検索エンジンや個人ニュースサイト経由で訪問したときには無用なのですが、常連読者になっているブログの場合はあると嬉しいですね。毎日訪問するわけじゃないので過去ログをたどるわけですが、全ての記事をもれなく確実に読むには時系列のアーカイブが一番です。最悪なのが時系列のアーカイブがなくて、トップページから流れたら全部カテゴリ別に整理されてしまうブログ。相当イラつきます。
こんな買い方、一度もしたことがない。ふつーの人の生活って面倒くさいみたいだね。
私はふつうに歩いていても右足が左足に躓いて転ぶような運動音痴なので、長いズボンははけない。階段で必ず踵を引っ掛けて転ぶからだ。なので、基本的には短いのを買えばいいのだけれど、生まれたときからずっと足が太めなので、結局、太さで決めている。長さの調節? 自分で適当に裾を折って縫えばいいと思う。
ちなみにスーツを買うときも、「このようなバランスでうちの商品としてお出しするのはちょっと……」と店員が不快感を露にするくらい裾を短くしてもらってる。でもこっちは階段で死にたくないので本気度が違う。最初のスーツで懲りたので、2着目からは「足の軽い障害のため」というようにした。
人に見せて自慢したいわけでもなし、ようは寒くなければいいのではないか。なので実家を出てから6年目になるけど、穴が開いたので仕方なくひとつ、買ったきりだと思う。洗濯中にも着る服が必要だから、冬物と夏物で2本ずつ必要。だんだん擦り切れて数が減ってきて、とうとう冬物がひとつきりになってしまったので、仕方なくひとつ買ったわけ。
使うから擦り切れるのであって、当然、冬に冬物を買うことに。すると季節外れ扱いの特売品が案内される。「500円か〜、安いなあ」って喜んでるような20代は珍しい、と予想するけれど、本当のところはよくわからない。大企業の正社員とパソコン経由でネットやってるような人のことしか知らないわけだし。
石川一靖さんが紹介されていたイベント。私は観客として興味あります。パブリックドメインの作品が集まったら嬉しいけど、それはさすがに望み薄かもね。
カッコよくはないから対象外ではあるけれど、じつは私の CSSthink.css は画像が表示されない環境を想定して作成したものです。
このサイトは当初、デザイン実験場として使われており、他人にアドレスを教えて本格的に(?)スタートさせてからもしばらくは、毎月のようにデザインを変更していました。その後もたびたび CSS を変更し続けましたが、次第にストレスが昂進。はじめのうちは習いたての CSS が面白くて遊んでいたのですが、いつまで経っても自分が満足できるようなデザインがひとつも仕上がらず、イライラがたまってきたのです。
そこで2003年、行き当たりばったりの手探り感覚 CSS 作成プロセスをやめ、明確な目標を立てて一から書き直したのが CSSthink.css です。目標といっても大したものではありません。
とくにこだわったのが WinIE のユーザ補助機能への対応。これをクリアできれば、Firefox で画像を自動的に読み込まないとか、ユーザ指定の配色を優先する、といった設定にも対応できます。
ユーザ補助機能を全て有効にすると、背景色、フォント、文字サイズの指定が無効化されます。h1 以外の全ての見出しに border を用いているのは、じつはこの制約によります。無効化された部分は IE 標準のスタイルで置き換えられてしまうので、例えば h6 は p より小さな文字となります。したがって太字にするだけでは strong と見分けがつきません。
blockquote と q の border の色とスタイルを同じにしたり、本文→em(背景色)→strong(背景色+太字)と段階を踏むように変化する装飾を考えたり、dt は背景色は 0.5em だけ p より左に出ているものの文字の開始点は p などと同じとすることで h6 と差異化し、「見出しではなく本文の要素」と主張してみたり。
ダサいとかそういった評判は、この際どうでもいい。悩むだけ無駄だと思っています。自分にとって実用的なデザインであればよい。ユーザ補助に対応したのも、単に自分が IE を常にユーザ補助を全部有効化して利用しているから。配色がおざなりなのは当然の帰結か。
一応、私もCSSアーカイブで配布しているつもりで、実際に活用されている方もちらほら。でも、紹介されている事例のような CSS ファイルへのリンクやセールスポイントの説明がないから、石川さん的「配布」の基準を満たしていないのかも。CSS や画像への直リンクをOKしてるのは珍しいサービスだと思うけど。
ところで、いまだに画像(中略)大会の CSS を適用する HTML 文書というのが未完成なのですが、そんなもの、私の CSSアーカイブの前半部分みたいなもので十分じゃないか……と思っていました。しかしそういうことじゃないのでしょうね、たぶん多くの人にとってはね。
一昔前なら、軽いサイトが多かったので、ナローバンドに配慮しないとアクセスが減るよ、みたいな脅しが通用したけれど、最近は完全に立場が逆転。「重い? 高々数百KBで? ふーん、文句があるなら見なくていいよ」これでOKという時代。
まあそんなわけで、画像を使わないことを前提に、というルールに実用的な意味はあまりないと思う。作者が意図していようとなかろうと、私のようなナローバンドユーザは容赦なく画像オフで閲覧するのだし。ようするに、画像多用の重たいデザインにもう文句はいわない、と。重たくても読みたい、ええい、画像オフだ! コンテンツの魅力が勝つ。だからもう、負けました、と。
今、そういう状態なのだから、一部の作者だけが画像なしのスタイルシートなんか提供してもね……。画像の有無によらずデザインが伝わるスタイルを目指して、ひとつのスタイルシートで画像あり、画像なしの2つの状態で見た目を比べて、どちらも及第点の作品を上等とする、みたいな方向性が望ましい。これなら、実用上、役に立つテクニックを学ぶ場として、有効に機能するような気がする。
最近、入ったチラシを見ると、ケーブルテレビの線を使ったインターネットが月額2000円だって。しかもキャンペーン中の申し込みなら工事費無料。以前は帰郷の際にネット環境がほしかったけど、今は実家にもそれ、あるし。いつまでも AirH" を使ってるのって、意地張ってるだけか? んー、でも地震とかも考えられるし……。半ば、言い訳。
Google マップも重たくて使い物にならないし、いい加減、ブロードバンドにした方が楽しいかも、と思うようになりつつある昨今。ここしばらく、アドバイスでもナローバンドユーザ的な文句は書いてない。
クリエイティブ・コモンズ・ジャパンを久しぶりに見てみたのだけれど、相変わらず Public Domain は英語版だけなんですね。どうせ日本人は自分の作品をパブリック・ドメインになんてしないでしょ、って判断? そんなに翻訳が面倒くさい英文なのかな。私は英語に不案内なのでよくわかりませんが。
自分が読めない言葉で書かれたライセンスを自分の著作物に付加したいとは思わない。何か私の希望に反する内容が書かれているかもしれないし。ま、私はヘンな条件をくっつけてるから、どうせパブリック・ドメインの定義に合わないでしょうね。
Yahoo!ブログで記事を転載可としている人が、お礼コメントを求めるのはおかしい、と id:straymind さんはお考えの様子。私は賛同しません。
私は以前から「リンクよりも転載を推奨します」と公言していますが、本当に転載する人は滅多にいません。やはり面倒くさいのでしょうね。リンクする方がずっと簡単だから、「リンクでいいや」となるらしい。
そのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。「文句をいう暇があるなら転載しろ」と私は何度もいっている。
Yahoo!ブログがもうちょっと使いやすかったら、私はYahoo!ブログを使っていました。私の記事が好きな読者はYahoo!ブログのアカウントを取って、気に入った記事をどんどん転載したらいい。私はくだらないクレームを受けなくて済むし、読者もリンクするより手軽に転載できて、お互いに満足のいく状況となったろう。
ボタンひとつで転載できる、という機能は大きなメリットであって、他に代え難い魅力があります。選択肢は少ないので、様々な事情や思いを抱えた人々が、みんなYahoo!ブログの転載機能を使いたいと思っているに違いない。
こうした状況にあって、「Yahoo!ブログで転載ボタンをつけるなら、無条件でどんな相手にも転載を認めねばならない」という考え方が、どれほど社会に資するでしょうか。あまりにも単純すぎやしませんかね。
私だって転載には条件をつけています。
- 転載・改変した情報に起因する全ての問題について転載・改変した者が責任を負うこと
- 転載・改変した情報の再転載・再改変を容認または黙認すること
この2項目をないがしろにする者には、転載させない。「させない」ったって、「できちゃう」じゃないか、と。そこで「ルール」の出番です。
法律だけを特別視する人が目立ちますが、しょせんは法律だって日本国内のローカルルールに過ぎません。法律が禁じていないなら、個人が定めたローカルルールなど踏みにじってよい、と考える人にはついていけない。「それだけの価値がある」と信じる場合に限って、ルールを破るべきだと私は思う。
Yahoo!ブログは、転載ボタンを押したらさ、各作者が独自に設定できる規約文を表示するページを出す仕様にでもしたらいいんじゃないの。で、その規約文を最後までスクロールして、OKボタンを押すと、ようやく転載できる、と。絶対にお礼コメントがほしい人は、この独自規約文にそういうことを書いておく。
あーあ、CURURUもスクラップ機能を廃止しちゃうそうだし、刀折れ矢尽きた感じ。私は今後も細々と転載・改変自由の条件で何か書き続けますが、寂しくなっちゃったな。Yahoo!ブログも、もう忘れる。革命的な何かの起点には、なりそうにない。
学生の日常生活から遊離したテーマを投げると、「光と影」パターンにしたがって文章を書く学生が多い、という話題。それにしても、「呪縛」ですか。私なら「定石」とでも表現しますけど。
もちろん、自分がよくわかっていて、考えなくても書けるようなテーマだったら、ふつうに自分のことばで書くのだろう。しかしそうでない場合、自信のないテーマについて書くことを強いられると、とたんに過去の経験が記憶から呼び出されるのだ。
山口さんはこれを何か問題視されているようで、それが「呪縛」という言葉の選択に現れています。解放されるべき何か、があるに違いないという直感。私の意見は逆です。小中高と国語の先生方がきちんと生徒の教育に勤しんでこられた、その成果をむしろ賞賛すべきであって、何を恐れることがあるのか、と。
補習塾で教えていた経験からいえば、「光と影」パターンでサラサラとレポートを書けるのはエリートだけ。公立小中学校の、ざっと上位1割強。高校3年間頑張っても、半分以上の人には無理だと思う。どうして書けないかといえば、1.全く知識がない 2.自分の立場でしか考えられない 3.3行以上の文字列を筆記すると疲労困憊 といった理由。なかなかたいへんなのです。
作文の苦手な人に「自由に書きなさい」といっても無意味、頭真っ白になって時間を無駄にするだけなので、作文教育=考え方教育では、さまざまな思考パターンを教えていくことが多い。たいていの子は2〜3文で完結する最小単位のパターン学習ならクリアできるけれど、段落単位で構成する段階へ進むのは難題です。
大学崩壊などといわれつつも、山口さんの勤務先の学生さんは「光と影」パターンをマスターしていますよ、ということならば、いい大学で教えられてよかったね、という話ですよ、これは。学生が優秀だから授業が成立しそうだな、よかった、ほっとしたよ、と。
もっと学力レベルの低い学生の集まっている学校では、生徒のよく知らないことについて作文を書かせることは不可能なのです。パターン学習のおかげで、よくわからないなりに文章を書けるようになっているのであって、それをつかまえて「呪縛」だなんていっていたらバチが当たりますよ。
不満があるなら自分で小論文指導をやってみたらいいと思う。よくわかっていないことについて、どうやって文章を書くか。うまくすればひとつかふたつ、新たなパターンを教え込むことができるかもしれない。
インカ帝国の人々は音声言語を持っていながら、少なくとも数千年続いたといわれるその文明の歴史の中で、ついに文字言語を発明しなかった。アフリカ大陸の人々は地平線まで砂漠にするほど樹木を切り倒しながら、ついに燃焼効率のよいかまどを発明せず、石を3つ並べるシンプルなスタイルを貫いた。インド人が発明したゼロ、他地域の誰も、教えてもらうまでそのアイデアに気付かなかった。
種は自然発生しない、と割り切った方がよい。判で押したようなレポートを読まされてうんざりする山口さんの様子が目に浮かぶが、10年先も20年先も同じ思いをし続けるのが嫌なら、自分が何とかするしかない。
初等中等教育でなら生徒の保護者が顧客になるけど、高等教育では学生自身が顧客と捉えるべきでは?金の出所は顧客側の問題だし。
なぜですか? お金を出している人が、現に、大学に文句をいっているわけです。資本主義経済の社会では、当然のことです。リスクを負ってお金を出す人の要望に応えないで社会が発展するのは例外。大学が例外だというなら、まずそれを論証すべきです。
私が考える限りでは、お金を出している人の希望通り、学生にきちんと講義を受けさせる方が、大学が生み出す社会的利益は増大すること間違いないと思うわけです。
自律できず向学心の乏しい学生を「お願いします」と預けられた大学が「こんなのどーしようもないよね」と嘯くなら、助成金の原資を負担する納税者の一人として私は「税金泥棒!」といわせていただく。私は学生を堕落させるだけの機関に1円だって寄付するつもりはない。
学費を誰が出すかは大学の知ったことじゃないよな。教育というサーヴィスの対価として学費を要求しているに過ぎず、金は払ったがサーヴィスを受けないのも受講者の自由。
顧客満足を最大化するには、いったい誰が顧客なのか知る必要がある。ふつう、顧客=お金を出す人です。大学は例外だというなら、理由は何? 大学の顧客は学生だという思い込みが、心の弱い学生の転落を放置する非効率な教育システムを延命させてきたのです。
弟が大学院(国立)へ進学した際、私は両親の保証人として書類に判を押しました。大学は学費の未払いを恐れ、信用力の担保を求めます。大学は金の出所に深い関心を持っています。ところが金と同時に口も出すと、「最近の保護者ってヘン」と怪訝な顔をする。顧客に対して、無礼極まりない。
大学は自分で学ぶべき場所。「学校」ではないし、「学生管理」を行うところでもない。/ていうか講師に病欠をいちいち連絡する意味がわからない。国立大の工学部ではそういう慣習があるんですか?
だからそれが根拠のない思い込みであって、そんな夢物語のために、現に大勢の若者を無為に堕落させる壮大な無駄遣いが行われているのです。この損失をどう考えるのか。
100%の出席率を前提に講義室を作っている無駄、講師の人数の無駄、これらは数限りない。本来、100の成果を見込んで90の投資をしているのに、学生のサボりを放置する教育システムだから70の成果しかない。大雑把にいえばそういうこと。
ところで、病欠の連絡には意味があります。
まず、まじめな学生が連絡なしに講義を休むと、先生が心配します。事前に連絡があれば、余計な心労をかけずに済むわけで、これは当然のマナーというべき。たまに教育実習など、ずっと前からわかっている欠席を伝えない学生がいて、先生を不愉快にさせていました。「よくそれで教師になろうなんて思うものだな」
次に、ズル休みと病欠では先生の対応が異なります。例えば、講義出席者だけに市販されていない紙を配って「**日までにレポートを書いて提出せよ」と指示を出す場合、病欠の連絡があれば、健康回復後に研究室へ伺うと、その特殊な紙をもらうことができます。あるいは空き時間に補習をしてくれることも。
大学を「教育機関」と位置づけるなら概ね同意。でも、僕は「教育機関」と思えないので同意できない。そもそも「教育機関」が「製品製造工場」みたいになってきている現状が嫌だ。
小中高の事務室が当然のように提供しているサービスを、なぜ大学では切り捨てるのか。
そりゃもちろん,相手が「大学生」だからです.それ以上でもそれ以下でも無い.
