九十九式が復活して毎日更新をはじめたのに触発されて更新を再開したのが先月。間もなく、これまで備忘録が月の始めから最後まで毎日更新されたことはない、と気付きました。10月の日付を遡って記事を埋めてもよかったんですけど、やっぱりそれでは自分が納得できないな、と。
以来40数日、ようやく目標を達成しました。いやー、長かった。ブログを毎日更新したところで、得することなんてない。それでも、ひとつ目標を決めて、それを実現すると、気分爽快ですね。
私の場合、ひとつの記事を書くのに日数がかかります。たまに面白い記事に出会って数時間でギューンと自分の感想などを書き上げられることもありますけど、それは以前から書こう書こうと思っていた話題にうまくつながった場合なんです。たいていの場合、自分の気持ちはもやもやしていて、言葉にならない。
そもそも、どうして私が話題設定力に乏しく、何らかの記事の感想として記事を起こすばかりなのかというと、自分が何を考えているのか、よくわからないからです。「読む」のは、私にとっては霧のような「自分」に向かって「ダーツを投げ続ける」ようなもの。ときどき自分のひと欠片に命中して、壁に固定されます。
じつはそれもまだ言葉ではない。感情の断片です。その断片を掌で転がす内に、言葉に変化することもあれば、そのまま消えてしまうこともあります。
言葉になれば、それを起点に記事を書き始めるわけですけど、途中で目標を見失うと、中断。10月に何か書こうとして中断、11月中にも結局書けず、12月へ先送りになった話題があります。たいていは諦めて消すので、そこまで引っ張りませんけど、ともかく「パッと書いて即日公開」という記事ばかりではありません。
しかしそんなことでは毎日更新は無理なので、今月は苦し紛れの記事をいくつも書きました。
今月いくつか書いた生活の記録みたいな記事は、毎日更新の産物。パソコンに入れてるソフト一覧とか、配線の束ね方とか。こういうのは続かない。
俳優の石丸謙二郎さんの日記。毎日更新されていて、すごいな、と思う。壁ニモ負ケズ 池ニモ負ケズ(2009-11-15)とか、サービス精神にあふれていてすごい。公式サイトでは「off time」という分類になっているブログですが、プロフェッショナルな感じがします。
不景気の影響がいよいよ我が身に降りかかってきて、何か書かずにはいられない。でも、これ以上、同じことを何度も書くのは嫌だな……。来年まで、この話はもう書かないことにしようと思う。
ドル安が進み、アメリカへ輸出して稼ぐ企業の多い日本経済はいよいよ青息吐息。メーカー勤務の会社員として、自分自身の将来不安が次第に現実化しつつあります。先日、入社8年目にして初の年収減が確定しました。3年前の給料に逆戻り。悲しい。気分としては、3年間の積み重ねをゼロ査定されたようなものです。
日銀の経済・物価情勢の展望を読むと、頭がクラクラします。2009年も2010年も2011年もデフレが続くという。「日本銀行としては、わ が国経済が物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰していくことを粘り強く支援していく考え」だそうです。デフレで安定されてはたまらない。海外の物価上昇率はプラスだから、趨勢的に円高は続きます。
自民党政権もデフレ対策には冷淡でしたが(総裁人事こそ揉めたものの、現在の日銀の審議委員はみな自民党が推薦した方々です)、政権奪取前の民主党はもっとひどく、デフレ下で利上げを求めたほど。でも今となっては、野党時代の主張を次々撤回している民主党の「いい加減さ」に期待するしかない。
民主党は日銀の審議委員に宮尾龍蔵さんを推しました。宮尾さんは著書を読む限り金融政策の効果に懐疑的なので、「3年後までデフレが続くのは仕方がない」という意見に同調されそう。最近の金融政策決定会合は総裁・副総裁・審議委員の全員一致が続いています。今こそ中原伸之さんのようなハト派(=金融緩和派)の闘士が必要なのに……。
残念です。民主党政権は金融政策でも君子豹変してほしい!
円高ということで、為替介入をするかしないかが話題になっています。でも、為替の変動は金融政策の反映なので、為替介入それ自体にはあまり意味がありません。
ごく単純に考えてみてください。いま日本は需要不足によるデフレを放置しているので、100円で買えるモノが毎日少しずつ増えています。逆にアメリカは大胆な金融政策で緩やかなインフレを何とか維持しており、1ドルで買えるモノが少しずつ減っています。……となれば、円高にならない方が不思議です。
ただし、円で買えるのは、ほぼ日本国内で買えるモノやサービスに限られています。円を売買する人々にとって、円で買えるものの価値がデフレを上回る勢いで下がれば、デフレと円安が同時に起きます。
多くのサービスは非貿易財です。天然資源の他に売り物のないアフリカの某国で散髪が100円でも、そのために某国へ行く外国人はいません。だから某国でデフレが起きて散髪料が90円になっても、某国の通貨の人気は上がりません。そして某国の鉱山が掘り尽くされたなら、某国の通貨は諸外国の需要を失い、安くなります。
このように、インフレだから通貨安、デフレだから通貨高、と単純にはいえませんが、それでも基本的には物価上昇率の違いが長期的な為替の傾向として現れるのです。
たいへんなデフレ下、日銀は何もしない。ならば政府が、単独で金融緩和に踏み出してほしい。例えば造幣局が1兆円硬貨を数百枚発行して日銀に預け入れ、その口座から満期になった国債を「緩やかなインフレが実現されるまで」どんどん償還するのです。こうして借換債がゼロになれば、市場に約100兆円が残ります。
「政府貨幣による国債の償還は手段であり、物価の安定が目標である」という政府の説明と、日銀の「物価が異常な上昇を示したら即座に利上げで対抗する」という宣言があれば、「租税によらない国債の償還それ自体が通貨への信認を崩壊させることはない」と私は考えます。
「国債に流れるのは安全資金。償還しても実物投資や消費に回るお金は僅か。だから増税で消費を抑制して国債を償還するのはバカバカしい」という意見は全くその通りだと思う。でも政府貨幣で償還するなら問題はない。むしろ緩やかなインフレの実現までに国債残高を劇的に減らせる可能性に期待できます。
デフレが解消され、国債残高が減り、円安になれば、次第に消費は増え、景気が回復し、将来不安も減少するでしょう。「ある日突然、大インフレになり、しかも政府と日銀がそれを抑制できないまま経済が破綻する」可能性はきわめて低い、と私は考えます。政府貨幣で国債残高を減らすべし。
庶民の将来不安の元凶である国債残高を叩いてデフレを退治する一挙両得の政策……リスクはありますが、突如として経済秩序が崩壊するという意見には根拠がなく、物価を注視しつつ実行する限り危機の予防は可能です。十分に勝算はあるので、ぜひ実行してほしい!
なお、政府貨幣を福祉や公共事業など具体的な政策の財源に使うのは大反対。そんなことをしたら途中で止められない。国債の償還に用途を限ればこそ、物価をモニターしながら、いつでも貨幣量の増大を中止して借換債に戻せるのです。
感情的なレビュアーがワッと集まって荒れることがあるのは、洋の東西を問わないみたいですね……。いやまあ、不満な点はよく理解できます。けれども、それで1点をつけるんですか、という。
私が何を疑問に感じているのかというと、100のチェック項目全てで満点を取ったら星5つなんだけど、10個くらいの項目で強い不満を感じたら最低点をつけてしまうのだ、と。
ファミ通のレビューが3点を底としていて、よっぽどのことがなければ2点をつけないのは、世間的にはあまり理解されないみたいですけど、個人的には納得できるんです。バグがあるにしても、プログラムが一応は動いていて、何とかかんとか商品の体をなしている、それはやっぱり3点をつけるに値すると思う。
高校時代、文藝部で自分も何か書こうと思うには思ったけれど、結局、断片しか書けなかった。下手でも作品をひとつ書き上げるというのは大変なことだと私は思います。
Amazonのレビューで評価の高い作品をプレイしても、必ずしも面白くない。ゲームに限らず、音楽でも小説でもそう。レビューの点数で作品をソートしても、正直、役に立たない。
私は高評価した一人ですが、この作品は昔風のゲームを遊びたい人にウケる仕上げだと思います。
この手のマイナー作品の場合、そもそも大多数の人が手を出さないため、わざわざ買って遊んだ人だけが書くレビューを平均すると、評価が偏ります。標本誤差の一種です。ウェブでは「宣伝ミスで本来の想定と異なる客層に売れてしまい、悪評価が集中する」事例が目立っていますが、実際は高評価に偏ることが少なくありません。このことは、映画評サイトなどで「マイナーだけど評価が高い」作品を片っ端から鑑賞してみると、よく理解できます。
私の場合は、ファミコン時代のグラフィックが自分の中での基準になっており、PS以降、正直、グラフィックが酷くてやる気が起きないゲームは、ほぼ皆無です。キャラクターの絵が粗いのは、個人的にはむしろゲームらしい表現として好ましく、背景などの光の表現はなかなか美しいと思いました。動きも滑らかで、思ったようにキャラクターが走ってくれ、ビジュアルに不満は全くありませんでした。が、やっぱりこれはオールドゲーマーの意見だろうと思います。
「ノスタルジオの風」はAmazonでは高評価ですが、NintendoDS mk2 などの、もっと若い人が多く集まっているレビューサイトでの評価はパッとしません。最近のゲームの進化した表現を好ましいと考える層には、やっぱりウケなかったようです。
ゲーム評に関してはmk2というレビュー投稿の大手サイトがあって、2chとかではけっこう信頼されています。でも、それって実際のところ、単に2chのゲーム関連の板やスレッドの住人と投稿層が重なっているだけなんじゃないか、と。
mk2の方が懐古層が少ない=おそらくレビュアーの平均年齢が若いということはいえそうで、2chやAmazonのレビューでは評価の高い「天外魔境U」のDS移植版がmk2では割と不評も目立っていたりしますけれども。
2年来の読みさし本を、ようやく読了。今月は積読本や読みさし本に取り組んでいるのだけれど、その中でも、この本はとくに面白かったです。
第2日本テレビは2009年になって単月黒字化を達成、「ロケフリって流行らなかったね」とか、冗談が現実となってNHKクリエイティブ・ライブラリーも始まったり。ネット世論的にはあまり評価されていないみたいだけど、みんな「その後」もずっと頑張り続けてきたんだな、と。その成果や結末が、だんだん出てきているんですよね、ちょうど。
第2日本テレビは黒字化したけれど、多分、土屋さんとしてはあまり面白くないんだろうな、と思う。滅びてしまった商品やサービスは悲しいけれど、サバイバルに成功した事例も、なかなか手放しで喜べるような状況じゃない。そんな中、比較的狙い通りに成功しているのが価格.comだと思う。
2年前には「できたらいいね」だったことをずいぶん実現して、今では各カテゴリで、売れ筋ランキング、注目ランキング、満足度ランキングを並列で見せているんです。レビュー数はなかなか増えませんが、概ね落ち着いたコミュニティー形成に成功しているのはすごい。あと食べログの成功にもびっくり。
詳しい感想というか、本を読んで考えたことについては、いずれ……(って、いつになるんだか)。
ライフハッカーの記事の方法(上手な縛り方の工夫)は、道具を必要としない美点があるけれど、とても頭に入らない。いざというときに使えない。現実解としてはケーブルボックスかな、と思ってます。今では100円ショップでもいろいろなサイズのものが売られていますしね。
けれども、実際のところ、私がよく使っているのは、ケーブルを縛ることでもケーブルボックスを使うことでもなく、好きな長さにカットできるマジックテープとビニールタイの利用です。太いケーブルはマジックテープ、細いものはビニールタイ、と使い分けています。
ビニールタイというのは、帯状の軟らかいプラスチックの中心に針金が1本入っているもの、と説明すれば「ああ、あれか」とわかっていただけるのではないかと。
私にとっては文房具のようなもので、机の引き出しにマジックテープとビニールタイを常備しています。この手の道具は、必要になってから買うというスタンスだと、ことによると一生使うことがない。ケーブルなんてだらしないままでもとくに困りませんしね。けれども、ひとたび使い始めると、手放せません。
なお、私はケーブルボックスも使います。埃が気になる場所では、なるべくケーブルボックスを使うようにしています。とりあえずビニールタイでまとめておいて、大掃除の際などに埃を落としてケーブルボックスに取り替える、といった感じでしょうか。
配線の見直しを考える際に読み返すのが、この記事。最初に読んだときは「こんなの、どこで売ってるんだろう」と思ったんだけど、その後、あちこちのお店で「あ、売ってた」と。だんだんこの手の配線便利グッズが売れるようになってきたのか、単に私がこのジャンルに関心を持つようになったというだけのことなのか。
個人的に、この手の商品は実物を見て勝った方がいいと思う。とくに配線ボックスの類は、意外と大きいとか、逆に小さすぎてACアダプターが入らないとか、いろいろありますので……。私も失敗しました。
死体遺棄容疑で指名手配されていた人物が約1年勤めていた会社が、公開された整形手術後の予想ポートレートから元社員と気付いて通報したところ、こんな結果が待っていた。
この会社の通報がひとつ役に立って容疑者は逮捕されたのだが……。
2003年5月、新型肺炎(SARS)が中国などで小流行して話題を集めるさなか、台湾人観光客の一人が帰国後の検査でSARSに感染していたことが明らかとなった。日本では途端にパニックが起き、観光ツアーのルートにあった施設が軒並み予約キャンセルの嵐となった。とくに大きなとばっちりを受けたのがホテル・旅館だった。
国民の突き上げを食らった厚生労働省は、観光客の利用した施設を公表することになる。入念な消毒作業の様子をマスコミに公開し、一定期間の使用禁止措置もとり、それから安全宣言を出した。ところが、その後もホテルにはキャンセルは止まらなかった。
どんどん、どんどん世の中アホな方へ向かっているような気がする。
それから6年経った。2009年の話題といえば、こんにゃくゼリー、マスク騒ぎ、エコナ、そして今度は容疑者の潜伏先、か。悲しい。
最近、更新を再開されたbewaadさんのブログから。コメント欄もはてブも荒れてますね。
この話題は、端から結論を動かす気のない人がワンサカやってくるので、無制限に書き込めるコメント欄のあるブログには馴染まないと思っています。まともな議論が、まず成り立たない。相手の意見をまず受け止めて、好意的に論旨を補いながら読んでほしいところですが……。
この記事でbewaadさんは、「著作権を永続させるべき」とは主張していません。「著作権は本来、永続するもの」を大前提としつつ、「著作権の永続には問題があり、利害調整の仕組みが必要だ」という小前提を置いて、「利害関係者みなの意見を取り入れて建設的な議論をしましょう」と書かれていると、私は思います。
現に死蔵されていない、ちゃんとお金を生み出しているコンテンツを権利者から奪い去ろうとするから軋轢を生む。
50年、70年といった年限で区切る方法はよくない。死蔵されているコンテンツはさっさとパブリックドメイン(=公有)とし、逆に利益を生み続けているコンテンツは権利が守られ続けていいのではないか。
bewaadさんは3年前に著作権保護期間延長問題の解決案を示しています。集団の著作権の話は後で考えるとして、ここでは個人の著作権に話題を絞ります。
この提案に現在の私の考えを付け加えて簡単に整理してみます。
権利放棄に利益がなく、リバイバルブームの僅かな可能性がある以上、コンテンツが死蔵されるのは自然です。納得ずくで権利を放棄させる主な方法は「著作権を財産として課税する」「補償金を支払う」の2通りですが、ここでは、制度設計がシンプルで権利者の不満が少ない後者を選択しています。
もう少し補足すると、外国人の著作権や集団の著作権は(とりあえず)条約なり何なりに従って国際標準に合わせる想定です。また、過去に遡っての適用はしません。これから亡くなる人だけを対象とします。第3項は権利者分散の回避、第5項は10万円以上の価格で権利を買い取る業者の登場を念頭においています。
相続人は、故人の著作物の割引現在価値が10万円を下回ったと判断した時点で納得して手続きをするから、不満を持たないはず。99.9%の国民にとって、これは「政府が故人の火葬代を負担してくれる」嬉しい提案です。必要経費1000〜3000億円の財源は、また別の話とさせてください。
三谷幸喜さんの「振り返れば奴がいる」は、山崎豊子さん(存命)の「白い巨塔」を踏襲した作品です。しかし似ているのはあらすじや大まかな設定までだったので、著作権の侵害にはあたりません。bewaadさんの記事には様々な難癖がつけられていますが、その過半は杞憂なんです。
YouTubeによくあるテレビ番組の単純な切り出し・転載や、ニコニコ動画で目立つ切り貼りによるMAD動画は、軽々に認められるべきではないと考えています。しかしある程度の模倣や相似は、法的に許容されることを明記し、ガイドラインを策定して広報すべきだと思います。
著作権の保護期間がどうなろうと、私たちが広義の「再利用」をしたい著作物の大半は現在または近過去のもの。それらの自由利用が可能になる未来は考えにくい。「転載」「改変」は排除、「模倣」「相似」は相当程度まで許容、といった権利の線引きの方が重要だと思う。
古いディズニー映画の著作権が切れたって、脚本や絵を「そのまま」自由に流用できるようになるだけ。その結果は「粗悪な格安DVDが市場でシェアを取る」程度のことで、創作活動へのいい刺激になど、なりはしない。ディズニーの名作の構図やセリフやあらすじは、現在でも様々な形で新作に取り込まれています。
1930〜40年代の映画が軒並み権利切れして、どうなったか。その様子を見て私は、「死蔵作品はもっと早く公有され、利益を生み続けている作品は末永く保護されるべき」と考えるようになりました。
「著作権から許諾権を外して報酬請求権とすべき」といった提言は、この本に限らず、よく目にします。なるほどと思うけれども、「こんな使われ方は著作者としては我慢ならない」という心情もまた、よく理解できるところ。
個人的には、「お金の問題じゃない」として許諾で揉めるのは、名誉や思い入れといった、人格に結びつく論点が絡んだケースが多いように見えます。ですから、「著作者が死亡した後は、著作権を報酬請求権とする」ということができないのかな、と思っています。
日本国内で永続する著作権を打ち立てても、海外では自動的に権利が切れてしまうではないか、と。
その通りですが、それの何が問題なんですか?
