備忘録

平成19年4月30日

福耳さんの記事を受けて書いた文章ですが、実際には塾で中学生を教えている大学生向けの内容です。だから偉そうに書いているわけでありまして。適当に読み替えてください。

1.

気になったのが、みんな恥ずかしがり屋なんですね。教室の後ろの方から座るし、周囲の目を気にしてなにか聞いても答えようとしない。正解を答えられなくても、それをきっかけに「考えてみて」欲しいんだけどなあ。どうやって促そうか。

私の経験からいうと、こんな対策があります。

まず、「後ろの方の学生を優先して指名する。その比率は、前半分4に対して後ろ半分6である」と宣言し、実際そのようにすること。ポイントは「指名された者は学籍番号と名前を私に聞こえるようにいいなさい」と指示すること。学籍番号は絶対にメモすべき。名簿にチェックするのがお勧めです。

次に、生徒を指名する前には、全員に考える時間を与え、そして考えたことを紙に書かせること。「みなさんに3分間与えます。3行以上、配布した紙に書きなさい。これを出席の確認とします。繰り返します。必ず3行以上書くこと。3分後に、何人か指名します。では、はじめなさい」

その場の思い付きを書くので、4〜5人を指名すると「前の人と同じです」という答えが必ず出てきます。その対応は次の通り。

「同じかどうかは私が判断します。紙に書いたとおり、一字一句そのままに読みなさい」

この指示を出したら、教師は腹を括らねばなりません。自分にはありふれた意見しかいえないんだという自信の喪失が教室の活気を奪っているのです。その状況下で、学生に「自分は平凡で何の取り得もない人間です」という朗読をさせる。この犠牲に、教師は応える義務があります。

どれほど平凡な意見であっても、それを受けて「あなたの発言は重大な示唆を含んでいる。こんな意見を待っていたんだ!」と返さねばならない。もし教師がそれをできなかったら、学生は犬死にです。

教室にはびこる、学習を阻害する価値観を破壊できるのは、教師だけです。圧倒的な力量をもって、こじつけをこじつけと思わせず、くだらないありふれた意見を素晴らしいものとして教室の全員に納得させること、同じような意見を違うものと認識させること、それなくして、学生の活発な発言を引き出すのは困難です。

平気で喋る学生は喋る、苦手な学生は苦手なまま。そんな階級社会は、打破されなければなりません。まあ、3行も書かせれば一字一句同じわけはない。どこかに個性があるので、そこを聞き逃さないこと。

2.

学生の時にかく恥なんて恥じゃないし、教える側からすれば学生なんてどれだけできようができまいが横一線のひよっこなんだから、開き直ってほしい。

「できる」子が「できない」子をバカにする環境では例の横一線のレトリックが有効です。しかし学生全員が萎縮している環境では、異なるアプローチが必要です。

100人の学生がいるなら、100人全員が一度は誉められる、そういう機会をまず作ること。開き直ることができるのは、決定的な場面で自分の心を守る自信のある人だけです。だから、いきなり「開き直れ」といってもダメで、最初は誉めるところから始めないといけません。

全員に時間を与える、全員に紙に書かせる、指名して紙に書いたものを読ませる、この手順は、学生側の心理的抵抗を下げていくためのステップです。そして仕上げは、誉めること。小学生でも大学生でも、このあたりは同じです。

3.

学生が発言する際に名簿にチェックするのは、全員をくまなく指名するため。同じ人を何度も指名するミスに自分で気付かないのは最悪。

ホントは一時的に座席を固定するべきなんです。1週目は受講するかどうか様子見の学生もいるからムリでしょうが、2週目に来る学生は受講決定のはずなんで、授業の最後に時間を作って、出席者全員に学籍番号と名前をいってもらう。

「学籍番号と名前だけ、起立して、私に聞こえるようにいってください。挨拶はいりません。隣の人が言い終わったら、すぐに次の人、立ってください。いいですね」「学籍番号***、A野B子です」「はい、すぐ次の人」「学籍番号***、C野D子です」「学籍番号***、E野F子です」「はい、そういう感じで。えーと、通路を越えてドンドン横へ。端までいったらその前の席の人が続けてください。はい、次の人」以下略

アシスタントの人に座席表をあらかじめ用意してもらって、ドンドン記録してもらうわけです。教師は学生の目をシッカリ見て、自己紹介を終える毎に会釈。

「はい、みんなどうもありがとう。この先4回、今日と同じ座席に座ってもらいます。次回講義の際、入口で座席表を配りますから、よろしくお願いします。今日はここまで。出席表代わりの感想シート、忘れずに提出していってくださいね。質問のある方、遠慮せずにどうぞ。ではまた来週」

座席表があると何がいいか。

まず、学生を名前で呼べるようになることです。と同時に、教師が学生の名前を覚えられる。上の例では4回としていますが、これは4回で教師が全員の名前を覚えることを前提としているのであって、4回でムリなら半期15回、全部を座席固定にしたっていい。

学生は驚くほど教師の名前に無頓着です。でもそれは教師の無頓着の裏返しでもある。こんなよそよそしい師弟が、腹を割って話せるわけがない。(名前も分からない)教師の「(どこの馬の骨か知らないが)君の発言は考えが足りないね」という言葉に「開き直れ!」と学生に求めたって、それは無茶というもの。

教師がフルネームで学生を指名し、その発言を全肯定する。まずはそれを繰り返すこと。「バッサリ斬られて致命傷」とはならないはずだ、そういう「信頼」あっての「開き直り」です。

学生の心の弱さを愚痴っても仕方ない。できることを頑張ってほしいと思います。

あと、座席表があると指名の偏りはほぼ排除できます。ただしもちろん指名するたびにチェックが必要なので、そこはお忘れなく。

4.

ダメな意見も誉める。じゃあ、いい意見は?

ついつい失敗しがちなのが、ココ。ダメな意見を誉めるのに最上級の言葉を使ってしまうという……。教師の方からムリを押したときはいいのです。そこはもうガンガンやるしかない。でも、普段からそれではメリハリがつかないのでありまして。

ポイントは、イマイチな意見に対しては「言葉では軽く肯定、表情で熱烈に肯定」、素晴らしい意見に対しては「言葉でも熱烈に肯定」することです。素晴らしい意見を誉める際、表情のことは忘れていい。多分ヘンなことになっていますが、どうしようもありません。

誉め続けるコツ

ホントいうと、ダメな意見こそどうにかして誉めるべき、なのです。どういうことか。

学生は、自分の意見がダメっぽいということを予測できるわけです。正解は分からなくても、です。それで萎縮してしまう。だから真に状況を打破するためには、学生の予想を覆すことが必要なのです。これは「俺の意見はけっこういい線いってる」と鼻高々な学生への対応でも同じです。

学生ごときに意見の良し悪しがわかってたまるか、教室ではみんなバカでみんな天才、教師の前で横一線なんだというメッセージを強力に発信したいのですから、学生がダメだと思っている意見を意外な観点から褒めちぎり、これはいいぞと思っている意見も、メイン部を完全にスルーしてヘンなところだけを誉めてみせる。

そういうことをやっていく。かなり苦しい戦いになりますが、教師と学生の力量に大きな差があれば不可能ではありません。ひたすらハイテンションで誉め続けることができます。

5.

紙に意見を書かせる件、授業の最後で提出させるのが基本です。しかしその場合、他の人のいうことを聞いて、自分の意見を消して書き直そうとする学生が必ず出てきます。これは絶対に禁止すること。

「これいいな」と思った意見は、行頭にマル印をつけて、下に追記していくよう指示します。全員を誉める代わり、ズルを許してはいけません。間違えてもいい、自分の意見を考えることが大切だ、そう教えたいわけです。他人の意見を聞いて自分の意見を消すのは、背信行為に他なりません。

教師が全力で戦うべき場面です。

ちなみにこれもシステマティックな対策があります。消しゴムを使うには時間がかかる。そこで学生にこう指示します。

「これから5人、指名します。その人の意見を、みなさんも紙に書き留めてください。自分以外の人の意見は、行の頭にマル印をつけて、自分の意見と区別すること。いいですね? では**さん」

余計なことをする時間を与えない、という作戦。非常に有効です。

あるいは、シャーペン禁止令もありえます。必ずボールペンで記入せよ、と指示する。ボールペンを忘れてしまった人には教師が貸す。誤字は二重線で消しなさい、と指示して、修正液も禁止します。ただ、これはけっこう学生の抵抗があろうかと思います。字が読みやすくなっていいのですが。

女子学生には字が薄くて読みにくい人が多いです。私も採点を手伝うことがありましたが、大学生にもなってこんなんでいいのか、と心配になるくらい。本当に他人に読ませる気があるのかなあ、みたいな。逆に男子学生は字が下手すぎ。私も相当にひどいけど、下には下がいるものだと実感しました。

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平成19年4月30日

知人がかつて進学した東京女子大学の先生が、講義を文字起こしし、整理したハイクオリティの講義録をウェブに連載するという。早速、第1回講義が公開されています。

文字起こしを担当した田中伸治さんは教室まで出向いていますから、とびきり安く見積もっても1回あたりのコストは1.5万円くらいでしょうか。講師料、ほとんど吹っ飛んでしまっているような……。狙い通り話題となって、書籍化といったことにつながることを期待したい。

とりあえず投げ銭、してみました。おそらく重要なのは継続性。連載する側もそうなのですが、投げ銭する側も根気よく投げ続けること。でもウェブの閲覧者って、そういうの苦手ですよね。私も頑張ります。

関係ないですが

実名を表にされましたので、「あの大学」の話は、とりあえず非公開にするのが無難ではないかと思います。その上で、これは大丈夫という記事を少しずつ復活させていく。ときには書き換えも必要でしょう。ご検討ください。

平成19年4月30日

収入を隠す利点が分からない(2007-04-28)への反応を二つ。

私の父は食うや食わずの状態で母と見合い結婚しています。1979年のことです。それから数年間は収入が伸び、最高で年収400万円くらい。バブル崩壊を境に300万円前後となったまま今年9月に延長雇用も終ります。母は結婚後一度も収入を得ていませんが、子ども二人を大学まで行かせ、老後の心配もないという。

私はそのような家庭で育ったので、現状について「収入が分不相応に多すぎる」とは思えど、不足を感じたことは一度もありません。だいたい高校時代の友人・知人と会ってみれば、その多くが「月給20万円足らずのボーナスなし」という生活。自分がどれだけ恵まれているか、嫌というほど実感させられます。

生活保護は過酷な選択を迫る(2006-07-02)で私はこう書きました。

みな、これ以上は引き下がれないというラインを引いて、その前で戦っている。生活保護制度は、生き方へのこだわりを捨てることを要求する。自分の所得をちょっとだけしか再分配されたくない私たちは、この冷酷な仕組みを必要としている。

五分位階級別の所得の状況によれば、第二階層の収入は第一階層の2倍を超え、第三階層にいたっては4倍近い。なのに「生活が苦しい」などという。そして6倍の収入がある第四階層の人までもが、「俺には貧しい人を助ける余裕なんてない」。上ばかり見て足るを知らぬ人々は、今日もまた同情だけしてカネは出さない。

厚生労働省のいう所得が総支給額のことなら、私は既に第三階層だし、差引支給額のことだとしても順調にいけば2〜3年後にはそうなります(ボーナス=会社の業績次第)。私はもはや上を見て羨ましがるような立場ではなく、金持ちとしての社会的責任を考えるべきだと思っています。

余談

こういう記事は書いても公開しないのが正解だろうなあ、と思う。「そのつもりはない」といえばいうほど、id:arisia さんの記事にブチ切れているように見えるから。ただ、それは私のせいじゃない。

id:mo_hate さんは馬鹿にするつもりではありませんと書き、id:arisia さんも馬鹿にしたりしませんと書く。言葉は同じですが、読み手の印象は逆じゃないかな。私の文章も、そういう流れで読まれちゃう。だったら id:mo_hate さんの記事だけにリンクすればいいのでしょうが……。

平成19年4月30日

母は、自分が働いたら父よりずっと稼げるに違いないことは分かってたと思う。

そうとわかっていながら、父のプライドを大切にしてきたのではないか。父が自分の家庭の中では尊敬される家長の地位を保てるように、母はずっと気を払ってきた。夫を幸せにしたい、その一心で。

そのためには、お金に困る事態を避けること。母の才能は、30年近く家計管理だけに注がれていた。

母ほど優秀な人が些事に30年近くもかまけてきたことは、社会にとって大きな損失だったかもしれない。けれども、それだけのエネルギーなくして、父を不幸の淵から救い出し、世界で一番幸せな男にすることは不可能だったのではなかろうか。

父も9月で延長雇用を終え、仕事を辞める。母は何を思うか。

平成19年4月29日

そもそも br 要素は使ってはイケナイの? なんで仕様書に載ってるの? 仕様書に、なるべく使うなとか書いて有るの? HTML4.01 の仕様書には書いてないみたいだけど、XHTML1.0 では、使うの推奨されてないの?

XHTML2 の草案が br 要素退治のアイデアをいろいろ試していたので、一時期、W3C 的に br 要素は廃止したいのかもね、という雰囲気はありました。最近はどーなってるのか知りませんが。

私は p 要素のスタイルとして1行目の1字下げを指定しているので、p 要素中の改行をしないと自分で決めているようなもの(改行すると見た目に難が出る)。引用するときも、勝手に改行を捨ててます。ただ、これは私の好みの問題で、br 要素自体に反対ということではありません。

仕様から br 要素がなくなったら、ガッカリする人の方が多いと思う。それでも br 要素を廃止するとすれば……じつは、いつまで経っても勧告されない CSS2.1 に解決策が。

pre-line

'normal' と同樣,連續する空白類文字は一つにまとめられ,行ボックスが滿たされると必要に應じて行を區切る。

更に行區切りは,ソース文書内での改行位置,生成内容の文字列として "\A" が插入された位置でも行はれる。

br 要素が廃止されるとすれば新仕様ですよね。いくつかのブロックレベル要素の仕様推奨デフォルトスタイルを white-space:pre-line; にするとよさそう。文書型によってデフォルトスタイルを変えるので、過去の資産には影響なし。いかがなものでしょうか?

補足説明

HTML 文書の様々な要素を装飾するのがスタイルシートの役目だと私は考えています。いま CSS2 には既に white-space:pre; というプロパティと値が存在し、IE6 でも実装されています。このスタイル指定を行うと、要素内の改行や空白文字が pre 要素同様に解釈されるのです。

white-space:pre; の存在は、W3C がソース上の改行には表示結果に反映させる意義があると考えている事実を示しています。ソース上の改行は、要素として明示するほどの意義はないが、無意味ではない……とすると、現在 br 要素によって明示されている改行の指示は、ソース上の改行に置き換えて不都合なさそうです。

white-space:pre; は"いろは"の先のCSS第2回の他に使用例を知らず、white-space プロパティは長らくマイナーな存在でした。しかし CSS2.1 で値 pre-line が追加されることにより、超有名プロパティの仲間入りをする可能性があります。

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平成19年4月28日

1.

