備忘録

平成21年12月31日

読書冊数の推移

読了冊数は漫画や児童書も含めての数字(*雑誌とウェブ製作関連の本は除外)。ふつうの小説や教養書に限ると、180冊読了したことになります。手を伸ばした本は+100冊くらいあるのですが、いったん読み止しで放り出すと、次に手に取るのは何年後になるやら……。

視聴作品数の推移

視聴作品数はDVD、CD換算です。連続テレビドラマの場合、2話でDVD1枚と数えています。「3話入りのDVDもあるのだから水増しだ」といわれるかもしれませんが、テレビのバラエティー番組は滅多にDVD化されないので、カウントしていません。それでトントンじゃないかと思っています。

ところで、たくさん本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりすると、人間はよい方向に変化する……という意見がありますが、人それぞれだと思います。私の場合は、成長の実感は少しもありません。

クリアしたゲームの本数の推移

DSiウェアなども含む。プレイ時間は『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』が断トツでした。ライフネット生命保険による昭和50年代生まれの男性を対象とする調査や、4Gamer.netによるゲームクリエイターへのアンケートでもDQ9の評判はいい様子。自分が楽しめたなら他人の評価は関係ない、とはいえ「ネットで声の大きな層の偏り」をまざまざと見せつけられたという意味で、私にとってDQ9は2009年のとくに印象的なトピックのひとつでした。

レビュー:ドラゴンクエストIX 星空の守り人(2009-07-14)の後日談は明後日あたりに書きます。

有給休暇取得日数の推移

意外と有給休暇を取得していないな……。

平成21年12月31日

今年、個人的に衝撃だったのは、クレジットカードの不正利用

ブログに書いた記事が目に止まったそうでNHKの方と話をする機会がありました。その際、かなり長い時間をいただいて、いろいろ興味深い話を伺うことができました。せっかくだから記事にしようかとと思っていましたが、気付けば既に半年以上も前の話。記憶も怪しいし、もう書けそうにない。

昔はカードの不正利用があると「どこから漏れたんだろう?」と考えたものですが、今や本来の保有者が一度も利用していないカードでも不正使用される可能性がある時代なのだそうです。こまめに使用状況をチェックできる程度に枚数を絞り、また与信枠も必要最小限にしておいた方がいいと思います。

平成21年12月30日

1.

弟の奨学金は私が保証人になっているから、弟が急死したら、私が代わりに返済する。弟は大学と大学院へ進学して楽しかったみたいだから、まあそれで十分だろうと思う。奨学金を貸してくれた団体には感謝しているので、私は自分が保証する金額だけ預金を積んで、手を付けずに置いている。弟が奨学金を完済するまで、まだ何年もかかるらしい。

2009年は、見ず知らずの人にもお金を貸した。その人のブログのファンだったので、「まあいいか」と。困ったときはお互い様だろうし、芸能人のファンがあれこれのクラブに入って金銭面で(も)貢献するのと、あまり違いはないだろう。「これだけお金があったら、世界の貧しい人々が何人助かるのかな」とか思ったけれども、どうせ私はアフリカなどで生命の危機に瀕している人々を助けないので、実質的な意味はない。

日本で大きな地震が起きると、私はしばしば「コンビニで1000円札を出して買い物をし、お釣りをジャラジャラと募金する嫌味な成金」に変身する。あっという間に財布が軽くなる。「こんな恥ずかしいパフォーマンスをやる暇があるなら、日本赤十字に10万円くらい送金したらどうか」と自分に問うのだが、返事はない。

2.

金貸しも慈善家も、私ごときが下手に真似すると心が荒む。自分という人間の底が割れるような状況に陥りやすい。自分に期待なんかしていないつもりだったのに、ガッカリする。何度もガッカリすれば、いい加減、自己評価なんか地に落ちてもいいはずだ。が、自尊心はなかなかしぶとい。

人に相談を求めれば、必ず「自尊心に合わせて現実を改善せよ」とアドバイスされる。「嫌味な成金なんか、もう二度と演じるな」ということだ。しかし私の気持ちはどうなる。私は、生活の余裕をバラ撒いて、いい気分になりたいんだよ。役に立たないプライドさえなければ、私はやりたいことをやって幸せになれるんだ。

休日、寝て過ごしている人は多いと思う。「何もしたくない、ただ寝ていたい」そう思って、漫然と時間を無駄にしている人にとって、本当は「休日を無駄にする」ことこそ理想でしょう。それなのに、内なる小さな自分が、行動を支配する大きな自分にザクザクと剣を突き立てる。

「ほんとうは寝てるだけなんて嫌なんだよ」と人はいう。バカをいっちゃあいけない。休日を「有意義に過ごした」ことは、私だって何度もあるんだ。たしかに素晴らしいよ。でも、残念ながら、費用が効果に見合わない。だから無理をしないと続かない。自分の中では完全に決着のついていることなんだよ。

それなのに! キレイゴトを振り回すこの小人は、社会通念を笠に着て、何度でもよみがえる。そして無意味に心を傷つける。許し難い獅子身中の虫である。殺すのが無理なら、何とか檻に閉じ込めたいものだ。

3.

金が余ってるなら俺によこせ、とかいう人には耳を貸さない。そのお金があれば死なずに済んだ人がたくさんいるのに、無視している鉄面皮が私なのだ。「余ってるならよこせ」だと? 金がほしけりゃ土下座でもしろ……と、きわめて下品な発想がわいてくる。

が、本当に人に土下座されてみれば、それは少しも気持ちのいいものではない。むしろあまりにも不快なので、「わかった、わかった! 頼みは聞くから! その不快な所作を今すぐやめろ!」ということになる。土下座は脅迫だと思う。

平成21年12月29日

仕事納め。昼のお弁当のオマケに蕎麦が出た。もちろん、お弁当の蕎麦だから、コンビニ弁当方式。ビニールパックされたつゆをぶっかけで食べる。問題は、このつゆが残ること。

オマケなので、蕎麦はPETの透明な容器に入っている。会社は事業所だからゴミの廃棄は有料。お弁当由来のゴミは全て弁当業者に引き取ってもらう。なので蕎麦のPET容器も会社のゴミ箱とは別枠で、弁当業者の用意したビニール袋に捨てることになっている。前述の通り、容器にはつゆが残っているが、そのまま蓋をして捨てる。通常なら、何も問題はない。だが今日は。

「うわっ」と声を上げてしまった。ビニール袋の底部の溶着に不備があったらしく、角にたまったつゆが床のカーペットに滴っているのだった。「どうしたの」「ほら、あれ……」「あー、たいへんだ」「雑巾を持ってきます」ここまではいい。

私は(周囲の人の利益より自分の感情表現を優先させがちな)無防備系社員なので(クビにならなきゃいいでーす、昇進とか興味ないしー、みたいな)、だんだん眉毛がハの字に。つまんないことに気付かなきゃよかった。誰かがやらなきゃならないことだとはわかってるけど、なぜ昼休みにこんなことをする羽目に……悲しい……。

「あれっ、何かのバツゲーム?」別の人がやってきた。
「いえ、ちょっと袋に穴があって。気付いたので掃除してるんです」
「そう、でも……」私の表情が気になってる様子。ふと、悪乗りしてみたくなる。
「じつは、小さい頃を思い出しまして。年末になると、母に「コラッ、これは*月*日にお前が味噌汁をこぼしたシミじゃないか。あっちは*月*日にジュースをこぼした跡だねっ! ちゃんと責任を取って完全にキレイにするんだよっ!」って、絨毯の掃除をさせられていたなあ、と。でも、汚したときにすぐ掃除しても残っちゃったシミなんて、年末にどうやったところで全然落ちないんですよね。朝からはじめて、ずーっとゴシゴシやって、夕方、日が暮れてくると無性に悲しかったのを覚えてます……」

「なーんてウソですよっ!」というはずだったのが、ホントに涙がこぼれてきたので笑ってしまった。何だこれ。

こうなるともう、何をいっても信じてもらえない。「なんて可哀想な人なんだー! みんなが昼寝してる昼休みに幼少期のトラウマを刺激されてしまうなんてっ!」という感じで一緒に掃除を手伝ってくれたんだけど、気まずかった……。

私は優しい両親に育てられたせいか、よその子が、とくにお母さんに冷たくされているのを見ると泣けてくる。でもまさか、自分の作り話に30秒もかからず泣かされるとは思わなかった!

こういう能力も、安定して発動してくれるなら、いろいろ使い道もあるんだけどね。何かこう、例えば、「いま自分が真剣に仕事に取り組まないと地球が破滅する」みたいなお話を作って、バリバリ成果を出すとかさ。でも、実際にはどうでもいい場面でしか発揮されないんだよね。残念だ。あー残念だ。

ていうか、そもそも小さい頃のつらい思い出なんて作り話、聞かされても少しも面白くないぞ。なんでそんなのがジョークになりうると判断したんだろうか、半日前の自分。プロの芸人でもスベるのだけれど、一応は勝算があってやってるわけでしょ。こっちは脳内スキャンしても何も出てこないもんな。謎い。

平成21年12月29日

1.

鳩山由紀夫の政治を科学する (帰ってきたバカヤロー経済学)

この年末、今秋に政権交代を成し遂げた民主党の鳩山由紀夫政権の行方に関心を持った私は、『世論の曲解』と平行して本書『鳩山由紀夫の政治を科学する』を読みました。『世論の曲解』とは対照的に、従来型の政論副題こそ「帰ってきたバカヤロー経済学」なのですが、その『バカヤロー経済学』とは異なり、経済学的な視点は乏しいので要注意。

例によってレビューはAmazonに書いてます。ご意見いただければ幸いです。

2.

ま、本の内容はレビューを読んでもらうとして、この本、ページが多い。税込840円なのに320ページもある。小説ならふつうの値段かもしれないけれど、教養系の新書サイズの本としては珍しい値付け。対談形式で読みやすく、サクサク読めるので、読了にかかる時間は短い。ですが、「だから価格が下がる」というなら、あの作家やこの作家の本の値段だってもっと下がっていいはずですよね。

3.本題

対談本ってお互いが記憶だけを頼りに語るせいか、読みやすいかわりに内容が薄いように感じることが多い。作るのも簡単そうに思えます。しかし実際は、200ページくらいの新書を作るのに12〜16時間ほど対談しなければならないらしい。本を読めば1〜4時間ですから、書籍の高効率は凄まじい。

梅田望夫さんと茂木健一郎さんの対談本『フューチャリスト宣言』には、お二人の講演録も収められています。なんと60分ほど話した内容が20分もかからずに読めてしまう。恐ろしい。いいのかなあ……と、他人事ながら不安に思う。だって、本がある程度売れると、出版物の印税より講演料の方が稼ぎが多くなる人がたくさんいるっていうでしょう。

このような講演と書籍の関係は、書籍とネットの関係に似ていると思う。効率ということでは書籍が最強なのですが、価格や全体の情報量に注目すると、相似形の問題と捉えられるのではないか。

講演を聞きにいくのは、書籍を読むのと比較すれば、大変な手間でしょう。情報量も少ない。それなのに、価格が高い。ところが、それでも講演にくる人が大勢いて、印税より大きな稼ぎになってしまう。同様に、書籍を読むよりブログを読む方が安いし、単純に文字数を比較すればブログの方が総文字数は多い。それでも書籍には需要があり、ブログより大きなビジネスになる。

ボランティア活動ばかりやってる著名人がどうやって生きているのかと思ったら、じつは講演活動だったりします。でも著名人が名声を得たのは、本が売れたり、テレビの取材を受けたりしたから。最初から講演で生きようとしても難しい。本とブログにも、そんな関係があるのかもしれないな。

平成21年12月28日

1.

政治家は国民の声を知りたいと切実に願っていると思う。でも、なかなかわからない。陳情にくる人の声を聞いても、ブログ検索をしても、全くわからない。世論調査は比較的マシな情報源だけれども、結果をボンヤリ眺めるだけでは世論を曲解することに。

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)

世論調査と選挙結果を分析し、容易には掴めない世論の多数意見を明らかにしようとした興味深い1冊。自民党が2005年の衆院選に勝った理由、2007年の参院選および2009年の衆院選に負けた理由を追求した言説はいくつも目にしましたが、私には本書の分析が最も説得的に感じられました。

詳細なレビューはAmazonに書いてます(→レビュー『世論の曲解』科学的な政治学:世論調査をきちんと分析して「常識」を再検討する)ので、ぜひご一読いただき、ご不満な点があれば教えてください。Amazonのレビューで「参考にならなかった」票を入れる人の意見が知りたいのです。どうもこのところ「参考にならなかった」票が多くて、何がまずいのかわからず困惑しているのです。

286頁もある分厚い本ですが、図表がかなりの面積を占めており、また本文は饒舌ゆえ飛ばし読み可。読むのに時間はかかりません。

本書のような科学的な手法に基づく政治分析は、私が長年読みたいと思っていたもの。まさに待望の書なのですが、著者が様々な予断を持っていることは本文にあふれる余計な文言の数々から明らか。残念でなりません。饒舌を刈り込んで200頁程度にまとめてくれたらどんなによかったか。

2.