OSはWindows XPです。
インストールする順番に並べて紹介。
意外と多いですが、まあ自宅のメインPCなので。私が自宅や会社で常用する他のPCにも共通して導入しているのは、2〜5、10〜13、21の9種です。自宅のメインPCには、上記の他に無線LANアダプタ、プリンター、NDS Adaptorなどの付属ソフト、mAgicTV5の関連ツールなども入っていますが、紹介する意味がないと思う。
あと、見ての通り有料ツールが多いですが、機能面で優位性がなくとも使い勝手が気に入れば、私は有料OKです。ちなみに複数のライセンスを買って自宅のメインPC以外にも導入しているのは私が使っている有料ツール(2009-10-24)で紹介した5種です(セキュリティソフト除く)。
USBメモリに入れて持ち歩き、パソコンの特定のパスのフォルダ(C:\***\tool\ とか)にコピーして、Clock Launcher経由で使っているのが、これらのツールです。昔はフロッピーだったので厳選していたのですが、USBメモリに乗り換えてからは少し増えました。
会社などで短期間使用するPCでも、これらのツールを一時的にコピーすれば、僅か1分で自分にとって便利な環境へ大変身。所属部署が変わって以降、そうした用途は減りましたが……。
リネームソフトが3つもあるのは、それぞれに得手・不得手があるため。ただし基本的にはViXかFileRenamer2000(ウィザードは出さない設定)を使っています。
shin's PNG Editerはマイナーなツールですが、ウェブアートデザイナー(WAD)に欠けている「パレットから特定色を指定して透明化」という機能があり、8年間ずっとお世話になり続けています。私にとってはWAD最大の不満点を補完してくれるありがたいツールですが、一般の方にはピンとこないかも。
上記の常用ツール群、かつてはしょっちゅうメンバーの入れ替えがあったのですが、4年くらい前に、ほぼレギュラーが固定されました。インストールが必要なソフトウェアの方は、PowerDVD、キングソフトオフィス、mAgicTV5、Napster、AsociateHelper、Google Chromeと半分以上が新顔なのですが……。
さて、みなさんはどんなソフトウェアをインストールしたり、ツールを使ったりされてますか?
こういう記事って何度でも話題になりますね。Wikiとかに情報を集約して、随時アップデートしているサイトも人気はあるのですが、個人ニュースサイトやはてブのhotentryを眺めるに、いま人気のツールをスナップショット的にまとめた記事には大きな需要があるみたい。
それはさておき、上記のリンク先の記事は、各ツールへのリンクがないのが不便なので、ちょっと再整理してみました。
基本的にWindows用のソフトです。
名称 | 用途 | Vector | 窓の杜 | 作者 |
---|---|---|---|---|
AVG | ウイルス対策 | ○ | ○ | ○ |
avast! | ウイルス対策 | ○ | ○ | ○ |
Avira AntiVir | ウイルス対策(傘) | ○ | ||
Spybot | スパイウェア検出 | ○ | ||
COMODO | 統合セキュリティソフト | ○ | ||
Mirage Colloid | フォルダ偽装 | ○ | ○ | ○ |
名称 | 用途 | Vector | 窓の杜 | 作者 |
---|---|---|---|---|
Google Chrome | Webブラウザ | ○ | ||
Opera | Webブラウザ | ○ | ○ | ○ |
Firefox | Webブラウザ | ○ | ○ | ○ |
Thunderbird | メーラー | ○ | ○ | ○ |
FileZilla | FTPサーバ | ○ | ||
Skype | 通話 | ○ | ||
Jane Style | 2chブラウザ | ○ | ○ | ○ |
JaneXeno | 2chブラウザ | ○ | ||
KeyHoleTV | P2Pテレビ | ○ | ||
SopCast | P2Pテレビ | ○ | ||
WinRAR | 圧縮・解凍(有料) | ○ | ○ | ○ |
7-Zip | 圧縮・解凍 | ○ | ||
ReGet | ダウンローダー | ○ | ||
RarUty | 分割・結合(らるちー) | ○ | ||
Longinus | JPEG偽装(でんこ) | ○ | ||
極窓 | 拡張子判別、リネーム、他 | ○ | ○ | |
極窓Mobile | 拡張子判別、リネーム、他 | ○ | ○ | ○ |
名称 | 用途 | Vector | 窓の杜 | 作者 |
---|---|---|---|---|
秀丸エディタ | エディタ(有料) | ○ | ○ | ○ |
Notepad++ | エディタ | ○ | ○ | ○ |
紙copi | メモ、スクラップ | ○ | ○ | ○ |
SofTalk | 音声読上げ | ○ | △ | ○ |
ViX | 画像管理 | ○ | ○ | ○ |
IrfanView | 画像表示 | ○ | ○ | |
Tinuous | 画像一括変換 | ○ | ||
AzPainter2 | ペイント | ○ | ○ | ○ |
Media Player Classic | 動画再生 | △ | ||
GOM PLAYER | 動画再生 | ○ | ○ | |
KMPlayer | 動画再生 | △ | ||
ffdshow | DirectShowフィルター | ○ | ||
AnyDVD | CD,DVD暗号化解除(有料) | ○ | ||
DAEMON Tools | 仮想ドライブ | ○ | ○ | ○ |
iTunes | コンテンツ管理 | ○ | ○ | |
foobar2000 | 音楽再生 | ○ | ○ | |
uLilith | 音楽再生 | ○ | ○ | |
UTAU | 歌声合成 | ○ | ○ | |
洞窟物語 | 2Dアクションゲーム | ○ | ○ | ○ |
ゴーストリプレイ | ネトゲ自動操作 | ○ |
名称 | 用途 | Vector | 窓の杜 | 作者 |
---|---|---|---|---|
Orchis | ランチャー | ○ | ○ | ○ |
nrLaunch | ランチャー | △ | ||
CLaunch | ランチャー | ○ | ○ | ○ |
Contexter | 右クリック拡張 | ○ | ||
Everything | ファイル検索 | ○ | ○ | |
Googleデスクトップ | ファイル検索 | ○ | ○ | |
FireFileCopy | ファイルの高速コピー | ○ | ○ | ○ |
FastCopy | ファイルの高速コピー | ○ | ○ | |
Glary Utilities | PC統合メンテナンス | ○ | ○ | |
RegSeeker | レジストリ軽量化(使用注意) | ○ | ||
WinRoll | 窓のコンパクト表示 | ○ | ○ | |
JoyToKey | ジョイスティックでPC操作(有料) | ○ | △ | |
Fast Panel | アプリを高速削除 | ○ | ○ | |
IP Messenger | LAN内メッセ | ○ | ○ | |
侍 | ログ監視 | ○ | ||
gdi++.dll | フォントくっきり | ○ | ||
WhoLockMe | ファイルロック解除 | ○ | ||
Flexible Renamer | 一括リネーム | ○ | ○ | ○ |
メモリの掃除屋さん | メモリクリーナー | ○ | ○ | |
Rapture | キャプチャ | ○ | ○ |
あー、なるほど。これだけ手間をかけてみて、もとのスレまとめを作った方がいちいちリンクとかつけていない理由が、よくわかりました。こういう記事の目的は、情報をサッと概観することなんですね。いざ本当に必要なソフトウェアを探すときには、ふつうに窓の杜のライブラリから探せばいい。
そりゃそうですよね、ジャンルも偏っているし、なまじ表組みで整理してしまうと「なぜあのツールが紹介されていないんだ」という感じにもなってしまう。くたびれ損だったかも……?
毎月のようにこうしたまとめが話題になっているのですが、私はこういうの、読み返さない。ていうか、「読み返していないな」と、今日、気が付きました。だからブクマしてこなかったんですね、自分。1回だけなら、いろんな人の思い入れたっぷりの発言が楽しいんですけどね。
ボリビアの法律により容疑段階では実名や顔写真は出せないため、逮捕はこのような合成写真により報道されました。
日本でも容疑段階で実名や顔写真を出すのはやめたらいいと思う。あと被害者の実名や顔写真も、基本的には不要なはず。捜査も報道も、いい加減、一歩先の段階へ進んでほしい。いつかいつかといっているうちに、私の人生も折り返し点あたりまできてしまった。
酒井法子さんがどうたらこうたらの次はこれか。
TwitterはNTT Americaのサーバを利用しているという。
NTT AmericaはNTTコミュニケーションズの米国子会社。何か特別な対応でもした? そういえば、NTT Amaricaはイランの大統領選が盛り上がった今年6月にも、ちょっと粋な計らいをして話題になった。
Twitter は、NTT コミュニケーションズの米国子会社 NTT America との間で、米国時間の15日夜に1時間のダウンタイムを設け、メンテナンスを行なうことで合意していた。(中略)しかし、予定していた1時間のダウンタイムはイランでは昼間にあたり、人々が抗議行動の調整を行なったり、友人や家族と連絡を取ったりするのに支障をきたすことが予想された。そのため、メンテナンスは16日の午後2時 (イランでは午前1時30分) からに変更となった。
私が使っていた頃の楽天広場やクラブニンテンドーなど、毎日早朝にメンテナンスで止まっているサービスって、考えてみれば、海外からの利用を想定していないということなんだろうな。あと、Twitterもこのときはこういう配慮をしたわけだけれども、基本的にはアメリカの都合に合わせてメンテナンスをするんだろう。
ここで私が連想するのはオリンピックとWBC。2016年の夏季五輪はブラジルのリオに決まったけど、その一要因が米国との時差がないこと。放映権料を高目に設定できる、との読みが働いたとか。今春のWBCの決勝は日韓戦になったので、アジアのテレビ放送に都合のいい時間帯に試合開始時間が変更された。
matsuza 大抵の"マスコミは報道しない"てのは、単に報道を見てないだけのような気がしてきた。
いや本当にもうその通りで。
同じようなことは情報のインプットの方にも言えて、はてなブックマークのホットエントリーを毎日のように見ていたり、RSSリーダーで各種フィードを購読していたりすると、最近何が話題になっているのか、斜め読みでキーワードと概略を把握して、知的好奇心が浅く広いレベルの情報で満たされてしまい、まとまった時間を取って何かを深く掘り下げて調べたりしにくくなってしまう、ということに心当たりのある人は少なくないだろう。
個人的には、これ、全く逆だと思う。ネットニュースしか見てない人って、毎日45分くらい新聞を読むだけの私より、よっぽど「何も知らない」のでビックリする。はてブにせよRSSリーダーにせよ、自分が興味関心を自覚している種類の情報ばかり追いかけることになるから、様々な情報を見落とす。
はてブとかでも、「なんで報道されていないんだ!」とか、ちゃんと新聞やテレビで報道されていたニュースについて100人以上がワーワーいうみたいなことがしばしばあって、私はゲンナリする。どうして自分の情報収集の方法を反省せずにマスコミを叩くのかなあ、と。まあテレビニュースはさすがに時間の無駄だが……。
11月20日、GoogleがChrome OSを発表したそうだ。商品になるのは1年後くらいだという。
ハードウェアとセットで販売されるそうだから、実際に出てくる商品としては、Net Walkerをイメージすればいいのかもしれないな。パソコンというより、キーボード付のPDAみたいな。
ふつうのパソコン用のOSとしては、正直ピンとこない。10年後のことはわからないけれど、私の人生を振り返る限りでは、意外とパソコンって10年経っても使われ方にあまり変化がない。とすると、パソコン市場でChrome OSが大ヒットするようには思えない。
中国でもインドでもアフガニスタンでも、PCに導入されているOSはWindowsなのだそうだ。みんなの使いたいソフトウェアがWindowsでしか動かないとなれば、お金が無ければ不正コピーを厭わずWindowsを使うことになる。中国のような管理社会では、いずれLinuxが普及すると思っていたのだが、現実は厳しい。
ネットブックが登場したとき、ギークはLinux搭載版を歓迎したけれど、市場を制したのはWindows版だった。消費者はネットブックを「安いパソコン」と位置付けた。またLinuxだとOSのサポートまでメーカーが担当するため、コスト面でも利益がなかったとか。Chrome OSではGoogleがOSのサポートをするだろうが……。
一般のユーザが使うパソコンにおいて「Windowsに勝つ」には、Windows互換という方向性しか手はないと思う。でも、こういう記事を思い起こすに、やっぱり難しいんだろうな。ReactOSはWindows XP互換という目標をなかなか実現できず、とうとうWindows7の発売に至ってしまった。
一般消費者向けの製品でLinuxが一番普及したのは携帯電話かな。Googleは携帯電話などのモバイル機器用にAndroidというOSを用意しているけれども、今わかっている情報からすると、Chrome OSはAndroidが使われる機器の頭を押さえるような製品ジャンルでしか、ヒットしないんじゃないかと思う。
ところで、中国政府がReactOSの派生版を開発支援するようなことはないのだろうか。
パソコン売り場では、年賀状を作りたいならネットブックではなくノートパソコンを買うように、と勧められる。勧められるが、私の少ない知人の中でも数名が、年賀状をネットブックで作ろうとしている。動作が重くたって関係ないのだ。
簡単にいえば、じつは一般家庭においてパソコンはパーソナルな道具じゃなかったんだ。だから親の前でネットに接続したくない子どもなどは、親にねだってネットブックを買ってもらった。お小遣いでネットブックを買ったお父さんもいる。そうして自分専用のパソコンを持つと、全ての作業をそれでやりたくなる。
この思いは切実なので、(ネットブックにはCDドライブがなくドライバーCDは役に立たないから)プリンターのメーカーに電話して、サポートページを教えてもらってドライバーをダウンロードする、なんて手間をかけてまでネットブックで年賀状を作ろうとする。USB接続の光ディスクドライブを買った人もいる。
家族の共用パソコンが壊れたので「MS officeを必要とするわけじゃなし、これでいいだろ」とLinux PCを設置したんだけど、みんなから不満が噴出。結局、Windows PCを修理したり新しく買ったりした、という話はしばしば聞く。逆に家族がLinuxにすっかり満足したという話はネットでも滅多に見かけない。
もし一部の予想通り、数年後のネットブックがChrome OSに席巻されているとすれば、それは一般消費者がネットブックを「安いパソコン」ではない新たなジャンルの製品として認知し直すケースしかありえない。だが最近のトレンドはoffice付きネットブックなわけで……。
memo:私の空想するリフレ政策(2009-11-11)と重なる内容だけれども。