何度でも繰り返すけど、そんな思い込み、決め付けのために、やればいいことをやらない愚かさよ。
4年間、国立だって200万円以上の学費を払って、それに見合った教育効果が出ているのですか。現状はひどい。講義に出てこない学生、レポート課題を提出しない学生、試験を受けもしないで卒業間際にピーピーギャーギャーいう学生……大変なのはわかる。けれども、合格通知を出したなら結果に責任を持つべきでしょう。
学費を負担している人が満足しているならいいよ、でも実際は? それなのに香川大学の渡辺教授や産経新聞の記事では、怒ってる方がおかしいという。社会に優遇された殿様商売は、これだから困る。
大学って本当は研究機関の人材育成施設であって,社会人養成機関ではなかったはずなんだけどな。/まあ教育機関としてサービスに特化する方向もありっちゃありだが,すべてに求めちゃいかんよ
私は2つの方向から意見を述べました。ひとつは、事務局はもっとサービスをよくすべきだ。もうひとつは、学生の堕落を必然的に招く教育システムを改善せよ。
講義に出なくても勝手に学生が成長するなら、講義なんかやめて試験だけやってりゃいい。実際は違うとわかっていて、アホ学生ほど脱落しやすい。高校までならズル休みを「させまい」とする意欲が学校側にある。大学ではそれがゼロ。一番教育が必要な学生をフォローしない。こんな無責任な人材育成施設があるものか。
恐れ多くも試験を課して学生を選び、学費を受け取っておきながら、一番弱い助けが必要な学生をアッサリ見捨てていく。人は放っておけば堕落する、という程度の人間観察もできないのか、と思う。
大学より企業の方がボンクラには優しい。美しく凛として生きるためのインセンティブを人に与えるからです。だから学生時代を無為に過ごした人の多くが、社会人になると数年ぶりに成長軌道へ復帰します。何年も何年も何十年もこうした状況を座視してきた大学ほど、いい加減で酷薄な学校は他にない。
「学習支援」という枠内なら学生サービスの向上は歓迎です…。出席率を確保すれば顧客満足度が高まるというのはナイーブすぎかと。金城大学の事例のようにいろいろ方法があると思います。
就職率の上昇は景気回復の影響も大きいでしょうから、注意が必要です。また金城大学の事例は、やはり基本的に「自覚のある学生」を相手としているものと見えます。これでは底辺層は救われない。一番、顧客の不満が大きい層を放置するやり方でいいのでしょうか。
国公立大学の事務局サービスがいまひとつなのは文科省がそれでいいと思っているからかもしれませんが、学生が講義に出席もせずに遊び歩いて落第することを快く思っているとは考えられません。年度末に教授詣でする学生も不愉快なら、そもそもそうした状況を作り出してしまう大学の体制にも不満があると予想します。
問題の認識があって解決策もわかっているのに、なぜ何十年も放置されているのか。「大学かくあるべし」と非現実的な理想を掲げ、自縄自縛に陥っているからだ、というのが私の仮説です。現に質の低い学生を大量に受け入れているのだから、四の五のいっている場合ではないはずだと私は思うのですが、はてブのコメントなどを読む限り、今そこにある問題の現実的な解決よりも、永遠の理想を無為無策のまま追い求めることを是とする人が多いようですね。
現在、揺り戻しが起きているかのように、職員に関する研究や実践が蓄積されてきています。研究領域としての「学生サービス」って、とても重要だと言われているんですね。
私の出身大学でも、ちょうど私の頃、就職活動支援体制の充実がどうのこうのというので、先生方がぼやいていらしたことを覚えています。どえらい仕事が増えてしまった、と。
けれども蓋を開けてみれば、「君ならどこかには就職できるでしょ」というクラスの学生ばかりが様々な制度をガンガン活用して、「あー、ヤバそうだなあ」という学生はやっぱり年度末のギリギリになってから制度とかすっ飛ばして気安い先生に泣きついたり、どこかへ行方不明になったり。
卒業式だけはひょっこり顔を出したから「おい、君、就職は決まったのかね」「すんません、プーです」「大丈夫なのか」「ヤバいっす」「何とかしてやりたいが、もう卒業だしなあ」「いいっすよ、先生の問題じゃないし」「……」でも、じつは先生の問題でもあるはずなのです。
卒研の学会発表が卒業式後にあったわけですが、就活支援制度の成果として、制度を利用した内定数などを記録し、「たいへん厳しい就職戦線でしたが、我々の努力が実ってこれだけの成果が……」と教授会で発表されるのを聞きつつ、やっぱり先生、思ってたそうです。「制度なんかなくたって、彼らは就職してたろう」
大学の学生サービスは、最底辺の学生を救う視点を欠いています。民間企業では全社員に健康診断を受けさせます。それが義務だと認識している。大学が学生を預かってプー太郎に育て上げる。それが当人の希望であり理想であるというなら、何もいわない。現実は違う。人は希望に反して堕落してしまうのであり、だから教育機関というものがあるのではないのか。
組織はシステムを作り、弱い個人を堕落による破滅から救う。放っておけば授業をサボってしまう学生、何の身にもならないコピペレポートを作ってしまう学生、就職活動に絶望してフリーターに流れてしまう学生、彼らを救わずして何が教育機関か。底辺を切り捨てる組織の教授などが格差社会を語るなどちゃんちゃらおかしい、と思いながら本を読んだりしています。
「君子、危うきに近寄らず」とは中国古典の名作「五経」のひとつ「春秋」の注釈書、「春秋公羊伝」の中にある一節だという(けっこう説明が面倒くさい)。
これは id:aozora21 さんも巻き込まれている(?)話題で、たった10しかない巡回先の内、2箇所であれこれ語っている、しかも複数回……というわけで、私も何か書こうかなあと思ったのだけれど、触らぬ神に祟りなし(2006-05-29)で紹介した「私が避けている相手」が揃い踏みしており、二の足を踏むことに。
既に大勢があれこれ書いているので、いまさら私が書くことなんて何もなかったかも。それでも天邪鬼サマのご神託によれば、ある程度の差別を「大目に見る」観点から、尖った差別批判の足を引っ張る議論に活路がありそうだ、とのこと。アプローチはいろいろ考えられますよね。書かないと決めたので書きませんが。
私は誰かの記事への反論という形式でないと記事を書けない(ことが多い)ので、言及対象の選択は重要です。今回は id:sk-44 さんの記事がいいかな、と思っていました。でもこれが長過ぎて、最後まで読めなかった……。ま、野次馬的興味しか持てなかった、ということなのでしょう。
ようするに、テキトーなことを書かなくて正解であった、と。(だったらこんなフザケタ記事も書かない方がいいだろう/でも何かアウトプットがないと時間を丸損したような気分/君子になるのは難しい)
妙な方向に話が展開していて面白い。
いわゆる「考え過ぎ」の話題で、大真面目にやっているのがおかしい。
ついでに少し私の思うところを書くと、ここでは「ブログで」という話になっているけど、「井戸端会議で」といっても同じことで、怒りを発散する意味がどうのこうのという問題意識が「今」になって初めて出てくる(ketket さんの記事はそう読める)のが興味深いな、と。
香川大学経済学部地域社会システム学科の言語学教授が主に学部4年生に向けて書いた文章。点数の足りない人に単位はあげません、という話。
授業中に「いわゆる救済措置(試験後にレポートを書けばそれで単位を出す等)はしないので、単位乞いには来ないこと。4年生以上は特に気を付けること」と何度も何度も言うのだが、問題は授業に来ていないひとなので言っても効果があまりない。
救済措置を講じないこと自体は賛成。でも話のディテールには、少し思うところがある。
この記事には、引っかかるところが多々ある。
大学事務室への親からの“理不尽な要求”は卒業するまで絶えることはない。
留年した学生の親からの「なぜこうなる前に知らせてくれないのか」という注文▽履修ミスをした学生の親からの「息子のために(履修を)やり直せないのか」という懇願▽宿題のリポートを自宅に忘れた学生の親からの「ファクスするから子供に渡してほしい」との連絡▽「風邪をひいて休むから教授に伝えてくれ」という依頼−。すべて、大学関係者が実際に見聞きした例だ。
そして、どうにもならないことを知ると、決まって吐く“捨てぜりふ”がある。「『高い学費を払っているのに』という言葉です」(染谷さん)。最高学府ならぬ「最高額府」−その程度の認識なのだろう。
アレルギー対策の食事療法で給食を食べられなかった(卵・牛乳・大豆に非常に敏感だった)私は、幼稚園へお弁当を持って通っていた。その中身が貧相な日はよかったが、見た目に派手な日は、「一人だけズルイ」という声が、他の園児から上がったという。
それで両親は、私を近所の私立高等学校に付属する小学校へ進学させたいと思うようになった。その学校は給食制を採用せず、全員がお弁当を持参するシステムだったからだ。
私は知恵の足りない奇行を繰り返す園児だったので、幼稚園の先生はお受験なんて無理だといった。ところが、なぜか私の受験した年だけ男子が大幅な定員割れとなり、受験者全員が合格してしまったのだった。私はそのままエスカレーター式に高校まで進んだ。
私立学校の経営には、ひとつ明快な認識がある。「生徒は客ではない。顧客からの預かりものだ」
もちろん経営者に雇われた教師たちは生徒のことを第一に考える。しかし経営者の顔は、お金を出す人つまり生徒の保護者に向けられている。したがって、カリキュラムの説明や、卒業や昇級に関わるトラブルなど、一切の問題は必ず保護者に伝えられる。停学・退学などの説明も同様で、生徒の意見は参考意見として尊重するが、学校と保護者だけが話し合いの当事者なのだった。
高校卒業後、私は地元の国立大学に進学した。授業は面白かったが、学校運営に関しては、「話に聞いていた通り、低レベルだな」と思ったことを覚えている。
学部毎に事務局があって、10人くらいが働いていた。学部単独でも校舎や先生は非常に多かったが、学生の数となれば高校の方がずっと多かった。そして高校の事務局は4人くらいで切り盛りされていた。単位処理の煩雑さが全く違うことは理解できるが、サービスの質には納得し難かった。
例えば、授業料未納者への対応。なぜか事務室前の廊下に学籍番号が掲示されるだけ、なのだ。これが無視されると退学。殿様商売という他ない。国立大学の工学部だから、学生が減った方が税金の節約になる、という発想なのだろうか。私立高校では、振込み期限日の午後5時には電話がかかってくる。
この違いは、国立大学が顧客を見失っている証左と思われる。なぜか大学では、お金を出す人よりも学生の方を顧客と勘違いする伝統があるようだ。しかし明確にそう思い定めているわけでもない。それは入学時に誰が授業料を払うのか、書類を提出させていることからも明らかだ。つまり大学経営の焦点がブレているのだ。
私は、お金を出す人を顧客と位置づけるのが明快でよいと思っている。日本育英会が学費を出しているなら、学生の成績表、履修状況と卒業に必要な残り単位を日本育英会にも送ればよい。これは学生の嘘・ごまかし・勘違いを防止する効果もある。
産経新聞の記事では、保護者の要求を理不尽としているが、私は「そうでもない」と思う。旧態依然とした「大学とはこういう場所だ」という思い込みに、No が突き付けられているに過ぎない。小中高の事務室が当然のように提供しているサービスを、なぜ大学では切り捨てるのか。
私の進学した大学では、1990年代半ばから「成績表+履修状況+卒業までの残り単位」を学生向けとは別に保護者宛てにも郵送するようになった。きっかけは留年を院への進学といってごまかしていた学生の保護者からの苦情だったそうだが、お金を出している人にサービスの実績を報告するのは当然だ。いまだにこの程度のこともやっていない大学の事務局がたくさんあるそうで、どうかしていると思う。
成績表郵送サービスは整えていた私の進学先の事務局だが、外部からの連絡をどこにも取り次がない体質は改まっていなかった。民間企業だって社員の実家からの連絡を当人につなぐサービスを行っている。当人が離席していても、机がある職場ならメモを置いてくれるし、製造現場など机のない職場でも掲示板に張り紙をしたりする。ところが大学の事務局は「そのようなことはやっておりません」とすげない。
大学で困ったのが病欠の連絡。高校までなら事務室へ連絡すればよかった。ところが大学では担当講師に直接連絡しなければならない。ところが事務室へ電話しても、先生の連絡先を教えてくれない。だったら代わりに連絡してくれるのかと思ったら、「そのようなことは云々」。せめてレポートをファックスで送ろうと私も思ったことがあるのだけれど、「ファクス番号は教えられません」。転送もしてくれないという。
渡辺己さんが公開されている学生のレポート採点結果[PDF]を見ると、その提出率の低さに呆れる。お金を出している人はこれを見て怒らないのか? 合格通知を出した以上、学生のレベルを受け入れた上で、学費を負担する人の期待に応えなければなるまい。
いろいろ話を聞いたり、ちょっと顔を出してみた限りでは、中堅大学より並の専門学校の方が教育機関としてずっとまともな状態にある。何が違う? 学生の質ではない。大学が抱える問題の根源は「授業に出ずとも単位は取れる」「授業中も教室は出入り自由」「履修の自由度が高い」この3点だ。
大学改革私案を書く。
3年前期までは月曜から金曜まで午前中は全て必修科目と専門科目でビッシリ埋め、空きコマを作ることを認めない。午前中の全講義で出欠を厳しく取り、講師の特別の許可なしに授業中の入退室を禁じる。必修科目は2年後期までに全て履修できる仕組みなら、3年4年と2度の再挑戦の機会があるから卒業にも不都合ない。
平日は毎朝決まった時間に登校して授業に出る、そういうシステムにすることが大切だ。1年前までは高校へまじめに通っていた人を、なぜ大学は堕落させるのか。専門学校を見よ、授業への出席は「当たり前」になっている。学生の資質ではなく、大学の教育システムに問題があるのだ。
文系の学部教育を覆う奇妙な倫理観(2007-03-07)やレポート課題の出し方(2005-09-10)の問題意識とも重なるが、自縄自縛から脱却し、愚直に教育成果を追求すれば(かなりの部分)解決できるであろう問題は多い。個人の努力は認めるが、なぜ教育システムに手をつけないのか。
小学校で「学級崩壊は生徒の自己責任だ」といって許されるか。ブックオフ社長橋本真由美の「最強の現場の創り方」(日系ビジネスオンライン)にある通り、大人が集まって構成する民間企業だって、適切な管理体制がなければ堕落する。卒業間際のドタバタは、大学が夏休み中の小学校と大差ない学生管理しか行っていない以上、必然だ。
一連の記事群へのリンクは末尾に。
3月8日に応答をいただいてからしばらく間が空いたのは、どうにも私の思うことをうまく書けなかったから。とりあえず以下の書きかけの文章をしまいこんでおくのももったいないような感じがするので、これを公開して、この話題は棚上げにします。
左近さんが「人格」というキーワードを抽象的なレベルでどう定義されているかは、たびたびのご説明のおかげでよくわかったのですが、そこから具体例を引き出すことが難しい。私が「人格の否定ってこんな感じ?」と提示した事例がことごとく「それは違います」と退けられていますよね。
「えっ!?」と思ったのが、「女はやっぱり感情の動物だな。これだから困るんだ」というセリフ
の解釈。私が付した状況説明を斟酌して、かなり寛容な立場を表明されています。左近さんがそこまで周辺事情に配慮して判断を下されるならば、
知り合いが「あんたは天王星人だから人の話を聞かないで、話し下手なくせに自分の事ばかり話す」と言われて激怒していました。「自分の事ばかり話すのはあいつなのに。しかも天王星人だからとか言われたら、自分ではどうにもできないだろ!」と。
この事例を問題視する理由が見えません。私の狭い体験を振り返るに、これは典型的な「一時的な感情の暴発が招いた軋轢」のシーンです。
この後、仮に暴言を吐いた人が「天王星人だから」を理由に左近さんの知人と話をしなくなったとしても、それは衝突の経験があったからこそ。他の天王星人とは、当たり前のように話をしているに違いない。つまりここで「天王星人」は、「なぜ対話が失敗したか」という問いに対する当座の仮説に過ぎません。
一人の新人の嘘が、他の新人の信用まで落としたケースの解釈にも、疑問があります。
いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする例は、書類の数字を「検査」しているのであって、人格を検査しているのではないと思います。
