たまに雑誌などを読んだり、ネットでソフトウェア紹介の掲示板まとめ記事などを見ると、「有料ツールは問題外」みたいな扱いになってることが多い。こういう風潮って、なかなか変わりませんね。
たしかに、有料だから高機能だとか、無料だから動作が不安定、なんてことはないんですよね。性能に差がないなら、無料の方がいいというのは道理だと思う。ただ私は、細かい動作や機能、インターフェースの好き嫌いを、有料か無料かということより重視しているわけです。
だから、有料ソフトでもとりあえず試してみることにしています。ただ、CD-ROMに入れて売られてるようなソフトは、やたら重かったりデータ量が大きかったりすることが多くて、なかなか手が出ません。Vectorでシェアウェアを厭わない、というくらいのスタンスです。
さて、ウイルスバスターや仕事用の3DCADやシミュレーション用ソフトなどは別として、自分が使うほぼ全てのパソコンに、自分の都合で入れている有料ツールを書き出すと、以下の通り。
xplorer2 も TTT Editor と同様、何がいいのか説明しづらいツール。無料の競合ツールがたくさんあって、機能面ではとくに優位性がない。しかもデフォルトの設定だと(私には)使いにくい。それでも、自分好みの使い勝手を追求していくと、カスタマイズした xplorer2 が一番いいんですよね、私は。
ただ、たまにしか使わない共用パソコンで有料版の機能は必要ではないので、そこは臨機応変に判断してます。ばっちり同期も同様に、必要なレベルのライセンスを選択してます。
ウェブアートデザイナー(WAD)はホームページビルダー(HPB)のおまけ。これだけのために、叩き売りになっている古いバージョンのHPBを買い漁り、10枚くらいCDを持っています。特殊なお絵描きツールで、他に同様の設計のソフトを見たことがない。不満は多いけど、唯一無二の存在なので仕方ない。
WADの進化は7年間くらい止まっていて、担当者は何をサボっているのか、と思う。反転したら1ピクセル小さくなるとか、不具合の類だと思うのだが。何度も意見メールは出したけど、なしのつぶて。
それにしても、書き出してみると意外に少ないね。使うパソコンが増えるたびに必要なライセンスを買い足しているので、かなりの出費になっているような気がしていたんだけど、大したことないや。自宅のメイン機にしか導入していない有料ソフトが他に10種類くらいあるとはいえ……。
あー、そうか、みんなが無料にこだわるのって、自分が使う全てのパソコンで環境を揃えたいという理由もあるのか。自己解決してしまった。たしかに私も30種類くらいの無料ツールを全パソコン共通で使っていますね……。
インストール不要のツールが大半で、初使用時にSDカードから所定の場所へコピーしてます。その中にランチャーが含まれているので、これをスタートアップに登録。設定ファイルごとコピーしているから、これだけでいきなり、使い慣れたツールを全てランチャーからバリバリ使えるというわけ。
やっぱりここで、いちいちライセンスの追加購入手続きが必要になると面倒ですね。お金が惜しいというのではなく……と、一瞬、書きかけたんだけど、やっぱりお金が惜しいという気持ちも否定できない。
mixiの人気ゲームがアイテム課金をはじめたら掲示板に苦情が殺到した、という話題。中国製のゲームだったことから、中国(人)差別を丸出しにした発言がたくさん。このような誹謗中傷の自由を許すから、日本のウェブは窮屈なんだと思う。
はまちや2さんは繰り返し「いままでタダで遊べていた部分は、そのままタダで遊ぶことができる」と念を押しているのだが、怒っている人にはまるで通じない。私が連想したのは、2008年8月の、この話題。
人気のコンピュータRPGシリーズの最新作が、ダウンロードコンテンツ(DLC)として、キャラクターのレベルを5つ上げるチケットみたいなものを販売したた、ネットの片隅では大騒ぎになった。
もともと2周目以降は経験値10倍とか獲得金2倍とか選択できて、とにかく1回クリアしてしまえば何でもありだったシリーズ。難易度を選択できるシステムも搭載しており、ユーザーの幅広い要望にきめ細かく応えるのが特徴なので、「まだやってなかったの?」と私は思ったのですが、ネット世論の反応は違いました。
ちなみに、個人的にはこの件、近年のゲーム機からマジコンなどと一緒に(ゲーム自体の売り上げを阻害するとは考えにくい)改造ツールも排除される理由がクリアに理解できた、という意味でも印象深い。
まあ、サンシャイン牧場でクレームをつけているのはユーザの1%にも満たない少数派に過ぎないし、テイルズも売れたらしい。選択肢が増えるのは(消費者にとって基本的には)いいことだ、という原則は揺るぎない。多様な意見が可視化され、これまで無視されてきた少数派の叫びが目立つようになっただけ。
それでも、「いい人」は、たじろいでしまうよね。これから、どうなるんだろう。現状維持バイアスが強まるのかな。それとも、「ノイジーマイノリティに惑わされない技術」が普及していくのか。後者が勝つ、と私は予想するけれども、さて。
両親が本編をクリアしたのは8月後半だった。それまではちょくちょく母から質問メールがきていた。メールを出す用事がある、というのが、何かといいらしい。お互い、ついでにあれこれ近況報告などしたので、たった2ヶ月で過去3年分を越える分量のメールのやり取りをした。
ふだんから親子の会話の多い人にはピンとこないだろうけど、私は滅多に実家にも帰らないし、電話にも出ないので(注:365日24時間留守電応答)、一番短い年には、1年間で1時間くらいしか話をしなかったんじゃなかろうか。「隆夫が冷たい……」と母が伯母に嘆いていたという話を聞いて、少し反省した。
私と両親の会話は、お互い健康に天寿を全うしても、あと100時間ないかもしれない。貴重。
……なんて話を知人にしたら、「あのさ、どうして100時間を1000時間に増やそうとか、考えないわけ?」と呆れられてしまった。結局、両親と同居したりする気がないんだよね。基本、冷たいんだ。その点、知人は言行が一致している。二世帯住宅を建て、夕食担当に立候補し、家族の食卓作りに腐心している。
世の中、偉い人ってたくさんいるものだな。ただ、これは素朴な疑問なんだけど、奥様とそのご両親との会話とかふれあいは、どうやって確保しているのだろう……。なんか揚げ足取りみたいで質問しづらい。
- web書物が消えることが痛いのか
- ショックを覚えるのは最初だけ。実は既存ログのレプリカというか複写は繰り返されているので、当然のように同じ文書がローカルに五つも六つもあるとかざら。さらには何故にそんなに増えていくのかと言えば、改変の都度のバックアップであったり、無意味に似たものを作り直すときに吐き出された物なのです。生のテキストに関してはもっと酷く「なんじゃこりゃあ!」という変なチップスまで大量に保管。ざっとMB単位にもふくらんでいて「把握」もしていません。ディスクを消しても、パソコンを変えてもすぐにふくらむなら、そりゃ、何度消しても同じ事なわけです。ディスク保管でもフロッピーという代物でも足りず、一体どれほどの書き込みを増やせば気が済むのだろうと思います。
私はウェブサイトの下書きファイルとメール以外に私的な文章を書いていません。書けないから。
だから、これだけは消えないようにしよう、と。ワープロ時代の文章をほとんど失ってしまった苦い思い出があるんですよ。
私は大学4年までどうしてもパソコンに慣れなくて、大学入学時に買ったCASIOのDARWINというワープロを気に入って、あれやこれやの文章をみんなワープロに入力していたんです。ところが、理由はよくわかりませんけれども、このワープロで保存したフロッピーディスクが、続々と読込不良になっていったのです。
衝撃を受けましたね。繰り返し試行すると反応してくれることもあったから、とりあえずバックアップの数を増やしたりして。でも焼け石に水。FDが2枚ともやられたら、はいそれまでよ。
その後、生き残った一部の文章はリッチテキストコンバーターを使ってパソコンでテキストファイルにしましたが、ほとんどの文章が失われました。印刷しかものだけ残された文章もあったのですが、数年後に「発見」したときにはもう感熱紙が劣化して読めなくなっていたりして。
いま下書きファイルはPCとSDカードとオンラインの3箇所に保存されていて、1日数回、同期をとるようになってます。そして月に1回、自動でバックアップをとってます。何らかの理由で最新版が連鎖的に壊れても、月イチ版は残る、と。家が火事になってもサーバーが壊れても大丈夫。
自分でも偏執的な感じはしますが、写真嫌いということもあって、他にあまり自分が今日まで生きてた証拠みたいなものがないんですよね。記憶もすぐになくしちゃうし。ここでは覚えてることだけ書いてるから、そういう風には見えないでしょうけど。
私のファイル管理は、3箇所に同じファイルを持つという点で一定の冗長性があるけれど、肝心の「頭」にあまり内容が残っていない。それに、システマティックだから、連鎖的な破壊がありうる。ワープロのときは、印刷物というイレギュラーがありました。
あ、印刷物で思い出した。年賀状だけは例外か。自分のところには何も残っていないから実感がないけれど、私的なライフログとしては、いちばん冗長性がありそう。
私が読んだ本などをサイトで公開するようになったのは、この件がきっかけ。最初は別に消えてもいいつもりだったけど、実際に消えたらショックだったので、バックアップの連鎖に組み込んだわけ。
いま読書記録をつけるためのウェブサービスがたくさんあるけれど、あんなもの、20年も30年も続くのは一つか二つあるかないか。今の読書記録を本当に懐かしく思うのはそれくらい未来なんだから、データを他人に預けて安心していられるか、と。
そもそも、なぜに管理画面を使わないとならないかと言えば、可能な限り早くwebに掲載したいという意味合いからでした。でも、私の場合はちょっと違うのかも知れません。webに掲載しなければ文章がどのように表示されるのかなんて、昔のようにローカルディスクで確認すれば良かったはずでしょう。ですけれども、ローカルでまったく同じ物をこしらえても、そこで編集作業を行えませんでした。そこでは自分の文章を他人の目線で俯瞰することが凄く難しかったからです。
私の場合、下書きファイルは自動的にFTPでサーバーにアップロードする設定にしています。タスクトレイのアイコンをダブルクリックすれば任意のタイミングでもアップロードできます。ブログツールに投稿する前に、ウェブで記事がどう見えるかをブラウザで確認することはしばしばありますよ。
いったん最終形に近い状態で出力しないと、きちんと自分の文章を読み返せない、というのは珍しい話ではないと思います。印刷しないと校正できないとか、わざわざレイアウトまでしてから校正するとか……。作家さんの日記やエッセイをいくらか読んだ印象からいうと、プロでもそういう人は少なくないはずです。
それでも、ローカルのHTMLファイルではなくオンラインに公開された状態でないと自分の文章をきちんと読めないとしても、「だからって管理画面から投稿しなくてもいいじゃないですか」とは思う。
ブログツールの管理画面からの投稿の問題点は、投稿時にサーバーが混雑していると、一瞬で原稿が消えてしまうこと。もちろん、ローカルでやっていても、急にパソコンが止まることはありますけど、より確率が高いのは投稿エラーの方です。それにローカル編集なら、記事を書いている途中でも保存でき、より安全です。
あとこんなのは私だけかもしれないけど、つい手が滑って(マウスジェスチャーとかF5キーとかで)編集画面を更新してしまうことも。当然、書き途中の記事は消えてしまう。あるいは、調べ物をしながら記事を書いているとき、ブラウザの他のタブを閉じる際、つい流れで編集画面も閉じてしまう、とか。
そんなわけで、メール投稿とか、ブログエディターとか、もっと普及してもいいんじゃないかなあ、と思っているわけです。ウェブフォームからの投稿は、私みたいなおっちょこちょいには危険すぎます!