リフレを訴える勝間和代さんに会って、デフレ宣言を出して、90兆円規模の予算見通しと30兆円台の税収予想を発信して、そのうえ金融政策の効果を小さいと見積もる審議委員人事案を提示したとなると、残る手は政府紙幣くらいではないか。
来年度の日本経済の需要不足は80兆円近いと予想されている。国債の償還は乗数効果が1を割り込む(償還されたお金が消費に回らない)そうだから、100兆円くらい国債を償還してはどうか。借款債を全て政府紙幣で償還するとか。日銀を経由すれば市場に政府紙幣が直接出回ることはなく、混乱もないだろうし。
国債価格は落ち着いているけれども、国債を(直接)買っているのは庶民じゃない。それに国債の大半は10年以下に満期を迎えるタイプのもの。庶民だって、10年以内の財政破綻を予想している人はほとんどいない。ならば現時点で国債価格が安定していることは、庶民の不安を何ら反証しない。
年金制度について 読売新聞2004-07 世代 信頼していない 信頼している 20代 87.4% 3.4% 30代 83.7% 16.4% 40代 59.6% 20.1% 50代 73.4% 25.2% 60代 64.0% 35.0% 70代 45.8% 50.7%
ここで財政破綻とは、やたら税金が高く希望の乏しい未来を予想している。いま夕張の市債を買いたがる人なんてあまりいないように、「そうなった」ら日本国債の価格は下がる。現時点で30年債の価格は安定しているけれど、もし100年債があったとすれば、そろそろ価格が危ないかもしれない。
いずれ破綻するとわかっていれば、現在の価格に予想が織り込まれるはず……というのは行動経済学の実験でも否定されていたと思う。多くの国民が財政破綻を予想しているのは、人と話せばわかること。私と同世代で自分が年金を生活に十分な金額もらえると信じている人なんて、珍しいよ。
頭のいい人は英語でも勉強して海外に行けばいいかもしれないけど、自分たちにはそんなの無理だし……みたいな。ソマリアのような国の人々だって、一部のエリート以外は海外に脱出なんてできないわけで。
よそのコメント欄に書いた内容を採録。
ところで飯田さんは「貨幣発行益を国債の償還に使うことと、日銀が国債の買い切り額を増やすのは同じこと」とも主張されている。これも何となく納得してたんだけど、じつはいろいろよくわからないところがあります。先の無税国家の仕組みでは、どんどん国債の残高が積み上がる。返す気もないのに借金ばかり増えるのは気持ち悪い。じゃあ国債を引き受けた発券銀行が「債権放棄」したらどうなるのか。これが第二の疑問点。
日銀が国債を買う場合、その時点で既に日銀券は発行されているわけだから、「債権放棄」しても経済に影響を与えないような気がする。その一方で財政不安は解消される。何も悪いことがない? でもリフレ派の本でも「買い切り」までは書くけど、「債権放棄」はいわない。何故なのかな。金融引締めの際に売り物がなきゃ困る? でも半分くらいは「債権放棄」していいような……。
債権放棄の件は、今春、借換債が過去最大規模となったり、シンジケートが解散したりして、借り換え問題が地味ながら繰り返し報道されており、また成長率・長期金利論争が日銀保有分の国債についても問題視していたので、気になったものです。現時点では借り換えは緊急避難措置と認識している国民が多いような気がしますし、どんどん金額が膨らんでいくのも素朴に気持ち悪いです。せめて日銀保有分は金利を免除したらいいのに、と思います。
(中略)
「実質」金利という考え方が理解されず、ゼロ金利で金利生活が破壊された云々として(少なからぬ)国民が問題視し、量的緩和解除を「正常化」への第一歩として歓迎したりしているわけですよね。利払いはみな返ってくるので「実質」的な意味はないのはわかりますが、借換債の規模が見た目だけであれ膨らんでいくことは国民の不安と批判を呼び込むのではないかと。借換債そのものが「実質」的には問題視するべきでないとしても、その啓蒙は可能なのでしょうか。不安は冷静さを欠いた議論を呼び込みやすく、増税論議が進む状況にある今、それこそ緊急避難的に、国債残高の抑制策をとる必要もあるのではないかと思ったりするのです。
「借金はした人が返すべきだ」みたいな直感的正義があるわけで、だから老人の多い国会議員も自分が政治家をやっていられる間に財政均衡を実現したいと思うのでしょう。「政府を家計に例えたら」でいうなら、子孫にまでローンを支払わせるのは気が咎めると。逆に子孫の側も、基礎控除のおかげでタダで家が手に入るにせよ、家のローンは親の世代で完済してよね、と思ってる。
bewaad さんの試算は、財政の持続可能性をいっているけれど、庶民の直感は持続じゃなくて借金そのものを重視してる。だから「それで結局、いつになったら借金はなくなるの?」と思うわけですよ。「借金はあるけど大丈夫なんです」「嘘つくんじゃないわよ、これ私たちに返せっていうんでしょう!」「ですから、生活水準の低下とか増税とか一切ありませんから」「また騙す気ね!!!」云々。約一年前、当時は「向こう側」だった私が執拗に求めたのも、この不安に応えるシナリオだったわけです。
結局、リフレで増税なしに債務残高の対GDP比をピークアウトさせる試算では、約15年後にようやくピークアウト、残高が減っていくのはその先。国民の借金恐怖が持続不可能では? と少々疑問に。事実を語るには空虚な言葉であっても、時代の気分が現実の政治を動かすので、構造改革といいつつリフレする、みたいな詐術は必要悪でしょう。だから「敵」を「バーカバーカ」といって満足せず、その価値観、世界観を研究し、逆手に取る方法を見出さねばなりません。
人生80年である以上は、「40年以内に国債残高が一般国民が全く不安を感じないレベルまで低下するシナリオ」というのを提示しなきゃならん、と。私がいいたいのはそういうことです。でも現実には40年では(リフレ派のシナリオでは)時間が足りない。とすれば、何らかの詐術の需要がここにある、ということになります。
こういう意見には納得できない。PS3が値下げでようやく売れるようになったのを見れば、みな「お金さえあればほしいもの」はいろいろあるのは間違いない。ライフサイクル仮説や恒常所得仮説に抵触しない形で現在の収入が増えるなら、消費は増えるはず。
国債を発行して国がお金を配っても、将来の増税予想につながるから貯金に回る。だから所得の再分配を強化して消費に飽きているらしい金持ちから貯金ゼロの貧乏人へお金を移したり、(デフレが続く限りは)政府紙幣で国債残高をドンドン減らしていくのは、景気対策として有効な施策だと思う。
前任の水野温氏さんは須田美矢子さんのさらに上を行く金融引締め派で、少しはマシになるのかな、とは思う。でも、宮尾さんって、著書を読む限り、「金融政策は次第に力を失いつつある」という考えを持っているんだよね。再来年までデフレを予想しながら何もしない現在の日銀政策委員会の無責任ぶりに同調するタイプだと思う。
また篠塚さんの後任の審議委員人事も話題になりました。森さんからは、だれかいい人がいれば推薦してほしいと言われました。週明けの五日、学習院大教授で私の勉強会のメンバーでもある岩田規久男さんと昼食を一緒にする機会があったので、彼の意向を聞いてみました。しかし、彼は否定的でした。「まだ五十八歳。七十歳まで学習院大に勤めたい」というのです。結局、篠塚さんの後任は、同じく学習院大学教授だった須田美矢子さんに決まりました。
ああああああ、読み返すたびに怒りがこみ上げてくる。岩田さん、なんで日銀の審議委員の打診を断ったんだろう……。もうそろそろ70歳だから、と期待していたんだけど、このところ審議委員は若返り傾向にあるから、もう声がかかることもなさそう。ガッカリだ。
一概にこのような見方に賛同するわけではないか……。
「本当にわかってくれたのかな?」教師なら、誰もが不安に思うこと。
リンク先の記事の通り、「わからない人は質問して下さい」と問うのは、あまり意味がない。個々の学生の理解度を確認したいなら、やはり試験を行うべきです。
小レポートの書かせ方(2008-05-27)という記事を、以前に書きました。ただ単に講義の感想を書かせると、講義の内容を全否定する意見を書いた学生が「講義の内容を理解した上で、観点や価値観の違いから賛同しない」のか「単に誤解しているだけ」なのか、よくわからない。そこで、出題に工夫が必要になる、という内容です。
福耳さんは、感想文を、まず理解度チェックに使いたい。その上で、個人的な体験や価値観に基づくプラスアルファにも大いに期待しています。
私なら、このようにいいます。
授業の最後に、いま配布した小さなレポート用紙に、感想文を書いて提出してもらいます。この感想文は、成績評価の重要な参考資料となります。まず、感想文を提出すると、出席点がつきます。次に、講義の理解度から、理解点がつきます。さらに、興味深い感想文には、ボーナス点がつきます。感想文には、ここが講義のポイントだな、と思ったことを書いてください。そして、自分の経験、身の回りのこと、あるいは関心のある社会問題などについて、今日聞いた話を応用すると、あれはこう考えることができそうだな、ということを書いてください。その他、さまざまな質問、異論、反論、感想文に書きにくい素朴な感想、板書の字が読みにくいといった苦情などは、裏面に自由に書いてください。興味深い意見にはボーナス点をつけます。全て加点法です。減点は絶対にしないので安心してください。
もう少し意図を明確化するために、「今日の話に賛成できない方もいるでしょう。しかしこれは理解度チェックのための感想文ですから、表面には、私が提示した考え方を前提とすると……という話を書いてください。異論、反論は裏面にお願いします」と言い足してもよいと思います。
しかしこれは「たった5〜10分で、講義の内容を咀嚼して、適切なエピソードを選択し、何某かの考察を行い、400〜800字程度にまとめられる」優秀な学生が相手でなければ、成り立たない方法です。しかも理解度チェックの精度が低く、それでいて採点に大変な手間がかかります。出題は簡単だけど、他で苦労するわけです。
聞き手の水準や、求める理解度をよく考えて、講師は最適なチェック方法を採用してほしい。理解度チェックに的を絞るなら、事前に手間はかかるけれども、次のような試験を行うのがよいでしょう。
出席票を兼ねた理解度チェック試験です。次のA〜Fの文章のうち、今回の講義の一部分の要約として、適切なものを全て選びなさい。
この方法の美点は、「講義する側にとって、問題の作成過程が非常に有意義」なことです。
A〜Fの選択肢を考えることで、自分が教えたいポイントが明確になると同時に、聞き手にありがちな偏見、先入観、誤解に対して、意識的になります。その努力は、聞き手へのフォローが行き届いた、論旨のわかりやすい講義へと結実します。そして試験結果がフィードバックされますから、翌年の講義はさらに進化します。
問題文を配布資料に印刷すれば、先に紹介した小レポートとの両立も可能です。いくつか英字を書くだけですからね。「試験の回答を1行目に書きなさい。意見、感想は2行目から書きはじめなさい」と指示します。
今頃になって反応。
noni_juice 東海道か横須賀線のグリーン車が朝どうなってるか見たこと無いのかこの馬鹿
hakob グリーン車の利用率が少ないと断じてるけど、都心の朝ラッシュ時はグリーン車もたいてい満席になってる。価格効果の問題で言えばLAの朝の道路ラッシュは代替手段(地下鉄)で解決をみたよね
混雑している時間帯だけ柔軟にグリーン車を増やすことは不可能だという問題、グリーン車をどんどん増やして一般車両を減らしていくことへの強烈な反発が経営に与えるダメージをどう見積もるかという問題、そういったあれこれを総合的に判断して、15両編成に2両のグリーン車というのが当座の結論なんでしょう。
多分、現状以上にグリーン車を増やしても利益にならない、とJR東日本は考えている。その判断が正しいかどうかは別として、とりあえず株主総会で糾弾されない程度には、現在のバランス感覚に経済的な合理性を認められる(明々白々な不合理ではない)のだろうと思います。
circled 3分間隔でやってくる10両以上の電車がどれも混雑している段階で金の問題ではなく、人口の問題だと思う。世界の人口密度と比べれば東京は異常。
tessy3 欧米に比べてここまで集積させないとやっていけない日本は生産性が低いってことだよなあ。
世界の大都市と比較して、東京の人口密度はむしろ低く、それなのに鉄道が混雑しているからおかしいのです。現在の鉄道料金が維持コスト+少々という設定になっているため、バイパス線の建設や新規参入の原資が、その少々の分しかない。これでは問題の解決に極めて長い時間がかかるのは道理です。
鉄道会社が純粋に利益を追求することが社会に許容され、需要超過の区間・時間帯に高い料金設定が可能となれば、バイパスルートの建設が「明らかに儲かる事業」となります。既存業者が価格を上げるだけで供給を増やさないなら、新規参入が必ず起きます。同時に、通勤時間の分散など、交通需要抑制の動きも生じます。
社会的な圧力による価格の実質的な規制がなければ、供給の増加と需要の抑制が生じて殺人的な通勤苦は解消されるはずです。解消されないとすれば、ようするにこれは「ない袖は振れない」という問題であり、人々が「鉄道料金が上がるより混雑の方がマシ」と考えていることがハッキリします。
albertus なんだかなぁ だから、遷都だよ、遷都。空いた土地は全部公園にするの!
georgew うーむ、どうやろ 運賃が高く鉄道が儲かる事業だったなら... > 莫大な投資必要とするのにホイホイと新規参入できるわけないやん。根本問題は、遷都するなり東京一極集中を解消する決意を国民が持たなかったこと。
yellowbell 仕事, 企業 ラッシュ解決の重要なヒントは、オフィスが必要な理由ってなに?って問いかけ。ペーパーレスとオフィスレスが実現できる環境を手に入れておきながら、いつまで人間は雁首揃える仕事の仕方から自由になれないものか。
suzu_hiro_8823 社会, 考察, 鉄道 そもそもの"通勤"をなくす、あるいは縮小するという提案がよわすぎるのだが(在宅勤務、サテライトオフィスとか)
nippondanji 在宅の比率を増やせばいいんだよ。こんなにネットが発達してるのに、在宅できないのがオカシイ。
まず、遷都は無意味。だって「官公庁の近くにオフィスを置きたい」という理由で東京に集まっている企業なんて僅かだもの。焼け石に水の施策に税金を何兆円も使うのは極めて非効率。
携帯電話事業にいくつもの企業が新規参入したように、いま始めれば儲かる、と予想できれば、数千億円の投資が必要な事業にも「ホイホイと新規参入」する企業が現れます。旅客需要が急減する要素はないので、鉄道運賃が上昇すれば、新規参入orバイパス線建設は必ず進むはずです。
そしてオフィスレスの件だけど、オフィスをなくせば「オフィスの賃料と交通費が不要、住居手当は田舎基準でOK」という明確な利点があるのに、なぜ大半の企業がそうしていないのか。結論を書けば、ごく一部の仕事を例外として、在宅ワークは非効率なんです。
ですから、社員の能力は同じでも、会社が払える人件費が減ってしまう。通勤手当全廃と住居手当の減額では相殺できず、給料自体を下げざるを得ない。とすると、通勤で苦労しても給料をたくさんほしいと考える労働者が現実には多いとすれば、大多数の企業はオフィスレスでは成り立ちません(社員に逃げられる)。
無論、多少は給料が下がっても……という人は現実にいるのだから、オフィスレスの企業がもう少し増えてもいいでしょう。しかしいつかは会社を大きくしようと考えている経営者が、積極的にオフィスレス化を進める動機がないことには注意が必要です。
Gakkuri-Kanabun_09 社会, 政治, これはひどい, 考え方 (中略)皆が満員電車を嫌なら神の見えざる手が働くと思うが。あとインフラが高いと経済活動に-なんじゃ?