……おっしゃることはわかります。しかしこのケースでは、数字の検査=信じられる人間かどうかを確認する作業、なのです。模範囚の仮出所が早まるのと同じこと。
ともあれ、あれも違う、これも違う、とするならば、一体どこに人格の断定がまかり通っているのでしょう? 血液型占いにせよ何にせよ、規制するほどのことなのか。
被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)
先験的に女性やAB型の抗議が無効判定されるケースがどれだけありますか。偏見の影響がゼロという事例は、なるほど少ないかもしれません。しかし抗議が却下された主要因が、本当に「女性だから」「AB型だから」なのか、疑問に思うのです。
私が問題の発生頻度を気にするのは、その対処方法として「広範な規制」と「個別に対応」という選択肢があるからです。人の生活に「当座の仮定」は必要不可欠で、オカルトの存在意義はそれなりに「ある」という立場を私はとります。だから広範なオカルト規制には、それに見合う十分な法益がなければ賛成できない。
科学と倫理について。コメント欄に書くようなスタイル(=この備忘録だけ読んでいる人には意味不明な書き方)で、ほんの少しだけ。
なお、ご要望は拝見しましたが、今回もトラックバックしません。
備忘録の記事として面白いのは第2回。単体で読めます。ひとつこういう記事を書けたので、個人的には満足かな。
成田山新勝寺は平将門の乱を平定するために西国から連れてこられた不動明王像をおまつりするための寺。現世利益追求の権化というか、その目的で建てられたお寺であって、今でも交通安全祈願専門のお堂があったりするわけなのですが……お坊さんの説話は明らかにそれと矛盾していましてね。
おおよそ苫米地英人さんの説明と同じ路線なんですね。つまり現世利益追求は御釈迦さんの主張と違う、と。ええ〜っ!? てなもんです。マスコミもたいへんだけど、宗教の世界もたいへんだな、と今になって思う。教義も大切だけど、お札やお守りも売らなきゃ布教の拠点を維持できない。
でも、どうなんですかね。新聞は売れなきゃどうしても存続できませんが、宗教は身一つでもどうにかなるのではないか……いや、お坊さんも霞を食って生きていくわけにはいかないのですが。
これが趣味のブログらしい。どういうモチベーションがあったらこんなのを作れるのだろう……。
よくわからないのが写真の調達手段。全部どこかから持ってきた画像を加工しているのかと思っていましたが、どうしてもその元画像を発見できないケースが多々ありまして。とすると、相当数の画像がご自分で撮影されたものだろうと思うわけですが、どれだけ広い家に暮らしていらっしゃるのかと。
ともかく素人離れしたデザインで、やっぱり何百万人もブログやってるのだから、すごい人もいるもんだよなー、と。
最近の若い人は自室に固定電話を持っていないことに関して。
固定電話がないと銀行の口座とかクレカとか作れないとか聞いたけどなあ。
固定電話のある職場に勤めている場合、勤務先の電話番号で作れます。というか、作れました(三菱東京UFJ銀行)。最近は固定電話がない人が多いので、いろいろ融通を利かせるようにしてるみたいです。
関係ないけど、携帯電話普及前のテレビドラマを見ると、職場の電話を私用に使いまくりで面白い。正直、信販会社からの電話を会社で受けるだけで私なんかドキドキものだったのに、職場から恋人にデートの約束を取る電話をかけるなんて。そういうのがフツーになってる職場というのがよくわからない。
バイト先でもそんなとこ、見たことないぞ。「愛という名のもとに」ではその職場というのが学校の職員室。何となくシュールな印象で、そういう余計なことが気になって、おかしかったです。
連想でもうひとつ。映画「単騎、千里を走る」はいい映画だったんだけど、主人公の高倉健さんが持ってる携帯電話とデジカメの電池がやたら長持ちするというか、やたら酷使しているのに、どんなに使っても電池がなくなったという描写が出てこない。何だかミョーに気になって仕方ありませんでした。
無断リンク問題では、現在、リンクする側にフリーハンドの権限が与えられています。相手が何をいおうが、リンクすること自体は自由。法律上、そうなっているのです。しかし社会通念上は、「相手の嫌がるリンクは非推奨(≠禁止)」という留保がつくのではないか。
現行法はリンクする側の良識を信頼していますが、権利に安住して他人の気持ちに無頓着になる人が増えるなら、いずれ法律は改定されるでしょう。あなたが本当にリンクしたいときにリンクできる自由を守るためには、自律して無用のトラブルを避けることが必要です。
文化の摩擦や衝突を可視化するえっけんさんの活動は、霧の晴れない世界に地図と光を提供する役割を担っています。誰かが問題提起を行う意義はあるのだと思う。ただ、えっけんさんのバカ晒しを避ける慎重さを、フォロワーの方々もぜひ見習ってほしい。
えっけんさんのいう「NGワード」とは、必ずしも使用禁止といいたいのではなく「よく考えてから用いるべき言葉」といった意味合いだろうと思っています。
id:Forty-two さんは、無断リンクや不愉快な論評を避けたいならコンテンツを公開しなければよい、と。では、「万引きに困っている書店は努力が足りない。Amazon や貴金属店を見習って商品は倉庫やショーウィンドーの中に置けばいい」という意見をどう思われますか。
対策は「可能」で、実際にやっている人もいる。しかし対策の代償は大きく、全てのケースに適用するのは難しい。……こうした問題に対し、人類の歴史は、ひとつの解決策を見出しました。「ルール」です。
多様な商品展示形態が存在するのは、ルールによって「盗む自由」が排除され、リスクとメリットのバランスを柔軟に考えられるようになったからです。このように、ルールは社会的に自由を制限することでリスクゼロ志向の軛(くびき)から人々を解放し、社会全体の利益を最大化する環境を実現します。
小さな世界の弱いルールよりは、大きな世界の強いルールのほうが優先される。それはそうです。
しかし小さく弱いルールも、無碍に扱ってはいけない。小さく弱いルールで済むのなら、その方がよいのです。複雑な世界へ柔軟に対応していくためには「いざとなれば破ることが許されるルール」の方が都合がいいからです。
小さく弱いルールが大きく強いルールへ格上げされるのは、さしたる社会的利益もないのに小さく弱いルールを踏みにじる行為が横行し、傷つけられた人々の悲しみと怒りが立法者の共感を得たときです。多数派の共感は不要なので、案外、簡単にルールは変わってしまう。そうなってから反省しても遅い。
硬いルールで雁字搦めの窮屈で非効率な社会にしないためにも、自由の無駄遣いは慎むべきです。
階層を減らして1ボタン1機能を基本としている家電のユーザインタフェースは間違っている、という主張。私は間違っていると思わない。多数派の要望に応えているだけだろうと思う。無論、多数派は不満を持っているわけだけど、そこには「"ライト" バージョンの誘惑と罠」がある。
まあ、本当に家電のユーザインタフェースが間違っているなら、現在は弱小なメーカーにも大逆転のチャンスがあるということだね。あと最近は携帯電話なんかで複数のメニュー表示モードを用意しているものが増えつつある。そのあたりに突破口があるのかないのか、注目していきたい。
インプットの情報量とアウトプットの情報量
は対応しなければおかしいのでは、というご意見。
工学屋の発想では、別におかしくない。確率の高低を判定基準とすれば、少ないインプットから無数のアウトプットを取り出せることは決して珍しくない。100%の因果関係だけを想定すれば仰る通りの議論となるが、レアケースに類すると思う。
具体例をひとつあげれば、男女差というのはどうか。男性は必ず女性より身長が高い、といったら間違いだけど、平均身長が高いというのは正解。腕力が強い、皮下脂肪が少ない、寿命が短い、禿げやすい、とか何とか、いろいろいえるわけ。あなたは男性だから、女性と比べてこうなる可能性が高いでしょう云々。
私は血液型性格判断は間違いだと思うけれど、素人レベルでは否定できない理由はよくわかる。100%の断定をせず、「確率が高い」という捉え方をすると、個人的体験でその仮説を否定することはまず不可能だ。
名刺はバラ撒く物、という考え方は、以前は日本でもふつうだったと思う。1ヶ月に1箱も名刺を撒けない営業マンは無能だ、といわれたりして。便利な時代になったな。
ネットで実名を出すと天変地異が起きるぞ論(2005-06-27)で書いたように、日本ではリスクが過大評価されているんだよね。どうしてメリットの方はやたら過小評価するのだろう。電話番号から住所もわかったら便利ではないか。
日本では小倉秀夫さんの素朴な疑問は「バカ?」みたいな反応しか呼ばないようだけど、外国にはこういう考え方をする人がたくさんいるのだろうから、安直に否定するのはどうかな。異邦の地で、逆に自分がそういう対応をされたら悲しいでしょ。
そういう話ではなくて、例えば「あなたを訴えたいので連絡先を教えてください」という問い合わせに、「私の本名と住所はこれこれです」と提示する人が大半なら、そもそもこんなに実名・匿名論議は起きていないと思う。自分の発言に責任を取る覚悟があるかどうか、問題はそこではないか。
著名人ならペンネームでもいいというのは、出版社なりテレビ局なりを経由すれば、相当の事由があれば当人に連絡がつくからです。無名のネットユーザの場合、本名と住所を最初から明かしている人でないと信用できない、という意見は、その意味で理解できます。
オンラインブックマークされると検索エンジン避けが無意味になる、というのが「同人サイトのオンラインブックマークの危険性について」というサイトの主張であるところ、実際には「オンラインブックマーク禁止」の文字列が大量に検索されているのはどうしたことか、というご意見。面白い。
この「つれづれと思うこと」というブログでは、自らも同人系サイトを運営されている方が検索避けなどについて有用な情報を提供されており、バランスの取れた穏当な主張が展開されていると思います。お勧めです。
やおい系同人とかをやっていると、「気持ち悪い」みたいな罵言を受けることがあるという。私も現場を見たことがあります。「嫌なら見なければいいじゃない」「たまたま検索エンジンに引っかかって見てしまったのです」私はそんなのウソだと思いますけど、ここで「嘘をつくな」といっても水掛け論にしかならない。
なぜ認証制にしないのか、みたいな批判は当たっていない。現実社会でも、法律で区分されてはいないが、社会常識として棲み分けが行われている領域はいくらでもあります。ゴルフ場での服装マナーとかですね。場違いな人を空気の力で排除してうまくいくことは多いのです。
同好の士にはどんどん集まってきてほしい、でも望まないタイプの閲覧者は排除したい。その方法が果たして検索エンジン避けなのか……というと、微妙なところ。でもこれは管理人側ばかりは責められない。侵入者たちの万能の言い訳にされているのもまた事実だからです。場違いなところに入り込んだらすぐに帰ればいいものを、「うわー、キモイ、キモイ」といいつつどんどん読み進んで不愉快になり掲示板で文句をいう、頭オカシイ人が実際にいるのです。
原作者からサイトを隠そうというマナー、これも私は理解できます。二次創作の世界はお目こぼし産業。でもサイト間のリンクの張り合いは緊密だし、公式サイトはたいていつまらないからリンクを張る人が少ない。検索避けがマナーになっていなかったら、漫画やアニメのキャラクターの名前で検索したら、上位にくるのは軒並み同人系サイトになってしまいかねない。
やっぱりそれが著作権ホルダーに許されるとは思えない。隠せばいいってものではないだろう、という意見はわかるけど、実際には隠せばすむことも多い。
検索避けで著作権者が全くサイトにたどり着けなくなると考えている人は、まずいないはず。自分自身が、何らかのルートで同人系サイトに出会って、ファンになったりして自分でも作り始めたのだろうから、権利者が本気を出しても発見できないわけがない。それはわかっていて、せめて目障りにならないようにしようと頑張っているように見える。
「リスクはゼロになるけどお客さんもゼロ近傍になる方法と、リスクはあるけど1日1万ページビューの可能性もある方法、どっちを選ぶ?」こう問われた人に「前者を選べ」とアドバイスするのは酷でしょう。
意地悪するつもりがないなら、はてなブックマークのユーザらは、同人系サイトをそっとしておいてあげたらいいと私は思う。ブックマークするのは勝手だけど、人を傷付けてまですることか、と思う。知らなかったなら仕方ない。でも、わかっていてわざわざやらなきゃならないケースは多くないはずです。
自由を無駄遣いしていると、そのうちに制限されますよ。→無断リンク禁止派と闘う理由を問い直す:追補(2005-11-10)
前ブログで書いたけど、どうしても特定の相手からサイトを隠したいのであればパス制にするしかないんじゃないかと。しかしそれでも、申請してくる人が原作者でないのだと判断することは不可能ですよね。
同様に「SNS へ行け」という主張は違うと思うな。オフラインでの知り合い同士だけで閉鎖的にやるならともかく、ふつうはそれじゃあ寂しいので広く同好の士を募りたいわけです。mixi でも同人系のコミュニティ、たくさんありますよね。
でもそうした場所では、出版社の人とかが入り込む可能性を排除できない。同人系サイト潰しを趣味にしてるヘンな人も排除できない。「**のファンです、私もコミュニティに入れてください!」といわれたとき、安全性を審査をする方法がない。だからコミュニティを一網打尽にされかねないリスクがある。
パスワードとかで認証する仕組みなんて、そんなものです。ノーリスク路線なら閲覧者数はゼロ近傍で我慢するしかない。結局、程度の問題なのです。だったら、様々な「程度」のありようが認められていいと私は思う。
自転車の通行規則が変わるよ、という話題。
SANKEI EXPRESS では、警察庁の話として、現行法は遵守が困難な条文となっているので、実情にあった法律へ改正し規律ある自転車走行を実現したい、と報じられていた。私は今回の改正案、車道の真ん中をトロトロ走っているおじいちゃんは歩道へ誘導し、歩道を爆走する人は車道へ追い出す、合理的な提案だと思う。
その一方で産経新聞本紙生活面では以下の記事も。
自転車は本来、車道を走るべきですが、歩道を走っている場合も多く見られます。その際に前方から自転車が来た場合、どうされていますか。相手が歩いてくる場合も同じです。特に狭い道では片側に寄って、いったん停車し、前方を優先させるようにしたいですね。運転に自信がある人は、ぶつかるわけがないと思いがちです。しかし、荷物を持っていたり、天候が悪かったり、あるいは道のでこぼこなどでまっすぐ進めなかったりすることは、ままあります。
(中略)
現実を見ると、交通ルールさえ守られていないことが多いことがわかります。文部科学省の交通安全教育調査研究報告書(平成14年度)によると、小学5年生の6割近くが「並列走行」をし、5割弱が「道路の右側を走る」ことがあることがわかっています。また、ルール違反をする理由としては、約半数の子どもが「交通ルールを守らなくても事故になると思わない」と考えているのです。
注意が必要なのは、狭い道だけではありません。広い歩道の場合にも接触事故は起きています。「相手がよけるだろう」とか、「まっすぐ歩くだろう」とか思い込み、衝突してしまうのです。
警察庁は昨年12月に道路交通法改正案をまとめました。それによると、標識がない道路でも、児童(6歳以上13歳未満)や幼児(6歳未満)が運転する場合や、車道を通行することが危険な場合は、歩道通行が認められることになっています。しかし、「危険」の基準がはっきりしていないので、結局みんな歩道を選んでしまって、自転車対歩行者事故が増えることも考えられます。狭い歩道の場合、人を追い越す際には、自転車を降りて押して歩く必要が出てくるでしょうが、皆それを実行するでしょうか。
従来は警官自ら法律を無視せざるを得ない状況であり、さりとて法律違反の指導マニュアルは作れないから、全国各地で恣意的な指示がまかり通ってきた。中には極端な例もあって、「自転車はみんな歩道へ行け」とか、その逆といった混乱があった。おそらく新法施行後、警官の指示は合理的になるものと思う。
しかし問題は、やっぱり個々の利用者の意識なのだ。警官は20数万人しかいない。人々が警官に注意されない限りずっと身勝手を続けるのでは、事故は減らない。となると、世の中、変わらないだろうな、ほとんど何もね。
百家争鳴って感じで、被言及の多い記事。私もちょっと書こうかな。思い出があるので。
まず、以下の小学校国語の問題を読んでみてくださいな。
問題:次の( )にあてはまるものをア〜エの中から選びなさい。
その問題の解決には( )が折れた。
