連想した話をひとつ。
幼少時の私は、どういうわけか「大人たちが子どもに守らせようとしながら自分は全然守っていないルール」をストレスなく守ることができる特殊能力を持っていた。
「横断歩道は左右を確認して手を挙げてわたりましょう」ふーん、そうか、と思って小学校を卒業するまでずっと手を上げて渡ってみせた。同級生たちには私の考えていることは理解できなかったようだが、これは「くだらない大人ども」を見下すためのデモンストレーションだった。
小学校6年生のとき、市役所が発行する年3回発行の豆記者新聞の記者として先生に指名された。市内の小中学校から各1名ずつ選ばれるのだ。立候補制の学校もあったらしい。市役所で任命式に参加し、記念の記者章をもらった。大きなメダルで、こんなもの、誰が身につけるのかと笑ってしまった(これは記憶違いかも)。
豆記者の仕事は、学校行事のレポートと豆記者コラムへの投稿である。遠足などのたびに、児童ではただ一人だけカメラの携帯が許された。写真を撮ってくれとせがむ人はたくさんいたけれど、私は行事のレポートにはほとんど関心がなかった。
投稿した記事がみな採用されるわけではない。B5版4ページ4段組の小新聞だから、20を超える小中学校の記事を全部載せるわけにはいかない。掲載率は50%強ということになっていた。
どの学校の豆記者の記事も最低年1回は掲載するとの暗黙のルールがあったが、くじ引きのような方法で記者を選ぶ学校からは、ろくな記事がこなかったりする。広報誌担当の市役所員も頭が痛かったろう。編集者には文章の修正権限があったので、最後の手段として市役所員が学校の先生に電話取材して記事をほとんどイチから書いてしまうこともあった、という噂。
結局、私は行事レポート1回掲載、豆記者コラム1回掲載の2勝1敗ではなかったか。行事レポートの内容はもう覚えていないが、豆記者コラムのテーマは「交通安全」だった。
団地街の中に作られた小さなショッピングセンター。計画都市だけに、商業施設や公共施設と居住区はきちんと分けられ、ショッピングセンターは「道路の向こう側」に位置していた。一段高い土地にある団地街から道路に平行した歩道へ下りるスロープの、目の前がセンターだった。
道路を安全に渡れるよう、陸橋と横断歩道が用意されていた。道の向こうには公園と幼稚園と医療地区がある。ショッピングセンターはその外れにあり、陸橋と横断歩道は公共施設群の中央へ接続していた。わずか10数メートルだが、団地街の住人にとって、横断歩道は遠回りだった。
道路はかつて小川の流れていた場所で、歩道から芝生を張った緩やかな斜面を1mほど下った位置にある。道路と歩道の間にこれだけ大きな土手があるので、ガードレールはない。
もうお分かりですね。大人たちはみな、横断歩道なんか使わなかった。団地街から降りてくると、そのまま直進して道路を渡り、ショッピングセンターへ入っていく。おばちゃんの一人をつかまえてインタビューしてみました。「だって買い物袋が重たいから」やっぱり、大人なんて偉そうにしていても本性はこんなもの。
私は豆記者新聞でこの実態を糾弾しました。非常に痛快に感じたことを覚えています。毎日きちんと横断歩道を手を上げて渡っている小学生が書いているのだから、悔しくたって文句のいいようがないだろう。ザマーミロと思った。
じつはその団地街というのが警察官舎。お巡りさんの家族にして、この程度の規範意識しか持っていない。でも、そこまでは書きませんでした。掲載されなきゃつまらない、と思ったか。
母は「おたくのお坊ちゃんはお父さんお母さんの言いつけをよく守って偉いわね。うちの子なんて全然いうことを聞かないから憎たらしく思うことも多いわよ」なんていわれるたび、複雑な表情をしていた。
青信号の交差点を時速30kmで通過するだけで「交通ルールをやぶるな! スピード落とせ!」と口やかましい子どもって、可愛いのだろうか。とても付き合いきれないと思うのが、ふつうではないか。
私はこれ、基本的には賛成。現場の職員が、その地域の厚生改善だけを考えて頑張っているような仕事は、国家公務員という身分で行う必要がない。自然な発想だと思います。
監督事務関連については、備考として許認可、監督に対する事務は、政令等により基準等を定めた上で地方公共団体で管理・執行可能とされていますが、かつての機関委任事務においてどれだけの通達が発出されていたか、そしてその廃止に当たってすべてを法定受託事務・自治事務にしたわけではなく、国の直接執行に移管したものがあったことを考えれば、そう簡単に「政令等で基準等を定め」ればうまくいくはずもありません。
発想を変えるのではないかな。事後チェック方式のような方向を考えているのだと思う。多少の揺らぎは許容されるのでは? よほどひどい事例以外は、地域の特色だの文化だので吸収されるような気がします。
実際に各都道府県が法律や「政令等」を参照して法執行を行っている最も大規模なものは、警察による刑事犯の摘発です。警察庁が法令協議に当たって、どれほど各省庁から嫌われようとも(笑)、しつこく罰則規定の内容を詳細にわたり尋ねてくるのは、それにより全国での統一的な法の適用を図るためです。そこでの質問・回答まで「政令等」に盛り込めば可能だともいえますが、分量がどれほど膨らむのやら(笑)。
よくわからない。特定地域のルールは、他地域の事務所が参照する必要はないと思う。
よくわからないけど予約してみました。128ページで1575円ということは、A4サイズのカラー本だったりするのかな。モノクロ文庫版だったらちょっと値段高いかも。
本って内容じゃなくて体裁で値段が決まるんだけど、情報を売る商品なのにヘンだなあ、と思う。製造費の割合が高いということか。でも著者に入る印税も定価に左右されるのだそうで、さすがにそれはやっぱりおかしい。ベストセラー作家でも、文庫と四六版ハードカバーの著者印税を一緒にさせた例とかないのかな?
業界の慣例を「おかしい」とエッセイに書いてる作家はたくさんいるのだけど、「じゃあ」といって自分で出版社を作ったという話はあまり聞かない。そしてその出版社が業界の慣例を覆すすごいルールで本を出したとなると、そういう話は寡聞にして知りません。
内容はいいのに、何故こんな見た目なのか……。猛烈に作り直したい! もし連絡くれたらボランティアでデザインをほんの少しだけ手直し致します。
もう少し話を一般化しておいた方がいいかな。じつはこれって、議論術の有名なテクニックなのです。
立証責任は、相手に持たせるべし。
つまり、議論になったとき、常に自分が質問する側に立つことを心がけなさい、と。しばらくは相手がいいたいことを言い尽くすよう誘導し、それから攻撃を仕掛けていく。たいていの議論に双方納得の結論は要らない。自分の希望が実現されればよい。そう割り切れば、多くの場合、自説を主張する意義は薄いと気付く。
木俣さんの示した例に即していえば、相手が「リンクの自由」説に納得しなくたって、相手がリンクを禁止する理由さえ潰せば、こちらは文句をいわせずリンクできてしまう。自分が「リンクの自由」説の立証責任を負う必要はありません。
作家、森博嗣さんの日記から。続き物です。
「【HR】 打合せ多数&補足」から前後へ進んだのですが、「【算数】 マイナス」の URI を調べるのに手間取ってイライラ。わざわざリンクしにくくしているのだと思う。何らかの美学との兼ね合いとかで。
他に何かいいたいこともあったのだけれど、忘れてしまった。その程度のことだったのだろう。
自分は絶対にああいう事件の被害者や遺族になるはずがない、って考えている人の意見ですね。どうして自分だけはいつも観客席にいられると確信できるのか不思議だよ。
私は「量刑と遺族感情は切り離すべき」という id:terracao さんの意見に基本的な考え方としては賛成で、引用したコメントには異論があります。
私もいろいろなトラブルに関わってきました。「どうして当事者の意見が無視されるのか!」と憤ったことも一度や二度ではない。しかし自分の経験からいって、重大なトラブルであればあるほど、当事者の意見は参考程度に留め、第三者が淡々と処理する方が、総合的にみてよい結果をもたらすことが多い。
凶悪犯罪の被害者となったとき、自分が何を考え、どのような主張を繰り出すか考えてみるに、その主張は聞き流されるのが妥当です。かつて「司法に絶望した」といって犯人への殺意を明言した遺族は何人もいました。同情する人、共感する人は多いでしょう。けれども、こうした発言は聞き流す他ない。
幸いにして平和に暮らしている今の私は、大勢の幸福と私一人の希望を比較するなら、前者を取るべきだと判断します。個人の復讐心を肯定すると社会に不幸が増えることは、繰り返し実証されてきました。
そんな私も、当事者になれば「今こそ本当の苦しみがわかった、俺は間違ってた」というでしょう。「俺一人を救えない社会が、誰を幸せにできるのか。例え世界が滅びても、我が願い成就せよ」と望むに違いないよ。過去、これで何度、道を誤ってきたか。感情の暴発に周囲が同調してしまってはいけない。
被害者への配慮や支援は行われるべき。遺族感情の量刑への反映も、(私は id:terracao さんと異なり)全否定しません。それでも、この社会の平安が犠牲者の抑圧の上に成り立っていることは変わらない。
敵討ちの横行を是とするのでもない限り、第三者としての視点を失うのは無責任です。究極的には抑圧者である自らの立ち位置を認識し、被害者の苦しみを自らの罪として引き受ける、その上で、よりよいバランスを模索していくのが道理だと思う。
私の巡回先だった「闇黒日記」が消えたのは今年1月末。筆者の野嵜健秀さんは過去にも一時閉鎖を敢行しており、とうとう X-day がきたのです。SOS が無視され続けたのですから、闇黒日記の終了は当然だろうと私は思いました。そして5月、残されたサイトのトップページに、再び小さなメッセージが。
野嵜さんに「徳保氏の肩を持つ」やうな人に「フォロワー」でゐられても迷惑
と書かれたくらい、私と野嵜さんの思想信条は相容れません。けれども、私は野嵜さんの「闇黒日記」の更新が楽しみだった、それはたしかです。
嫌がらせを受ける悲しさは、私にも経験があります。つらく打ち沈んでいるときに助けてくれた人のありがたさも身に沁みています。そのときのことは、今でも心から感謝しています。そんな私だから、野嵜さんには同情します。同情しますけれども、野嵜さんの希望を叶えるのは無理です。やっぱり、無理。
私は「闇黒日記」の読者でしたが、掲示板には興味がなく、見に行くことはありませんでした。野嵜さんの名前や、ましてや「靖国云々」という「義」の定型句でググるなど、もっとありえない話。私にとって「義」は別世界の住人で、私の前には現れないキャラクターです。その活動をフォローして、嫌がらせ書き込みのあった掲示板の管理者に小まめに通報するなんて、私のような一読者には不可能です。
野嵜さんの要求を実現できるのは、その手の仕事の本職か、嫌がらせを受けている当人の他にいないと思います。
野嵜さんを助けたいとは思う。でも、もっとハードルを下げてほしいのです。具体的な指示がほしい。2ch系の運動サイトのように、嫌がらせの書き込みが行われた掲示板の管理者の連絡先一覧と、コピペで使える文案を用意してくれたら、私だってすぐに動きます。そういう人はたくさんいると思う。
今回だって野嵜さんは検索結果をひとつポンと示すだけ。これで誰も助けてくれないといって世界を呪うのは無理筋だと思う。「信者」だってツーカーの仲じゃない。他人は、野嵜さんが思うよりもう少し他人。もっと具体的に要望を書いてほしい。
人には得手不得手があるわけで、「闇黒日記」の読者に掲示板荒らしとの直接対決を求めたのがそもそもの戦略ミスだと思う。界隈の人間の得意技を活かした対処法を考えるべきではないか。
Yahoo で野嵜さんの名前を検索するとアンチサイトがトップに来る。Google なら「言葉言葉言葉」がトップですが、嫌がらせへの対抗策にはなっていないように思えます。
そこで、「いまウェブで野嵜健秀を名乗っている人物は二人います。一人は「言葉言葉言葉」の著者、もう一人は掲示板荒らしです」と広報するサイトを、検索キーワード「野嵜健秀」で検索結果第1位とすることを目指してはどうでしょう。現実問題として「義」を止められないなら、その嫌がらせを無効化すればいい。