それにしても「画像の使用を極力ひかえる部門」への投稿が殆どないのはどういうわけよ。

画像の使用を極力控えてかっこいいCSSデザインをやってみよう大会の話題。

画像制限部門、条件が厳しすぎるのかな、と思いました。大きさとか個数じゃなくて、合計 30kB 以内、みたいな制限の方がよかったのかもね。軽い画像なら大きなのも使える、みたいな。

主催者が感銘を受けたスタイルでも、画像は大見出しとリストマークくらいですよね。画像なしでも印象は大差ない。今の制限だと、画像を使ってもそれほどかっこよくならないのだろうと思う。小道具しか使っちゃダメということなので、デザインの全体的な方向性が画像不使用部門と同じにしかならないんじゃないかな。

これに対して、画像不使用部門は自分自身にイイワケできるのがいいのかも。さしてかっこよくなくても条件が厳しいんだからご勘弁、みたいな。現状、大半の作品が趣味レベルにしか見えないので、これなら私の CSS でも違和感ないような感じがします。再利用の可能性を高めるために登録しておこうかな……。

あ、新作を書くつもりはゼロ。既存のスタイルシートを登録しようかという話ですから悪しからず。

そもそも「かっこいい」なんてタイトルに入れなきゃよかったのに。気の弱い人は参加できないでしょ。そこが足切りラインなのでしょうが、有名無実化しつつあるので私は心が揺れてます。

2.追記(2007-08-19)

タイトルから「かっこいい」とか「イケてる」とか、そういった言葉を全部落としてほしい。趣味レベル、習作レベルでも気軽に参加できるように。というか、第1回の応募作品はほとんどがそういうレベルで、結果的に鉄面皮コンテストになってしまっています。

あと、画像の制限をサイズや個数ではなく総容量にしてほしい。

もうひとつ、CC ルールに基づく原著者表示について、CSS の中で原著者を示せばよい、といった指針を示してほしいかな。だってローカライズした CSS を適用する際に、全部のページに designed by *** とか書くのは手間だし、all rights reserved とか書けなくなってしまうのも不便。

CSS の再利用って、多くのページに関係するから、面倒くさい面があるんですよ。

以上3点が要望なんだけど、とりあえずひとつだけというなら、第1点。大会の名前ですね。くだらない作品が集まりすぎることが不安なら、人気投票の上位を殿堂入りにする、みたいな仕組みにされたらどうです? 入り口で制限しちゃう必要はないと思います。

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平成19年4月28日

私の勤務先は労働組合が非常に強く、地位より年功が圧倒的に重視される賃金体系(=地位は権限であって給与ではない)とか、一切の査定を行わない(=能力・成果主義賃金制度の完全否定)といった特殊な環境です。結果平等志向で、人に優しい会社。

蛇足。

技術者の末席を汚す私からすると、この勤務先はゴメンです。人に優しい会社だとも思いません。

そう思う人が多いのでしょうね。

人に優しい会社というのは、つまり優しい人が集まっている会社といってもいいと思う。有給休暇の制度はあっても使えないとか、あるじゃないですか。それは何なのかといったら、人の問題なんですよね。労働基準局に訴えられたら負けるから、最後にはしぶしぶ許可印を押す。でもその後、白眼視は避けられない、とか。

大切なのは制度じゃなくて、人の考え方なんです。なぜうちの会社に査定がないか。100%納得できるような査定は不可能だ、という認識があるからです。みんなそれぞれに何らかの事情を抱えている中で頑張って仕事をしている、結果に多少の差がついても、不完全な査定をするより横並びの給与の方がよくないか。

例えば、親が痴呆で介護がたいへん。残業は無理だし職場より家でもっと疲れてしまう。これで仕事の能率が上がるわけはない。でも頑張ってます、と。査定を行ったら、この人は絶対に残念組になっちゃうじゃないですか。当然でしょ、それのどこが悪いの? という空気の職場は、あまり人に優しくないと私は思います。

査定をすると、ちょっとした差が、いちいち給与に反映されてしまう。それがいいところなのでしょうが、私は賛成しません。小さな差って、むしろ不可解の種だと思う。昇進というのは、せいぜい年1回、10人とか20人に1人じゃないですか。突出した人が昇進するから、ほとんどの人が納得するわけです。査定はそうじゃない。大した金額の差じゃないのに、恨みの方は骨髄に達したりするから怖い。

小説でもテレビドラマでも、旧友の話を聞いても、査定ってのは上司と部下の仲を険悪にするツールですよ。たいてい直属の上司が大きな影響を持つから、「あいつのせいで俺は……」みたいなことになりやすい。昇進は部長クラスの案件ですからね。他の会社でもだいたいそうらしい。直属の上長の権限じゃない。雲の上の話だから、それで救われる部分があるんですね。

あと、私なんかたった5年勤めてるだけですけど、その中でも誰かが体調不良で苦しんだり、不幸に巻き込まれて云々とか、見るわけですよね。職場の中で。そのときに、「ああ、給料が保証されてるってのはホントにいいことだな」って思うわけ。他の会社だったらたいへんだった、と。

能力・成果主義賃金制度の完全否定というと過激だけど、ようは社員の安全志向が高くて、保険料をたくさん払っていいと考えているのだと思います。

それから「地位は権限であって給与ではない」という年功序列、結婚されている方にはたいへん好評です。メーカーなので男性社員が圧倒的なのですが、奥さんから昇進をせっつかれることが全くない、と。昇進したって責任が重くなるだけで、部長になっても月給は+10万円に過ぎない。ちなみに係長は+3000円です。

定期昇給が20代9千円、30代7千円、40〜50代5千円、60歳定年で延長雇用は一律年収300万円。物価と増税対応のベースアップは随時あります。大卒の場合、20代に月給が7万円、30代7万円、40代5万円、50代5万円増えて、入社時の手取り月給16万円が40万円まで増えるという仕組み。高卒の初任給が手取り14万円弱で、定年までに約3倍に増えるというのが基本的な考え方。

給与と権限がほとんど関係ないからか、弊社では降格人事も非常に多いです。課長にしてみたけどパフォーマンスが悪いとなると、調査役という名の余生ポストへ回されてしまう。部長はもともと人数が非常に少ないので部長以上級の降格人事は多くありませんが、数年前には常務が平部長に戻る人事がありました。

降格されても、もともと役職給がほとんどないわけで、生活設計に影響しないのがいいところなのです。調査役は仕事の内容は一般社員と変わりませんが、もとは優秀な人だと周囲が認めて昇進した人なので、スーパー社員として尊敬される。向かない人が地位にかじりつく他社よりいいと思う。

まとめると、ふつうの会社は「人は給与格差に釣られて頑張る」という考え方なのですが、弊社では「人はもともと頑張る遺伝子を持っている」という考え方なのです。給与は生活設計の基盤、会社はそこに手をつけない。成果には権限と名誉で報いる。

そんな異常な会社が市場で80年近く生き残ってるのはなぜ? 秘密は社員の採用基準にあるはずですが、私にはよくわかりません。創業者がキリスト教の熱心な信徒で、会社の利益を慈善事業に振り向けて倒産しかけた歴史があるくらいなので、最初からヘンな会社だったのでしょう。

だいたい倒産しかけたくせに、懲りずに貧乏で勉強できない子どものための専門学校を作って、不況下でも卒業生を積極採用したくらいです。博愛精神が会社の DNA に組み込まれているのだと思います。

平成19年4月28日

食品ロボットの開発者(小林将男さん)が「失敗を乗り越えて成功してきた」と語るのをつかまえて、失敗続きの構想に固執することを批判する宮田さんを揶揄するコメントが。

宮田さんがいうのは、大きな成功は必ず何らかの飛躍を伴うという話。失敗と改善の繰り返しから大きな成功はない、と。じつは小林さんの記事も宮田さんの記事と整合が取れています。古いアイデアの機械をどう改良しても埒が明かず、ずっと悩んでいたところ、ついに革新的なアイデアが閃いたというのです。

よいアイデアでも試作が一発でうまくいくはずがない。そこは試行錯誤、3回程度の失敗にめげてはならない。そういう話を小林さんはなさっているのだから、宮田さんと仲良くすることができそうですね。

失敗→修正、また失敗→また修正、それはそれで大切なことだろうけど、だんだん気分がしょげてくる。もっとババーンと機能向上したい。そのためには、今そこにある失敗をどうするかという近視眼的な考え方だけではダメで、抜本的解決策を模索しなければならない。宮田さんの主張は、常識的なものです。

にもかかわらずタイトルの付け方ひとつで大きな反発を招く。全体としては普通のことをいっているのだから、まず全体の感想として賛意を表してから、「タイトルはまずかったですね」と書けばいいだろうに。

ページビューを広告販売に結びつける算段で無料公開されているサイトなのです。多少の引っ掛けくらい、読者の方で大目に見るべきだと思う。日経ビジネスオンラインの存続より、エラい人を叩きたいという欲望を平気で優先する人って、私のような読者からすると迷惑千万。

追記:記事の公開を保留している間に宮田さん擁護のコメントがいくつもつきました。

平成19年4月28日

アメリカの野球選手は契約更改の際、年俸を公開するのが普通だという。年収を訊ねることを不道徳と考える日本人の方が、世界的には少数派? 収入を隠すことで何が守られるのか、私にはよくわからない。

これは私が会社から給与明細をもらうたびに更新している簡単な記録です。納税者といって偉そうにする割には、ほとんど税金を払っていないことがよくわかる。

で、こうした情報を公開してですね、一体何がどう困るのか、私にはよくわかりません。もともと倫理的な問題らしいので、こういう質問には意味がないのかもしれませんが。

詐欺の可能性がどうのこうのという人がいることは承知。でもそれってネットで実名を出すと天変地異が起きるぞ論(2005-06-27)と同じなんですよ。1億人が「あの人は金持ちだ」と知ってる有名人が既にたくさんいるわけでしてね。

先に結論が決まっているから、小さなリスクを針小棒大に取り上げてるに過ぎない。だから現実と矛盾してしまう。

堀越学園の校門前で張っていれば芸能人にはすぐ会えるし、後をつければ家だって分かる。写真週刊誌の記者はそういうことをしてる。そういうことがずっと続いている中で、一般人が子供の写真をウェブに載せると誘拐されるとかいって怖がる。アホか、だったら芸能人全員に警察は今すぐ護衛をつけるべきだね。

ダウンタウンの人とか、大金持ちだって、誰でも知ってるじゃないですか。なのに顔も名前も家も、両親の顔と名前まで公知になってる。一番ヤバいのはああいう人でしょ。でも大丈夫。もちろん犯罪の被害にあう可能性はあるけど、差し迫った危機はない。そういうもの。

事故が怖いからって車に乗りませんか? 車は乗らなきゃ生活できないって? ふーん、生きる最低限度しか乗ってないんだ? ドライブとか行かないんだね。そんなわけないっての。おぼれる可能性があっても海へ行く。怪我する可能性があっても山へ行く。気分が悪くなりそうだと思ってもジェットコースターに乗る。

でもブログに子供の写真は絶対に載せません、年収は絶対に公言しません? 理屈じゃない、ってか。自分がそうするだけじゃなくて、他人にまで勧めるんだよねえ。そうして変な常識が作られていく。

そういう現実無視で直感に従う態度が日本を敗戦に導いたんじゃなかったっけ? 今回は安全方向に振れてる話だからいい? 戦争の理由は民族の存亡を賭けた自衛がどうのこうのだったと私は記憶していますが。(いきなりぶっとんだオチ)

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以下、オマケ的展開。よくわかりませんが、ギスギスしています。

平成19年4月28日

XHTML の場合、すくなくとも well-formed であれば他人に使ってもらうのは十分だ (パースできるから)。Valid である必要は実際はなくて、趣味だと思う。(ちょっと乱暴だけれど) XHTML の要素の意味なんて考える必要なんてない。そんなことは酔狂なやつだけがやっていればいい。div 厨で br 使いまくってても well-formed のほうが素敵だ。でも HTML の場合はそうはいかない。Valid じゃないとちゃんとパースを完遂できないんだ。DTD を頭に入れていなければ HTML は書けないんじゃないかな。

こういった意見は、私にはよくわからない。どうせ XHTML だって大半の人が文法ミスしているんだから、well-formed な文書だけを想定した再利用システムなんか、他人の文書を扱う用途には無力に等しいんじゃないの。HTML が Valid なら XHTML への自動変換プログラムはいろいろ公表されているので、たった1回、それを通すだけの手間に過ぎない。文法ミスのある文書を再利用する手間とは比較にならないよね。

有料だけどサイト丸ごと変換できる優秀なソフトウェア。私も使ったことあります。お勧め。

あと、既に存在する文法違反のある文書の量があまりに膨大なので、今後も主要なウェブブラウザは文法違反に甘いままだろうし、そもそもウェブブラウザが文法違反に甘い設計になっていることには根拠があると私は思ってる。HTML がその仕様上、一般人にテキストのマークアップを求める、絶対に完全自動化できないものとなっている以上、文法ミスは一切ダメなんていう HTML 文書ビューワは役に立たない。

プロだってミスをする。プログラムを書いていて、コンパイルエラーは日常茶飯事でしょ。私は書かないけど、同僚が書いてるのを横から見てると、1時間エラーが出なかったら、それは特別にツイてる日。WWW がそういう厳格な世界だったら、みんな嫌になってるんじゃないか。

ただ、一般人に見出しがどうのこうのとか考えさせない前提なら、将来的には文法ミスゼロの方向もありえる。Word が Word 形式での文書保存に失敗するなんて、ふつう考えられないことだからね。ああいう感じで、みんな GUI 経由でしか HTML 文書を作成しない、と。XHTML は application だから、それはありえる。

まあ、ずっと先の話ですね。文法違反のない文書が違反のある文書を無視できるくらい圧倒的な分量にならなきゃいけないわけだから、3年や5年じゃ足りない。最低でも10年先の話だと思う。ま、私は永遠にそういう日は来ないと思うな。少なくとも XHTML に関しては。

冗談でなくて、割と本気で、ブラウザ戦争は MS が早期に圧勝すべきだったと思う。そして HTML 文書の作成環境と表示環境、仕様の策定まで全て同時に押えてしまえば、ミスしまくるレベルのクセにソースを直接触って文法違反をするユーザを無視できるほどの少数派にしてしまうことができたろうに。

あと CSS コミュニティの無謀な戦いも、生じなかったはず。理想主義の HTML4 がそもそも策定されない世界なので。W3C の仕様なしに俺定義 HTML で戦えるテキストベース HTML 愛の持ち主は、コミュニティが形成されるほど多くはないだろう。

平成19年4月27日

HTML4 との互換性を非常に大切にしている現行の XHTML について、「わざわざお勉強する意味あるの?」と問うのは、半ば反則ではないか。かくいう私も、「HTML で満足している理由」を説得的に語るのが難しいので、XHTML を使う人にボールを投げてしまうことが多いけど。

ただ、私は XHTML が HTML から引き継いだ「絶対に機械任せにできない領域」を引き継ぐ限り、そしてまた HTML 文書をそのマークアップまで含めて再利用する行為に大きな需要が生じない限り、ほとんどの人は今後もずっと HTML4 で満足できるのではないか、と予想しています。→いくらツールが進化しても(2003-03-29)