投稿してからバックアップを取る、というのは、なかなか習慣にしにくい。その点、下書きをすれば、自ずとバックアップを取れるわけです。下書きファイルを上書き保存するだけでいい。私は、掲示板やコメント欄への投稿でも、パーになったらショックなものは、まず下書きファイルに書くようにしています。
会社では外付けHDD、自宅ではSDカードへのファイルのバックアップでお世話になっています。ついでに下書きファイルのサーバーへの自動アップロードもお願いするようになって、かれこれ4年ほど経ちました。同期ツールはいろいろありますが、機能面でこれを代替しうるツールを私は知りません。
無料にこだわるなら、ばっちり同期は低機能なツールということになってしまう。全機能を開放するには1万円くらいかかる。個人的にはインターフェースもいいと思うので、無料派にもとりあえず勧めます。
日頃、HTML文書の作成・編集は TTT Editor で行っています。他人にこのソフトの良さを説明するのは難しくて、「お勧めのHTMLエディタを教えてください」という質問にはいつも ez-HTML を紹介してきたのですが、私自身は TTT Editor をずーっと使い続けています。UTF-8非対応といった大きな弱点もあるのですが、他のツールには我慢なりません。
私はIEの「ソースを表示する」を Crescent Eve に関連付けています。自動で文法チェックしてくれるのがいいところ。ブラウザに下書きファイルを表示して、「ソースを表示する」なんて使い方をしてます。あと、HTML文書以外のテキストは、何でも Crescent Eve で下書きしています。議事録とか報告書とか。
こうしてブログ全体が消えてしまうというレベルのトラブルは珍しいけれど、ウェブフォームに記事を書いて投稿ボタンを押したらサーバートラブルで30分の手間がパー、という事例には事欠かない。検索すると、何度も何度もこれで悲しい思いをしている人も少なくないようだ。
よそ様の事情はよくわからないのだけれど、下書きをするのって、そんなに面倒かなあ……。私はテキストサイト時代からの流れで、下書きファイルを更新するのが習い性になっているから、よくわからない。
携帯電話からのメール投稿は合理的だよね。自動的にログが残るわけだから。まあメール投稿だとリンク設定やフォント装飾をするのは面倒なので、パソコンからの投稿なら、記述支援のウェブフォームを使いたいと思うのは自然かな。問題は、ウェブフォームの便利さが、投稿失敗の痛みと比べて十分な大きさかどうか。
そういえば、ブログエディターという選択肢もあったんだな。いつの間にか窓の杜に専用のディレクトリができていた。
以前、ブログサービスの方でエディタを勧めてくるのがあったんだけど、どこだったかな、あれは……。サーバーのトラブルはゼロにできないんだから、ブログサービスは下書き文化を育てるべきだ、なんて思っているんだけど、どうも世の中、そういう方向には行かないみたいだね。
私のレビューを読んでドラクエを買ったというmixi日記などがいくつかあって、そういうのを読むたび、責任重大だなー、と思います。自分自身がクリアした翌日のレビューですから、一番、冷静さとはかけ離れた状態で書かれたものですし。楽しんでくださっているようで、ホッとしました。
父はプレイ時間が1000時間を突破したそうです。母も2ヶ月弱でクリアして、9月には100時間を越えました。足を骨折して暇なので延々と宝の地図に潜っていたとか。結果的に液晶テレビより喜ばれたので、やっぱりプレゼントは値段じゃないな、と。
ところで、アイスプラントが九十九式に登場したので少し気になっていたら、ちょうど今朝の新聞で記事になっていてビックリ。佐賀大学の野瀬教授が、塩害で野菜の育たない土壌をアイスプラントで改良する研究をされているのだそうです。学生がベンチャー企業を作り、2006年から「バラフ」という商品名で食用に販売しているのだとか。
日本のGeocitiesはサービスを継続しているが、4月に新規募集を打ち切った米国のGeocitiesは、10月26日にサービスを修了するとのこと。作者が消したいなら仕方ない。こうしてサービス業者の意向で更新停止サイトが一網打尽にされてしまうのも、仕方ない。ただ、残念だ。
ウェブコンテンツならリンクでいいだろ、転載なんて必要ないだろ、という意見に反対なのは、こういうことがあるから。ブログの単純な書籍化に賛成する理由も同じ。
私の備忘録でも、過去ログの文中リンクが、非常に高い確率で死んでいる。リンク先を読まないと意味が通じない記事を書いてしまうと、後で悲しいことになる。
転載自由と宣言されていて、簡単に転載できるコンテンツが、もっと増えるといい。でも、これって意外と面倒なんだよね……。自分自身、他所の記事に言及する際、いちいち転載自由かどうか確認していないし、あるいは、大丈夫とわかっていても、滅多に転載しない。
転載機能のあるYahoo!ブログが私にとって使いやすいものだったら、絶対使うんだけど……。私が転載したいと思う記事は皆無に近いが、少なくとも、自分の記事を読者が転載しやすくなるのはいいことだと思っている。この備忘録だって、いつ消えるかわからない。
ODNのプロバイダ付属の無料ウェブスペースサービスも終了したそうだ。怖いな。
もともとプロバイダ付属のスペースというのは、管理者の引越しに伴う契約会社の変更などでアッサリ消えてしまうことがしばしばあって、安心はできなかったんだけど。
やっぱり無料で放置されているウェブサイトは、みな、いずれ消えるんだよね。その「いずれ」というのが、じつはたったの5年くらいだった、ということ。短い。短すぎる。
無料サーバ事業が広告ビジネスであるならば、新規募集を停止し、転送量制限などを行っていけば、コスト要因はどんどん減っていきますので、赤字にはなりにくいと予想します。
ビジネス的に旨味のない事業から撤退するのは当然の判断かもしれませんが、サービスを停止すれば、サイトが消えます。管理者が更新意欲を失っているサイトは、移転などしないでしょう。しかし、管理者が放置していても、文化的な価値がないとは限りません。
米ジオは歴史あるサービスであり、管理者は飽きてしまったけど、歴史的・文化的見地からは意義深いサイトが、多数存在していました。ですから、事業を手仕舞いするとしても、一種のメセナ活動として「管理者が明示的に削除を申し出るまでサイトを存続させる」といったことも可能ではなかったか、と。
米ジオの最近5年ほどの凋落ぶりはひどく、撤退は時間の問題だったとはいえ、あっさり全削除でスッキリするという結論になったのは、残念でした。米ジオほどの巨大サービスならば、「文化事業としての責任」のようなものを背負ってほしかった、と私は思うのです。
本来、高齢化の影響はもっと小さいはずです。農業などの自営業で生計を立てる人が減って、サラリーマンの定年はほとんど延長されず、大量の老人が「失業」しています。老人のうち、身体能力的には就業可能な者を失業者としてカウントすれば、現在の日本は失業率20%超の社会です。将来は40%にもなります。
結局、需要不足が続いて、供給能力が余り続けていることが決定的な問題なのです。
日本には少なくとも1000万人くらいの余剰労働力が存在するのだから、うまくやれば、政府が数年かけて数百兆円くらい政府紙幣なり何なりで新規の需要を作りまくっても、インフレになんかならないのではないか。需要の増大にあわせて供給も増えるなら、インフレにならないのは道理です。
「うまくやれば」とは、労働の継続・再開にインセンティブを与えることをイメージしています。具体案はない。
65歳から十分な金額の年金が支給されるなら、65歳以降の勤労意欲は維持できない。まして老人向きの仕事は薄給が予想されます。社会保障は弱者救済に特化して年金を廃止する、あるいは逆に完全無差別の基礎所得制度にする……とか、現実味のない策しか今は思いつかないので、とりあえず保留させてください。
変化後のイメージはあります。労働力不足が恒常化し、効率のため人材配置が流動化された社会です。
そこでは、老人に「可能」な仕事は、何でも老人に任せることになるでしょう。常に余り気味の老人は給料が安くなり、ますます希少価値の高まる若者は給料が上がります。ひとつの仕事を一生続ける人は減り、青年→壮年→中年→高年と年齢を重ねるにつれ、数回の転職をすることが当たり前になります。
「人手不足解消のため」の外国人労働者の受入促進は、高年労働力を十分に引き出してから検討すべきこと。喫緊の課題ではないはずです。
権丈先生の「医療政策は選挙で変える」には、医療費は常にGDPと連動してきたことが示される。世間では老人が増えるから医療費も増えるに違いないという議論がなされるが、実際には無い袖は振れないため、医療費が巨額になる前に政策が変更され、結果的に一定額に収まることになる。
すなわち、政策的に判断しなければならないことは、日本はGDPのうち何割を医療費に当てるべきかということであり、その他のことは本来議論が必要な問題ではない。