闇黒日記デーみたいなイベントはみな好きなので、各自のサイトのトップページから荒らし対策サイトにリンクするくらい、喜んで協力してくれると思う。
野嵜健秀さんの難しい要求(2007-05-24)の補足記事。
スルーは容認と同じです。私は「スルーせよ」と主張した事はありません。寧ろ「反論せよ」と何度も言つて來ました。ところが、私に好意的な人でも、この私の主張を否定してゐるのです。實際に私に代つて反論して呉れた人が何人もゐないのを見て、私は最早ウェブで物を言ふのは無意味だと悟りました。
野嵜さんの要望は読者に聞き入れられなかった。だから「闇黒日記」は終了した。明快です。
私は例によって、曖昧で中途半端で筋の見えない方策を説く。野嵜さんがもう少し協力者を得やすいやり方を模索していたら……粘着の根絶は諦めその被害を最小化するという発想の転換をしていたら……馬鹿馬鹿しい提案です。私はスルーは容認と同じ
という野嵜説を否定しているわけでね。所詮は不倶戴天の敵。
私は rir6 さんと澄良木さんのトラブルを知りませんでしたが、まあ、知ってても静観していたでしょうね。rir6 さんが「やめてください!」といっているのを見てさえ、何もしない。「徳保さんからも一言いってやってくださいよ」と頼まれたら、ようやく重い腰を上げる……と思うけど、保証はできません。冷たい話ですが、rir6 さんよりもっと不幸な人は世の中にいくらでもいて、私は彼らを見捨てて生きている。
rir6 さんの日記は定期巡回先ではなかったけれど、野嵜さんの「闇黒日記」は毎日読んでいて、ずっと読み続けたかった。野嵜さんが「自分は疲れたので、**掲示板と**のコメント欄で代わりに頑張ってよ」というなら、「合点承知」と一肌脱ぎました。でも、逆にいえば、それくらいの動機付けは必要でした。
「義」は他人だし、日本の司法制度は事実上、このような小悪を取り締まることができないから、「義」を止めることは不可能。では泣き寝入りしかないか。基本的にはその通り。しかし「義」の意図を挫くことは不可能ではない、というのが私の主張。
「義」の嫌がらせは、野嵜さんの名を騙って掲示板を荒らすというもの。しかしよく考えてみれば、世の中に同姓同名の人物はいるもの。荒らしの現場を見るに、名前だけの単純な騙りが大半です。とすると、「義」の書き込みが野嵜さんの印象を落とす過程には、「野嵜健秀」の名前で検索するステップが欠かせません。
何度でも書くけど、「義」の嫌がらせは「なりすまし」に成功することを前提としているのであって、その企みさえ破壊できれば野嵜ファンの勝ち。現状は最悪に近い。Yahoo では1位に、Google でも上位に野嵜さんを掲示板荒らしと呼ぶページが登場します。これだから「義」の簡単な攻撃が有効打になってしまうのです。
もし掲示板荒らしを発見した人が名前で検索してみて「野嵜健秀を名乗る者が複数いる」ことを必ず知るなら、成り済ましは成立せず、「言葉言葉言葉」の野嵜さんの名誉は傷つけられません。すると「義」は「言葉言葉言葉」のアドレスを添えて荒らしをするでしょうが、「言葉言葉言葉」のトップページにも同様の断り書きをすれば、同様に嫌がらせを無効化できます。
野嵜さんが「義」の活動自体を止めることを希望するなら、打つ手なし。自分に対する粘着のため世間の無関係の人に迷惑をかけたくないとかですね。それは「義」が悪いのであって自分の知ったことではない、と私なら考えますが、野嵜さんはもう少し自分の責任範囲を広く捉えるかもしれない。それは仕方ないことです。
野嵜さんの要望にきちんと応える試み。予想以上の成功率。
野嵜さんご自身の手になる「義」対策サイトなのですが……このタイトルと構成ではいけませんね。「野嵜健秀」と検索してトップに出るのは難しいし、仮にトップになっても、「義」の攻撃を無効化するという観点からは非常にもどかしい。一体どれだけの人が、なりすましによる攻撃が行われていることに気付くかな。
もちろん、じっくり読めば分かる。でもそれってあまり意味がない。パッと見て分からなきゃ。
叩き台として、ひとつ書いてみました(2007-05-28)。でもこれ、野嵜健秀さんの難しい要求(2007-05-24)より検索順位が上には行きそうにない。多分、誰もリンクしてくれないから。まあ、こういうことは「政治運動」のようにやらなきゃダメです。
ポイント送信機能を利用してコメントを送ったのは、間違いなく私です。
以下、折を見て書き足します。
インターネットなどで「野嵜健秀」を名乗る人物は主に2人です。
その他、偶然、同姓同名の方もいらっしゃいますが、非常に稀です。とりあえず「野嵜健秀」を名乗る人を見かけたら、上記2名のいずれかと考えて、概ね間違いはありません。なお、「野嵜健秀」には「野崎健秀」という表記例もありますが、自ら「野崎」を名乗るのは、たいてい嫌がらせです。
最終更新 2007-05-28
こういうの好きな人が多いみたいですが、「10項目リストが6つも! ほとんどダブりなし!」という状況を眺めてもなおブックマークしたいと思うその気持ち、どうにも共感し難い。
私がこういうものに目を通しながら連想すること。学校の硬筆の授業で、「はい、ここの払いに気をつけて」「これでどうでしょう」「うん、ここの留めのところ」「これでどうでしょう」「今度は、ここの撥ねをね」「これでどうでしょう」「横線の運筆がね」「これでどうでしょう」「続いて、こっちの払い」「これでどうでしょう」「右上部分のバランス」「これでどうでしょう」……もう勘弁してください、というゲンナリ感。
んー、でも、お勉強って、こういうことの繰り返しでしかないのかもしれないな。ふとここで、登大遊さんの「論理的思考の放棄」という主張を思い出します。実際問題、登さんがこの主張に従って他人を教育することはまず無理だと思う。でも、「到達点」のイメージとしては、よくわかる感じがします。
筒井康隆さんの短編小説に「歩くとき」という作品がありますが、論理的思考を放棄せずに歩こうとすると、多分こうなってしまうのだろうと思います。どうなってしまうかは、まあ、読んでのお楽しみ。似た作品に「寝る方法」というのもありまして、あわせてお勧め。
追記:「寝る方法」「歩くとき」を収録した「エロチック街道」は品切れとのこと(古書店ではよく見かけます)。「歩くとき」は自薦短編集「ポルノ惑星のサルモネラ人間」にも収録されており、こちらは新刊書店で入手可能。
ところで、私が子供を作らない理由。このエントリにも表れていると思うのですが、世の中と感覚と私の感覚に、だいぶ隔たりがあることを自覚しているからです。「自殺するぐらいなら殺せ」なんて思ったりするし、「子供をポストに捨てるぐらいなら心中すればいいのに」と思ったりする。正論だと思っているのに、世の中そんな風にはならない。生きづらいったらありゃしない。私の遺伝子を受け継ぐ子供だって、生きづらいに決まっている。だからです。
自分の容姿を散々卑下して私に同意を求め続けるという迷惑な人が、「でもやっぱり子どもはほしい」とかいうので、ひっくり返ったことがあった。自分が不細工でどれだけ苦労したか、不幸であったか、と延々語っていたのは誰だっけ? そんな不幸はあなたで終りにしたらいいじゃないか、と私は思うのであった。
あんまり不細工なので親からも可愛がられず云々ともいっていたので、「かわいい養子をもらえばいいんじゃないの?」と私はいった。
基本線としては「ごもっとも」。ただ、いろいろ留保はあります。
自分が好きなものを他人にも好きになってもらいたい、という欲求が(多くの)人には備わっていると思う。「つまらない」という人の話をよく聞いてみると、自分が「おもしろい」と思っている部分がうまく伝わっていない、あるいは食わず嫌いだったり。「考えが変わる可能性」を見出せるケースは、けっこうあります。
こうした体験の積み重ねがあるから、逆に自分が「つまらない」としか思えないのは、何かを知らないからではなかろうか、という予測も成り立つ。
私が評論を読んでから映画を見ることが多いのは、このため。初見ではつまらなかった映画が、評論を読んでから再見したら面白かった、という体験があるのです。少しひねって、貶し系の評論を読んだら、その筆者とは異なる観点から映画を見ようと心がけてみる。すると存外、楽しめることが多い。
そんなわけで、大勢が「楽しい」「おもしろい」といっているものについては、自分のファースト・インプレッションをあまり重視しないほうがいいかも。
モツ鍋がいくら流行ってたって、嫌いな人は嫌いでしょ。「モツ鍋嫌いな俺っておかしいのかな?」とか不安になる?そこまでいくと病気かもしれない。
単に自分が美味しいモツ鍋を知らないだけ、という可能性。料理の好き嫌いって、意外と乏しい体験に依拠していることが多い気がします。
子どもの食べ物の好き嫌いが減っていくのって、成長による変化が一番大きいのだろうけど、「家庭の外で食べてみたら美味しかった」というのもあるんじゃないかな。(自分自身を含め)家族の誰もがその料理をうまく作れなかったから、嫌いになっていたのです、という。
ふたつの記事にリンクしましたが、そこで話題になっている出来事に関していえば、岩本さんに共感するところが大きい。id:pbh さんの主張を少し拡大すると、何に対しても何もいえなくなってしまいそう。私ならこんなことに口出ししない、という話なら「お、仲間ですね」となるのですが。
個人の言論の自由は大切にしたい。いいたいことをいえる世の中がよい。けれどもそれだけではなくて、他人がどう振舞っているかという社会的状況を加味した上で、権利を行使してほしいと思います。
自分が「場」を支配する多数派である場合にはとくに、節度ある行動を求めたい。勝者の驕りは醜い。正義の鉄槌とやらを、よってたかって振り下ろしたらどうなるか。現場は血に塗れ、陰惨でグロテスクなことになるのはわかりきっています。
ほとんどの議論は、価値観の違いからくるものです。多数派、少数派の別はあれど、ようは考え方の違いに過ぎません。あらゆる場面で多数派に属する人なんていない。自分が楽しい人生を送るためにも、多様な意見を認める努力は必要なのです。「場」を支配し、実質的な勝利をおさめたとき、それ以上を求めないこと。
話題になった海部さんの記事に意を強くした id:bambix さんが、岩本さんの批判を受けていろいろ考え、記事を消したという展開。私の独断と偏見からいうと、この展開で「岩本さんが黙っていれば……」というのは酷。過剰反応というなら、id:bambix さんの記事削除の方ではないでしょうか。
ただ、id:bambix さんの性格を変えようとしたってそれは無理な話なので、周囲が気を使うしかない。岩本さんがこの先も繰り返し id:bambix さんを批判し、そのたびに記事削除が起きるなら、「岩本さん、やめましょうよ、そういうのは」と私もいうのではないか。「id:bambix さんの性格はご存知でしょう」と。
Yoko さんや OYAJI さんは打たれ強いので、攻撃する側のリミッターが外れてしまいやすい。弱い人を叩きのめすことに罪悪感を感じる人も、こういう相手だと、自制が効かない。
ひとつの基準として、「相手の意見を理解する意欲、自分が説得される可能性を忘れていないこと」を私は提言しています。この基準を心に持っていれば、大勢でよってたかって攻撃している場からは、距離を置きたくなるはず。「場」を支配する多数意見の影響力、リミッター解除の誘惑に、自覚的になりますから。
ただ、どうしても Yoko さんの極端に極端で応酬したいなら、どうぞご勝手にと私は書きました。ダイヤモンドは傷つかないそうですし(違)、心配無用かもしれない。最後は自分の美学の問題だと思います。
それは無理な望みなので、議論に負けたときに心を守る方法を考えた方がいいような気がします。それだって難しいのだけれど、議論に勝つよりは可能性があると思うよ。
あと、啓蒙するならやっぱり議論に勝つ側じゃないですかね。負ける側が勝てるようにはならないけど、勝つ側が、よりよい勝ち方をするよう技を磨いていくことは不可能でない。
そもそも、これまで議論に負けていた人が勝つようになったところで、世の中が何かよくなるとは思えない。負ける側がよりよく負け、勝つ側がよりよく勝つ。そういうことを考えた方がいいと思う。
鉄腕アトムの「史上最大のロボット」の話をちょっと連想。
