とくに付け足しの情報は持ち合わせていない。それでも、私の言葉もいちおう、残しておく。
初心者向けのブログサービス……いま私がまじめに答えるなら、Amebaブログです。ブログ仲間やネッ友を作りやすいから。ただし、その人が本当にやりたいこと次第では、TwitterやmixiやFacebookあたりを勧めるかもしれない。
「ソーシャルメディア時代」なんていったって、所詮、高々読者の1割が目に見える反応をするようになっただけ。しかもその反応の大半は、無言ブクマとか、リンクだけの紹介とか、それをリツイートするだけだとか、そういうもの。状況は何も変わっちゃいないよ。
以前は信じられたのにいまは信じられないという人は、1%が10%になったら何かの閾値を越えたということなんだろうが……。私にはそういう感覚が、ピンとこない。
あれかな、最近はアクセス解析をする人が減っちゃったというのもあるのかもね。Twitterとか、アクセス解析の仕組みが皆無のサービスが大人気だったりして。Facebookはよく知らないけど、mixiは足あと帳をやめてしまったし……。沈黙のオーディエンスを信じるよすががないのでは、不安になるのも当然か。
カウンターとか、いまやすっかり廃れてしまったけど、私は正しい防衛策だったと思う。カウンターの数字が増えていくだけで、「あー、誰か読んでくれているんだ」って安心できたよね。
一読した感想はmg_eさんのコメントと同じだったんだけど、よく考えてみるとBloggerに劣った部分があるわけじゃない。藤本高司さんはBloggerのいいところを説明しているだけ。自分のことなんだけど、いったい何にカチーンときたのかわからない。
個人的には、Bloggerは旧バージョンも新バージョンもポータルページや管理画面が「ふつうのブログ」のパターンからあれこれ外れていて、個人的には戸惑う。
あと、零細ブログに読者を連れてくる部分を、Blogger側が積極的にサポートしないのは気になるところ。はてなダイアリーの場合、サービスのトップページで今週のお題と初投稿ブログを表示しているのが優しいと思う。あそこに表示されたって5人、10人くらいしか見にこないかもしれないけど、その5人、10人の読者を自分で連れてくるのが、どれだけ難しいか。
ちなみにTwitterのフォロワー数ってのは、「ほとんど誰にも読まれていない」という実態を覆い隠す、うまい仕組みだと思っている。
F 社の法人向けノートパソコンを触ることが多いんだけど、ヤバいと思う。
CD ドライブの左右の位置が年単位でコロコロ変る。
別に家庭用のパソコンだったら良いんだけど、法人向けだと右と左が統一されてないのは、すごい面倒だと思う。管理なんかする時に CD ドライブをいちいち探さないといけない。
この批判が当てはまらないメーカーって存在するのかな。appleですら時々変えちゃうよね? HPやDELLだと、年単位というか、同時期に発売のPCですらドライブの位置やインターフェースの位置が統一されていない。家庭用のPCでも、こういうのはとてもとても不便だと思う。
光ディスクドライブが右側にあるなら、ディスクを出し入れするスペースは空けておかねばならない。しょっちゅうDVDをレンタルしてPCで視聴する私にとって、「使うときだけ片付ければいい」というわけにはいかないのだ。ドライブがどこにあるかによって、机の使い方が変わるといってよい。
ケーブル嫌いの私はノートPCかディスプレイ一体型PCしか選択肢に入れていない。今では無線LANにしているけれど、以前はネットが有線LANだった。私はケーブルがゴチャゴチャするのが嫌で、最小限の長さのケーブルを使っていた。だからPCを買い換えるとき、有線LANの端子が右にあるか左にあるかが重要だった。
あらゆるケーブルを短くするという方針だから、ルーターはコンセントのそばにある。PCの電源もコンセントから取る。ならば、PCへの電力供給端子も、有線LAN端子と同じ側になければならない。最悪でも背面。有線LAN端子と逆側だと、机の上か下をケーブルが横切ることになる。許せないとはいわないが、気に入らない。
というわけで、有線LAN端子が現在のPCと同じ側にあって、有線LAN端子と電源供給端子が並んでいるPCであることを絶対条件としたら、ものすごく選択肢が狭まってしまった。まあ、狭まってよかったんだけど。
私も技術者なのでコストと手間の両面で無理な要求なのはわかっているが、やたらPCのラインナップを増やすより、光ディスクドライブの左右とか、各種端子のインターフェースの配置とかを選ばせてほしい。あるいは逆に、業界団体でガイドラインを決めて光ディスクは右側or手前で出し入れするとか決めてほしい。
PCなんかのために部屋の模様がえをしたり、生活スタイルを変えたりするのは嫌なんだ。(ケーブルが机の上下を左右に走り回るのを「気にしなければいい」という意見は却下)
ちょっと調べたら、PC斜陽の時代ということらしく、各社ともラインナップが貧弱になっていた……。あのVAIOが、いまじゃデスクトップ2種、ノート4種しかシリーズがないとか、寂しいな。
4方向全てにインターフェースがあるノートPCがある。とくに後ろにUSB端子があるのに、有線LANと電源が左右に分かれて配置されているのを見ると、言葉を失う。後ろのUSB端子に挿した機器と、有線LANか電源のいずれかのケーブルが干渉する可能性が高い……。机の奥側からケーブルを引き出せるとしたって、右と左に1本ずつとか、けっこうひどくない?