いま XHTML は text ではなく application だ、ということになっています。XHTML のソースを解釈するのは人間ではなく計算機が妥当、ということ。となると一般人に XHTML を意識させるのは無理な要求。XHTML 文書を作るのにテキストエディタなんか使うのは、一部のコーダーに限定されるのが正しい。

いま大勢が XHTML 文書をせっせと生産しているのですが、ブログや SNS の投稿画面で記事を書く人が大半。するとやっぱり、こうなる。

ここからわかることは、HTML4 だって世間の需要から考えたら高級過ぎたということですね。

フォームとか至らない部分もあるけれど、テキスト本文のマークアップは br と span と div があれば十分だったのでしょう。見出しも h1 と h2 の2段階くらいで支障なかったらしい。ハイパーテキストのハイパーたる所以である a 要素だって、URI 直書きでいいでしょ、というのがコンセンサス。

a 要素はもうちょっとていねいに考える必要があるにしても、他の要素の大半は、それが無くても HTML の普及に影響しない存在だったことが伺えます。ようするに HTML4 なんてのは PDF のようなもので、単にビューワが普及したのでデファクトスタンダードになっただけ。

マイクロソフト社がネットスケープ社を買収してブラウザ戦争があっという間に終結していたら、今頃、HTML Vista とかいう仕様が発表されて「HTML XP から乗り換える意味なんて無いよねー」とかやっていたに違いない。Mosaic の頃を思い出すに、W3C はブラウザ戦争があったから求心力を得たに過ぎないような……。

で、私が思うこと。

MS が HTML を引っ張り、HTML 98 で見出しやリストなど、いわゆる論理マークアップ系の要素を全廃していたら面白かったかもなあ、とか。HTML はブラウザに文書がどう表示されるかを指定する言語です、と仕様書に明記されてしまうアナザーワールド。

念のために付記するけど、仮に HTML が前段の歴史を辿ったとしても CSS のような仕組みがユーザに求められることには変わりない。今でもマークアップへの無関心とスタイルシート大好きの両立は珍しくありません。よって HTML の進化の方向性と関わりなくスタイル指定の仕組みは登場し、発展していたはずです。

平成19年4月27日

サービスと価格(2007-04-27)のオマケ。

そもそも従来、プリペイド方式のバスカードとかに割引設定があったのは何故だろう。

経済学の本を読むと、現在割引価値という考え方が出てくる。

お金というのは運用できるから、バス会社が先払いでお金を受け取ってから、運転手の賃金といった形で支払いが行われるまでの時間差を利用して、ちょっとお金を増やせる。インフレのときなら銀行に預けておくだけでも利子がつくだろうし、デフレなら物価が下がるから、もらったお金を使うのが遅くなるほどお得。

でもこれだけじゃ、割引率の全ては説明できないか……。

カードを落としちゃうとか、しまいこんで無くしちゃうとか。そういったプリ(先に)ペイド(払う)ことにはリスクがあって、その分が事業者の得になるので、お客さんに還元するのかな。

あとは純粋にサービスだろうね。安くしておくから他社に目移りしないでね、と。規模の利益というのがあって、基本的にはお客さんを増やして平均乗車率を高めることで利益が出やすくなる。仮に既に損益分岐点を越えているなら、後は大勢乗せた分がほとんど全部、丸儲けになる。だから多少の割引をしてもいい。

もっと他にも何か儲かる理由があるのかな? 素人の思い付きを並べただけなので、見落としは当然あると思うけど。

ちなみに利用者としての私がプリペイドカードを好きなのは、現金清算を面倒くさいと思っているから。この利点ひとつで満足なので、パスネットカードみたいに割引なし(ありましたっけ?)のプリペイドカードも進んで買ってきました。運賃表を見間違えて無駄に高い切符を買ってしまうことがないのも嬉しい。

平成19年4月27日

1.

1冊126円(送料込/延滞料金なし/月会費980円)という価格設定を高いという人がたくさんいるみたいだけど、私のように1ページ30秒より速く読めない人にはすごくうれしいサービスだと思う。

ブックオフで100円本を買う方が安いことは安い。また売ることもできるしね。ヤフオクでも送料別ながら1冊100円を切る価格設定の商品はたくさんある。だけど、そういうことじゃないと思うな。

オンラインでデータベースをサクサク閲覧して、「これ借りたいな」と思ったらボタンをクリック。これで玄関まで届けてくれるわけでしょ。このサービスのよさに、私はお金を払っていいと思っています。今は音楽と映像に時間を浪費しているので、それに飽きたら、という感じかな。

2.

値段が高いといえばやっぱりYahoo!コミックかな。ちょっとひどいと思うのは、コミックを「購入」しても80日間しか閲覧できないというシステム。それで1冊315円。いろいろ事情があって部屋から出られない人には需要がありそうだけど、この価格だと私なら印刷された本を買う。

1冊試しに買ってみましたが、200ページで14MB程度。ダウンロードしやすい代わり細かいところが潰れてるのは、無料の立ち読み版と同じでした。これだと、ラッキーマンの小さな書き文字とか、読めないんじゃないかなあ。そういう作品はラインアップしないのかもね。

Yahoo!コミックを利用するなら、セット商品がお勧め。雑誌のような形態で、月に525円払うと、10冊くらい、出版社のお勧め商品を読める。「本宮ひろ志コレクション」「さいとう・たかをセレクション」など。あまり種類がないのが残念だけど、気に入ったセットがあれば検討してみてもいいかもしれない。

ネットで完結するサービスは手軽さという点では最強なんだけど、私にとっては価格が厳しいことが多い。東京暮らしということもあって、退勤時にちょっと足を延ばすだけでいろいろなお店に行けるから、あまりネットで完結する便利さにお金を払う気になれないのだと思う。

「最寄の書店まで15km」みたいな環境だったら、Yahoo!コミックも悪くないんだろうな。

3.

SuicaPASMO について「10000円入金したら500円オマケしてくれるといったサービスがないのは信じられない」みたいな意見を、一時期よく目にしました。従来のプリペイドカードの感覚だと、そういうことになるのかな。

でも、Suica が嫌いなら、これまで通り現金で切符を買えばいい。ブログで「こんな殿様商売を続けるなら私は Suica を使ってやらないぞ」と脅す人がいるけど、PASMO は人気があり過ぎて定期券以外は発行停止だという。ふんぞり返っても、誰もありがたがってくれないんじゃないかな。

Suica の改札タッチ&ゴーは切符や定期券を財布から出し入れする手間が省略されて革命的に楽ちんだし、買い物にも気軽に使える。View Suica カードにすればオートチャージも可能で、入金の手間さえ要らない。PASMO の運用開始で、JR も私鉄もバスもこれ一枚。これだけいいことがあって、追加費用ゼロ。

非常に良心的な価格設定だと思うけどなあ。ちなみに私はビックカメラSuicaカードを使ってます。

平成19年4月27日

先日、話半分に読んでください。どうも自分史的なものを書くと、無駄に盛り上げてしまう悪い癖が……。書いた件について、もう少しだけ。

無駄に盛り上げていきましょう!その方がおもろいですよ。

第1稿はノリで書くから、たいていひどい。そのまま公開してしまうことが大半ながら、ときどき恥ずかしさが勝って中途半端に表現を抑制することがあり、シャレかマジか微妙な感じになってしまう。やっぱり、やるならとことん……そうでもないか。

70年代、左翼過激派の爆弾に親友の命を奪われ、勤務先の倒産から生活基盤が崩壊、オイルショックで商店から品物が消え死都と化した東京を彷徨った父は、同じく底辺の生活にあえぐ多くの人々の善意を受けて生き延びた。

「情けは人のためならず」が誤解される世の中ですが(2006-10-30)の一節。ぶはは、自分で読み返してもおかしい。脳内の父(70年代Ver.)は飢えて痩せこけ、木の枝を杖にして、足を引きずりながら、「北斗の拳」に描かれるような街の中を歩いているわけです。そのイメージを抑制して文章にしたはずなのに、この演出過剰。

理由はわからないけど、私には親族に苦労人属性を付す願望があるらしい。それにしても死都と化した東京とは呆れます。父の親友が左翼の爆弾で殺されたのも事実ではあるのですが……。

ま、今後も備忘録は話半分に読んでください。

平成19年4月25日

「あの……ぼくは、格差社会とか、嫌いですから」サーッと潮が引くように空気が冷め、派遣さん叩きの話題は唐突に終わった。

このブログはいつも愛読していて、かなり毒舌だったり強い調子で主張している印象があるのですが、なにこの弱々しい雰囲気の発言・・ちょっと驚きました。

1.

私は中学・高校時代、部活動では王様として権勢を振るった一方、教室では気弱で無口な生徒であろう、と努めてきました。

大学時代も、バイト先ではキレ者ポジションを取った一方、本業の方は「まじめだけど学業成績は並以下」との印象を与えるように気をつけていました。ただし研究室には本物の学力不振者が2人もいたので、腹をくくって優秀な学生を演じることに。

社会人になってからは、新人研修中、ちょっとだけ主導権を握る試みに手を出したものの、その後は気弱で無口で目立たない基本路線を踏襲。そうこうする内に、ホントに仕事上のスランプに直面し、ヤバイヤバイと思いつつ今に至るという状況。仕事が精彩を欠く中、強気の発言は無理。戦略とかいってられる状況にない。

「有能さを示す→期待を集める→再び成果を出す→ステップアップ」という道を進む楽しさは、私も知っています。けれども、際限がない。自分は満足しても周囲はもっと上を求める。ついに天井にぶち当たり、期待外れの結果を出したとき、落胆しつつも「応援してるから次も頑張って!」という人々の顔が悪魔に見える。

目立たずひっそりと、才能を贅沢に使って生きるのが、自分にとっては一番幸せなんだと、小学生の頃から気付いていたように思う。

部活動やアルバイトなど、頑張っても高が知れてる環境でばかり全力投球。とくに部活動、美術部では絵を描かずに文化祭準備の音頭取り、文藝部では文章を書かずに編集と製本の指揮を執る、要求のエスカレートなんて「ありえない」場所を、半ば無意識的に選んできたのです。

2.

私は少しだけ勉強が得意だったので調子に乗って小学生の頃から「東大に入る」と公言する羽目になりましたが、いかんせん実力が伴わない。学年トップ5では全然足りない。ときどき茶目っ気を出してバカな先生をからかってみたりもしたけれど、高すぎる目標に恥じ入り、萎縮する部分が常にありました。

家に帰れば文武両道に秀でた弟がいて、私なんか何をしても勝てないのだけれど、素行の悪さで親の期待を外す高等技を幼少時から磨き続けてる。弟が「俺も東大に行こうかな」とかいっても両親は「バカなこといってないでさっさとご飯を食べ終りなさい」。

驚いたのは弟が大学受験で鮮やかに全敗し、一浪したこと。よりによって国立後期試験で私の出身大学を受験しながら落ちる離れ業。あらゆるデータが弟の有能を示しているのに、決定的な場面で「まじめに頑張ってきた兄貴にふまじめな俺なんかが敵うわけないよ」という印象を周囲の全員に植えつける。

それから1年間遊んで過ごし、私が手も足も出ず落ちた大学に合格。現役受験のときからA判定だったのだから、楽勝だったろう。ここでもマジ勉強して東大に受かっちゃう、という道を選ばない。兄の面子を守る。

これぞ人生の達人ではあるまいか。期待に押しつぶされちゃう人、たくさんいるじゃないですか。期待を回避しつつ才能を発揮し、いいポジションを獲得していく。自分は心の弱い人間だという自覚があるなら、真剣に検討すべき生き方だと思う。

3.

ただ、私が弟になりたかったかというと、それはない。実家を出るまで19年の弟の人生は、母とのバトルの歴史でした。「小遣いがほしい」「お兄ちゃんはそんなものをほしがらなかった」「ファミコンがほしい」「お兄(以下略)」「お年玉が少ない」「お兄ちゃんはそんなこと(以下略)」。

こんな兄の下でフツーの子どもであろうとすることが、いかにつらいか。親より長生きできたら、遺産は全部、弟にやりたい。物やお金をほしがらないことで散々弟を苦しめてきた私が、親の遺産だけはほしいとか言い出したら、ボロボロ悔し涙を流しながら母と闘ってきた弟の人生はなんだったのか、ということになる。

「ご飯を食べても、おいしかったときには何もいわないで、まずかったときばかり文句をいう。お前には人に感謝する気持ちがない!」と母がいえば、弟は「親が子に食事を与えるのは当たり前だ!」と堂々と口にした。ひどい主張だけど、世界にただ一人の自分を愛してほしいと願った心の叫びに、今の私は胸打たれます。

もちろん母は弟のことを大切に思っていた。そんなことは日記を見れば誰だってわかる。産後、全身の関節痛で歩行さえつらくなった母。しかし一度だって泣き言や恨み節を口にしなかった。日記には二人目の子の母となった喜びと感謝の言葉だけが記されている。

私は弟との対比で両親に愛されることを望み、小遣いやファミコンはそのコストと割り切っていた……こんな解釈もありうる。事実は私にもわからない。でもこれからの生き方は自分で決めることができる。弟は「お兄ちゃんのせいで……」とはいわなかった。弟は自分の生き方と同じように、兄の生き方を認めていた。

相続放棄のためには、まずお金に困らないこと。この5年、何の苦労もなしに収入の4割が余っています。そう、努力してはいけない。それでは嘘になる。この先10年、20年、つつましい生き方こそ我が行く道と、私は証明できるだろうか。

補記

話半分に読んでください。どうも自分史的なものを書くと、無駄に盛り上げてしまう悪い癖が……。

平成19年4月24日

まだうまく言語化できていないのですが、流言飛語の類には、たいてい似たような雰囲気がありますね。日頃よくいわれるのは、「ネガティブ情報への感度を高くせよ」ということ。でも、「仕事上のポカを減らす」みたいな話と、人の不安に付け込んで広がる話には段差があります。

怪情報といえば選挙。でも先週末の区議会議員選挙では、何もなくて拍子抜け。東京じゃ怪文書とか、流行らないのだろうか。まあ、アパートの集合ポストに併設されているゴミ箱に選挙公報がドカドカ放り込まれているような状況だから、コストに見合わないのかもね。うちのアパートの住民で選挙に行ったのは数人か?