とりあえず議論に勝ってみたいというなら、自分より弱い相手を探すのが早い。あるいは、多くの場合、議論は知識の多寡で決まる面が大きいので、自分が勝てそうな話題で議論を仕掛ける。
……この説明から私が連想する企業はエンジニア派遣、技術系アウトソーシングで有名なメイテックかな。リクルーターの人も面接官も、仙石さんの主張とかなりの部分が一致する説明をされていました。自分の好きな技術、得意な技術を伸ばしたいなら、ぜひ弊社へ、と。
ふつうのメーカーでは、技術者になるつもりが営業マンにされちゃったり、半導体のお勉強をずっと頑張ってきた人が機構部品の強度設計に回されたり、電気回路の専門家が制御システムのプログラムを書くことになったり。しかもそれだって数年でまた状況が変化してしまう。私は納得して入社したけど、何か違うと思ってる人もいるんじゃないかな。
先月の記事には平凡な人は平凡な就職活動をすればよい(2007-04-24)でキツいことを書いたけど、今月の記事で疑問点はかなり解消されたと思う。ただ、仙石さんの基準で会社選びをする具体策が思い浮かばない。するとやはり「安定志向の平凡な就職活動がベター」という結論になりそう。
あるいは、メイテックやアルプス技研になるのかな、と。技術者の成長を邪魔せず、技術そのものを評価する、となると、誰の目にもわかりやすいのは技術系アウトソーシング業界くらいだと思うのです。
自称:社員さんが擁護レスをたくさん付けているのが面白い。ふつうは自称:社員さんの書き込みって悪口なんだよね。私の勤務先もそうで、一時期Yahoo!掲示板で自称:社員さんの悪口がひどかった。これはけっこう社内では有名で、悔しい思いをしている人が多かったです。でもウェブで反論する人は皆無でした。
ところで最近2chに書かれたのが「**社の社員は都電の乗車マナーが悪い」という意見。具体的に書いてないから何を反省すべきなのかよくわからないのだけれど、私も都電利用者なので、ちょっと注意しないといけないなあ、と思ってます。
私が朝のバタバタした時間帯以外、テレビニュースを見ないのは、あまり趣味に合わないから。でも朝食を作ったりしながら新聞を読むのは無理なので、テレビニュースを流しておきます。ドライヤーの音がうるさいときも、画面を見ていれば概要がつかめるのがテレビのいいところ。目か耳、片方が空いていればいい。
ふつうの人はニュースに接するのが早くても遅くても生活に影響がありません。なので、テレビを見る時間を新聞や雑誌に割り当ててもいいんじゃないかな。私は新聞で十分に満足しています。出勤中と昼休み、合計1時間くらいかけて、ゆっくり読んでいます。あ、会社でお弁当が出るんですよ、だからそういう暇があるんです。外へ食べに行く人はたいへんですよね。
いやまあ id:good2nd さんの論点は、一番大勢が接しているテレビニュースに「こうあってほしい」という思いをぶつけている、そういうことだというのは理解してます。でも私が思うに、あまりそういうのはうまくいかなくて、不満は多くても自由を基調とする社会の方がいいんじゃないかな。直感ですけど。
「脱デフレの歴史分析」はすごく面白い本だったのですが、読了後、かなり落ち込みました。戦前の日本は、米英との貿易が経済の生命線、国家繁栄の基礎基本だったのに、その相手と戦争を始めてしまう。第一次世界大戦のバブル景気がはじけて10数年でそうなってしまった。
満州も韓国も台湾も、日本経済の生命線ではなかった。英米とは比較にならないレベルの存在に過ぎなかったのです。なのに大東亜共栄圏構想は多くの支持を集め、日中戦争そして対米英戦争へと突き進む。こんなことでは、現代日本も、後から考えればアッという間に戦渦に巻き込まれかねないではありませんか。
「日本国の原則」は、自由と民主主義が守られていれば、それでも致命的な戦争への深入りは生じなかったはずだと論じます。民主主義は戦争を防ぐことができないけれど、利益のない戦争は止められる、と。日中戦争がいつまで経っても終らなくなってしまったのは、言論の自由が失われたからだ、とする。
私のまとめは簡単すぎて説得力ないですけど、本文はもっといろいろ書かれていますので、興味のある方はぜひ。民主主義は間違いを犯すけれど、自由を大切にしている限り、倒れてしまう前に必ず回復作用が働く。うん、そうか! あ、また単純化し過ぎてしまいました。私が紹介すると、どうもいけません。
で、えーと、何がいいたかったんだっけ。そうそう、バカっぽく見えるテレビニュースも、ちゃんと安全装置がついているのではないか。アメリカのテレビ局のイラク戦争報道も、フラフラしつつも、それなりにバランスをとってきたと思うのです。えー、あれじゃ困る? でも、下手に規制なんかするよりはよさそう。
リンク元検索で発見したスレッド。スレ立て人の問題意識には共感するところが大きい。回答は平均的だけど、ノイズが少なく、よくまとまっているように思う。
「もうとっくに終ってます!」の罠(2007-05-15)の補足。
ノートを一所懸命に教科書のようにしようとしている人を褒める人ってよく見かけるのですけど理由がよくわからないです。教科書でいいじゃん。
ノートは教科書じゃないのだから、教科書のように書く必要なんてないですよね。例えば、私の数学のノートは、間違えても一切消さずに、新しいページに書き直してました。なぜなら、後から自分がどこで間違えたかを確認するために、間違えた記録が必要だったから。
私が略した部分で勘違いがある様子。詳細は、下記いずれかの本を参照してください。
……といっても読む人は少ないだろうから、簡単に書きます。一番たくさんノートを使うのは算数。したがって算数のノート指導が、ベースとなります。算数のノートが整うことで、他の科目のノートも変化していきます。
いろいろ述べましたが、「全てノートに記入させる。ただし余白の多いスカスカのレイアウトとする。数字も記号もていねいに書かせる」というイメージです。
毎月のようにノートを1冊使い切ることになります。筆算を必要とする計算問題の場合、1〜2問につき1ページを消します。より複雑な課題なら、1問解くのに数ページ使わせることも珍しくありません。
しばしばその効果を疑問視されるノート指導ですが、計算間違いの多い子にはよく効きます。また頑張った証拠が使用済みノートとして目に見える形で積み上がっていくので、停滞期にも学習意欲を持続させやすくなる利点があります。
問題解決プロセスのキーとなる部分を筆写させることは、型学習の基本ですから、教科書の一部を筆写させることは有意義です。練習問題を解く際にも、パターンとして繰り返しノートに書かせていくことで、少しずつ問題解決のプロセスが身についていきます。
時々バカな先生がいて、イラストの人物の言葉として吹き出しに書かれている言葉を筆写させるのに、イラストを全部コピーさせたりする。わざわざ人物の絵を描かせ、吹き出しマークまで書かせてしまう。そうした事例を誉めてはいけませんね。
やたら蛍光ペンなどでノートを飾り立てたがる女の子がいたりしますが、先生が無意味に長い時間を与えるのがいけない。不満顔の子には、ペンで美しい枠を作っているとき、意識は枠そのものへ向いてしまっていることを気付かせましょう。
大したことないと思われるかもしれませんが、生半可な努力では実例集にあるようなノートの再現は不可能です。個別指導でやっても骨だったのに、篠崎さんはクラス全体を指導しているわけで、驚嘆に値します。
算数の全授業実践記録が公開されています。基本型学習の意義がよくわかるはず。教師がそこで手を抜くと、必ず脱落する子どもが出てくることが、繰り返し描写されています。その都度、リカバリーしてクラス平均80点を死守していく。すごい先生。目次の配色が目に厳しいのを我慢して、目を通す価値あり。
こうした実践記録、作ろうとする人は多いけど、最後までやり通せる人はほとんどいない。教育雑誌でたくさん記事を書いているスターみたいな先生だって、挫折してる。赤塚さんは偉い。
読者さんの思い入れ(2007-05-16)へのご意見。過去に何度も書いてきたことの焼き直しですが、あらためて。
異なる価値観の持ち主を説得するのは、まず不可能です。だから立場未定の不特定多数を相手に辻説法するスタイルが流行る。この場合、形式上の批判対象に言葉を届ける意味はない。これを陰口と呼ぶとして、私は現在、そのような陰口をとくに否定しません。
「言戯」にトラックバックを寄せた reiko_kato さんに陰口のつもりはない……それはそうでしょうね。でもコメント欄に湧いて出た人々はどうかな。「話題の人物に聞こえることも視野に入れた陰口」をしたかったのでは? あの不満の数々、メールで直接ぶつける胆力はないだろうと思うわけでね(更新停止が怖いとかいろいろ)。ま、これは言葉の定義の問題ですが。
以前からしばしば書いていますが、私はたいていのことについて「確信犯なら理解する」という立場なんです。最初から陰口で楽しむ目的ならいいの。逆に私の揶揄で怒るならやめるべき。で、これって形式上はコメント欄批判だけど、真実は読者向けの辻説法だと、そういうことです。以下、参考記事。
今回もトラックバックとかする気ゼロ。でも reiko_kato さんは気付くと思いますよ。マイぷれすにはアクセス解析機能が標準で備わっていますしね。もちろん読むかどうかは別問題。
師さんは花園大学の専任講師、学生が欠席の連絡や質問をメールでよこすとき、文中で名乗らないことを不快に思っているのだという。確実に問題を解決したいなら、Theoria さんの提案に従うのが賢明かと思う。
休講の連絡に限らず、様々なメールが寄せられるのであれば、こうしてはいかが? アドレス帳の入力フォームを作り、受講を希望する学生全員に情報を送信させる。学籍番号、氏名、メアドくらいでいいと思う。この作業を受講登録の必須条件と指定する。ネット接続環境のない学生に配慮し、予め図書館などネット接続端末が自由に使える学内施設を調べておくこと。
適当な時期に先生はアドレス帳をダウンロードし、メーラーにインポートする。
アドレス帳にない相手とのコミュニケーションを想定していないメールにイラッときた、という程度の動機で際限のない指導に踏み出すのはお勧めしません。そういったことを始めるとキリがない。私の勤めた塾では深入り禁止の規則がありました。急所はアドレス帳。自分のイライラを解消して満足すべき。
敢えて(仮に)私が頑張るとすれば……。
学生の非礼はインセンティブの欠如が原因。まず教師が学生の顔と名前を覚え、名簿を見ずに次々と指名して見せるだけで緊張感が走ります。そして「礼儀知らずは嫌いである」と宣言する。卒業する気のある学生は単位がほしいので、少しは気をつけるし、注意にも耳を傾けるようになります。
学生の私語を止める仕組みも同じ。教師が生徒の名前を覚え、不意に「**さん、**さん、**さん、静かになさい」と注意する。私の知る限りでは、たいてい、よく効きます。とくに大教室の私語は、大衆の匿名性が倫理の退行を招いた結果であることが多い。誤った幻想を破壊することが大切なのです。
学生の顔と名前を一致させれば、講義を支配する上で圧倒的な優位に立つことができます。頑張る価値があります。受講者に学生証を机の上に置かせ、机間巡視の際に少しずつ覚えていく。覚えた名前をすぐ指名することで、記憶の定着を図る。
いつまでも「そこの黒い服の男子学生」とか指名しているのでは、私語を止めることも、顔の見えないメールでの失礼を正すことも、難しい。バカ学生も研究室に入れば担当教官相手には敬語を使うもの。ポイントは、「私はあなたを知っていますよ」という事実を示すこと。
名前を覚えるのが面倒くさい先生のために次善の策を示します。指名後、必ずフルネームをいわせる。学生の発言後、手帳に何か書く(ふりをする)。
師さんが引用した香山リカさんの話。電話で教官に休講予定の問い合わせ。是か非か。せめて学務科に
と香山さんはいう。300対1の関係性が問題なら、学務科の担当者は1000対1で、もっと可哀想ではないか。それはともかくとして、例えば「休講予定は掲示板で確認せよ」と指導する場合、私ならこうします。
「学籍番号と名前をいいなさい。手帳にメモします」「今回に限り問い合わせに応じます。以後、ガイダンスで説明した通り、必ず掲示板を確認すること」「来週は休講ではありません。それでは失礼」ガチャン。相手が聴きたいことは最後にいう。