『世論の曲解』は世論と自民党の関係に焦点を当てており、有権者が自民党に失望した理由は明快ながら、代わりに民主党が期待された理由は、よくわからない。また、多数派世論が何を求めており、政権政党がどのような政策を推進すれば選挙に勝てそうなのかについても、クリアではない。

著者が肝心な点をぼかしているのは、断言するだけの根拠がないからなのでしょう。それを承知で踏み込むならば、2005年に自民党を大勝させた有権者は「構造改革」と「財政再建」を求めていたという分析は、民主党の勝利にも当てはまるのではないか。「えぇー?」と首を傾げる人が少なくないかもしれない。でも、

概要このようになっている世論調査と、合致しているように思えるのですよ。民主党が年金、子育て、格差などに焦点を当て、官僚イジメと財政再建が後景に引くと、支持率は低落の一途を辿りそう。現在の民主党は「小泉路線に反発する人々の支持で政権を取った」と、自民党と同様の「世論の曲解」をしていると思う。

平成21年12月27日

年内の更新はこれで終わり、かも。今年は……何だったんだろうな、年収がガックリ減って、政府と日銀の経済・金融政策に怒り心頭に発した一年だった、かな。入社以来、初めて失業の恐怖をリアルに実感させられました。

新しい日銀審議委員は岩田規久男さんではなく宮尾龍蔵さん。民主党政権も(意外なことに財政出動はかなりやるらしいが)金融政策には無策を続けるらしい。福田政権以降の自民党政権と比較しても反経済学的な閣僚・党幹部の発言があるし、来年も日本独自の不況が続くんでしょうね。勘弁してほしいですわ。

他人のことはともかく自分の生活はどうだったのかというと、これはだいたい望み通りにできたんじゃないですかね。つまり、適当に生きる糧を得る他は、何もしなかった。来年も、何もしたくないです。

平成21年12月27日

実家の最寄り駅の広告掲示板はずーっと空白だらけだったり。人工的なニュータウンって、ほんの数十年でオールドタウンになっていくのが悲しいよね。

東京の看板は……正直、よくわからないな。会社が大通りに面しているのでビル街は毎日目にしているのだけれど、とくに気になったことはない。まあ、いったんこういう記事を読んでしまうと、白い看板が気になってドンドン目に入ってくるんだろうな。

大塚駅周辺の広告掲示状況

都電荒川線「大塚駅前」早稲田方面ホーム

壁の掲示板は地元の子どもたちの作品を飾るスペースです。2mくらいの高さに並んでいる横長の額が広告掲示用で、都電荒川線「大塚駅前」早稲田方面ホームでは8枠中5枠が空いていました。

都電荒川線「大塚駅前」三ノ輪橋方面ホーム

都電荒川線「大塚駅前」三ノ輪橋方面ホームでは7枠中4枠が空いていました。

JR山手線「大塚」北口周辺

JR山手線「大塚」の北口周辺です。書店の脇の小さな看板にはいくつか空きも見られましたが、ビル上の大きな広告看板は全て埋まっていました。

JR山手線「大塚」構内

JR山手線「大塚」の構内です。壁も柱も。広告枠は全て埋まっているようでした。

JR山手線「大塚」南口周辺

JR山手線「大塚」の北口周辺です。写真は一部ダブっていて、大きな目立つ看板に5つの空きがありました。

印象論ですけど、都電荒川線のホームのように過半が空いていると、さすがに「白いな……」と思います。けれども、その他は「気にしなきゃ気にならない」という感じでした。

平成21年12月26日

こういうのを見るといつも思うことは一緒で、私は「話の聴き方がうまい」と賞賛されてはみたいけれど、他人との会話にはあまり興味がないから、実践しようとするといちいち苦痛なんだよな、と。

そりゃ他人と会話するのが好きな人も「努力」はしているんでしょう。列挙された内容を見るに、まあ、それなりに手間がかかることには違いないよ。でもさ、好きでやってる人と、嫌々やってる人の努力って、違うと思うんだよね。私は可能なら一方的に話を聞きたい。だから授業とか講演会とか読書なんかが好き。

極端な話はともかく、会話にも費用と効用のバランスがあって、同じことをするにも人によってコストの感じ方が違うんですよね。リンク先にはあれこれポイントが書かれているけれども、私は仕事以外でこんなことやりたくないな。会話が弾むくらいじゃ、ちっとも割に合わない。

平成21年12月25日

私はそもそも携帯電話を持ち歩いてないんだよね。

1.携帯電話を持ち歩かない理由

  1. 人付き合いが嫌いだから。後述の理由で私も電話番号は必要としているものの、誰とも通話する気はない。場の空気を壊さないために電話番号を交換せざるを得ないことは私にもありますが、電話を持ち歩かなければ、実質的にその意味をゼロにできます。
  2. いざというときには諦めてほしいから。なまじっか連絡がつくと思われるから、面倒に巻き込まれる。会社を出たら仕事なんか忘れたいし、他人の悩みにリアルタイムで応対したくもない。親の死に目にあうつもりもない。「緊急時には頼れない」キャラが定着すると、ふだんから人に無理をいわれなくなります。
  3. 自分の能力を制限しておきたいから。携帯電話なんか持ち歩くと、おちおち道に迷うこともできない。待ち合わせ場所を間違えて、それっきり流れでキャンセル、ということもできない。大事なメールに気付かず返信を遅らせることもできない。できない方がいいことは、できないままにしておきたい。
  4. 壊しちゃったら悲しいから。使いもしない物でも、不注意で壊してしまうと悲しい。家に置きっ放しにしておけば、持ち歩くよりは安全でしょう。
  5. 自己紹介に便利だから。携帯電話を持ち歩かない理由を説明するだけで、「徳保くんって、かなりの変人なんだね。あんまり係わり合いにならないほうがよさそうだなぁ」と、正しい認識を持ってもらえる。適切な人間関係の構築は、ハッピーな生活の基本。

以上、ふつうの人には全く参考にならない記事でした。

2.PHSを契約している理由

実家を出て数年は社員寮にいたんだけど、両親が私に何かと食べ物などを送ってくれるわけ。ところが、電話番号がないと、宅配便も出せない、と。それで両親は寮の管理人宛に荷物を送り、管理人さんが私のところまで届けてくれることになったのですが、3回目くらいで早くもプチ切れ。「いい加減にしてくれ」という。

そうこうする内、学生時代に作ったクレジットカードの更新期限なども近づき、実家の電話番号で登録してもいいんだけど、うーん……と考えて。あと図書館の利用カードを申請する際にも電話番号が必要で。

ま、私にとっては、社員寮と実家との距離(実移動時間2.5時間)が決定的だったんですね。荷物の受け取りや、図書館の利用カードと病院の診察券を登録する際に、実家の電話番号を「使えない」と判断した理由は、他にないですから。あるいは、荷物を受け取ったり、図書館が使えなかったり、病院の診察券を作れなかったりするのは嫌だ、と私は思ったんですね。

それでどうしてPHSなのかといえば、もともとPHSの通信カードを使っていたことと、当時はたしか、携帯電話より安かったから。今はホワイトプランの方が安いですが、電話番号を変えずにソフトバンクへ移ることができないので、「数十のサービスの登録情報を修正するのが面倒くさい」という理由で放置してます。

平成21年12月24日

10〜50人くらいのお客さんを集めて開かれるライブって、たいていアンケート用紙がついてくるんです。帰りに出演者に手渡すのがふつうですが、アンケート回収箱が用意されていることもあるみたい。

ライブをやる人が感想をほしいのはわかる。でも、映画を100本見ても感想をひとつも書かないのが私でもある。なかなか難しいです。Amazonのレビューは、あれは商品選択の参考になる文章を書く、という前提があって、著者や商品の製作者・企画者が読むことは想定しない、と割り切っているから書きやすいのです。

高校時代は、文藝部の後輩の作品に毎回のように感想を書いてましたが、(自分では何も書かないくせに)批評家的な物の言い方をすることに相手が気分を害しても、「先輩なんだから許せよ」というエクスキューズを持っていました。でも、商売としては成り立っていない、半ば趣味的なライブの場合、上から目線は違うんじゃないかと思う自分がいるわけ。

すごく失礼なことをいうと、たぶん私は、音楽に(限らず)あまり感動しないというか、鈍いんだと思う。「すごい!」「感動した!」「しびれた」「ジンとくる」とか、その程度しか褒める語彙がないんだけど、どれも「なんか大げさで正直じゃない」と思ってしまう。そんなのコミュニケーションの道具なんだから、大げさでいいんだよ、とも思うけれど。

で、素朴に「感想」を書いてみると、まあ大体、粗捜しみたいな文章になる。私は人がうまくやれたことより、失敗したことが印象に残るらしい。それもまた面白い、というのでもなく、「次回からは直してね」と思う。昔は「それでもいいから」という声を真に受けてたんだけど、最近はどうも、ね。やっぱり自分自身が、書いてて面白くないし。でも、そんなのしか書けなくて、ガックリきちゃうし……。

だから、ライブの感想に限定せず「適当に自分の近況とかを書いてもOK」というアンケートは嬉しい。アンケートを書かずに帰るのも悪い気がするというか、ライブって入口で出演者の方が「アンケートくださーい!」って待ってたりするんですよね。素通りするのがつらくてつらくて。

平成21年12月24日

私は「くつした」さんから誘いを受けるまでライブハウス(というのが正確かどうかわからないけれど、とりあえずこう書きます)には行くことがなかったんですが、その後、あちこちへ何度か足を運んでみて、ちょっと気になってることがひとつ。

というのは、ライブハウスには明らかに2つの形態があるのに、当該のお店がどちらのタイプなのか、ウェブサイトを見て事前に判別できない場合があること。具体的には、立ち見・床座り見が基本のステージ前が広場みたいになってるお店と、ステージ際まで椅子と机が並んでいるお店があるのです。私は断然、後者が好きなんです。一人ぽつねんと座っていても、何となく居場所がある感じがするし、何といっても疲れないから。

幡ヶ谷の「36°5」は、私の好きなタイプの場所で、ウェブサイトの写真を見てもちゃんと椅子と机が並んでいるお店だとわかるようになっているのがいいと思う。

平成21年12月23日

チェーンメールやチェーン日記に代表される「コピペ転載推奨」への批判に、私は乗れません。その理由を一般化すると、「バカは騙されやすいので、ウソ情報が流れやすいメディアは規制しろ」という意見には賛成できない、となります。

ウソ情報が再発信されるのは、再発信する人が、まず第一にその意見・情報を信頼し、その意見・情報を広く世に伝えることに協力したいと思うからです。「コピペ転載推奨」は、協力の敷居を下げているだけです。「コピペ転載推奨」だから信頼するのではありません。この点を勘違いしている人が多いと思う。

事実無根の噂話を書いたブログを批判するとき、噂の出所を究明して問題の全面的な解決をしようとする人は珍しい。それなのに、チェーンメールやチェーン日記となると、最初の発信者がわからないからダメだ、と即断する人が目立つ。このダブルスタンダードは納得できない。

噂を信じるのも、知人から転送されてきたチェーンメールを信じるのも、同じことでしょう。チェーン日記などの場合、ウソ情報の広まりを簡単に観測できるから、妙に大きな問題意識を持ってしまうのかもしれない。けれども、私たちに可能なことは、事実無根の噂話を書いてるブログへの対応と変わりないはずです。

つまり、ウソ情報を再発信している一人一人を説得して、今後は同種のウソ情報に騙されないよう教え諭していく他ない。問題の根本は一人一人のバカさ加減にあるのであって、「コピペ転載推奨」にあるわけじゃない。「コピペ転載推奨」はダメと刷り込んでも、口コミなどでウソ情報の再発信は今後も続きます。

平成21年12月23日

この話、私はCさんに共感します。有名人ならある程度は適当に悪口いわれてもいいだろう、というような価値観には嫌悪感さえ抱いているから、有名税云々みたいなエクスキューズは私には通用しないし。

あと、そもそも論をいえば、どうして自信満々の人をバカにしたがるんだろう。私自身も、これまでに何度も「自信に満ち溢れている人」の粗捜しをして足を引っ張ろう、引っ張ろうとしてきたんだけど、どうしてなのかわからない。だからなのかどうか、他人が自信家の足を引っ張るのを見るとムカついて仕方ない。

Cさんは、北原さんの「告白」――よしもとばななが「うらやましい」から(あんな容姿でどうして自信満々でいられるのか、なんて悪口をいいたくなるのです)――を聞いて納得して引き下がったらしい。北原さんは、どうして「うらやましい」で納得できるのかわからないそう。

Cさんの気持ちはわかりませんけど、私の場合は、「うらやましい」と説明されれば「つまり嫉妬ですか」と納得できます。そんな簡単に説明できれば苦労しないよ、とは思うものの、世間に通用する説明には違いない。ま、これくらいで矛を収めるか、と私ならそう考えます。

平成21年12月22日

  1. コピペ転載を推奨して自分の考えを世に広めようと考えた場合、「コピペ転載を推奨する範囲」に、 この2つの情報を含める。
  2. 発信者と発信年月日が不明な情報をコピペ転載して再発信する場合、あるいは元情報からそれらの情報を削って再発信する場合、「文責は自分自身が負わねばならない」ことを自覚する。
  3. 知人やファンのブログやTwitterが問題のある情報を発信していたら、なるべく指摘する。

以上、私の個人的な生活の指針を整理してみました。

平成21年12月22日

0.

  1. チェーンメール、チェーン日記全否定の啓蒙活動に思う(徳保隆夫 2006-12-04)
  2. 善意であれ事実であれチェーンメールはダメゼッタイという話(rikuoさん 2009-12-17)
  3. コピペ転載(チェーンメール、チェーン日記)批判を問い直す(徳保隆夫 2009-12-21)
  4. Re:コピペ転載(チェーンメール、チェーン日記)批判を問い直す(rikuoさん 2009-12-22)

あらためてお断り:SPAMチェーンメールは以下の議論では取り扱いません。私が「チェーンメール」と書くとき、SPAMチェーンメールは含みません。

以下、いろいろ書きましたが……

「発信年月日と最初に情報を発信した人物・団体がわかるコピペ転載なら問題ない」ということであれば、rikuoさんと私に大きな意見の相違はないかもしれません。

1.コピペ転載のメリット

コピペ転載には、いくつかの利点があります。

2.事例:農薬散布情報の伝え方

私の勤務先には社内の電子掲示板がありますが、重要な情報はメールにコピペ転載されて周知されます。その様子を、一例を挙げて、説明します。

  1. 本社工場の植木への農薬散布情報は、本社の総務によって掲示板からメールにコピペ転載され、本社勤務の全員に加えて、世界各地の事業所の部長級以上に届きます。散布の当日、事業所から本社へ出張する社員がいるかもしれないからです。そしてこのメールには「必要に応じて転送してください」と書かれています。
  2. 出張は部長決済です。事業所の部長は、管理下のどの課に本社への出張が必要な用件があるかを把握しています。しかし、正確にいつ誰が実際に出張するのかは、出張申請が提出されるまでわかりません。そこで、出張が必要な案件を抱えている課の長に、2次転載の転送メールを発信します。
  3. 課長は出張の可能性がある(ことを承知している)部下に、3次転載の転送メールを発信します。
  4. 本社への出張を現実的な可能性として認識している社員であれば、課長から転送された農薬散布情報を読まずに削除することはないでしょう。「自分で掲示板をチェックせよ」と指示するのは非現実的。本社工場の農薬散布情報まで遺漏なく把握するためには膨大な掲載情報の全件チェックが必要になってしまいます。

掲示板へのリンクではなぜダメか。そのたったひと手間が、「後で見る」→「見るのを忘れてました」という事故につながるからです。この問題の発生率を劇的に減らすには、情報の転載が効果的でした。掲示板の情報が訂正されるたび、メールを再送するのは手間ですが、それは必要なコストなのです。

一方、不要不急ながら「全社周知」「部内周知」「課内周知」とされた情報は、掲示板へのリンクだけのメールが発信されます。「役員の新任・再任」はリンク、「○月×日、株主総会が開催されるので、来客対応(挨拶・服装など)に注意せよ」は転載でした。合理的な判断だと思い、感心した覚えがあります。

少し整理します。

もし社内の公開情報を全てメールで流したら、情報の重要度がわからなくなって、大切な情報を見落とすことになります。そこで、あまり重要でない情報は掲示板に載せ、最近の記事一覧を情報管理ソフトのトップページに表示するにとどめます。掲示板には情報が集約されていますが、掲示板はメディア力が乏しい。

大切な情報は、掲示板の記事へのリンクがメールで配信されます。おそらく、リンクを辿るのはメール受信者の一部でしょう。しかし情報の存在を周知するのが主な目的なら、それでもよいのです。

とても重要な情報は、掲示板の内容をメールにコピペ転載して配信されます。これなら、メールを開くだけで情報に接することができ、読まれる確率が高まります。しかし本社の総務が各地の社員の本社出張の可能性を把握して直でメールを配信した場合、よほど絞込みの精度に信頼がない限り、「私には関係なさそう」と開かずに捨てられかねない。

「直属の上司からとくに指名で転送されたコピペ転載メール」という形式は、情報発信者からは縁遠い相手に、確実な情報伝達を可能とする知恵でもあるのです。「掲示板→本社の総務→事業所の部長→課長→社員」というコピペ転載メールの転送という情報伝達の手間には、意味があります。

3.