上限が決まれば、必然的に医療水準も定まります。万人に最高の医療を、というのは無理な話なので、適当な水準で諦める他ない。問題は、日本経済がゼロ成長を志向する限り、この調整は激烈なものになること。
先進国の経済成長は実質年率2%程度で、これは日本の医療費の自然増とほぼ同じ。現在の医療水準を維持して収支トントンなのだから、医療技術の進歩を保険診療に取り入れるには、保険料を上げる必要があります。「金持ちだけ長生きできるなんて許せない」という声に応え続けるなら、この値上げには際限がありません。
しかも、1991年にバブルが崩壊して以降の日本経済は、バブルの再来を恐れる余り高成長自体を忌避してきたので、医療費の自然増を経済成長率が下回っています。現在の医療水準を維持するだけでも、保険料地獄になるわけ。これも人の一生のスパンでは際限なく続く事象です。
保険料の上昇を抑制すれば、医療水準は下がります。政治的な困難は計り知れません。昨年までならこの病気にかかってもみんな助かったけど、今年からは金持ちしか助かりません、という話ですから……。
国民の不満を完全に解消しつつ医療制度を持続するためには、高度経済成長が必要です。現在の医療水準を維持し続けるだけでも、従来の経済政策を転換して、他の先進国と同等以上の経済成長を実現しなければなりません。
私の要領を得ない説明よりは、こちらの資料を読んでいただいた方が話は早い。ゼロ成長経済に国民は耐えられないことが推察されると思う。……はずなんだけど、当の藤正さんはマイナス成長でもOKと主張する本を発刊されています。読んでみたけど、私の疑問は解消されずじまい。
世界の株式相場が上昇基調を強めている。主要52市場の株式時価総額の合計は約45兆ドル(約4090兆円)と直近の底だった2月末から5割以上増加。昨年9月のリーマン・ショック前の水準に近づいた。
「ITバブル崩壊」のときと全く同じ。日本の一人負け。バブルが崩壊するたび、虚妄の経済成長の時代は終った、安定成長が大切だ、と日本人は考える。ところが実際は、「虚妄」の実態は1〜2年分の経済成長前倒しに過ぎず、経済成長に背を向けた日本経済との差は少しも縮まらない。
というか、バブルの果実もないのに崩壊の影響だけはきちんと受ける、このバカバカしさ。
バブルを過剰に恐れず、成長できるときにはガンガン成長した方がいい。前FRB議長のグリーンスパンさんご自身は反省の弁を述べているけれども、金融商品の規制に関してはともかく、緩和と引締めの判断は、凡そ正しかったと私は思う。日本経済も、反バブルの自縄自縛から、早く解放されてほしい……。
権丈善一さんの再分配の政治経済学シリーズは面白い。ただ、3冊目以降、折々に書いた記事を寄せ集めて編集するスタイルになったのが残念。PDF形式で連載されている珍しいウェブコラム「勿凝学問」の書籍化と考えれば悪くないけれど、こういう文脈では勧めにくい。
お忙しいのでしょうが、もっと内容を整理して、新書版くらいのサイズにまとめてほしい。経済コラム集というジャンルはあって、そういう本としてなら文句はないのですが。
成果主義は多くの社員の勤労意欲を減退させてしまう、という話題。リンク先記事には何ら具体的な提案がないが、それは当然だと思う。
デフレ下では、序列が下がると給料も下がってしまう。人の意欲への影響は実質賃金よりも名目賃金の方が大きいから、適度なインフレは社会の潤滑油として機能する。しかもデフレからインフレへの転換過程では、需要不足が解消されて経済成長することになるから、みんなが潤うはず。
逆にいえば、個別の企業がどう努力しても、なかなかうまくいかないだろう。企業の業績を上げて、底辺層の社員も給料がプラスになるよう頑張りましょう……なんて処方箋は、デフレ不況のもとでは「それができれば苦労しないよ」という話だ。
エコノミストの見解は冷厳。商売に栄枯盛衰はつきものなんだから、敗者は他の仕事を探せ、という。そんなに簡単に仕事が見つかったら苦労しないよ……今はたしかにそうかもしれない。それでも、「だからユニクロはダメ」ではなく「だからデフレ不況を放置している日銀と政府はひどい」のだ。
衣料品の低価格化によって浮いたお金は、(デフレでなければ)他の何かの消費に回るだろう。社会全体で消費が減るわけではないから、家計の縮小にはつながらない。結果、衣料品が安い世界では、消費者は同じお金でより多くの(または質の高い)商品を得られる。よって相対価格の低下を追求するのは、よいことだ。
これは山崎さんの特異な考え方ではないので、興味のある方は他のエコノミストの回答も参照してほしい。
農業や紡績など、日本は次々と産業を乗り換えて発展してきた。国内のジーンズ業界も、一部の高級品などを除けば、もはや厳しい業種なのだろう。それは必ずしも会社の消滅を意味しない。景気さえよければ、組織の力を活かした転業には十分な可能性がある。
もっとも、転業の際にはいったん組織を縮小する必要があるかもしれない。今、それはつらい。私の勤務先でも2005〜2007年にはフリーターを何人も正社員として中途採用していた。あの程度の弱々しい景気でさえ雇用環境は改善された。やはり不況を脱出することが何より大事なのだ。
経済成長率と為替の動きには相関が見られない、という話が、きちんとデータを示して紹介されている本。えっ!? と思ったんだけど、これが現実。多くの市場参加者が経済成長を確信する国があった場合、その国への投資が増えて、通貨の価値が上がる……何となく、私はこう考えていた。でも違っていたんだな。
他にもいろいろ、まず事実を見ましょうよ、という興味深い話がたくさん。詳細は同書を読んで確認してほしい。趨勢的なインフレ率の差が長期的な為替動向を決める。当たり前の理屈だ。私はメモ的に思いついたことをあれこれ書いているけれど、素人の思いつきに、さしたる意味はないな。あらためて、そう思った。
どうにかこうにか1週間、毎日更新できましたよ、と。
タイトルに「memo:」とつけているのは、正直、ここしばらくの更新の流れなら、わざわざ投稿する気になれず、ゆえに何かしら思うところはあっても、いちいち文章にしなかったような内容です。毎日更新するためだけに書いた文章なので、ご批判は甘受しますが、どうかお手柔らかに。
あと「memo:」と付していない記事の中にも、毎日更新すると決めていなければ書かなかった記事があります。「こんなの記事にならないんじゃないか」と思いつつ「でも他に話題もないしな……」と書き始めたものが、そこそこまとまった内容になったので、後から「memo:」を外した、という。
私は事前に何の計画も立てずに書き始めるので、毎日2つか3つ、平行して書いてました。結局、ボツにした文章もあります。「memo:」が付いてる記事も、実質、ボツなんですけどね。一応、下書きファイルは公開されているので、興味のある方はどうぞ。例によって数日かけて書いているので、日付は参考程度です。
日付をまたいで2日分更新する、みたいなセコい手を3度も使ったので、これを毎日更新というのもおこがましいんですけど、とにかくやりきった……。1ヶ月はこの4倍、1年は52倍。気が遠くなります。ちなみに、過去ログをざっと読んだ感じ、私はこれまで、1ヶ月間毎日更新を続けたことがないらしいです。
内部の図解や写真が豊富で面白かった。CELLの冷却に大きなヒートシンクが必要で、ゆえにチューナー部がかなりのサイズとなってしまうみたい。で、液晶パネルが55型になって、価格は100万円前後になるそう。
直感的には、なんか「違う」感じがしないでもない。
たしかに大画面のテレビをほしがる人向けの機能も多いのだけれど、全番組を録画して検索・視聴する、とか、高速でチャンネルを切り替える、といった機能は、どちらかといえば小さめの画面でテレビを見る人の方が、強く実現を希望しているのではなかろうか。
とはいえ、20型程度のテレビで「37万円です」といわれても買う人が少ないのだろうから、仕方ないね。7万円と30万円の比較だと、勝負にならない。70万円と100万円の比較なら、どうにかならないでもない、という感じか。
「この機能に30万円払えるか?」という問題の根本は同じなんだけどね。客層が違うということかな。
消費電力は320Wとのこと。初代PS3の消費電力がゲームプレイ時に200W程度(電源容量は380W)だったから、やっぱり液晶パネルが相当に大型化しないと、こうした面でもバランスが取れないのかもしれないな。
個人的には、それでもやっぱり、「液晶パネルは選択制」みたいな売り方も検討してほしいと思う。
四妖拳(天津飯の技)とかアシュラマン(キン肉マンの登場キャラ)とかカイリキー(ポケモンの一種)とかいわれている。別の写真を見ると足も4本なので、キン肉マンの王位継承編でフェニックスチームの一員として登場したサタンクロス(=サムソンティーチャー)を私は連想した。
にしても、手前の田中将大投手はわかるけど、後ろは誰なんだ?