香山さんは「休講じゃありませんよ」などと答えながら一応、「ふつうは、同級生にきくか、せめて学務課に問い合わせるかするんじゃない?」と付け加え
たという。小言が後回し。順番が逆。何故なのかと思ったら、香山さんは最近、若者批判のエッセイや書籍で稼いでいるのだそうで。
わざとじゃないのでしょうが、学生指導の技術を研究するインセンティブがないのでしょうね。指導せず放っておいて、ことあるごとに「最近の学生はこんなにひどいのよ」と一席ぶつ。別にそれで学生個人が損をするわけじゃなし、これで金が湧いて出てくるなら幸せなサイクルなのか……。
あと、方々のコメント欄に長文を投下してる id:nogamin さん。
私は読んでません。あー、やってる、やってる、と。今ちょっと他に読みたいものがありまして。
ひとつ書くなら、やっぱりコメント欄は閉じておくのがベターではないかと。いつもいってることですけど。「卑怯だ!」とかいわれて怯んでしまう人が多いわけですが、他人様の意見にケチをつける気力があるなら、まずこの手のプライドを刺激される攻撃への耐性をつけること。そんなものは無力だと信じましょう。
ノコノコと相手の土俵に乗る必要はないのです。
ナローバンド環境だと、Yahoo!ブログのアバターって、最初は下着姿で表示されるんです。その後、少しずつ着衣が増えていく。面白いのが髪の毛。下着より後ってことは、みんなカツラなんだな。
まあ、モチーフが着せ替え人形なので、理屈は通っているわけか。たぶん下着はソフビのボディに印刷されているのでしょう。
ぅええええーーー?!あれをキモイと言わないでどれをキモイって言うんだよ?キモイキモイキモイキモイキモイ・・・・・
街の中で個性的な人を見かけて、思わず「キンモー☆彡」とかいってしまったと。見逃してくれたらよかったけど、運悪く相手を怒らせた場合、ふつう「ごめんなさい」とかいって発言を撤回しませんか。
殴られたくないから撤回するんだ、という人は、もう仕方ない。そーゆー人間なのね、としかいいようがない。ウェブ越しに悪口いっても、まず殴られる心配ないから、いいたい放題いうのでしょう。私はね、世の中そんな人ばっかりじゃないと思っていますよ。悪いことをしたと思って、謝るのがふつうだと思う。
人を怒らせてまで「キモイ」だなんて個人的感情を公然とアピールしなきゃいけない理由はないはずです、ほとんどの場合。実際問題、「キモイ」禁止令なんてことにはならない。ここで一歩譲ったからといって、何を恐れる必要もありません。だから……と思うわけなのですが。
短期はともかく中長期的な影響はさすがにないのでは……。あと、記事を読む限りでは学生の質の問題に過ぎないとも解釈できます。アルバイト体験の価値をきちんと見積もれる賢い学生を採用できる企業なら、不都合なさそう。というか、賢い igi さんが現に採用されてるわけで、本来 igi さんに期待されたのは、バカな同期生の啓蒙だったんじゃないの。
もうひとつわからないのは、自信を持って上層部に自分をアピールできる社員が人事面で好評価を得やすい状況を、問題視されていること。上層部に批判的で、自分をアピールしない社員を賞賛する会社なんて、ヘンだと思うよ。もうひとつ、大学教育の意義を高く見積もる人、そうでない人がいるのは当然では? 大学でぶらぶらしているよりアルバイトさせる方が有意義だと考える会社もあっていい。学生自身が選べばいいことでしょ。
ま、つまんないことで同僚を蔑視してコミュニケーション不全を起こすような人材が集まる会社というのは、どうやっても経営に苦労するはず。今のやり方も人事担当者の苦心惨憺の結果、見出されたものかもしれない。内定者アルバイトをやめたって、今度は別の問題が出てくるだけという印象は受けます。
Vox って、記事の URI が長くて嫌い。上記のリンク先の記事なんて半角208文字もある。@wiki とか、Wiki なのに URI がシンプルなサービスも増えてきました。この調子で覚えやすい URI を指定できるような、ウェブサイト作成ツールとして使いやすい Wiki が出てきたら嬉しいな。
大企業の人事部長さんの記事に、底辺の労働者を自認する人々が反発している理由は何だろう? 両者の見てる世界は違う。受ける面接も違うでしょ。現に愛社精神なんかないよといった人を落とした人事部長を馬鹿にする人も、仕事の苦労を書いている以上は、どこかで採用されたわけで。
以前も書いたけど、日本の失業率は1割に満たない。就職したいと思った人の9割以上がどこかで職を得ているわけで、「東証1部上場の大手IT系企業で面接に落ちる=行き場がない」なんてことはない。
私の観察では、ある種の組織の中で立派な業績をあげ偉くなるのは、本音を表に出さず、建前=本音と「みなす」ことができる人。だからその採用面接で「ウソをつくならつき通せる人」を選別しようとするのは当然だと思っています。ま、そういうのが嫌なら、もっと庶民的なところを目指せばいい。私もそうしましたよ。
よくわからないのは、「これでは社会不信になる」という意見。面接を受けに来る人がウソつきばかりだから本音を引き出すテクニックが開発されたわけで、順番が逆なんじゃないか。
「言戯」という絵日記サイトがあります。恋人との日常を描いて人気を博し、その後いろいろあって結婚し、今はお子さんも誕生しています。それはいいのですが、結婚後、奥さんへの遠慮が減じて作風が微妙に変化したことに、主に女性読者の怒りが炸裂しているという構図。
批判系トラックバックに引き寄せられた人々が、ふだんは閑散としているコメント欄でワイワイガヤガヤ。いったいこの中の何人がメールを出したのか。せいぜい1人でしょ。現状を変えたいんじゃないんだよね。陰口で繋がる自由を謳歌していて楽しそうですね。
「迎賓館裏口」の柊さんなら、この件をどう見るだろう。ちょい更新期待。
ん〜、なるほど。想定していたのは、「軽くヤバイ」の話題など100件超の妻ネタを誇るサイトの管理人としての意見と、高名な絵日記読みとしての妻ネタ系絵日記紹介でしたが、いきなり振られても困りますよね。どうもすみません。
私の感覚では「言戯」で奥さんは十分可愛らしく魅力的に描かれているように見えます。ゆみぞうさんが描く夫とだって張り合えるのでは? ふつうの人はよっぽど自信がなければパートナーの魅力を喧伝しない。無意味なリスクは避けるもの。そのあたりの気持ちも汲んでほしいところ。
ゆみぞうさんもしばしば、実際の夫はこんなラブリーな見た目じゃありません、これは私の頭の中で変換された姿です、ということをいってます。やっぱり不安いっぱいなんでしょ。そういう負担、犠牲の上に私たちの一時の楽しみがある。あまり無理をいってはいけない。
よくわからないけど、周囲の人がもっと自分をうまく説得して、物語に乗っけてくれたらよかったのに、みたいな話なのかなあ。
私の両親はどうだったか。私は身体が弱かったので、「お前はブルーカラーの労働者にはなれません。お勉強してホワイトカラーになる他ないのです」これが基本方針でした。「やりたいことなんて、なくたっていい。でも、生きていくには何か世の中の役に立つことをしなければなりません」
引退した人のその後などを見るうち「たいていの人は、お仕事でもなければ、他人の役に立つことなんて気紛れ程度にしかやらないし、やりたいとも思わないものなんだ」と私は気付く。「母さん、ぼく、これからずーっと一日中あったかい布団の中で眠っていたいよ」
幼子を抱きしめて、母はいう。「そうね、あと100年、生き延びなさい。そうすれば……」
id:mkusunok さんは、こういう物語じゃ生きる気力が湧いてこないのかなあ。ま、私は100年生きられずに死ぬでしょうけど。
かつて社会と個人とを結びつける物語は,学校なり会社なりが一元的に担っていた訳だが,会社も学校もリアリティある物語を紡げなくなったことは,必ずしも学校なり会社が不甲斐なくなったということではなく,もはやそういった大きな物語そのものが成立し難い時代なのではないか.
わかんないなあ。
今でも、たくさんお勉強して、いい学校へ行って、いい成績を修めたなら、いい会社に就職できるじゃないですか。不況のせいで一時期、ちょっと倒産が増えたけど、それでも歴史上最悪なんかじゃないよ。相変わらず大企業は中小企業より倒産しにくいし、学歴はあるに越したことはないし、それなりに評価もされている。
私はずーっと、世の中ヘンだなあ、と思いながら育ってきた。学校の先生は自ら学校の存在意義を疑うようなことを生徒に熱心に話し、お父さんお母さん方も井戸端会議ではその方向で論調を統一する。そのくせ、子どもと一対一になると「勉強を頑張りなさい」これだもんね。おいおいおい、どーなってるんだあ? 周りのみんなを油断させておいて自分の子どもだけはいい目に合わせようってか!?
でも、そーじゃなかった。あったりまえのよーに、矛盾したことを口にしているんだなあ。いや、それが矛盾だとは思っていないんだね。その理屈がわかるまでには、かなりの年月を要したよ。
(中略)話を戻すけど、大きな物語は今でも有効なの。無効になったと思い込んでる人がいるだけ。もともと有効だった程度には今でも実際には有効で、それは家庭の中の本音として、ちゃんと生きている。
なのに、なーんでそーなったのかは知らないけど、「世の中どんどん変化していて過去の物語はもはや完全に無効であーる」とかいうバカデカイ物語に、テレビや本だけじゃない、他人事じゃなくて、私たちが発する多くの言葉が、感染しちゃってる。
ま、大きな物語とやらが成立し難いと人々が「信じる」ことで、表向き消滅してしまったネバーランドに哀悼を捧げましょうか。
この記事は没。
2ch系に職人っているじゃないですか、自主的にボランティアで諸々やるひとたち。あれと一緒で、増田で2chのまとめやってくれないかなあと。2chブログを複数RSS登録するのもだるいし、ブックマークでもネタ重複あってだるいし。こっちのほうが早そうだし。
増田ってのは、はてな匿名ダイアリーのこと。
個人的によくわからないのは、増田を全部チェックする方がよっぽどたいへんなんじゃないかということ。あと、趣味系の職人てのは気まぐれなので、仕事に継続性と網羅性がない。やっぱりアフィリエイト収入のある 2ch まとめ系ブログの方が、中の人のモチベーション意地の点で有利でしょう。
職人が激増する未来がありえるのかどうか……。少なくとも当面は期待薄なんじゃないかと思う。
陰険で邪悪な本音をねじ伏せる、美しく空疎な建前の力。
状況説明は略します。
阿蘇山大噴火という芸人がいて、この方はいつもヒゲ+スカートというファッションで暮らしているそうです。写真などを見る限り、色使いも派手。つまり、OYAJI さんのアバターの生き写しが実在するわけ。OYAJI さんのアバターは、写真と見紛うほどに本人そっくりなのだと、私は推察しています。
ですから、そのアバターを見て「キモイ、人間とは思えない」などと中傷するのは、その人の容姿を面罵するのと変わりないのではないか。少なくとも、OYAJI さんを深く傷つける可能性は大いにある。
それに実際の外見とかけ離れているとしても、何らかの願望を仮託してあのようなキャラクターを描いたのだから、当人が目にするようなところで無用の罵言を吐くべきではない、とはいえそう。そりゃ言論の自由がどうのこうのといったっていいけど、こんなところで権利を大上段に振りかざすのは感心しない。
OYAJI さんには不可能でも、私たちには、空気を変える力があるはずです。もちろん全員を黙らせるなんて無理。でも、自分一人が口をつぐむことはできます。
barclay さんも Yoko さんも OYAJI さんも、恐れるような相手じゃない。なのによってたかって。ちょっと他のみんなと違うからって。わざわざ休日に磯辺へ行って、「気持ち悪ーい」って家族でナマコを枯れ枝の先で突付いてる人々と同じ感覚なのでしょうが、それ、人間ですから。
はてブは個人の意見の集積? なぜこんなときばっかり空気を読まないのか。自分は気付きませんでした、それで平気なんですか。
デンマンさんこと barclay さんについて(2006-01-14)でも書いたけど、私だって仲良くしなさいとはいわないよ。でも、悪口をいって、怒らせて、帰りの会で「**くんが私を叩きました」と報告する人々こそ、許されざる者達だ。
他人の悪口をいいながら、こんなことで傷つく方がおかしい、と。そんな言い訳があるか。偽善力が足りないっ!