私自身は、チェーンメールは過去に1通しか受け取ったことがありませんが、口コミで出典不明のウソ情報を教えられるのは日常茶飯事です。かくいう自分の記事を読み返してみても、そのほとんど全てが根拠不明の怪情報。例えば、上記の「2.事例:農薬散布情報の伝え方」が100%創作でない保証がどこにありますか。「この話が事実だという証拠を出せ」と迫られたら、私はブログを畳んで逃げます。

rikuoさんのいうブログなら可能な「状況の変化に対応した記事の訂正」なんて、私はやっていない。かつて私が批判したあれこれが、その後、改善されても、(ほとんどのケースで)私は記事を放置しています。

ようするに私は、根拠不明の記事を書きまくり、状況が変化しても訂正しないブロガーなんですね。それでいてGoogleなどの検索エンジンで記事の掲載順位がかなり高い。さらに著作権を放棄して盗用大歓迎と謳っています。喧伝される「チェーンメールの害」の全てが、このブログにはあるのです。

それがいいことか悪いことかと問われれば、なるほど記事に客観的な根拠あって、状況の変化を完璧にフォローできるなら、そうした方がいいには決まってます。が、そういうことに潔癖になると、ほとんどのブログは成り立たない。そんな息苦しい世界は嫌です。

4.

私の過去に書いてきた「意見記事」には、明示されてはいないけれど「あなたもこの意見に賛同して世間に再発信してください」という意図が込められています。「コピペ転載を推奨する」のは、その手順を簡略化するひとつの方法に過ぎません。デモ隊に参加して一緒にスローガンを叫ぼう! というのと同じなんです。

私がブログに記事を投稿するという手段を採用しているのは、記事と同じ文章をメールで知人に送りつけ、「これは素晴らしい意見だからキミもぜひキミの知人にこのメールを転送したまえよ」といっても、そっと受信拒否されるだけだとわかっているからです。チェーンメールを書けばアッという間にリフレ政策に賛同する人が増えて、政府に圧力をかけられるなら、今すぐそうしますよ、私は!

チェーンメールが「成功する」のは、最初からその意見に賛同する素地のある人が多いから。それでも、「自分の言葉で記事を書き直すこと」と条件をつけると、情報の再発信まではなかなかしてくれない。ようは賛同の度合いと手間のバランスの問題なんです。

だから結局のところ、まず賛同されなきゃどうしようもない。チェーンメールへの怒りというのは、私の認識では、「何でこんなバカな話に賛同して協力するんだ」ということでしょう。それで、協力の敷居を下げる「コピペ転載推奨」を叩く。でも、本質的な問題は、バカな話に賛同することの方ですよ。

チェーン日記やチェーン的RTは、「私バカです」が公開されるから、「えっ!? あんな人まで」とか「こんなに広まっちゃってるなんて……」と愕然とするのはわかります。でも、血液型性格判断を「けっこう当たってる」と思ってる人、周囲にものすごく多いでしょう。大学教授とか難関大の理系学部卒でも普通に信じてたりするじゃない。それがちょっと見えやすくなってるだけなんですよ。

「コピペ転載推奨」を叩いたって、バカが見えにくくなるだけで、意味ないんですよ。そりゃ情報の再発信を邪魔すれば、ネット上では少しヘンな情報の伝播速度が落ちるように見えるかもしれないけれど、ネット上での情報発信なんて口コミとは比較にならない。1日にTwitterに投稿した話題しか世間話しない人がいるとすれば、相当に無口な方ですよね。ブログの読者数、Twitterのフォロー数で掛け算したって、人気上位1%程度の人だけだと思いますよ、ネット上の情報発信力が口コミ力を上回っているのは。

5.

「コピペ転載推奨」は絶対にダメだという意見は、コトの軽重を間違っていると思うわけ。

「絶対にダメ」は、かなりキツイ判断です。日本は、殺人さえ「絶対にダメ」ではない社会。いま相当にひどいブログさえ、いちいち「許せない」「撲滅すべき」とかいわない人が、「コピペ転載推奨」は全否定するから、それはおかしいでしょ、と。

「コピペ転載するなら、元情報の発信年月日と最初の発信者を明確にするべき」という提案にとどめるのが妥当な線ではないでしょうか。

と、ここで冒頭の注釈に戻るわけなんだけれども、元情報の発信年月日と最初の発信者が明確になっている「コピペ転載推奨」の情報は「チェーン***」の定義から除外して話をしています、とrikuoさんにいわれたら、それでも私は「絶対にダメ」はいいすぎだと思うものの、とくに大きな対立はないわけです。

平成21年12月21日

1.

チェーンメール、チェーン日記全否定の啓蒙活動に思う(2006-12-04)から3年、思うところあるので再論します。最初に断っておきますが、SPAMチェーンメール、SPAMチェーン日記(無差別トラバなど)は議論から除外しています。

私は、事実かどうか・善意かどうかではなくチェーンメール、非公式RTでの伝播が仕組み上問題だと考えています。1度広まった情報はあとから訂正が難しいです。

まぁ、チェーンメールに比べれば、非公式RTはまだ情報元に遡りやすいですが、それでも限度があります。ならば、非公式RTでなくせめて公式RTにするとか、または転載するのでなくリンクするとか、色々と情報元をはっきりとさせておく必要があるでしょう。このダイアリーでも、Twitterでも繰り返し「非公式RTは嫌いだ」「Permlinkを載せろ」と書いていますが、こうした経験があるからです。

チェーンメールやチェーン日記を見つけると、まずもうその形式だけで問題視する人がいるわけです。しかし引用した記事でrikuoさんが問題視しているようなことは、よく考えてみれば、ほとんどの個人のブログとかmixi日記などについて同様の批判が可能ではないでしょうか。

チェーンメールならダメだけど、読者には検証不能な「体験談」とか「知人から聞いた話」を書いてる人はOKなんでしょうか。私は、あえて踏み込むなら、OKだと思う。それがNGとなる世界は窮屈すぎます。

2.

Amazonでレビューをしていると、明らかに「読まずに書かれたレビュー」があることに気付きます。それが半日を費やして書いた自分のレビューよりずっと高い評価を得ている場合があり、腹が立ちます。それでも、そのサイトで当該商品を買ったユーザーだけがレビューを投稿できる仕組みになれば、私自身も困る(近所の新刊書店や古書店で買った本、図書館で借りて読んだ本などのレビューが3割以上ある)ことに思い至ります。

「読まずに書かれたレビュー」に「参考になった」票を入れて、私のレビューに「参考にならなかった」票を入れた人を、私は憎んでさえいるのだけれども、結局、自分も同じ穴の狢(むじな)なんでしょう。私には明らかに「読まずに書かれたレビュー」と断定できても(注:これは根拠を挙げて説明できる)、投票した人にとっては、そうではなかった。

チェーンメールやチェーン日記といった「形式」を批判するのは、筋が悪い。

「コピペ転載はダメだけど、口コミならいい」んですか? 「自分の言葉で語り直せば許せる」んですか? ハイそうです、という人がいるのでしょうけれども、私はそんなの、全く納得いかない。

2004年の中越地震の際に「大人用オムツと貼るカイロを被災地へ送ろう」と呼びかける運動があり、それがたいへんな善意の無駄遣いに終ったという事実があるとして、その運動がチェーンメールやチェーン日記によらず、みなが自分の言葉で友人らに口コミで伝えるという手段で広まったものなら、文句ないのでしょうか。私は文句ありますよ。

つまり、本当に問題があるのは、コピペ転載という形式じゃない。「そんなのわかってるよ」といわれるかもしれないけれど、私はチェーンメール叩きを頑張ってる人の少なからずは「わかってない」と思う。

3.

rikuoさんは、2004年の中越地震についてネットで生じた草の根物資援助運動が陥った失敗を例に、チェーンメールの難点を説明しています。rikuoさんが失敗の実在の傍証としてリンクしているmedialogさんの記事に一次情報はなく、結局、成城大学教授の川上善郎さんが書いたとされる記事に行き着きます。が、そこに書かれているのは、コピペ転載が広まっている事実の指摘と、筆者は「自分」を消している、といった分析。

rikuoさんは、全国から届いた需要に合致しない応援物資の処理に自治体が苦労し、確か数年に渡って倉庫に保管し続け、数百万から数千万円の費用が計上されたのではなかったかなと書く。「だから」チェーンメールはダメだ、という論理展開。

よく読むと、これはおかしいですよ。そもそも「チェーンメールに触発されて大人用オムツと貼るカイロを送った人が大勢いて迷惑になった」事実はあったのか。チェーンメールがなかったら、無駄な援助物資がどれだけ減ったのか。そこのところを誰も論証していない。

rikuoさんの記事を読んで、素朴に「そうか、2004年の中越地震で無駄な援助物資が現地に迷惑をかけたのはチェーンメールのせいだったんだな!」と合点した人は、ちょっと考えてみてほしい。「自分は、何を根拠に合点したんだろう?」と。危険は、そこに潜んでいるのですよ。

コピペ転載は、最初に誰が書いたかわからない情報が生の形でそこにあるから、「どうしてこんなものを信じられるの?」という意見が出てきます。ところが口コミで伝播した情報だと「この人がいうならホントかな」となってしまう。コピペ転載だって、その人が信じて転載したんだから、実質的には同じことなのに。

4.

こうしてエントリーを書いている私も非常時で情報が少ない中、必ずしも常に正しい判断が出来るとは限りません。ならば、安易な転載を行わないのが対策になるではないでしょうか。

私がいいたいのは、この理屈でいうと、転載であろうとなかろうと問題なんじゃないの、と。非常時でなくたって、私もrikuoさんも、根拠の怪しいことを書きまくってるわけでしょ。今さらどうして転載だけ「自粛しましょう」どころか「ダメゼッタイ」とまでエスカレートするのか。

はてブで事実や標準的な学説に真っ向から反している記事が、なぜか賛同系のブクマを大量に集めて上位に登場することがしばしばあります。チェーンメールの効果なんて、ヘンな記事に好意的なブクマをして(結果的に)宣伝するのと大差ない。コミュニティに自浄作用がある保証なんかないわけで。

だいたい、本来であれば、チェーン日記はともかく、チェーンメールは、むしろ訂正が容易なはずです。発信者のアドレス帳に自分の名前があったから、メールが届いたわけでしょう。最初の発信者が訂正メールを送れば、順次、訂正情報が流れるはずです。

そうならない理由はいろいろあるでしょうが、最大の要因は、最初の発信者が自分の間違いに気付かないからではないですか? もしそうだとすれば、一部の人が何度「あなたの記事には間違いがありますよ」と指摘しても全く訂正されないまま検索結果上位に居座るダメな人気記事と、問題の構造は共通しています。

5.

Twitterでは投稿したエントリーを修正・追記は行えません。ならば、ブログなど後から編集できるメディアを使って報知するのはどうでしょうか。

そんなことをいったら、メールなんて広報に使えませんよね。仕事で転送メールを使うこと、あるでしょう。再転送だって、するでしょう。別にコピペ転載だから悪いという話じゃないはずなんです。

川上善郎さんは、最初の発信者と発信日時がわかるコピペ転載は、チェーンメールの定義から除外しています。特定時点における情報です、誰某が(責任を負って)発信した情報です、とわかるようになっていれば、一概にコピペ転載を排除しない……。この指針は現実的だと私は思います。

コピペ転載には、伝言ゲームにありがちな情報の劣化が生じない美点があります。また再転載を許すことには、最初の発信者と直接には関わりのない、しかしその情報があれば有用な人に、情報を届けられるメリットがあります。デメリットがあるから全部ダメというのではなく、問題点を解消してメリットを活かすべき。

補足:

「転載しなくてもソースにリンクすればいい」と、よくいわれますが、アクセス解析すれば明らかなように、リンク先なんか読みに行く人は半分もいない。自分の記事の読者1000人なら1000人に確実に情報を届けたいなら、転載するしかないのが現実です。

あと、「リンク先はすぐに消えてしまう」という問題もあります。自分の記事は何年間も検索エンジン経由でアクセスが途絶えないのに、肝心の情報をリンク先任せにしていたために、みんなが無駄足を踏むことに。そういう悲しい記事が、この備忘録にもいくつもあります……。

平成21年12月20日

まず「お前は運がいい」。次点は「起こるかもしれない(よくない)ことは、だいたい実際に起きる。でも、意外と何とかなる」かな、私の場合は。あと「自分のために頑張るのは難しいが、他人に迷惑がかかるとなると、ついつい無理をしちゃう。気をつけないといけないよ」とか。

平成21年12月19日

今回のAmazonの措置に問題があるとすれば、FFを例外措置としてしまったことだろう。原則として発売前レビューが出来ない、と言うシステムになっていれば、誰も文句は言わない。

Amazonでは2009年7月3日にレビューガイドラインが改定され、発売前の商品のレビューが禁止されました。

Amazonが扱っている商品もいろいろあるわけですが、ゲームやDVDなどの多くは、発売初週が勝負なんです。とすると、発売前のレビューを禁じてしまうのは、レビューの存在意義を半減させることに等しい。