集合ポストといえば誤配達。ガス会社から「緊急」とかいう手紙が来ていたので開封してみたら、ガス供給の停止予告。自動振込で口座には100万円以上入ってるのにおかしいなと思ったら、宛名が違ってた。お隣さん、大丈夫か。

平成19年4月24日

素人なりに経済学的に考えると、やはりこうした複雑な問題を解決可能なアイデアは「市場」の他にないのではないか。でも、この提案は実現されないと思う。

渋谷109には、一部、別の建物が食い込んでいる部分がある、という話。この事例が単純にそうだとは言い切れないけれども、全国各地でこうした困った状況が生じる最大の理由は、経済的合理性のある価格で満足しない土地所有者がたくさんいることでしょう。

著作物をめぐる議論では、土地以上に、経済的合理性より「思い入れ」が重視されます。したがって残念ながら「著作権を経済的合理性の範囲内における利用料請求権に矮小化し、あとは「市場」に任せましょう」なんて主張は通るまい。川内VS森のおふくろさん騒動でクローズアップされたのも「心の問題」でした。

著作権の「思い入れ」過剰問題は、とくに「遺族」が関わるケースで目立つ。土地問題もそうですが、「市場」が機能不全になるのは、売る側に余裕があるとき。著作物を売らなくとも、土地を手放さなくとも、生きていくには支障ない。だから経済的合理性を欠く価格を設定して「売らない」ことが可能。

そこで「固定資産税を10倍に」みたいな提案も、地価高騰のたびに取り沙汰されます。需要の大きな(=価格の高い)土地を占有しながら、ろくな利益を生み出せない人には、移動してもらいましょう、と。

結局これも、人が暮らす土地は適用対象外にしよう、とか日和って遊休地のみ課税すべしという議論になりがち。しかし遊休地の少なからずは、土地買収が進まず住宅などが虫食いのように残っていることが、放置の原因。遊休地のみ課税する案では時間のかかる土地買収が抑制され、かえって都市の再開発は進まない。

経済学が陰惨な学問である所以は、人々が後生大事にしている「思い入れ」が、どれもこれも最大多数の最大幸福を阻害していると論証してしまう点だと思う。

「人間不在のマクロ経済学」なんて言い方は、じつは精緻な人間観察を基礎としている経済学を奉ずる人々にとって聞き捨てならないでしょうが、そういいたくなる気持ちはわかる感じがします。生まれ育った土地で終生暮らしたい。代々の家業を引き継ぎたい。こんな素朴な願いを、非推奨と結論付けてしまうのだから。

逆にいって、この手の「思い入れ」が世にはばかり続ける限り、まだまだこの社会には大きな発展の余地があるといえそう。

【北京=時事】中国・重慶市で開発業者の立ち退き要求に抵抗し続けていた夫婦が2日午後、地元裁判所の調停で和解に応じ、別の場所に移るとした協定に署名した。夫婦が立ち退いた自宅は業者が解体した。華僑向け通信社、中国新聞社電などが伝えた。開発業者が周辺の土地を約10メートルも掘り下げ、自宅が「陸の孤島」状態になっても闘い続けた夫婦について、国内メディアなどは「最強の居座り」事件として大々的に報道していた。

この地域は古い家屋が並んでいたが、政府による再開発決定に伴い、2004年に立ち退きが始まり、開発業者は夫婦に350万元(約5200万円)に上る立ち退き料を提示。しかし夫婦は納得せず、3月に私有財産の不可侵を明記した「物権法」が採択された直後から、「国民の合法的な私有財産は侵してはいけない」などの張り紙をして、世論を味方に抵抗を続けた。

裁判所は3月30日、夫婦に対して4月10日までに立ち退かなければ、法に基づき強制的に退去させると通告。双方と協議を続け、夫婦側が業者が建設した店舗兼住宅の提供を受けることで和解が成立したという。夫婦は2日午後、自宅に飾り付けていた国旗や張り紙なども撤去した。

5200万円……。資本主義経済をうまく回していくためには、経済的に妥当な価格を提示されたなら土地を売るべき。自由が基本の資本主義だけど、それって人間が損得で動くことを前提としているわけで、損得無視で「思い入れ」過剰に行動する人が大衆に支持されるようでは困るのです。

平成19年4月24日

義務教育を3年延長しようなんて話を聞くことがあるけれども、私は中学までで十分だと思います。ほとんど全員が受験に挑戦するのは、じつは高校受験の時期しかない。(大雑把にいって)高校生の半分は、入学後、目標を見失って3年間のモラトリアム期間を過ごすことになります。

高校まで義務教育になったら、若者の半分が、生涯に一度もお勉強を頑張る機会を得られなくなってしまう。大学全入時代といっても、受験勉強がなくなることはないでしょう。それは高校受験を見ればわかる。(ほぼ)全入なのに、底辺の子までが塾に通う。受験は子どもの成長イベントとして有効に見えます。

歴史を書かない女性たち(2005-08-27)に、女子のウェブコミュニティは高校時代がひとつの転機となって、大人の仲間入りをしていく、と書きました。これは不正確で、じつは高校受験の段階からその変化は始まります。受験を名目としたサイト・ブログの休止や閉鎖、方向転換が相次ぐ。いずれ彼女らはウェブに帰ってくるけれど、元の場所には戻らない。

無論、復活後も同人系サイト、という可能性は低くない。けれども、関わっていくコミュニティの質は変わります。

高校受験期の子どもたちを見るに、テレビドラマの「ごくせん」「GTO」「ガチバカ」などが高校を舞台にしているのは、物語の展開上、必然性があると感じます。「GTO」の原作は中学校を舞台にしていますが、多少のリアリティを求めるなら、設定を高校へ変えたのは正解。「金八先生」が視聴率獲得に苦しむのは必然。

「野ブタ。をプロデュース」も高校が舞台でなかったら、ヘンな話になっていたのではないか。

ともかく、戦争と評されるような受験競争が去った今、受験のプレッシャーは中学校の平和に資する、ちょうどいいレベルになっているものと思う。あとは個々人の向き合い方の問題。思いつめる性格の子どもには、もちろんフォローが必要。ただ、受験全否定の主張には与しない。

id:s_voice さんのお嬢さんは今、高校生? サイトを再開したのか、まだウェブを距離を置いている時期なのか。

余談

これなんだけど、父親もブログをやったらいいんだよね。地道に頑張って圧倒的なアクセスを稼ぎ、満を持して必殺文中リンクでお説教をぶつ。DQN な娘のブログは見事に炎上するんだけど、父親はただ涙、涙。俺は一体どこで人生を間違ったのか。その後、ブログが書籍化されて貴重なお小遣いになる。

余談2

いつの間にか消えてたor更新停止してた知人のサイト。

とりあえず、これくらいかな。逆に、ひとつところで書き続けている方もいて、私の少ない知人の中でも3人。

ちなみに私のいう「知人」とは、「mixi へ行かれるともう発見できない」程度の関係と考えてください。じつはここ2年ほどの間に知人のサイトの過半が mixi に消えてしまいました。

平成19年4月24日

1.

これは自分には能力があると信じる人のための記事。ふつうの人にはふつうの能力しかないので、いい会社に入ってゲタ履かせてもらう方がいいに決まってる。トヨタ関連企業を勤め上げた伯父もいってた。「能力が同じでも環境次第で成果も給料も全然違うんだよなあ。俺はトヨタ関連企業ですごく得をしたと思う」

会社にはシステムとしての力があって、同じ能力の人でも、優秀なシステムの中で働けば、大きなアウトプットを実現できる。優秀な機械だって、部品の大半はふつうのネジや鉄板。組織も同じ。組織の大半はふつうの人で十分なのであって、ここに「ふつうの人は勤務先次第で大いに得をできる」理由があります。

能力の低い人から順に失業していくなんて、ホント嘘っぱち。就職活動なんて、「縁」がほとんどなんじゃないか。私の勤務先でも「勉強は苦手ッス」という超サイヤ人風の高卒の子、採用しているわけで。大卒で面接に落ちた人の何人かが悔しがりそう。うちの会社、給料ほとんど一緒ですからね、大卒でも。

2.

ここ何ヵ月か、就職活動中の多くの学生さん達と話す機会を得ました。いろんな方々と話しているうちに、会社選びをしているはずの当の学生さん達の多くが、いい会社の条件について確固たる基準を持っているわけではない、という思いをますます強くしました。

(中略)「いい会社」のイメージとして、多くの学生さんがいだくものの筆頭は、「安定している会社」「儲かってる会社」「勝ち組企業」でしょう。

仙石さんは「違う」といいたいようだけど、私は学生の方が正しいと思う。特別な信念がないなら、安定して儲かっている勝ち組の大企業を目指すのが断然正しい。凡人は新卒でなければ大企業への入社は難しい。後から「やっぱり大企業にすればよかった」と思っても遅い。逆に中小企業へは後からでも行けます。

右も左もわからない学生に、会社の将来性なんかわかるものか。どうせわからないのだから、データ上、圧倒的に確実な道を選ぶのが安全に決まってる。わざわざ不安定で赤字で負け組と呼ばれている企業に入る必要は全然ない。データといえば、社員の平均勤続年数が短い会社は怖い。要チェック。

大半の学生は平凡なので、仙石流の確固たる基準なんか気にしない方がよい。謙虚に安全策で攻めること。プライドを刺激される言葉には要注意。学生をおだてるような会社って、たいてい労働条件がとんでもないんだから(知人談)。

3.

「安定している会社」を求める以上に不可解なのが、「福利厚生の充実度」を気にする学生さん達です。いったい会社に行って何をするつもりなんでしょうか?

昇進や査定次第で給与には格差がついても、福利厚生は平等ですからね。そこそこ自信家の学生でも、保険はかけておきたい。よって福利厚生重視は当然。あと過労死はホント怖い。きちんと有給休暇が取れて、残業もほどほど、という会社を望むことの何が不可解なのか。

多くの学生さんは、たしかに自分の思っていることをうまく説明できない。だから仙石さんが説得にかかると、一瞬でねじ伏せることができる。でもこれって不幸なことなんです。仙石さん、大勢の学生と話しながら、いまだにこの程度のことを不可解と仰っている。

バカな連中を論破したつもりでいて、多分、仙石さんの言葉は届いていないと思う。相変わらず、学生は福利厚生の充実した会社を目指している可能性が高い。仙石さんの前ではもう、そういうことは口にしないだろうけど。

逆リンク!

平成19年4月24日

派遣社員は同僚じゃないのか(2007-04-23)の補足記事。

1.

ビジネスに関係ない人は想いだけを語れて気楽でいいなと感じた。気持ちは分かるがそれじゃビジネスじゃないんだよね。

以前から折に触れて書いているように、私の勤務先は労働組合が非常に強く、地位より年功が圧倒的に重視される賃金体系(=地位は権限であって給与ではない)とか、一切の査定を行わない(=能力・成果主義賃金制度の完全否定)といった特殊な環境です。結果平等志向で、人に優しい会社。

私は「人心の荒廃した平成ニッポンに、まだこんな会社があったのか!」と感動して入社したような人間です。派遣社員の契約は3ヵ月毎の更新。「病欠が多いのでチェンジ」がふつうなのはわかる。でも半年〜1年のスパンで病状回復を待つ幹部の方針に、うちの若手ならきっと協賛しているものと思っていました。

でも、違った。まさか、病に苦しむ人から職まで奪うことに良心の呵責を覚えないなんて。

ビジネスをないがしろにしたら、会社というシステム自体が倒れてしまう。優しさに殉じることはできない。でも、ビジネスって一歩も譲れないようなもの? それに、職をなくした人は行政が助ける。そのお金は誰の負担? やっぱり私たちでしょう。

2.

主な理由としてはリストラしなければならない時に社員を守る為でしょう。「派遣社員は同僚じゃないのか」なんて怒るぐらいなら最初に「何で派遣社員としての採用なんだ」と怒るべきなんじゃないですかね。大リストラを目の当たりにした人にしては考え方が甘い気がします。

それはそうですが、大リストラ後、組織も商品も顧客もどんどん変化する流動期に突入した弊社では、機動的な経営のため、どうしても派遣社員に頼りたい事情があります。新規契約も契約満了も珍しくない。

そうした中、なぜ私の職場の幹部がチェンジに二の足を踏むか。本当のところは知りません。複雑多岐にわたる仕事のルールを、新しい人にイチから教えなおすのが嫌だ、というだけのことかもしれない。でも私は、派遣さんの失業を心配しているのだと思います。

今、景気がよくて、派遣の費用に上昇圧力がかかっています。「4月から」とお願いしても、「条件を満たす人は5月まで無理です」と大手の派遣会社さえいう。だから健康なら、契約を切られても、すぐに他の会社へ行くだけのことでしょう。だけど病気でチェンジとなると、他に行き場がないのではないか。

私は必ずしも派遣という形態自体が否定されるべきとも思っていません。正直、派遣・パート・請負なしに事業の再生も黒字化も無理だったと思う。新事業を展開できず、無策のまま赤字が続けば会社は融資を止められ、関連企業まで含めれば2000人以上が路頭に迷うことになったでしょう。

ただ、今ある利益が何を削った結果なのかは考えるべきで、だから失業に直結するようなチェンジを、簡単にすべきでない。私はそう思っています。

3.

平成19年4月23日

解雇は行き過ぎ、という感想が目立つのはわかるけど、4月に採用されたばかりとのことだから、まだ仮採用期間だろうと思う。私の同期でも一人、本採用されなかった人がいる。まじめで有能だったが、健康に問題があったのだという。「冷たいな」と、そのときは思った。

入社2年目か3年目の出来事だったと思うけど、数年間の休職から復帰した人がいた。入社1年目に大リストラがあったが、希望退職を募るという方法だったから、退職を希望しなかったその人は会社に残ることができたわけだ。いったん本採用した人は、簡単には解雇できない。会社もたいへんだな、と思った。

いま、うちの職場の派遣さんが病気を抱えていて、休みがちになっている。職場全体で配慮して仕事量を減らし、じっと回復を待っている。幹部が一枚岩でこの方針を支えているから、みな派遣さんに優しい。けれども、それは「表向き」に過ぎなかった。

私と同期の同僚が一人、転職するので、先週末、若手中心に送別会が開かれた。「いやー、本当に残念だな。新しい職場でも健康に気をつけて活躍してね」と、みな心から彼の新しい道行を応援していた。これは彼のいないところでも同じで、さすがうちの会社の社員は人柄がいい、と感心した。

ところが、件の派遣さんの話題になるや、「派遣なのに、どうして人を代えないのか」いきなりガツンとやられた。「当人の手取りの給与は俺らより少ないかもしれないけど、会社が出しているお金は多いはず」20代の手取り月給は20万円を下回る。総支給額も30万円に満たない。でも派遣さんはずっと給与据え置きだよね?

いやいや、そんなレベルの話じゃない。この衝撃は、新人研修で中国の協力工場(平たくいえば下請工場)の労働条件を説明されたときに近い。

ゆっくり、ゆっくり状況を飲み込むにつれ、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。病気の心配をする前に「あいつをクビにしろ」とは。「派遣だから」切っていい、と。同じ職場で働く仲間に、どうしてそう冷たくなれるのか。とはいうものの、和やかな送別会の席をぶち壊すだけの確信はない。

「あの……ぼくは、格差社会とか、嫌いですから」サーッと潮が引くように空気が冷め、派遣さん叩きの話題は唐突に終わった。

補記

中国工場の件、結局、5年間何もせず現在に至る。一社員の立場でどうこうできるものでもない、なんて言い訳だ。搾取の受益者がこんな日記で義憤を書くなど、あまりに偽善的。

昇進には興味ありません、といってクビにならない程度にグダグダ仕事をしている私のような人間は、受益者の地位に安住して、誰も助ける気がないのだと思う。能力主義志向の若手が幹部になる頃、私は進退窮まって人生を後悔するに違いない。そう予想しながらもなお、私は何もしない。何故だ?