一体型PCの左右の高い位置にあるUSB端子も、いい加減にしてほしい。とくにUSB3.0端子がそういう位置にあるのを見ると、カッとなる。USBメモリにしか使えないUSB3.0端子なんて、許し難い。そりゃ長いケーブルを使えば外付けHDDも使えるが、そんなの私は絶対にやりたくない。似た例で、パワーオフUSB充電機能対応端子が高い位置にあるPCもひどい。USBメモリを充電しても意味ない。そういう端子は下の方に配置すべき。
ちなみに実家の液晶テレビも右サイドの上の方に映像入力端子があって、ポカーンとした。「D端子とHDMI入力は2つずつほしい」みたいな営業側の意見があって、「でも最低価格帯の商品は各1でよろしくー」というので、こうなったのだとは思う。共通部分と追加部分を別部品にしたら、追加部分が不便な場所に……。設計者の苦労はわかる。わかるけど、「じゃあここにケーブルをつないで店頭に展示してみろよ!」と。
世の中には、まるで自分が設計したかのような商品がたくさんある。「設計しててつらくなると、自分に都合のいい想定をしちゃうものだよね。うんうん、わかるよー」とか。時々プッツンきつつも、イマイチな設計にシンパシーを感じる今日この頃。
親切な人は「知らないと危ない」といっていろいろ教えてくださるが、どれもこれも別に知らなくてもいい。ひとつひとつは、読むのに10分とかからないので、タイトルを見て気になる人は読んで安心したらいいと思うが、基本的に読まなくていい。
とくにリンク先の記事をくさしているのではなくて、「世の中、そういう情報ばっかりだ」ということをいいたい。何事も知らなきゃ知らないなりに何とかなるというのがいちばんよくて、実際、だいたい何とかなる。だから現代の日本は、大筋では、いい社会だと思うよ。
昔は読書家だったという母が、出産以降「ラクだから」という理由でテレビにシフトしたという話、ここ数年は共感することしきり。1日がかりで本を読むのも、それの映画版を1.5倍速で視聴するのも、私にとっては大差なくなってしまい、いまはもうフィクションはテレビ番組で十分な気がしてる……。
そういいつつ、本を読むのが私ではある。でも、私には寝食を忘れて本を読んだ記憶はない。過去に読んだ本は1万4千冊ほどになるはずで、量だけについていえば偏差値60付近の読書家のはず。でも、他人にお勧めしたい本は、これといって思い浮かばない。むしろ「本なんて、読まなくていいよ」というのが本音。
私は自分が新聞を読み続けているからこそ、「新聞なんて読まなくていい」という結論に達した。読書も同じ。たくさん本を読んできた自分を見れば、読書の無意味さがわかる。読書の効用を訴える人は少なからずいるが、鏡を見て恥ずかしくならないのだろうか。
はてブでのツッコミまで含めて「考えても考えなくても同じ」「読んでも読まなくても同じ」の典型例だと思う。考えるのが楽しいなら考えればいいし、読みたければ読めばいい。でも、お勧めはしない。
あー、でも、リアル知人とかの場合、「共通の話題」を作るために「読んでね」というのはあるかも。お互いそういうコストの支払いをして、相手の興味関心について学びつつ、客観的には無意味だが主観的には有意義な世間話をダラダラ続けていくという……。
ゲームシナリオに声がなかった時代、おじいちゃんやおばあちゃんの語尾は「〜じゃ」等と書くものだった。キャラ絵も小さく、台詞も目で読む文字だけだったため、年齢表現も記号化されていた。声がつくようになって、年齢や感情は声優さんが表現してくれるようになり、台詞の自由度が格段に上がった。
個人的には、自由度が上がってよかったと感じることが、ほとんどない。「セリフ長すぎ」「会話長すぎ」「えっ、ボイスを聞き終わらないとセリフを送れないとか最悪すぎる……」「イベント全体をスキップしたいわけじゃないんだよー」とか何とか。