「発売前の作品なんかレビューのしようがない」とは必ずしも言い切れません。映画のDVDなら、映画館で見た人なら、DVDの特典などについては言及できないにせよ、作品自体についてはいろいろ書けますよね。雑誌や新聞で連載された小説も、単行本では多少の加筆修正があるかもしれませんが、連載から何年も経ってからの書籍化でなければ、それは限定的だと予想がつく。ハードカバーの文庫化も、事前レビューは可能だと思う。

ゲームだってそうです。ゲームショーなどで事前に一部は公開されているわけだから、その範囲内でなら、ちゃんと実体験をもとにレビューできるはずです。ゲーム雑誌の記事だって、未完成の状態を取材して書かれていて、大勢がそれを参考にしているわけです。

あるいは、ゲームにも価格を改定して再発売される商品があります。「ベスト版」なんて呼ばれることが多いですけれども、それらは基本的に初期版と内容は同じわけだから、「作品を最後までプレイしたレビュアーによる発売前レビュー」が成立するはずです。なのに一律に規制されてしまっていいのかどうか。

……ただ、実際には「期待してます!」「**が作るのはダメな作品に決まってる!」という水準のレビューが並んでいたので、発売前レビューの規制には納得できます。レビューの審査に回すリソースが足りないのでしょう。有意義なレビューを厳選するより、商品の価格を下げた方が客に喜ばれるのだから仕方ないですね。

Amazonの回答は「クチコミ」です。宮本さんのアイデア通り、自由な意見を発表できる掲示板形式の投稿コーナーとなっています。

補記:

ガジェット通信の記事は、ちょっと間が悪かったですね。DQ9などの場合、発売日の午前には既にレビューが掲載されていたのに、FF13では翌朝までレビューが掲載されなかったのです。それで「おかしい」と思ったらしい。ガジェ通の記事が午前5時頃に出て、その数時間後にはレビューが掲載されたようです。

そんなわけで、ガジェット通信は発売前レビュー禁止を批判しているのではなく、「発売後もレビューが掲載されていない」ことを問題視していたのだと思います。

余談:

個人的に気になっているのは、Sony Styleです。カスタマイズ可能な商品は、構成次第で価格が2倍以上も違ってくるわけですけれども、「販売価格:***円(制込)〜」と表示されているのに、価格シミュレーションページへ移動したら、最安値の構成要素が「販売終了」表示。そりゃないでしょ、と。

まあ、サイトの構成をした際に、構成部品の在庫がリアルタイムに最低価格表記へ反映されるような仕組みにしていなかっただけで、とくに悪気はないのでしょうけれども。でも高価格の構成要素にはほとんど売り切れがないのに、安い方ばっかり売り切れているから、誤解する人も出てくるんじゃないかな、これは。

こういうところで営業戦略が剥き出しになるからITは怖いですね。

平成21年12月18日

1.

今週、来日した中国の習近平国家副主席が天皇陛下と会見することを希望する人がいて、「天皇陛下への面会の約束は1ヶ月前までに行うこと」というルールが崩れた、という話題。

マスコミ報道でもネットでもいろいろ話題になっていますね。評論家的な意見はもう無数にありますし、私は例によって、この件を題材に自分の日々の生活を振り返ってみようと思います。

2.

会社にも慣例ってたくさんあります。若い社員は「意味わからん」といって無視しがちなんだけど、たいていよくないことが起きます。とりあえず慣例にはしたがっておいた方が安全、ということだけが現在に伝わっており、それぞれのルールが生まれた経緯がわからなくなってしまっているので、そうなるわけです。

当然、きちんとした引継ぎも行われない。すると、自然消滅的に慣例がなくなってしまうこともあります。若手社員ばかりの新設部署が、どういうわけか他の部署との連携がうまくいかずに苦労するのって、じつは「慣例に疎かったから」なんて理由だったりするのです。「どうしてマニュアル化されていないんだ!」と偉い人が怒ったら、「じつはされてました」なんてことも。

私の勤務先は歴史のある会社なので、社内の「標準」だけでファイル数十冊分となっており、私も通読したことはありません。こうなっちゃうと、書類があって形式的には引継ぎもしているが、実質は違う、というややこしい状態になります。

しかしまあ大抵の慣例はそういうものなんですけど、逆に、しょっちゅう参照されるのに現実とのすり合わせが不十分というケースもあります。とくに「安全」側に大きく振る形で「とりあえず」決めたルール。

「安全」だって過剰に追い求めれば方々にしわ寄せが行くのですが、「安全」なら改善に緊急性がない。それで放置されるうちに、大勢に広まってしまって、「関係者が多すぎて変更のコストが高く、改正は困難」なんて状態になってしまう。しかしこれは危険な状態で、いずれ慣例的ルールは挑戦を受けることになる。

多分、「1ヶ月ルール」というのも、そういう種類のものなんじゃないかな。外交日程なんて、なかなか1ヶ月前までに決まるというものではない。もうちょっと短くならないの? と不満に感じてる人は少なからずいたと思う。だから「何とかならないの」と自民党からも相談する人が出た。そこに不思議はない。

ただ、大国の幹部ならルールを枉げられる、小国だとダメ、みたいなことになると、陛下の会見設定が恣意的になってしまう。陛下の会見をレントシーキングの種にはしたくない。この議論は強靭なので、「それじゃあ仕方ないね」となってきたわけです、これまでは。

民主党政権は、とうとうルールを枉げてしまって大騒ぎに。政治の世界も会社組織と同じで、目の前の結果を優先すると失敗するんだな、と思いました。

3.

経験的にも、周囲を観察していても、こういう場合の必勝法はひとつしかないと思います。

まず、目先の勝ちは捨てる。だって、ルールの側の理屈は正しいんだもの。まずそれは受け入れざるを得ない。「1ヶ月ルール」では、「例外を認めない」「事前に調整が必要」「ルールの変更には時間がかかる」この3点は固い。とすると、習近平さんと陛下の会見を設定するのは無理、という結論になります。

問題は、その先。会社でも、喉もと過ぎれば何とやらで、「ダメ」「どうしても?」「ダメ」これで諦めると、それっきり関心を失ってしまう。だからルールが見直されないんです。調整不足のルールのせいで煮え湯を飲まされたなら、逆にそれを武器にルールを再検討する場を設定すべきなんです。

「1ヶ月ルール」なら、「本当に1ヶ月という期間が妥当なのか」が争点になるでしょう。不都合なルールは、きちんと議論して改正した方がいい。調査と議論の結果、むしろ「1ヶ月では陛下の日程調整に困難があり、むしろ1.5ヶ月ルールとすべき」と判明するかもしれない。それはそれでいいと思うんです。

つまり、「なんで1ヶ月なんだ」というところが曖昧だから不満が出てくるわけで、みんな必死に駆けずり回って、それでどうにか運用できているんです、とわかれば、よほどヘンな人以外は怒らない。

そうした手間を惜しんで、しかも目先の利益を求めて「特例」をやると、結局はいいことがない。今回の騒動は、そうしたことを私に再認識させてくれました。

平成21年12月17日

1.

emobileからの案内葉書はずっと読み捨ててきましたが、今回は心動かされました。これくらい明確に便利になって、端末価格が実質1000円(5980円払うが翌月の通信費4980円が無料)なら、機種変更したいな、と。そんなわけで、買いました「Pocket Wifi」。

Pocket WiFi

emobileを2007年5月半ばから2年半利用してます。サービス開始から3ヵ月後に契約。以来ずっと、1円で買ったD01HWをデータプランをベーシック(年とく割)で利用してきました。emobileの料金体系は細分化されすぎて一般人には把握が難しいので、信頼できる店員さんのいる店舗で契約することをお勧めします。

最初は様子見でしたが、間もなくwillcomのデータ通信契約を解約。以降、PHSは通話にしか使っていません。最近のwillcomは忍耐の季節が続いていますが、PHSも番号ポータビリティの対象にならないかな、と思っていたりします……。電話番号を変えると数十の契約を更新しなきゃならないのが面倒なんですよね。

当初、emobileをこんなに長く使うつもりはありませんでした。アイピーモバイルのMBG(=Mobile Broadband Gateway)に期待していたんです。MBGというのは、ようするにモバイル無線LANルーターです。ところが、アイピーモバイルは、とうとうサービスを開始できずに消えてしまいました。

先月発売されたemobileのPcket WiFiは、ようやく一般人にも使いやすい形で登場した無線LANルーター。ずいぶん待ちました……。

2.

で、これを何に使うのかということなんですが、じつは私は、移動中にはネットを必要としていません。文庫や新書を読むのに忙しいからです。emobile端末が役立つのは、移動した先。

例えば、現場で作業しているとき。トラブルが起きたら電話でオフィスに問い合わせますが、マニュアル類はPCで閲覧したい。社内どこでもLANが通っていればいいですが、残念ながらそうではない。携帯電話にファイルを添付したメールを送って云々、という方法もありますが、これがなかなか厄介の種だったりします。

添付ファイルを分割して送ってもらい、受信ファイルをPCにコピーして結合する、とか。頭にきて携帯電話をPCにつないでモデムにすると、昔は青天井のプランしかありませんでした。今でも高いでしょ。「いいよ、もう」とかいって、本館へ戻ってUSBメモリでデータを手渡ししてもらう、なんて場面が意外とあって。

そこで役に立つのがemobileだったりするわけです。でも、使いたいと思ってからUSBを挿しても、ドライバーのインストールがどうのこうので手間取ります。それに穴倉のような場所だと、一番奥ではさすがに電波が入らない。

その点、Pocket WiFiは便利ですね。WEP Keyなどをメモ帳に控えておけば、最近のノートPCはみんな無線LAN対応だから、いきなり接続できちゃう。鉄板に囲まれた部屋でも、入口のガラスのところにテープで貼り付けておけばOK。

ひとつ意想外の「よかった」は、USBケーブルで接続した場合も、「ダイヤルアップの手間がない」こと。WEP Keyも何も要らず、つなげばいきなりLAN経由でインターネットにつながる状態。小さなことですが、これは快適だと思いました。

3.

仕事の道具は経費で買うのが原則ですが、なきゃないでなんとかなることを私物の活用で一時的に乗り切るのはOKだと私は思ってます。携帯電話も、本来は部署のPHSを外出先に持っていくべきながら、やはり台数が限られているわけだから、基本的に不要と判断したら持って行かないわけです。しかし現地で不測の事態に巻き込まれる場合もあるわけで、そのとき私物の携帯電話を使うのは「あり」ではないかと。

もちろん、そういうことばかりいっていると、会社が必要最小限の道具すら用意せず、社員が仕事の道具を揃えるという形で実質的に給与の一部が会社に還流するような状況が定常化してしまう。「バランス感覚」という言葉はいつも都合のいい言い訳にされるので、ルールの徹底を求める意見にも一理あります。

Pocket WiFiは、まだ買ったばかりなので、現時点でエピソードを拾うと職場での話になってしまった、という事情はわかってほしい。以前から、予算が許せば社内の無線LANアクセスポイントを増やしたいという話はあって、必要性の高い場所から少しずつ配置が進んできているのです。私のPocket WiFiは「あー、やっぱりLANが通ると便利だね」という声を後押ししてます。そういう、過渡期の話なのです。

あと、私はこれまでモバイル無線LANルーターのない生活をしていたわけだから、いきなりそんなにバリバリ役立つというような状況にはない。そのあたり、なにとぞご理解いただきたく。

平成21年12月17日

1.

昨日、出社したら、緊急の会議。「来春から栃木県へ行ってもらう」とのこと。絶句。ちょうど「職住隣接っていいな」という記事を早朝に書いていたので、神がかり的なタイミングだな、と。

当人の希望を最優先するのが私の勤務先の偉いところ。よく考えて返事をしてください、という。つまり、今の仕事を続けて栃木勤務になるか、異動して東京勤務を続けるか。

2.

配偶者が仕事をしていない場合、埼玉に家を構えている方が多い。賃貸なら職住隣接を目指せますが、ローンを組んで買った家を手放すのは難しい。10年、20年勤めていれば、栃木勤務の話がしばしば出てくることは承知しているので、「家を買うなら埼玉」となるらしい。

でも最近は夫婦共働きがふつうなので、夫婦それぞれの職場の中間地点に居を構えるケースが増えてきました。神奈川とか千葉とか。そうなると、栃木勤務はかなり厳しい。また独身者であっても、近親者の介護をしていたりする場合は、実家を離れにくい。一人っ子時代ですから、もはや介護という視点は欠かせません。

あるいは、外的な制約はなくとも、「生産には興味がない。開発プロジェクトを渡り歩いて、生涯で100件くらい特許を出したい」といったキャリアパスを想定している社員だっているかも? それで私も「じっくり考えよう……」と思ったのですが、10分後には、もうすっかり栃木勤務を心に決めていました。

早速、昼休みに賃貸住宅の相場を検索。安い! でも、周辺地図を見て愕然としました。「えっ!? 書店へ行くのに電車に乗らなきゃならないの?」図書館も古書店もレンタルDVDも、隣の駅の近くにしかない。工場のロケーションが駅の真ん前なので、職住隣接でコンパクトな生活ができそう、と目論んでいたのですが、一撃で粉砕されました。

諦めきれずに複数の地図サイトをハシゴしましたが、結果は残念の一言。同僚に話したら、「それなら、隣の駅の近くに暮らせばいいじゃない」……なるほど、そう考えるわけか。職住隣接に大きな価値を感じていない人なら、一瞬も悩まずにそういった発想が出てくるのは道理かもしれない。

ていうか、私が出不精でさえなければ、1時間に何本も電車はくるのだし、ほんの5〜6分電車に揺られるくらい、全然遠くないじゃないか、と。何でもかんでも退勤の「ついで」じゃないと足を伸ばせない極端な怠け根性がよくないんですよ!

それでも……会社帰りに、ちょっと新刊書店or古書店or図書館or映画館or家電量販店or100円ショップorドラッグストアor病院に寄ってから帰る、という生活スタイルって、かなり恵まれたものだったんだな、とは思う。

ま、研究にしがみついて「それで何をしたいの?」という自分の問いに答えられなかったから、いろいろ厳しい面があっても事業部へ異動したように、今回も東京にしがみついて「それで何をしたいの?」という問いに答えられないから、栃木へ行く。

3.