平成19年4月17日

プロ野球の「裏金問題」が話題になっているとか。一部の球団が、申し合わせの金額を遥かに超える大金を積んで大卒の投手を獲得していたことが発覚し、今秋の新人獲得からは、選手側が球団を選択する自由がなくなり、くじ引き一本になるのだそうだ。

経済学を知らない私、もちろん質問に正対した答えは書けないから、以下の記事を下敷きに、思うことを少々。

経済学的には、自由市場に任せて最高の条件を提示した球団へ選手が入るのが当然であって、くじ引きとか契約金に上限をつけるとか、全部ばかばかしいということになる、っぽい。

これって、こーぞー改革で景気回復とかいう話と同じで、「球団戦力の均衡がプロ野球人気を回復する唯一の道」と信じるのが常識ある社会人、ということになっているから、カルテル強化に大衆は拍手喝采するのではないかな。

いま戦力均衡の夢はちっとも実現せず、眼前には「(概ね)強い球団ほど客の入りがいい」という現実がある。だから掟破りが横行する。合成の誤謬があるんだ、と人々は思う。よってカルテル破りを厳罰に処し、抜け駆けのリスクを途方もなく高くすることで、「ズル」をさせまいとする改革が進められている。

ようするに囚人のジレンマの問題と認識されているわけ。巨人みたいな金持ち球団がいい選手を全部獲得したら、その球団だけは一時的に儲かるかもしれないが、プロ野球全体は沈没してしまう。放っておいたら絶対に失敗する市場なんだ、と。

私が疑問に思うのは、「本当にそうなんですか?」ということ。「当たり前じゃないか」という空気に、大多数の人々が流されちゃってる。だけど私は一度も、戦力の不均衡がプロスポーツの人気を衰退させるという実証分析を読んだことがない。20年も新聞を読み続けてきたのになあ。

新聞に限らないけど、記者さんや大半の評論家って、ほんのわずかな事例から一般論を引き出すから困る。そういうのは素人のやることじゃないのか。でも記者さんはあくまでも「記者」のプロであって、取材対象の事物のプロではない。じゃあ評論家は? 多分これも、「評論家」のプロなんでしょう(笑)。

戦前、日本は人口過剰で破滅するという「常識」が社会を支配し、大陸進出なくして日本民族の未来はないと考えられていた。当時の人口は7000万人程度。昭和恐慌が大蔵大臣の適切な経済政策により終焉しても、中国進出に成功したからだと人々は勘違い。軍事費抑制を目指した大蔵大臣はクーデターで殺されてしまう。

「常識」って、意外と無根拠だから怖い。逆に「常識」は意外と正しい、という説もあるけど、「意外と」ってことはないだろう、みんなこんなに信じているのに。それとも、信じてもいないのに「常識でしょ」って自信満々なわけ? 「常識」だったら何だっての。

平成19年4月17日

Info に書いている悪質な転載・改変に対し名誉毀損などの観点から対応する権利を私は放棄しませんという文言を、矛盾と捉える人がいる(いた)ので、補足説明。

例えば、私の記事に低劣な文章を付け加え、また私の著作者表記をそのままに転載したならば、あたかも私がひどいことを書いたかのように見える。そこに転載者の言葉として「徳保隆夫はかつてこのような愚見を公表していたが、現在は知らぬ顔で当該部分を削除している。とんでもない奴だ」などと書き添えたとする。

さすがにこれは腹に据えかねる。ふつう、この手の悪事に対抗する手段は著作権法違反と決まっている。名誉毀損で争えば泥沼になるが、著作権法違反なら明確に相手が悪と判断できるからだ。しかし私は著作権を行使しないと決めたので、あくまでも名誉毀損で争う。

あるいは、例えば私のサイトをそのまま丸ごと転載し、デザインや著者名もそのままに違法コンテンツを付加して公開、徳保隆夫がその管理人だと見せかけるケース。たいへん不愉快な話だが、ここでも私は著作権法違反を持ち出さない。やはり名誉毀損などで争う。

ようするに、私に害を及ぼさないでほしい、ということ。私の CSS をコピーしたテンプレ屋がアフィリエイト収入でウハウハ、ライターが私の備忘録を再構成して自分の本として発刊し小金を手にする、いずれも問題ない。再利用するなら、著作者名は詐称してくれた方がいい。

……というわけだから、著作権の放棄と、悪質な行為には名誉毀損などの見地から対抗する、との主張は矛盾しない。私は著作権を主張しないといっているだけであって、名誉を傷つけられることまで受容するものではない。

平成19年4月17日

私なりの回答を少々。

唐突に疑問に思ったのですが、何故「CSSコミュニティ」なり「CSS界隈」なのでしょうか。いつもやってるのはHTMLに関する議論が多いのに。謎です。

その昔、まともに CSS を使おうとしていたのは、この界隈の人間くらいだったからです。初期 CSS ユーザには HTML にうるさい人が多かったというわけ。

ただし現状の「CSS界隈」とは、古くから CSS を使ってきた人々+現在彼らの周辺にいる人たちのことなので、例えば私のように、CSS が普及してから使い出したような人も含まれてます。

それともう一つ。何故サイト名に「さん」とかの敬称を付けるんでしょうか。例えば「der Gegenwartさん」とか。人名には敬称が必要でしょうけどサイト名には要らないと思うんです。

うちの会社では「ソニーさん」「トヨタさん」「松下さん」「エイ庁(防衛庁/現・防衛省)さん」とか、ふつうにいってるので、違和感ないですね。というか、私の関わってる現場で、相手の会社にさん付けをしないで呼び捨てにするのは、失礼な行為とみなされます。そういう世界もあるので、注意された方がよいかと。

あと Rusica さんはブログの記事一つ一つに署名が入っていないので、名前が分からない閲覧者がたくさんいるのではないですか。私は「面倒くさいなあ」と思いながらも探したので、Rusica さんと呼んでいますけど、そういうことをしない人も多いと思う。となればサイト名で呼ぶという文化が表に出てくるわけで。

2人称的につかう呼び名は基本的にさん付け、だと思う。徳保隆夫という名前を知っていて、「徳保さんの趣味Web」というなら呼び捨て結構。でも名前を知らずに呼びかけるのに「おい、deztec」とやられたら、私でも少し気分を害するかもしれない。だから名前の代わりにサイト名で呼びかけるならさん付けが無難です。

平成19年4月16日

私は最近、正しく云々の意欲がないので回答しませんでしたが、他の人の回答はちょっと興味を持って読んでいました。まとめが出たこの機会に、私なりの回答と、他の方の回答を読んでの感想を少々。

正しくHTMLを書こうと心がけている人に5つの質問:私の回答

1. HTML文書を制作する際に使用しているプログラムをお答えください。(Webプログラムも含む)

インデックスとかナビゲーションとかは、面倒くさいので MT 任せ。本文は TTTEditor と Crescent Eve で文章を書き、マークアップをしています。ほとんど TTTEditor です。

2. 採用しているDTDとその理由をお答えください。

HTML4.01 Strict です。XHTML は application で、もはや text ではないのだそうで、人間様がちまちまとマークアップするのに使えるような道具ではないらしい。実際、XHTML を採用しているブログなんかのソースを見ると、ものすごい分量のマークアップになっていることが多く、ついていけない。

そんなわけで XHTML は回避しましたが、とりあえず何かルールがないと、立ちすくんでしまう。そこで HTML4.01 Strict を選択。Transitional は使える要素が多すぎて、覚えきれませんでした。あとルールに例外が多くて困る。Strict の方がシンプルでいいです。

ただ、私は厳密に HTML4 のルールに則って HTML 文書を作ろうとは思っていません。href 属性値の中の & は基本的に実体参照にせず、アドレスバーからコピーアンドペーストしたものをそのまま書いています。実体参照するのが面倒くさいからです。

3. 何故正しくHTMLを書いているのですか?

私がなぜ正しく書こうと思わないか。別に、私の文章なんて伝わらなくてもいいや、と考えるようになったからですね。

マークアップのミスのために不都合が生じているというなら、私以外の誰かがマークアップを修正したバージョンを転載してくれたらいい。著作権を放棄すると私はいっているのだから。現実にそういう人がいないなら、所詮、その程度のものだったんですよ、私の書いていることなんて。

それに「HTML のことを考えるのが面倒くさいから、もう更新しない!」とサイトを放り出す方が、どちらかといえば大勢をガッカリさせる結果を招くと思う。

4. W3CとWHATWG、どちらに期待してますか?

私は id case 問題を気にせず id 属性を付した要素を参照する fragment を当該属性値と同じ大文字小文字で書いてます。WHATWG には HTML4.02 とかいうのを作って、この問題をブラウザの実装に適合した形で解決してほしいと思っています。あと前述の href 属性値の中の記号も実体参照を省略させてほしい。

でも実際に作ろうとしているのは HTML5 なのだそうで、私には関係ない世界の話っぽい。古い仕様のメンテナンスにも、ちょっと関心を持ってくれたらいいのにな。

W3C の CSS3 とかも、私には無関係の話だな。CSS2 だって私には複雑すぎるのに、CSS3 のセレクタの豊富さを見ただけでホント嫌になった。こんなの、絶対に使わない。素人は CSS2 で十分だよ。その点、CSS2.1 はいいプロジェクトだと思うけど、どうしていつまでも勧告されないのか。

W3C は時間に超ルーズで、自分で発表した予定を守った例(ためし)がないというくらい。CSS2.1 なんて、何年も予定から遅れてる。いい加減にしてほしいよ。XHTML2 もそうだけど、あんまり待たされる間に、もうどうでもいいという気分に。長いこと、W3C のサイトは見てません。

5.あなたにとってHTMLとは何ですか?

略。

正しくHTMLを書こうと心がけている人に5つの質問:私の感想

1. HTML文書を制作する際に使用しているプログラムをお答えください。(Webプログラムも含む)

HTMLページの構造の階梯(2001-09-11)から6年、たしかに道具は進歩しました。その結果が、たった5つの質問に答える文書のソースが1500行超、本文は20行程度という奇形文書。文明って虚しいかも。

span 要素が乱舞する本文の筆者が、TeraPad ユーザを自称。でもこれ、ブログの編集画面を開いて、いろいろなボタンをマウスで操作して書いてますよね? こういう謎な人が何人も。ブログは別、なのか。

2. 採用しているDTDとその理由をお答えください。

ruby モジュールを使いたくて XHTML1.1 という人がいるようですが、括弧書きで読み仮名を書くので何が不満なのか、よくわかりません。どうせ原稿の段階では括弧書きなのだし、パソコンの画面でルビの豆字を読むなんて嫌じゃありませんか。まあ同意してくれなくてもいいけど、私はルビに憧れません。

ともあれ XHTML の人気には驚きました。まさかここまでとは。しかもその理由がとくにない人が多いのが何ともはや。XHTML は仕様が非常に読みにくい。みんな、今、何と見比べてマークアップの正誤を検証しているのかな。HTML4.01 なら W3C の勧告を読むだけでほぼ足りるのですが。

3. 何故正しくHTMLを書いているのですか?

大した理由のない人が大半らしい。そうだろうな、とは思ってました。特筆するような実益、ホントに何もないですからね。

4. W3CとWHATWG、どちらに期待してますか?

ある意味、たった5問の中にこれが入ってるというのが面白い。で、案の定「WHATWG って何ですか?」という回答が続出。

5.あなたにとってHTMLとは何ですか?

この手の質問は嫌いです。

オマケ:Another HTML-lint で採点+Validator でチェック

ブログならデザインにバリエーションがないわけだから、テンプレートひとつまともに作っておけばほぼ文法違反のない文書をサイト全体に適用できるはず。しかしブログと CSS デザイン(2004-03-28)から3年、何の進展もない。

正しくHTMLを書こうと心がけている人にしてこの体たらくとは! と怒ってもいいけど、頑張る理由がないに等しいわけだから、今そうある程度でよしとする……ことになるのも当然か。さはさりながら「心がけ」の無力を知る今日この頃。

逆リンク!

平成19年4月16日

このエッセイがありがたいのは、私にも何の話だかわかるように書かれていること。私は人名を覚えるのが苦手なので、マイナーな登場人物の名前をひょいひょい並べられても困ってしまう。

ところで、「我が意を得たり!」と感激するような文章が世の中にはたくさんあるけれども、それを読んだ直後でさえ、自分には同じような文章を書くことはできない(ことが多い)。その理由はいろいろあるのだろうけれども、割と大きな部分を占めているのが記憶の曖昧さ。

いわれてみれば「そうそう、それだよ」と思うのに、自分一人ではちっとも思い出せない。「写真のような絵」というのは、その道では誉め言葉にならない一方で、庶民の間で「絵がうまい」といわれるのは、以下に写実的に描けるかという技術だったりする。「単なる知識」というけれど、バカにしたものではない。

「頭がいい」というのは、かなりの部分、記憶力だったりするように思う。「知ってるだけじゃダメ」とはよくいわれることですが、知っていたのに、きちんとできなかった理由を突き詰めていくと、「聞いたことがある」程度の「知っている」だったことが問題の根源だった、というケースが多い。

口頭試問でサラサラと説明を口にできるレベルではなかった、と。あるいは「……と思います」をつけずにはいられないレベル、とかね。

しろはた三国志の「劉備は孫権配下の一勢力だった」説、私もかねがねそうではないかと思っていたことなんです。でも他人に一度も話したことはない。先に述べたとおり、私はどうにも記憶の方が弱くて、調べなきゃ何も書けない。張飛の字(あざな)さえ思い出せない体たらく。これでは小話程度でも厳しい。

これからは知識ではなく思考力の時代だ、なんていう人が多いですけど、何でもかんでもウェブや本で調べないと言葉が出てこないような人は、使えないと思う。かくいう私も、会社でつくづく実感しています。報告書に自分が書いた数字を、3時間後に訊ねられて回答不能。「すみません、資料を確認します」何たる無能!