宮崎県の東国原知事が記者クラブの廃止を提案したそうで、風が吹けばなんとやら、私の記事へのアクセスが少し増えています。
アメリカだと大統領番の記者が20年も30年も指定席に座ってることがあるけれど、日本の首相番は新米記者が多いという。この違いは何なのかと思ったら、じつは記者クラブ制にも関係がある様子。アメリカでは政府が記者を身辺調査して記者証を発行するので、個人認証。日本は会社単位の自主規制。政府は関与しない。
つまり記者クラブ制度とは、マスコミ業界が報道各社の質を保証し、報道各社が記者の人となりを保証する、そういった仕組み。だから政府の人が「あなた誰?」と顔も知らないペーペーの記者が首相に好きなことを訊ける。さて、日本とアメリカ、どちらのほうが理想的な報道環境なのでしょうか。
記者クラブの閉鎖性とやらが本当に問題なら、改善してみるのもいいと思う。ただ、そう簡単に理想は実現されないでしょう。ヘンな人間が入り込んでテロを起こすようなことがあっては困る。どこかに安全装置が必要で、何らかの規制は避けられません。単純にクラブを廃止すればいいという話ではなさそうです。
「チャレンジ」とはベネッセの高級教材「進研ゼミ小学講座」のこと。私の場合は、「会員になってしまったらもう宣伝のマンガ、送ってこないよ」「じゃあ、つまんない」でアッサリ。よほど好きだったんですね、今でも箱に入れてしまってあります。
ま、チャレンジにせよふつうの問題集にせよ、ふつうの子には無用の長物。学校で計算ドリルとか配られるわけで、それをこなすだけで十分というか、実際、サボってる子ばっかりでしょ。親に聞くと、「ホントうちの子は勉強しなくて。先生からもいってやってください」……そんなことをいってる内は無理だろう。
きちんと教科書の問題を全部解いて、学校が配布した教材を淡々とこなしていく。それで十分です。
こういうことをいうと勘違いするのが、ちょっと賢い子の親御さん。「もうとっくにそんなの終ってます!」「ノートと教科書を見せてください」案の定、ぐちゃぐちゃ。やればいいというものではない。ていねいさが必要なのです。「まず、ノートをきちんと使うことが大切です。ノートの指導には1年かかります」詳細略。
続いて。「間違えた問題には、必ずチェックをしましょう。子どもが自分で忘れずにチェックできるようになるまで、繰り返し指導します。この指導にも1年かかります。90%まではすぐです。3日間でできるようになります。しかし自分自身に100%の厳しさを保ち続けるのは、難しいことなのです。ケアレスミスだから、本当は正解だったんだ、などと言い訳してチェックをしない。そういったことを克服していくのは、たいへん難しいことなのです。90%が99%になるまでに、最低でも1年かかります」
本当のことをいえば、そんなの、私だってできない。できていたら、もうちょっと社会で役に立つ人間になっていたろう。けれども、目標はそういった位置に定めます。
「速く解けることは、重要ではありません。確実に解けることが大切なのです。子どもたちの世界のルールと、私たちの見方は異なります。私たちは、粘り強く子どもを説得していかねばなりません」そこで、「お母さんも、ていねいさ、確実さを、重点的にほめるようにしてください」とお願いします。
算数・数学の成績は、これで10点くらいは伸びることが多いです。その程度? 私の力不足でありまして。
なんだかすごい人らしい。私のような二流か三流の元講師が授業風景をちょっと書くだけでかなりの反響があり、何人かの方が参考にもしてくださっている。広告通りの方なら、ぜひその授業の一端を公開していただけないかと思う。無論、文字では伝わらない部分が大きいでしょうが、それでも価値はあると……。
例によって素人の思い付きを書きます。
私も仕事をしていてよくわかるのだけれど、人と人が対面で話をすると、話がスムーズに動く。協力企業さんと連絡を取り合うときも、ちょっと込み入った打ち合わせになると、メールや FAX ではダメで、最低でも電話が必要。
外部交渉以前に、社内の不経済もコミュニケーションの障害に起因するものが多い。工場法のために都内の本社工場を拡張できず、田舎に資本投下したら、本社は都内だから大田区の町工場群(試作ラボ)との連携はしやすい一方、いったん設計図を工場に出すと、途端に躓きが増える。
何度も何度も電話で話して、写真を送ってもらってもよくわからず、とうとう飛行機に乗って工場まで行ってみたら30分で原因究明に成功、とかですね。壮大な無駄が出てる。機械さえあれば生産の効率は上がる……というのはルーチンワークの話で、研究・開発・立ち上げの段階では田舎の工場って不便極まりない。
田中角栄の「日本列島改造計画」を国民は歓迎しましたが、その代償は非常に大きいものでした。私の勤務先はメーカーだから、じつは膨大なルーチンワークが会社を支えており、コミュニケーション不全のコストは致命的ではない、かもしれない。でも第三次産業なんか、たまらないだろうな。
ネット時代になって、むしろ東京に会社が集まっているという。akiyan さんはネットがきっかけで東京人になったそうですが、非常によくわかる。(電話や FAX も含めて)オンラインコミュニケーションの壁って、やっぱり大きい。
人口密度が高ければ、多くの人が多くの人と対面で話をでき、経済活動は活発になります。人口密度の弊害が致命的なのは第一次産業くらい。既に第三次産業が中心となっている日本経済が発展を続けるためには、産業集積をいっそう進めるべきだといえます。
本当に失業問題を解決したければ、フランスがなすべきことはユーロからの離脱だと思うのですが、これまでユーロ導入の中心になってきた経緯のため、どの候補もそれを主張できないんでしょうね。
(中略)
fhvbwx 『その理屈だと沖縄と北海道は円通貨圏から独立すべきなんですが。』
Baatarism さんの答えは日本はまだ地域間の経済格差が小さいからまだ良い
なのですが、私は少し違うことを思う。
仮に「県」がEU加盟「国」と同等の閉鎖性を持っていたなら、日本の経済発展はありえなかったでしょう。国家の経済発展を目指すなら、地域間格差を解消するのではなく内部化するべきなのです。だから市町村を合併し、道州制を進めるのが正しい。
ひとつの町の中に、繁華街と原野があっても、地域格差とかあまりいわないわけです。露悪的に極端なことをいえば、「北海道(札幌周辺除く)と沖縄は無人化せよ」と。地域通貨を導入せず、経済格差を放置する利点って、キツくいえばそういうことだと思います。
日本とアメリカとでは、農家一戸あたりの耕地面積が100倍ほども違うという。日本の農業が国際的に競争力を持つためには、99%の農家に廃業してもらうしかない。無人化はともかく、日本の田舎はもっともっと人を減らした方がいい。むしろその方が、みんなの大好きな田園風景だって守ることができる。
でも現状の行政組織のまま、そういうことが起きると、夕張問題になってしまう。石炭産業が消えた後、必死に新産業の勃興を目指すが官庁に商才はない。借金膨張、成果なし。市民は失業に耐えかね流出し、財政破綻。もっと行政単位が大きかったなら、悪あがきして無駄金を使うことはなかった。
もともと夕張なんて不便な土地だから、石炭が取れなかったら発展することはなかった。その石炭がなくなったのだから人口が流出するのは当然なのに、人はそう思わないのですね。自分の故郷の衰退を我慢できない。とうとう破綻するまで、夕張再興の夢を捨てられなかった。というか、未だに懲りてない人が多い。
田中角栄さんの「日本列島改造論」とは、こうした人の心の理不尽を政府が全肯定する内容でした。田中総理の誕生以降、日本の経済発展が腰折れしたのは不思議なことではない。
東京への人口流入が70年代に止まった理由を bewaad さんは地方の過剰人口が解消されたためと予想しています。でも増田悦佐さんや岩田規久男さんの主張は、そんなことに関係ないのだと思う。
人の移動を自由経済に最大限任せる政策が実現していれば、地方に暮らす人々は家族の中の過剰人口を放出するに留まらず、一家を挙げて都会へ移住したはずです。ところが「国土の均衡ある発展」を目指す政策により地方在住の不利は「我慢できる程度」に緩和され、人々の移住コストがその利益に見合わなくなりました。
その結果、三浦展さんが「下流社会」で描くような、生まれてから死ぬまで狭い地域で暮らすのが当たり前の社会が復活し、日本の高度経済成長は(いまだに第三次産業の生産性が先進国中最低レベルであるにもかかわらず=キャッチアップ型の経済成長が依然として持続可能であるにもかかわらず)止まってしまったのです。
山手線内の夜間人口密度はマンハッタン島の半分に過ぎないそうですが、これは一等地で2階建ての家に暮らす原住民を過剰に保護する規制があるから。都市への移住希望者が増加し続けていれば、都市開発の厳しい規制は緩和されたでしょう。原住民の特権に、移住希望者の怒りが向けられたに違いないからです。
しかし現実には、地方は人口の減少を受け入れず、「国土の均衡ある発展こそ経済成長の正道」という夢物語に飛びつきました。そして、ずっと同じ街に暮らし続けたいという都市原住民を、仲間と認識して応援しました。30年後、地方は無駄な努力で借金を増やし、都市は成長を阻害されて苦しみ続けています。
日本経済の長い長いジリ貧の歩みは、現実を見なくなった人々の当然の帰結でした。……というような見方なのではなかろうか、と。したがって人々が現実を見て、無駄金食いの地方振興策を捨てれば、再び都市部への人口流入が起き、第三次産業の生産性が向上し、高度経済成長が復活するという筋立てです。
岩田規久男さんが「「小さな政府」を問い直す」で基礎自治体構想や道州制をいわないのは、日和っているだけのように見えます。残念ですね。
経済学の考え方がよくわかって、たいへん面白い本。
日照権の説明なんかひどいよ。大きなビルが建つことで地域経済が活性化されれば、総合的に住環境は改善されたことになるかもしれない。したがって、ビル建設前に「もしビル建設によって家の売価が下がった場合、差額を補填する」という契約をすれば日照権問題は解消される。……いかがです?
フツーの人は、仮に家の価格が上がっても「日陰になるのは許せない」とか思うのではないですか。これが原住民利権。過剰な利益を要求し、経済の回転を止める元凶。
日本人が、経済的合理性より「思い入れ」を大切にしたいなら、それはそれでいいのです。ただ、そのコストを自覚してほしい。夢のようなことばかりいって「どうしてうまくいかないんだろう」、これでは困るわけです。ある意味、幸せですけど。
最後に再び、Baatarism さんのところから引用。
今後もフランスやドイツは、ユーロを維持するコストを国内の高失業率という形で引き受け続けざるを得ないのでしょう。しかし(中略)両国の我慢が限界を迎えたとき、ユーロはどうなってしまうのでしょうね?
EU 加盟国同士なら人の移動は自由。失業者は人出不足の国へ移動すればいい。なのにドイツもフランスも転入超過を心配している始末。おかしな話。だから、移住するより失業に甘んじる方が合理的という構造を壊すこと。EU 全体の経済発展が大切なら他に手はない。
近年の日本では、愛知県の求人倍率が飛び抜けて高い。全国の失業者、ウェルカム。ところが、来ない。そこで伯父の勤務先では世界各国から日系人を連れてきた。しかしコミュニケーションの壁が生産性を押し下げる。仕方なく北海道へ進出するも、開発と製造が離れてしまう不経済を背負い込むことに。
ブラジルの失業者は日本へ来るのに、北海道の失業者は、なぜ愛知に来ないのか。明治維新以降1960年代までの、人が自由に土地を移動する時代の再来を切に望みます。
「異説・日本経済―通説の誤謬を撃つ」は1992年に日本経済新聞社より刊行されたインタビュー集。よくわからない主張がたくさん並ぶ中、ひときわ目を引いたのが八田達夫さんの都市開発推進論でした。
今では忘れ去られた議論ですが、バブル期には「この地価に根拠はあるか?」が話題となっていました。八田さんは市場を差し置いて「適正価格」を口にするようなことはしない。ただ、その主張を私なりに読み解くなら、かつての東京都心部の地価は、必ずしも不適正だったとはいえないとお考えではないか、と思われます。
同書刊行当時、私は中学1年生。新聞やテレビニュースの好きな子どもでしたが、地価については本音と建前が違いすぎる、という印象がありました。地上げ屋を憎々しげに描くニュース報道に喝采を送る人々が、「うちにも地上げ屋が来てくれないかなあ」と嘯く。嫌がらせに屈した一家に「ごね得」の悪罵が飛ぶ。
土地供給が少ないから地価が上昇しているのに、国鉄保有地を売却してはならぬというおかしさ、それを正しいこととして報じたマスコミや「当然だよ、役人が土地で儲けようとするなんてとんでもない」と管を巻いた庶民様が、後に掌を返して「失政」を咎めるに至る馬鹿馬鹿しさ。
私の育った街でも、団地の建設計画を抑制している内にバブルが崩壊して一戸建て住宅地に変更となり、予定人口未達成となるポカが起きました。おかげで学校などの公共施設が余ってしまっています。公団住宅が抽選倍率100倍とかいう人気になったとき、常識的にはどんどん家を供給すればいいものを、謎の理屈が幅を利かせて空き地が放置されました。おかげで私は広い原っぱで虫取りを楽しんだわけですが……。
ずーっと、土地問題とか過疎化がどうのという話には「何かおかしいのと違うか?」という思いがつきまとってきました。日本の地価は高すぎる? だったら、みんなどうしてその値段で土地を買うの? 例えば、そういったこと。で、八田さんの明快な主張は、私のもやもやを吹き飛ばす面白いものだったわけです。
……とか何とか、前フリばかり長くて本題に入らないのは、私がちゃんと八田さんの主張を読めているかどうかよくわからないから。以下も、私の意見として話半分に読んでください。
近年、だいぶ緩和されてきたとはいえ、いまだつらい鉄道の通勤・通学ラッシュ。なぜラッシュが存在するのか? 簡単ですよね、規制があるからです。だから解決策は簡単。鉄道運賃の自由化、これです。価格が上がれば需要が下がる。したがって鉄道の運賃規制を廃止して、運賃を混雑率に連動させればよい。
例えば「現行の運賃×平均乗車率=基準価格」とし、「基準価格×乗車率」の時価制運賃にする。切符は廃止して全部 SUICA とし、定期券は割引「定額」券に変更する。すると、みんな時間差通勤をするようになる。交通費支給額を削りたい企業は、始業時間を変えるだろう。
多少乗車賃が上がっても混雑が十分に緩和されないなら、乗車率が100%を越えたらプレミアム価格を取るようにすればいい。鉄道会社はどんどん儲かる。儲かれば、高い高い鉄道建設費用を賄うことができるようになり、複々線化や地下バイパスの建設も進むに違いない。
東京の家賃が高いのは、東京に暮らしたい人数に対して、部屋の数も延べ床面積も過少だから。なぜそうなっているのかといえば、交通網の混雑がひどいので容積率規制により都心の床面積を制限することにしたとき、住宅用ビルを例外としなかったため。
東京都心の夜間人口密度はニューヨーク中心部の半分でしかなく、都市政策の失敗により住宅供給が過少となっていることは明らか。都市の不動産価格を考える際に大切なことは、土地価格ではなく、床面積当たりの価格。地価が上昇しても家賃が下がれば大勢が職場に隣接した環境に暮らすことができるはず。
バブル期、土地政策にはふたつの方向があったと思います。都市部への人口流入を促進する方向へ政策を転換し、都心部の土地利用効率を飛躍的に高めると同時に、土地取引の規制緩和をどんどん進めていこうとする立場がひとつ。庶民から一戸建の夢を奪う地価高騰を叩き潰すべき、とする立場がもうひとつ。
結果的に後者が勝ったので地価は暴落してしまった。でも本来、前者が勝っていれば、地価は下落しなかったのではなかろうか。高層ビルが林立するなら、地価が2倍になろうと3倍になろうと床面積あたりの価格はむしろ下落するわけで、つまり住宅もオフィスもより安価に供給されたはずです。どうしてそうならなかった?