みんな満員電車は嫌なんだけど、財布に響かなければ、我慢できてしまうのです。居残り残業は平気でも、ラッシュ前通勤はできない。長時間労働より早寝早起きの方がつらいというバイアスがあるのですね。だから、不愉快ではあっても問題を市場化しないと、通勤ラッシュの解消ペースは上がりません。
そしてインフラが高いと云々の件は、現在、東京にオフィスを置いている企業は、むしろ集積の利益にタダ乗りして、インフラ整備に必要な費用を十分に負担していないのです。だから東京の魅力は通勤地獄によってダンピングされているのですよ。適正なインフラコストの負荷をかけ、地方と対等な条件で競争すべきです。
交通費が上がれば、企業が従業員の交通費を負担する場合、企業負担の増加は自明です。企業が交通費を負担しない場合は、「交通費の上昇→実質給与低下→人材確保のために給与を上げて調整」となります。いずれにしても東京オフィスの損益分岐点は上昇するので、地方の魅力が相対的に上昇します。
注:もちろんオフィス需要の減退によるビル賃料の低下、人材需要の減退による人件費の低下などで、ある程度は相殺されるでしょう。
fxxkYHWH 社会, 考え方, 鉄道, 日本, 交通 これ以上鉄道会社のケツを叩いても無駄。鉄道観点でのアプローチは効果は上がらない。地方経済を活性化させて東京一極集中の緩和を図ることと、始業時間9時一極集中を回避する仕組み作りが必要。これは行政の問題。
ですから、「鉄道会社のケツを叩く」などという発想だからダメなんですよ。私も「行政の問題」だと思っていますが、具体的な政策はおそらく真逆です。
鉄道会社が純粋に儲けを追求できるなら、東京の電車賃がグンと上昇するので、相対的に地方は優位になるのです。公共料金の抑制は、地方に対して大都市を実態以上に有利にしてしまっています。
しかしその一方で、官公庁があるから東京に企業が集まっているのではないということにも、注意が必要です。地方都市にも生き残りの戦略はあるでしょうが、第3次産業の発展は人口の集中を促すため、東京への人口の集中は止まりません。現状程度のインターネットでは対面コミュニケーションを代替できないのです。
よって鉄道が一時的に超過利潤を得て、それを原資に旅客力の増強を図ることが必要です。
ただし現在の鉄道は需要超過だといっても、それは通勤時間帯のみですから、混雑時間帯のみ料金を高くすることになるでしょう。すると企業は、自社の利益のため、自動的にオフピーク通勤を推奨します。ただ推奨しても効果が上がらなければ、フレックスタイム制度などを導入するでしょう。
行政がうるさいことをいうより、価格による調整の方がずっと確実できめ細かいのです。
mura-taiken 経済, 交通 土地の流動性改善には相続税アップが有効。(後略)
yamamototakehisa とりあえず、23区には5階建て以上の建物しか建てられない法律作れば解決するのでは。んで都心には10階建てのみとか。
相続税をアップしてもほとんど無意味。重要なのは基礎控除の縮小・廃止です。しかし相続税では、バラバラの土地が少しずつ市場に出るだけ。土地の流動性の劇的な改善はありえません。
そこで、もう半世紀以上にわたって経済学者が提案し続けているのが、土地の利用区分をなくして、固定資産税を住宅地からもきちんと取る政策です。一律に土地の実勢価格のX%を徴収する税方式へ転換するのが、経済成長のためにはいいのです。
産業の栄枯盛衰を邪魔しないことが、日本経済を発展させ、生活水準を上げ、平均寿命を延ばすためには欠かせませんでした。同様に、土地だって経済状況の変化に合わせて、最適な利用法をすべきなんです。住み慣れた家や土地を手放したくない。わかりますよ。わかりますけど、それが通勤地獄の元凶なんです。
東京の労働者は通勤距離が長い。都心に低層住宅がひしめいているから、郊外にしか家を持てないんです。地価連動の固定資産税で再開発が自動的に進むようにすれば、都心の延べ床面積がドンと増えます。すると、地価は上昇しても住宅価格は下がります。都心と郊外で価格競争になるからです。
こうして職住隣接が進めば、人々の平均移動距離が短くなり、また徒歩や自転車での通勤も増えますので、鉄道の需要が減ります。
kash06 社会, 鉄道, 交通 個人的には今の暮らしが維持できるのなら、通勤電車なんか辛くない気がする。平均乗車率200%↑の路線ユーザとして。
Roen-hi 通勤ラッシュなんざ分かりきってるのに移住するんだろ?そいつらの選んだ道なんだし。解消するにはそれこそ地方都市への強制移住しかないんじゃねーの。そんなの無理なので結局、我慢しろとしか言いようがないw
Nean ヒトの非合理なわがままを認めなければ、ニヒリズムしか出てこんよ。空いた電車に乗りたいという望みと、土地に愛着を持つ気持ちと比べて、前者のみが合理的なもんだなんて云えない。
mahal 雑ラン1, 鉄道 xevra氏のお好きな既得権益論に対して、別の角度の既得権益をぶつけてみました、みたいなお話。ただ、全体としては、一部の既得権益者よりは追記で指摘されるようなマジョリティの選択が生み出した現状ではあろう。
何だかんだいっても、実際はそういうことなんじゃないか、と思ってはいるのです。
料金を上げて通勤地獄が緩和されても、人々は喜ばないんじゃないか。東京オフィスの損益分岐点が上昇して、勤務先が田舎へ移転したらガッカリする人が多いんじゃないか。そして東京の土地利用効率を飛躍的に上げる施策は、東京に家や土地を持っている人の怒りをテロを辞さない水準まで跳ね上げるのではないか。
sauvage これはひどい, 鉄道, 都市 満員電車問題の論考って本当酷いのばかりだな。土地の使用区分も無しに地価/用途が決ると思ってるし。特定都市鉄道整備積立金制度って運賃上げて複々線の原資にする方法だよ。結局現行の緩々した方法が実現的という
政治家だって合理的に行動しているわけで、特定都市鉄道整備積立金制度という「+少々」でゆっくり解決していく判断は、唯一無二の選択肢ではないとしても「妥当な判断」でしょう。とはいえ、混雑時間帯だけ鉄道運賃を上げるという施策は、海外で実施して成果を上げた方法であり、日本でも実行可能だと思います。
私が一番読んでほしかったのは、先の記事の中でもリンクしていた、この記事なんですよ。でも古い記事をリンクしても、クリックする人がいなくて、どうしても話題にならない。だから新しい記事を書いた、という背景があります。
母「つらかったら仕事を休めばいいよ。私も今日は休むから」
父「ゆっくり休んでね。おいしいご飯つくるよ」
母「掃除と洗濯を忘れちゃダメよ。まったく自分の好きなことしかやろうとしないんだから」
父「掃除と洗濯は隆夫と弟くんがやってくれるからいいの」
私「えっ!? は、はい。やります」
弟「お兄ちゃんがやってくれるならボクは何もしなくていいよね」
母「そう、いい子ね」
私「えっ!?」
なんでテレビ画面の向こう側の世界ってのは、こんな簡単なことができないのかな。長らく私は、不思議に思っていた。友だちの家でもご両親はたいてい仲がよさそうだったしね。
母「何もなかったらドラマにならないでしょ」
でも、学校に行けばいじめはあるし、けっこうテレビって本当のことを描いているんだな、と、私も少しずつ理解してきたわけだ。
先日、実家へ帰ったら、父が洗濯をしていた。全自動洗濯機だからラクラク、だそうだ。
父は本社の延長雇用で60歳まで働いて(50歳で役職定年、55歳で定年だった)退職。同僚はみな65歳まで子会社での再雇用を希望したそうだが、うちの場合は、母が「もういいんじゃないかしら。長い間、お疲れ様でした」といったので、父は喜んで仕事を辞めたのだという。
伯父もさっさと早期退職して清貧生活を始めたし、両親どちらの家系も、あまり労働に燃えるものがない人が集まっているみたい。
家の中では「頭がわるい」という理由でないがしろにされがちな父だけれども、弟が父の会社へアルバイトに行ったら、「あの徳保さんのお子さんだって!? お父さんはすごい人なんだよ!」とすごく尊敬されていたので驚いたそうだ。
父は発言こそ意味不明だが、将棋や麻雀がかなり強い。かつてその職場に係長として配属されて間もない父は、趣味の範囲を超えたレートで若い社員から金を巻き上げようとする古参を、ヘルプで入って逆に打ちのめし、高額レートの麻雀をやめさせた。以来、一部の社員の間で伝説的なヒーローとなっていたのだという。
以前、私が会社訪問で訪れたときには、父より「頭がいい」人ばかりが案内してくれたので、「徳保君か? うん、人柄がいいね。仕事の方? まあ、ぼちぼちだな」と冴えない感じだったんだけど。「隆夫くんはお母さんに似て賢いらしいな」なんていわれて、私は困った。父が嬉しそうな顔をするので、私はもっと困った。
ともあれ、ずっと父を馬鹿にしてきた弟は、なぜ自分は麻雀の才能を受け継がなかったのか、と、はじめて父に似ていないことを悲しんだ。いや、それよか、弱い者いじめを座視せずリスクを厭わず助けようとする、その正義感こそ尊敬に値する、と私は思ったんだが。
公務員はやっぱり非常識だ、みたいな感じで10月に盛り上がった話題。
公務員は上司に乱暴な言葉遣いをしても解雇される心配が無いから、こういうことになる……らしい。とすると、民間なら、こうした言動は即解雇につながると考えている人が多いわけか。
私は社会経験の乏しい方だとは思うが、部下が上司に「あんた」呼ばわりする現場には、何度か出くわしている。上司の目の前で堂々と指示への不満を口にし、「こんなバカな指示には従えない」などと断言する人にも、しばしば出会った。いきおい上司の側も感情的になるが、いきなり解雇をちらつかせた人はいなかった。
売り言葉に買い言葉のような形で上司が権力を振りかざして威嚇するに至った場面も見たことがあるが、それは例外。ふつうは一個人として非礼に怒るもの。もちろん上司が聞き分けの無い部下の説得を放棄して「命令」するケースは多いが、それは部下の言葉遣いに怒って人事権を脅しに使うのとは次元の違う話。
知事は組織のトップであり、上司を飛び越えてダイレクトに「お前」は過激だとは思う。思うけれども、それを批判するのに「民間ならクビだぞ」というのは、おかしい。もし、そんなに簡単に社員を解雇する組織があるとすれば、大阪府の職員の言葉遣いなどより、よほど大きな問題のはずだ。
新入社員教育の話題。IT企業でプログラマーを育てるケースについて、2つの記事を読みました。
「わからないことがあったら質問しなさい」と言い聞かせても、新人はGoogle検索で時間を浪費し、1日に2回くらいしか質問をしにこない。しかもその内容は本来の課題から明後日の方向にズレており、肝心の基礎学習が進んでいない。このままではコピペプログラマーになりそう、とひでみさんは心配します。
これに対してteruyastarさんは、半ば放任状態の新人が質問をしないのは当然、きちんと教育したければ上司も楽はできない、と説く。しかし指導の見返りは無いに等しく、教育好きの人以外に理想的な指導は不可能。それでもTwitterやミラーモニターなど、道具の工夫で多少の改善は見込める、といいます。
私にプログラマーの経験はありません。だから単純に応用できる話ではないでしょうが、今の勤務先、過去のアルバイト先で、「なるほど、これはいいかも」と思ったアイデアがあるので、ご紹介します。
新人は書類を持っていないので、とりあえず、引き出し等のないシンプルな長机で仕事をさせます。すると、1つの机に椅子を2つ並べられます。指導係は自分の電話とパソコンを持っていき、新人と並んで仕事をします。指導係は書類等の都合で何度も席を立つ必要がありますが、意外と何とかなるものです。
こんなことで、結構うまくいく。仕事の息抜きに新人の面倒を見たり、雑談をしながらヒントを与えたり。新人がノートとペンを忘れても、「じゃあメモ帳に書きなさい」といえば済みます。「二人とも椅子に座ったままコミュニケーションできる」という、ただそれだけのことが、意外と大切だったりするのです。
騙されたと思って、ぜひやってみてください。
教育というと、心と心の問題ばかり注目されがちですが、人の心は案外、物理的な条件に左右されるもの。いちいち席を立って移動する必要があると、指導も質問も億劫になります。逆に指導係と新人の距離が近ければ、面倒見の悪い指導係でも助言欲がわくし、会話などを通じて新人の心理障壁を下げやすいのです。
あとやっぱり、新人は不安なんです。指導係が怖くて、質問できなかったりする。それで時間を浪費し、ますます恐怖に支配されていく。1日一緒にいれば、指導係といえど、昼休みに間抜け面で鼻毛をカットするとか、テレビ番組の予約録画を忘れて悲しむとか、ポカして部長に叱られるとか、いろいろわかります。
私の経験を少し。通勤ファッションに気合を入れてる先輩が「安全靴って蒸れて嫌よね」といって靴を脱いだとき、「あっ」という。目を落とすと、靴下のかかとのところに穴。先輩は夕方までずっと靴下を気にしてもじもじしていました。理由は不明ながら、私はこの一件で出社が楽しくなりました。
以降、私は何度も先輩に意見をぶつけました。「それっておかしくないですか」「こっちの方がよくないですか」「(とくに代案はないけど)納得できません」……しかしそのほとんどが、偏見、思い込み、勘違い、覚え違い、一般化できない成功体験、といった問題に起因しており、毎回コテンパンにされました。
私が潰れなかったのは、先輩のいないところで「もじもじ靴下……」と呟くと、不思議と元気が出たからです。こうして、先輩は、新人の厄介で頑固な欠点を短期間にいくつも是正することに成功しました。すごい! でもこれって、1割くらいは「指導係が新人と並んで仕事をする」アイデアのおかげだと思うんです。
この記事のポイントは、徳保隆夫は成功体験を安直に一般化する誤を犯すタイプだ、ということ。読者の皆さんは、その点、よくよく注意してください。
職場で「へー、たしかに、これ面白そうですね」とかいうと、「じゃあこの仕事を担当してね」となったりする。その場では何も起きなくても、数ヵ月後に不意打ちされたり。「じつはね、あのシミュレーションソフトを導入したんだよ。早く覚えてみんなに教えてね」「はいぃ?」
人と一緒にスーパーへ買い物へ行く道すがら、「すき焼き食べたいな」とか話す。まあ白菜は今年もまた価格が暴落しているんだけど、予想通り牛肉には手が出ないわけだ。よし、豚肉を買って、蒸し焼き風の料理を作ろう、と思い直す。よく考えてみれば、すき焼きは会社の仕出し弁当で時々食べてるし。
ところが、「お金なら出すから!」とか言い張られたりするので、私は困る。「本当は食べたいんでしょ! 遠慮しないでよ」いやいや……。食べたい食べたいと朝からいっていたならともかく、ちょっとした会話の中で、思いついた料理名を口に出しただけなのになあ。仕方なく、白滝を買いに戻らされる。
挙句の果てに「何が不満なのよ」「いや、不満というわけでは……」「それなら、もっと嬉しそうにしなさいよ」「はぁ」どうにもこうにも調子が狂ってしまう。人のいうことをいちいち真に受けないでほしい。そんなに言葉に責任を背負わされるなら、何も話したくない。
人の親切を無碍にするのはしのびないが、「面倒くさい」という気持ちを乗り越えて満面の笑みを作るだけの度量もない。そういう身勝手な自分にガッカリする。
こうして私はどんどん口が重くなっていく。次にスーパーへ行くときは、具体的な料理には一切触れず、「思いつき」「直感」「フィーリング」と強弁して、適当に安い食材を買うことにしよう、と思う。言葉に判断を縛られたくない。だから何もいわない。「何を考えているかわからない」人になりたい。
言いたいことが面と向かって言えない、それゆえにコミュニケーションがうまくとれないということはあると思います。黙っていてもわからないし、つい饒舌な人がその場を取り仕切ってしまうということは、会議等でもよくあることだったりします。
というか、「わかられたくない」んだよね。放っておいてほしい。喋りたい人が勝手に喋ればいい。自分は置物になりたい。場を仕切るとか、面倒なだけじゃん。他人任せにできるなら、それがいいよ。どうせ誰が仕切っても(自分にとっては)大差ないんだし。
寡黙なのが悪いとかそういうことを言っているわけじゃないです。なかなかリアルでは話ができない。口下手だという人は多いと思います。言いたいことも言えない。そういうことあります。うまく人と会話することができなくて、集団の中ではだんまりになってしまうということも。
つまり、寡黙なのはいいけど、口下手は損だね、と。
この先は、こもこさんとは関係ない話。「いいたいことがない」から何もいわないでいるのに、「いいたいことがいえない」と決め付けてくれる親切な人についての雑感です。
「話してくれなきゃわかんないよ!」とかね。わかってほしくないんだよ。「空気読め」というなら、そちらも察してほしい。正直に何度かそういう説明をしたんだけど、「そんなわけがない」とかいう。
そりゃあ損得の話をするならば、コミュニケーションを拒否して具体的な利益が得られることはないよ。でも、具体的な利益のないことなんて、みんな何かしらやってるじゃないか。テレビのバラエティ番組を見たりさ。他人の理解を拒否するとか、話をしない、ってのは、自然な欲求なの。損得じゃないの。
そんなに他人を理解したいなら、まず俺のいうことを理解しろ、とか思うんだけど、お節介焼きの方々は、なかなかわかってくれない。もちろん私だって、「放っておいてほしい」ということは、理解されたい。ただしその先は、一歩も踏み込まれたくない。そんな感覚。
でも、こんなことをいちいち他人に説明したくはない。自己紹介はストレスのもと。飲み会とかに参加して、何も説明せずに置物となって場に溶け込み、他人の話を黙って聞いて帰ってくるライフハックがあるなら、ぜひぜひ知りたい。
人の話を半分居眠りしながら聞くのはかなり好きなので、「いかに自分が何も話さないでいられるか」という問題さえ解決できるなら、じつはオフ会とか、たくさん参加してみたかったりもするのですよ。
まあ、双方向のコミュニケーションを求める人が集まる場で、「自分だけは単方向のコミュニケーションに徹したい」なんてのは無理な話なんだろう、とは思う。思うけど、世の中、天才がたくさんいるわけだから、ひとつやふたつ、とっくの昔にいいアイデアが発表されているんじゃないか、と期待してるわけ。
バカの考え休むに似たり、という格言もある。自分で考えるつもりはない。
うーん、誤解されそうなので補足。
「いいたいことがいえない」ので黙っていることは、たしかにある。あるんだけど、それほど多くはない。私は「いいたいことがある」ときは、むしろふつうの人より、気軽に発言してきたつもり。上司にガンガン反論するとかね。つまり私は、「いいたいこと」の基準がふつうと違うんだね。
黙っている人にも、私のように「心底喋りたくない」タイプと、こもこさんが想定されているような「本当は喋りたい」タイプの2種類がある。で、世間に後者へのアドバイスはあふれているけど、前者へのアドバイスはあまりない。少数派って、損だな。
ひどいなー、と思うのは、その数少ないアドバイスの過半が「話題がなくてもこれで安心! 話題を見つけるテクニック!」みたいな内容なんだよね。結局、喋るしかないのか……という。
「いいたいことをいえない」人に親切なアドバイスをしてくれる人は多いけど、「黙っていたい人が上手に黙り続けるコツ」を教えてくれる人が少ないのはどうしてだろう。
私の場合、そもそもブログなんて1日に1〜3つ程度の話を書いているだけで、こんなの、口に出して話せば3〜10分程度。なのに「ネットでは饒舌」と思われがちなんだから、頭を抱える。月に数回しか記事を書かないことも珍しくないのにね。
1週間に30分くらいしか口を開かない人を「饒舌」だと認識する方がおかしい。私はネットでも「リアル」でも「寡黙」なの。なんで勘違いされるのかなあ。
私はオフラインで話を振られても、まともに答えないことが多い。それは、いいたいことが何もなくて困っているだけなんだけど、これもなかなか理解されない。ブログの記事は、いいたいことがあるときだけ書いているのであって、私は世の中のほとんど全てのことに関心が薄いのだが、そういう風には見えないらしい。
とまあそんなわけで、私はむしろ、オフラインで饒舌な人が「ブログに書くことがない」とかいうのが、よくわからない。別にブログなんか書いても具体的な利益はないので、わざわざ書く必要はないのだけれど、「書きたいのに書けない」といわれると、ポカンとする。
ほんの3分前までマシンガンのように喋ってたことを書けばいいじゃん……。
世の中、「100喋って1書く」くらいの人が多いから、私が2とか3書くと、オフラインで200とか300喋っていると勘違いされるんだろうな。実際には4〜5、高々10くらい。この1年ほど、会社で電話を取ることが多く、1日の平均声出し時間が30%上昇って感じ。実験室の同僚に電話を取り次ぐだけだが。
だいたい世の中「どうでもいい」ことばっかりなわけで、「ほらっ、徳保くんもいいたいことはバシッといった方がいいよ! こんな機会、そうそうないんだからさ!」とかいわれても困る。どうでもいいことを「どうでもいい」というと角が立つ。かといって、ただ頑なに発言を拒み続けても周囲を不快にさせる。
こんな場合のライフハックを100種類くらい読んで、自分好みの解決策を選択したい。
面白いな、と思ってカスタマーレビューを書きました。その際、ふと気になったことがあって。図書館と書店で探してみたら、けっこうありました、教祖入門。
柔らかい本、硬い本、いろいろあるけど、ちょっと驚いたのは、意外と「安い」こと。つまり、売れている。教祖様というと大袈裟だけど、檀家に支えられた寺の世襲の住職さんというのは、小さな宗教の代表みたいなもの。新人の教祖さんが日々誕生しているんでしょうね。
「宗教法人ハンドブック」は版を重ねているのも納得の出来。説明もこなれていて、豊富な情報がコンパクトにまとまってる。宗教法人にちょっと興味があるだけの一般人が読んでも、意外と面白い。まあでも、図書館が無難かな。やっぱり専門書には違いないし。
こちらは一般向けに書かれていて読みやすいが、おそらく実用にならない本。
そして図書館で見つけて驚いたのが、文化庁の編集したこの3冊。まあでも、よくよく考えてみれば、日本の政府はこうした実用的なガイドブックをいろいろ作っているんですよね。税金でやるべきことかどうかはわかりませんが……。
やっといいサイトが出てきた、というのが正直な感想。同じようなサイトはいくつもあるけど、どれもこれも、「Twitterを使ってる人」にばっかり便利で、「Twitterで記事を紹介された人」にとっては面白くも何ともないサイトばっかり。つまんないな、と思っていたんです。
これですよ、これ! 前方一致の被言及URI検索! この機能があれば、ブロガーが自分の記事への言及を補足できるわけ。
http://tweetbuzz.jp/domain/deztec.jp *強調部分を必要に応じて書き換えてください
Twitterが嫌なのは、アクセス解析しても誰に言及されているのかわからないこと。Twitter 経由のアクセスをリンク元解析しても http://twitter.com/ か http://hootsuite.com/dashboard がほとんど。勘弁してよ、と思ってたんです。
しかも Twitter のつぶやきをアドレスで検索できるサービスの大半は、短縮URLを展開してくれない。だから被言及側のチェックには全く使えなかった。その点、TweetBuzz は短縮URLをきちんと展開して解析してくれてるのが嬉しい。ようやくこういうサービスに巡りあえて、私は感激しました。
いま TweetBuzz が提供しているのは、はてブの新着エントリー一覧に相当するもの。
私が一番ほしいのは、新着ブックマーク一覧に相当するページです。いろいろ見て回ると、意外と Twitter でも古い記事が紹介されることがある様子。エントリー一覧だと、そういうのを発見し損ねてしまう。だからやっぱり、記事単位じゃなくて、つぶやき単位で全てを並べるページがほしいです。
私の中ではCELL REGZAの話と同じフォルダに入っているのが「ニュースはインターネットで見るから紙の新聞は要らない」という意見への反発。会社の同僚は何かと「徳保くんは物知りだね。どうしてそんなことまで知ってるの?」というので「毎日1時間、紙の新聞を読んでるだけです」と答えているのに、誰も真似しない。
通勤中の都電の中で15分、昼休みに45分。同僚は、朝もTVニュースを見て、昼はネットでニュースを見て、夜もTVニュースを見ていたりする。それでいて私よりニュースに疎い。なんて非効率なんだろう。
はてブでも、紙の新聞をきちんと読んでいればとっくの昔に得られた程度の情報が「知らなかった!」と話題になる。話題になるだけじゃなくて、「どうしてマスコミはちゃんと報道しないんだ!」なんて人が必ずといっていいほど出てくるから、「ふざけんな」といいたくもなる。新聞を読め、というのだ。
「自分が事前に関心を持っていない情報」を収集できるのが、紙の新聞のいいところなんだ。ただそれだけの話なのに、何度話しても、納得させられない。何が足りないんだろう。「物知り」をおだてている方がいい、って、どういう理屈なんだろう。
娘(5歳):パパ、テレビ止めて!もう一回観たい!