指示された仕事を作業ノートから鞄の中の手帳に書き写したのに、その手帳を見ることを忘れてしまう。製品の耐久試験のために試験場へ行ったが、当の製品を会社に忘れた。どうしてこうしたミスができるのか。あとお世話になってる同僚たちの名前が、ほとんど名字しか思い出せない。意気消沈。

平成19年4月16日

タイトルは引っ掛け。「なぜ?」の回答は、人の脳には「正常化の偏見」という機能が備わっているから、という説明でおしまい。本論は、正常化の偏見を乗り越えて防災対策を進めるにはどうしたらよいか、です。

片田さんは災害で人が死なないことを最上の価値とし、人を説得しようとする。

私が思うに、今日までヒトという種が生き残るのに、一定の利便のためには生命のリスクを厭わない性質が必要だったし、これからもそうなのではないか。津波で甚大な被害が出た後、人が戻らなかった地域が、ブリの養殖で地域の経済環境が良くなるや、たちまち復興したというエピソードは示唆的です。

津波が来て、人が死ぬことはわかっている。でも、リスクを負う価値がある土地なんだ。そういうことなのだと思います、総論としてはね。

けれども人の心の中には、様々な価値体系が混在しています。最終的に、どのような生き方をするのか、という行動レベルの話と、一瞬の感情を支配する仕組みは違っている。だから、片田さんの説得が、一面において有効なのは理解できます。

三重県錦地区には,町の真ん中に「津波タワー(名称は錦タワー)」が建っています。津波が襲ってきても町の真ん中に住んでいる人は高台に逃げられないので,避難用のタワーを建てたのです。

そのタワーの上から周りを見ると,新築の住宅がたくさん建っています。住んでいる人に聞くと,その住宅は「100年住宅」だと言うのですね。でも,ここは津波常襲地域なので,その家は絶対100年もちません。その点を住民に問いただしても,彼らは合理的な回答を示せない。津波の記憶が風化する中で,リスクに対して無意識になった結果だと思っています。

素人の火遊びで経済学的思考に挑戦してみると、100年住宅と30年住宅の価格差が人々の予想するリスクを下回るなら合理的な話なのに、片田さんが素人の舌足らずをうまく補完できず「不合理」と決め付けているだけなのではないか。津波の発生時期に関して情報の非対称性があるので、無駄は残ります。

つまりこういうこと。30年住宅を建てて、33年後に津波が来たらどうなりますか。新築3年目で津波の被害を受けることになってしまう。100年住宅の価格が30年住宅の3倍ならともかく、実際には数割の差に過ぎない。30年住宅最大のリスクは、30年以内に津波が来ないこと。100年住宅にその心配はありません。

余談

先日、私が大学改革論をぶったときの戦略は、片田さんの説得の道筋に似ているところがあると思う。総論としては命を危険にさらしてでも……という人も、ある方面からつついてみると、グラッとくる。それは行動を変えるほどの力は持たないことが多いでしょうが、何かを心に残すのではないか。

まあ、実際には何ら影響を与えることなどできないのかもしれませんが、希望を持つのは自由。

平成19年4月16日

すごい回答を連発している名回答者。ただし専門分野は限定されているので、はてなのように質問数の少ない場所ではあまり活躍できないタイプだと思う。Yahoo!知恵袋は無料ということもあって、やたらめったら多くの質問と回答が集まっているのだけれど、あちこちで規模のメリットが出てきている様子。

Yahoo!知恵袋は米国ヤフーの Yahoo! Answers とは大きく異なるシステムになっている。ほんの一例、ということになるが、地域の特性を考えたサービス展開というのは難しいものだなあ、と思う。考え過ぎにも見える知恵袋のシステムですが、やっぱり米国のものをそのまま持ってきてもダメだったんじゃないかな。

ちなみに Yahoo! Answers とそっくりなサービスが日本にもあって、livedoor ナレッジという名前でやってます。実のところ現時点ではそれほど似ていませんが、開始当初はホントに生き写しのようでした。

で、ナレッジはあまり利用者がいない。livedoor だから、という説明はありえるものの、単純にそういうことでもないような気がします。ブログサービスは livedoor の方が人気があるわけで。

平成19年4月16日

network.http.pipelining.maxrequests の値として32を推奨したことを批判され、反省したという記事。

私はナローバンドユーザだから、そもそもこの手のブラウザ高速化云々という情報には関心がない。小手先の努力より回線の品質を高める方がずっと重要だということは、会社でブロードバンド環境を使ってみると、よくわかる。

それはともかく、サーバへ同時にリクエストする情報の数を最大32は多過ぎる、というのが批判の趣旨のようだけれども、本当にそんなことが重要なのかどうか、私には疑問。大昔からこういう話はあって、同時リクエスト数を増やすというテクニックが繰り返し批判されている。素人には、どうも理解しがたい。

だってさ、サーバの性能は10倍どころじゃなくなっているわけでしょ。何でいつまで経っても最大8なのだろう。実際問題として、32でも不都合ないんじゃないの。ある瞬間のリクエスト数が4倍になったとしても、人がページを読む速度には限界があるわけで、トータルのリクエスト数は変化がないはず。

レンタルサーバにデータを置いている私のような素人が気にするのって、転送量くらい。コンマ何秒という瞬間においてリクエストが多いとか少ないとかでアカウントを停止されることなんてない。

以前、毎日毎日サイト全体をダウンロードする閲覧者がいて、たった一人で全転送量の4割近くを計上するというビックリがあった。当時、閲覧者は全部で1万人くらいいたのだから、かなりとんでもないことだとわかると思う。読みもしないデータをダウンロードする行為は脅威だ。

転送量の上限にはまだまだ遠かったけれど、10人くらいが同じことをはじめたら、耐えられなかったろう。1万人中、たった10人でアカウント停止だから、けっこう怖い。同様にリンク先の自動読み込みもやめてほしいと思う。読まないデータの自動取得は、転送量を驚異的に増大させてしまう。

こうした「本当の危機」と比較して、同時リクエスト数がどれだけの意味を持っているのか。

読み込み時間が気にならなくなる技術

過去に何度も書いてきたことだけど、また書くよ。読み込み時間がどうしても気になる人は、タブブラウザを使って、次に読みたいページをバックグラウンドの新しいタブに読み込んでおくこと。たいていの人はそれほど文字を読むの速くないから。ナローバンドでも1ページ読む間に4〜5ページくらいは読み込める。

ブロードバンドなら1ページ読む間に20ページでも30ページでも落とせるわけで、about:config がどうのこうのと考える必要は全くないのではないか。

ケーススタディ。タイトルに「前編」とあるのだから、当然、後編があるものと考えてよい。したがって、私のようなナローバンドユーザは、まず後編のリンクを探す。しかし見つからず、前編自体が2ページ構成になっていることを知る。そこで2ページ目を新しいタブに開き、それから前編1ページ目を読み始める。

読み終わる頃には2ページ目の表示が完了している。1ページ目のタブを閉じて2ページ目のタブを開く。2ページ目を読み始める前に、後編のリンクを探す。あった。これを新しいタブで開く。2ページ目を読む。

面倒くさい? そうかもね。でも私の場合はもう考える前に手が動くので、不都合もストレスもない。それに、常に「次に何を読むか」を気にしながら行動することになるから、ちょっとした思考トレーニングにもなるのではないかなあ。

平成19年4月4日

0.

3月に書いてからしばらく放ってあった大学は理想に殉じ、底辺の学生を見捨てる。(2007-03-23)に少々のご反響をいただいているので、関連記事を立て続けに書きます。

1.

教育熱心で様々な工夫を凝らす先生方に囲まれ、自らの在学時代、大学に大きな問題を感じてはいませんでした。今にして思えば、問題は目に見えていたのに、頭で認識していないという状態だったのです。

私が大学の「おかしさ」を明瞭に認識したのは、2005年に一部で話題になったコピペレポート問題に関する記事群を読んだときです。

リンク先のリンク先を見てほしいのだけれど、大学の内にも外にも「試練さえ与えておけば後は本人が何とかするでしょう」という世界観が蔓延しているようです。何だこれは、と思いました。コピペレポートを0点とし、お説教を付す。それだけ。これで何か解決されるのか。されるわけがない。

中位以上の学生には、それで十分なのかもしれないよ。でも、底辺層は決して、そんなことでコピペレポートから足を洗うことはできません。コピペがダメならレポートを出さない、という方向へ進む可能性の方が高いくらいだと思う。

宿題をやらない子供に、「どうしてやらないの! やらなきゃダメじゃないの! あんたのためにいってるのよ! わかってんの!!!」とガミガミ怒鳴りつけるお母さんと、レベルが変わらないのですよ。昨日怒鳴り、今日怒鳴り、明日も怒鳴る。それでも子どもは宿題をやりません。やるわけがない。

「じゃあね、夕飯の前にね、30分だけ、一緒に宿題をやろう」テレビを消し、子どもの隣に座って、自分もノートを広げ、鉛筆を手に持つ。子どもが学校に教科書を忘れてきたなら、自分の教科書を見せてあげる(宿題がよく出る科目は決まっているので、国語と算数の教科書は家庭でも買っておく)。怒鳴る必要なんてありません。毎日毎日これだけの手を尽くして、ようやく子どもは宿題をはじめます。

30分経ったら、子どもが嫌がらない限り中断し、再開を強制しない。逆に早く終っても休み時間とせず、空き時間を学校のお勉強の復習に使う。30分の家庭学習が軌道に乗ったら、1時間程度まで子どものやる気を育てながら伸ばしていく。小学生にそれ以上は必要ないと思いますが、当人がやりたいなら、1時間超の部分は一人でお勉強する時間ということにする。

「どうしてうちの子は勉強しないのかしら」……「勉強しなさい」で足りるなら、教育は簡単です。愚痴もお説教も問題を解決しない。

授業中、いくら叱っても、時折「バン!」と机を叩いても、眠るのを我慢できない学生がいる。レポートを課せば本や雑誌や新聞から丸写ししてくる。出欠を取れば代返事が横行する。授業開始後の入退室が絶えない。私の出身大学の先生方(の一部)は、極めて現実的な対策を打ち出しました。

A4サイズの特注レポート用紙を授業開始時に着席している人にだけ配布し、終了時に回収。「たくさん書くと高得点。裏も使ってよい」と文字量を要求する。レポートに専念できる時間は5分しか与えず、聞く・考える・書くの同時進行を。(以上は一例/バリエーションは多い)

エレガントな「回答」だと思う。30〜400人を対象とする集団授業の改善案としては、(私の知る中では)ベストの方法。レポート用紙配布スタッフが(受講者数÷50)人くらい必要ですが、それも冒頭のみ。シンプルな方法なので、手間も予算も人件費も追加分は僅かです。

そもそも単位を取る意欲も失われている学生への対応は、別のチャンネルで行われるべき。

2.

そもそも、なぜ

平成19年4月4日

1.

「天は自ら助くる者を助く」意思があればフォローするのよ.でもね,救われようという意思を見せない奴は救い様が無いんだよ.意思を見せられるように指導しろ? じゃあ,底辺大学でやってみ? がんばってね.

そんな話はしていません。現在の日本の大学の教育システムは、意志力の弱い学生が容易に堕落する仕組みとなっており、本人の意思に反して単位を落とし、留年し、退学に追い込まれさえするのです。どんな集団にも、破滅の道を突き進む者がいますが、大学ではその割合が高過ぎます。

堕落の原因は、不必要な選択の自由が多過ぎることにあります。

大学の講義、出席した方がいいか、しない方がいいか。した方がいいに決まっているのだから、「出席しなければならない」とルールを制定すべきところ、「どちらでもよい」とする先生がたくさんいます。「点呼を取るのが面倒くさい」それはわかりますが、ダルいから授業に出たくない→出席しなくてもテストさえ頑張ればいいんだよね→散々サボった挙句に一夜漬け→当たり前のように赤点→単位を落とす、こういう学生が必ず出ることまで考えてほしいのです。

授業中の入退室を自由にすると、出欠を取っていても、出席マークをつけたら帰るとか、逆に最後に出欠確認レポートを集める授業だと、授業時間残り10分で教室に入ってくるとか、とんでもない学生が出てきます。講義なんて時間の無駄、と断言できる優秀な学生ばかりならいいけど、授業に出るべき学生がその大半であると私は観察しています。ズルズルとサボる方向へ意識がずれていって、そうなってしまったのです。

カリキュラムの組み方。寝坊しやすいからといって、なるべく1限を空けるようにする学生が少なくない。ところが1限に設定された必修科目もあるわけで。底辺層の学生は、この単位を高確率で落とします。朝、起きられないという理由で、です。週に1〜2日だけなら頑張れる? 逆なんですよ。毎日だったら起きられる。起きられない方が例外だ、ということになる。生活パターンを確立できるよう、1限に必修科目を並べるカリキュラムにすべきなのです。

就職活動支援制度だって同じ。利用してもしなくてもいい、という。すると当然、就職を手前勝手に諦めてしまっているような学生は、利用しない。一人で無謀な挑戦をちょっとだけやって、「ああ、やっぱりダメだ」と落ち込んだまま就職活動を終了。フリーターやニートになってしまう。完全雇用が実現されていないマクロ経済環境下ですから、誰かが失業せざるを得ないのですが、わざわざ大学まで進学した人が本当に失業しなければならない何パーセントかの中にいるのかどうか。

学生の自主性に任せた方がいい領域もあるでしょう。しかし現在の大学には、不必要な自由が多い。自由でなければ、堕落に歯止めがかかったのに、と思われる事例がゴロゴロ転がっているのです。ルールは弱者を救う。大学は学生管理のルールを見直すべきだ。これが私の主張です。

2.

出欠の取り方

授業の最初に、人数分だけ、特殊な(学生が独自に入手することが困難な)紙を配り、授業の最後に学籍番号と名前を書いて提出してもらう。基本的には、これで遅刻と代返事の問題はほぼ解決されますし、たくさんの名前を呼ぶ時間も不要となります。替え玉を送り込むような学生は例外中の例外というべきです。

より徹底した手法として、ルーズリーフを禁止してノートの使用を要求し、授業の最後にノートを先生が回収するという方法を採用していたケースがあります。先生は授業のたびに100人分のノートを研究室から教室まで運んでいらっしゃいました。「どうせ予習・復習なんてやっている学生はいない。授業中に集中して話を聞いてノートを作ってもらう方が意義深いはずだ」

この中間に位置するのが、授業開始時にレポート用紙を配布、終了時に回収する方法。教養科目では非常によく使われていました。試験なし、この毎回のレポートで採点する、というのが基本パターン。教養科目はたいてい受講者が多い。毎週、A5版にしたって200枚ものレポートを読まされる先生はたいへんだったろう。

レポートを書く時間はくれないので、授業中に話を聞きながら書かなきゃならない。A4版の紙を配布して「全行埋めなさい」と指示した先生もおり、こんなときはもう眠いとかそんなことをいっている場合ではありませんでした。

入退室制限

大教室は出入り口が多いので、授業中はひとつの出入り口を除いて鍵をかけてしまうのが基本。遅刻者がこっそり入ってくることを防ぐ。

問題は退室です。200人とか400人とかの大講義の場合、誰かが手洗いのための退室を求めることは当然、予想されています。そこでバカでない先生は、こんなルールを設定して最初に周知徹底します。

唯一の出入り口(ふつうは教壇に一番近い扉)の脇に受講者名簿を用意し、一時退室欄にチェックを入れてから出て行くことにする。物を盗まれたとかのトラブルが怖いから、荷物は全部持って出て行くこと。帰ってきたら、今後は再入室欄にチェック。教壇付近の扉だから、全学生注視のロケーション。出て行くときに再入室欄に予めチェックを入れておくズルは、絶対にバレる(と思わせる演出がポイント)。

同様に再入室でないのに再入室のふりをする堂々たる遅刻も、精神的に困難なはず。

就職活動支援制度への全員参加

そもそも学級会のような雑用タイムが時間割に設定されていないことが問題。健康診断をはじめ、様々な事務手続きや諸連絡が大学にもあるのであって、大勢の学生がいちいち直接に事務局を訪問する体制というのが、事務局の非効率を招く大きな要因でもあるわけです。

私の頃だって総勢200人の学科をアイウエオ順で100人ずつに分け、それぞれにクラス担任と副担任の先生が設定されていました。ところが時間割のレベルで何らフォローがないから、サッパリ機能していなかった。今でも改善されていないらしい。私は98年に入学したので、もう10年近くになります。

週1回、1コマの設定でいいと思う。学生全員に出席を義務付けたホームルームを時間割に組み込むべきです。事務局→クラス→学生という情報伝達システムを構築し、確実な情報伝達に努める。例外的に欠席者への電話フォローまでしたっていい。

3.