イベントシーンのムービーやモーションも同じ。表現力が上がった分、かつてはボタン連打の速度次第で自由にペースを調節できていた部分が、「丸ごと受け入れる」or「スキップする」になってる。そういえば、いちおう文字が読める速度でイベントを「早送り」できる親切なゲームも、ひとつだけやったことがある。あれはよかったなー。BGMとSEの処理に不満はあったけど、それは「いっても無理な部分かな」とは思った。
漫画や映画やテレビ番組と違って明確な分量や時間の制約がないせいか、他のジャンルは知らないが、RPGやADVのイベントは冗長なものがずいぶん増えてしまった。オート会話機能のあるゲームの場合、イベントになるとのどの渇きを潤したり、少し家事をしたり、掃除をしたり、小休止の時間にしている。いちばんひどいのでは、ホットケーキが焼きあがるまでずっと会話が続いていたゲームがあった。いい加減にしろ、と思う。
なーんていいつつも、画面から目を離し、コントローラーから手を離してもゲームを進められるのは便利ですね。オート会話でフル音声なら、洗濯物たたんだり皿を洗ったりしながらゲームできます。
たぶんRPGでもADVでも、ゲーム内の全ての要素を全てのプレーヤーが堪能したいわけじゃない。私にとってイベントシーンは、割とどうでもよかったんだな。
うーん、私の場合は何なんだろ。
ゲームに音声がついていちばんウンザリしたのが、頭の固い少年や少女が主人公の作品。ドット絵で、文字でセリフを読むだけなら気にならなかったのに、膨大なセリフを声付きでやられると、「これは自分がプレイするゲームじゃない気がする」「何なんだこいつらは……」という感覚がワッサワッサと。
映画やテレビ番組なら「ふーん」ですんだことでも、ゲームの場合は自分が操作しないと話が進まないためか、許容範囲が狭くなる気がする。
人生程度のスパンではコストを取り返せないが、1000年の合理を考えれば……という類の話。
おそらく、どうしようもないのだ。人の一生は短い。ふつうは5年か10年、どんなに思い切っても高々50年で元が取れなきゃダメなのだ。「100年我慢すればコストをメリットが上回る」という場合、100年経たずに死ぬ99%超の人々にとって現状維持の方がマシなのである。
何か書こうと思ったが、もう書いていたことを思い出した……。
他に思いついたことは、みんなここに書かれてた。「1週間が5日なら365日をきれいに割り切れるじゃないか」とか、「アメリカはさっさとメートル法を採用しろ」とか……。
「いうことがなくなった」つながり。
「えー!?」と思ったが、私がもやもやっと感じたことや連想したようなことは、はてブの方で網羅されてた。いやまあ、はてブより私の記事の方が長持ちするかもしれないわけで、リンクするだけだと後で困るのかもしれないけれど、面倒くさいから書かない。
以前の記事に付け加えたい内容はとくにないのだけれど、以前とは少しスタイルを変えて書いてみる。
なぜベーシック・インカムは1人当たり月額7万円でよいのか。私が何冊かの本を読んだ限りでは、国民の合意が得られる可能性がある最大の税率からの逆算で7万円という数字が出てきているので、全ては後付けかもしれない。が、そうだとしても、「高々月額7万円のBIを、なぜ支持できるのか」という問いは成り立つ。
若年層では少し話が違ってくる。1.では「子どもが2人以上いれば……」という親の皮算用を書いたが、現実に起きることは、子どもの自立の促進だろう。中卒の若者が3〜4人集まれば遊び暮らせるので、義務教育を終えるや「これ幸い」と家を飛び出す子どもがどんどん増えるのではないか。
補習塾にいた頃、親には叱られてばかりの中学生を覆っていたのは、「家を出ても生きていけない」という絶望感だった。月額7万円のBIは、彼らを解放するには十分な金額である。とはいえ、彼らもいずれ7万円では不足を感じるようになり、労働を始めることになると思う。