彼は( )が広い男だ。
( )があいたら、手伝ってください。
( )を割って話し合おう。
選択肢:ア.腹 イ.顔 ウ.骨 エ.手塾でこういう問題を小学生にやらせてみると、これはもう壊滅的にできません。「手が折れた」だの、「顔を割って話し合おう」だの、おそろしい文章を作りますよ、やつらは。おまけに、慣用句を知らないだけならまだしも、「そんな(『骨が折れる』とか『顔が広い』とか)言い方誰もしないよ!」と文句を言う子がかなりいます。誰もって誰だよ、アンタのクラスの小学生連中か? 小学生はしなくてもおとなはこういう言い方するんだよ。幼稚な表現力の人ばっかりに囲まれて「これが当たり前」と思い込んでいたら、アンタの言語表現は一生幼稚なままだよ! 表現の幅が狭いままだと、将来メールで人を口説くことも、入社試験で面接官に「この人を採ろう」と思ってもらうこともできないよ!……と叱ってがっつり覚えさせるんですけどね。
みやきちさんの勤務先は進学塾なんでしょうね。受験に参加するということは、希望して選別の対象となることだから、文句は合格してからいいなさい、ということになる。私がかつて関わったのは個別指導型の補習塾だった。みやきちさんも、そうした場では、別の感想を持ち、別の方法論を採用されたに違いない。
補習塾の先生に求められるのは、難しい問題を解けること、それを教えられることではない。だから中堅高校卒業くらいの学力で、小中学生は教えられる。時給900円程度のアルバイトで講師が間に合ってしまうわけだけれど、その代わり、他に求められていることがあったように思う。
国語の苦手な子は、当然ながら教科書が読めない。国語に限らない。算数も理科も社会科も、全部読めない。だからお勉強がつまらない。学校の授業は寝ているという。それでも、塾には来る。「どうして?」「だって塾の先生なら、少しは頭をよくしてくれると思うから」強烈だった。
個別指導塾というのは、1人の先生が2人くらいの生徒を同時に教える、集団塾と家庭教師の中間のような指導形態だ。しかし本当に手のかかる子に対しては、1対1のシフトを室長が独断で組むことがある。本来は追加料金なのだが、講師の手配の都合ということにするのである。
私が教えた中でも最も勉強の苦手な子の授業では、やはり1対1の環境が用意された。
指導マニュアル通りにテキストを進めるわけだが、前述の通り、まず問題文が読めない。だから問題文の音読から、授業は始まる。
「といいち、つぎのぼうせんぶのよみがなをかっこにかきなさい。はい、繰り返して声に出してみよう」
「といいち、つぎの……なんだっけ」
「ぼうせんぶ」
「あの、せんせい、いいかな」
「いいよ、いってごらん」
「でも、おこらないでね」
「わかった、絶対に怒らない。約束する」
「ばかにしないでね」
「ばかになんてするものか。ぼくは決して君をばかにしたりはしない」
「ほんとに?」
「お願いします、信じてください」頭を下げた。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
「うん」
「じゃあ、あのね……ぼうせんぶって、なに?」
この子は、中学3年になるまで、ずっとこの疑問を口にすることができなかったのだ。学校の定期試験で10点前後の成績なのも当然だった。しかしその子が、10年近い学業成績の低空飛行の中でなおも希望を失わず、塾にきちんと通ってくる。ちょっとうまくいかないだけで自分には向いていないと思って放り出す俺は何なんだ、と思った。この子は学問の神様だ、軽々に扱っては不敬になると感じた。
過去に何度か先生をチェンジした子と聞いていて、最初に「冬期講習で**君の国語を頼む」といわれたときは、わがままな生徒は嫌だなあと思っていた。でも違うんだな。たしかにこの子は非常に物覚えが悪い。同じ漢字を毎日覚え、毎日忘れていく。宿題だってやってこない。それで、この子が「頭をよくしてくれる」と信じた先生たちはさじを投げ、当人の前ではいわないが、他の場所でばかにしたようなことをいう。
塾の中にも友だちの多い子だ、地獄耳なのである。本当に愚かなのはどっちだ。担当を外されて「なぜだ?」と不思議がっている講師の方に決まっている。「また理由はダンマリだってさ。困るよな」裏切りの事実を室長に話さないのは武士の情けだと気付かない。恐ろしい話だ。
「ぼうせんぶというのは、漢字では傍線部と書く。傍は「かたわら」とも読む漢字で、そばにいる、ちかくにいる、みたいな意味なんだ。線は……(鉛筆で線を引く)……こういう線のこと。部は部分ね。だから傍線部とは、近くに線が引かれている部分という意味なんだろう、と予想できる」
「つまりここだね」
「仰る通りです」
「ほんとはさいしょからこれのことじゃないかとおもっていたんだ。でもなんでこれがぼうせんぶなのか、わからなかったんだよ」
ビギナーズラックか、私の説明の仕方に興味を持ってくれたようだった。
前置きが長くなったが、「腹を割って話す」について。
私が「思い出がある」と書いたのは、「腹を割って話す」を教えたことがあるからだ。それはこんな風だった。
「せんせ、はらっておなかのことだっていったね。なんで「はらをわってはなす」がほんねではなすといういみになるの?」
「うーん、そうだな、お寺に行くと仏像が置かれているのは知っているよね。奈良の大仏さんも東大寺というお寺の中にある。で、大きな仏像は、たいてい中は空洞になっていて、物を入れることができたりもするんだ。何を入れてもいいのかもしれないけれど、よく入っているのがお経でね、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時とか、お葬式でお坊さんが読み上げるの、あれがお経ね。仏教の大切な教えらしいけどふつうの日本人が読んでも何だかよくわからない。このお経、仏像のどこに入ってると思う?」
「あたまかな」
「残念、お腹の辺りらしいよ。だから胎内経とか胎蔵経と呼ばれる。胎内というのは漢字で書くとこうなって、赤ちゃんが生まれてくるところね。お腹の中のこと。生まれる前の赤ちゃんのことは胎児と書くのだけれど、ほら、同じ胎という字が使われているね。胎蔵というのは、蔵はくらとも読んで、大切なものをしまっておく倉庫のこと。お腹の大切な倉庫にしまっておくお経だから胎蔵経」
「なんでおなかなの?」
「どうやら昔の日本人は、大切なことはお腹で考えると思ってたみたいだね。例えば腹構えという言葉がある。こんなことが起きるかもしれない、と思って心の準備をしておくこと。頭構えじゃなくて、腹構えという。腹癒せという言葉は聞いたことがあるかな? ムシャクシャしてはらいせに放火した、とかね。自分が何か嫌な目にあったとき、他人に嫌なことをするとスッキリするという、人間のダメなところをあらわした言葉だね。ここでも腹が出てくる。はらいせの「いせ」は癒すと同じ漢字を使って腹癒せと書くのだけれど、お腹が癒されるというんだね。スッキリするのは頭じゃないかと現代人は考える。でも昔の人の場合は、お腹なんだ」
「はらがたつっていうね。ジャイアンが」
「そうそう! 頭が立つっていわないんだね。腹が立つ、という。怒ったぞ、という意味だね。ちなみに腹が太いといえば度量が広い、人間が大きい、度胸が据わって思い切りがよい、といった意味になるし、腹に持つといえば根に持つ、いつまでも恨み続ける。腹に収めるとなると意味が変わって、気持ちを飲み込んで表に出さないこと。持ったものは手放すことがあっても、収めたものはそれきりという違いがあるのかもしれない」
「はらがすわるということばはないの?」
「立つの反対の座る、だったら、ないんだ。違う漢字の腹が据わるならあって、心が定まって、気持ちが揺れない状態をいう。腹が据わった人、というと、臆病の反対、肝っ玉が太い人、みたいな意味だね。この「据」という字は、据え付けるといった言葉でよく使われていて、どこかに置いて固定する、みたいな意味。お腹、つまり考えを固定するから、腹を据える、となるのだろうね。さて、腹を割って話す、なんだけどね」
「うん」
「腹に一物、という言葉がある。お腹に一つの物がありますよ、これが、何かたくらんでいる、という意味。お腹の中のものは、ふつう、見えないわけだ。だから、何かあるぞ、と思っても、見えないとそれは悪い方に想像されたりしちゃうのだろうね。だから、お腹を割って中のものを見せたら、相手は安心するだろう。あと、お腹の肉で隠さずに直接見せちゃうわけだから、本音を見せるということだね。というわけで、腹を割って話す、が本音で話すといった意味になるわけだ」
「せっぷくというのもかんけいあるのかな」
「あるかもしれないね。ヨーロッパ人は王様とか貴族とか偉い人でも首を切って処刑したんだね。日本だと誇り高い死に方を認められた人は、お腹を切った。実際にはお腹を切ったって、簡単には死ねない。だから結局、お腹をちょっとだけ自分で切ったら、介錯人という人が首を切って本当に死なせる。自殺すればいいなら、自分で首の動脈を切ったらいい。じゃあなぜお腹なのか。やっぱりお腹が大切な場所で、自分を殺すというのは、お腹を切ることだったんじゃないかな。実際に命を絶つなら頭が問題だって、みなわかってた。わかってたけど、ほら、今の人でも頭より心が大切だ、っていうじゃない。で、心は胸にあると思ってる。ちょうどそんな感じで、頭より大切な何かがお腹にあると思っていたのだろうね」
「いやー、すごいね、いろいろかんけいあるんだねえ」
「そうなんだよ! 腹を割って話す、という言葉の中には、日本人が考えてきたことがたくさん詰まっているんだ」
思い付きを話しただけなので、非常にいい加減な内容だと思う。胎内経も切腹もこじつけだ。でも、この授業は非常に食い付きがよかった。私のことを大嫌いな生徒もいたし、単なる相性の問題かもしれないが。
驚いたのは、冬期講習の最終日に( )が黒い/痛くもない( )を探られる/( )を読むの3つのカッコに共通して入る漢字を選びなさい、という問題に見事正解したこと。こんなの、腹が考えや気持ちを表す言葉だと知っていたって難しいでしょう。でも、解けちゃった。さすが学問の神様だ。人を見限る悪癖のある私にガツンと一撃を加えたのだった。「お見逸れしました」深く頭を垂れた。
個人的に、**ができたら幸せになれる、という言い方は避けたいと思っていた。なぜなら、やっぱり全員がテストで満点を取れるようにはならないからだ(一撃を食らっても全然改心していない)。トップクラスへの展望がない、底辺で悩む子どもに功利主義で勉強の意義を説くのは、残酷ではないか。彼らはその果実のほとんどを手にできないのだ。向学心を最後まで支えるのは、学ぶこと、それ自体の魅力なのだと私は信じる。
いま子どもたちが表に出している感情は様々であろう。しかし本当に授業に絶望しているなら、この子はここにいない。宿題をやってこない? 筆箱をしょっちゅう忘れる? だから何だというのだ。生徒が教室に来たら、あとは教師の仕事だ。授業が面白ければ勉強の道具は忘れにくくなる。「しまった、やすみじかんにえんぴつをけずりわすれたー!」本気で悔しがるのだ。黙って鉛筆削りを貸す。
許せるレベル(2007-01-09)で私はこう書いた。
水素を燃やして「これが水爆の原理です」といってる理科教師がふつうに存在する状況さえ、私は許容しています。その程度の科学的知識の欠如は、小中学校で理科を教える者として致命的でないと考えるからです。漢字を書けない国語教師、47都道府県がいえない社会科教師、いろいろいましたが、みないい先生でした。
彼らは優秀な子をいっそう高いレベルへ引き上げるには不適な教師かもしれないが、いい加減であるなりに、多くの子どもを善導してきたと思う。もちろん水爆の原理と水素の燃焼は全く別の事象だと知っているべきで、漢字も知識はあった方がよく、47都道府県くらいいえないのは恥ずかしい。でも、瑣末なことだと思う。
1対1で向き合って1日に90分ばかり全力投球するだけで私はヘトヘトだった。先生方は、毎日200人以上の生徒と6時間も対峙していた。それぞれの担当教科に興味を持たせ、相当その科目を苦手とする生徒にも試験前に「捨て科目」扱いをさせなかった(例外はあったろうが……)。超人的な働きだったと思う。
rir6 あらため sjs7 さんの新ブログだそうです。それにしても、yosiyama さんが新ブログを始めたときもそうだったけど、すぐに発見されてしまうのはどういうことなのだろう。私がレンタルブログで名前を変えて書いていても誰も見つけないみたいなのですが……。名前の問題なのか。
もうあまり覚えていないのだけれど、名が売れ出した頃の分裂さんは、まずパンチのある主張を提示し、続いてそれをひっくり返す、といった一人漫才のようなテキスト芸が特徴的だったように思う。それを見て、「全部ネタなんだな」と思った人は多かった。
でも、これは後出しジャンケンだけど、私はちょっと違う印象を持っていた。たしかに話の結論だけ見れば180度逆転しているかのように見える2つの記事だけど、よく読めば後発の記事は先発の記事を決して全否定していない。だから「分裂さんのホンネはどっち?」という疑問の答えは、「どちらも真実を含んでいる」ではないのかな、と。
しばらく更新が続く中で、この見立ては間違っていなかったな、と思うようになった。ここしばらく、過去の記事を参考リンクするケースが多い。相反する主張と読者が捉えた複数の記事にも並列でリンクして、A方向に極論すればこうなり、B方向に極論すればこうなる、と一言添える。今回の「プロフィール欄の秘密」はダメ押しの一撃。
ところがその後も、「全部ネタ」という前提に基づく感想コメントが絶えない。面白いのは、「分裂君の記事は全部ネタであるべき」という主張もあること。「最近はネタ性が落ちて中の人が見えちゃってる。パワーダウン気味?」みたいな意見がその代表だけど、まあ、期待するのは勝手なんで、別にいいわけですが。
平均よりも3割知能が劣る者を隔離せよと主張する者は、IQ152の筆者から見て共存不可能な人々である、という皮肉……なんだけど、多分、IQが低い人を本当に排除してしまうような社会では、IQが高すぎる人も共存不可能と判定されてしまうのではなかろうか。
というか、現に「賢い人」の意見って、当たり前のように排除されてるように見える。もちろん「ふつうの人」が理解できる範囲では持ち上げられていたりするのだけれど。「本当に賢いならオレたちを説得するくらい朝飯前だろ?」という思い込みが蔓延しているんだよね。「バカ」は説得できない、って「ふつうの人」でもよくご存知のことと思うのだけれど。
「バカ」は絶対値で判定すべきで、相対的な問題じゃない、という認識なのかもなあ……。
リンク先の記事では、一般人のIQからの相対値で知的障害の判定がされている、という現状認識から、IQ152を起点として考えれば……と展開しますが、ここに罠がありそう。つまり「一般人のIQを3割引した値」が排除の「絶対基準」だとすれば、「たしかにオレたちはあんたと比べりゃバカだけど、基準をクリアしているのだから排除されるいわれはない」といえる。
ところで、リンク先の記事は用語が不正確だとかいろいろ批判されていますが、筆者は寓話を書いているのだから、「すっぱい葡萄」のお話を読んで「狐が喋るわけないだろ」というようなものかも。実際に知能指数を基準に差別しようってワケじゃない。
まあ、それをいったら私の感想も似たようなものですけど。
ふだんは表に出てこないけれど、仮想世界のデザインチームにはちゃんと経済学畑の人も加えられているんだなあ、と感心した。あと、基本的に経済の専門家なんて表に出ずにすむ世界の方がいいのかもしれないな、とも思った。便りのないのはいい便り、じゃないけど。
とまれ、ざっと読んでみましたが、「そうか、インフレというのはやっぱりこうして鎮圧するものなんだなあ」と。自在に商品の供給を増やすことができるあたり、さすが仮想世界という感じで面白いです。
文系は大変だな、と思った。理系のふつうの学部生は先生の示すテーマから好きなものを選ぶだけだから、気楽でよい。
私の出身学科では、研究室紹介が研究テーマのガイダンスになっていた。「うちの研究室に来たらこんな研究ができるよー、楽しいよー」と先生や院生が説明する。
先生はいろいろやりたいことがある。でも10個の研究テーマがあっても、学生が5人しか来なかったら5つしかできない。だから、いかにその研究テーマが魅力的かを説明するのに必死だ。そんなわけで、3年生向けの講義では、雑談に絡めて研究室の宣伝をする先生がちょくちょくいた。長期計画で勧誘しようという作戦。
院生が必死なのも同じこと。学生1人では荷が重い研究は、院生+学部生(1〜3人)というチームで取り組むことになる。学部生が集まらなかったら研究は進まず、自分の卒業が危うくなってしまうのだ。これはもう決死の覚悟で勧誘活動に勤しむ他ない。