馬鹿は見捨てるということを前提に算出された金額で、馬鹿でもきっちりとサポートしろって言われても無理でしょう。と仰るのだけれど、可能なのです。詳細は上記の通り。ルールを変えるだけで仕事量はほとんど同じ。だいたい大学って文系の学費でも高校の数倍。ならば高校レベルのサポートはできて当然。

平成19年4月13日

この2年ほど、日本のテレビドラマをたくさん見ています。その中では、「やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい」というメッセージが繰り返し発信されています。けれども作中での描かれ方を見る限り、たいていの人は放っておいたら「やらない」ようです。

何も起きないのでは物語が進まないので、異常な行動力を持つキャラクターが壁をぶち破って突き進むのがお決まりのパターン。

私が思うことはふたつ。

まず、「やって後悔する方がいい」というメッセージは、人々を幸せにするのだろうか、という疑問。たいていの人が「やらない」のだとすれば、社会を支配する価値観はそちらに寄り添った方が、より大勢を救うことができるのではないか。多くの人に劣等感を植え付けるようなお話ばかり作っている人々は、罪作りです。

次に、経済学では人々は合理的に判断して行動していると仮定することが多い。もちろん各自の価値観に基づく判断によるわけだけれども、行動力抜群の人って、やっぱり損をするし、社会にとっても迷惑なのではないか。不合理な行動を人々に強いる試みは、成功しないでしょう。

つまり、「行動せよ」というメッセージは精神的には人々に劣等感を与えるが、物理的には無力。悪影響は確実に存在し、世界は何も変わらずそのまんま。変わったとしてもおそらくいいことは少なく、まずいことがたくさん起きるでしょう。安直に奇跡を持ち出す作者は、セコイと思う。

……とまあ、そういった不満が私の中では渦巻いていました。

そんな私が「これはすごい!」と思ったのが「ウォーターボーイズ2」です。どうして2年続けて同じようなドラマをやるんだ、といわれた作品。でも、見比べたらわかります。この作品は、作られて正解だったと。

映画版もテレビドラマ第1作も、引っ込みのつかなくなった主人公らが懸命に努力して障害にぶち当たっていくと、ついに奇跡が起きて素晴らしい結末にたどり着く、というお話なのです。とくにドラマ第1作はそう。途中までとても無理そうに見えた(しかしドラマのパターンを考えればフツーの)恋もうまくいっちゃう。

WB2 は、ちょっと違うのです。主人公らが懸命に努力して頑張れば頑張るほど状況は悪化し、周囲の人々は怒り、ついには不幸に巻き込まれる。奇跡は起こらず、無情にも主人公らの眼前でいろいろなものが終っていく。毎回毎回、そういうお話が続く。

以下、3段落ネタバレ注意。

例えば主人公と父親の物語。父はアメリカで事業を起こし、息子に「一緒に来て手伝ってくれ」と頼む。主人公は「考える時間がほしい」といって日本に残り、父親の友人宅に居候する。これが WB2 のはじまりで、最終回、再び来日した父親に「今日の午後のシンクロ公演を見てほしい」と主人公は頼む。しかし父親は大事な商談があって、どうしても飛行機に乗らねばならない。主人公は悲しい気持ちで父親を見送るのだが、直後、台風が直撃して公演は中止になる。

台風は夜には抜けてしまうが、プールはガラクタでいっぱい。主人公らは総出で夜中かかってプールをきれいにする。翌朝、一息つく主人公の前に父親が現れる。シンクロ公演を見るために大事な商談を延期していたのだ。感激する主人公。しかし公演は中止になった。父は今度こそ本当にアメリカへ去る。その後、いろいろあって無事に公演は行われるのだけれど、ずっと父親に公演を見てほしいと思ってきた主人公の気持ちは、ついに実現しないという物語なのです。

居候先の女の子と主人公の仲も、ハッキリしないまま主人公がアメリカへ旅立って自然消滅。主人公に恋した別の女の子が失恋した理由を考えると、誰も報われなかったという結末。コーチを務めた喫茶店のマスターの人生も好転するどころか転落一途。主人公らと対立・和解した生徒会長は最後の陸上競技大会で不本意な形で予選落ちするし、居候先の女の子の最後の合奏コンクールなんて参加することさえできないまま終る。

ここまで。

みんな頑張って頑張って生きて、ひとつも報われずに敗れ去っていく。

ところがこのドラマが描くのは希望、そして笑顔。「つらく悲しい出来事ばかりの毎日だけど、私たちは幸せです!」というメッセージが強烈に打ち出されているのです。最後に奇跡が起こって一発逆転するからハッピーエンドなのではない。

平成19年4月13日

一部で話題になっている「上から目線」問題。

「偉そう」といわれると不愉快になる人が多い、ということがあらためて確認できたのが、私にとっての収穫。天邪鬼としては、この備忘録では今後わざと「上から目線」を強調し、「偉そう」といわれたら「それが何か?」「ムカつく」「どうぞご勝手に」みたいなやり取りをしてみたい。

弱者権力への反発から「弱きを挫く」ことに執心している変人に、「私はか弱い存在なのです」というアピールは逆効果である、とか何とか。

日常生活を顧みると、私の観察するところ、どのような意見に対して「偉そう」と反発したかを見れば、その人が劣等感を刺激されるポイントがよくわかる。ここを突けば余裕がないんだな、と。面白い情報なので紙にメモしておきたいところですが、それはやめておいた方が無難。

フツーの人の場合は、そんな感じだけど、ブロガーのプチ論壇では、「偉そう」なんて批判は単なるツールと化しているからつまらない。本当に傷つけられた人の最後の武器だと思うから、私はふだん、そういうことをいわれたら謝って話を打ち切ることにしているけど、たまにしかないことだからそうしているのであって。

あと、他人に自分の文章を読ませようなんてのはやっぱり「偉そう」なことなんじゃないの。自分の言葉は他人にも有意義という価値判断があるわけでしょ。なのにカジュアルな「偉そう」攻撃で怯んでしまう。

平成19年4月7日

小学生くらいのお子さんの勉強嫌いで悩んでいる方には、何度でもいいたい。「勉強しなさい」なんて、いくらいっても無駄です。塾に送り込んだって、教室にいる間しか勉強しない。ゼロよりはマシだとしても、週に数時間お勉強させるためだけに数万円を投じるのって、どうなんでしょうか。

「一緒にお勉強しようね」大切なのは、この一言。親が子どもに勉強を教える必要はありません。勉強している子どものそばについて何かをしているだけで、全然違うのです。

「お父さん、宿題おわったよー」「そうか、よく頑張ったなあ。偉いぞー」頭をなでる。

私の両親は、子どもを叱るなんて嫌なこと、なるべくしたくないと思っていた。「やりなさい」といっても「やらない」から、叱りつけることになってしまう。そこで発想を変えて、「やらせる」ことにした。そのためには、巻き込み型の仕掛けが一番。まず親が勉強してみせ、「ともに頑張ろう」と持ちかけるのです。

何のことはない、父は大好きな吉川英治や山岡荘八の小説を読んでいただけだったことを、後に私は知りました。小学生には、難しい漢字がいっぱいのすごい本に見えたのです。それを父がいつになくまじめな表情で読んでいるので、すっかり騙されました。まさか分厚い日仏辞典が単なるブックスタンド代わりとは知らず。

「お前は勉強して疲れたろうから、好きな絵本でも読みなさい。お父さんはもうすこしこの本を読まなきゃいけない」お父さんはすごいなー、と子どもは尊敬する。これと比べたら、「あの子、全然勉強しないのよ。あなたからも何かいってやってください」なんて愚痴を聞くのも、お説教をするのも、馬鹿馬鹿しいです。

ちなみに母は、私がお勉強をする隣で家計簿をつけていることが多かったですね。ソロバンをパチパチパチッとはじいて、すごくかっこよかった。レシートをせっせと貼り付けたりなんかして。

あとは生協の注文表に記入したり、「収納のテクニック」みたいな本を熟読したり。結局、読んでいるだけでは時間が余ってしまうので、いろいろな本から興味深いテクニックをノートに書き抜く作業を始め、これがずいぶんたくさんたまりました。「隆夫のおかげで、母さんこんなにお勉強できちゃったよ」

というわけで、学習机は子どもがほしがるまで買わず、食堂などで勉強させるのがいいと思います。家族全員が集まってワイワイ取り組むこともできるし、何かと都合がいい。

このように、「親子でお勉強に取り組む」(という「見立て」を日常生活に取り込む)のは簡単で効果が高い。強くお勧めします。宿題をやるだけなら1日30分ないし1時間くらいのことですから、気軽にはじめてください。

テレビのこと

子どもが勉強中はテレビを見てはいけない。見たい番組は録画しておきましょう。すると、親は手持ち無沙汰になるので、自然とお勉強してる子どもの周りに集まります。

ただ、母は父の野球中継好きを知っていました。だから父の寝室に2台目の小さなテレビを用意して、「お父さんはお前が学校から帰ってきて昼寝している間もずっとお仕事をしているのですよ。だから家にいるときくらい、好きなことをしてゆっくり休むのは当然です」と説明しました。

夏場、私と弟が勉強しているとき、父は自分の部屋でイヤホンをつけて野球中継を見ていました。

平成19年4月6日

義務教育とは教育を受けさせる義務だ、といわれてはいますけど、実際には教育を受けさせられる側も義務を負っています。日本の公立の小中学校には、知的障害者と健常者のボーダーラインどころか、紛れもない知的障害者まで通っています。(基本的に)年齢で自動的に義務教育を卒業させる現行制度、私は支持します。

15歳で解放されることを待ち望んでる子もたくさんいるんですよ。それに、不幸な人生も私は肯定されるべきだと思う。日常会話にも不自由し、年賀状ひとつ書けない私の父が大卒だったりしますし、昔からいたんですよ、そういう学生。不幸に耐えて進学すると、消極的にであれ当人が決めた人生です。講師は全てを与件として仕事をすべきだと思う。

川下の理想がひとつも実現されなくたって、いいじゃありませんか。高校の先生方は、みな粛々とお仕事されていますよね。大学も同じことだと思います。

えげつない話ですが、「世間であまり評価されない大学」の学生さんたちは、既にその中の多数のメンバーが、日頃大学の外で、劣等感を感じる体験が多いせいか、自己評価が低く、投げやりになりやすく、そして、「自分の劣等感を補償するはけ口」、自分よりさらに弱い者、「駄目な奴」と「見下せる」対象をいつも必死で探しているところがあります。もちろんそれは見苦しい感情だと思います。そうして彼らの多くは、周囲の同級生の些細なミスにも手厳しく、わざと本人の前でせせら笑って見せる。

私がかつて出会った先生方の対処法は主に2つ。ひとつは最初の授業で「私の授業では他人の間違いを笑うことを許さない」と宣言し、その通りに運営する方法。非常に難しい。教師自身が、あまりひどい回答に苦笑を抑えきれないなら、こんな宣言をしないほうがマシだといえます。

そこで、思慮深い先生はこう仰いました。「私の出した質問への回答は、私一人にその質の高低を判断する権限がある」

間髪入れず立て続けに質問を繰り出し、突然指名された生徒のしどろもどろの回答にズバズバ意外な評価を下してみせる。そして「じつは、こういうわけなんだ。ま、聞いてくれ」と評価の理由を説明する。「君たちは、何かを分かっているつもりかもしれないが、全て勘違いだ。俺は賢いという思い上がりも、自分はダメだという劣等感も、みな捨てなさい。この教室では、俺の前で横一線なんだよ」

これはひとつのパターンとなっている話芸で、様々な分野の先生方がこの組み立てで初回の講義を始められるのを私も体験しています。「誰でも答えられそうな質問+意外な回答評価+解説」このセットです。福耳さんにも絶対に使えると思う。私も冬期講習の国語で使いました。「ハイ、この漢字の部首は何でしょう?」5つの漢字を紹介し、各一名ずつ生徒を指名して答えさせ、予想通り全滅。ここで決め台詞、「君らは横一線だ!」

本当は、生徒の行動軌跡から回答を予想して、この子に正解させたいというところで絶妙の問題を振ることができたらいいのですが、難しい。でも挑戦する価値のある課題です。嘲笑ベースの暗いプライドは粉砕し、自信を喪失した子の自尊心を成功体験によって回復する、そんな仕掛けを毎回用意できたらいいですよね。

余談

世の中には生徒の指名順を機械的に決めている教師がいるのですが、身の程知らずだと思います。授業を支配する最強のツールをクラスの公知にしてしまうなんて、飛車角落ちで将棋を指すようなもの。上記の話芸の台本を書く際、指名順に縛りがあったらどれだけ苦労するか。

ただし、授業中、授業後に、誰を何回指名したかメモしておくことは必須。素人の記憶頼りでは、絶対に異様な偏りが出てしまいます。

平成19年4月6日

もちろん僕以外の先生方は、そういう心理的正当化をせず、一生懸命学生の可能性に期待をしてそれを目覚めさせることに希望を失わないというすごい方もいらっしゃったけど、少なくとも僕は根が傲慢な人間なので、「これ以上彼らと向き合い、彼らに対してちゃんとした講義をする自分への動機づけのために、自分に無理やり彼らの可能性への希望を持たせていても、無理を感じて、そのうち僕は彼らを“あからさまに見下してしまうのではないか”」という恐怖がありました。

あえて書くのだけれど、見下していいのでは。頑張って教えたところで、ほとんど何も身につかない。そういうものだと認めてしまえばいい。

「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)では私が「腹」について熱弁を振るった様子を書きましたが、それから7年余り、もうその生徒は全部忘れてるでしょう。私の顔もね。冬期講習の最終日に意外な問題に正解して喜んだことも書きましたが、その一方で、「これ、教えたはずなんだけどなあ」という問題をボロボロ落としてもいました。

痴呆症の人とお話をするボランティアがあるそうです。何度同じ話をしても、当たり前ながら、ひとつも覚えてもらえない。自分の顔さえ会うたびに忘れられてる。「面白いですか?」「どうかな。落語や歌舞伎みたいなものでしょ。同じ話を何度も繰り返してる。静かに聴いてくれるのが嬉しい」

福耳さんは教育に成果を求めるから疲れてしまうのです。教室に生徒が来たなら先生も必要です。それだけのこと。授業は、すること自体に意味がある。

個人的に、**ができたら幸せになれる、という言い方は避けたいと思っていた。なぜなら、やっぱり全員がテストで満点を取れるようにはならないからだ(一撃を食らっても全然改心していない)。トップクラスへの展望がない、底辺で悩む子どもに功利主義で勉強の意義を説くのは、残酷ではないか。彼らはその果実のほとんどを手にできないのだ。向学心を最後まで支えるのは、学ぶこと、それ自体の魅力なのだと私は信じる。

