自由研究とは名ばかりで、実際には暗黙の不自由が存在するのが自由研究の実情……この常識を疑ってみてはいかがでしょうか?
もちろん、学校に提出するものである以上、一定の制限というものはあります。具体的には、優等生的な内容でなければいけない。ただ、逆にいえば、それ以上の制約というのは、しばしば思い込みに過ぎないのです。
私は工学部卒です。小学生の頃からずっと理科に興味関心がありました。
その私からみても、自由研究といえば「理科」という風潮には無理があると感じます。その理由は多々ありますが、一言でいえば、
これに尽きます。それでいて、ふつうに生活している限り、予想外のことにはそうそう出くわしません。
なぜそうなるのかはわからないけれど、ボールを壁に当てれば跳ね返ってきます。私は運動神経が鈍くて、跳ね返ってくる位置や角度をちっともコントロールできませんでしたけれども、ちょっとセンスのある人なら、壁相手に延々とキャッチボールできるわけです。
ふつう、ボールが跳ね返ってくる位置を自分自身が予測することができ、きちんとキャッチできさえすれば、満足します。わざわざボールの種類を変えてみようとか、ボールの代わりに粘土を投げてみようとか、考えない。仮にそうしたことを考えて、やってみたとしても、「ボールと粘土では跳ね返り方が違うのだな」と事実を確認してお終い。そのことをとくに他人に伝えたいとは思わないし、ましてきちんと実験の記録をつけて紙の資料を作成したいなんて考えるはずがない。
それに、小学生・中学生のレベルでは、結局のところ、何ひとつ説明できないのです。高校まで進んではじめて、弾性係数や摩擦係数をきちんと理解し、ボールの軌跡を科学的に予測できるようになります。その際、連立方程式や二次方程式を道具としてバリバリ用いる必要があるので、中3までの数学が最低限必要です。
理科の理解には総合力が必要なのです。いくつか実験しました。結果がこうでした。「で、それってどういうことなの?」「いや、やってみたらこうでした、っていうだけなんですけど」「じゃあ、実験していない何かを試してみたら、また予想外の結果が出るかもしれないわけ?」「そうですね」「ふーん」この虚しさ、悲しさ。
自由研究の種本を見ますと、既に(ちょっと科学をかじった方には)よく知られている現象を題材として、自然界の不思議な現象を際立たせるような実験が多数紹介されています。繰り返しになりますけれども、書かれている通りに実験すればいいのです。そして書かれている通りに結果をまとめればいいのです。それで自由研究という宿題はクリアできます。
もちろん、子ども一人にお任せしていたら、ちっとも実験は進まない。だって、やりたくないのだから。だから保護者の指導は必要になるということは、「自由に研究する前に」の中で説明した通りです。
ただ、たいていの理科系自由研究はつまらないですよ。理科が好きだった私がいうのだから間違いない。
だって、どんな結果になるかはわかっているからです。本を読むまでは知らなかったかもしれないけれど、実験する段階では既に、わかっているのですよ。だいたい、本の著者はずるいですよね。どんな結果が出るか、というところから逆算して、最適な実験計画を立てている。本末転倒なんです。
もう実験なんてするのやめて、本のコピーをとってそのまま学校に提出すればいいじゃないか、と思う。「こんなお勉強をしました」ってね。子どもだって、それくらいのことは考えるわけです。
非常に興味がある素晴らしい実験に出会い「ぜひ自分でも再現してみたい!」といいだす幸運な子どもは、ほとんどいません。自由研究の種本を何冊読んでも、それぞれに興味深い事実が掲載されていることには関心を持つものの、「何もわざわざ自分でこんな面倒なことをするのは嫌なこった」と思う。だから、何もしない。したくない。
理科の自由研究は、こうした「どうせ、お釈迦様の掌の上で遊ばされているんでしょ」という閉塞感に覆われています。
小学校低学年の子どもなどが喜ぶ自由研究に、「大きなシャボン玉を作る」というものがあります。盥(たらい)などに手製のシャボン液を入れ、針金ハンガーを変形させた型枠を浸けて引き出すと、大きな膜ができます。後はゆっくり振り回すだけで大きなシャボン玉ができるのですが、この実験の面倒くささといったらない。
まず家の中ではできません。シャボン玉が大きいということは、割れた後で飛び散るシャボン液の量も馬鹿にならないわけで、家の中でやったら部屋中がシャボン臭くなってしまいます。
といって、外でやるとなると大変な労力が必要ですよね。盥を持っていない人は、まず盥のようなものを買わなきゃいけない。そして針金ハンガーだって余っていない家は少なくないでしょう。そして雨の日、風の日には実験できず、さりとて力仕事の得意な人が休みの日でなければ大量のシャボン液を近所の公園まで運ぶことができない。日程が合わなかったら、どうすればいい?