ちなみに私の出身学科では、工学部にしては珍しく、卒論を書かなくても卒業できることになっていた。卒業研究が6単位で、選択必修科目のカテゴリにある。じつは選択必修カテゴリはちょうど6単位まで「選択しない」ことが可能となっており、卒研に失敗しても他の科目を全部取っていればOKというわけ。
ところが、選択必修科目は大学が卒業生の品質を保証する肝心要の科目であるから、試験の成績が悪ければ容赦なく不可となる。卒研以外は全て2年次に履修できるようになっており、3年・4年と2回の再挑戦で突破できれば無事に4年で卒業という、非常によく考えられたカリキュラムであった。
そんなわけで卒研は、じつのところ「どうしてもクリアできない選択必修科目があって泣きそう」な学生にとっては福音ともなっていた。先輩の面倒見のいい院生と共同研究になる研究室は、一種の駆け込み寺ともなったわけだけど、足もとを見られて(?)こき使われる結果となる者もいた。
逆に2年次に選択必修を全部クリアしたような学生は、大きなテーマに何の不安もなく飛び込んでいくことができる。仮に研究がまとまらなくても卒業に問題はないし、最初から院への進学を前提に3年計画を立てることも可能だった。
文系の仕組みはよく分からないが、卒研が必修科目でないなら、辻さんのように厳しいことをいっても問題ないのかもしれない。
でも文系にだって、いろいろな人がいるはずだ。与えられたテーマに取り組むのが得意、という学生の個性だって尊重されていいのではないか、と思う。何というか、辻さんの文章を読む限りでは、文系って大学のサービスが悪いなあと感じる。多様性がないし、学生のやる気を引き出す仕組みが乏しい様子。
そもそも先生の方に学生の面倒を見るインセンティブがないのが大問題だ。ヘンな倫理的制約があって、学生を先生の手足としてこき使っちゃいかんみたいなことになっているのだとしたら、もったいない話だ。理系の研究室のサービスがいいのは、先生は学生を、学生も先生を必要としているからだ。
頭の中だけで考えると搾取の図が浮かんでしまうが、それを防ぐのは難しいことではない。私の出身学科では、搾取を排除するためにひとつのシステムが導入されていた。
一撃必殺だ。これが明文規則だったのか不文律だったのかは分からない。けれども実際にこのように運用されていたので、学生が奴隷にされちゃうことはなかった。「あそこの研究室はやめといた方がいいよ」とか情報はガンガン入ってくるし、一度決めた研究室を移ることもできた。
こんな研究をしたい! という希望のある学生は、教授に相談すると、きちんと対応してもらえる。というか熱烈に歓迎される。「こんな学生を待っていた!」って心の底から思うらしい。だから先生方は、そうした学生に相談をされるような人物になるべく、努力していたりもする。
コピペレポート問題。ネットで調べてコピペすれば足りるレポートには、「それで結構」というケースも多いと私は思っている。
私が受講した化学実験実習のレポートは「1.実験の原理 2.実験の内容 3.実験結果 4.考察」の4章構成にせよとの指示だったが、1.の部分は図書館で借りた本のお世話になるのが常だった。実験後に図書館へ行くと、もう他の人に本を取られてしまっている。だから実験前に本を借り、予習としてレポートの1.を仕上げるようになった。すると俄然、実験が面白くなる。「読むだけ」の予習とは段違いだった。
コピペが困るなら「手書きのみ」という制限をつければいいのだ。どうしても筆写が不愉快なら、レポート用紙を配布して、「手書き」「片面のみ」「空白行は3行以内」と制限をつければよい。単なる筆写では行が足りなくなったり余ったりするに決まっていて、自分なりに資料を再構成する必要が出てくる。
調べモノじゃなくて自分の頭の仲の何かをアウトプットしてほしいなら、授業時間を割いて教室で書かせるべきだよね。多忙で休講になってしまうような日を使う。前週の講義の最後に「来週は**というテーマでレポートを書いてもらいます。持ち込み不可。提出用紙は当日配りますが、これまでの講義の内容をよく復習して文案を練っておくように」そして当日のレポート監督は研究室の学生をバイトで雇う。
この程度の工夫の余地はあって、実践例もある。真似してやってみてはどうか。
私の知る多くの学生はまじめだけれども、よく考えて無意味と思ったことは平気でサボる。コピペでレポートを構成するのは、コピペなしで作成したレポートと比較して、クオリティに差がないという判断があるから。私が本の筆写でレポートを作ったのは、それが最高品質のレポートを作成する方法だったからだ。
自分の言葉で語りなおすことに意義がある? 私は「ある」と思ったときはそうしたし、「ない」と思ったときはそうしなかった。初めて知るようなことをド素人が語り直してどうする? 自分なりにいろいろ学び咀嚼できているつもりのことなら、語り直しは面白い挑戦だった。
本当に考えなしの学生もいるかもしれないけれど、少なからずはそうでもないと思う。
もちろん、人の心は弱い。レポートの手書き指定は、先生の親心と思って感謝した。プリントアウトしたものでいいよといわれていたら、筆写の手間が持つ学習効果をよく分かっていながらも誘惑に負けていたかもしれない。だから出題者のちょっとした仕掛けは意味がある。
そして教師の様々な工夫は、お説教より雄弁に「いま君たちに何を学んでほしいか」という意図を伝えていくことになる。「文献を調べて知識を吸収せよ」「学んだことを再構成して語り直せ」「自分の中にあるものを吐き出してみよ」
こうした語りかけの積み重ねをサボっていながら、「なぜ分かってくれないんだ?」と首を傾げる人は滑稽である。
大学で何を学んだのか、何を学びたかったのか、小一時間問いつめたい。
卒論テーマを外注しようとする考え方に辻さんがぶつけた言葉がこれ。
学生はそりゃ当然、好きで試験を受けて入学してきたわけで、何かを学びたかったには違いない。でも、「卒論のテーマは自分で発見すべき」というテーゼは、どれだけ普遍性があるのかな、と疑問に思う。
専門学校と大学は違う、という主張は分かるけど、辻さんの期待するような学生像だけが「正しい」のだろうか(多様性の問題)。そして辻さんの基準では専門学校と大学の落差は非常に大きなものとなっているのだけれど、中間の領域はどうなってしまうのだろう?(水準の問題)
とりあえず理系学部の教育について、文系学部の人はもう少し参考にしていいと思う。辻さんらが死守しようとしている何かは、理系学部ではアッサリ反故にされている。それで学生は堕落しきっていますか? 大学が大学でなくなっていますか? そんなことはない、と私は思う。
卒論のあり方はもっと多様であっていいし、講義のやり方やレポートの出題方法だってもっと研究されていい。
卒論のテーマは学生が見つけなきゃ無意味なのか、レポートは筆写じゃダメなのか、それを誰も疑わないのが文系学部なら、私はホント、文系科目の方がずっと得意だったけどわざわざ理系学部に進学してよかったなあ、ということになる。
辻さんのご意見自体は、よくわかる。ひとつの理想を語るのは決して悪いことではないし、その際、いちいち多様性への配慮がどうのこうのなんてやってはいられない。だから私の文章は、辻さんに対してはイチャモンかもしれない。
私が本当に嫌だなと思ったのは辻さんの記事の反響。はてなブックマークのコメントなど。ひとつの理想が、唯一絶対の理想になってないか? と不気味に感じた。過去に何度もあちこちで話題になったコピペレポート問題も、「それはひどい」みたいな反応ばかりが目立っていたと思う。
著作権者に一定の補償金を支払えば許諾がなくても文書をネットに保存・公開できる仕組みを検討する。
とのこと。私はこれ、不可能だと思ってた。だって私権の制限でしょ、財産権の侵害に関わる問題だもの、そう簡単には……と。でもサラッときましたね。すごいな、これ。
2008年の通常国会へ法案を提出したい考えだという。待ち遠しいな。まあ、誰でもお金さえ払えばOKということには絶対にならない。公共目的の云々ということになるのでしょう。でもね、「許諾がなくても」という新しい状況が生まれる、これは著作権のあり方を変える重要な転換点になる可能性があると思うのです。
単なる例外規定の追加に終わるのか、著作権者の神性を削っていく第一歩となるのか、それはまだわからない。けれども、まずは応援したいです。知的財産戦略本部には期待しています。
ここ1年くらいの知財本部の調査会で絶版書籍の扱いについて議論した様子はなく、いったいどこで誰が著作権法を改正する方針を固めた
(日経)のか、疑問に思う。記事では主語が政府
となっているのですが……。
自宅のパソコンに MS Office は必要ないな、と思って Office2003Pro をオークションで売った。最近は OpenOffice.org(OOo)もけっこう使いやすくなっているというので、それでいいだろうと思っていたのだけれど……いけませんねえ、どうにも。
私は VBA も使わないし、機能面で多くを求めるつもりはない。けれども、やっぱり MS Office との互換性は十分にほしい。MS Office で作った文書を開いて編集し、再び MS Office で開いて全く違和感がない、Office 代替ソフトにはそれくらいのレベルを期待せずにはいられない。
会社には Office2000 と OfficeXP と Office2003 があって、その微妙なユーザーインターフェースの違いだけでも混乱しがち。そのうえ OOo のような、かなり操作感の異なるソフトウェアは使いたくない。頭がパンクしそうです。
ようするに私は廉価版 MS Office がほしいのです。でもマイクロソフト社がそんなのを発売しないことはわかりきっています。だって売れないんだもの。Windows Vista も Home Basic は売れてないそうだし XP も Luna ユーザが大半ですよね。
でも、ニッチな市場を狙ってくる企業があってもいいのでは、との思いを捨てきれない。MS 動かなくとも、別の企業が作る真似っ子製品に期待する道が残されています。
Google が提供する、一部で話題の無料サービス。低速回線では使い物になりませんでした。あと機能的にもシンプル過ぎます……。
というわけで、ローカルにインストールするタイプの製品をいろいろ試してみましたが、断然よかったのがキングソフトのもの。OOo とは比較にならないデータ互換性の高さ、そして操作感までそっくり。インストールサイズも小さくて場所をとらないし、サクサク動いていい感じ。
この @IT の記事には(筆者の書いている通りリアリティを度外視すれば)共感するところが大きい。「中国発のパクリソフト」という批判もあると思う。この会社のセキュリティ対策ソフトはウイルス検出率が低いことで有名だったりする。でも私はキングソフトオフィスを応援したい。
キングソフトオフィスは、たった10万本売れたら万々歳という商品です。MS の商売を邪魔せず、お互いに市場を補完しあえるのではないか。MS Office を「値段が高いから」という理屈で違法コピーして恥じない人々から、言い訳を奪う力があると思う。そういったところに浸透していくのではないか。
ちなみに私は、会社では時期をみて Office2007 を買ってもらうつもり。試用してみたらすごくよかったから。OOo とは比較にならないレベルでユーザーインターフェースが違うじゃないか、といわれそうだけど、使ってみればわかりますって。間違いなくこれは MS Office の最新版、他の何者でもない。
XP や Vista でも MS は見た目をガツンと変えてきたけど、消費者はついてきた。こんなに変わっていいならどうして Linux や Mac に移らないの? という外野の声があったけど、ユーザの実感は違う。Mac は大学で、Linux も入社後1年ほど使いましたが、OS9 や OS X にはイライラが募るばかりだったし、GNOME もとうとう慣れませんでした。(KDE はかなりよかったけど試用機でちょっと使うことしかできず……)
IE7 もインターフェースがガラッと変わったソフトだけど、なぜか母はたったの3日で対応できてしまった。不思議です。Firefox の方がよほど IE6 に似てると思うのだけれど、母は乗り換えませんでした。MS スゲーと感心した次第。自分もその後、Office2007 で同様の奇跡体験をし、MS の底力を実感させられました。
奇妙な話ですよね。操作感の互換性が魅力でキングソフトオフィスを使い始めたくせに、Office2007 を気に入ったりして。それでいて @IT の記事に共感したりしてる。支離滅裂。
そのようには生きられない(2007-03-02)とインド人の神様 そのようには生きられない・2(2007-03-04)の続き。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。
これは私の記事へのブクマコメントで紹介された血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性(左近さん)という記事の一節ですが、私にはピンとこなかったのです。そこで、いろいろ思いついた話を未整理のままどんどん書いていって、違和感のディテールを明らかにしていこうとしたのが前回・前々回の記事です。
私は左近さんの文章の一部にインスパイアされて頭の中に湧き出てきた文章を書きとめただけなので、対話は成立していない。でも形式的には左近さんに話しかけるスタイルを採ったので、左近さんが気になってしまうのは当然。ご迷惑かけてすみません。
以下も「応答」にはなっていないと思います。読書しているときの頭の中を公開しているようなものです。別に左近さんを説得したいわけではない。自分の中で問いと答えをグルグルやっている、その過程の記録なのです。
あらためて左近さんの挙げた3条件を検討したい。
これは事実に反する仮定という意味かな。人はたいていのことについて事実を確認できないので、結果的に間違っていた、というのは仕方ないだろうな。せめて、ほんの少し謙虚に世界を見つめるだけで間違いとわかる仮定を排除すること。それは大切だと思う。
ただ、どんな場合にもこれはダメだといってしまうと、占いなんか全滅してしまう。占いの類はむしろ、無根拠であることに存在意義があるという側面があるわけだから。そういう文化領域もあって、私はそれも大切なものだと思ってる。だから(1)の否定は(3)との組み合わせの中で考えないといけない。
これは星座や動物占いの動物(生年月日で決まるらしい)のことですかね。身長などもこの範疇かな。多少の努力はできることだけど。
企業経営者の平均身長は、一般人の平均身長より高い。標準体重より太った女性は給料が安い。これは外見が人事担当者の判断に影響しているためだ……というのだけれど、本当かなあ、と思う。身長や体重と仕事の能力の間には一定の傾向が見られるのかもしれない。仮にそうだとした場合、生まれつき頭のいい人と悪い人の待遇を同じにすべきなのか? という話と相似形になりますよね。
大阪人は怒りっぽいという意見がある。経験上はピンとこないのだけれど、とりあえず関西出身の人を相手にすると、少し慎重になる自分がいる。データもないのに行動を変えているのだから偏見そのもの。いや待てよ、怒りんぼ指数を比較すると大阪は東京の3倍とかいうデータがあっても、これは偏見になるのだろうか。
これも(3)との組み合わせの問題かな、と思う。
左近さんが書かれた「人格/思考様式/言動」を読んでも、「人格」とは何か、よくわかりません。とりあえずその点は保留して「断定的な評価」を考えるに、「人格の断定」なんて滅多にお目にかからないのではないか、と思うわけです。
「**だからって決め付けないでほしい」みたいな意見をぶつければ、みんな「仰るとおり」と返します。「Aならば100%B」といえることは少ないと、誰もが知っているといってよいでしょう。けれども表面的な言葉を見れば、これまた誰もが100%の断定表現から逃れられない。
これは矛盾ではなく、複雑な世界を複雑なまま語ることの困難さ、「当座の仮定」の必要性によるもの。だから100%の断定表現を用いていても、真意は異なると読み解くべきではなかろうか、と私は思う。
血液型を人事の参考にする企業を批判するいんちき心理学研究所の記事は煽り過ぎ。社員の適性を無視して血液型だけで人事する企業は市場に淘汰されます。その企業が儲かっているなら、穏当にやっている証拠。
占いは人が信じることを前提に存在しているもの。私は(左近さんと違って?)占いを全否定しない。だから「信じる」の程度が問題であろう、と考える。ただし表面的な言葉のレベルでは断定表現が使われることもあってよいと思う。「天王星人はいま大殺界なんだって」という人は、天王星人の可能性を全否定しているか?