私は以前、こう書きましたけど、私がきれいな言葉で表現したものの実態というのは、少なくとも現在の社会で胸を張って口にできるようなものではないことが多い。

「学ぶこと、それ自体の魅力」といっても自己の成長とは限らない。「学ぶ」という名目の猶予期間の魅力、やりたいことがとくにないから周囲を慮って消極的に選択された「学ぶ」という名の恩返し、「学ぶ」人間の特権的身分への安住、就職という一種の「結果」からの逃避、自分より「下」の人間を見て安心するための教室、後ろめたい気持ちなしに楽しく遊ぶための講義への出席、そういったろくでもない動機で集まっている学生が大半だと思ってもそう大きく違わない。

補習塾だってそうです。お勉強するのが楽しいと思っていて、それでやってくる子なんかいない。まあ、いるんだけど、いないとみなして差し支えない。「塾の先生なら、少しは頭をよくしてくれると思うから」といった子だって、散々「勉強なんてくだらないよ」「どうせ俺には関係ないよ、こんなの」「バカだもんね」「いいよ、わからないままで」「難しいこと考えると気分が悪くなるよ」と弱音を吐いていた。

「そうだね、お勉強なんてくだらないかもね」「ここで学んだことは、この先の人生で一度も役に立たないかもね」「少なくとも今のところ次回のテストで100点を取れそうにないことは確かだ」「先生にとっては、分からないままでは責任問題だけど、キミにとっては取るに足らないことかもしれないね」「気分が悪くなったら休んだ方がいいよ」

「ところで、毎週毎週、授業に来てくれてありがとう。どうして、そんなに頑張れるの?」

「さあ……」「わからないよ」「塾に行かないと、もっといろいろ面倒くさいんだよ」「……(何このキモい教師? 風のジト目でこっちを見る)」「別に、頑張ってるわけじゃないよ」などなど。一人一人の生徒は多くを語らないけれども、これらを全てひっくるめた感情が、どの生徒の中にもあるのだろう。

単に「いまの学生は無知で無気力だ」というだけなら、僕だってどこまでも噛み砕き、ネタを混ぜ、まだそこそこ頑張れたと思うのです。自分でいうのもなんだけれど、僕は「はなしをやさしくおもしろおかしく演出する」ことは、自分の知っている大学関係者を見ても、かなり得意な方だと思います。でも、問題は実はその根底にあって、彼らの多くはもう「自分を見捨てて」いて、「どうせ自分は就職活動もうまくいかないし卒業したらフリーターだしそれはもう自分たちも楽しくない人生なのは目に見えている」と思っている、そういう学生にとっては、僕のような「ひょっとしたらここまでやさしく面白く噛み砕いて話してくれる講師の講義にちゃんとつきあえばまだなにかちょっとはいいことあるんじゃないか」というささやかな希望を抱かせること、それが実は、一番迷惑で、彼らにとって「ウザかった」のではないかと思うのです。

(中略)その自己評価の問題をまずなんとか和らげなければ、なにもかも虚しい努力だと思います。

「博士が愛した数式」の博士は数十分で記憶が消えます。だから主人公は毎日自己紹介する。これって無駄な努力? ちがうよ、というのが物語の趣旨。人間なんて、みんなこの博士と大同小異です。「暑苦しいんだよ、ウザいぜ、福耳さん」そう思っても生徒は教室に来た。虚しくなんか、ありません。

熱心な先生が、その熱心さゆえに教壇を去ってしまうのだとすれば、本末転倒との印象を持つのは私一人ではないでしょう。あまり多くを背負っても、仕方ない。自分に救えない生徒がたくさんいるのは、当たり前のことです。私も福耳さんも、ただの人間です。自在に奇跡を起こせるという救世主じゃありません。

苦しむ生徒を見てられないと仰いますが、学校は修行の場なのだから、苦しくて当たり前なのです。大学は他の学校よりずっとサボりやすいのだから、もうダメだと思った学生は、ちゃんと逃避しますよ。福耳さんはもう少し、生徒のことを信じていいと思う。

平成19年4月4日

私が教えた中で全科目総合の成績が一番低い子の話は「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)に書いたけれども、英語だけ極端に苦手という中学1年生も代講で面倒を見たことがあります。中学生になって半年くらい経過しているのに、アルファベットが頭に入っていない。さて、どうしようか。

悩んでいる時間もないので、漢字と同じ学習ステップを選択しました。まず、鉛筆はしまう。ノートも閉じる。テキストだけ開いて、a から g まで声に出す。まず私が声を出し、続いて二人で声を出す。一人じゃ絶対に声を出さない。こっちは休みなしだけど、しょうがない。

「エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
さあいっしょに、
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
もう1回! 
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
よく頑張ったね、
じゃあ今度は指で教科書の字をなぞろうね、まず先生が読むから、それにあわせて指を動かそう、
ハイ、人差し指! 
(スローダウンして)エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
今度は声に出しながら、サンハイ! 
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
2回目いくよ、声を出しながらやるのが大事だよ、サンハイ! 
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
じゃあ顔を上げて、指を空中に突き出して、空気の文字を書くよ、声を出しながらやろう! 
(少しペースアップして)エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
まだまだ安心しちゃいけないよ、
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
あと2回練習したらテストしてみようか、
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
お疲れ様。テキスト閉じようね。
鉛筆出して、ハイ、こちら、テスト用紙。
書いてみようね、エー、ビー、シー、ディー、イー、エフ、ジー、
わからなくなったら指でやってみていいよ、
ジー、ジー、
学校のテストじゃ声は出せないけど、声を出さずに歌うのは自由なんだ、
ジー、ジー、
そーう、そうそう、よくできました!」

私が喋り疲れたので一休み。教科書の本文を読んでもらって、いま学校でやっている部分についてサラッとおいかける。予習はしない。復習だけ。そして再びアルファベットの練習。まずはさきほどの復習。ランダムに「シー、ジー、ビー、ディー、エイ、イー、エフ」と声に出して、書き取ってもらう。テキストを開く。間違った文字を指で1回だけ、ていねいになぞる。空中でていねいに5回書く。「よく頑張ったね〜! じゃっ、今度はエイチからエヌまでだよ」

90分の授業中、実際にアルファベットを教えているのは20分程度に過ぎないのだけれど、生徒も私もやたらアルファベットばかり頑張ったような印象の授業後。

1週間後、「先週、あれだけやったんだからもうアルファベットは大丈夫でしょう」とバイト仲間の先生はいっていたけれど、「そんなに簡単ではありません」と私。

授業前の休み時間に a から z まで小文字を順に書いてもらったのだけれども、やっぱり忘れている。b, d, p, q はもちろんのこと、初っ端の a からして既に怪しかった。確実な文字は半分だけ。でも「エー、ビー、シー、……」とつぶやきながら指を宙で動かして字形を思い出そうをする様子が、ちょっと嬉しかった。これは講師の自己満足。

その子は1ヶ月くらいして他の塾へ移ってしまったと記憶していますが、気になって担当講師の方に訊ねてみたところ、やはり最後までアルファベットをマスターしていなかったという。結局そのことがお母様の怒りを買ったとか。

「毎週、毎週、教えたことをリセットして帰ってくるんですよ、徳保先生、どうしたらよかったっていうんですか?」
「さあね、ぼくらは何度でも教えるのが仕事。毎年、繰り返すのも、毎週、繰り返すのも同じことだよ。彼は英語の勉強がしたくて教室へ来た。だからそのたび、彼のわかるところから説明した。それで十分さ」
「でもお母さんは」
「そうだね、でも休み時間はもうおしまい。悔しい気持ちは心の中に」

後日。忘年会の席で。

「徳保先生、ほら、あのアルファベットの覚えられない子、いたでしょう。いま、どう思います? 先生がやってもダメだったじゃないですか」
「だからさ、そんなに簡単じゃないって。ひょっとしたら、永遠に無理かもしれないよね。半分はバッチリ覚えていたんだし、他の科目の成績からいっても、その可能性は低いとは思うけど、どうしても覚えられないものって、たいていの人にはあるものじゃないか。彼の場合、不幸にもそれがいくつかのアルファベットだった、という可能性はあるよ」
「それじゃあ俺の努力は何だったんですか。彼、塾に来ることもあまり好きじゃなくて、お母さんにいわれて渋々って感じだったし」
「いいじゃない、素直なお母さん子だったんでしょ。授業中はマジメだったよね。あの子なりの親孝行の手伝いをしたんだと思うよ」
「でも結果が出なくて、お母さんも怒って、彼、傷付いたんじゃない?」
「そうだね」
「俺、悔しいですよ」
「そう。ところでさ、余命半年とか、中学生なんかが宣告されてさ、それでも学校に通う話とかあるじゃない。あれ、どう思う?」
「いいんじゃないですか」
「いまぼくたちも本業は学生だよね。でさ、今日ここで飲み過ぎて、車に轢かれて死んでしまったとする。親は悲しむだろうけどね、無駄な人生だったと思う?」
「……」
「ぼくはね、ちょっとここで教えてて、思うようになったんだけどね、結果は結果で大切なんだけどさ、学びたい人がいて、教えたい人がいる。それでいいんだ、って」

「とくほせんせーはマジメよね〜」と背後からチャチャを入れられて私は黙ってしまった。

人なんて、放っておいたら勉強しないんです、ふつう。我が身を振り返ってみても、つくづくそう思う。自分がどうして学校にマジメに通い続けたか。親の期待があったから、というのが一番大きいんじゃないか。授業自体は面白かったり、つまらなかったり。くだらないと思いながら受講してることも少なくなかった。

先日の記事では生徒が食いついてきた事例を書いたのだけれど、終始つまらなそうにしていたって、親にいわれて嫌々だって、教室まで生徒が来たなら、教師が教える理由としては十分だと思うのです。仮に結果はゼロでも、意味までゼロじゃありません。

平成19年4月3日

リアルな話として「も」読まれているらしいこちらの記事。

そういえば最近、「名文」という触れ込みで紹介されていたのが「砂糖菓子の長州力は撃ちぬけない」というプロレスファンへの憧れを綴ったエッセイ。でもこういう文章の書き方なんて、学校じゃ教えていないように思う。

私もそれほど幅広く実態を知るわけではありませんが、塾では夏休みの時期になると作文の宿題の相談も受け付けます。最近は高校入試の国語にも小作文の課題がありますので、冬休みには作文指導の授業もやります。そうした中で、私も少々、研究しましたが、id:svnseeds さんの記事はジョークだと思います。

  1. 何について述べている文章なのかは最後まで明らかにしてはいけない
  2. わかりやすい構成の文章を書いてはいけない
  3. 結論を冒頭に述べてはいけない
  4. 結論を最後に述べてもいけない
  5. ひとつひとつの文章はできるだけ長く曖昧なものとしなければいけない
  6. 主張は断言せず、曖昧に述べなくてはいけない
  7. 主張の根拠を明示してはいけない
  8. 客観的な記述は控えなくてはならない
  9. 他人の主張を批評してはいけない
  10. どうしても他人の主張を批評する必要がある場合は、主張そのものではなく、その人の生い立ちや人となりについて述べなくてはならない

いずれの項目も、実際に学校で行われている、少なくとも先生方が指導しようとしている内容とは正反対です。

教育問題に限りませんが、世の中、それほど変化は激しくありません。たいていの物事は十年一日のごとくです。私の頃の小学校国語の教科書には、結論から作文を書きはじめよう、という課題がありました。数年前の中学校でも、同様の指導が行われていました。現在の小中学校でも同様でしょう。

書きたいことを書かせない作文教育、なら私にも鬱々たるものがありますが、それとこれとは話が別です。以下、全国レベルの作文大会の受賞作をご紹介。まず“社会を明るくする運動”作文コンテスト(第54回)から。

見事な作文。主張→事例→主張のシンプルなサンドイッチ構成。明晰な短文からなり、論拠も結論も明快。いわれなき悪罵への批判もあります。さすが1位作品です。これが、日本の教育が到達目標として掲げるに足る作文ということになりましょう。

もうひとつ。全国中学生人権作文コンテスト(H17)から。

余談

生田さんの作文で採用された「してあげる」問題、これは応用範囲が広いので、テーマの切り口のひとつとして覚えておくと便利。例えば、親子関係について。

ある日、ひどい親子喧嘩をする。自分の方が悪いのはわかっている。部屋に閉じこもるも、時間が経てばお腹が空く。生活力のない小学生、一人では何もできない。「**ちゃん、夕飯ですよ〜♪」台所から呼ぶ声がする。恐る恐る部屋を出て食堂へ行くと、おいしそうなご飯の準備ができている。

うつむいたまま席に着く。「お母さん、どうして、ぼくなんかのために……」「あら、私はあなたのためにご飯を作るのが幸せなのよ」滂沱。

実際にそういう経験があってもなくても、こうした切り口を知ってさえいれば作文用にエピソードを「創る」ことが可能となり、夏休みの宿題が無事に片付く、と。嘘エピソードで周囲の人間を鬼か悪魔のように書いてしまうと後でまずいことになりますが、いいように書いておく分にはどーにかなります。

平成19年4月3日

能登半島地震でまたぞろマスコミの取材姿勢を糾弾する声が上がっているという。

リンク先のリンク先、GripBlog のアーカイブ記事は多くの方にご一読いただきたい。マスコミ亡国論の(膨らみすぎた)虚妄を撃つ内容。

新潟中越地震でマスコミの取材にいくつかの不快感を覚えた人がいる、取材者の配慮が行き届かない場面が全くなかったかといえばあった、その事実はつかめました、と。であるならば、ちょっと偏った性格の人がたまたまその現場にいたなら、怒り狂い、深く恨みを抱いてマスコミ批判を繰り返してもおかしくはない。

白黒ハッキリつくような話じゃないのだろう、と思う。GripBlog の泉あいさんは、自分のバランス感覚において、概ね報道機関の活動は被災者たちに感謝されている、と結論付けている。こんな取材は信用できない、と思うならそれはそれでいい。

新潟中越地震では支援物資の集配やボランティアの差配などの点でトラブルが続出した。このことは泉さんのリポートにもある通り。能登半島地震では、先の教訓を踏まえ、きちんとした体制を整えることに成功し、粛々と被災者支援と被災地復興が進められているという。

これはもちろん石川県や各市町村などの地方自治体、大小さまざまな地域コミュニティなどの努力によるものだろうが、ここしばらく防災担当国務大臣が半ば常設ポストとなり、国家レベルで防災体制の整備を進めてきた成果ともいえるのかもしれないな、と何となく思う。

*じつはリンク先記事では支援物資の件にほとんど触れていない。SANKEI EXPRESS の方が詳しかったのだけれど、EX には過去ログ閲覧システムがないのでやむなく……。コンパクトなのに私の読みたい記事はむしろ EX の方が詳しいというケースがこれまでにもしばしば。紙で購読するのは EX だけにしようかな。