現在は高学歴の人材が余っているから、企業は学歴で足切りする。だが学歴で選抜したら人手不足になる状況なら、学歴要件は緩和されるはずだ。進学率が大幅に低下すれば、低学歴の人にも就職の門戸が開かれる。社員の基礎教育をタダで外注したいという企業側の身勝手に政府が耳を傾けなければ、我が子にだけはいい思いをさせたいと願う親たちが生み出した無意味な進学競争は、終息に向かうと私は考えている。
うるさい親のもとを離れてBIで自活してみて、それでも進学したいと思う人だけが進学するようになれば、高校や大学というのも、もう少しまともな場所になりそうだ。
あるいは、「中学卒業と同時に子どもに出て行かれないための親学」みたいなものが流行るかもしれない。子どものご機嫌をとるか、赤の他人と一緒に暮らすか、働くか、死ぬか。親の選択肢は、けっこう増える。「上の子が出て行ってしまい経済的に困窮した親子同士が一緒に暮らす家」なんかも、各地にできるかもね。
高齢化にともなう経済格差の拡大は一種の自然現象ですから、人為的に矯正する必要はありません(無理に平等にしようとすると共産主義になってしまいます)。クリエイティブクラスとマックジョブの二極化はこれからもつづくでしょうが、これは個人の問題で、だれもが経済的に成功できるユートピアはあり得ません。
それに対して、核家族化や単身化にともなう経済格差の拡大は簡単に解決できます。
私は「大家族制には戻らない(それほどの経済破綻は起きない)」と予想する。バブル崩壊後も日本経済は拡大し続けてきたが、その富を費やして実現したのが家族の解体だった。
「4人家族が4LDKに暮らして各部屋にクーラーをつける」のと、「4人がバラバラにワンルーム(クーラーあり)のアパートに暮らす」のでは、後者の方がよほど贅沢だ。しかし主観的な生活水準は、逆に貧しくなっている。4LDKのマンションで「各部屋に専用のキッチンとトイレとシャワーがあります」といったら、「何それ!? 無駄に贅沢!!」と驚くわけだが、現代の私たちは、実質的にそういうことをやっている。
それで、私たちは「豊かさを実感できない」と文句をいう。だがしかし、過去の生活水準を取り戻そうとして、4LDKで一緒に暮らす未来は想像できない。精神的な気楽さを加味すれば、現在の方がマシだからだ。最終判断は合理的になされているが、途中の部分が錯誤の霧に覆われていて、納得感がない。そんな状況である。
所詮は個人の価値観の問題なので、「自由」より生活水準を重視する人は、もちろんいるだろう。しかし社会全体の傾向としては、大家族制に回帰するとは到底思えない。
貧しい人が逆に結婚しないのは何故かといえば、いろいろな「結婚しなければならない理由」が消え失せたいま、「自由」の抑制に見合う条件が、それだけ吊り上がっているということ。逆にいえば、経済的な豊かさ(あるいは経済的な「自由」)など、心の「自由」と比べれば大した価値を持たないということでもある。
朝起きて、「おはよう」と「いわねばならない」。帰宅したら「ただいま」と「いわねばならない」。いってもいわなくてもどちらでもよいなら「自由」だが、自分自身が、同居人にそうした「自由」を認めない。空気のようなルームシェアは、できない。海外には事例があると聞いても、それは別世界の話である。日本では、自分が他人に不寛容なように、他人も自分に対して不寛容だろうと思う。その連鎖。
明治時代、日本の経済発展は、「子どもが死なずに育つこと」のために、ほぼ全て費やされた。経済規模は急拡大したが、子どもと若者(非熟練労働者)の増加によって食い潰され、1人当たりGDPはほぼ横這いだった。だから国民は、主観的には、経済発展を実感できなかった。1人当たりGDPが増え始めるのは、「過半が成人するなら、そんなにたくさん子ども要らないし……」と人々が気づいた大正時代になってからのことである。