数ある占いの中でも、もっとも信頼度が低いものとみなされているのが御神籤だろう。たまたま選んだ札に書かれていたことに、何の意味があるのか。いや、意味はある。この全くの偶然の中に「縁」を見出すのが日本の文化です。ただ、これを深く信じる人はまずいないといっていい。タロット占いも同様。
生誕時期と性格の関係はどうだろう。少しは何かあるかもしれない、と人は思う。動物占いや星占いは、御神籤よりは信頼されていて、その分、危険度も高いものと見積もられているのではないか。でもだからといって動物占いが示す今日のラッキーカラーは、生誕時期との関係にしては話が具体的過ぎるとみな思っている。
血液型は科学的検証によって性格との関連が既に否定されていますが、一般人にとっては出身地域と性格の関係くらいに(あるいはもっと?)信じられている。
さて、実際にはA型だからといってまじめな人が多いわけでも少ないわけでもないのだけど、「多い」と思っていて何か不都合があるのだろうか。A型にだって不真面目な人はいる、とわかってさえいれば、別に問題はないと私は思うのです。つまり安直に100%の断定をしなければいいのではないか。
では、100%の断定はどうしたら避けられる? 現実をよく見たらいいんですよね。血液型性格判断が間違っているということまでは、素人には判断できないでしょうが、「O型は大雑把でのんびり屋」といった評価が「当たったり外れたりする」ことにはすぐ気付きます。(1)’
結局、(3)から転じて(1)’がポイントなのではないか、と思うのです。ここで再び(3)に戻って、現実をよく見ている限りにおいて、「当座の仮定」に基づき断定的な表現を使うことも私は妨げない。それは言語コミュニケーションに事実上、必要不可欠な省略だと思うからです。(3)’
私は現状について、さして問題があると思ってない。啓蒙活動は極端な事例のモグラ叩きで十分。血液型は性格に影響するとか、星座と運不運に多少の関係はあると思っている一般人は放置でよい。人は「当座の仮定」を必要とするものだから、怪しげな仮説も(ある程度)存在を許されていないと困るのです。
左近さんと私の意見の相違はどこにあるのか。
私は(1)が満たされているなら(2)も(3)もOKだと思っていますから、(1)も(2)も(3)も問題だと考える左近さんとは意見が合わない。これが、最初に私の書いた話。
ところが、前回の記事や今回の2.で長々と書いたことは、これとはまた別の議論なんですね。
「(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことは問題だ」ということと、「人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とする*」ということは、お互いに対立する考え方ではありません。言い換えれば、後者は前者に対するアンチテーゼにはなりません。だから、前者に対する批判として、後者のようなことを述べても意味がありません。
さらに、後者については、既に書いたとおり、私は同意していることを示しています。同意していることを私が示している以上その意味でも、何度書かれても私の記事に対する批判にはなりません。
これは私の書き方が悪かったと思う。原理的な対立の他に、私が納得いかないことがもうひとつあった。「血液型性格判断のアウト判定基準」がそれです。これは最初の話とはかなり違う問題だったのに、私は延長上の議論だと勘違いしたのです。しかもその間違いに気付かなかった。
「左近さんの3条件に同意しない」と話を始めたのに、その先で延々と書いたことは、「左近さんの3条件を(ある程度)受け入れるとしても」一般人の血液型性格判断信仰は社会が許容できるレベルでしょ、という話。今回あらためて書いた2.も同じです。
当初の対立点については、私の主張はきわめて簡潔です。
科学的事実を倫理によって封殺することに賛成しない。
(2)や(3)は(1)が成立した時点で無効化されるので、「それは事実か?」だけを考えればよい。
質問させてくださいね。
- 人間の人格の
検査は、例えばどのような方法で行うのですか? 検査の結果は誰がどのように判定するのですか?- それは「断定」といえますか?
- その判定を行う人の人格については、誰が
検査するのですか?- その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?
左近さんの質問でも、「それは事実か?」がメインテーマになっていますよね。結局、そこが崩されたら(2)も(3)も吹き飛ぶ。だから重要なのは圧倒的に(1)であって、他はどうでもいいのです。
左近さんの質問に正対した回答はしません。
仮にある人が、新人が上司にウソの報告をあげているのを見つけたとする。するとその人は、「最近の若い子は嘘つきね」と予断を持つ。以降、他の新人たちの報告書まで、精査するようになる。横から見ていても、その人が新人を信用していないことはバレバレ。いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする。
私はこの人に「予断を持つな」とはいわない。「もう少しうまくやれ」という。書類のミスは見逃さないというアピールも、行き過ぎれば萎縮の弊害が強くなる。
……つまり私は、倫理的な観点から批判しようとは思わない。たった一人の嘘のために他のみなまで偏見を持たれるのは理不尽だけど、これで職場全体の規律のゆるみが発覚することもしばしばあるのです。その可能性がある以上、仕方がない。疑われた方は、淡々と正確な書類を出し続けることで反証するしかない。
部長室に怒鳴り込んだ女性社員の例え話も同じ。ギャーギャーわめく人の意見にろくなものはないという経験則が部長の中にあるなら、頭を冷やしてからもう一度訪問するしかない。
部長が女性社員を部屋から追い出すとき「女はやっぱり感情の動物だな。これだから困るんだ」とかいったとする。これは批判すべき暴言です。でもそれはそれとして、部長の言葉を「怒鳴りこまれても話は聞かないよ」と読み替える判断力はあっていいはずです。日頃から「女性社員は面会謝絶」なら話は別ですが。
ふたつの例え話をしましたが、これって左近さんの基準で「不当な基準で当人の努力ではひっくり返せない属性を理由に人格を断定」に該当するのでしょうか。それがよくわからない。キーワードの定義が謎なので、質問には答えられません。
日本の法律はグローバルスタンダードと異なっているのに、疑問を持つ人が少ない。それは日本人が洗脳されているから、だそうな。
私の見方は違う。日本の法律は日本人が作る。オリジナルなものを尊重し、その著作者に多大な権利が与えられるべきとするのが日本の文化だから、少なくともここ数十年はそうだから、日本の法律はこのようになっているのです。きちんと国民の声を踏まえて法律を作った日本の立法府を賞賛すべきでしょう。
日本の法律は特殊だからおかしいのか? たいていの日本人は、世界標準の方がおかしいというんじゃないの。私は世界標準の方に賛同しますが、J2 さんの書き方には引っかかるものがあります。
いま、川内さんが怒っていても森さんは所定のお金さえ払えば原曲どおりの「おふくろさん」を唄うことはできる、でもそれは事実上できない。なぜ? 国民が許さないから。法律やルールや制度といったこと以前に、日本人の多くがこう思う、という文化があります。
森さんに唄わせたくない川内さんの気持ちに国民は同情的なので、川内さんの JASRAC の規定を超えた要求は「当然」であって、これに対応できない JASRAC の規定に「不備」があるということになりそう。
もし日本の著作権法が世界標準に準拠していて、森さんが「法律違反じゃないもんね」と嘯いて川内さんの怒りをよそに前口上つきで「おふくろさん」を唄って唄って唄い倒していたら、「法律を何とかしろ」って話になっていたでしょう。
ちなみに今朝のやじうまプラスでは法律論議をしてました。前口上を勝手に付けちゃダメかどうかは微妙、らしいです。実演の範囲内として、多少の自由度は認められているので、仮に裁判になったとすれば、果たして件の前口上が曲の改変に当たる編曲なのか、それとも実演の範囲なのかが問われるのだという。
番組の結論は、ようは川内さんの怒りを解くことが重要、ていうか他は割とどうでもいい、という感じでした。
最近話題の SIM ロック解除問題。私のように電話番号が必要なだけで通話を全然しない人にとっては現状維持が嬉しいんだけどね。
ていうか、所詮、販売奨励金をやめたって通話料は25%しか下がらないんでしょ。日本の消費者は本当に販売奨励金をやめて通話料を下げてほしいって思ってるのかなあ。
この謎に挑戦する試みとして、ソフトバンクの新スーパーボーナスは面白い。定価で端末を買うと、販売奨励金の分、通話料が割引になる。もともと通話料が少ない人は割引分を無駄にすることに。私のようなユーザは、販売奨励金ありで通話料の割引なしにするのがお得。
新スーパーボーナスを利用する人が大半らしいのだけれど、店頭での売り方を見た感じでは、後で騙されたとかいう人が出てきそう。「持ち帰り0円」が売り文句というのがね……。でも「**色は売り切れました」なんて札がディスプレイにたくさん貼られていて、盛り上がってるなあ、とは感じた。
3月は携帯電話業界の書き入れ時。
ウィルコムユーザの私が端末を買い換えるなら WX220J かな、と思う。法人需要メインの端末ですが、シンプルで小さくて電池の持ちが特級なのが嬉しい。充電台も付属する。最近の携帯電話は充電台が付属しないのが多いそうで、端子カバーを毎日のように開けたり閉じたり、みんなよく我慢してるなあと思う。
まあカメラで撮った画像を取り出すのにどうせ USB で接続するしかないんだという話なんだけど、充電台に bluetooth 機能をつけたらいいんじゃないの。まだそういうのが市場で評価されるような状況にないのかな。地味な機能を鍛えた商品を売るのが難しいのは古今東西変わらず、か。
そういえば最近、カメラ付の端末ばかりだけど、会社への持込が禁止されて困ったりしないのかな。
どうして私にもレトロに見えるのだろう。車のデザインなんかもそうなんだけど、古いものはちゃんと古く見えることが多い。私が生まれる前のデザインだから、記憶の働きとかじゃないはず。
それにしてもこのレトロデザイン、Amazon やスターバックスが一部商品や一部店舗で採用したりしないかな。
議論する気はないけど補足説明をつけておこうかな、と思った。異論のある人を説得しようというのではなくて、私に同意する人のための補足、というか。
何が「著作権保護の対象はプロだけでいいし、権利意識を持つのも彼らだけで十分だ」だ。アマチュア作家の作品を盗作したプロ作家はいないとでも言うのか。
素人が頑張っても金にならないものが、プロが盗作したら金になるなら、そのお金はプロがもらっていい。著作権に対する発想を大転換して、「そういうこと」にすればいいんだ。誰を儲けさせるかなんて、消費者の選択に任せりゃいいんだよ。
私は他人の商売を邪魔する人間は大嫌いなんだ。その一方で、金にならないコンテンツを死蔵してる人々も気に入らない。
何だか WWW を見てると、プロとか企業とかのコンテンツの話ばかりしてる人が多い。YouTube や P2P の擁護論として、「もともと死蔵されてるコンテンツじゃないか」というなら、一般人のブログだって死蔵されてるコンテンツでしょう。後生大事に権利を持っていたって何にもならない。
金にならないものはみんなまとめてパブリックドメインにすればいいんだ。そうすれば、オリジナルは作れないけど改作だけは異様にうまい人とか、文章の手直しが神がかり的な人とか、記事を構成して雑誌を作るだけが取り得の人とか、今まで活躍の場がなかった才能が勇躍し、新たなコンテンツ市場が立ち上がるはずだ。
何がパクリだ。くだらない道徳だね。そんな制限はこの世に必要ない!
スラムダンク・トレース疑惑というのがあるけど、模写だっていいんだよ。吉井凜さんと末次由紀さんを抹殺して、世の中、何か明るくなったのか。井上雄彦さんが単行本の巻末とかで、「今回はこの雑誌の写真を模写しました! この写真家の写真集は通販で買えるよ!」とか書いて、お互いに売れまくって万々歳という未来が早く来ないか?