何か大きな錯誤があった。確かな根拠なく、できることをできないと勘違いし、すべきでないことを「やらねば」とシャカリキになってしまった。いまだに山手線の内側に2階建て3階建ての家がたくさん立ち並ぶ。これで土地が足りないといっているのだから、ジョークのようなもの。
逆に東京ベッドタウンの地価はバブル後もあまり下がっていない。私の地元なんか、むしろ上がってる。東京で土地利用の効率化が進まなかったので、郊外型の土地需要がずーっとあるということなんでしょう。前者が勝っていたら、逆に私の地元なんか値崩れ激しかったろう。ちょっと通勤には遠いから。
「東京一極集中の経済分析」の続編。両書とも、追って概要をご紹介します。いろいろデータが載ってて面白いですが、それは本で確かめてください。
大都市への人口流入を促進することで高度経済成長を復活できるとする増田悦佐さんのこの本、リフレ派の先生方にウケた理由は、よくわかる感じがします。八田さんや岩田規久男さんの主張に史観と展望(ビジョン)を与える内容なんです。
国家が自由を制限するところに不経済が生じる。高度成長期にあって、70年代以降抑制された自由は何か。それは人口移動だ……。「自由と民主主義の護持こそ日本繁栄の条件」との観点から日本近代史を読み解く原田泰「日本国の原則」ともピタリ符合する主張で、経済学徒の琴線に触れるものがあるのでしょうね。
BUNTEN さんが「パソコンが壊れたけど買い換えるお金がない」と書く。私が「VAIO Type-U を差し上げます」と申し出る。「希望するタイプじゃありません」と返事。受け取ってから売ればご希望のマシンを買えるでしょうに。
と私が感想を述べたら、BUNTEN さんが呆れた、という展開。
BUNTEN さんって、いまひとつ必死さに欠けてるような……カッコつける余裕があるというか。でもイジメを苦にして死んでしまう小学生も、ようするにカッコつけて死んでしまうわけで、その「余裕」ってのはけっこうその、「生きてほしい」と願う側にとっては怖いんですよね。生死よりプライドの方が上位ゆえの余裕。
まあ BUNTEN さんにとってパソコンは大して重要なものじゃなくて、こんなところで生き方のルールを曲げたくなかったと。それはわかるのですが、一事が万事という感じがするんですね。(親切の押売)
ご自愛ください。
弟の就職先が決まった。
常々お金持ちになりたいといっていたので、すごい高給取りになるのかと思っていたが、理工系の院生として素直に推薦を受け、メーカーに入ることに。単体で私の勤務先の14倍の社員数、30倍の売上高、60倍の当期利益という会社なので、私に「そんな会社でいいの?」といったなりにスペックは揃えたか。
ちなみに平均給与は1.3倍。ただまあ、大企業の場合、どこまで業務を分社化しているかによって平均給与って変わるから。私の勤務先は学歴や職種が給与とほぼ無関係だけど、弟の内定先ではまさかそんなことはないだろう。労働集約部門が本社内に残っているなら、研究開発職の給与は平均よりかなり高くなるはず。
最低でも父親の3倍の年収、すなわち年収1000万円にはなりたいのだという。それも30代で。1000万円といえば弊社の部長でも到達しない金額。大変だなあ、と思う。それでも、ささやかな目標ではある。サクッと実現してほしいと願う。ささやかな目標だって、実現できない人の方が多いだろう。
ともかくホッとした。当面の目標は無事に卒業すること。学部生ならまず問題ないところだけど、院生になると研究の成果なしにはやっぱり卒業させてくれないからなあ。
備忘録にコメント欄がないのは残念、という意見がときどきあります。議論できるような掲示板機能は用意したくないのですが、私も読者の反応には関心があります。「1記事につき1人1回100字まで」の制限があるはてなブックマークは、私にとって理想的な形態でした。
個人的には現状で満足していますが、わざわざコメント欄がほしいとメールをくださる人がいるくらいなのだから、読者の一部は不満に思っているのでしょう。そこで、以下のサービスのアカウントを取りました。当サイトの掲示板としてご利用ください。当面、無制限に人を受け入れます。
掲示板がほしければ、あなたが作ればよろしいのでは(2006-05-09)から変節したわけですが、深い考えがあるわけではなく、Twitter ブームへのミーハーな関心によるものです。1ヶ月くらいは、週1ペースで書き込みを確認するつもりです。
4つのサービスにアカウントを作りましたが、並列で稼動させるエネルギーはなく、あくまでも様子見。Twitter は現時点で一番利用者が多いからリストに含めましたが、英語がストレスになるので、他の日本語サービスにボロ負けしてほしいです。
投稿された内容を私が読むことは保証しないし、有意義な書き込みであっても断りなく削除することがありえます。レスをつけるかどうかは気分次第。私が管理するとなれば、当然、そういうことになる。このいい加減なルールに不満があるなら、私の管理下ではない、どこか別の場所で存分に書けばいいと思う。
今回もまた、基本方針は同じです。ちなみに2005年に作った closed な掲示板は、管理者の私がはてなを退会したのに存続してしまい、管理不能となっています。場所を作った私自身が掲示板を読めない。
学生を前へ押し出す方法、力技だけど面白い。続く第3回講義の冒頭で、果たしてどうなっているか……。大学生だから、ことによると一回のお話で変化が起きる可能性、ないでもない。小中学生が相手なら、期待しない方がいいわけですが。ふつうはそう簡単に人を説得することはできませんので。
ところで大学の講義って、教養科目や入門科目だと、福耳さんの講義のように、楽しいお話を3ヶ月あまり聞いて単位取得ということが少なくない。専門科目だとやっぱり違うのだけれど。私は学生時代、市民講座に大筋そのまま応用できる構成の科目が好きで、規定の3倍くらいの教養科目を単位取得しました。
社会人になってみると、こうした講演会がいちいち会費ウン千円とか1万円とか。無料じゃなきゃ嫌だというと、公営の講演会や大学のオープンキャンパスをマメに探さないと、興味ある分野の講演にはなかなか巡り合わない。カルチャー趣味の人には大学っていいところですよね。
とはいえ、私も半年で単位取得はダルくなり、以降「単位は気が向いたら取る。基本的には聴講生」というポジションを取るようになりました。気分が乗らなければ欠席、聴講生はそもそも名簿に名前がないから先生もなんともいいません、と。あと聴講生なら学部限定の講義にも潜り込めるのがいい。
それもじつは大学2年の後期まで。やっぱり基礎知識のないまま朝から晩まで延々と話を聞いているのでは、入門講座から得られるものだって限界があるなあ、と。3年生の頃は塾講師の仕事にハマって教育関連の本ばかり山ほど読んでいたように思う。学習と実践の繰り返し。こりゃ面白い、と思いましたね。
4年生は企業と協力しての卒業研究のため、いつもキャンパスの外にいたので教養科目どころではなく、いささか心残りな卒業に。でも、仮にもう1年あっても意義は乏しかったと思う。入学当時に抱えていた18年分の疑問は概ね解消されてしまっていたので、しばらく他のことをする時間が必要だったのではないか。
一昨年から急に経済学関連の本を読み出したのですが、じつは学生時代に聴講した経済学入門はじつにつまらなかった記憶があります。でも今にして思えば、先生が悪かったのではなくて、私が経済学に無関心だったのでしょうね。高校まで政経は得意科目で、新聞を読むのに苦労せず、もうこれでいいやと満足していた。
定年退職を迎えた方が大学に入り直す気持ち、理解できる感じがします。
「自慢話はカッコ悪い、他人の承認を求めずにいられないのは余裕がない証拠」という意見、わからないではない。しかしその理屈でいうと、他人の自慢話にいちいち不快感を表明するのもカッコ悪いのではないか、と思う。自慢話くらい、静かに聴いて「すごいねー、よかったねー」といってあげたらいいのではないか。
「お、俺のコンプレックスを刺激するなー!」という被害者スタンスなら、筋が通っています。本当に余裕がないのは自分だと、事実上の告白をしているわけですから。
というか、自分が他人に自慢話をするときって、単に何も考えていないだけ。嬉しかったりなんかして、聞かされる側の気持ちにまで頭が回っていない。だったら「余裕がない」で当たっているじゃないか、って? うん、でも少なくとも「こういう人は本当は不幸なんだよね」みたいな意見は当てはまらないように思う。
中には自分の不幸を直視できずに、「私は幸せですよね、ね?」と迫るケースもある。あるけど、大半はそういうのじゃない感じがするな。
あと、「余裕」てのは本当に余裕があるかどうかはあまり問題ではなくて、余裕があるかのように振る舞いさえすれば、万事まるくおさまることが多いように見える。だから、やせ我慢でいいんじゃないですかね。相手がどうこうじゃなくて、自分がやせ我慢すればいい。
こういうことをいうと、「それじゃ自分ばっかり損だ」みたいなことをいう人がいるけれど、つまんない衝突をするコストと、どっちがいいかという話ですよね。戦う方がいいというなら、これ以上、説得の言葉を私は持ちませんが……。
悪いほう悪いほうに考えておいたり、つらいほうつらいほうに予想しておくと、実際にやってみたときに案外そんなに大変じゃなかったりつらくなかったりとかするものだ。できれば自分の気持ちはプラス方向で保っていたい。そのほうが楽しいから。そのほうが楽だから。そのほうが生きやすいから。
有言実行の上楽しく生きやすかったのならご姉妹との生活に関する愚痴は生まれてこないはずだと思うのだけれど、それは私が物事の解決に向かいたがるゆえの感想か。
悪い方に考えておいて現実に耐え忍ぶのは、心の防御技術。だから、愚痴が出るのは自然の摂理だと思う。現実がつらくないわけじゃない。思っていたほどひどくはなかった……でも、理想とは程遠い。満足なんて、できるわけがない。「これでもまだマシだったんだ」と自分に言い聞かせるだけ。
あと「解決策」にはたいてい、大きなコストがかかる。そのくせ成功率は不明で、誰も保証してはくれない。親切な第三者は無責任なことが多く、「いったとおりにしたけどうまくいかなくて」「あなたのやり方が悪いんでしょ、私はうまくいったんだから!」フォローを求めると冷たくされることもしばしば。
こうした体験を積み重ねてきた人々が、愚痴を発することで心の平安を取り戻し、再びつまらない現実に耐え忍ぶ力を蓄える道を選ぶのは、故なきことではない。未知のコスト、挫折のリスク、不確実なメリットよりも、どうしても耐えられないほどではない現実のつらさの方を受け入れる。
解決志向の人から見れば歯がゆいけれど、逆に何でもいうことを聞く人ばかりでもつらいですよ。親切なアドバイスの少なからずは、悲劇的な結果を招くからです。誰もいうことを聞かないから成立している自己有能感は、他人の意見を容易には受け入れない頑固さとバランスしています。
yositune さんの記事によると、往年の人気テキストサイト「斬鉄剣」が更新再開されているのだという。昔と何も変わりないのだそうだ。
退歩してるこっちよか、ずっといいんじゃないかと思う。yositune さんは「進歩がない」と嘲笑されているように見えるけれど、私などからみると、むしろ変化しないナミさんは羨ましい。なーんで俺、こんなところへ歩いてきちゃったんだろう、って思ってる人、元テキストサイト人には少なくないんじゃないかな。
ところで yositune さんといえば、2ch のサイト批評スレにサイトの評価依頼をなさったときに拝見したのが最初かな。何年前なのかなあ、記憶力は弱い方なので、どうも……
連休中、久しぶりに実家へ帰ったので、記憶の不確かなところをいくつか訊ねてみた。
私が備忘録に書いてきたような思い出話は、私が曖昧な記憶の断片を都合よく再構成した物語であって、事実とはかけ離れている……ことを、あらためて思い知らされた。
例えばオートバイのマフラー(消音器)に触れて火傷をしたのは私ではなく弟、弟が触れたのは母のではなく父のオートバイ、その後間もなく母のオートバイが消えたのは、子どもを火傷させた機械を嫌った母が売ったからではなく、盗まれたから。私が火傷したのは炊飯器から立ち上る湯気を捕まえようと頑張ったが果たせず、ついにその出て来るところを手で押えることを思いついて実行した結果で、弟が火傷をする数年前の話。
おいおい、全然違うじゃないか。
ちなみに父がオートバイを買った経緯は、結婚当時に乗っていたオンボロ車に飽き飽きした父が、母が私を産むため愛知県へ帰っている間に、密かに免許を取って勝手に購入したというもの。その後、オンボロ車は部品の脱落を起こし、手放すことになった。代わりの車を買うお金はなく、母の移動の手段としてもう一台バイクを買ったのだというが、旧法では普通免許で高速道路を走れる最小限の二輪車にも乗れたのだろうか。
もしわざわざ母も二輪免許を取ったのだとすれば、私の物語にも一片の真実はあったということになろうかと思う。成田へ引っ越したときには車がなく、夫婦でバイク2台に乗ってきたのだそうで、まだ街灯も整備されていない空き地だらけのニュータウンでセブンイレブンの明かりだけが心強かったという話には、新たな感慨を覚える。
私はこれまでずっと、両親は車の中からセブンイレブンの明かりを見ていたのだと思っていた。(それはそうと、私はそのとき、どこにいたのだろう? 既に2歳になっていたはずなのである。オートバイで母子二人乗りって可能なの?)