1990年代以降の日本で起きているのも、だいたい同じような話だ。まず、労働力率が低下している。そして、核家族化や単身化が進んだ。状況は明治時代より悪い。1人当たりGDPに減少圧力がかかっているだけでなく、たとえ1人当たりGDPが横這いでも生活水準は下がっていく。
おそらく、ちょっとやそっと経済成長したくらいでは、生活水準は上がるまい。経済成長の果実は、子が親を扶養する一切の義務を放棄するために「浪費」されるだろう。その次に待つのは、最低限の子育てに必要な一切の経費をタダにすること。少子高齢化を考慮すれば、ざっと経済規模が2倍になるまでは、生活水準が上向くことはなさそうだ。
所詮は家庭内労働を市場に任せるだけの話で、直接負担するか、間接的に負担するかの違いかもしれない。だが、その違いこそが「自由」の源である以上、人々は生活水準よりそちらを優先すると思う。
いま日本人は、経済成長に背を向けたつもりでいる。貧しくなったつもりでいる。しかし、80年代より90年代、90年代より00年代の方が、1人当たりエネルギー消費量は増えている。
いま、年金5万円で母親は何とか生きている。だから母親を引き取れば、家賃分くらい、むしろ家計を援助してもらえるはず。しかし人と人が同居すると、お互い相手に過剰な期待をし、過剰に尽くそうとする。母親は5万円を家計に入れて6万円分のサービスを求め、娘も期待に応えるべく奮闘して疲れ果てる。そうなるとわかっているから、娘は母親を歓迎せず、母親は娘に遠慮して孤独に死ぬ。
全ては、2006年の記事の、引用した部分で尽きている。日本人は、家族のある人が孤独死できるほど、豊かになった。
概ね好意的に受け止めた。
ただ、「そんなんじゃ社会で生き残れないぞ」って脅すより、みんなが楽しく暮らせる社会を作っていく方がいい。
と5年前に書いた私としては、大人が楽しいなら、子どもだって楽しい方がいいと思う。「大人は楽しいよ」というより「大人も楽しいよ」が望ましい。
何がいいたいかというと、エヒタさんは子どもたちを縛る決まりごとの多くを当然視しているようだが、私はその多くは過剰だと思っている。かなりの部分について、大人と子どもに差をつける正当な理由を、私は見出せない。リンク先の文章の中から、とくにひとつ挙げるなら、恋愛は子どもだって自由なんじゃないの。現実に子どもの恋愛が不自由だとすれば、それは看過できない悪ではないだろうか。
もちろん親や周囲の大人たちだって、自分の意見をいう自由はある。しかし親が反対しようが許すまいが、それが子どもの心を縛るものではないことは、誰かが教え諭すべきだろう。一人が、ひとつの問題で両方の役割をこなすのは困難なので、話題ごとに、第三者の立場にある人が、くりかえし話していくことが大切だ。
そして、仮に「食事を与えない」とか「家に入れない」とか、そうした暴力によって人を屈服させようとする大人がいるなら、私は「それは間違っている」という。
私が前に住んでいたアパートの場合、最初に「敷金はあまり返さない」という説明があった。「**は敷金から補修する」「汚損の程度によらず**はクリーニングする。その費用は**円である」とか何とか。たとえばユニットバスのシャワーカーテンは、包装袋に入ったままの未使用に見える状態であっても、買い直すことになっていた。
「よそとはいろいろ基準が違うかもしれないが、うちはこういう方針でいくと決めているので、全て納得できた方とだけ契約したい」という話だった。実際、話を聞いて契約をせずに帰る人もいるという。「2時間以上も説明したのに帰ってしまうのでは、たいへんですね」と水を向けると、「あとでトラブルになったら丸1日つぶれますから」とのこと。それはそうだろうな、と思う。
貸す側と違って、借りる側は運さえよければ無策でもトラブルと無縁のまま長いときを過ごすことができる。それでも、契約時に1時間をケチるのは、たぶん損だ。最初に話をきちんと聞かないで、後からガイドラインを振りかざすのは「違うんじゃないか?」と私は思っている。