私はとにかく出不精なので、今のうちにやりたいことはやっておかないと、という焦りは少しあります。1年足らずでプロジェクトから外されて戻ってこないとも限らないけれども、それも寂しい話ですし。

少しご縁があるように思っているくつしたさんのライブ。ここ数年、ご無沙汰していたのだけれども、栃木に行くと決めたら、今のうちに行っておきたいな、という気持ちがムクムクと。

基本的にオフ会には呼ばれても行かないのですが、これだけは別。九十九式の更新再開に触発されて毎日更新をしていることからもおわかりいただけるかと思いますが、理由は不明ながら私への影響力が最大級のサイトなのです。その九周年オフが私が東京にいるうちに開催されるなら、これはもう参加するしかない!

平成21年12月16日

社員寮を出て一番よかったのが、通勤時間の圧縮。以前なら寮を出発する時間帯に目を覚ましても、朝食を作って、食べて、ゴミ出しして、それから出社できるのです。

私の場合は、家を出てから会社の門を通過するまで、都電次第なんだけど17〜23分くらい。私の勤務先では、始業ブザーが鳴っている間に門を通れば遅刻にならない。工場では始業から15分は体操と準備の時間になっていて、始業と同時にラインを動かすのはNGという決まりになっています。労働災害を避けるためらしい。

通勤時間を短くしたいという人は多いけれど、税金と年金と健康保険を引いたら月収20万円を下回っていた3年前の私でも、余裕で東京の山手線の内側に暮らすことができたんですよね。年収の3分の1が余るという家計状況。私の両親も、私が生まれてしばらくは、30平米くらいのワンルームのアパートで暮らしていたという。

私は四畳半の社員寮の部屋も狭いと感じたことがなかったんだけど、みんな一体、何を求めてそんなに広い部屋に住みたがるのか、私にはよくわからない。せっかく(他人の都合に左右されない)一人暮らしなのに、満員電車で通勤とか、よく我慢できるな……。自転車で通えるくらいの土地に暮らしてみればいいのに。

もちろんそれぞれ事情はあるのでしょうが、単に最初から諦めてる人が多いだけなのでは? と疑っているんだけど。そうでもないのかな。ともかく、ずーっと長時間通勤してる人は、一度でいいから勤務先の近くに住んでみると、衝撃的な発見がいくつもあると思う。

平成21年12月16日

この手の意見には与しない。財産に直で被害が生じる攻撃を仕掛けられる事例を避けて、ギリギリ洒落になりそうなケースで「迷惑」な実演をするにとどめているところにHamachiya2さんなりの倫理的な基準があると思って信頼しているから、はまちちゃんをとくに批判しようとは私は思わないけれども。

Windowsを乗っ取れる攻撃コードをいきなり公開するような人が、過去には何人もいたわけです。MSの対策が遅いから、というような理由だったと思う。でもMSほどの企業が頑張っても、なかなか修正コードを出せないこともしばしばありました。本当に「サボってる」ケースもあるにせよ、勝手に決め付けるのは危ない。

ショッピングサイトの欠陥は問題だけれども、それとは別の次元の話として、2chで「ユーザー側の対策」以外の「解説」を書いてる人もおかしいと思う。

これは財産に被害が及ぶ恐れのある重大事案のケースだけれども、やはり不具合の指摘はルールに乗っ取って行うのが真っ当な方法だと思う。今回のはまちちゃんのターゲットはAmabaなうでした。サイバーエージェントが過去に何度も通報を無視してきた会社だというならともかく、そうではないならば……。

それに、公開の場で指摘するにせよ、より確実に届くよう手順を踏んだ通報もするべきだと思う。以前、匿名通報は受け付けない対応を批判する意見を目にしましたが、「だったら通報してやらない」などという「善意」のあり方には、私はついていけない。

平成21年12月15日

12月5日のNHK BS2「ザ☆ネットスター!」に外人4コマの当人たちが出演する、した、という話題がありました。その後、BS Hiで6日と11日に再放送されたそうですが、従来通りNHKオンデマンドにはこなかったので、私は未見です。

2chの実況はこんな感じだったらしい。

ところで「ザ☆ネットスター!」は、放送収録後に暇な出演者が会議室に集まってダベる様子を録画してネット配信しています。今こういうのが流行りなのかな。ラジオ番組でも「本編は放送で。収録後のグダグダ喋りはPodcastで」といった試みをよく見かけます。実際にはこれも仕事なのだろうから、拘束時間は長くなるわけでしょ。番組の宣伝という意図はわかるけど、赤字で実験してるのか、それとも黒字なのか……。

平成21年12月15日

一時期、表示されなくなってたけど、今はまた見られるようになってるみたいですね。私も少しお手伝いしたサイトなので、再公開は嬉しいな。リアルタイムでは小説を楽しみにしていたんですけど、何年も経ってから時々見返すのは写真集かな。紙の古雑誌をパラパラするときも、私は記事より写真に魅かれる方だと思う。

平成21年12月15日

「大沢TKO」とは大沢たかおさんのこと。良し悪しはいろいろながらゼロ年代に「しょうもない」映画にばかり出演したり製作したりしてきたことを凝縮した愛情表現らしいです。よく一緒に紹介されるのが椎名桔平さんや仲村トオルさん。

今年も映画の方は例年通りだったようですが、テレビドラマ「JIN -仁-」が世評もウケもよい大成功。いやー、そうなる前に「TKO」という言葉を知ることができてよかったな、と。

平成21年12月15日

1.

ざっと見た感じ、客室乗務員への風当たりが強い。個人的にはこれ、公務員叩きと同様の構図で、理解できます。

ちょっと不景気になると、公務員の倍率は100倍に達したりします。それほど魅力的な職種なら、給料は下がってもいいはず。ところが、下がらない。自然、公務員という身分は権益となり、怨嗟の対象となります。

客室乗務員も同じで、今でもおそらく、客室乗務員をやりたい人は掃いて捨てるほどいるんだろうと思う。全日空の待遇が羨ましいなら転職すればいい。年収500万円なら、日航の客室乗務員はまだまだ高倍率でしょう。年収をケチれば人材の質も落ちますが、その匙加減は客の選択と経営判断の問題。

ようするに、「そんなに文句があるなら、私にその職を明け渡してほしい」と少なからぬ人々に思われている。先輩と較べて云々、それが何だというのだろう。「まさに今、自分たちは妬まれている」という感覚がスコーンと抜けている。その無自覚が、怒りを呼ぶ。

給料は、規制がなければ、一定の離職率を実現する最低限の水準に落ち着きます。英語力の基準が厳しいので、基準未満の応募者を除くと、客室乗務員の真の倍率は低いという見方もありますが、年収500万円で怒っている人の大多数は、給料据え置きでも辞めないでしょう。とすると、むしろ今の給料でも高すぎるのかも。

ところで、給料が適正水準になったら怨嗟の声がなくなるかというと、さにあらず。公務員にせよ客室乗務員にせよ、業務に必要な能力がない者が「自分ならもっと安い給料でも働くのに」と思うから厄介。

2.

「給料を上げてほしい」というのはいいんですけれども、「自分は給料がどこまで減ったら転職を考えるだろうか」ということも、時々考えておいた方がいいと思う。私の場合は、年収が180万円を下回ったら、転職を考えます。逆にいえば、そこまでは足元を見られても仕方ないな、と納得しています。

もう一回、就職活動をするのが、自分は途轍もなく嫌なんだなあ、とあらためて実感します。あと、転職して今より居心地のいい会社、いい人の集まってる会社に入れる自信が全くない。現状が良過ぎる、というのは、ものすごく大きいです。あぁあ、デフレ、不景気、人余り、恐怖の根源が解消されるのはいつの日か……。

平成21年12月14日

1.

私は自分で物語を書くつもりはありませんが、作家が小説作りの苦心惨憺を記したエッセイなどは好きで、これまでに10数冊は読んでいます。あと、あとがきなどで執筆の様子が書かれているのも好きです。

なるほど、そういう表があると書きやすいのでしょうね。でも実際にこんなことしてる人は珍しいと思う。アイデアを書き溜めるノートを持っている方は結構いるみたいですが、プロットは頭の中、いきなり原稿用紙に向かっている人が過半、という印象です。

数年ぶりにシリーズ作品を書く際、キャラクターを忘れてしまったので編集者にリストを作ってもらった、なんて述懐は何度も目にしてきたし。だから、リンク先記事のような面倒なことを実際に行っている現場があるとすれば、複数人でシナリオを分担するケース。映画、テレビドラマ、ゲームなどに限られそう。

作者死亡で未完になった小説の巻末には、しばしば多少のフォローがありますが、しっかりしたプロットどころか、結末が書かれているのすら見たことがない。取材メモは残しても、物語の先行きはメモにしないらしい。

2.

  1. マンダラート
  2. 5W1H表
  3. 対人関係マトリクス
  4. 主人公―ライバル対照表
  5. テーマ設計表
  6. ストーリー構成表
  7. プロット細分表

リンク先記事の紹介している表を順番通りに並べてみると、こうなります。説明の都合かもしれないけれど、ちょっと変な感じ。

最初の「マンダラート」はアイデアを3×3のマスで整理する表。アイデアを整理して、着想を得るもの。

常識的には、次は「テーマ設計表」ですよね。いきなり「5W1H表」が書けるなら、既に物語は出来上がっているわけで。うーん、でも3番目が「対人関係マトリクス」だから、これはキャラクター先決めの物語作法を想定していて、「キャラクター設定表」を「使える」形で再編成しよう、という提案なのかもしれないな。

「主人公―ライバル対照表」は物語の点検に用いるもの。アンバランスを設計段階で発見します。

「ストーリー構成表」と「プロット細分表」はプロットを整理する手法。だらだら書くより、ちゃんと整理した方がいいよね、という。

こうして眺めてみるに、やはり物語の作者が使うというより、「批評家や卒論を書く学生が物語の分析に用いるべき7つの表」なんじゃないか、と思いました。

3.

見知らぬ明日―グイン・サーガ〈130〉 (ハヤカワ文庫JA) 鏡の国の戦士―グイン・サーガ外伝〈21〉 (ハヤカワ文庫JA) 七人の魔道師―グイン・サーガ外伝(1) (ハヤカワ文庫JA)

「グイン・サーガ」は12月9日発売の130巻で途絶。薄い本で、なるほど絶筆とはこういうことか、と。そして、フォローはほとんどなし。栗本薫さんも「いきなり原稿用紙」タイプだったんじゃないかなぁ。

ちなみに「グイン・サーガ」は外伝21「鏡の国の戦士」であらかじめ本編より未来の世界を描いているので、そんなに無茶苦茶な未来はないと、わかってはいるわけですが。それにしても2009年刊行の各巻で1981年刊の外伝1「七人の魔道師」の時代にほぼ追いついたのには感動しました。

4.

アイデアを捜せ (文春文庫) 

小説の「書き方」を諄々と説いた本も面白いんだけど、そもそも「どうやって物語のアイデアを案出するのか」というのが、作家を目指す方の多くが一番知りたいことではないかと思う。阿刀田高さんの「アイデアを捜せ」は、まさにその問題に焦点を当て、出し惜しみせずに書かれた珍しい本だと思う。

ネタバレを厭わず、実際に発表された作品を例に語っているのがすごい。「作家の頭の中」を開陳したエッセイ集としても一級品の面白さなので、興味のある方はぜひご一読を。Amazonにレビューも書いてます。(私は阿刀田ファンゆえ、紹介の文句は適当に割り引いてください)

平成21年12月14日

1.

吉野家って「味」へのこだわりが強い会社だな、と思っています。アメリカ産牛肉が輸入できなくなったときに牛丼をやめる決断をしたのも味へのこだわり故でした。でも、消費者の支持はいまひとつ。可哀想だけど、まあ「客が正しい」と考えるのが商売のセオリー。

自由主義経済がうまくいくのは、客の心を掴んだ者勝ちという点にこそあるわけだから。もちろん、じっくり消費者を啓蒙してじわじわ勝つという事例もあるのだけれど、現在の戦略が、果たして激安牛丼チェーンという形態と合っているのかどうかというと疑問を感じるところ。

もっとも、各企業が自由な戦略を立てていいのが自由主義経済の美点なので、潰れない限りは吉野屋が傍目にはクレージーな戦略を採用することに外野が文句をいうような話ではない、とは思う。

2.

私達はこの度のBSE関連の報道に際し、メディアへの説明に時間をかけ誠意を持って臨んでまいりました。しかし、編集上「豪州産牛肉はまずい」かの如き誤解を生む報道が一部で見受けられたことにつきましては、私達も大変遺憾に存じます。改めてこの点についても申し上げます。

豪州産牛肉全般については、大変優秀なものと認識しております。事実、吉野家でも、現在「牛鉄鍋膳」や「牛焼肉丼」の素材として使用しております。その特徴を生かしたメニューづくり、調理方法を用いれば有力な素材であると確信するところです。

しかしながら、前述しました様に100年の歴史を経た吉野家の牛丼用の素材は、穀物で育てられた若い牛の中から、ショートプレート(ナーベル)を、牛丼用に指定のカットを施したものを使用しております。そして、この限定された肉にもっともふさわしいタレ、玉ネギ、米等を選び抜いて作っていますので、もし別な肉を使うのであれば、本来の吉野家の味とはちがった牛丼になってしまいます。これまでと同じ味を同じ量だけお客様に提供するには、豪州産牛肉は流通のしくみ上、私たちが求める量に対して供給量が少なすぎ、豪州産牛肉の採用を見送らざるを得ないのが現実です。

豪州産牛肉の育成に向けて懸命に努力されている関係者の方々の為にも誤解を招かないよう、今後いっそうの注意を払いたいと存じます。

消費者は、「穀物肥育の牛のショートプレートにこだわったところで、現に吉野屋の牛丼は他社と比較してとくに旨くはないじゃないか」という。味が同等なら安い方がいい、値段が同等なら量が多い方がいい、食券制の方が気楽でいい、言葉の通じない留学生バイトは困る、そんな話になっているのです。

でも、成功しているように見える他社の後追いばかりしたって、ふつうあまりうまくいかないわけで、企業経営ってのはたいへんだろうな、と思う。

3.