俺:YouTubeじゃないから止められないの
娘:なんで?…じゃ、ねこちゃんが観たい!
俺:テレビは検索できないの
娘:意味わかんない!
……みなさま、これが本当のデジタルネイティブです
そんなのSPIDER ZEROがあれば家庭のテレビでYouTubeとは比較にならない高い水準で実現できることなんだが……と思ったんだけど、公式サイトを見てみたら、10月8日で販売を終了していた……。まあ地デジ非対応だから、そろそろ潮時か。2011年末に地デジ版が発売されるらしい。
じゃあパソコンはというと、VAIO type Xも販売を終了して久しい。そろそろ地デジ版が登場してもいい頃なんじゃないか……と思ったら、テレビサイドPC自体がVAIOのラインナップから消えていた。TP1とか開発してた人は今頃何をしてるんだろう。富士通のTEOも滅びたし、HDDレコーダーをPCで置き換える試みは失敗した様子。
ところで、PCでただ単に全チャンネル録画するだけなら話は簡単で、複数台接続可能な外付けTVキャプチャを4つくらいぶら下げればいい。HDDを追加購入しても、実勢価格で7〜8万円くらいの話。
それが前述のような商品とどう違うかというと、「チャンネルを時間帯を選択するだけで自動的に番組単位で録画する機能」「自動でシーン解析して検索用のメタタグを付ける機能」などの有無。ただ単に8ch同時録画できるだけでは、現実問題として、録画したデータを死蔵することになってしまう。
相変わらず2番組同時録画止まり。コクーンも死んだ。店員情報だと、みんな意外と録画しないので、2ch以上は性能過剰で売れないという。会社の同僚も「録画なんて面倒」だという。だからこそ「全番組を録画しようよ」って話なんだけど。
30万円は高い? でも年収が1000万円あるなら、テレビごときに生活時間を左右される方がバカらしい。人と会いたいときに会う自由、電話で話したいときに話す自由、その価値は比類ない。type Xを発売直後に買った人は、アナログ終了までの6年半、その自由を得たわけ。30万円なんて安いよ。
……といいつつ、私は持ってない。年収400万円くらいなので。その代わり、複数台のTVキャプチャを駆使して、視聴したいテレビ番組は全て録画してから視聴してる。決して放送をリアルタイムでは見ない。私にとって決定的だったのが、「録画すれば高速再生できる」こと。速読と同じで、いったん慣れたら「見たい」番組の97%は「高速再生で十分」だった。
「高速再生なんてひどい。自分なら視聴番組を絞る」というのもひとつの判断。私も、ずいぶん試行錯誤した末に、今の生活スタイルに落ち着きました。
今の私は平日に映画を3本見ながら(2倍速再生)、同時にブログも更新したり。これは苦行ではありません。むしろ「見ないと気になる」「見ればそれなりに面白い」という気持ちを全肯定して、最も快適なカタチを追求した結果なんですよ。
地デジ8chを常時同時録画するテレビ。検索機能も極めて強力。このテレビがあれば放送時間なんか全く気にせず生活できるようになる。HDDが2TBしかないのが残念なところ。それでも時間帯を絞れば1週間分全て録画できる。12月上旬発売らしい。
でも100万円は値段が高すぎるよね……。type XやSPIDER ZEROの30万円前後という価格でも、みんな手が出なかったのに。それでも、繰り返すけど、年収が1000万円くらいあるなら、番組表なんかに時間を拘束される方がアホらしいと思うよ。100万円で6〜10年分の時間を買うんだと考えれば、そんなに高くはない。
まあ、最初に引用したTwitterのつぶやきを書いた鈴木菜央さんは、(私よりは収入が多いとしても)そんなにお金持ちっぽくないから、「100万円のテレビを買え」とかいわれても「えっ!?」て感じだろうし、無茶をいってる自覚は私にもあるので、適当に読み流してください。
必読! 「CELL REGZAがあれば、こういうことができるんだ」ってよくわかります。これ自体はSPIDERの記事だけど。
私が一番いいたいのは「YouTubeってそんなに面白い?」ということなんだけど、いつも話がそこまでたどり着かない。もう2年くらい、何とかうまく説明できないかと思っているのだが……。YouTubeに感動した人の気持ちはわかるけど、もうテレビ放送は要らない、とかいう人の気が知れないんだよね。
財務省が非公開の場で実質的に「事業仕分け」と同じことをしていたときには、大して話題にもならなかった。なのに、こうして公開の場でやると、やれ基準がどうの、素人の議論だのかんだの、と喧々諤々の議論になる。それは公開の「成果」なんだろう、とは思う。
財務省時代の片山さつきさんは2chの軍事板で評判が悪かった。素人が防衛予算を切り刻んでいる、という。どんな分野でも、ある程度お勉強をすると「お金さえあれば改善できる(かもしれない)状況」がたくさんあることに気付く。財政タカ派の国会議員も、閣僚になると、自分が代表する省庁の予算を増やそうとする。
でも、予算の総額には一定の限度があり、有用な施策であっても、無制限には認められない。必要なことにお金を使うなら国民は納得してくれるはず? 実際には、万人が認めるお金の使い道なんて存在しない。
それに、民間と同様に政府も予算の無駄遣いを完全には解消できない。「無駄」の割合は少しでも、総額が莫大だから、絶対額が衝撃的。福祉予算の不足は「無駄」とは桁が1つ2つ違うが、国民は「無駄」に怒って増税を認めない。だから「必要」な事業も整理を避けられない。
「国家戦略を示せ」という意見もよく見かけるが、男女共同参画にせよ科学技術の振興にせよ、それを進めるべきだという意見に反対する人はまずいない。問題は、個別具体的な施策の費用対効果なのだ。しかもそれは、客観的な計算に基づいて序列化すればみな納得する、という性質のものではない。
日本で農業を振興するのは馬鹿げた話だが、国民はそう思っていない。こういう種類の施策が山ほどあるので、客観的な費用便益計算により予算を見直すなんて、不可能なのだ。「国民の常識」という曖昧な基準に基づいて、予算の総額を求められる水準まで抑制していくしかない。
無茶をいっても仕方ないだろう、と思う。
はてブ的には、スパコン開発支援の見送りが一番、話題になっている。はてブ民の「常識」に反した予算削減だった、と。ふうん。もしこの件に関するはてブの感覚が全国民の感覚に近いなら、大臣折衝や国会論議で必ずこの件は再論され、結論がひっくり返るはずだ。
だいたい、予算を増やす方向の議論は通りやすい。
私は以前、このウェブサイトを好意的に紹介した。しかし、こんなの税金の無駄使いだ、という意見も、理解できる。99%の国民は、このウェブサイトを見ないに違いない。だから、廃止したって不都合はないだろう。同じ金額を使うなら、マスコミへの情報提供を強化する方が、よほどいいかもしれない。
が、それはそれとして、このウェブサイトが有用であることは疑いがない。税金を使って行われている事業の少なからずが、このような種類のものだ。政府広報オンラインを見たおかげで、正しいインフルエンザ対策を実行でき、命が助かる人がいるかもしれない。それでも、これは税金の無駄使いかもしれない。
だから、事業仕分けは難しい。
しかしこの、「更新するのに決意を要する」という状態。これが一番の更新の妨げである、と実感しました。
たしかに。私がこのところ実践している、タイトルに「memo:」をつける、というアイデアも、ようするにこの問題への対処なんですよね。どうかお手柔らかに、と、まず「自分に言い訳をする」わけです。
……という、ブクマで済むくらいの長さの記事を公開するのも、今後の更新をラクにするため。(とかいいつつ、結局、MTには投稿しないかも?)
現場の人の打ち明け話。フォーマルな場ではなかなか聞けない本音がたくさん。メジャーなジャンルだとこういった書籍もあるんだけど、ちょっとマイナーな話題になると、なかなか。
……いや、実際にはウェブにもあまり情報ってないんだよね。本屋にあふれてるタイプの情報の少なからずがウェブにはないし、ウェブならではみたいなコンテンツも、まだまだ品揃えがイマイチ。私が書いた「夏休みの宿題」が何年経っても特異な存在であり続けているのは、その一例。
ISOの環境管理に仕事で関係してる人は世の中にたくさんいるわけでしょう。ブログの断片的な記事だけでも、もっと書き手が多くなってもよさそうに思う。引退して制約の少なくなった人も多いだろうし。
ゲームのレビューに何が求められているのか、正直、よくわからない。
商品説明のスカスカなゲームについては、自分が事前に「こういう作品」というイメージを掴むためにチェックするような情報を、800字の制限内で目いっぱい詰め込むことにしています。リンク先のレビューも同じ。だけど、どうもあまり参考にならないらしい。
古いゲームだと公式サイトが消えているから、レビューだけが情報源だったりします。あるいは、公式サイトが運よく残っていても、内容が空っぽだったり。それで判断に困ったとき、形式的な情報をたくさん書いてくれているレビューのおかげで、助かったことが何度もあります。だけど、そういう人って、少ないのかな。
まあ新作なら公式サイトを見ればいいわけで、レビューはもっとツボを押えて書かないと、ということなのかもしれないけれど。
私のレビューは、有用性が高い順でも新着順でも沈んでしまったので、基本的にはもう読まれていないのだけれど、ポツポツと「参考にならなかった」票ばかり増えていく。情報を羅列するなら箇条書きを活用すべき、といった、文章の整形に対する不満なのかな?
おかしい、とは思わない。それなりに、順当な結果のようにも見える。それでも、自分のレビューをどう書き直したら「参考になった」と思われるのか、それがわからない。
面白かった、つまんなかった、という感情しか書いてないレビューは、ふつう、高評価を得られない。かといって、客観情報の多いレビューが高評価というわけでもない。うーん?