1975年9月4日、過激な極左グループ中核派は横須賀市緑荘爆発事件を起こし、父の親友の命を奪った。その中核派が大規模な革命闘争を展開したのが成田空港(三里塚)であり、成田ニュータウンの空港公団幹部宅は夜な夜な放火の標的とされていた。
1982年、平和を愛する一市民、資本主義の底辺を支える一労働者として、地域の経済発展に貢献し、人々を幸福にする志を立て、父は成田ニュータウンへと移住する。母は父が家庭に復讐の感情を持ち込むことを許さなかった。しかし父の志には共感し、父に伴走して真っ暗闇の街へ乗り込んだのである。
父は1948年生まれ。ウルトラマンは1966年放送。同世代の普通人はウルトラマンをリアルタイムに見ていないのだが、父は見ていた。小学生同様ワクワクしながら見ていたという。後にも、私が怖がっているのに「北斗の拳」のアニメ版にハマり、「隆夫にマンガを買ってやろう」と母に提案したエピソードが残っている(ようは自分が読みたかった)。
古(いにしえ)の横スクロールアクションゲーム「ロックマン2」の曲に「思い出は億千万」と題した歌詞をつけたら大ヒットしたのだという。YouTube では様々なミュージック・ビデオが公開されているが、ロックマンのプレイ動画を使用したバージョンにはとくに胸打たれた。
ティウンティウンとやられても、やられても、ワイリー博士の侵略基地へ突入していくロックマン。もとは家事用ロボットだったという設定がある。「思い出は億千万」の歌詞は全くの懐古調だが、映像と重ね合わせると、かつてウルトラマンからもらった億千万の勇気を胸に、戦場へ身を投ずるヒロイズムが見えてくる。
空港とともに発展してきた成田。私は豊かさの恩恵を一身に受けて育った。ニュータウンの中心部に建った百貨店の屋上から中層マンションが林立し活気あふれる街を眺め、両親の長い長い歩みを思う。エンディング、一人歩み去るロックマン、世界は再び春を迎える。
間違い探しの続き。父方の祖父母は農業を営んでいた。最初、農業を継いだのは父(次男)。その1年後、会社員となっていた伯父(長男)が都会になじめず戻ってきたので、「兄弟で土地を争ってはならぬ」と祖父が父を家から追い出したのは事実。
しかし父が倒れた場所は、東京ではなく名古屋。食うに困らない仕事ということで調理師を目指して豚カツ屋に就職したが、慣れない仕事に全力投球した挙句、残り物の豚カツばかり食べ続けたので、体調をおかしくしたのだという。栄養失調ではなかった。顔色は悪く、やつれて見えたが、体重は結構あったらしい。
調理師免許を取って意気揚々と東京へ進出した父、しかしオイルショックの影響か、飲食店業界は有為転変激しく、勤務先がどんどん倒産してしまう。それでたいへんお金に困って苦しんだ……これは本当。だがその背景には、競馬や競艇といった公営ギャンブルが大好きだったという事情がある。
父は生活苦でサラ金からお金を借りたというが、母にいわせれば「失業保険で賭け事をする方がおかしい」。借金苦で自殺する人が多かった時代にあって、父はふたつの仕事を掛け持ちして借金をきちんと返したことが自慢なのだとか。さすがに懲りたと見えて、結婚後、公営ギャンブルに手を出したことはない。
……とまあそういうわけで、私の書いてることは話半分に読んでください。
この際だから書くが、「結婚後、父は賢い母のおかげで二度と貧苦に陥らなかった」というお話には、私が意図的に隠した事実がある。
名古屋で倒れた父を不憫に思った祖父は、一計を案じて父を曾祖母(父の祖母)の養子とした。曾祖母は私が1歳のときに亡くなり、父は山の一部を相続する。祖父は「畑は分けられないが、山ならば」と考えたのだ。父は遺産を担保に借金をして、成田ニュータウンの公団マンションを買った。
私が小学生のとき母方の祖父が亡くなり、母は遺産の一部を相続した。この遺産は大きく、借金を完済してもなお余裕資金があり、1999年に一戸建てへ引っ越す原資となった。ただ、母は浮いた住居費を蕩尽せず、堅実に貯蓄してきた。金だの保険だの知恵を絞ってきた甲斐あって、意外に大きな運用益が出た。
その運用益で、父は株取引を楽しんでいる。弟が相続するのは、一戸建ての家と、土地と、借金返済の代わりに母が積み立てたお金である。
本当は祖父の話もいろいろ書いてみたいが、しばらく家族の話から離れようと思う。だいたい私の記憶には間違いが多すぎる。本人が読んでも自分の話と思わないくらいだ。逆にそれくらいの方がよろしい、という考え方もありえるが……。
いいたいことがあって書き方を考えるのがふつうらしい。しかし「何か書きたいという思いが先にあって、後から書く内容を考える」というのは、私の場合は常態といってもよいくらいである。
たいてい「何だあ、こりゃあ」という感情がまずあり、しかし何がどう気に入らないのかよくわからず、他の人が何をいっているかを読む。そこで「これだよ、これこれ」という意見があれば、読んで満足する。問題はそれが見つからない場合なのだが、ようするに誰も書いていないことが私の違和感の正体であろう。
だからそんなときは、とりあえず誰も書いていないことを書いてみる。まあ、他人からみると「それって**さんと同じ意見じゃない?」って感じかもしれない。だから主観的にはそういうことをやっているつもり、という話である。
書いてみても、もやもやが晴れないことは、珍しくない。自分の心を掴み損ねたのであろう。でもせっかく書いたので、とりあえず公開してしまうことが大半である。
父が株取引に入れ込んで1年、案の定、たいへん損をしている。他人の失敗を見ると、何というかこう……ムズムズする。で、自分が初老になったつもりで、分配型の投信のひとつにポカッと100万円、入れてみた。
ガッチリ手数料を取られてしまい、この2万円分を取り返すのに何年かかるのかなあ、とか思っていたが、2ヶ月で収支は逆転して+4万円となり、ちょっと妙な感覚。現在社会人6年目、使い道がなく余ったお金が600万円あるが、その全利息より多いのである。なるほど、ハマる人がハマるのは理解できる。
たくさん儲けたいからリスクを取るのだ、と父はいう。インデックスの投信で手堅く3%なんて、と。投信が手堅い? 本当に手堅い商品とは、国債などをいうのであろー。
とはいうものの、五十歩百歩なりに、私には父のような負け方はできないなー、と思うのであった。母が何年かけて作ったお金か、父はよーく知っている。知ってて平気で損を出す。心臓に毛が生えてるんだな。
父は Windows98 で頑張っていたが、マイクロソフト社のサポートはもう終了している。危ないので、先日買った Vista が入ってるパソコンをあげた。父が株で損をするならまだいい。泥棒にお金を取られてしまうのでは、いくらなんでも母が報われない。
パソコンの代金分、投資で利益が出たら嬉しい。でも投資にハマってる人を見ると、その労力を仕事に向けた方がいいんじゃないか、と思うことが多い。100万円のことは忘れて、マジメに仕事をすることである。
それにしても、「節約なしに、ただ余ったお金」って、軽いなあ。投信を選ぶのに、1時間くらい。面倒くさくなって、「これでいいや」と決めてしまった。お金が貯まるまでには1年近くかかったのに。こんなに軽いなら、やっぱり赤十字なんかに寄付した方がいいかもなあ、と思う。
ちょっと向いてる方角が違うだけで、父も私も似てるのであろー。
携帯電話の領収証をウェブ通知にしたら、いちいちパスワードを入力するのが面倒で、あまり数字を見なくなってしまった。ふと思い立って調べてみると、4月の通話時間が17秒で通話料10円、5月は1分31秒で40円、とまあこんな具合。基本料金だけ覚えておけばいいのである(パケット通信は定額)。
電話会社は2か月分しか記録を残してくれない。これまでの通話時間も記録しておいたら面白かったかもなあ、と思っている。ただ、入社1年目の収入メモにデータの欠落があって悔しいように、これから記録をつけ始めると、10年間くらい「最初の5年余りの記録がない」ことをウジウジ気に病むに違いない。
結局、「どうせ不完全なデータなのだから」とか何とかいって、飽きて放り出すのがいつものパターンである。
……とまあ、そこまで予想した上で、年度始めの4月分から記録していこうかと思っている。1年間続けてみて、(こちらからダイヤルした)通話時間が30分を越えるのかどうか、ちょっと興味がある。
せっかくだから、かかってきた電話についても記録してみようかと思ったが、ゼロ秒で留守電応答するよう設定しているので、せいぜい着信の回数が分かるだけだ。同じ人が1日に何回もかけてきて、最後まで音声メモを残さず用件が分からないことがある。だから着信の回数は参考値とすべきだが、無意味でもないか。
いま着信履歴を辿ってみるに、たった12件遡っただけで2006年の着信となってしまった。このところ、静かなのである。ちなみに発信履歴はというと、10件遡ると2006年になる。「体調不良で有給休暇を取ります」と会社に連絡、宅配業者に届け物の再発送願い、実家に挨拶、以上。
以前はたまに知らない人の多い場へ連れ出されることがあったが、次第に番号を聞かれることもなくなった。周囲の人が先回りして「この徳保ってのは、電話に絶対に出ない変なヤツなんだ」と触れ回ってくれるようになったからだ。説明の手間が省けて結構である。
私なんかを人数合わせに呼ばねばならない幹事というのも大変だなあと思っていたが、もういい加減、便利な後輩が何人ができたそうだ。私の役目も終ったということ。
というか、あんなもの、別に頭数が合っていなくたって問題ないはずなんだ。そう思いつつも、呼ばれれば断らなかったのは、「最近の若い人」が何を考えているのか、ちょっと知りたかったから。「直前になって無理に呼ばれた」という形なら、シラケ顔で場の空気を乱していても文句をいわれず、観察に専念できる。
でも、ちょっと悪いことをしたかもしれないな。あの幹事さん、何か親切のつもりで私を呼んでいたような気もするのである。人の好意を私利私欲で浪費してはバチが当る。
最近「である」調の本を連続して読んでいるためか、久々に自分でも書いてみたくなった。いくつか、続けて書くつもり。
ネットでの反応が好意的なので、意外な感じがしました。レンタルお姉さん事業を運営するのはNPO法人ニュースタートです。NPO ということなんですけど、慈善事業ではありません。非営利ながら、相当、サービスの価格は高いですよ。
お姉さんも霞を食って生きてるわけじゃない。非常に人的効率の悪いサービスなので、高くなるのは当然。でも払う側からしてみれば高くても、それで生きていく側にとってみれば、ギリギリの値段とも見えます。
で、誰がお金を払うのかといったら、ひきこもりの保護者ですよね。だからレンタルお姉さんというのは、ひきこもり本人よりも保護者の利益のために動くわけです。というか、保護者側の価値観に親和的だからこそ、赤字にならずに運営できている。ひきこもりを社会に引っ張り出そうとすることに熱心なのは当然です。
ニュースタートの活動にいろいろ批判もある中、川上さんの人気はすごいですね。
荒川龍さんはニュースタートの取材をずっと続けている人で、いわばシンパです。こりゃちょっと美化しすぎじゃないのか、と感じるところが多々ある。むしろ中の人である川上さんの本の方が、醒めた目線が目立つ。これも才能なのかなあ。川上さんが信頼と共感を集めるのは、分かる感じがします。
ただしその分、川上さんの広報能力は強力過ぎるともいえるわけで、注意した方がいいかも。荒川さんのヘンさは、ニュースタートのいかがわしさをむしろ正直にさらけ出しているようにも思えるわけです。
日本の金融政策トップに、またもや素人が選任されたという話題。