後ろは捕手の中谷仁選手らしい。
この理屈だと、逆に消費税には累進性があることになってしまうのでは?「貯蓄する=より消費税率の高い未来に消費する」なので。貯蓄とは消費の先延ばしなのだから。消費せずに死んだら、相続した子供が消費する。
貯蓄の実質の運用利率が消費税の増税ペースより高ければ、貯蓄が累進性を高めることにはならない。
銀行預金の利率は非常に低いから、今後は消費税増税のペースを下回るかもしれない(過去の実績は預金利率が勝っている)。けれども、株式や債券への投資も行うとすると、消費税の増税ペースが高々年1%にとどまるなら、国債ではさすがにつらいけれど、保守的に運用しても利率が上回るのではなかろうか。
物価連動国債と物価に連動しない国債の利回りの差はブレーク・イーブン・インフレ率と呼ばれ、市場参加者の物価見通しを示すものとされる。物価が上昇すると予想されるなら、物価連動国債は人気が上がり、結局は物価上昇の予測値と同じだけ通常の国債より利回りが下がる。逆に物価が下がるなら、物価連動国債は人気が下がり、物価下落の予測値と同じだけ通常の国債より利回りが上がる。
ブレーク・イーブン・インフレ率の推移を見るに、麻生内閣は大規模な財政支出を行ったが、市場は相変わらずデフレを予想していることがわかる。実際、足元の物価症状率はマイナスだし、GDPデフレーターも落ち込んだまま。
来年度の鳩山内閣の予算が90兆円規模になる見通しとなり、大量の赤字国債を発行するか、予算を減額するかで議論になっている。だが、これほど需要不足が明確なら、返済不要の国債ともいえる政府紙幣を大量に発行する条件が整っているといえるのではないか。
もし政府の借金が国民の将来不安の原因ならば、3%以下のインフレ率に収まる範囲内で、どんどん政府紙幣を刷って借金を減らせばいいんじゃなかろうか。デフレ経済では税収が落ちるが、逆にデフレだから可能な借金の圧縮方法もあるだろう。
橋洋一さんの予測では2010年のGDPギャップは80兆円だという。これを全て政府紙幣で埋めるなら、税収が40兆円ほどあるので、予算が90兆円でも、むしろ国債の残高を減らすことができる。
日本の生命保険のもう一つの特徴は、保険金あたりの保険料が高いこと。10年定期の掛け捨てで3,000万円を保険する場合、日本では優良体でも5,175円。それに対し米国では喫煙者の標準体でも4,944円、非喫煙の優良体では1,291円しかしない。
この数字には補足説明が必要だと思う。実際に日本の保険会社が非効率で手数料が高いとしても、それだけでこんな金額の差にはならない。
簡単に書けば、運用利回りの差ということになると思う。保険会社は集めたお金を運用して増やし、そこから保険金を支払っている。物価上昇率がプラスで、きちんと経済成長を続けている利回りの高い国では、平均を取って5年後に3000万円を支払うために保険会社が徴収するべき保険料は、デフレで経済が停滞している国よりもずっと少なくて済む。
だったら保険会社が海外で資金を運用すればよさそうだけれど、長期的にはデフレ通貨はインフレ通貨より高くなるので、かなりの部分が為替で相殺されてしまうことに注意が必要だ。
ようするに、将来の3000万円を基準に議論しているのに、現在の日本円で掛け金を比較するのは疑問。例えば、旅行の傷害保険など、ごく短期の保険であれば、これほどの差は生じない。
10月8日よりでNHK総合で第2シリーズが放送されているNHKの教養番組「出社が楽しい経済学」のガイドブック。番組の放送時間帯は木曜23時から30分、月3回のペースで全8回となる予定。
第1シリーズ全12回はNHK教育で放送されたが、その際には続編を想定していなかったという。だが番組の評判がいいので、急遽、続編が企画され、さらに教育から総合へ進出することになったのだそうだ。
こういう話を聞くたび、「評判がいい」って、具体的にはどの程度の評判なのか、と私は気になる。たいていそのあたりはぼかされているのだけれども、この本には具体的な記述があった。
最終回を終えたあと、視聴者の方々から300通を越えるメールをいただきました。そのほとんどが、第2シリーズの要望でした。
NHK教育は、NHKの公共放送らしさを背負って立つ部門で、単純に視聴率の獲得を目指すことはなく、テキストとたくさん売ること自体を目標とするわけでもない。漠然とした「視聴者の反響」がスタッフの心の支えになるんだけど、砂漠に水をまくような状態なのだとNHKの方に聞いたことがある。
「たった」300通のメールが30人近いスタッフを数ヶ月間仕事に向かわせたと知って、なるほど、あの話は本当だったんだな……と思った。
既に2回分の放送が済んでいますが、今ならまだNHKオンデマンドで第1回、第2回を視聴できますよ。
ちなみに、第2シリーズのガイドブックは、本編が12回から8回に減ったのにページ数は第1シリーズのガイドブックと同じ。これは第1シリーズの復習が入っているため。なるほど親切だな、とは思うけれど、もし第3シリーズが製作されたら、ガイドブックはどうなるんだろうか。
リンク先は、ただのきっかけ。以下、あまり関係ない話を少し。
変な新聞記事を槍玉に挙げて「マスゴミ」とかいって喜んでいる人をネットではよく見かけるけれども、1時間新聞を読むのと、1時間ネットニュースを読むのを比較したら、前者の方が効率がいいことは明らか。明らかなのに、その事実に気付かない。
例えば、羽田空港に国際線を増やす話題。新聞をきちんと読んでいた人は、1年半前の時点で、昼3万回、夜3万回という具体的な数字付きで政府の方針を知ることができた。政治経済のニュースに少し関心のある方なら、「骨太の方針」という言葉は聞いたことがあると思う。その2008年版に、羽田の国際線増加が入っている。
テレビニュースは情報量がものすごく少ないから、ひょっとすると、このことを報じていなかったかもしれない。でも新聞は、ちゃんと書いていた。だから、この件で前原国土交通大臣を叩くのも、民主党攻撃の材料にするのもおかしな話なわけ。政権交代のたびに何でもかんでも見直すわけじゃないんだ。
国際線の需要がますます増えるのに成田は満杯。となれば羽田に国際線を増やす他ない。結果的に利便性も高まるよね、というシンプルな話。誰もが納得することだから、政権が変わっても見直しの対象とはならなかった。
ちなみに千葉県は、閣議決定された骨太の方針に対して、意見書を提出している。これも新聞は報じていた。
「知らなかった」というのはいいよ。それはあなたの勝手だから。私が気に入らないのは、自分が新聞を読んでいないだけなのに、「大切なことを報じないマスゴミ」と侮辱する人がいることだ。「紙の新聞がなくても困っていない」実際そうなんでしょう。ただね、自分が何を捨てたのか、一度は謙虚に見つめてほしい。
軽佻浮薄に自分の知りたい情報ばっかり追いかけておきながら、もう手遅れみたいな段階になって「なぜ教えてくれなかった!?」と怒り出す人が多すぎやしないか。まあね、紙の新聞を購読していたって、みんなろくに読んでいなかったんでしょうよ。
「政府の発表を右から左へ流すだけのマスゴミ」とかいうけれど、じゃあ新聞を読むのをやめて、自分で毎日、省庁の発表をチェックしてみろってんだ。そんなこと、一般人にはできやしない。やってないでしょ、実際。国民が一次情報にアクセスできるようになったって、「だから新聞は要らない」わけがない。
ところが庶民様は「要らない」という。図書館へ行って自習すればいいんだから学校なんて要らない、という類の寝言を平気で口にする。そりゃ「学校なんて要らない」人もいるでしょうよ。でもたいていの人は、授業中は寝てるにせよ、学校がなかったら、ろくに勉強しないじゃないか。
新聞だって同じだよ。1年、2年と、きちんと読み続けたなら、新聞の存在意義は自ずとわかる。その上で、(新聞が扱うようなテーマについて)自分にこれほど多くの情報は必要ない、と思うなら、捨てたっていいさ。ともかく、端っから読みもしないで、バカにするなといいたいよ。
今ある新聞に不満のない読者はいないだろう。でもさ、みなさんの仰るとおり「報道機関として失格」だとしてもだよ、「だからこんな新聞は要らない」ということはないんだけどなあ……。
ゲームのレビューとかでも、ひとつふたつ気に入らないことがあるからといって全部を否定するような意見が、ずいぶん多いんだよね。どこかに完璧な代替物があるなら、酷評とセットでそれを紹介してほしいんだけど。
それって今年の流行語なの? という言葉が多いな。これはたしかに今年の流行だ、と思えるのは「どうしてこうなった」かな、個人的には。
2007年の「ゆとり」と「スイーツ(笑)」は息の長い流行語。2008年にブレークした「メシウマ」も定着した感じ。
まあ、具体的なメリットがあったことから、いったん定着したかのように思われたルーズソックスが、再び廃れていった例もあることだし、1年や2年で「定着した」なんて本当はいえないんだけど。ていうか、くるぶしの標準的な造形を何となく醜く感じるセンスって、そもそもどこから生まれたんだろう……。