完全に負けた。かなり頑張ってレビューを書いたのですがね。こればっかりはハッキリいうけど「ロクでもないレビュー」に押し負けました。いい勝負になったのは最初の3日間くらい。たった1週間で有用なレビュー上位3枠から滑り落ちました。
ガッカリしちゃうけど、これは投票者の偏りが明確なので、まだいい。
やっぱり、なんで低評価なのかわからないケースが一番つらい。
仕事関連でちょっとWindows7の解説書をたくさん読んだので、いくつかレビューを書いたんだけど、いきなり「参考にならなかった」票ばかり立て続けに入って、挫けました。何が気に入らないのか。数年前にSNSやブログの解説書を横断的にレビューしたときも、不可解な得票状況になって首を傾げました。
あとは経済本のレビューもそう。いい本を褒める場合はいいけど、よくないと思う本を批判的にレビューすると、「参考にならなかった」票が上回る。じゃあ褒めてるレビューが「参考になった」かというと、それも微妙な感じ。どんなレビューならいいんだか、わからない。
こうしてだんだん、レビューを書けない商品が増えていく。HTMLの解説書と同様、本当はダメな本もきちんとレビューして、「こういう話題に興味があるならこっちの本を読んだ方がいいですよ」と書きたいんだけど。はぁ〜。
昨日、野嵜さんとのちょっとしたやり取りをきっかけに、何冊か本を買おうと思いまして。本当は雨の日に本は買いたくないんだけど、仕事の都合で他に買い物をするついでにジュンク堂へ。
やっぱり、1万円超の本を買っても、雨天を気にせず通常のビニール袋に詰め込んでくれるだけだった近所の書店とは違う。本の重さに応じて持ち手が痛くならないようなバッグを選んだ上で、バッチリ雨天対応の防水対策もしてくれた。さらに喫茶店の無料券がオマケにつく。
さすがジュンク堂書店。とはいえ、環境問題を考えれば過剰包装ではあって、雨の日は本を買わないのが一番いい、とは思う。ちなみに、ジュンク堂のバッグは丈夫なので、スーパーへ持参して「エコバッグ」にしてます。
やたら長い作品名をネタにした記事が一部で話題。ただのジョークかもしれないが、批判的な意図も込めているんじゃないか、と私は思う。
ちょっと表記を変えると、こうなる。
『ファイナルファンタジー(FF)』シリーズの外伝的存在として発売されている『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル(FFCC)』シリーズ(発売: スクウェア・エニックス)。その最新作としてWii専用ソフト『FFCC クリスタルベアラー』が発売された。すべての『FFCC』シリーズは同じ世界の時系列上を舞台としており、今回発売された『FFCC クリスタルベアラー』は『FFCC』よりも未来の時代を描いたストーリーとなっている。
『FFCC』シリーズを時系列順に並べると、一番古い時代を描いた『FFCC リング・オブ・フェイト』から始まり、続いて『FFCC エコーズ・オブ・タイム』、『FFCC』、『FFCC クリスタルベアラー』の順で時代が流れている。特に『FFCC リング・オブ・フェイト』は『FFCC』よりも2000年以上前の時代を描いた作品であり、最新作の『FFCC クリスタルベアラー』とやり比べて世界観の違いを見比べるのも楽しいかもしれない。
実は、『FFCC』シリーズにはWiiウェア専用ソフトもあり、『FFCC』とほぼ同じ時代を舞台にした『小さな王様と約束の国 FFCC』という作品も存在する。実はあまり知られていない事だが、『FFCC』はスクウェア・エニックスではなく任天堂が発売している。しかし、以降の『FFCC』シリーズ作品は全てスクウェア・エニックスが発売しており、何らかの内部事情があるものと思われる。
『FFCC クリスタルベアラー』は『FFCC』よりもさらに数千年後の話らしく、他の『FFCC』シリーズには出てこなかった近代的な乗り物や技術力が登場している。そのあたりも楽しめる部分のひとつといえるだろう。『FFCC』シリーズは非常にアクション性の強い作品が多く、『FFCC クリスタルベアラー』もアクションが楽しめるゲームとなっている(公式ジャンルはアトラクション・アドベンチャー)。
『FFCC』シリーズが好きだった人もまだ遊んだことがない人も、『FFCC クリスタルベアラー』の世界を体験してみてはいかがだろうか。『FFCC クリスタルベアラー』は『FFCC』シリーズのなかでも、とっつきやすい作品のひとつとなっている。
ある程度、読みやすくはなったけど、もともとゲシュタルト崩壊狙いのくどい文章だということがわかる。
同種のジョーク記事の題材としては、「大長編ドラえもん」「劇場版ポケットモンスター」「劇場版クレヨンしんちゃん」などが考えられる。とくにポケモン映画はひどい。「劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチ」「劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 裂空の訪問者 デオキシス」「劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者 ルカリオ」「劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ」という具合。「FFCC」のような便利な略称もないし。
正式名称には必要な情報を全部入れておかないと、という話。しかしポケモン映画の「アドバンスジェネレーション」とか「ダイヤモンド&パール・プラチナ」というのは、どうにかならないか。FFCCの「クリスタルクロニクル」というのも大概にしてほしい補題のひとつだとはいえそう。
リフレ関連の秀逸なエイプリルフール記事。念のため補足すると、極東ブログの記事は、外生的な経済ショックによる需要の急減に対応して「政府紙幣を25兆円発行する」という内容。
この10年、議論は同じ。デフレは有害。インフレは起こせる。2〜3%くらいのインフレ率がいい、という共通認識もある。問題は、緩やかなインフレを起こそうとして、いきなり制御困難な大インフレにならないかどうか。
日銀が国債を買うと、市場に現金が増えます。商品は増えずにお金だけ増えるから、ふつうはインフレになります。そうならないのは、「供給が増える」場合と、「デフレが続きそうだから、もっと商品の価格が下がるまで貯金しておこう、と貨幣が退蔵される」場合。日本では、後者の影響が大きいといわれます。
逆にいえば、「供給が減る」か「貨幣がよく使用されるようになる(=貨幣の流通速度が上がる)」と、インフレになります。ただし急激に供給力が毀損するケースは考えにくく(関東大震災のときも大インフレになるほどの供給力の減少は起きていない)、日本が平和国家である限り、まず問題はないはずです。
やはり心配されるのは、突如として通貨への信頼が失われ、人々が大量に溜め込んできた預貯金を一斉にモノと交換しようとするケースです。私は杞憂だと思っていますが、過去に例のない話ではありません。物価は全員共通なので、「通貨の退蔵」が一斉に反転する恐れがあります。
だから、「通貨供給の拡大だけでインフレを実現する」という政策にはあまり支持がない。そこで注目されるのが、人々が目先の消費を我慢して預貯金に励んでいる理由のひとつに、将来不安があること。
生産性の向上などによる将来不安の払拭策は、全国民に同じタイミングで等しく影響を与えるのではなく、人それぞれ時間差と濃淡のある影響を及ぼします。そこで、通貨の量をあまり大胆に増やすことなく、将来不安を減らすことで防衛的な預貯金シフトを緩めるのが安全、というのが主流派の考え方らしい。
しかし私は、デフレの害は深刻なので、リスクを取ってでも通貨供給の急拡大による短期決戦でのデフレ脱却を望みます。もちろん大インフレは怖いけれども、日本には失業者と潜在的失業者が膨大に存在するため、インフレは生産力の急拡大によって抑制しうると思っています。
ちなみに、潜在的失業者の中核をなすのは60〜70歳代の男女のうち、労働が可能な1500万人です。かつての日本では農業や自営業の従事者が多く、「死ぬまで働く」「男女を問わず働く」のが当たり前でした。今後、サラリーマンも定年を廃止して、死ぬまで働くのが当たり前という社会にすべきだと思う。
以下、全く空想的ではあるけれども、私の考えるリフレ政策について簡単に書きます。
こうした非常手段で国債を償還すると、市場は「いよいよ財政破綻のときが来た」と受け止めるだろう、との批判があります。日本円と日本国債のパニック売りが生じ、制御不能の大インフレになる、と。
私は、現代の日本は労働者が大量に余っている国なので、生産力増大の余地が非常に大きく、それゆえ大インフレを抑制できる理路がある(1970年代の狂乱物価の時には失業者も潜在的失業者もほとんどいなかった)と考えています。雇用をスムーズに拡大できるかどうかが鍵。
私の意見は上記の通り過激なのだけれど、藤沢さんと池田さんが批判している勝間さんの意見はもっと穏当で、政府が国債を発行してお金を使え、というもの。財政不安による消費の抑制は、「景気回復→自然増収→財政再建」という流れで自然に消えていく、という立場なんでしょうね。
藤沢さんの主張の核心部分について。
日本の慢性的な経済の停滞を解決したいならばボーリングの一番ピンはデフレをなおすことではなく潜在成長率をあげることなのです。
藤沢さんの見解の前提は、日本の生産力は現状が実力通りなので、生産性の上昇が必要、というものだと認識してます。
私の考える一番素朴な反論は、「いま日本には失業者がたくさんいる」ということ。求職意欲のある失業者だけでも数百万人いるし、本当はもっともっと働けるのに、社会が「その歳になったら引退するのが当たり前」という空気を作って就業意欲を奪っている高齢世代を含めれば、余剰労働力は1000万人を超えます。
お金ばかりあって商品が増えない場合にインフレが起きるので、需要と同時に供給も増えるなら、インフレにはならない。生産性とかいうから「成長させるのは難しいですね」という話になるので、労働投入を増やすということをまず考えればいい。「失われた世代」とか、おかしいでしょ。
だから、消費の増え方があまり急激でなければ、ざっと年間100兆円分くらいの需要増に、供給は必ず追いついてくるはず。強引に60〜70兆円の需要を作り出しても供給が追いつかない、とは思えない。
高齢者を働かせるのは時間がかかりますが、少子高齢化に対応するためには必要なこと。国民の大多数が農家か自営業者だった時代には、そもそも年金自体、必要性が薄かったわけです。働ける間は働く社会を復活して、働けない人以外はみんな税金と社会保険料を収め続けるようになれば、高齢化は怖くない。
リフレ解説の記事は過去にいくらでも書かれているんだけど、どうも世間では新しい記事でないと話題になりにくいという傾向があるらしい。だからこういう記事は、何度でも書かれないといけないんじゃないかと思う。
とりあえず、言葉の定義について。
藤沢さんの「デフレ」という言葉の使い方はヘン。藤沢さんの説明するようなメカニズムで日本人の給料が国際比較で減少するとき、藤沢さんの前提通り「中立な金融政策」が各通貨について行われるなら、日本円での手取りが減るのではなく、為替が円安になることで調整されます。
ふつう、こういうのを「デフレ」とはいわない。リフレ派はむしろ「円安は望ましい」という立場なんだから、「勝間さんの提唱する政策を実行すると逆にデフレになるんです」とかいうのは、おかしい。「日本円では給料が増えたけど、海外から輸入できる物は減りました」というのは、もともと想定されていること。
飯田泰之さんも「1ドル130円くらいになると工場の海外移転が逆流しはじめる」と主張してるわけで。ようするに、デフレをやめて、円安にすると、労賃の競争力が増すという話。
すると、某所で見かけた「リフレ派は労働者の給料を減らそうという連中」という意見は正しいのか? 例えば100円の消しゴムがあるとして、輸入する石油の値段は5円くらい。円安で石油の値段が上がっても、5円が7円になるだけ。消しゴムが102円に値上げされても、不景気を甘受するよりいいはずです。
実際には輸送費なども上がるのでもう少し値段は上がるでしょうけれども、ともかく、日本国内で取引されている商品の価格に占める輸入原料価格の割合は1割にも満たないので、それが1.4倍になっても、国内の物価はそんなに上がりません。
これは円安の頃に欧州へ旅行すると物価がバカ高くて驚く人が続出したのと同じ話です。逆に欧州の人は日本の物価の安さに感動しました。円安になれば、ドルやユーロに換算した日本人の収入は減りますが、それは生活実態を反映しないわけです。
コメント欄でピロシキさんが書いてた。
雑用仕事をやって「気楽」な会社員生活を送りたい男性だって少なからずいるはずだから、男女という分け方じゃなくて、本人の希望で選択する仕組みにするべき。
以前いた部署では、私が配属された当初は事務系採用の若い女性正社員(と技術者としては「上がり」になった主任研究員)が庶務をやっていたんだけれども、その若い正社員が「俳優になる」ために退職すると、女性の派遣社員が職務を引き継いだ。その後、一時的にポストが廃止されたりなど転変。
先日、久々に顔を出してみたら、今は50歳代の男性派遣社員が勤務されていました。老親の介護のために旧職を辞し、無事に最期を看取ったので、派遣登録されたのだという。別に、おじさんが雑用仕事をしたって、絵的な違和感は微塵もない。どこかで見たような……あ、そうか、小中学校の用務員さんだ。
ていうか、そもそも庶務は男女一人ずつだったのだから、男性二人になったからって違和感などあるわけもないな。庶務の方にみんなあれこれ「お願いする」という文化が浸透していたということもある。
もともと勤務先で女性の庶務が多かったのは、本人の希望によるという。そういえば、以前から勤務先の「受付」は、中高年の男性社員が担当していることが珍しくなかったんです。割と人気の職種らしい。むしろ他社の受付に女性が多い理由がわからない。受付をやりたいおじさん、少ないのかな。
一時期のサラリーマン社会がヘンだったのであって、私の勤務先に限らず、いずれどこの会社も自然な状態に復していくのではないか。男性だから、女性だから、なんて窮屈な考え方は、廃れていくと思う。
i_nemuri 女性職員ばかりの老人ホームでは、男の私が雑用係です。特にマイコン関係・電器関係。もしかして多数派の苦手とする仕事が「雑用」って言われてるのかも?
ひとつの側面としては納得の説明。
際限なく理想が高くなり、当然それは達成できないから、自己嫌悪に陥る、という話。
向こうの事情はわかりませんが、日本の場合、意外と「降りる」ことが認められている感じがします。「みなさんからは不幸に見えるかもしれませんが、私は現状に満足しておりますので」といえば、ああそうですか、と放っておいてもらえる。だから、「足るを知る」ことで幸福になれます。
幸福の基準は各自の心の中にある、という考え方が、日本では割と浸透していると思うんですよね。人が満足しているのに、しつこく「本当は不幸なはずだ」などと絡んでくるのって、せいぜい4人に1人くらいじゃないですか? 判断はいろいろでしょうが、私は「無視しようと思えば無視できる割合だな」と感じています。
どちらも大好きなテレビドラマ。関東では深夜に放送中。
人間性に大きな欠点を抱える主人公が活躍する物語。どちらの作品にもお節介な人々が登場します。とくにBONESのアンジェラはウザ過ぎる(笑) 日本のドラマだと「一部で陰口をいう人も」という程度の描写になって、お節介焼きが出てこないことが多いんじゃないか。
「相棒」の杉下右京や「ギネ」の柊奈智と周囲の人々との関係の描き方を見るに、彼我の文化の違いを少し感じたり。職場に「親友」がいるかどうか、とか。ブレナンはよりによってアンジェラと親友同士。そういえば、日本のドラマで職場内に主人公の親友がいるという設定はあまり見かけないね。
漫才師:ダイノジの大谷ノブ彦さんの日記。
6日の日記がはてブで話題になっていたから、ちょっと読んでみたんだけど……書き過ぎだろ、って思った。どんだけ書くのが早いんだ。
最終的に感情論に逃込まれるのでは、理性的な議論・討論は出來ない。徳保さんは、相對主義を標榜する點で私と意見が合はないけれども、ちやんと他人を理解しようとすると云ふ美徳を持つてゐる。けれども、それは徳保さんが「感情論に逃込まない」と云ふ自制心を持つて自重してゐるから――しかしそれは、徳保さん個人に特有の美徳でこそあれ、相對主義の理論それ自體とは何の關係もない。
私の理解では、相対主義が西欧で(哲学などに関心のない庶民層まで)勢力を広げた背景には、西欧諸国が世界に進出した際、現地の文化を野蛮と断じたことへの懐疑があります。とすると、そもそも(庶民的な)相対主義とは、自分の信ずる正義の普遍性への懐疑だったわけです。
つまり、他人の主張する正義を突っぱねて、自分の価値観を声高に訴え続けるのは、相対主義者の態度ではない。自分の意見は意見として大切にしておけばいいんだけれども、他人の意見が自分の意見よりダメなものと考える根拠は何もないのだから、まずは話を聞きましょう、ということになるはずです。
少なからぬ相対主義者は、とりあえず、「事実と判断は分離できる」とみなしています。ゆえに、事実に反する意見は、価値観云々といわなくても、否定できるわけです。仕事や生活に関する議論の多くは、前提事実の争いなので、相対主義者でも、社会生活に支障をきたさずに済みます。
ただし議論の枠組みの選択は、それ自体が価値観を体現するものなので、絶対主義者同士だと、事実を争うだけの議論であっても、枠組みの選択という段階で合意が得られないことが多い。その点、相対主義者の方が、「ではとりあえずあなたの枠組みに基づいて話をしましょう」となりやすいのではないかな。
ともかく、相対主義というのは、たしかに自分の素朴な価値観を完全否定されないための防御として機能するけれども、逆に自分も他人の意見を否定できなくなりますから。「誤読だ!」と思っても「本当かな? 相手の言い分もよく聞いてみよう」ということになるはずではないか、と。
本当の本当に誤読ということもあるわけですが、枠組みの問題だったりすることが少なくないです。文章そのものは「事実」だけど、それを読み解く視座の設定には価値観が関わりますから。筆者の意図と全く異なる構図で文章を再解釈することは、可能なんですよね。
永井均さんが初心者向けに書いた本のいいところは、庶民の日常生活に現れる哲学を、素朴に記述していること。上で紹介している他に「<子ども>のための哲学」という本もあるのだけれど、これは永井さんが大学の教養科目で教科書に指定していたもので、難しくて何をいっているのか私にはよくわからない。
ただ、memo:相対主義(2009-11-05)で紹介しているような、様々な解釈のある言葉を誤解を恐れずザックリ紹介する手法には、批判もあるそうです。でも、それは読者の方で気をつければいいことだと私は考えています。自分の水準で言葉を再定義して、素朴な議論をしている自覚があればいいのでは、と。
いつの間にか、自分がどうやって今の「常識」を身につけたか、忘れてしまうんですよね。
みんな最初は何も知らなかった。無知に起因する行動は、知識を与えることで解決できます。
文化の違いに起因する行動は……これは対応を少し考えないといけないかな。国や民族などにとって文化が異なるように、企業にも文化があるんですよね。全ての企業があらゆる文化に開かれていなければならない、という考え方には、私は与しない。もちろん各企業が属する社会の許容する範囲内という制約はあるけれど、その枠内で一定の偏りというか、個性はあっていいし、個性を認めないと企業の競争は活性化しないと思う。
個人がバラバラで動くより組織を作って活動した方がメリットのあることが多いから、企業は存在する。企業の文化は、組織の作り方、活動の仕方に密接に関係しているもの。各個人が自分の価値観を少しも譲らずに、自分が正しいと思うことをストレートに表出していくなら、組織のメリットがなくなってしまう。
よく聞くと問題の新入社員はマンションのテレホンセールスを行っていたという。そして、アフターサービスをお客に説明する際に「万が一、うちのマンションを買ってもらえたら」と話したそうなのだ。「まずありえないだろう」というニュアンスを持つ「万が一」をお客に対していうのは御法度。「そんな常識的なこともわからないのか」と課長が注意すると、悪びれた表情も見せずに「スンマセン」と答えたというから、そこで課長の怒りはさらに燃え上がった。
私の勤務先には、中高年の営業マンでも、「万が一」という言い方をされる方がやってきます。他の部署で取引があるので、あなたの部署でも、もし何かお声をかけていただけるような事案があれば……と。押し付けがましくないから、私も安心して会える。押しが強い会社は敬遠される。そういうケースもあるんだよね。
ひょっとしたら、私には敬遠されるとしても、押しが強い会社の方が、平均的な営業成績はいいかもわからない。それでも、ガンガン売り込む会社が、私から注文を取る可能性はゼロ。そもそも面会してもらえないんだもの。だから、「万が一」という営業スタイルの会社も、滅びない。
これはどちらが正しいというのではなく、どちらのタイプの企業も世の中に存在するべきなんです。
……以上を踏まえて、もし私が先輩なら、新人さんに「うちはこういう方針の企業なので、君が今のスタイルを守り続けるなら、社内で評価を得ることはきわめて困難だろう」と説明することになると思う。営業スタイルは会社の方針なのであって、それに社員が頑として従わないのでは、マネジメントに不都合がある。
新人さんが将来、昇進してから、自分の責任の範囲内で、己の信ずる営業方針を実施するのは問題ない。方針に対する意見を求められたときに、自分の主張を行うことも、正しい。洗脳は、されちゃダメ。でも、日々の仕事の中で、自分の意見を組織の方針より勝手に優先させてはいけない。これは区別可能なこと。
新人さんに激怒した課長は、組織に染まってしまった人なんだよね。「万が一」は御法度だなんて、別に普遍的な話じゃない。その組織(あるいは業界)では長年そうだった、というだけ。なのに、狭い知見が世界の全てになってしまっているから、想像の範疇を越えた事態にパニックになる。
「それくらい常識だろ」といいたくなったら、よっぽど注意が必要なんです。はて、それって、どれくらいの範囲内の常識なんだろう、と。ふと気付くと、自分の視界って、狭くなっているもの。