私は滅多に外食しないのであまり信用されても困るのですが、「牛丼」っぽい料理のお店で私が好きなのはキッチン・スギモトです。宝塚劇場から近いので、公演の帰りに食べてます。平日昼間は大行列らしいのですが、私が利用した土日の夕方は、2〜3人待ちでした。

地下食料品売り場の通路沿いに作られたイートインコーナーなので、店構えのファーストフード感はかなりのもの。背後を買い物客が行き交います。メニューは3種ありますが、私には最安値525円の「黒毛和牛すき重」で十分、というのが結論。興味を持った方は、銀座へ行くことがあったら、一度足を運んでみてください。

って、どう美味しいのか書かなきゃ意味不明だろ、というご意見はごもっともなんですが、それは私の苦手分野なので食べログのレビューに投げます。ま、評価はマチマチみたいですね。

平成21年12月13日

1.

ymScott 普段バラエティ観ない人間がこれだけ読んで「やっぱりバラエティやお笑いは酷いから観ない」と言い放つほど日村にとって酷いことは無いと思う。「全員人を笑わせようと必死」というコアを抜いて読んじゃダメだろ。

y_arim これはid:ymScottが正しすぎる。芸人にとって一番辛いのは芸を見て笑ってもらえないことでしょうよ。

そういう話とも言い切れないと思う。そもそも、ブロゴスフィアの片隅でこんな話題が盛り上がったところで、関係者が読むわけでもなし、いや、読んだところで現在の状況がどう変わるわけでもない。

ymScottさんが「やっぱり」と書いている通り、所詮は予断を強化しているだけの話で、この記事があろうとなかろうと「バラエティやお笑いは酷いから観ない」という人は、これまで通り今後もそうなんでしょう。

より確からしい解釈というのはあるでしょうが、たとえ日村さんが「俺の真意は……」と語ったところで、それが本音であるとさえいえない(例えば今後の芸人人生に都合がいいように適当なことを話しているだけども考えられる)わけで、つまるところ、これはひとつの「話題」に過ぎないわけです。

だとすれば、「記事の読者の一人一人が、何を感じているか、自分は今後どうしたいのか、世界にどんな変化を求めているのか、ということこそが重要」という見方も成り立つと思う。このケースに関して、私は記事の解釈の正当性を一番に重視する立場には、与しません。

2.

「解釈を重視する」のもひとつの立場なので、それはそれでいいんです。ただ、解釈の間違ってる議論は無効、みたいな意見を散見するので、異論を述べているわけです。どうせ解釈が正しくても大した意味はないじゃないか、と。

ブロゴスフィアの風潮なんだろうけど、様々な話題を他人事として批評家的に論じて事足れりとする人が多いことに、私は違和感を覚えます。日村さんが、オークラさんが、ラジオが、テレビが、芸能界が、って、そんなこと、いくらいってもしょうがないじゃないか。

もっとも、大多数の人はラジオ番組の制作に関わることはないわけで、自分ならどうするか、といっても難しい面はあります。せいぜい1リスナーとしての立場表明をするくらいなのは仕方ない。

……それで何がいいたいのかという話なんだけど、誤解を恐れずに書けば、ある意味で日村さんの「本当の気持ち」はどうでもいい。自分が日村さんの立場なら「仕事と割り切ってもなお、つらく悲しいだろう」という見地から、「こんなバラエティー番組はよくない」と表明するのは「正しい」といいたいわけ。

そうだそうだ、という人が増えていけば、自然と番組の作り方は変わっていくだろうし、そうなれば「ふつうの感覚の人」が芸人になれるようにもなっていく。「私はこう思う」という表明には、そういう力があるのです。

3.

もし私にできる恩返しがあるとすれば(2009-11-02)という記事を書いたとき、後で他の人が同じ話題に触れた文章をたくさん読んでみたのですが、「私はこうしたい」と書いている人は少なかったですね。

考えてみると、世間話などでも、他人を論評するばかりで、「じゃあ、あなたはどうなんですか」という疑問に応えてくれる人はほとんどいない。もちろん、みなそれぞれ領分がある。ではどうして、他人を論評できるのだろう。それは、話の枠組みは自分の理解の範囲内だからでしょう。

ならば、と思うんです。ラジオ番組の作り方といった枠組みでは、たしかに自分のこととして語るのは無理でしょう。しかし問題の構図を自分の仕事に置き換えて考えてみてほしい。もちろん個別の事情はあるでしょう。それでも、完全に他人事だと認識していたときとは、見え方が違ってくると思う。

平成21年12月12日

設楽統さんと日村勇紀さんによるバナナマンというお笑いコンビがあって、ラジオ番組をやっているのだという。その番組には放送作家のオークラさん、永井さん、及川さんが関わっていて、オークラさんは永井さんと及川さんの先輩であり上司でもあるらしい。

ちなみに、放送作家というのは、番組の構成を考えて、トークや企画の話題を提供する仕事なのだそうです。ラジオ番組ではしばしば面白い投稿(葉書やメール)を募集していますが、そうそう都合よく投稿があるわけではないので、放送作家が書くことも珍しくないらしい。

芸人さんといっても、ただ連れてきて椅子に座らせておいても、とくに面白くはない。芸人さんというのは、漫才にせよコントにせよ、あるいは落語や手品でも、事前によく考えて練習を重ねて数分間のステージを面白くすることの専門家なのであって、必ずしも存在自体が面白いわけじゃない。

しかしそれでは毎週30分とか1時間とかの新しい内容の番組は作れないわけだから、どうにかして芸人さんが素直に思ったことを喋っていくだけで面白くなりそうな話題とか、状況とか、そういったものを放送作家が案出することになるのだそうです。

あるとき、日村さんが永井さんと及川さんを3時間も待たせた挙句、さっさと帰ってしまった
→永井さんがオークラさんにこの話をした
→オークラさんがラジオ番組内の「ひどい人間にビンタする」というコーナーのネタにした
→日村さんが、プライベートの出来事を公的な場で復讐するのはよくない、と怒る
→「先輩にチクった永井がいちばん悪い」「それはおかしい」という議論
→「勝手にラジオ番組のネタにしたオークラがいちばん悪い」「それはおかしい」という議論
→スタッフ7人の投票は満票で「日村が悪い」
→日村さんがビンタされる

芸人さんには「いじられ役」にはまっているタイプの方がいて、だいたいその人がひどい目に遭うと、視聴者の溜飲が下がって「ああ、面白かった」となるわけです。面白ければまた次の仕事がきたり、ギャラが上がったりする。ひどい目に遭うといっても、見返りがあるからいいんだ、ということになっているのです。

日村さんは、そうしたいじられ役の一人。でも、おそらく日村さんは、もともとは漫才が好きだったりして芸人を志したのであって、放送作家の匙加減ひとつでプライベートまで切り売りさせられるのは、本意ではないのでしょう。そのあたりの気持ちを酌んでくれ、と日村さんはいっていると思う。

こういうことって、自分にもときどきあるな、と考えます。「嫌ならやめろ」と一刀両断されると、「そういうことじゃないんだよ」といいたくなる。例えば、こんな感じ。

「やりたくないとはいってない。やる。だけど、気持ちはわかってほしい」
「わかったってわかんなくたって、やることは同じだろう」
「同じじゃないよ」

そう、「同じじゃない」と思うんです。リンク先記事で日村さんが怒っているのは、私的な場での出来事が、いちいち公の仕事のネタにされてしまう。それも不意打ちでやられる。そんな毎日に、俺が傷付いていないとでも思っているのか。それを理解してくれ、と。もっともな話だと思う。

私は、日村さんに迷惑をかけられた永井さんが、先輩のオークラさんに、「こないだこんなことがあって……」と愚痴ったり、あるいは「今では笑い話になったことだけど」と話をするのは、よく理解できます。これを「陰口はよくない」と断じるのは、無理があると思う。

とすると問題は、オークラさんがぶっつけ本番でラジオのネタにこの話題を持ち出したあたり。あらかじめ日村さんに「この話題をラジオの構成に取り入れていいですか」と相談できなかったのでしょうか。ようは納得の問題で、事前に正面から相談されたら「いじって盛り上げてくれていいよ」となったでしょう。

生の反応、素の言葉こそが面白いんだ、というような風潮に乗っかって、「だからいじられ役の芸人さんの気持ちなんか二の次でいい」のか。視聴者は大切ですが、番組の作り手が無制限につらく悲しい思いをするほどの価値はないと私は思う。

以前から様々な話題について繰り返し書いていることですが、私は、プロだからいいんだ、政治家だからいいんだ、芸人だからいいんだ、公務員なんだから当然だ、そういった意見にはどれも反対です。自分はしがない庶民だから好き勝手にやるんだ、でも社会的地位のある連中は別だ、という類の意見には賛成しない。

まず自分が立派に振舞って、「みなさんも一緒に頑張ってみませんか」と、そういうべきだと思う。

それに加えて、誰に何が可能かを見極める観察眼を養って、努力目標と必達水準の区別をしなければならない。ブラック企業に適応した人が不幸を再生産してしまうのは、自分の「成功体験」を一般化して、いま目の前で七転八倒している人の苦しみを等閑視してしまうからです。

この放送全体が台本通りの進行だ、という意見がいくつも見受けられますが、私が読んだ芸人、放送作家、製作、演出といった方々の本の記述から考えるに、「それはない」と思う。事前にモノの準備が必要なコントと違い、フリートークは本当にフリートークで、ネタは用意されるが台本はないのがふつうだそうなので。

あと、ことここに至っても「プロ意識に欠ける」式の批判が少なくない。そうやって他人に非人間的な仕事への隷属を求めるから、自分もまた血を吐くことになるんじゃないのか。

そもそも放送作家が打ち合わせなしでネタをぶつけたのは、視聴者が「素の反応」を求めているから。オークラさんは視聴者の意を汲んで「笑いのセオリー」を貫いているのであって、オークラさんが一人反省すれば、職を失うわけです。

スタッフが全員「日村が悪い」としたのは、番組にオチをつける意図が第一でしょうが、視聴者が欲望に歯止めをかけない限り、「反省」した人が理不尽にも割を食う現実を知っているから、という要素も皆無ではないと思う。

生きるか死ぬかの選択だからオークラさんは頑なにならざるをえない。日村さんも、結局はビンタを受け入れるしかない。関係者を一望するに、いちばん失うものが少ないのは視聴者でしょう。「素の反応」は面白いかもしれないけれど、それを我慢することにどれだけの不都合があるのか、という。

それなのに、「この放送は面白くない」「ドン引き」で片付けちゃう。なんて冷たいんだろう。個人的には、ラジオ後のPodcast(2009年3月16日)は、軽妙な掛け合いになっていて面白いです。これでも「ドン引き」っていう? というのが正直なところ。

平成21年12月11日

何度でも同じことを書く試み。

リンク先のブログに限らないのだが、そもそもネタ元の海外ブログに翻訳転載の許可を得ているのかどうか、どうしてネタ元では明記されている画像の出典を翻訳記事では削るのか、ということが気になる。

より正確にいえば、どうして問題視する人が皆無に近いのか、という点に関心を持っている。たとえば自分の写真が、勝手に転載されたりしても平気なのだろうか。転載くらいは許さないでもないが、出典も書かないのはどういうことだ、とムカついたりしないのだろうか。

同じ日本国内で、一般人の写真やブログが勝手に「再利用」されると、ブチ切れる人が少なくない。本人が気にしていなくても勝手に権利者のファンが騒動に発展させる例さえある。どうしてそういうことになるのか。

補記

Flickerの画像って、リンクさえしていれば、著作者名をテキストで明示しなくていいわけ? CCの「BY:」って、そういうことなの?

ちなみに、転載されている画像の一部に、ライセンスの継承を要求するものがあり、リンク先のひろぶろの記事についていえば、海外の記事の勝手な翻訳には問題がない。ただ、1万人以上がひろぶろの記事を読んでいると思うけれども、そのうちの何人がそういうことを気にして、確認をしたりしているのかな、と。

つまり、大多数の人は、直感的に「これはOK」と思っているわけでしょ。その直感ってどこからきているの? というあたりが私の問題意識。

ついでに書けば、ひろぶろの記事も、その元ネタの記事も、ライセンスの継承を求められているのに、その記事がどんなライセンスになっているのか、どこにも明記されていない。自分の苦労した部分についてはパブリックドメイン扱いとする、ということなら「いちいち書く必要がない」と納得できるのだけれど。

もう一度、念を押すけれど、ひろぶろがどうこうといいたいのではない。こういう著作権にルーズなブログはいくらでもある。なんで一方ではパクリだなんだといって叩かれる事例があるのに、こっちは1万人以上が読んで誰一人咎めようとしないのか、ということ。

平成21年12月10日

自転車の乗り方指導法は、そろそろ国民の常識になってほしい知識のひとつ。いまだに子どもを「特訓」して泣かせている親御さんが、世の中にはたくさんいるらしい(mixiとかでしばしば見かけます)。残念なことです。こういうことは大勢が何度でも書かないと広まらないようなので、以下、私も簡単に……。

補助輪のない自転車を乗りこなすためには、「上手にハンドルを操作してバランスを取る」ことと「ペダルをこいで前進する」ことを同時に行う必要があります。しかし同時に2つの動作に意を払うのは極めて難しいため、まずはハンドル操作の習熟に専念するのが定石です。

ベストの方法は、リンク先のようにペダルを外すこと。自分でやるのが難しければ、自転車屋さんにお願いすれば安全確実です。

協力者の方がいれば、自転車の荷台を押してもらうと、上達が早いです。協力者が身体を直接に押すと、ついつい体勢の補助をしてしまうので、上達が遅れます。その点、荷台なら、押すことだけに集中しやすいのです。荷台がなければ、協力者がいてもあまり意味がなく、面倒でも地面を蹴って前進しなければなりません。

「前進し続ける限り倒れない」水準に達したら、ペダルをこいでみてください。自転車の難しさはハンドルに集中しています。うまくペダルをこぐことができない場合は、ハンドルの練習に戻ってください。自転車の習熟に時間がかかるのは、ハンドルに集中できないことが原因だと思って、ほぼ間違いありません。

子どもでも大人でも練習法に違いはないので、ご参考になれば幸いです。私の母方の祖母も中年になってから半月くらい練習してマスターしたそうです。

補記

テレビドラマ「マイガール」では、1日で指導するという物語の制約上、ペダルを外さずに指導していました。ちゃんと空回りするなら足はダラッと下げておけばいいのですが、車輪と一緒に(ゆっくり)回ってしまう場合は、ペダルに足を乗せます。この場合、協力者が荷台を押すことが前提となります。

しかしカリスマ保育士というキャラ設定とはいえ、自転車を1日でマスターするという展開には疑問を感じます。上達のスピードは人それぞれなので、気長に取り組んでください。

平成21年12月9日

詳細な続報がほしいニュース。任天堂が欧州各国で起こした、違法ダウンロードしたソフトウェアが動作するのは著作権の侵害だとしてマジコンの製造・販売停止を求めた裁判で、スペインに続いてフランスでも負けたという。