今年もやるのかな。個人的には楽しみにしていたりする。
海外のことはわからないが、日本語のネットで流行する言葉って、何かしら他人や物事を揶揄するときに便利な言葉が多い。そうしてひとをバカにする空気が作られ、また大勢を感化していく。
マスコミの報道をひどいひどいという人は多いが、平均的なところを見れば、ネットよりはまだマシ。Yahoo!ニュースのコメント欄を見ればわかる。ひどいニュースに、その10倍ひどいコメントがついて高い評価を集めている。
しかし嘆いていても仕方ない。地道にコツコツと、世に訴えていくしかないな。
DELLのサイトでマイクロソフトをマイクソソフトと誤記していた、という話題。
えっ!? と思って確認してみると、14日夕刻の時点で、たしかにそうなっていた。9月16日のウェブ魚拓があって、少なくとも1ヶ月は放置されていたようだ。
検索してみると、3つの商品名が間違っていたので、全部DELLに連絡した。15日午後に確認したら、もう直ってた。平日だし、1日経てば直ってるよな、そりゃ……とは思った。逆に考えてみると、1万人以上が人のミスを笑いものにするだけで満足して、これまで誰もDELLに連絡しなかったわけだよな。冷たい社会だな。
しかしまあ、あれだ。ネットをやってると、意外と自分は個性的な存在なんだということを実感させられるな。この文章を読んでる方も、時々でいいから、ちょっと何かしてみるといいと思う。
コメント欄に投稿した内容を採録。
私は2歳から22歳まで成田で過ごしましたが、小林攻さんが選挙でなかなか勝てなかった背景には、ニュータウンを地盤としていたことが挙げられます。最初に負けた長谷川さんは門前町の名士、次に負けた小川さんも昔馴染み。4度目の挑戦の対抗馬がまた門前町の名士で、小林劣勢の報もありました。
成田は空港によって大発展を遂げ、市議会で反対派は常に圧倒的な少数派であり続けましたが、人口の過半を占めるニュータウンの住人たちは選挙であまり存在感がありませんでした。町内会長やPTA会長などの名誉職を元地主の原住民が抑え、町内会や学校を通じてよそ者の地元民化が着々と進みました。小林さんは日航系各社の強力な支援を受けましたが、全日空系の動きは鈍く、また奥様方はよりつながりの深いPTA系の動向に左右されていたと記憶しています。
小林さんがようやく勝ったのは、公津の杜開発などもどうにか進む中、さすがに新住民が一定の勢力になったのかな、と。いつの間にか、市議会議員にも新住民がずいぶん増えましたよね。
小川さんの大合併案は騒音地帯を全部成田に組み込み、長らく負担だけ押し付けてきた町村に利益の配分をするという「道徳的に正しい提案」と受け止められていましたが、周辺市町村に「対等合併」を求める声があり、果ては新市名が成田では嫌だという話も出てきました。「吸収合併」をイメージしていた成田市民に不快感が広がりました。
お金の話は最初からわかっていたことで、それが問題なら何年も話し合う必要はなかったのです。成田と周辺町村で住人の声を聞く催しが何度も行われる中で、「膝を屈して頼まれれば合併してやってもいい」という成田市民の傲慢と周辺町村住民のプライドの不整合が明らかとなりました。合併協議は暗礁に乗り上げ、市議会での否決に至りますが、それは市民の意思に他なりませんでした。
小川さんはたしかに反対闘争に深く関わった方ですが、暴力闘争の支持者ではなかったし、政府のやり方は強引で、補償は過少だから、現行路線の延長上の空港建設には反対である、というのが基本的な主張でした。なので、空港なしでは市政が立ち行かないところまで来た時点で小川さんを市長にしたのは、人々の知恵だったんですね。いまさら筋論で廃港を言い出すことはありえない以上、よりよい方向へ軌道修正して「正しく」空港建設を推進されるだろう、という読み。結果はまあ、微妙でしたけど。
件の大合併案は、倫理的な主張の好きな小川さんらしいもので、賛成反対は別として「なるほどなあ」という感想があちこちで聞かれたものでした。
あ、レスポンスありがとうございます。両親は今も成田に暮らしております。 先般の小合併ですが、下総・大栄ともに人口が少なく、次期選挙までの短期間の存在感かと思います。2市4町案が1市2町案へ縮小された時点で予想されたことながら、成田市民の生活に合併の影響はほとんど何も見られません。
2度の合併話で市民は疲れ、もうこりごりみたいな雰囲気もあります。
足立さんは毎日のように日記を書いていらっしゃるので、興味がありましたらどうぞ。12月7日の日記は面白いですよ。
過去は過去としまして、私の知る足立さんは気のいいおばちゃん。大勢の中の一人である限りは、市民に益する議員さんだと思います。結構そのあたり、市民はしたたかですね。
腰砕けといえばそうですが、打診などされそうもない人以外で、収容委員になりたいと公言していた人がいたという話を私は知りません。それなりに社会的信用のある人でないと、ふつうは任命されないものと聞いています。父の知る元企業経営者氏は非公式の打診を断ったそうです。
飲み屋で強気なことをいうのと、現実の打診にイエスと回答するのとでは話が違います。県庁の努力次第で16年が数年短くはなったのかもしれませんが、10年くらいの時間は必要だったのではないかと思っています。誰かがやらなきゃ困るけど、仮にうちのお父さんがなるといったら絶対に反対するし、どこの家でもみんなそうだと思う、と母も話していました。
千葉県民がどんな手を使ってでも収用委員会を再建するような知事を選ばずにきたのは、こうした世論あってのことだと思います。
レスポンスありがとうございます。
再建された収用委員に就任された方のお話も聞いてみたいです。家族をどう説得したか、など。本人が襲われる他、家が放火される事件もたくさんあったので、当人の意思だけでは就任は難しかったのではないかと思うのです。幸い、再建後に大きな事件はなく、ホッとしています。
あと、くぼたさんは堂本知事を貶していますが、ともかく遅くなったとはいえ収用委員会を再建したわけで、前任者にできなかった決断をしたのではないでしょうか。2001年に当選して2004年に再建。就任当初から再建の準備を進めてきたのでは? と思います。それで馬鹿チンといわれてしまうのでは、かわいそうです。
市長会、町村長回の要望の件ですが、今はどうだか知りませんが、昔、成田市の小川市長にはいつもボディーガードがついていました。収用委員長が襲われたときにはボディーガードがついていなかったようです。そういう差もあるような気がします。
私は技術者なので、ビックサイトや幕張メッセで開催される技術展示会によく行くのですが、いまだにセクシーな服装のコンパニオンをたくさん動員している会社があります。女性技術者も増えているのに、これで宣伝になるのかなあ、と疑問に思っています。
私の勤務先のブースでも派遣さんを使ったりしていますが、ふつうのスーツ姿です。パンツスーツも当たり前になりました。そんなわけで、もはや派遣である必要はありません。人員の都合とか、そういった意味だけになってきてます。
他社のブースで、ときどき社員と思しき人(技術的な質問に臨機応変にズバズバ答えてくれるので、そう判断)が、妙にセクシーな服装をさせられているのを見ることがあり、いいのかなあ、と心配になります。
ここ数年、コンプライアンス強化で接待が(するのもされるのも)ほとんど撲滅されました。贈り物もしないし受け取らないことになってます。でもたまにチェックを通り抜けて席まで届くものがあるのですが、取引先からヌードカレンダーが送られてきたときにはびっくりしました。いまどき、かえって顧客を無くすような気がします。
新聞などで叩かれて大企業がどんどんクリーンになっている一方、中小企業には30年前、40年前から変わらない感覚でやっているところがまだまだたくさんあるようです。
私は学生の頃までは、大企業=巨悪の温床、中小企業=庶民の善性が宿る、みたいなイメージを持っていましたが、アルバイトしてみると中小企業ほどひどい。法律とかマナーとか、非常にいい加減に扱っていることが多い。どうして中小企業が新聞などであまり叩かれないのか不思議です。
ミニの制服が復活したら航空会社ではセクハラ反発があるかもしれませんが、中小企業の社員は、「その程度のことで何を騒いでいるのか」と感じるに違いありません。技術展示会には、お辞儀するとスカート裾の後ろ側が上がって下着(のように見えるもの)がチラッと出てしまう超ミニを着ている方さえいます。
いくらなんでもこれは……と思ったが、会社の同僚は「うちの会社は、もっとフォーマルな服装を選択する。どっちの信念が正しいかは、商売で決着をつければいい」と素っ気なくも二枚目な発言。でも実際のところ、説明員の服装で取引先を決めたなんて話はない。「商売で決着」なんて空文ではないか?