高成長戦略の旗振り役であり日銀批判の急先鋒でもある中川秀直自民党幹事長は、何をやっているのか。口を出せばきっと批判されるのでしょうが……。内閣は人事の他に日銀支配の方法を持っていない。憲法第65条に行政権は内閣に属するとありますが、やるべきの手を抜いて後から批判をするのでは無責任です。
仕事柄、立候補制にするよりはいいのでしょうが、もうちょっとどうにかならないのかなあ。以前も書きましたが、中原伸之さんの「日銀はだれのものか」に、浜田宏一さんと岩田規久男さんが打診を蹴った話が載っています。何度読み返しても、つくづく口惜しい。個人の幸福追求はもちろん大事ですが、それにしても……。
新聞記者さんの本ということで、正直あまり期待はなかったのですが、読んでみたらけっこう面白かったです。スリーピング・ボードと呼ばれたかつての政策委員会にも気骨の士がいた、というお話。
中原以降、再び執行部主導の審議になってしまっているようで、残念。少なくとも景況判断は各審議委員とも大差ないようですし。新・日銀法施行前後に刊行された2冊の本で予想されている通りの展開に見え、何だか寂しい。寂しい、とかいうレベルの話でないような気がしますが。
現実味の無い話ながら、田中秀臣さん(上武大学助教授)が審議委員就任を打診されたら、絶対に受けてほしい。日銀批判の急先鋒であるリフレ派の諸先生方が、今度また打診を蹴ったら怒るよ。怒っていいと思うんだ、一国民として……というのが大袈裟なら、一読者として。
「日銀はだれのものか」P104-105
三月に入ってまもなく、エール大学教授の浜田宏一さんと昼食を共にしました。浜田さんは新日本奨学会の奨学生で、私は浜田さんの明晰さを高く評価していました。それまでにも審議委員になってもらえればいいのですがと暗に打診していました。しかし、結局、引き受けてもらえませんでした。この人が政策委に加わっていたら、金融政策の運営ももう少しスムーズだったかもしれません。
同 P157
また篠塚さんの後任の審議委員人事も話題になりました。森さんからは、だれかいい人がいれば推薦してほしいと言われました。週明けの五日、学習院大教授で私の勉強会のメンバーでもある岩田規久男さんと昼食を一緒にする機会があったので、彼の意向を聞いてみました。しかし、彼は否定的でした。「まだ五十八歳。七十歳まで学習院大に勤めたい」というのです。結局、篠塚さんの後任は、同じく学習院大学教授だった須田美矢子さんに決まりました。
それぞれ2000年3月、2001年2月の話。その後、とくに岩田さんは、多くの著書で厳しく日銀政策委の判断を糾弾してきました。その主張に賛同すればこそむしろ、私は腹立ちを抑えられません。
正しい経済政策によって日本は年率で名目5%(実質3%)の経済成長を実現できる、と前世紀からいっているのがリフレ派の先生方なので、名目1.3%程度の経済成長に不満顔なのは当然です。5%成長なら、もっと失業率が下がり、投資も活発になるはず。……というわけで、GDP の変化に注目すればいいと思う
全文保存&検索機能は待望のもの。はてなブックマークでも実装してほしい。ブックマークした記事をタグでしか(実用的に)検索できない現状はつまらない。それにブックマークした記事の消滅に対して無策なのは困るなあ、と前から思っていました。
魅力的な機能が用意されたので、ブックマークする側としては、Yahoo! いいかな、と思う。
でもブックマークされる側としては、現状のままなら、あまり普及してほしくないサービスです。deztec.jp の新着ブックマークみたいなリンクを作れないでしょう。ホントはできるのかもしれないけど。はてブは、ブックマークされる側の利便性をよく考えているのがいいところだと思います。
**user とかいうリンクをクリックしないと個々のコメントが読めない。地味に面倒くさい。これが面倒くさくないのって、毎日100件以上、クリップされるような人だけじゃないの? ブックマークされる側に不親切な設計の SBM が多すぎる感じがします。
IE に対する Firefox のようなもので、下手にシェアが増えても対応が面倒だけど、IE がその地位に安住して進化を止めてしまうのも困る。はてブ圧勝の中で、その進化を促す程度に競合サービスが頑張ってくれたらいいなあ、というのが正直な気持ちです。
気に入った記事を紙copiなどを使ってローカルにコピーを保存している人は少なくありません。私的利用の範囲内なら現状でも利用者にコピーの自由があり、作者に削除権限はないのです。ブックマークした本人しか見られないなら、コピーしたデータの置き場がローカルでもオンラインでも作者にとって同じなのでは?
官邸で40年近く働いてきた大塚和子さんの話題。テレビで見た感じ、スマートな人だった。いま、回顧録待ち。「書かない」という予想もありますが、私は書くと思う。ただ、それが面白いかどうかは謎。無難なエピソードしか入ってない本になる可能性もあり。書籍版「きっこのブログ」「同2」みたいな感じで。
でも私はあまり心配していません。過去の例を見るに、書いてくれた内容だけで私には十分面白いことが多いからです。
私が何をいっても通じない理由がよくわかる。これくらいのことをしなさい、と。福耳さんの大学教育の「褒める」と「水を差す」という記事を読んでみても思うことですが、いやはや他人の心を動かすのは大変です。
労作。とても面白い資料だと思うのに、ブクマされてないのが不思議。
時給600円台だった人の話。
寄せられたコメントなどをみても、最低賃金規制は当然に正しいものとみなされている様子。経済学の勉強をしていくと、「仮に時給が安くても失業よりはいい」という考え方に行き当たります。
他にもっといい条件で雇ってくれるところがあれば、そっちへ行ったはず。それがなかったとすれば、失業との選択になります。筆者自身は失業の方がよかったのかもしれないけど、社会全体としてはどうか。
最低賃金規制については先般も自民党と民主党の間で論戦になりました。ワーキングプア対策は賃金規制強化だ、と民主党はいう。私は自民党の方が正しいと思いました。
不況で失業者がたくさんいるときに最低賃金を上げても、生産性の低い企業を淘汰して失業者を増やす結果にしかならない。好況になって生産性の高い企業で人手が全然足りない場合に、労働者の「今の職場にしがみつく習性」を何とかしたい場合の政策だと思うのです、賃金規制の強化って。だから時期尚早だと思うなあ。
今後、景気回復が続けば失業率は低下し、某社もこれまで通りの待遇では従業員を確保できないはず。ホントに従業員を安くこき使うしか能のない経営陣なら、某社は遠からずこの世から消えます。
で、たいていこういうタイミングでくるんですよね、官憲が。まあ、そんなもの、こない確率の方が高いけど、くるなら今、って感じ。「美しい国」を目指して、叩け、叩け、の機運か。
ワーキングプアつながり。お勧め記事です。この方の記事はいつも面白いなあと思ってます。
八代は「さらに改革をすすめれば解決する」「何より景気回復が第一」「最大の原因は長期経済停滞。もっと高い成長で雇用機会を増やす」などととんちんかんな発言。「いざなぎ景気」をこえるといわれる「実感なき好景気」が続いているのに、何を見ているのか。
私が経済学の本をちょっと読んだ限りでは、決して頓珍漢ではない。好景気を期間だけで判断することこそ早合点なのに、八代尚宏さんの意見が耳を傾けてられもしないのがデフレ予想の定着した日本の現状。政府は半ば超然と高成長戦略を志向していますが、手放しでは喜べません。
ひとつの会社の中に高給取りと薄給労働者が共存しており、社内で所得の再分配をすれば最低賃金を上げられる、という状況なら話は全然違ってきます。でもそれは私の知る限り稀なケース。某社幹部の給与を全部再分配してもバイトの時給はちょっとだけしか増えないのではないか。
3ヶ月で10回転……ふつうの人はこうなるのかな、という感じ。いちばん時間を食っているのが DVD を鑑賞するところ。やっぱり忙しく仕事をして、テレビを観て、空いた時間に DVD というペースだと、こうなりますよね。こうした利用者がメインでないと、やっぱり儲かりませんよね。
1ヶ月で10回転を目指すという私の記事。真似しようとしない方がいいです。でも、ちょっと面白かったのが、3ヶ月10回転のコグレさんも、輸送時間のロスはけっこう気にされていたこと。1ヶ月4回転までと制限されている DISCAS Aコースが速達にこだわっている理由が分かるというもの。
アメリカと戦争を始めてから自殺が減ってるのが興味深い。あと年齢調整を行うと現在の死亡率は過去と比較して突出しているとは言い難いことがわかり、これも少し気になります。無論、前世紀末に急上昇したことには変わりなく、対策があるならやるべき。
若年者の自殺率は長期的には低落傾向にあるというデータ。
ジョディ・フォスター主演の「フォクシー・レディ」という映画(1980年)に、似たようなエピソードが出てきます。彼氏の家を自由に使っていいといわれた女の子がパーティーを開いたら、「何か楽しいことをやってるらしい」という噂を聞きつけた DQN が大集合して家中メチャクチャにしてしまうという……。
まだネットが目新しいから、ネット経由で事件が起きるとニュースになるのであって、別にこうしたこと自体は大した話でもないらしい。大騒動の結果、警察が出てきてようやく収まるわけですが、ちょっと注意されるだけ。ちなみに女の子は彼氏に叱られるのだけれど、結局、二人は結婚することに。
何か書こう書こうと思ってたけど……という話題を棚卸し。
以上、面白いと思ったサイトや記事いろいろ。
これまで読んでおらず、これからも読まない本が過半かなあ、と思った。何となく。
都知事選は石原慎太郎さんに投票しました。理由は書きません。→政治ポジションテスト:徳保の診断結果
む、むずかしいY(>_<、)Y 後でまた考えよう。
自虐系の世界では、実際には創作バッドエンドもあります。この備忘録は私の心象世界を書いているので、バッドとハッピー、どちらの方向の記事にもウソが入ってますよ。とくに「何かを書かない」ことで印象操作するタイプのウソは全面的に導入されているので、みなさん要注意のこと。
私は主にクーデターを起こす側でした。ただ、先任を追い出したりは……後輩や同輩が出て行く、というのはありましたが。過激なことをすると副作用が出る、というのが教訓のひとつ。
まじめな人が思い詰めたって世界は救われない。ちょっと悩むのはいいけど、悩み過ぎたって体調を崩すだけで何のいいこともない。「たかが塾講師」と自分を客観視することが大切だと思う。具体的には、通帳の振込通知をジーッと眺める。社会的に、これくらいの価値の仕事なんだな、と分かる。よーく分かる。
実際、頑張っても結果は出ないしね。結果じゃなくてプロセスなんだ、というと宗教とあまり変わらなくて、「なるほど、アルバイトでいいんだろうなあ、こういう仕事って」と悟りが開けます。あと、基礎学力のないまま社会に出すのはよくない、という意見には反対です。→福耳さんへ・2(2007-04-06)
少年法は社会の冷たさを緩和してくれない。なぜ人を傷つけたのか、世間の人々は訊ねない。ただ排撃する。必死の努力で成功を掴んでも、全力で地獄に引きずり落とそうとする。(子ども世界の倫理観で)卑怯といわれても大人の力で火の粉を払うか、逃げるか。それしかないのだろうと思う。
どこかのイジメっ子のターゲットにされてる不幸なレビュアー。レビューを書き続ける強さに憧れる。
あれほどの体験をしながら不特定多数とのオンラインコミュニケーションに絶望していない。仙人。
やはり議論のポイントはロジックではなくファクト。でもなぜかそれに気付かない人が多い。