あるいは、漫画ファンが一致団結してパブリックドメインの写真を投稿しまくるサイトを作ったらいいのに。100億枚くらい写真が集まったら漫画家さんはずいぶん助かると思う。どうよ? 自分じゃ何もせずにこのまま見殺しですか。
私は YouTube に放送事故の映像なんかをアップロードするのは、まず問題ないと思ってる。でもアニメ番組のように後に DVD が発売されると分かってる作品を全部アップロードする行為は許せない。YouTube で満足するような連中はどうせ買わない? レンタルの需要を食ってるのは間違いないと思うけどね。
P2P で廃盤になって久しいレコードのデータを流すのはありだと思う。でも新作を発売翌日に全部流すような奴は許せない。
個人のブログや写真はいつブレイクするか分からないから、1年くらいなら暫定的に無条件で保護したっていいとは思う。でもその先はどうですかね。1年が短いなら3年とか5年でもいい。でも死後50年も必要ですか? プロの権利を勝手に侵害して開き直る前に、やるべきことがあるだろう。
もし1円にもならないコンテンツでも、どうしても権利を放棄できないというなら、松本零士さんの悪口なんかいうんじゃないよ。あなたごときが権利に固執するのだから、天才が自分の権利を永久のものにしたいと願って何がおかしい。
私は著作権税の創設を主張します。年間10万円納税すると、その人物に著作権を主張する権利が与えられます。納税以前の著作物は保護対象外。また翌年の支払いが滞ると、それ以降の著作物はやはり保護されない。保護期間は最後の納税から10年間。遺族が著作権税を払い続けることも可能。ただしいったん著作権が切れたものが再び保護されることはない。(ま、叩き台ということで)
昔、徳保スレに匿名で書き込んだことがありますが、毎回、見破られました。逆に私でない人が誤認されたことはない。ID 非表示のスレでも、批判されたことを知らんぷりして新しい書き込みをすると、しばしば「ふざけんな」系のレスがつく。
Piro さんなんか、けっこう文章にクセがあるから、1〜2回の書き捨てならともかく、しばらく常駐していたスレで「やらかす」と、謝罪なしでは存在を許されなくなるのではないか。
犯罪になるような書き込みをしない限り、2ch の書き込みから実名や住所を割り出されることはない、という意味では匿名掲示板なのでしょう。徳保スレに私が書き込むような特殊事例を除けば、ハンドルネームだってふつうは割り出されないはず。でも、匿名掲示板の中では、それなりに人物の区別はつくものです。
というわけで。
自分自身がかつて2chとかでやったことを振り返ってみても、今2chで見られるやりとりを見てみても、匿名で物を書いて、その内容にケチを付けられた時、必死になって自己弁護するのも、悪かったと言って素直に謝ってみせるのも、どっちも滑稽だなあ馬鹿馬鹿しいなあと思う。
(中略)
2chにせよはてな匿名ダイアリーにせよ、匿名で何か書いたとして、その内容が間違っていたのなら、ツッコミに対しては関知せず、そしらぬフリをして別の「名無しさん」として再び流れに加わるのが、「ツッコまれるようなアホな事を書いたこの名無しは俺とは別の名無しだから関係ないね」という顔をしてスルーするのが、匿名メディアの、自然な在り方・使い方なんじゃないのかなーと、僕は思うのですよ。
そんなのがバレないと思ってるのが浅はか。みんな知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるだけです。だから顕名なら謝る場面であれば、謝るのが正解。
匿名ダイアリーのこの記事に対して、
- Life is beautiful: その「頭がいい人は成功して当然」という発想が甘すぎる
- Life is beautiful: 「良い町づくり集会」を開いても誰も来ないのに、「けんか・火事」には妙に人が集まってくる
中島聡氏がこの記事を書き、それに対して、匿名ダイアリーの元記事の作者が誤解している、失礼だと反論した件が興味深かった。
この話題ですが、みな「コメント欄に突撃したのは匿名ダイアリーの筆者だ」と思っているわけでしょう。匿名は匿名なりに、社会によって固体識別されているのです。
あちこちのコメント欄に出没している「小倉秀夫」さんが東京平河法律事務所の小倉秀夫弁護士の名を騙る別人だと本気で思っている人がどれだけいますか。なりすましが現れても、よほどそれが上手でない限り、すぐにバレると思いますよ。だからえっけんさんの心配も杞憂でしょう。
ちょっとどことは書けないのですが、以前アドバイスを書いたサイトの管理人さんの新サイトが、トップページだけで200万ページビューを突破してました。すごい……。
正直、現時点で「何かご意見を」といわれても「勘弁してください」と答えると思う。
過去にアドバイスしたサイトの大半は「今はもうない」のですが、その後、みなさんそれぞれの道でご活躍されているのだろうな、と夢想しています。
そのようには生きられない(2007-03-02)の続き。
被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)
という部分は読まれたのだろうかと疑問に思いました。
もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。
と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。
けれども、女性の発言が全て感情的であるはずがなく、AB型の人が100%二重人格のわけはなく、感情的な人や二重人格の人の主張が常に全く無価値とはいえないのが現実でしょう。素直に世界を見つめるなら、精緻に検証するまでもなくそんなことはわかる。したがって引用部で批判されている人々は、「不当な基準≒論理的に破綻している判断基準」という条件に抵触しています。
ただですね、体験的事実に過ぎないとしても、仮に女性は感情的な主張をすることが多いという実感があるなら、「ちょっと気をつけて話を聞こう」と考えていい。
例えば部品を購入する際の受け入れ検査、私は担当じゃないので正確な数字は忘れましたが、一定の実績が積み上がると受け入れ検査が免除となります。もちろん弊社製品の出荷前検査は決して省略しません。お互いに出荷前検査を信頼しあうことでコストダウンを追求するわけです。
部品によっては不良率0.01%とかそういったレベルの話になっていて、それを超えると「要注意だから全数検査」となったりします。過半数なんていう基準じゃない。こういうのを見ているから、私は「一部の人間のせいでみんなが色眼鏡で見られる」のが悪いことだとは思わない。危ないと思ったら全数検査でいいのです。
部品の信頼性と人格を同列に扱うな、というご意見はわかりますが、私は同列に扱います。それが許せないなら、見解の相違ですね、ということでおしまいです。
当然、九州出身でもいろいろな人がいることはみな知っています。だから事実によって反証されたらすぐに主張を撤回する用意はある。
それは「断定」とは言わないと思いますよ。たとえば、「明日は雨です」というのが断定。
反証されても撤回しないケースだけを「断定」と呼ぶなら、ほとんどの人は滅多に「断定」なんかしていない。「今日の天気予報、見た?」「雨だそうですよ」「ありがとう」という会話で、話す方も聞く方も降水確率100%だなんて思っていない。「雨が降りそうだな」くらいの認識なのです。
というか、「女は感情でモノをいうからな」といって話を聞かない人の本心は、多くの場合「頭を冷やして出直せ」です。差別心が全くないとはいわない。けれども私の観察するところ、場を改め静かに話を持ちかけてもなお門前払いするのは、よほどバカな人だけです。
だから「女性が常に感情的な発言しかしないという主張は誤りだ」と反証したって、「そんなことは分かってるよ」と怪訝な顔をされるでしょう。感情的な発言の頻度に男女差がないというデータを見せられたところで、部長室に怒鳴り込んでも相手にされない状況は変わらない。
AB型云々だってたいてい同じこと。ヘンなことをいう奴がいる、何故だ? AB型だから、ということにしておく、と。本気でそう信じ込んでいるケースがどれだけありますか。「当座の仮説」という認識のある人が大半でしょう。
首尾一貫したことをいうAB型の人に対して、「いやこいつはAB型だからきっと裏で逆のことをいってるんだ」なんて、血液型だけを理由に確信するような人は例外ですよ。態度や表情にうまく言葉にできないもやもやした疑念を抱いたときに、「AB型だから」というラベルを貼り、それを理由として口にすることはあっても、実際の思考がその言葉通りの人は珍しいのでは。
そうはいっても、「女は」「AB型は」という言葉に傷ついている人がいるじゃないか、「**っていうだけで決め付けないでほしい」という感情は多くの小説やドラマのテーマになっているじゃないか……それは認めます。でも、人はこれから逃れられないのではないですかね。
人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とするのだと思います。確度の低い仮説は言葉にしないという理想を掲げるのはいいけど、現実には無理だというのが私の観察です。AB型は云々なんて信じているわけじゃないけど、そういう言葉があると便利、それが断定表現の内実ではないでしょうか。
明らかに無関係なものを結びつける占いも、関係が立証されたものを結びつける知識も社会には必要とされています。ではその中間にあるものは? やはり必要なのだと思う。極端な悪用を潰しながら、付き合っていくしかない。
私の知人が仕事でインドへ派遣されているのですが、事前に「神や信仰を冒涜するようなことを冗談でも口にしてはいけない」と戒められたとか。向こうの人は物事を神秘的な解釈によって納得することが多い。安直にそれを否定し、機械的な発想を押し付けてはならない、というのです。
最初は戸惑います。インド人とまともな話はできないと思う。けれども、次第にインド人が科学的思考に長けていることに気付かされます。ポイントは、彼らが物理現象の背景に神の存在を感じていること。日本の技術者が「ただ単に世界はそのようにできている」と透明に考えている部分、「偶然でしょ」と決め付けがちな部分に、インド人の信じる神々は宿っています。
インドにはいろいろな宗教がありますが、その多くは多神教です。そして善神と悪神がいる。寝坊の言い訳に神を持ち出す人に「ふざけるな」といえば角が立つ。だから「善神に化けてあなたを惑わそうとする悪神の企みに負けてはいけない」と答えるのだという。
もしそのインド人が無神論者なら、怒るかもしれない。こんなアホな言い訳を唯々諾々を受け入れるのは日本人がインド人をバカにしているからに違いない、とかね。でもそれは仕方のないことだと思う。インド人だということしかわかっていない段階では、信仰厚い人だと仮定して話をするしかない。
最初に訊ねればいい? 無理だと思いますよ。上記では話を単純化したから、たったひとつ質問すればいいかのように見えますけど、現実はもっと複雑。そもそも彼は本当に寝坊したの? あるいは遅刻したのかどうかも怪しい。タイムカードに記録がない? いじめの可能性は? どこかでエイヤッとやるしかないんですよ。
だったらいいけど、実のところどうかな、と不安に思っていたら、案の定。
記事投稿の際にデフォルトで「転載許可」に設定されていた転載モードを、今後はデフォルトで「転載不可」といたします。
これは改悪だと私は思いますけれども、ともかくこういうことになってしまった、と。ヘナヘナと力が抜けるような感じ。最初から全く勝ち目のない戦いだったというか、私が戦っているつもりだったことさえ認識されないままだったけど、完全に負けました。叩きのめされました。無念なり。
私は素人レベルのクリエーターが強烈な著作者意識を持つなんて、くだらないことだと思っているのです。著作権保護の対象はプロだけでいいし、権利意識を持つのも彼らだけで十分だ、と。Yahoo!ブログのユーザーに私が期待したのは、彼らがパブリックドメインのコンテンツを大量に生み出していくことでした。それが日本人の著作権意識を変える起爆剤となるのではないか、と思ったのです。
他人の著作物の自由な利用が可能になれば、新たな作品を作る方法は大幅に広がります。より自由で、潤沢な材料が揃った環境が用意されれれば、今では考えられないような素晴らしい成果物がどんどん生み出されるに違いない。とくに現在、開花を妨げられているのが「編集」の才能です。ニコニコ動画の成功が示したのは、ちょっと手を加えるだけで価値が急増するコンテンツがある、ということ。個人のブログにも、こうした可能性があるはずだと思う。
だから、二次転載はダメだとか、転載者は肩身狭そうにすべきだとか、全く不同意です。でも「権利意識を捨てるなんて無理」ならば、テレビ番組のスポンサーあたりの気持ちだって考えないとおかしい、と以前書きました。
私は著作権税の創設を主張します。年間10万円納税すると、その人物に著作権を主張する権利が与えられます。納税以前の著作物は保護対象外。また翌年の支払いが滞ると、それ以降の著作物はやはり保護されない。保護期間は最後の納税から10年間。遺族が著作権税を払い続けることも可能。ただしいったん著作権が切れたものが再び保護されることはない。
というわけで、年間10万円払えるのがプロ、他はアマチュアという線引きです。
私は2次転載の際、原著者が表示されないYahoo!ブログの旧仕様には問題ないと考えています。
原著者が記事を修正しても転載先には変化がない、もとの記事が削除されても転載された記事は消えない……ということは、転載先に原著者は責任を持てないということであり、転載記事の文責を負うのは転載者の他にいない。無責任なものに署名などする意味はなく、転載元表記は参考情報に過ぎない。
つまり、転載記事への賞賛は転載者が受ける、しかし転載記事が招いた災厄も転載者が一身に受ける、原著者の情報は全く重視されないから賞賛もされない代わりに責任も問われない。
転載元と転載先は連動して文章が変わったり消えたりすべきという意見も目にしましたが、それでは転載の意義があまりにも小さくなってしまいます。リンクとの差がぼやけてしまう。原著者が手が出せないようデータをコピーするところに、転載の醍醐味というか、便利さ、有難さがあるのです。
ところで首領さんの相手の都合を考えるという記事も面白い。お勧め。
Windows Vista 搭載のメイリオというフォントが期待外れだったという意見。
私はそもそもアンチエイリアスのかかった文字が嫌いという少数派なので、メイリオ云々以前の部分で疎外感を覚えている。
大学の研究室のパソコンは Macintosh だった。先生の趣味。それで1年間、少なくとも研究室ではずっと Mac を使い続けたのだけれど、そのときほとほと Mac が嫌になったことを思い出す。OS X と Windows98 なら自分は絶対に Win98 がいい、と痛感させられる体験だった。
Win98 の優位点はタスクバー・メニューバー・フォントの3つ。自分がいくつのアプリケーションを動かしているのかすぐに忘れてしまう私にとって、タスクバーに常に起動中のウィンドウが表示されるのはたいへん有難い。メニューバーが各ウィンドウにあるから、二つのウィンドウを並べて交互にメニューバーからの操作をするとき手数が少なくてすむ。そして高さ24px以下の文字にもアンチエイリアスがかからないので、小さな文字がとっても読みやすい。
そんなわけで、冬頃になるとわざわざ自宅からノートパソコン(Win98)を持ち運んだりもした。Mac を100時間以上も使った上での判断だから、単なる慣れの問題ではなく、私の性分に Mac の設計が向いていないということではないかと思う。
しかしどうなんですかね、みんな PDF が読みやすいとか思ってるの? 私はあのぼやけた文字が大嫌いで、それで全く読む気がしないのだけれど。印刷すればきれいなのは認めます。Vista は超高解像度モニタを搭載したパソコンを視野に入れて ClearType を採用したとのこと。その志は買いたい。
でも液晶モニタがせめて200dpiになってくれないと、私には我慢ならないな。OS X を初めて使ったときは、ホント発狂しそうになった。こんなボケボケの文字、読めるかー! って。だから OS9 に戻してくれって頼んだんだけど、研究室の人はみな新しい表示の方がいいという。ガッカリした。
ビットマップフォント大好き。
私はMS Pゴシックが好きだから、わざわざ CSS で指定しています。あと PDF はスムージングを外しても読みやすくないです。使われているフォントがビットマップ表示対応のフォントでなければ意味がない。
理解は「する」ものだから反対語は「しない」である。「理解できない」は、自分の理解の範疇を超えていると言う意味を含まないだろうか。
そうして考えてみれば「理解できない」と書く時は「考える余地がない」「考える気もない」、つまり「しんじらんなーい」の変形か(笑)
対話の打ち切り表明として使われるケースがわかりやすいかもしれません。
「もういい、お前の話は理解できん!」というとき、それはもちろん「理解しようと努力したけど無理でした」という意味なのかもしれないけれど、「あまりにも馬鹿げた主張だ。そんな言い分が通用すると思っているのが信じられない」といった、侮蔑の感情が込められていることもあります。いわれた方には判断がつかないので、何とかわかってもらおうと言葉を続け、相手のブチ切れを招いたりします。
対話終了の表現には「わかった、もうわかったから。終わりにしましょう」というのもありますが、じつは「理解できん!」と同じ意味だったりします。
ようするに「あなたの考え方、その論理構造はわかりました。でも私にはあなたの価値観は理解できない、全く共感できないので、これ以上お話を続けても合意に至ることはないと思います」といいたいところ、熱くなったアタマが大胆に言葉を省略するのですね。
異なる価値観に対して「呆れた考え方だ」「馬鹿じゃないの」と感じる人が多いため、「理解できない」を含め、対話終了を示唆する言葉の多くは、言外に嘲笑や見下しを含みがち。でもそこに噛み付いて得することはひとつもなく、黙殺力を発揮することが望ましい、といえそうです。
ごく狭い範囲に限定して反応します。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。
私はいずれも程度の問題だと思っています。とくに(2)と(3)については柔軟に考えたいと思っています。だから日常生活において、血液型性格判断への批判は(1)に限定しています。
(2)については、例えば「日本人にはアルコールの分解能力がなかったり、劣っていたりする人が多い」という情報があって、日本通の外国人ならこのことを知っています。だから私がカリフォルニアのロータリークラブの昼食会に招かれたとき(注:クラブ主催の短期交換留学プログラムに参加した)、「これとこれにはアルコールが含まれているので日本人のあなたは気をつけるように」と親切な案内がありました。こうした配慮はあっていいと思う。
(3)については、ある程度の材料があるなら断定してよいということにしないと、裁判なんかいつまで経っても終わらない。判断を迫られる場面はあるということです。
結局、問題は(1)なのです。人格にかかわるあれこれは、その根拠をきちんと詰めていくなら、「**の人はそうでない人と比較して**であることが多い」としかいえないことが大半です。だったら人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえるよね? 違うと思う。天気予報の降水確率のように、「30%」なら「30%」として断定的に語ることはできるし、これを否定したら人間関係は崩壊してしまう。
100%信頼できる人以外は「信じてよい」と断定できない? それでは仕事にならない。「万が一ということもあるよなあ」と考え、その備えも進めつつ、「わかりました、よろしくお願いします」と契約する。納期とかですね、3割の信頼でも契約することがないではない。
私の勤務先では血液型と星座は(本当は)性格に関係ないというコンセンサスがありますが、出身地域についてはそうでもありません。
「**さんの家は客の前では亭主関白だそうだ」「九州男児だからなあ。奥さんも九州出身でしょ」「とすると……」「家の中はカカア天下だろうね」これは決め付けではない。当然、九州出身でもいろいろな人がいることはみな知っています。だから事実によって反証されたらすぐに主張を撤回する用意はある。
それなら最初から不用意なことをいわなければいいじゃないか、と。もしそれが可能なら、そうですよね。でも世の中のほとんどのことについて、私たちは手探りで進むしかない。わからないものを経験と知識から推測して、仮定を立てて対処していかねばならない。
じゃあ何か、よその夫婦の関係を云々しなかったらあんたは死ぬのか、どうなんだ、全く無意味な仮定であり、決め付けじゃないか。それがどうしても必要なことなら我慢もできるが、こんな事例に納得できるわけがない。許せん!