とはいえ、私自身、立ち位置が微妙なので、歯切れのいい提案はできない。
女子高生が自分の意思でスカートを短くするような自発的な行為なら、目くじら立てるつもりはないのだけれど、本当は嫌だと思っているならよくないな……と思う、みたいな。
もう少し踏み込むと、仮に自発的だとしても、男性社員がみなふつうのスーツ姿なのに、どうして女性社員だけ? という疑問は残る。セクシーな容姿、立ち居振る舞いを売りにする男性コンパニオンも、あまり見かけない。ルールの面では男女平等になったとしても、文化の壁は高く厚いと感じる。
いま話題の、レンズのない虫眼鏡のような形状の扇風機。私の知りたいことが書かれていない。いつまで経っても出てこないような気もする。
この扇風機は、軸にモーターとファンを仕込み、軸のスリットから吸気し、リング状の上部構造に設けられた円形のスリットから排気する仕組みになっている。この排気によってリングの表裏に気圧差が生じ、何もないリングの中央に空気の流れが生じる。
見た目がおもしろいという以上のメリットは、正直あまりないと思う。330ドルという価格もすごい。
個人的に、ダイソンの宣伝手法には疑問を感じている。例えば掃除機。ダイソンの掃除機は吸引力が落ちないことを売りにしているが、じつは最初から吸引力が低い。今回の扇風機の売り文句にも、消費者の誤解を誘う記述があり、不誠実だと思う。
Dysonの技術は流体力学を利用した独自の技術で空気の流れを15倍に増幅し、毎秒119ガロンの空気をスムーズに流すという。
15倍に増幅
というあたりにピクッとくるのは私だけだろうか……。
世の中に「効率」が「100%を越える」家電はある。エアコン暖房とかね。あれは大気中の熱を集める仕事の効率を、自分で熱を作り出す場合と比較することで、「100%を越える」といっている。使用者にとっては部屋が暖まればそれでいいわけで、この比較は有意義だと思う。
しかしこれはどうだろう。この科学っぽい言葉遣いでもって消費者に何を訴えたいのか、サッパリわからない。もしこれで「高効率」のイメージを売り込もうとしているなら、首を傾げる。
ダイソンの扇風機と同じ原理で圧縮空気から大きな風量を得るノズル(工場などで使われている)などの場合、ふつうは風量の倍率をいう。直感的な説明をすれば、圧力を風量に変換するわけだ。元の圧力が高く、ノズルの前後に流れを邪魔するものがなければ、風量が50倍にもなるノズルが長年使用されている。
ようするに、ダイソンの15倍という数字だけでは、評価のしようがないわけだ。シンプルに「最終的に得られる風量・風速と消費電力の比」を比較してほしいところ。都合の悪いことは黙っておくのが広報なので、それは仕方ないのだが、報道にはプレスリリースの抜粋に加えて商品選択の参考になる情報を期待している。
……まあ、でも、価格が価格なので、どうせ私は買わないな。それは他の人も同じだろう。まじめに取材しても元が取れないよな、とは思う。
やっぱりね……。
千葉県知事の森田健作さんと国土交通大臣の前原誠司さんが会談し、森田さんが矛を収めたという報道があった。
朝のテレビ番組に森田さんが電話で登場していた。一番重要なのは利用者の利便性なので、羽田に国際線、成田に国内線が増えるのは歓迎だという。成田は24時間空港ではないから、成田だけで全ての国際線需要を引き受けるのは不可能。まずは夜間便から羽田の国際線を増やしていくのが妥当、とのこと。
森田さんの基本的な主張は、昔から変わらない。森田さんが前原さんに迫ったのは、「利便性の向上と地元への配慮を調整せよ」ということ。羽田と成田が単純に競争すれば、必ず羽田が勝つ。優良路線がみんな羽田へいってしまう。それでは北総の苦難が浮かばれない。
じつは、前原さんはもともと、羽田の「増枠分」の扱いに政策の的を絞っていた。だから、両者はすんなり合意に至る。内際分離の原則は守りつつ(=今ある路線には基本的に手を付けず)、今後の増枠分については、利用者の利便性を重視して国内線・国際線の配分を決めましょう、というわけ。
「現在、成田にある国際線は減らさない」ならば、成田空港の地位は低下しない。B滑走路の延長で成田に増える枠を国内線に回せば、成田はますます発展し、利便性も高まる。森田さんは、前原発言にタイミングよく反応し、すぐに会談して、ほしい言質を取った。きちんと仕事をしたわけだ。
テレビ番組では、スタジオのキャスターとコメンテーターが「内際分離が不徹底では地元の不安が解消されない」と「やっぱり羽田の方が便利でしょ。成田なんかもうダメだよね」の両極端から森田さんをいじめていた。
いい加減にしろよ、と私は怒った。そこまで単純に割り切らなきゃ「視聴者にはわかりにくい」のか。「わかりやすい」番組でないと視聴率が取れない。だからテレビで啓蒙なんて無理なんだ。そういう理屈はわかる。わかるが、悲しい。
ブログ検索をすると、ディレクターの判断の正しさがよくわかる。「そこまで単純」以前の段階という方が、ものすごくたくさんいる。現状の報道番組の構成さえ、視聴者の理解を超える水準となっているようなのだ。頭がクラクラする。
石原都知事は横田空域の返還のため努力を重ね、少しずつ成果を勝ち取ってきた。前千葉県知事の堂本暁子さんは、ついに収用委員会を再建した。これは命がけの決断であった。千葉県のインフラ整備は、切り札を再び手にした。みんな頑張ってきたのだ。結果には不満でも、頑張ってきたことまで全否定しないでほしい。
……。朝の番組でも、一番重要なのは利便性だといっていた。でも、人の関わることだから、地元の不安に配慮しなければ、政治的に空港の維持・運営はできない。それだけの話ですよ。言葉の端を捉えて矛盾だの変節だのというのは有意義ではない。
ところで、前原さんをバカ呼ばわりする意見も方々で目にしたが、前原発言は自民党政権下で策定されたスケジュールに沿って台本を読んだもの。「民主党のマニフェストにそんなことは書いてなかった」のは当然だ。マニフェストに、「変えない」ことはいちいち書かない。
簡単に経緯を書くと、福田康夫内閣が2008年5月に「首都圏空港(成田・羽田)における国際航空機能拡充プラン」を策定し、同年6月に「経済財政改革の基本方針2008」に組み込んで閣議決定したわけだ。この決定に基づき、国土交通省の交通政策審議会航空分科会は3ヶ月の集中討議を経て、麻生太郎内閣に変わった2008年12月24日に答申「空港の設置及び管理に関する基本方針」を策定する。続いて2009年6月19日、特設の懇談会は3ヶ月の集中討議を経て、拡充プランの具体化方策の中間取りまとめを発表した。
約1年半、ずーっと変わらないのが、「羽田に国際線を増やす」ということ。2008年5月の段階で、昼3万回、夜3万回増やす、という具体的な方針が明記されている。そして千葉県は、この国の方針に対して、何度も意見を提出してきた。前原発言が「寝耳に水」のわけがない。
大臣発言に知事が反発し、即座に手打ち。政治家がこんな茶番劇を演じるのは、国民がバカだからだ。審議会などが答申を出すたび、新聞はちゃんと報道している。なのに、ほとんどの人が読んでいない。みんな1日1時間くらい新聞を読んだらいいのに。
大臣と知事が喧嘩をしてみせて、ようやく国民はちょっとだけ関心を示す。でもまたすぐに、忘れてしまうだろう。今後もたびたび、国民へ政府方針を周知徹底するため(だけ)に、騒動は繰り返されるだろう。そうして政治家の時間を浪費させておいて「改革が遅い」なんて文句をいうのだから、みんな勝手すぎる。
羽田空港を乗り継ぎに便利な国際空港にしたいと前原誠司国土交通大臣が発言した話題に関連して、「成田と羽田の空港着陸料を引き下げるべき」という意見をいくつも目にした。私には異論がある。
成田も羽田も、ずーっと満杯状態が続いている。それゆえ、発着枠に余裕ができるのを、多くの航空会社が待ち望んでいる状態だ。常識的に考えれば、成田と羽田の着陸料は、空き枠待ちがゼロになる水準まで引き上げるべきである。逆に枠が余っている空港は、どんどん料金を下げていくべきだ。
人気のある空港は、ガンガン儲けるのが正しい。そうすれば、農家や漁協への十分な補償が可能となり、いずれ再拡張の目途も立つ。同時に、「多少は不便でも、これだけ値段に差があるなら中部国際空港や関西空港でいいや」と需要を分散することも可能になる。
大臣は横田空域の一部返還と羽田の拡張で増える発着枠の半分を国際線に割り当てたいと述べただけだが、世間では韓国の仁川や香港を引き合いに出して「国際ハブ空港を目指せ」と煽る人がたくさんいる。中身のない主張だと私は思う。
繰り返すが、羽田も成田も人気のある空港で、発着枠は常に埋まっている。今ある需要に応えることすらできないのに、どうして「もっと需要を増やせ」というのか。挙句に「着陸料を下げろ」だ。わけがわからない。価格による調整を行わなければ、恣意的な規制がまかり通る。不合理が温存される。
公共交通機関には高い外部経済性があるが、それを口実にして、あまりにも計画経済の発想が入り込みすぎるきらいがある。本来ならば、外部経済を料金に反映する工夫をして、調整は市場に委ねるべきなんだ。
羽田が国際ハブ空港になって得するのは誰か。受益者がお金を出しあって空港整備と着陸料減額を実施するなら、文句はない。しかし現実はどうか。(誤字修正 2009-10-15)
「オープンスカイ」推進で、ようやく人気路線の増便が自由になるこの機会に、不人気路線の整理と着陸料の決定も市場に任せる改革を進めるべきだ。そうすれば自然と、「着陸料が安くマイナーな海外便に強いセントレア」「料金は高いけどビジネス路線が充実している羽田」といった棲み分けが生まれるだろう。