私もバイト先では「常識がないと困るよ」と叱られることが多かったけど、今の勤務先では、先輩方が「この会社の常識」を繰り返していねいに教えてくれました。今でも新しい仕事をして、これまで縁の薄かった部署と一緒に仕事をするたび、「これについては、こういう風に考えることにしています」と教えてくれる。
部長や取締役でも、「自分が何を知らないか」には自覚的で、よくわからないことに関しては一般社員に初歩的な質問を繰り返すことを厭わない。私の席のところまで取締役がやってきて「いま忙しくなかったら、これについて教えてほしいんだけれども、大丈夫かな?」と質問されるので、私はビックリ。
まあ、どの程度、こういうコミュニケーションをとっていくかというのも組織の方針なので。「常識だ」といって説明を省く企業もあっていいとは思う。私企業は、ようはルールを守って儲かればいいので。一定の枠内で、やり方は自由でいいはず。
それでもね、こういう記事が出てくるということから類推するに、常識押し付け系の文化が、日本企業では多数派なんでしょうね。単に多数派というだけならいいけど、それが「常識」となって、他の選択肢があると気付かれないようだと困るな、と思う。
幸い、記事には続きがあって、「いかにいまどきの新人と向き合うか」という方向で話が続いているよう。
傾向としては変化があるけれど、やっぱり世代差より個人差ということがわかるので、個別の事例について考えるなら、役に立たない資料。でも世代論をぶつには格好の材料を提供していると思う。
ひとつ注意点。この資料では、社会人10年生と1年生を比較しているのだけれど、今の10年生が1年生だった頃のデータはない。だから、世代の違いなのか、経験の違いなのか、というあたりが謎になってます。
先月の話題。忘れないうちにメモ。「山本56」という誤記が話題になっていたので、私がロイターに一報を入れたら、数時間で修正されました。今回はウェブフォームではなくメールで連絡したので、ログが残っている。
http://president.jp.reuters.com/article/2009/10/24/BA8D7BF0-BA29-11DE-A839-21F13E99CD51.php?rpc=110
×山本56 → ○山本五十六
ご確認ください。
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以下略
これだけ。はてブしてコメントするのと比較して、そんなに面倒なのか。自分だって、失敗することがあるだろう。それを陰で笑いものにされて悔しい思いをしたことがあるだろう。なんて世間は冷たいんだろう、って悲しくなったことがあるんじゃないか。なんで、迎合するんだよ。
「不幸の再生産にNo」という主張で人気のブログ。はてブでも何度も「そうだそうだ」って感じで話題になってる。仕事してて嫌なことって、定時に帰ると周囲の視線が冷たい、ってことだけ? 違うでしょ。定時帰社、有給消化だけでなく、もっと幅広く、不幸の再生産にはNoを突きつけていくべきだと私は思う。
ロイター・ジャパンからはていねいなお礼のメールが届いたけれども、たいていの場合、何の返信もない。でも、それが何だというのか。「相手に聞こえるような陰口をいってる方が楽しいよね」というなら、自分が救われることも一生ない。そんな希望のない人生でいいのか。簡単に絶望しちゃっていいのか。
最近のマイブームで、今回も大げさな書き方をしてしまいました……。
ま、私もVOWとか、好きだったりしますので。誤字とか誤変換とかが面白いというのはわかるし、面白いものに出会ったらオンラインブックマークしておきたいという感覚は共感できるんです。というか、それ自体を悪いことだとは思ってない。ただ、同時に、メールで一報を入れる人がもうちょっといてもいいと思うだけで。
「えっけん叩き」のような状況について。
ブログ閉鎖の挨拶の内容から推察するに、「自分を守るために周囲の人が誰かを声高に非難すること」をmatasaburoさんは歓迎しそうにない。「えっけんさんの主張は理解できました。でも私はmatasaburoさんに同情的です」といった穏当な書き方のほうが、配慮が行き届いているのではなかろうか。
あと、数の非対称性はそれだけで暴力性を持つので、人数が増えれば増えるほど、言葉はマイルドにしていかないと、「一方的な叩き」という状況が強化されてしまう。増田2の筆者はかなり筆致を抑えているけれど、それでも本意に反して「えっけん叩き」を強化している。難しい。
なんというか、たまたまその場で多数派に属する人々が、自分のいいたいことを気ままに書いているだけに見えるわけ。えっけんさんが言論の自由を行使して、少数派の物の見方を提示したことを「人の気持ち」なんて理屈で批判するのは、ヘンだと思う。
「matasaburoさんがえっけん叩きを歓迎するとは思えない」という私の予想こそ少数意見であり、「matasaburoさんはえっけん叩きによってカタルシスを得るであろう」というのが常識的な意見ならば、私の「ヘンだ」という感想こそ「ヘンだ」ということにはなる。
誰もmatasaburoさんの「本当の気持ち」はわからない。わからないが、「人の気持ちを考えろ」という人々が、本当に「人の気持ち」を考えているのか、という問いは有効ではないか。
人が痛めつけられているのを見て、怒る。それはいいよ。でも、そこでストレートに怒りを表明する人は、実のところ、自分の気持ちが最優先なんじゃないの。イジメの現場に遭遇して、「やめろ!」と身体を張っても、当の被害者に歓迎されないことって、よくあるじゃないですか。
説明が難しいんだけど、「感謝はしてます。それはもう本当に。でも……やっぱり、迷惑です」という。
それでも、イジメは止めなきゃならない、と思うなら。イジメを止めるのに被害者の感情なんか持ち出すのは欺瞞ですよ。「被害者の気持ちはどうあれ、私はイジメを許さない」といわなきゃ、ウソだと思う。
「けまらしい」と云ふのは、本當に最近の「造語」で。
ここで創作された言葉を皆が面白がつて使ひ始めたのだと、さう云ふ事らしい。
別に「たとえば」と云ふ事で言葉を作つて見るのは構はないが、それを大勢の人が面白がつて使ふ――その大勢の日本人の考へ方が解らない。なぜ「面白い」と云ふだけの理由で言葉を使ふのか。「面白いのはいい事だ」と云ふ變な思想が日本人の間には昔から「ある」らしいのだが、その爲に變な言葉を公共の場で不特定多數に向かつて言ふのは、何なのだらう。
個人的には「けまらしい」はそう悪い言葉じゃないと思う。従来の語彙ではうまく表現できなかった感情を指し示す言葉だから、屋上屋を架しているものではない。伝統的な言葉を意味もなく殺し、文化の断絶を招くといった弊害がないでしょう。
「けまらしい」なんてふつうの辞書にない言葉だから、わかっている人しかわからない、それではコミュニケーションの道具として問題がある……かもしれない。でも、こういう意味の限定されている言葉は、「パソコン」のような新規なものの名称と同類と考えれば、とくに問題視しなくていいと思う。
「けまらしい」という言葉で表現されるような感情は、かつてあまり問題視されなかった。たまにしか話題にならないなら、「他人の幸福で飯がまずくなるもやもやした気持ち」とか、誤解を恐れず「嫉妬心」と書いてもいい。だけど、ある種のコミュニティにおいて、繰り返し言及されるものなら、新語の方が都合がいい。
こうしてみると、「パソコン」と書いても「パソコン」なんて辞書にないし……でも「パソコン」について年に5回も10回も言及することがあるなら、いちいち言葉を定義して使うのはかったるいよな、という話とどう違うのか、と思うわけ。
私は「けまらしい」という言葉が、「面白い」という理由で使われているとは認識していません。従来は「嫉妬」という言葉で包摂されていた感情の一部を切り分けて、そのニュアンスの違いに注意して表現したいという需要が現に大きいからこそ、必然的に登場した言葉だと思う。
実際、もっと利用者の多い「メシマズ(他人の幸福で飯がまずい)」という表現があって、この1年余りで急速に普及しましたよね。今、こういう感情が注目されているんだと思います。
あるいは「嫉妬」という言葉に色がつきすぎて、辞書的な広範な意味合いが伝わりにくくなったせいかもしれない。圧倒的に多く使われる特定の語義に引っ張られて実質的に言葉の用途が狭まると、行き場をなくした語義は新たな言葉を求めます。
「けまらしい」も「メシマズ」も辞書的には「嫉妬」でいいんだけど、いまそれを「嫉妬」と書くと、「それほど羨ましいってわけじゃなくて、他人の幸福そのものがムカつきの根源にあるわけだが」というニュアンスが伝わらない。ゆえに「嫉妬してないでお前も幸せになれ」みたいな反応になってしまう。
狭義の「嫉妬」から「羨ましい」を(かなりの割合で)差っ引くと「メシマズ」になる。
とはいえ、「けまらしい」という5文字の選択には根拠が全くないので、造語にしたってこういう、突然ポンと出てくるのはいかがなものか、とは思う。下品でも「メシマズ」の方が、その点ではマシかもしれない。
*「けまらしい」は他人の幸福の中でもとくに人と人とのコミュニケーションに起因する幸福に対する感情をいうそうで、相当に意味の狭い言葉。「メシマズ」はもっと幅広い意味で使われている様子。
電車には両側にドアがあるのに、バスには片方しかないのは何故だろうと考えました。電車の場合は、ホームの位置によって両側にあった方が便利というのは分かるのですが、ホームを片方に統一してドアも片方に統一したら経費削減になるような気もします。
なんでだろう、と、私もしばらく考えてました。
で、帰宅途中、都電を待っていて、「あっ、こういうことじゃないかな」と。
電車はVターン、バスはUターン、その違い。どうでしょう?
電車はVターンだから、上りも下りも車両の向きは変わらない。扉が片側にしかない場合、駅のホームの設計が図解2のように制限されてしまう。両側に扉がある方が、駅舎設計の自由度が高い。
その点、Uターンできるバスの場合は、バス停は道路の外側に作ると決まっていて、ふつうは中央分離帯には作らないから、扉が片側で問題ない、と。
ROYGBさんの日記には、こうした「これまで考えたことがなかったな」という話題がときどき出てくるのが面白い。かれこれ4年くらい読んでます。
片側扉の列車として関東鉄道キハ2000形気動車や和田岬線用キハ35などの事例があるとのこと。情報ありがとうございます!(修正)
「全ての價値は相對的」と云ふ「良い價値相對主義」なんてものは成立たないのであつて、全ての價値相對主義者は「價値相對主義なんて認めない」と云ふ價値觀を絶對に認めない。即ち、價値相對主義だけは絶對の價値であると心に決めてゐるので、それは「自分の價値」だけは絶對に讓らないと云ふ思想にほかならない。
いや、別にそれはそれでいいんですよ。というか、そのための相対主義でしょ。いや、よくない、という哲学者もいて、そういう議論はたいてい私には全くついていけない難しげな文章だから読むに読めないんだけど、例外もあります。
この「大学デビューのための哲学」の中で、入不二基義さんが担当している章が、それ。その論文を発展させたものが「相対主義の極北」で、今年ちくま学芸文庫に入ったらしい。正月休みにでも読んでみようかと思ってます。
だけど入不二さんの議論は正直、一般人の生活レベルからは隔絶してる。読んでいるそのときは面白いけど、半年くらい経つと、もう思い出せない。それはもちろん、私がよく理解していないことが第一の原因だろうけど、やっぱり日常生活からフィードバックを得るのが難しいから、というのもひとつの理由だと思う。
この本の第3章くらいの議論が私がいろいろ考えるにはちょうどいい書き方。永井さんが説明するように、相対主義とは、相対主義を絶対視するという意味では、絶対主義なんです。その水準では。だから絶対主義を100%完全に否定する相対主義はない。でも、前述のただ1点を除けば相対主義なんだから、ほとんどの問題については、絶対主義と対立することになります。
それだけの話、なんですよ。ひとつ絶対主義を受け入れたら、他のあれこれでも絶対主義を受け入れなければならない、なんて理屈はない。いや、あってもいいけど、そうは考えないのが相対主義です。
價値相對主義が、「全ての價値は相對的」と云ふものならまだいいのだけれども、結局は「他人の價値は相對的」と極附ける事で自分の價値を絶對化し、自分が負けないやうにしようと云ふ理論武裝でしかない事が非常に多いので、本當に困る事が實に多いのだ。
素朴に、「議論の前提が違う」というような言い方をすることが多いですかね、私は。
だいたい論理的に破綻したことをいっている人というのは、そうそういない。頭がこんがらがるほど、複雑な論理を操っている主張なんて、滅多にないわけで。にもかかわらず「矛盾している」といった評が出てくるのは、つまるところ、議論の前提を再定義しているから。
双方が話の前提を図解してくれていて、わかりやすい。
野嵜さんの最初の言及の書き方、対する長尾さんの「誤読」という言葉でギスギスして見えるけれども、結局のところ、長尾さんはとくに何を反論しているわけでもない。野嵜さんの関心事に引き寄せて解釈すればそういう風にも読めるでしょうね、私の意図とは全く違いますけどね、という感じ。
賛同してくれなくてもいいから、理解はしてください、とは私もよく思うこと。「あなたが仰りたいのはこういうことですよね?」「ええそうです」「しかし私は、ここから別の解釈も引き出せると思うのです」「なるほど」……なかなかこう、うまくはいきませんが、成功すればどちらもイライラせずに済みます。
昨日の記事の通り、議論の必要がなければ、徒労は避けてよい。「自分が負けないための相対主義」で不都合ない。相手が勝手に始めた議論で「負け」ても、自分が納得できないなら、何も譲らなくてよい。
ただ、オンラインだとなぜかあまりそうでもないのですが、オフラインの場合、お互いに相手の主張を理解したことを確認できれば、それで双方とも満足するもの。説得も結論もいらない。お互いに言いっ放しでも、ちゃんと八方丸く収まるのです。
空港でパソコン作業用に電源を借りようとしたら、職員にルールを盾に断られてイライラ、という話。
この記事を読んで首を傾げるのは、筆者が末端の職員の対応に不満をぶつけていること。富士山静岡空港が電源サービスを用意していないことへの不満は理解できますが、杓子定規への不満は違うんじゃないか。
現場の職員が、個人的な判断でルールを変更するようでは、組織の運営管理は成り立たない。一般職員の個人的な判断は、ルールがない場合に臨機応変に対処しましょうという範囲にとどめるべきで、様々な議論を集約したルールを場当たり的に崩していくと、いずれロクなことにはならない。
ルールに不備があったとしても、一利用者の抗議によって一般職員の判断で簡単にルールが破られてしまうようではいけない。だから利用者の方も、ルール破りの責任を取れる人と交渉するのが面倒なら、素直に折れてほしい。そして「ご意見承ります」みたいなシステムを利用するのが、平和な対応だと思う。
この手の話を読むたび「怖いな」と思うのが、一労働者が職分を守って行動すると、その頑なさが会社全体の姿勢と勘違いされること。ドラマや映画でも自分の判断でルールを無視する物語が大人気だったりするので、日本もヤバいな、と私は思ってる。ルールに問題があるなら、ちゃんと手順を踏んでルールを変えようよ。
よい会社なら、業務改善提案の仕組みを用意されていて、廊下とかに用紙と投稿箱が置かれていると思う。提案審査システムは社内で公開されていて、優秀な提案は必ず経営幹部に届くことが周知徹底されているはず。
富士山静岡空港には、電源サービスがない。現場の気付きを社内の共有情報とする仕組みが欠けているのかもしれない。しかしリンク先の記事を読む限り、「現場力」が低くて、「掃除の邪魔だから困るっていってるのに納得しない身勝手な客が増えて困る」という感覚なので、改善は望み薄らしい。
だとしても、現場の職員を問い詰めたら「壊れたレコード」になるのは致し方のないこと。それを責めるのはキツイ。あと、現場に期待できないなら、自分が直接エライ人に要望を出すのは基本でしょ。私はアンケートはがきとかはマメに出してます。こういうのはお互い様だと思う。
とりあえず静岡県企画部にはメールしておきました。
同僚と一緒に出張する際など、たまにこうしたこと、あります。「まあまあ、この方に無理をいっても仕方ないよ。あ、職員さん、意見用紙などありましたらください」みたいな感じで私は対応してます。以前は、見知らぬ人のトラブルにも口を挟んでいたんだけど、いきなり暴力を振るう人がいるので、最近は萎縮気味。
本当は弱い者同士、助け合っていきたいんだけどね。
これは安上がりでいい。
鳩山内閣メールマガジンもまぐまぐにしたらいいんじゃないか。小泉内閣メールマガジンの頃は、メールマガジンとWebサイトの合計で年間7億円超の運営費だった。メルマガなんか多少トラブっても国民の生活に影響なさそうだし、いいんじゃないの。
正直、政府のウェブサイトは情報が多すぎて読みきれない。内閣メールマガジンは、閣僚がとくに関心を持っていることがわかり、考えの要点がつかめるので、便利だと思う。まあ、結局は新聞がワンストップで一番いいというところに私はいつも落ち着いてしまうのですが。
メールマガジンにせよ新聞にせよ、こういう、誰かが編集した情報のいいところは、自分が予め興味を持っていなかった情報が、きちんと得られることにあります。ただ、そういう情報源があんまり多くてもね……。
もっと多くの国民に読まれる価値があるサイトだと思う。麻生内閣の頃から、担当業者が変わったのかどうか知らないけど、官邸関連のウェブサイトのデザインが垢抜けてきたと思う。政府広報もそのひとつ。
ただ――先方のコメント欄に書込んでゐる間に氣附いたんだが――議論の目的が「面白さ」であると云ふ點、價値觀の衝突は「止揚」なる結論でしか解決出來ないと云ふ點、私は異論がある。
私にしてみれば、二つの意見が衝突した時、理論的・實證的な理由で一方が勝ち、他方が負ける事は「ある」(後略)。
これはその通りだと思う。
或程度は互ひに共通する價値觀があるものと看做して、我々は一つの社會を作つて、一つの國家の下で暮してゐる。ならば、そこで我々は、價値觀に關する議論を、限定的であつても、出來る筈である。それは一種の神學論爭になるが、神學論爭が理性拔きの感情論だけで行はれ得るものと期待してはならない。寧ろ、限定的である事を自覺して、我々は理性的に「神學論爭」としての價値觀の論爭を行ふ必要がある。そして、そこでは、科學の單純な論爭と異つて、ややこしい檢討が要請される事になるけれども、愼重に檢討を進める努力をしても良い筈だ。場合に據つては、相違する價値觀を互ひにすり合はせる努力だつて、して良い。實は、それが多くの人に認められない事であるのだが、自分の價値觀に拘らねばならない場合しかないだなんて、それこそあり得ない話だ。しかも、案外「我々の價値觀」は、より上位の價値觀の下にある事が多く、その時には、より上位の價値觀(我々が互ひに認めてゐるものであるならば)に、より合致する下位の價値觀(その次元で議論してゐるならば)を、我々は受容れなければならない。
まあ、同意できる。
何んなにマイルドな口調で語つてゐたとしても、一方的に喚き散らしてゐる主張なら、それは論戰を仕掛けてゐるのと同じだ。聲の大きさで、他人を壓倒する結果を期待してゐるのなら、それは暴力的な行爲だと言つて良い。論爭・議論ならば、主張は客觀的に批判され、評價されて、判定されなければならない。
このあたりは、異見のあるところ。
私の書く文章は一方的に喚き散らしてゐる主張
に該当するものが多い。聲の大きさで、他人を壓倒する結果を期待してゐる
ことも否定できない。そういう気持ちはある。だから暴力的な行爲だと言つて良い
と私も思う。
じゃあ何に同意しないのかというと、論戰を仕掛けてゐるのと同じ
という判断ですね。たいていの人は、たいていのテーマについて、とくに何も考えを持っていない。そういう人たちにこそ、何かを訴えたい。既に自分と異なる考えを持っている人を説得するのは、きわめて難しい。だから議論しない。
形式的には特定の個人の文章への異見表明であっても、本意は違う。いや、ホントのホントをいえば違わないんだけど、同じ時間を割くなら、議論をするより、第三者に向けてスピーカーの音量を大にして一方的な発信を続ける方が、「より多くの賛同票を得る」には効率がいい。
そうしてどんどん勢力を広げていけば、いつか、異論の持ち主を説得しなきゃならない。どちらかが論争に勝つのを待っている(それまでは判断を保留する)人々を味方につけるには、論争をやって、勝つしかない。でも、一般のブロガーは、そういう場所には到達していない。
ただ、こっちが「議論しません」という姿勢だからって、「議論なんて無意味」なんてことをいう必要はない。そうやって勇み足をするから、「そりゃおかしいだろう」という話にもなる。議論が必要なら、価値観対立だって、たしかに野嵜さんのいうとおり、一定の客観性を持った議論にはなるもの。
私がいろいろな「議論」を見ていて思うこと。きれいに勝敗がついたのに、負けた側が納得していないケースは、議論に「失敗」しているのではないか。双方が認める共通の上位価値観に遡って決着をつけたとしても、じつは負けた側にとって、それは真の上位価値観ではなかった、というような。
具体的には、例えば、人権というのは大きな概念だから、「人権の尊重」は上位の価値観だとみなされやすい。ところが、個々人にとって、「人権の尊重」は必ずしも上位の価値観ではなく、下流で判断に困ったときに持ち出す程度のものだったりするわけです。
だから「応報思想」が真の上位価値観である人が、「人権の尊重」を持ち出され、「それでは死刑には反対ですよね」と負けて、もやもやします。「そんなに俺、人権とか気にしてないんだけどな。明らかに証拠も揃ってて、本人も人を殺したと認めてるのに、死刑を選択しないのが正しいなんて納得できないな」と。
このような、形式的には下位だけど個人にとっては上位という概念が世の中には多い。結論こそが重要で、いまそこに付随している理屈は全部後付けだから交換可能、ということだって、そう珍しくもない。
ブロゴスフィアではそもそも「議論する必要がない」から、双方言いっ放しで終るのが大半。3.でいっているのは仕事上の会議とかの話です。例は違うけど。
おめでとうございます!