……ちょ、ちょっと待ってくださいよ、おっしゃることはわかります、お怒りも理解できる。でも、一人でも悲しむ人、怒る人がいるならダメだ、なんて世界は息苦しくて、私には生きていけません。
といいつつ実際には案外、生きていけるような気がしますが、ともあれ私は、先鋭的な意見にはちょっとついていけない。極端な事例に対し NO というだけでいいと思うのです。例えば、星座のために就職の面接で不採用となるのはおかしいが、占星術まで社会から排斥しなくていいのではないか。
好きな芸能人と自分の相性を星占いで判断する女の子も、恋人を親に紹介したとき「みずがめ座の男なんか絶対に許さん!」と反対されたら怒るでしょう。そりゃないよ、と思うはず。そういう感覚があればいいんだと思うわけです、私は。
当時、スポンサーサイドから、「人気が出ない(オモチャが売れない)のはあんな変な仮面なんか被ったわけのわからない奴が敵役だからだ、シャアを殺すなりなんなりして、もっとそれらしい敵役をだせ」と強烈に要求されていたらしいですね。
そのため、どうしてもシャアを殺すのも重傷を負わせるのもいやだった富野監督は、左遷させることによって引っ込めよう、そう考えてあんな手の込んだことをしたらしいです。
実際、作り手としてはシャアがファンの高い支持を受けていることを承知していましたから、必ず復活することになる、そう確信していたわけです。
ランバ・ラルはそういう理由で誕生したわけですね。
実際、シャアが出てこなくなると、復活させて欲しい、そういう要望がテレビ局に殺到するようになり、結局富野監督の読みと、当時のスポンサーの愚かさが証明された結果になりましたね。
ガルマが死んだのはそういうわけです。つまり、当時のスポンサーだった今はなき某おもちゃメーカーが殺したわけですね。
dplus1500さんのベストアンサーですけど、ホントですかね、これ。
ちなみに今はなき某おもちゃメーカー
とは株式会社クローバーのこと。いわゆる「超合金」タイプの組立済みロボット玩具を得意とするメーカーで、株式会社日本サンライズ(現在の株式会社サンライズ)が製作した多くの名作ロボットアニメ番組のスポンサーとなりましたが、商売が振るわない。日本サンライズの10周年記念作品「戦闘メカ ザブングル」の玩具がサッパリ売れず倒産しました。
1979年、視聴率と玩具販売の低迷で打ち切りが決まった初代ガンダムの商品化権を買ったのが株式会社バンダイ。周知の通り、ガンプラブームで大儲け。サンライズはバンダイの子会社になりました。クローバーって、報われない会社ですね。商品開発能力の低さが諸問題の根源だったにせよ、サンライズ作品の視聴率が低かったのもまた事実だったわけで。名作を生み出すためにさんざんお金を搾り取られた挙句、いいところはみんなバンダイに取られてしまった。
それにしても再放送で人気に火がついた初代ガンダムとバンダイの成功を見るに、番組がおもちゃの宣伝なのか、おもちゃが番組の宣伝なのか、考えさせられます。
ぶははは。いや、よくわかりますよ。私もテレビ版には付き合いきれず、ちゃんと見たのは映画版3部作だけです。ずいぶん昔のことですね、それも。
Yahoo!知恵袋の記事をご紹介いただいた id:fhvbwx さんの記事には、ガンダムネタがしばしば出てきます。しかし私にはそれがガンダムネタだな、ということしかわからない。ときどき上記リンク先の演説集とか、全セリフ集などを参照していますが、やっぱり自分が使わないものだから、なかなか頭に入りません。
安田さんはお上の勝手で2004年の歌舞伎町一斉摘発
が行われ、違法産業のひとつが叩き潰されたのだ、という構図で問題を理解されているようですね。私は例によって「これは国民の意識の変化によるものだ。行政は世間の許す範囲で多少の裁量を持っているに過ぎない」という立場をとります。
古くは60年安保、70年安保などがありますが、本当に大多数の国民が反自民だったなら政権は倒れていた。世間の意向は、一部の突出した状況やマスコミ報道だけでは読みきれない。
私の大学時代の友人・知人に、風俗産業のユーザは一人もいませんでした。それはもちろん私自身のパーソナリティーの強い影響によります。
会社というのは様々な階層から人を集めてくるものだから、私の個性というバイアスはかなり薄まります。高卒の人も偏差値30台の大学卒の人もいて、また性格もいろいろであって、長らく私と縁遠かった種類の人がたくさんいました。同期社員20数名、男性20人余り、女性数人。その中に3人だったかな、風俗の利用体験があった人は。
その3人の中の1人は風俗体験くらいみなあるものと思い込んでいて、ニ次会で風俗行きを提案したことがありました。「いや、そういうのはちょっと……」とドン引きの仲間の様子が理解できないらしく「お前ら変」などという。別に他人の趣味に口を出す気はないわけで、面倒くさいな、と思っていたら「みんな新入社員でお金がないから」と別の風俗経験者が助け船を出し、そのまま経験者3人で街へ。
残った側は「風俗ってわからないな」「行こうっていう感覚もわからない」と口々に言い合っていたんだけど、その空気の中で本当のことをいえない人もいたかもしれない、とは思う。
とまれ現在は合法とされている風俗産業までまとめて潰れたって「別にいいんじゃないの」という感覚の人が、若い男性の中では過半数かも、という感覚を私は持ちました。それが2002年の話。2004年の歌舞伎町浄化作戦について、周囲で話題になったことは全くなく、極めてどうでもいいニュースでした。
少し話は変わるけれども、社会人になるまでは自分の周囲でだけ需要がないのであって、世間一般では大きな需要があるに違いないと思い込んでいたものを、ついでにいくつか挙げてみたい。
まずホステスさんのいるようなお店、次にスナックやクラブの類、そしてカラオケ。私の勤務先ではこれらのいずれにも無縁の人が大半です。営業マンの大半が「接待? 今時そんなことで取引先を決めてたら公私混同で処罰ものでしょ。うちもそうなら相手もそう」という感覚で仕事してる様子。よく知りませんが。
いわれてみれば、そりゃそうだよね、と思う。あとバーとかの需要がほとんどないのは「薄給で缶ビールも買えずに発泡酒で我慢しているのに、お店になんかいくわけないでしょ」という理由みたい。私のように飲み会以外でお酒は全く飲みません、という人も多い。
そこで自民党は3年間で警察官の1万人増員というのを断行したんです。空き交番の解消というのも、警察官の増員ができなければ実施できません。3年がかりでこれを達成し、更に3年でもう1万人の増員も決定した結果、それまで悪名の高かった東京新宿の歌舞伎町、渋谷等の盛り場から、いわゆる「マジヤバイ」のが消えて、健全とまでは言えませんが「軽くヤバイ」程度に治安が向上したんです。「空き交番」の話しもあまり聞かれなくなったとは思われませんか。
やはり、国民の声で政治が動いたのだ。
2ヶ月前に読んだ記事。たった5つなんだけど、ひとつも覚えていなかった。
やっぱり、年に5〜6回くらい社内の技術報告会で15分程度話すだけ、という人間には難しいね。この記事を読んでからは一度もパワポ使ってないし。(古い資料を読むために何度か起動はしてみた)
そんな私でもプレゼン中に上矢印キーを押すと前の画面に戻り、下矢印キーを押すと次の画面に進むことは知っている。じつは学生時代、研究室でそのことを知っていたのは2人だけ。他の人はみないちいち右クリックして「次へ」「前へ」をクリックしていた。院生も知らなかったのだ。教えてあげたら感謝された。
そんなものだよね、とか思っている。
日経エンタ! でも訴訟問題の発端となったオリコンチャートの信頼性について記事が出ていた。
訴訟に関して、私は親オリコン派。訴えられた烏賀陽さんは可哀想な感じがするけれど、**より先に**を訴えるべきだ、みたいなことをいうのはあまり意味がないというか、それはしばしば万能の言い逃れになってしまうので、積極的には賛同し難い話の組み立てだと思っている。(しかし津田さんの主張はよくわかる)
過去に何度も書いてきた通り、相手が大企業なら根拠もなく悪口書いていいという意見に私は賛同しない。そういうやり方で他人の商売の足を引っ張る輩は罰せられて然るべきだ。(無論、程度の問題という話はあって当然だが、裁判所に訴えること自体を問題視するのは疑問だということ)
それからこれもかつて書いたことの繰り返しだけど、企業は営利目的で運営されており、際限なく個人サイトを訴えまくるわけがない。そんなお金がどこから出てくるのか。その手の主張を真顔でしている人はどんな社会に暮らしているのだろう。企業が訴訟を起こす苦労をなぜ想像できないのだろう。
とまれ津田さんはいつも様々な意見によく耳を傾ける姿勢を失わず、安直な陰謀論には走らないので、立派だと思う。立場は違えど、津田さんとなら話をできる、と信じられる。
愛・蔵太さんはオリコン訴訟に関してオルタナティブな視点をいろいろ提供されていて、私にとってはたいへん興味深いです。例えばこの2月25日の記事とか。私は愛・蔵太さんの感覚がまともで、これから WWW に暗黒の時代が訪れるとかいってる人らはヘンだと思う。
裁判はオリコン勝訴。賠償金は100万円。烏賀陽さんは裁判の中で、持論の根拠について、客観的な証拠能力を有するものを示すことができなかった。したがって、無根拠な攻撃は禁止、という判断は自然と考える。
入社後しばらく社員寮の自室にパソコンのある同期社員は3割程度に過ぎませんでした。ネット接続環境があったのは自宅組以外では私だけ(AirH")。「実家にいた頃は、親が教育に役立つだろうという考えで PC を買ってネットも用意してくれたけど、一人暮らしになったら別に、ね」みたいな意見が多くて。
その後、社員寮に光回線がきたけど、契約したのは2割程度だったかな。「パソコンもないのにケーブルだけ契約しても意味がない」「サッカー中継を見る衛星テレビだけで手一杯」
メーカーだから理系の大卒が多かったのにこの程度。自宅のパソコンは家族の共用だったとか、古いから置いてきたとか、あれこれでそんな感じに。インターネットは i-mode すら人気がなく、写メールに惹かれて J-PHONE にキャリアを変更するのが流行っていたことを思い出します。
最近はさすがに話が違ってきているとはいうものの、やっぱり「ユビキタス利用できないネットに何の意味があるの?」という声が。道に迷ったその場でお店の場所を検索、目の前の電車に飛び乗ってから接続の電車を調べる、他に何もすることがない街中の人待ちの手持ち無沙汰にミクシィ、写真を撮ったらその場でブログに投稿……どれもパソコンでは難しい。
「家に帰ったらテレビがあるでしょ」という。テレビは重要だから薄型大画面テレビには大金を払う。
考えてみると、「家にはテレビがあるからパソコンは要らない」というのは、私が外出中は文庫本を持ち歩いているから……というのと同じかな、と思う。
私が携帯電話を持ち歩かないのは、読書で手一杯だから。逆に私は家に帰ってもテレビを見ない。本をずっと読んでいると疲れちゃう。だから手持ち無沙汰に WWW を読むのかもしれない。雑誌感覚。
備忘録をガンガン更新している時期、私にとってパソコンは情報発信の道具です。エディタと画面とキーボードとネット接続環境が必要で、気持ちよく使える性能のものを……と考えるとパソコン以外に道具の選択肢がない。でもここしばらく更新を休んでいましたよね。するとパソコンへの見方が変わってきます。
それは専用機ほど操作感のよくない DVD プレーヤーであり、音質のいまいちな CD プレーヤー兼高速高性能な CD チェンジャーであり、画質の悪いテレビであり、録画時間の短いビデオデッキである。
音楽が好きな弟は、中学生のときにリビングにあったラジカセをねだって自分専用にしてもらい、高校生になるとコンポを買ってもらった。私がノートパソコンのスピーカで満足しているなんて、弟には信じられないかもしれない。「ネットなんて携帯電話経由で十分」とは、これに近い話かもね。
家庭からの PC 経由のウェブ利用者に占める20歳代の割合が急減している、というデータから何を読み取るか、ということでいろいろ議論を読んでいる記事です。なるほど筆の走り過ぎはあると私も思う。でも20代の PC 経由のウェブ利用率が高くないこと自体は事実なんじゃないのか、という感じがします。
少子化の影響は? みたいな意見がある。でもそれでは19歳以下の存在感がむしろ増している理由が説明できない。他の世代に普及していったなら相対的に20代の占める割合が減るのは当然……それはその通りだけど、30歳代の減少幅と比較しても異様な推移でしょう。ようするに20代は上下の年代と比較しても特異な傾向を示しているわけで、何かあると考えるのが自然。
私の予想を書きます。
……というわけで、今の19歳以下の世代もいずれ家庭からの PC 経由ネット利用率が低下すると思う。ただ、ひょっとすると FACTA の不安があたる可能性があるかも。
というのは、私は27歳だけれども、大学に入った頃、パソコンに触った経験のある人は非常に少なかったのです。情報処理の授業で UNIX の初歩を学んだけれど、多くの人がキーボード自体を物珍しそうにしていました。工学部ですよ、文系の学部じゃないのにそうだったんです。しかも県内トップクラスの大学まで進学できたということは、出身家庭の平均給与はそれなりに高かったはず。
ようするに、私たちの多くは20歳前後になってから初めてパソコンに触れているのですよ。高卒で働き始めた人となると、現在に至るまで両手打ちのキーボードと無縁だったりするわけです。
でも、心配無用でしょう。パソコンも(PC 経由の)ネットも、「必要」はなくとも、あればあったなりに便利なのです。だからこの新しい家電を30代、40代の人は買っていった。そして老化した頭でも問題なくそれを使うことができたのです。
イギリスみたいにずーっと順調に景気拡大が続くなら、現在20代の人々の失業率は下がっていき、給与は上昇し、今の30代のように「要りもしないのにパソコンを買う」ようになるでしょう。
20代のパソコン普及率は高い(8割弱)けど、携帯電話以外のネット環境を持たない人が多いので、PC 系のウェブ世界で20代の存在感が薄くなっているのだそうです。私の予想はハズレでした。
今、同期の仲間に訊ねて回ったら、パソコン保有率が高くなっているかも。あとそもそも実家から会社に通う人はパソコン保有率もネット接続率もほぼ100%で、社員寮バイアスに惑わされた感あり。
佐々木丸美さんの本が復刊されたそうだ。復刊を拒んでいた作者が2005年に亡くなったためだという。遺書を残していなかったのだろうか。ちなみに曽野綾子さんは死後に著書を絶版にせよと遺言しているとエッセイに書かれていたが……。
じつは私は佐々木さんの著書を読んだことがない。松岡宮さんの CD に「佐々木丸美を読みながら」という曲があって、印象に残ったので読んでみようかと思ったが、近所の書店には1冊も見当たらないので「まあ、そのうちに」と棚上げしていたのだった。
このたびの復刊にはいろいろ思うところもないではないが、ひとまず遺族のご判断を尊重したい。
ところでフランス出身の著名な哲学者デリダが亡くなったのも2005年だった。いま遺族がカリフォルニア大学と遺稿集をめぐって係争中だという。
遺稿といっても講義のメモなど雑多な資料らしいが、大学は高待遇の見返りにそれらの譲渡契約を結んでいた。遺族の建前は死の前年に契約破棄を通告した故人の意思尊重だが、新聞記事にはフランス中心主義丸出しのコメントが採用されていた。
デリダの遺稿は世界の文化の中心地に保存されるべき、なのだそうだ。南カリフォルニアではご不満らしい。
昨年末に流行った視点・論点「まん延するニセ科学」のパラフレーズ版をふたつご紹介。
「まん延するニセ科学」のパロディ群の登場は、原文のネタ化・陳腐化を招いているように感じられ、残念。「科学とニセ科学」についても「どっちもどっち」「両論併記」と思われるのが悔しい。
この輪王ヒロミさんの発言(2006-12-26)はよくわかるのだけれど、個人的には各筆者の問題意識がよくわかって面白かったという思いが大きく、収支は黒字という判断。
というか、そもそも「まん延するニセ科学」がニセ科学にニュートラルな層にどれだけ届くかという点で、私は懐疑的だったのです。内輪ウケにしかなるまいな、と。多分、「どっちもどっち」と思う層は、何もなくてもそう思うのではないですかね。
昨年から興味深く読み続けているロングインタビュー連載。内容はいいのですが、週1連載というのがかったるい。300円出したら最後まで一気読みできる、みたいなサービスがあったらいいのに、なんて思う。
ブックオフの話ということで、コメント欄には予想通りのコメントがいくつも。ブックオフはもっと出版文化全体のことを考えて云々とか。いま全体として大きな会社に育ってきたとはいうものの、内実としてはとてもそんな大所高所からの視点で動く余裕のある会社じゃないことは連載を読めばわかることではないのか。
他人事になると途端に無理を要求する人が多過ぎる。いや、一部のコメントですよ。でも彼らの出現率は私の許容値を越えている。あと近所のブックオフへのクレームを書き込んでいる人もたくさんいて、まだこっちの方が共感しやすいのだけれど、しかし感心しない。場違いだと思う。