羽田や成田が、アメリカの巨大空港や、とっくの昔に地代などを償却した欧州の古い空港を真似する必要はない。前段に書いたのはひとつの予想にすぎない。本当の最適解は、きっと市場が教えてくれるよ。
「好ましくない傾向がある」という意味。たびたび「意味がわからない」といわれることがあり、これまでブログでは他の言葉で置き換えることが多かったのですが、個人的には好きな言い回しです。
空港周辺を地盤とする自民党の前衆議院議員、水野賢一さんの意見。
空港管理会社の利益はまず地元対策に用いるべきで、それでも余るなら着陸料を引き下げるのが正しく、関西空港の維持に用いるのは妥当ではない、という。
私はもちろん、この意見に反対である。成田の着陸料は「安い」のだ。もし「高い」とすれば、多くの航空会社が成田への乗り入れを希求し、関空のキャパシティーに余裕があることの説明がつかない。
いつ空くかわからない成田を待つ機会損失を厭わないのだから、成田と関空の着陸料の差は、魅力の差を埋めるには全く足りないことを意味する。まず成田空港は着陸料を値上げし、実現可能な最大の利益を得ることだ。ただそれだけでも、割安感から関空の需要が増え、航空需給のバランスは改善されるだろう。
中・長期的には成田の拡張が考えられる。大きな需要があるのだから、供給を増やすのが真っ当な対応だ。しかし「成田空港の拡張には兆円単位の資金を要し、いくら着陸料を上げても足りない」かもしれない。
もしそうならば、成田の利益を用いて、現在は人気のない空港の魅力を上げる手もあるだろう。関空の増資を成田が引き受けて大株主となり、関空へのアクセスを充実するのも一手だと思う。損失の補填ではインセンティブにならないが、投資となれば物の見方が変わってくる。
大切なのは、日本全体で航空需要をうまく捌くことだ。そのために、受益者からはきちんとお代をいただき、発展させられる空港を発展させ、需要の偏りを分散する……みなが自然にそうした行動を取るような社会の構築が求められる。
供給過少の状況で成田が値下げをすれば、たしかに成田は安泰だろう。内際分離で羽田との競争を回避すれば、関空もセントレアも敵ではない。しかしそれは「細く長く事業を継続して、自分の仕事さえなくならなければそれでいい」という消極的な市場独占志向であり、社会の利益の最大化とは相反する発想だ。
なぜそれがいけないかといえば、満たされない航空需要を放置して日本経済の発展を阻害しても、関空が倒れて何万人が職を失っても、成田空港周辺で暮らす自分たちには関係ないもんね、というのと同じだからだ。既得権益を固守することに血道を上げて、他人の不利益を気にしない、それで通用するのが独占の悪である。
独占といえば価格を上げる方ばかり例示されることが多いが、とくに公共性のある分野では、社会的な圧力による不当廉売の恒常化によって、その分野の発展をも殺してしまう事例が少なくない。足るを知る当人たちはそれでいいのだろうが、不満を抱えた周辺の人々にとっては堪ったものではない。
埼京線が安すぎるから私鉄が新規参入できず、殺人的な混雑が解決されないのは、典型的な独占の害といってよい。もし日本が、JRがガンガン利益を追求することを許容する社会だったなら、とっくの昔に供給拡大競争が起きて混雑は緩和されていただろう。
道路公団もそうだが、「儲けすぎたら価格を下げろ」と強制されるような民営化はダメである。儲けすぎがなければ新規参入もない。規制を緩和し、果敢な利益の追求を目指してこそ、羽田と成田の利便性は上がり、関空は復活し、セントレアも存在感を増すことになるのだ。
今も実家は成田市にあって、父は機内食メーカーに30年近く勤めていた。そんな私の見解としては、羽田空港を本格的に国際空港として発展させようという話は、決して「寝耳に水」ではない。
本稿の趣旨は旧稿と同じだが、この機会に再論したい。
そもそも羽田空港の拡張が断念されたのは、米軍が管制する横田空域が背後に迫っているという物理的な制約があったためだ。ルール上は、米軍と協議すれば横田空域を民間機が飛べる決まりだったが、臨機応変に自由なコース設定ができないということは、つまり「使えない」ことを意味する。
当然、新空港も海上に作るのが良いに決まっている。だから東京湾内で何とかならないか、というので木更津沖などが考えられた。しかし横田空域の制約は厳しく、十分な発着回数を実現しうる場所となると、相当に東まで逃げなければならないということになった。そこで、霞ヶ浦や富里といった案が有力となり、紆余曲折を経て成田に空港が建設されるに至った。
成田市民は、計画発表後しばらくは激しく反発したものの、いったん本決まりになれば、市長選挙でも、市議会議員選挙でも、建設推進派が勝ち続けた。ことに空港の建設が進んでニュータウンが作られ、人口が増えてからは、建設反対派はほぼ一掃されてしまった。
これにはカラクリがあった。成田山新勝寺の門前町として栄えた旧来の市街地上空は飛行コースから外れており、ときどき遠くでゴォンと鳴っているだけ。それで街が潤うのだから、賛成するに決まっていた。
空港で働く人とその家族が暮らすニュータウンもまた、静かな場所に建設された。職場に到着すれば、完全防音の建物の中で仕事をするのだから、通勤中くらいしか騒音を体感しない。他人の痛みは、なかなかわからない。空港労働者だけでなく、その家族もまた、空港建設反対派に与することは稀だった。
これに対して、空港が建設された三里塚は人口密度が低く、また開拓民が多かったこともあり、伝統的市街地の出身者が大きな存在感を持つ市政とは、縁遠かった。この絶望感が、暴力闘争の背景にはある。
また、太平洋から空港に至るコース直下の市町村は、ただうるさいだけでろくに補助金をもらえない。とくに芝山は飛行機がいよいよ着陸するという場所にあったので、悲惨である。芝山町長が長らく空港反対派だったことに何の不思議もない。
同様に、東京-成田間を直線で結ぶ成田新幹線の建設も、頓挫した。通過されるだけの市町村は、騒音だけもらっても少しも嬉しくない。
……かくて成田空港は、東京から遠く、滑走路が1本しかなく、夜間は使えない、きわめて不便な空港としてスタートすることになった。
石原慎太郎さんは1999年、横田基地の返還を訴えて東京都知事に当選した。石原さんは福田赳夫内閣の一員として成田空港開港に尽力し、後には運輸大臣を務めてターミナル地下への鉄道乗り入れを実現した方で、日本の航空問題を一挙解決するには横田返還しかないことを熟知していた。
実際には、派手なことは何も起きなかった。石原都知事もトーンダウンした。しかし、横田空域の返還は、少しずつ進んできた。羽田空港の拡張は、横田空域の返還と軌を一にしている。
一方、成田空港の経済効果は数十年の間に拡大・浸透し、空港周辺の市町村にとって、今や空港は「なくてはならない存在」となった。千葉県と空港周辺市町村にとって、羽田空港が際限なく拡張されていくことは、脅威である。空港を維持するだけなら貨物専用空港と化しても問題はないが、それでは経済を維持できない。
かくて平行滑走路の建設・延伸と成田新高速鉄道の建設が進むことになった。
横田空域が完全に民間開放される日は遠い。その実現には多大なエネルギーと時間を要するだろう。首都圏の航空需給が逼迫した状態が続く間に利便性を十分に高めることができれば、成田空港は安泰だ。
あるいは、羽田の物理的な拡張も「ひとまず限界」といわれる。日本経済がいい加減にデフレと縁を切って実質年率2%の「当たり前」の成長(ここでは1人あたりのGDPを想定)を実現するならば、横田空域がどうあれ、成田の必要性は揺らがない。
だから本来ならば焦る必要なんかないのだが、この国の金融政策はヘンなので、いずれ人口減少率(様々な推計があるが最大で年率1.2%程度の減少)を相殺できない水準まで、1人あたり経済成長率が落ち込みかねない。そうなると、限られた航空需要を2空港で奪い合う、つらい戦いになる。
大臣は首都圏の航空需要が飽和するとは考えていないのだろう。しかしそのためには、民主党がマクロ経済政策に成功し、首都圏の航空需要が現状以上の水準を維持し続けることが条件になる。
ともあれ、羽田の国際拠点空港化は以前から出ていた意見だし、今回の大臣発言も「決定しました」ではなく持論の表明。これを「寝耳に水」と非難されたら誰も何もいえない。少しずつ成田に国内線が増えて、意外と地元民も喜んだ。やはり羽田:国内線、成田:国際線という棲み分けは不合理だと、みなわかっている。
成田が維持されるなら、羽田が国際線を増やしても、地元に異論はないはずだ。成田だって、本当はもっと国内線がほしい。強烈な反発の原因は、経済の先行き不安、すなわち航空需要減少の予想にある。やはり経済成長が課題なのである。
本来は滑走路5本の大空港を作るはずが、いまだに成田は1.5本止まり。だから石原さんは横田空域を開放して羽田を拡張しようとした。しかし羽田をフル活用しても現在の航空需要は満たせない。国際拠点空港を目指すならなおさらだ。ゆえに経済成長が続いて航空需要が維持される限り、成田の必要性は微動だにしない。
私もいろいろ読んだけれど、成田空港問題については、この本がベストだと思う。私の記事は個人的な興味を前面に出して偏っているので、ぜひこちらを参照してバランスをとっていただきたい。
九十九式が更新再開!(2009-10-01)で書いたことについて宮本さんからレスポンスが。
本当に読みたいのは「興味のある書き手が関心のある記事」を書いているブログなんじゃないでしょうか。
僕のブログ運営は時事ブログとそれ以外の二つ。分けすぎても良くない。これは例えばドラゴンボールで言うと、1人のナメック星人から、神とピッコロ大魔王という2つの人格が表れたように、どちらも僕のブログですが、その属性が違います。(とすると、いずれまた融合して一つになるのかも知れませんが)
これはたしかにその通りだと思う。