少しずつ通っていた沖縄空手/古武術の道場で、ようやく武器術の方で茶帯になることができた。過去ログを検索してみると、入門してから既に4年半が経過していた。(2005年3月11日 琉球空手を始めるニンジャ) 4年半といったら、オリンピックもワールドカップも一回りしてさらにお釣りが来る期間だ。これを長いと見るか短いと見るかは人それぞれだろうけど、この道場は昇級に対してそれほど厳しくなかったので、僕と同時期に初めて僕より上にいった人、僕より後に始めたのに僕を抜いて、さらにやめてしまった人、色々な人がいた。
茶帯というのは黒帯のひとつ前の段階とのこと。以下、とくに関係ない話をつらつらと。
私の場合、一番長く続いたのが絵画教室。小1から小6までの6年間。中学生になったら美術部に入ったので、教室をやめました。
中高の6年間を振り返って、「なるほど、絵画教室の先生はプロだったな」と。放任主義の部活動は、それはそれで楽しかったです。いくつか(10人に1人くらいがもらえるような)賞もいただきました。けれども、描いた絵の枚数自体はずいぶん減り、自分でも納得のいくような絵は僅かしかない。
絵画教室は週1ペースなのに、3ヶ月に2枚程度のペースで油絵が仕上がっていく。水彩なら1〜2週で1枚。6年間でスケッチブックが3冊いっぱいになって、子どもを通わせた保護者は大満足。本人は割とゲッソリしがちなんだけど、数年経つと羞恥心が吹っ切れていい思い出になります。
今も実家や親戚の家に自分の絵が飾られているのですが、先生が小2〜小3から油絵、それも静物を中心に描かせた意味がよくわかります。「ヘタでもそれなりに見える」わけですよ。あとデカい絵は邪魔になるから、キャンバスのサイズを8号以下に限ったのも合理的。
ひとつ忘れてた。最後に先生がチョチョイと30秒くらい、インヂゴを薄めたので仕上げの影をつけてくれるのがポイント。一瞬で魔法のように完成度が上がるので、私はいつも感動してました。これは選択制で、嫌なら断ることもできました。ちなみに、水彩に「仕上げ」はありません。
幼少時の情操教育の一環として通わせている保護者の方が多くて、私のように自分の意思で入門した子は少ないから、たいてい小学校低学年まででやめてしまう。保護者の興味が「お勉強」に移ってしまうわけ。
私はいきなり一人で教室に現れ、「こんにちは。ボク、ここで絵を描きたいです。えっと、これがお母さんからの手紙です」といったので、先生はビックリしたそう。後にも先にもそんな子は他にいないとか。まあ小学校に入学したばかりの子どもですからね。それはそうかもしれない。
母にいわせれば、「床屋に行くのと何が違うの」ということだったんだけれども。ふつうの小学1年生は、一人で床屋に行ったりもしないかな。
2番目に長いのは英会話塾。小5〜中2の4年間。私は習い事があまり好きではなく、自分から何かを習いたい、どこそこの塾に通いたいといったことはほとんどない。英会話塾も、両親が勧めるので、仕方なく「私の希望で通う」という形作りに協力したのでした。
*絵画教室は、「習う」つもりじゃなくて「描く」場がほしかったんですね。実際、とくに何かを教えてもらった記憶がない。いや、先生はいろいろ教えていたのでしょうが、とくに思い出せるものがない。
私は中高一貫校に通っていたので、中学英語は中2で修了。教室のカリキュラムが中学生対応までで区切りとなっていたので、そこでやめました。本部には高校生や社会人に対応したプログラムもあったそうですが、私の通っていた教室はその年齢層の客をつかまえられなかったので、講座を開設できなかったらしい。
他には水泳教室ですね。小3から小5くらいまで。
母は全く泳げない人で、私も水嫌い。でも、泳げない母は、それゆえ海へ行っても波打ち際に近付くことができないし、プールへ行っても水面を見下ろせない。上半身を乗り出したときに地震があったら水に落ちてしまう、という。つくづくカナヅチは不便だ、と。それで、水泳だけは強制的に教室へ通わせました。
当然、母は水着とか買ったことも着たこともない。家族向けの市民プールには、こういう泳がない(泳げない)付き添いの人のための場所があって、母は長袖長ズボンに日傘を差し、サングラスをかけて子どもたちを遠くから眺めていました。水泳教室にはそういう場所がないので、母が見に来たことはありません。
今では学校にプールがないなんて例外でしょうが、半世紀前の日本には、自然の川で水泳の授業を行うため、親が許可しない場合は水泳の授業をサボれる、という状況があったわけです。母方の祖母は近所の川を汚いと認識しており、娘がそこで泳ぐことを決して許しませんでした。ちなみに伯父は勝手に泳いでいました。
ともかくそういうわけで、私は水泳教室へ通い、人の数倍の時間をかけてゆっくり進級し、どうにか背泳ぎができるようになり、クロールの息継ぎができないままギブアップしました。
ビート板なしでは泳げないとなると、いざというときビート板なんか持っているわけがないんだからダメだ、と。それで苦労したんですけど、背泳ぎができれば、他人は助けられないけど、自分は生き残れるだろう、と。それで勘弁してもらえました。まあ、つらかったけど、それなりに有意義だったとは思う。
社会人になってから……意外と、ボランティア活動というのが、続かない。
結局、責任感というか使命感が足りない。何かと他の事情を優先させてしまう。すると「戦力として計算できない」から、人手の足りない部分のヘルプ役になり、そうすると活動間隔が開き、そのうち、向こうからは連絡がこなくなってしまい、こちらから問い合わせるのが面倒に思えてきて、ようするに自然消滅する。
というのは私の言い分で、最初ばっかり熱心で、すぐに飽きてしまうダメな若者の典型という感じだろうな。つまりさ、最初の内、何かと連絡をくれるのは、慣れるまでのサービスなんだよね。活動が定着した人というのは、自分が積極的に計画段階から関与していくのだから、電話など必要なはずがない。
今はまだ、「時給ゼロ円のアルバイト」感覚で「助けがいるなら連絡ください」という水準の人材を扱えるようなボランティア団体は、ほとんどないらしい。いずれはそういう方向に進まないと、これ以上、ボランティアが日本で広まっていくのは難しいように思うのだけれど、そういう変化を「堕落」と認識してるっぽい。
日本人は公共精神が足りない、意識が低い、というような愚痴ばっかり聞かされて、どうにも嫌になってしまう。なんで人助けをしにきて「すみません」と言い続けなきゃいけないんだろ、みたいな。
相手の言い分はわかる。ボランティアをなめるなよ、みたいな矜持がないと、どんどん活動が崩れていってしまうというのは、ホントよくわかる。わかるから「すみません」というわけだけど、もっとうまいマネジメント手法がないものか。これって、ないものねだりなんだろうか。
小中高と、委員会活動や学校の掃除とかが好きだった私でさえ「ついていけない」んだもの。並外れた意欲を前提としたマネジメントのままでいいのかな。
えーと、詳しいことは書きたくないので、とりあえずここまでにしておきます。最初に述べている通り、私が続かないのは、第一に私の問題だと思っていますので。何の提案もなしにブツブツいってすみません。
私がある程度関わったことのあるボランティアっぽい性格のある組織の中では、町内会というのは、よくできていると思う。一般会員と役員の2重構造、回覧板システム、あとこれは地域にもよるだろうけど役員は毎年改選で同じ人が連続してはいけないというルール、とかね。あと加入者に多少のメリットもあるし。
ただ、町内会にせよ、消防団(これはかなりの意欲が必要だったりする)にせよ、家が近所同士の互助会だから成り立っているシステムに支えられている側面は無視できない。これをどうやって、広域に分散した有志からなるボランティア組織の運営に応用するか、と問われると、私には答えがない。
クロネコのドライバーが落とした携帯電話を発見した人が集配センターに電話したら、応対がひどくてプッツンしたという話題。
人のやることなんだから、まあそんなものだろう、と思う。どちらも。
出張用のPHSを同僚が落として、拾った人から私の席に突然電話がかかってきたとき、相手を怒らせないような対応ができる自信は全くない。逆に、最初は親切のつもりだったのが、何かが逆鱗に触れて当初の意図が吹っ飛んでしまうこともまた、珍しい話ではない。
私の場合、高校生のとき、封筒を落として、拾った人が家まで届けてくれたことがあります。じつはその封筒、捨てたつもりのもの。ところが、ゴミ箱付近のポストに葉書を出す際、ポストの上にひょいと置いて度忘れしてた。だから届けてもらっても「そんなバカな……」と呆然としてしまい、お礼の言葉が出なかった。
高校生にもなって礼のひとつもいえないのか、と我が身を恥じたんだけど、ビックリしたときの対応力なんて、今も大差ないと思う。ともかくその場は、母が何度もお礼をいってくれて、私は一緒に頭を下げただけ。失われた言葉を取り戻したのは、数分後のことでした。
そういうことがあって、ひとつわかったのは、「親切なんて報われないんだ」と。だけど、封筒を届けてくれたのは、初老の紳士だった。道を尋ねながら、3kmも歩いて届けに来てくれたわけ。これまでの人生で、何回、人に親切にしてきたんだろうな。そして何度、期待を裏切られてきたのだろう。
もし私にできる恩返しがあるとすれば、この先くりかえし嫌な目にあっても、あの初老の紳士と同じくらいの年齢になるまで、人には親切にし続けることくらいしかないだろう。そう思うんだよね。
私は都電で通勤しているんだけど、基本的には、席が空いていれば座る性格なんです。その代わり、どんどん席を譲るようにはしているつもり。ところが私は眼力不足の無礼者らしく、けっこう固辞されることが多い。そのたび、もう席なんか譲るのやめようかな、なんて思う。
でも私は、すぐにお腹が痛くなるので、席を譲られて助かったことが何度もあるんですよね。私に席を譲ってくれた人が、過去に一度も「いえいえ結構です」といわれたことがないはずがない。そういう悲しみを乗り越えて親切を貫いてくれた人々のおかげで、今の自分がある。その私が、ここで挫けていいだろうか。
リンク先の人は「ひどい対応」にプッツンしちゃった。私も絶対にそうならないとは保証できない。そんなに自分を信じてない。ただ、リンク先の人を責めるつもりはなくて、あくまで自分の問題として、「私は親切を貫きたい」と。
第三者的に文章を読んでいる時ですら、そう思えないようなら、この先、私が人生の目標を達成できる見込みなんか全くない。結局は口先番長に終るのかもしれないが、まずは意志がなければ始まらない。
同僚が出張先で電話を落として、拾った人が電話内の電話帳を調べて私の席に連絡してきたら、どう回答したらいいんだろ? 私の知る限り、職場の出張用PHSには何の認証もかかっていないわけだが。セキュリティ的にどうのこうのといわれても、東京から幕張メッセまでだって、飛んでいくというわけにもいかないし。
警察に届けておいてください、とかいったら怒られるんだろうな。でも正解がわからない。
バランスを取る、というのは難しい。難しいからこそ、人々の自由な判断に任せるのが一番いい。
「改革」はたいてい、総論賛成、各論反対になる。だから天下り式に総論のところで押し切ろうという声が出てくる。それが間違いのもとなんだと思う。
これから言葉を学ぶ人にとっては、それはルールが簡単な方がいいよ。だけど、既に使いこなしている人、過去の資産を未来に伝えたい人にとっては、簡略化どころかルールの変更自体が問題になる。わざわざ細かなニュアンスの違いなどを表現できるように「進化」させてきたんじゃないか、ということにもなる。
こういう話題を、政府が主導して「正しい」の基準を動かそう、なんてところから始めようとするからいけない。まずはプライベートで、次は自分が管理できる範囲で仕事など公的な性格を帯びた文書へ、簡単な新日本語の使用範囲を広げていけばいいはずです。
最初は社内で海外支店とやり取りする文書を新日本語化し、現地採用の職員に新日本語を習得させるあたりからはじめてはどうでしょう。
商売では使えないなら、国際NGOはどうかな。子どもの就学支援事業では、現地の子どもが支援者に向けて書く手紙を日本語に翻訳するスタッフが、いつも足りない。もともとかなり日本語の品質が低い。こうした場では、新日本語の需要は比較的高いのかもしれない。
まずは新日本語が切実に望まれている現場からはじめて、何らかの結果を出すことでしょう。有用性が明らかなら、自然と新日本語は普及し、いずれデファクトスタンダードとなります。そうなれば「簡略化が有用だとして、何をどの程度まで簡略化するのが適当か」についても、自ずと緩やかな基準が見えてくるはずです。
少しずつ、ビジネス文書の言葉が柔らかくなってきているじゃないですか。歴史の古い会社に勤めている方は、暇なときに古い資料などを見てみてほしいのだけれど。みんなが試行錯誤して「適切な言葉遣い」のアップデートに貢献しているのです。こんなの、かったるいな、と思うかもしれない。でも。
言語の人為的改造なんて誰も責任を取りようがない。しかも不可逆現象に近い。こういうのを天下り式にやるとすれば、よほど切羽詰った状況しか考えられないと私は思う。
私個人の意見としては、日本語のリストラは不必要だと考えている。日本語よりよほど話者が少なく、英語と親和性の低い言語を使っている民族だって、ちゃんと国際分業の一翼を担い経済成長を実現しているのだから、何の利益もない。