2件の訴訟ではいずれも任天堂の主張が認められませんでしたが、内容は全く異なります。スペインでは、拡張機器を製造するのは自由という判断ですが、フランスではハードメーカーがライセンシーを制限すること自体が問題であるという判断で、全ての家庭用ゲームのビジネスの根本が否定された形になります。

もうちょっと待ってくれたらよかったのにな、とは思うけれども。マジコン販売禁止は緊急避難だと思う(2009-03-01)に書いている通り、基本的には正しい方向性の議論だとは思う。

どうして Nintendo DS はiアプリのような文化を生み出せなかったのでしょう? アマチュア制作のシンプルだけど安価なゲームで遊びたい、DS で音楽を聴きたい、画像や映像を持ち出してDSで見たい、そういう需要に任天堂は応えてきませんでした。

緊急避難としてマジコンを販売禁止とすることに、私は賛成します。しかし、不正コピー対策の正道は、DRM技術の進歩、オンラインアクティベーションの必須化(ネット環境がなければ電話でアクティベーションする)、違法コピーのアップロード徹底取締り、といった方策だ、との思いは変わりません。

また自主開発にも門戸が開かれている方がよいと思う。ゲームソフトはインターフェースに依存する部分が大きいですが、マウスとキーボードは必ずしもゲームには向かない。携帯電話ではシンプルすぎるとすれば、みんなが持っているゲーム機向けに、気軽に、自由にソフトを開発したいと思うのは自然です。

困難な道だとは思いますが、DS で無理なら DS2 以降でもいい、「マジコン禁止の先」を考えてほしいと願っています。

多分、今回のフランスでの敗訴のような出来事がいくつか重ならないと、何年待っても状況は動かない。日本では成功した不正競争防止法によるマジコンの販売規制は、それで満足されては困る施策です。

欧州での敗北はたいへん厳しい話ではあるけれども、長期的には状況を進展させるエンジンとして強力に機能することを期待しています。

完全に真っ黒な行為を多くの人に自制を促すに十分なだけ摘発せずに、(工業製品であり無料頒布が不可能なので)規制しやすいからマジコンを規制するというのは、筋の悪い話ではありました。

しかし違法アップロード摘発の見せしめ効果は、あまり高くないでしょう。100件近い逮捕案件を出しながら、今もなお匿名掲示板等での「犯罪予告」は続発中です。誰でも簡単に実行できるタイプの犯罪は、なかなか減りません。予告.inを見ると、それでも落ち着いてはきたのかな。

とすると、違法コピーの取り締まりは「アリバイ作り」的な対策であって、強力なDRMとオンラインアクティベーションなどが次世代のゲーム機に導入されるまで、我慢のときが続くのかもしれません。

平成21年12月9日

人気ブロガーのmedtoolzさんが、ウェブサイトで公開している有用な資料をまとめて出版しようとしたのだが……という話題。

どうしてmedtoolzという仮名で本を出せないのか、と思ったんだけれども、コメント欄に「書籍にする」というのは、自分たちの上の世代の人たちの意見を聞きたいというのが主な目的との補足があり、納得しました。電子出版と同様、medtoolzという仮名での出版もまた、読者を減らしてしまう。

単純に出版したい内容を見る限りでは、著者の名前や所属は重要ではなさそう。どうしてかといえば、枯れた技術を扱っているわけだから、偉い先生が自分で書くより、手馴れたライターが取材して再構成した方が、きっとわかりやすく仕上がるでしょう。受験の参考書のようなもので、試験問題を作っている大学の先生より、予備校の先生の方がわかりやすい本を書くのは自明だと思うわけです。

私が機械系の技術書を選ぶときでも、著者を気にしたことは一度もないですね。10冊くらい書店で読み比べて、「自分の知りたいことが書かれていて、読みやすそう」な本を選ぶのが常です。

ただまあ、そういう本をベテランがいまさら買うかというと、まずありえない。枯れた技術の本は既に持っているのでしょうから。そうなると、ベテランの手許まで本を届けるには、層著者の名前と所属(を明かすことによる内容の担保)をつけて、個人ではなく組織が買えるような本にする必要がある、ということかな。

原稿を「医学書」としてだすためには所属を明らかにする必要があり、それをやるにはネット世間で敵を作りすぎてしまったこと、検証不可能な内容を山ほど書き込んだ原稿を「医学書」と号して、その信頼を担保しきれないこと、かといって「匿名の医学書」なんてものにお金を支払う人などいないわけで、それではせっかく企画を通して下さった出版社の方に迷惑をかけてしまうことなど、気がついたら、どっちに駒を進めても詰んでいたという。。

うーん、「医学書」というのは重いのかな。私の専門分野は工学で、これも人名に直結するわけだけれども、枯れた技術を扱う「工学書」なら匿名でも別に……。そのあたり感覚の違いがあるのかもしれないな。

平成21年12月8日

1.

命名が「フリーダム」なのは昔からなんじゃないかな。歴史小説とか読んでいて、振り仮名がないと読みようのない名前がずいぶん多いな、と。私はそう思っているのですけれども。

ちなみにリンク先記事のキーワードとなる「有職読み」は「ゆうそくよみ」と読みます。かつて実名である諱(いみな)は軽々に口に出すものではなく、本来の読み方を避けるために音読みしたのです。ところが明治3年に諱と通称の併称が廃され、戸籍名に統一されて以降、単純に読みにくい名前を音読みするという使われ方が広まってしまった、という経緯があります。

諱は他人に呼ばれない名前だから、難読で不都合なかったんですね。その代わり、通称の方はふつう読みやすい名前だったんです。それを戸籍名に統一したときに、諱っぽい戸籍名にした人と、通称っぽい戸籍名にした人がいたわけ。だから明治時代って難読名の人がたくさんいるんです。有職読みが変化して広まったのにも理由があるのですね。

その後、戦後に人名用漢字の制限が行われたように、通称っぽい戸籍名(がいいよね、という考え方)がいったん天下を取ったと。それが今また、諱っぽい戸籍名が増えつつある、などと考えることもできるんじゃないでしょうか。

2.

ま、「有職読みが失礼にならない文化を復活させよう!」などと望んでも、今日明日の生活の足しにはなりません。当面は個人的な心がけでしのぐしかない。

以下、私がここしばらく実践しているライフハックをご紹介します。

  1. 自己紹介はフルネームで行う。
  2. 一見簡単に読めそうな漢字の名前でも、一律で「失礼ですが」と名前の読み方を訊ねる。

私の仮名の「徳保隆夫」も「とくほ」で迷われる方が多いらしい。本名の方は、一層そうらしくて。苗字は平凡ながら、名前の方がですね。よく考えれば他に読み方のない名前ながら、珍しい音の名前なので「本当にこれで合っているのかな」と腰が引けてしまうようなのです。

小さな親切運動というのがありますが、私の場合は「フルネームで自己紹介することが小さな親切の第一歩だなぁ」と思っています。

では相手の名を訊ねる方はというと。

相手が怪訝な顔をしたら、「じつは、お名前の読み方では何度も失敗をしておりまして。必ず一度はお名前を直接に確認することを心がけているのです」と率直に話してみてください。私の経験では、「いやぁ、いわれてみると私も失敗したことがありますよ!」なんて話が弾むことが多いですよ。怒られた経験は皆無です。

個人的にはこれで困っていないということもあり、政府が有職読みの復活キャンペーンをやることには、賛成しません。それが真に国民生活に資するものなら、勝手に広まりますよ。上から文化に手を入れる、という発想には慎重になった方がいいと思う。

平成21年12月8日

平成21年12月8日

コメント欄ですれ違いの言い合いに。

NaokiTakahashiさんは、人権を重視する立場の人が、人権をないがしろにするような言葉遣いをするのはよくない、と述べています。

hit-and-runさんは、それは「売り言葉に買い言葉」という文脈あってのことなので、買い言葉を批判する前にまず売り言葉を問題にすべきだ、と反論されています。

どちらの言い分も、よくわかる。

私も、はてなダイアリーなどで左派の立場から持論を展開されている方々に、非常に口の悪い人が多いことは、気になっています。せっかく理のある主張をされているのだから、無闇に論敵を侮辱するような言葉遣いをしない方が、より多くの人を啓蒙できるだろうし、相手が考えを変える可能性も高いのではないか、と。

つまり、「売り言葉に買い言葉」なんだから、というのは言い訳になるだろうか、と思うのです。その程度の理由付けで、人権をないがしろにするような冗談を口にしていいのでしょうか。その軽口が誰かを傷つける可能性に目を向けようとしないのは、どうしてなのか。

そうはいっても、hit-and-runさんの意見にも共感するところは大きいです。批判の優先順位が違うだろう、ということは、私も様々な場面で思うことなんです。闘争の手段をこぎれいにすることに腐心して、肝心の闘争には関心がない人にイライラする、そういう経験は、みんな多かれ少なかれあると思う。

それに、NaokiTakahashiさんが批判している発言は、やっぱりジョークではあるんです。本気で人権無視の施策を「すべき」と主張しているのではない。これは、この件に関して、「売り言葉」の側と決定的に違う点だと思います。だから私には、NaokiTakahashiさんの憤りは潔癖症のように見えてしまう。

ただ、ここでもう一度NaokiTakahashiさんに共感するのは、「おどけた言葉遣い」に苛立つことは、私もよくあるからなんです。相手の論理を逆手にとって論難する方法は、形式的には相手の理屈に一度は乗っかるわけだから、誤解を招きやすい。そういう微妙な場面で冗談めかした言葉を選ぶのは、繊細さに欠けると思う。

さはさりながら。他人を批判して、ああしろ、こうしろ、といえば角が立つ。ガツンとぶつかって得をすることは、ほとんどない。だから私は、まずは現実的に可能な範囲で、なるべく「私ならこうしたい」と書くよう心掛けています。

平成21年12月7日

1.

駅中のカット専門店に限るとどうだかわからないけれども、駅前の床屋なら、東京の山手線の内側でも1000円以内のカット料金と洗髪設備の完備を両立させてるお店はありますよ。

ウェブサイトにはきちんと書いていないのですが、カット950円、+洗髪1300円、+顔剃1500円だったと思います。大塚店はやたら広くて、理容師さんが6人以上いるから、よほど混雑している時間帯でもなければ待ち時間ゼロが当たり前。駅の目の前に店を構えて、一体どうやって儲けているのか、見当がつきません。

まあその、だから既得権益を守る側に与する、といいたいのではなくて。記事によると宮城県のパブコメでは規制支持が多数派だったそうですが、「嫌なら行かなきゃいいだろ」と私なら考えます。消費者の多様な要望に柔軟に応えていける自由経済の良さを、多数派の意見で規制しちゃうのは間違いだと思う。

2.

これは老人介護施設とか保育所なんかでも同じことで。世の中にはひどい保護者がたくさんいて、低劣な施設を規制しないと、金をケチって悲惨な状況を良しとするのを防げないから規制するんだ、ということなんだけれども。その結果が施設不足でしょ。どこにも入れないよか、行き場がある方がマシじゃないのか。

教育・福祉施設に関して、多くの経済学者は専用チケット(+私費)みたいな方式を勧めています。最低水準の施設を実現できる専用チケットを配布して、それ以上を求めるなら私費を足せ、と。低劣施設が登場しても、専用チケット分は絶対に収入になるのだから、必ず新規参入業者に市場競争で淘汰されるはずです。

これが実現しない理由は簡単で、予算の問題。日本のような(専業主婦などのいる)家庭に多くを担わせて「全員が施設を利用することはない」ことを前提に予算を組んできた社会の場合、全員にチケットを配ると大幅な予算増になります。福祉増税なら国民の支持が集まるかというと、意外とそうでもない。

3.話は変わりますが

しまむらもすっかり垢抜けて久しい。最早「田舎」も「貧乏」も言い訳に使えない。何でも個人のセンスや努力の問題になっていく。いや、実際、もともと個人の問題ではあったんだけどさ。

「激安理容室→しまむら→FF」という連想ゲームが(私の中で)成立。ちなみにFF5までは「ファイファン」派でした(笑)

平成21年12月6日

1.

ふだんの4割引くらいで売られていた煮込みラーメンを買って、作ってみました。秋冬限定商品なのに、どうしていきなり値崩れしてたんだろう。これから寒くなるので戦略的に一時値下げした、のかな。私の近所では、あちこちのお店が横並びで下げてたので、みなさんもチラシをチェックしてみるといいと思う。

で、味の方はというと、うーん、本当に「野菜たっぷり」にしないとクドい、って感じかな。テレビCMのイメージに反して、どちらかというと不健康そうな料理だと思いました。あ、いや、おいしいですよ。煮込んでもおいしい麺は、猫舌の私にとっては嬉しかったですし。ただ、私はそもそもラーメンが苦手で……。

ここ数年、ラーメン自体、食べてなかったんだけど、今年はこれで2回もラーメンを食べたことになるので、私としては珍しい1年でしたね。

2.

そういえば大学の研究室の先輩方が「ラーメンの食べ歩き」を趣味にしていて、研究室で何か行事があるたびラーメンにつきあわされて閉口しました。会社に入っても同期の半分くらいが「ラーメンの食べ歩き」が趣味だといってたっけか。嫌な時代に生まれてしまった……。

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プロフィールに書いておくと受けがよい趣味 第一位「食べ歩き」

趣味として挙げるのは薄味な気がしますが、ぜひ挙げておきたいところです。三位・二位を見てうっすらお気づきでしょうけれど、「飲みに行きましょう」と言いやすいのと、仕事が終った後に誘いやすいので、誘うにしても非常にスムーズなのです。

ということで、凡庸な趣味ばかりが並んでしまい、ご不満の方もいらっしゃるかと思いますが、たとえ「個性のないやつ」と思われても、食べたり飲んだりするのが大好き、と公言しておきましょう!

7年の時を経て、疑問氷解。なるほど、周辺でバリエーションが揃っているのがラーメン屋しかない大学に入学したり、最寄り駅が高田馬場という会社に入社したら「ラーメンの食べ歩きが好き」というのは戦略的に最善手だった、と。そして彼らを理系出身でも構わず営業部門に配置した人事部の「人を見る目」もすごい。

一方、私は「クビにならない日本語」に記されている「わずらわしい人間関係を遮断するテクニック」を自然と実行しており、嫌々ラーメン屋巡りに付き合わされることは最小限で済んでいたのですね……。

3.