さらに、いろいろな形に曲げたハンガーを用意して、どれでシャボン玉を作っても丸くなってしまうことなどを確認するあたりが実験の肝なんだけれども、正直、そんなのは別に面白くも何ともないわけです。「ふーん、そうなんだ」のレベル。楽しいのは大きなシャボン玉つくりの競争とか、そういったもの。数回実験を繰り返せば、じつは「大きなシャボン玉を作る」というテーマについては興味深い結果が得られるのだけれど、そこまでやらないでしょう?
ふつうは子どもも、支援する大人も、1回実験したら「もういいや」と思ってしまうし、そうなると、大きなシャボン玉を作るというテーマは、単にコツとか、たまたまその実験のために用意したハンガーの内、どれがよかったかという話にしかならない。その上、シャボン玉は後に証拠が残らないから、いい加減な記憶だけが一人歩きしてしまいがち。
で、そういったもろもろの馬鹿馬鹿しさというのは、じつは大人だけではなくて、ちょっと賢い子どもも同様に感じています。あるいは、ふつうの子どもだって直感的に見通しているのです。
大人はしばしば、この点を見落としています。そして、「うちの子はどうして理科に興味関心を抱かないのだろう?」なんて不思議がったりするわけです。
何の不思議もありはしない。あなたが自由研究の種本に載っているどの実験もやりたいと思わない理由は、あなたのお子さんがその実験をしたがらない理由と同じなのです。だから、自分の心に問いかければ、答えは自ずと明らかになります。
やはり自由研究といえば「理科」というイメージは強固なようです。学校によっては理科限定なのかもしれませんけれども、じつはそれは思い込みで、自由研究のテーマが理科に限定されていないケースは少なくないと思います。少なくとも私は、理科限定と明記されていたケースを知りません。
ほぼ日刊イトイ新聞-夏休みの自由研究相談所。には、理科以外の分野から自由研究のテーマを拾ってきた事例がいくつか紹介されています。
ある意味、本に書かれている通りにすればいいという意味で、理科から適当にテーマを選ぶのが無難ではあるのです。けれども、たいていそれは虚しい作業になりがちだということは散々論じてきました。では、どのようなテーマを探せばよいのでしょうか。
簡単です。
何かに役立ちそうなこと、興味のあること、調べたいことをテーマにすればよいのです。
「あ、騙された。結局、それかよ」と思われましたでしょうか。まあ、たしかにそうなのですけれども、例えば、以下のようなテーマが考えられるわけです。
ようするに、生活に密着したテーマを選ぶわけです。今まで、何となく惰性でやってきた物事を、自由研究を契機として、ひとつの記録としてまとめていく。
今ではデジタルビデオカメラやデジカメなど、便利な記憶媒体がたくさんあります。どんどんいろいろな写真を撮っていく。これなら、後々まで役に立つ研究となります。
来年も夏休みがやってくるわけです。毎日、子どもにご飯を作ってやらなきゃいけない。献立に困る。そこで役に立つわけですよね、今年の研究が。
来年もお盆がやってくるわけです。ビデオカメラで撮影した一部始終を参考に、デジカメの写真とメモで構成した「お盆のしきたり全手順」が研究として残っていれば、不測の事態にも安心して対応できるわけです。
生活の記録は、役に立ちます。少なくとも、子どもが大きく育ち、家を出てから読み返すとき、感慨を呼びます。理科の実験記録だって、好きで頑張って取り組んだものなら、もちろんよい思い出となります。けれども、そのような研究をするお子さんは稀でしょう。家族の歴史を封じ込めた研究なら、仮に子どもはがぶーたれながら作ったものだとしても、温かい思い出へと変化しやすいのではないでしょうか。
おそらく、前記のようなテーマを選択することには、大きな障害があるだろうと思います。
それは、「自由研究とはこうあるべきだ」という思い込みです。「他の誰もこんな研究はしないだろう」という仲間外れの不安です。
21世紀は変革の時代です。ルールにきちんと従っているなら、何を恐れる必要がありましょうか。騙されたと思って、ぜひやってみていただきたいのです。これまで泣きたいくらいつらかった自由研究が、(少なくとも保護者にとっては)けっこう楽しいものとなります。調子に乗って、1回の夏休みの間に2つも3つも研究を仕上げてしまうことができるかもしれません。
一歩、踏み出すこと。その勇気が、あなたを救います。
(2006-08-14)