ただ、宮本さんくらいの書き手になると、「軽い話題をジャンルを気にせず書く場所」の方にも、いずれかの話題のファンがつくという問題が生じてきて、「やっぱりこれは別ブログの方がいいかな……」となりがちなんですよね。きりがない。きりがないから、とりあえず2つにする、と。
自分の中に「とりあえず2つ」というような、一定の基準を持てるようになったことが、試行錯誤の成果なのでしょうね。それは以前の判断と形式的には同じかもしれないけれど、かつては確信のない話だったものが、今は自分の中でそれなりに裏付けがある。
たぶん、宮本さんは、はてなブックマークは平行して稼動し続けるのでしょう。ブログと平行して継続できること、できないことの見極めも、経験がないと難しいですよね。人によっては3つでも4つでも並行してブログを更新し続けることができたりするわけで、最初から挑戦しないというのも、もったいないですし。
ちなみに私の場合は、平行して2つのブログを書くのは「無理しないと不可能」と体験的に確信しました。twitterすらブログと平行しての更新は困難でした。それで、「趣味のWebデザイン」とかいいつつ、何年もほとんどその手のことを書いてないじゃないか、みたいな内なる声のツッコミは無視して、ここで続けてます。
それでも「書きにくいこと」はあるんですよね。1行記事とか、リンクだけ、とか。たびたび書いてきたように、「投稿が面倒くさい」というのが一番大きい理由なのですが、経験的に全く無反応と決まっていることも小さな要因だと思う。RSSリーダーとかで更新チェックしてる人がガッカリしそう……みたいな。
1ヶ月くらい、毎日更新だって!? 応援のつもりで、ここも毎日更新してみようかな。とくに話題はないんだけど、よくよく考えてみると、私の場合、書きたいことがあって書いてたんじゃなくて、まず自分に何か書かせてみて、それを読んで面白がってたのが原点なんですよね。とりあえず1週間、更新してみるつもり。
昔、おはら汁のおはらさんに初めて会ったとき、「徳保さんてもっと怖い人かと思ってました」というようなことをいわれたと思う。私が「千人祈」に冷笑的で、「イラク戦争やむなし」という立場だったから、非戦系の平和主義者に「怖い人」と認識されるのは当然だと思いました。
が、顔見知りになった縁で巡回先に入れたおはらさんのブログをしばらく読むうち、「うわー、こんな恐ろしい人だったのか」と思って、私はおはらさんのサイトに近づかなくなりました。詳しく書かないけど、「敵」を攻撃するときにサクッと持ち出す怪情報の数々には唖然。そこに一片の真実があるとすれば、なおのこと「それを書くか」と。
イラクに大量破壊兵器はなくて、アメリカはそれでも正しい戦争だったといっていたけれど、私は深く後悔することになった。今でも「千人祈」の主張には賛同しないけれど、不要な戦争だったという結論は正しかったと思う。
なぜ私は、大量破壊兵器の調査の進展を、もっとゆっくり待つことができなかったのか。サンシャイン60のすぐ隣を通って通勤していた私は、怖かったのだと思う。恐怖心を持つことは正当だとしても、そのために落ち着いた判断ができなかったことは、反省しなければなりません。
私は小心者。恐怖は人の判断を誤らせます。その危険に、私は少し、自覚的になったと思う。
今は社長さんかぁ。何でも屋さんだそうで、扱える業務の一覧がすごい。
宮本さんが更新を再開。嬉しい。
こうしてリンクできるのがブログ形式のいいところで、自分で自分の記事をリンクしやすくしたくてブログを導入したんだけど、それで失われてしまったものは少なくない。ブログ記事の投稿って、私にとってはかなり面倒くさい。あと、いったん公開した記事を消したり、複数の記事を統合したりとかも、面倒くさい。
昔は1〜3行の記事もよく書いていましたが、今は無理。記事のタイトルとアドレスを指定するだけなんだけど、たった3行の記事にいちいちそんなこと考えたくない。それならミニブログとかあるじゃん、って? いやいや、そんなあちこちに顔を出す意欲はないわけですよ。
個人的にはやはり、トップページを随時更新して、前述のような公開後の書き換えや編集が落ち着いたら、過去ログに放り込んでいくやり方が、書きやすい。長文も短文も、何でも放り込んでおけるでしょ。同じページ内の文章なら、切り貼り自在で再編集が楽々だし。ブログでそういうのは敷居が高いから、本当はちょっと何か書いておきたいんだけど、面倒だからいいや……となってる話題がすごく多い。
記事を書いた日付と公開日がズレはじめたことにはいろいろ理由があって、そのひとつがこれ。私の記事には、小見出しをつけて「1.」「2.」「3.」などとしているものがたくさんある。かつてなら、これらは別々の記事として(しかしひとつのHTML文書で)公開していたもの。いったんブログに公開すると、後から手を加えるのが面倒だから、しばらくはローカルで編集を続け、飽きて安定してから公開しよう、と。
でも、そういうことをはじめてみると、なんか違うなあ、と。以前は、アクセス解析経由で記事への反応を見ながら手を加えることが多かった。ローカルに寝かせておいても、あまり面白くない。そのうち、話題自体への関心もなくなっちゃうし、読者の方もそれは同じだろう、と。私には話題設定力がなく、はてブなり何なりで話題になっていることに乗っかるのが基本パターンだから。
つまることろ、私はいっときの感情の高ぶりだけで記事を書いているんですね。記事を公開すると何かしら反応がある。それを見て記事をドンドン書き換えたいが、それは物理的にも面倒だし、私には賛成できない理由で世間から批判もされる。面倒くさい。だから、記事の公開を控える。控えている間に、物言いたい気持ちが冷めてしまう。もはやどうでもよくなり、それきり公開されなかったり、何ヶ月も放置されたり。
以前は下書きファイルにいろいろ書いてたんだけど、結局こんな3行記事は表に出さないよな、だったら下書きする手間もあまり意味がないというかつまらないな、と思うようになり、下書きファイルも次第に寂しい感じに。
はてなダイアリーはいいんだけど、ひとつの話題への関心って1週間くらいは持続するので、1ヶ月ごとにファイルを切り替えるくらいが個人的にはいいペース。1編集画面で1日分の記事をまとめて扱うはてなダイアリーは、1編集画面で1つの記事しか編集できないふつうのブログよりはいいんだけど……。
いまだにこうしてブツブツいってる私と異なり、九十九式は昔からブログ形式で記事を公開してきました。記事の完結性が高かった。だからMTが上陸してブログ旋風が起きた頃「時代が追いついた」感があったんだけど、そうすんなりとはいかないのが世の常。
何だかんだあって、日本最大の日記サービスはmixiになりました。カテゴリ分けもできないシンプルな日記システムが大勢の心を掴んだ。結局のところ、多くの読者が記事を選ぶ最大のポイントは「著者」だったのではあるまいか。(ちなみにmixi日記の読者もROMが大半で、ふつうコメント数は足跡の5%未満のよう)
自分の関心のある分野の記事だけ書いてくれたらいいのに……ブログの常連読者は、しばしばそう思う。しかしよくよく考えてみれば、その専門分野について、もっと上手な書き手はいるだろう。なぜそのブログでなければならないのかといえば、やはり、書き手への興味や好感があるから。
検索エンジンや個人ニュースサイト経由の訪問者の95%は当該の記事しか読まないので、そのブログの専門性の高さなんて気にしない。書き手自身に特定の話題への強い興味があるならいいけれど、そうでもなければ、ブログはごった煮でいいというか、ごった煮じゃなきゃ続かないし、続けば読者は嬉しいのだと思う。
宮本さんはサブでテーマや方向性を絞り込んだブログをいろいろ試してきたけれど、だいたい更新が滞りがち。結果的に書かれた記事の総量を見るに、果たしてメインのブログと分ける意味があったのかどうか。
そうした中、更新がよく続いたのが、「朱雀式」。続いた理由は、割と何でも書ける場所だったからなんじゃないかな。もちろん、憂国というメインテーマの設定もよかったと思う。話題が尽きませんからね。読書とか、ちょっと忙しくなるとネタ切れになるし。
あと、専門性を高めても、読者は必ずしも増えないと私は感じてます。特定のコミュニティに食い込んでいくことで増える読者もいれば、逆に「なんか雰囲気が変わっちゃったなあ……」と離れていく読者もいます。それに、専門性を高めていくと、特定の話題にしか興味がない人と正面衝突することになる。
いろいろなことに興味関心のある書き手は、思うままにごった煮ブログをやってほしいな、と。私自身が朱雀式から離れてしまった一人だから(しばらくIEで表示されなくなった時期に巡回を休止したのがきっかけ)、そう思うのかもしれないけれど。ともあれ、九十九式が続いてくれるといいな、と思ってます。
現在は、さすがに相当な積み重ねのあるブログが上位に並ぶ。テキストサイト全盛の頃は、人気サイトもどんどん消えて(あるいは更新が止まって)いくなあ、と感じたものだけれど。人気ブログは案外、続いてる印象がある。いや、違うかな。続くようなブロガーに私の趣味嗜好が変わっていったのかもしれない。
ギャグ漫画家は作家寿命が短いといわれるけれど、笑えるネタを日々提供して人気を集めるテキストサイトが、そうそう何年も続くわけがなかった、と。「プチ日記」はすごいな。あ、検索してみたら「斬鉄剣」が更新されてる。ビックリした。
相変らず中高生のブログやらリアルやらミニホムペやらプロフィールやらは突然死が頻発しているという。私が「タグ屋」を追いかけていた頃、カウンターが100万を超える人気サイトが続々突然死することに衝撃を受けた。過去の実績を惜しまない刹那主義の暴風に、私は圧倒されていた。