ライフハック本って、読んでも実践するには至らないことが多い。結局、それほど現状は悲惨ではない。割と人って、知らず知らずのうちに、自由に振舞う気持ちよさとそのコストの最適なバランスを見出して、結構うまくやっているものだと思うんです。だから私は、わざわざ本を読む気にはなりませんでした。

でも、ココロ社さんの本を読んで、ライフハック本を好んで読む気持ちが、少しわかった気がします。試行錯誤して自分なりの判断基準は持っていても、そこには理屈がない。目の前で他人が違う判断を示すと、すぐ不安になっちゃう。意見を解釈して適当に位置づける説明ができれば、少し自信を持てるんです。

私ですら「ラーメン嫌いって社会人失格!?」なんて少し悩んでいた時期があるのです。「自分はそもそも人付き合いをしたくないんだから、ラーメン嫌いは最強の武器じゃないか!」気付けば簡単なことなんですよね。

平成21年12月5日

製本ミス写真1

こんな製本ミスもあるんだな。とくに珍しいものではないかもしれないけれど、本の背の側に紙の折れがあるというタイプの製本ミスは、私が買った本では過去に見たことがありません。

製本ミス写真2

よく見かけるのは、このタイプ。ページの角が折れた状態で裁断されたので、拡げてみると端が揃わない、というもの。古い文庫本だと100冊に1冊以上はあるように思う。とくに統計をとっているわけじゃないけど、毎年、文庫本は100冊も読まないのに、これを一度も見なかった年は記憶にない。

まあ脳内検索なので怪しい話ではあるけれど、今年だけでも3回目の遭遇なんだよね。

考えてみると、年平均200〜300冊しか読まない私が毎年のように製本ミスに出会うというのは、ちょっと意外な感じがします。仕事柄、工業製品の歩留まりと比較したくなるわけですが、小さな製本ミスであれ、見てわかるレベルのミスが1%以上も商品になるのは、桁2つくらい大きいな、と。液晶の「輝点」のようなもの?

ページ自体が抜け落ちている落丁と、ページの順序が狂っている乱丁は、自分で買った本では過去に各1度。高々5000冊の中に2冊と考えると、これもかなりの確率ではあります。新聞で裁断ミス、乱丁、落丁を目にしたことはないから、約1万部を買って一度もミスなし、ということになりますか。

平成21年12月4日

さらに。

……他にも大勢の方がこの話題に関して長文の記事を書いているようです(とても追いきれない)。いま私は、この話題に直接言及する意欲を持ちません。ただ、これをひとつの契機として、昨秋ひっそりと公開した記事を備忘録からリンクしておこうと思います。

私の中では少し関連している記事

平成21年12月4日

1.

本題とは関係ない、コメント欄でのやりとりについて。

KoshianXさんの書き方も皮肉っぽいから伝わらないのかもしれませんが、KoshianXさんの主張というか、何に疑問というか違和感があるのかというあたりが、全然通じていないのが見ていて悲しい。

KoshianXさんがいいたいのは、「女性の服装」にケチをつけるのはNGという考え方が普及する一方で、ポスターや看板などからは「扇情的」な表現が追放されつつあるのはどうしたわけか、ということでしょう。一般女性の服飾表現と同様、広告デザイナーの表現欲だって、もっと保護されていいはずではないか?

フランチェス子さんの問題があるとしたらそれは刺激を受けて犯罪を犯す側です。という論理を貫徹させるなら、広告表現だって自粛する必要はないはずです。

もっといえば、「広告表現が社会的な圧力により自粛させられていることに、どうしてフランチェス子さんは怒らないのか。単に知らなかったというなら、いま知ったはず。で、どうなんです? 広告表現の自粛に賛成なのか、反対なのか」とまあ、そういう話をしたいのだと思う。

ただ、KoshianXさんもフランチェス子さんの意見を読み誤っているように見えます。フランチェス子さんは、人が裸で歩く権利までは主張されず、「常識」の範囲内なら問題ない、というご意見らしい。「ミニスカート」程度でケチをつけられたから怒っているのだ、というわけ。

ポスターや看板の広告表現が抑圧されているといっても、「ミニスカート」まで自粛しているという話は(少なくとも私は)聞いたことがありません。

2.

裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話〈1〉 (叢書・ウニベルシタス) ヌーディズムの歴史 (第1巻) ヌーディズムの歴史 (第2巻)

温泉などに行くと、ほとんどの人は服を着ているほうが見た目にはいいな、と思う。素朴な感情としては、服を脱ぎたい人が自由に脱げる社会には強い抵抗感があります。

それでも私は、ヌーディズムへの抑圧には与しません。他人の裸なんか見たくないという人が「多数派」だからといって、少数派の表現の自由が侵害されていいのでしょうか。(現実主義の立場から「棲み分け」まで全否定するものではない)

「全員が裸にならねばならない」と主張して他人の服を脱がせるような行為は規制すべきですが、本人が脱ぐ自由は認めるべき。そして現在の社会は「全員が服を着ることを強制して、裸になりたい人に無理やり服を着せている」ことを、もっと多くの人々が自覚すべきだと思う。

視覚の暴力性という考え方にも大いに理はあるけれど、人の自由を奪っていい理由としては弱いと思う。多数派はすぐに「常識」を振りかざして少数派に我慢を強います。多数派体質の人は、ほとんど何も我慢しないのに。こんなの、不公平じゃないですか。

日本ではいまだに「一つ屋根の下で若い男女が暮らして何もないはずがない」なんてことがいわれます。馬鹿げた話で、だったらアメリカで男女のルームシェアが珍しくもなんともないことをどう説明付けるのか。

映画「恋する遺伝子」やTVドラマ「グレイズアナトミー」にも男女数人がルームシェアして暮らしてる設定が出てくるので、ウソだと思ったら見てみてください。ヌーディストビーチや混浴の温泉でも、そこへくる人々の大半は淡々としたもの。ようするに、そうしたあれこれが「危ない」かどうかは、文化の問題なんです。

「ヌーディストが裸で暮らす権利を認めよ」という主張には様々な懸念が示されるでしょう。日本の現状を前提とすれば、事実無根とはいえない。それでも、究極的には文化的に解決可能な問題だと私は考えます。

3.

チロルチョコのCMにはポカーンとなった記憶があります。

平成21年12月3日

超★ライフハック聖典 ? 迷えるアダルトのための最終☆自己啓発バイブル

「書店のどこに置かれるのか?」という疑問がネットの一部で飛び交っている本書ですが、近所の書店では、サブカル本のコーナーに平積みされていました(残り2冊になってた)。ネットで表紙を見たとき「こ、これは……」なんて思ったのですが、サブカル本コーナーだと少しも目立っていない。

タイトル通り自己啓発本のコーナーに並べた方が、見た目には面白いと思う。けれども、書店の判断は合理的ですね。

このタイトル、この表紙に惹かれるのって、そもそも自己啓発本を敬遠しているような人が大半。そういう人がふだん足を運ぶのは、本書と同系統のタイトルや表紙の本が集まっているコーナーであって、自己啓発本の陳列棚へ冷やかし目的で足を運ぶのは年に数回に過ぎないでしょう。

ちなみに本の内容は、けっこう「ふつう」。要点を抜き出せば常識的な内容なのに、「えっ!? そこまでぶっちゃけちゃっていいの?」と読者をビックリさせてしまうのが、ココロ社マジック。実際には難しいことを、いかにも簡単なことのように思わせるテクニックも一流です。

まあ、読後に冷静になれば、そのあたりは皆さん気付かれることだと思います。「カリスマ平社員」のアドバイスを、みんなが簡単に真似できるなら、世の中もっと暮らしやすくなっていると思う。

クビにならない日本語 成果を出さずに平和に暮らす! 究極のコミュニケーション・テクニック

こちらは内容通りのタイトル・表紙なので、ビジネスマナーのコーナーに並んでいます。私はビジネスマナーに関心がなかったのですが、ココロ社さんの文章が面白いので、初めてこの手の本を読了できました。

それからあらためて書店で類書にあたってみると、じつはココロ社さんの本って、それほど特殊ではない。やわらかいマナー本は、意外と同じようなことを書いてはいるのです。しかも同じ値段で情報量は格段に多かったりします。……でも、私に本を手に取らせて、最後まで読ませたのはココロ社さんだけ。すごい!

書き方も内容のうち、ということだと思う。

補足

ココロ社さんの本を読んだ割には実践してないよね。今回の記事にも微妙に(何ら利益を産みそうにない)トゲを感じるんですけど? いや全くその通り。いずれそのあたりについて書くことがあるかも。ま、私はビジネスマナーやライフハックを知りたくてココロ社さんの本を読んだのではないから、別にいいんです。

平成21年12月2日

先月、富士山静岡空港に電源サービスがないことへの不満の声を紹介しました。この件について静岡県に要望を取り次いだところ、概要、以下の回答を得ました。

現在、富士山静岡空港の旅客ターミナルビルの公共スペースに、空港利用者が自由に使える電源コンセントがないのは事実です。他の地方管理空港を調査したところ、電源コンセントの無償提供は有償のラウンジに限られるケースが多いのが実情でした。しかしご要望は把握しており、電源コンセントの提供方法について検討中です。

私は「回答は不要です」と書いたように思う(記憶違いかもしれない)けれども、ていねいな返信をいただきました。今後とも、お気づきの点がありましたら、ご意見・ご要望をお寄せください。とのこと。身元を明記して意見を伝えると、行政や企業は何らかのレスポンスをくれることが多いです。

報道によれば、空港の魅力を高めるために飲食・物販複合施設を新設する案が出ているとのこと。暇な時間帯のファミレスのように「居座り歓迎」のビジネスモデルのお店になれば、きっと電源サービスも提供されるでしょう。そうなれば静岡空港の電源問題も、誰も損をしない形で解決されますよね。

平成21年12月1日

1.

私はNHKオンデマンドに満足しています。でも世間では商売として成功していないという。

  1. 配信時間が遅すぎる
  2. 課金制度がわかりにくい
    1. 高すぎる料金設定
    2. あり得ないメニュー設定
    3. 15分で105円とかふざけてる
  3. WindowsXPで見るにはDRM設定がわかりにくい。
  4. せっかく買ったのに地上波で再放送する。
    1. ITホワイトボックスだけは再放送でも閲覧できる
  5. お客の意見を聞かないサポート体制

そういう意見もあるのかな。私はNHKオンデマンドの価格を「高い」と思っていないので、いろいろ感覚が違います。

2.

私は手取り年収300万円くらいだけど、生活費は200万円未満なので、ものすごく家計に余裕があります。なので、月額1,470円のNHKオンデマンド見逃し番組パックのために消費を我慢したものは、とくにありません。私は基本的に見たい番組は全て録画視聴しており、NHKオンデマンドは「保険」です。

具体的には、NHKスペシャルとかクローズアップ現代って、ネットで話題になるのはいつも放送後ですよね。クロ現はともかくNスペは不定期放送だし、録画になじまない。そういう番組を視聴するのに、NHKオンデマンドは便利です。

私にとってNHKオンデマンドは「これまで不可能だったこと」を可能にしてくれるサービスなので、価格の妥当性は、その利便性との比較になります。あるかないかわからない再放送を待つ心もとなさ、その挙句、録画に失敗してポカーンとなったときの気持ち……。「今すぐ視聴できる」のは大きなメリットだと私は思う。

地上波でタダで見られるのに、だれが買ってまで見るのかね。

再放送待ちが苦にならない人にとっては、そりゃまあたしかにお金を払う意義が感じられないのかもね。

いま土曜深夜のフジテレビで「24 season7」が放送されています。まだDVDレンタルが完結していないタイミング。これを知って「DVDをレンタルして損した!」と思いますか? 私は、思いません。自分にとって都合のいいタイミングで視聴できるDVDレンタルには、価格に見合った価値があると考えるからです。

日本のテレビドラマだって、そうでしょう。放送から3〜4ヶ月後にレンタルDVDのラインナップに登場するけれど、人気ドラマなら1年以内にほぼ確実に再放送があるんです。スペシャルドラマの放送前、主演俳優の新しい連続ドラマの放映中、あるいは何の脈絡もなく。私はそれがおかしいことだとは思いません。

ところが、ネットだと、どうもお金を払う気になれないという方が多いらしい。いや、そもそも連続ドラマのDVDをレンタルする人だって世間的には少数派なのだろうけれど、わざわざ「再放送を待てば無料なのに有料だなんておかしい」とブログに書く人は滅多にいない。この違いは何なのか。

日向専務理事は「ネット上は無料のコンテンツが圧倒的に多いが、有料でも質の高い作品を見たいというニーズは必ず出てくる」と話す。有料配信ならではの質の高さをアピールするなど、対策に取り組む考えだ。

私は、この分析がヘンだとは思わない。レンタルDVDなら有料でなおかつ時間制限があっても文句が出ないのに、ネット配信だと再放送をしたくらいで怒られる。DVDにならないようなマイナー作品までラインナップに入れていて、しかも家から一歩も出る必要がない便利さなのに、理不尽な話だと思う。

3.

DRMについて。私もWindows XPですが、何の設定もなしに最初から視聴できました。Windows Media Playerをバージョンアップしていなかった人は何かと面倒なようですが。頑丈なDRMは権利者にとって必要なものなので、DRM周りのアップデートを求められるのは妥当だと私は思っています。

ブコメに散見されるMac排除云々もDRMの問題。AppleがDRMの囲い込みをやっている以上は、オープンなWindows Media DRMが使われるのは自然な話だと思う。MSがMacにも対応する積極的な理由はないわけで。

これがうまくいくと、Macユーザーには朗報になるかも。

4.

これはリンク先の方の話ではないけれど、話題になった番組はYouTubeやDailymotionに著作権を無視して勝手にアップロードされるので、それを見て満足しているという方々が多いのかもしれない。ニコニコ動画がずいぶんきれいになったので、相対的にYouTubeやDailymotionのひどさは目立つ。

だんだんこういうサイトの更新は難しくなっていくだろう……と思いきや、いまだにまず第一にYouTubeを紹介して成立しているのだから驚かされます。ニコニコ動画だとすぐに削除されるから、この手の無断アップロードを紹介する情報サイトは、もうずいぶん前から、ニコニコ動画にはリンクしていないのです。

中国のサイトとか、欧米でもアングラ系の(≒アダルト広告が目立つような)マイナー動画サイトへのリンクだけなら、まだわかるのです。現実問題として、ごく僅かな人だけが違法行為をしているなら、社会は回っていきます。でも、みんなが呼吸するように違法行為に手を染めるようになると、さすがに成り立たない。

マジコンへの怒りの10分の1くらい、YouTubeなどへの社会的圧力にも回らないものか。