不動産屋で細かいことをひとつひとつ確認しながら契約手続きをしていると、近くの机で他の人がババババッと手早く契約を済ませていくのに遭遇したりする。私の見てきた限りでは、説明を面倒くさがっているのは、不動産会社ではなく客の方。「こまかいところはいいから」「いつまで続くの」「**時までに契約できる?」お客様って、ホント無茶をいうよなぁ。
前のアパートの管理会社(最終的に私が契約する相手だがアパートの持ち主であるところの大家さんではない)は、そういう契約の仕方を認めなかったわけだが、仲介の不動産屋にはいろんな客が集まっていて、眺めている分には面白かった。
ガイドラインが修正される以前は、クリーニング代や畳クロスふすま交換は入居者持ちというのが慣行でした。ただ、それは業界の慣行ということで、入居者の認識とギャップがありトラブルになることが多かったわけです。それを修正するためにガイドラインができて「原状回復基準について不明瞭な部分がある場合、これこれのように解決せよ」ということになったわけです。
逆に言えば「原状回復基準について不明瞭な部分がない場合、特約のとおりにせよ」ということでもあります。
私にはとても納得のいく説明。家賃が安いが特約が渋いアパート、家賃が高いぶん退去コストの安いアパートなど、様々なアパートがあっていいはず。特定の賃貸契約のあり方しか認めないのではサービス競争が起きなくなってしまう。ガイドラインを金科玉条のように持ち出すネットの一部の風習は、私には疑問だった。
ブルーレイレコーダーを買ってから外部入力端子がないことに気づいて怒ったという話。
当たり前だけど、買う時に機械の背面の外部入力端子の有無なんて、いちいち確認しない。これまでケーブルテレビの番組は録画できて当たり前だと思ってたから、よもやそんなこともできないレコーダーが存在するなんて想像できるわけがない。
自分の感覚を正義の基準にしてしまう困った人がいるから、「(アンテナ入力以外の)外部入力端子なんかいらないので、もっと簡素で安いものがほしい」という消費者の選択肢がなくなってしまう。山本弘さんは、総合的には私よりだいぶ頭のよい方。そういう方でさえ、ときにこういうことをいいだす。
あと、「ケーブルテレビを利用している=セットトップボックス(STB)を使っている」というのも山本さんの思い込み。私は12年ほどケーブルテレビを利用しているが、地上波のテレビ放送をケーブル経由で視聴するだけなので、STBは一度も使ったことがない。同軸ケーブルをテレビのアンテナ入力端子に直結している。
……う、知りたい情報が載ってない。「ケーブルテレビ利用者の**%はSTBを使っていない」みたいな事実を知りたかったのだが。
「ホームページでは説明しているはずですが」
とカスタマーセンターの人は言うのだが、調べてみたら、案の定、そんな説明はどこにもなかった。
まず、ケーブルテレビを利用しているからといって、「アンテナ入力だけでは録画ができない」とはいえない。私と同様、STBを使ってない人もたくさんいるはずだからだ。それに、私は多チャンネルの契約をしたことがないから予想で書くのだが、STB利用者であっても、STBの手前にレコーダーを接続したら、地上波テレビ放送の録画だけならできるんじゃないか? もしそうだとしたら、山本さんが求める「ケーブルテレビは録画できません」なんて表記をする方が、よほど誤解を招くことになると思う。
次に、HDD搭載ハイビジョンBDレコーダー DMR-BRT210 詳細(スペック)には、きちんと入出力端子の情報が記載されている。こういうのを「見ないのが当たり前」と強弁するのがまかり通る世の中は嫌だね。
消費者がそこそこ賢いことを前提とすればこそ、大半の物やサービスの売買契約は簡素化されている。もしカタログや説明書を読まないものぐさな人が一切の不利益をこうむらないようにしなければならないとすると、家電を買うたびに、30分以上あれこれ説明を受けなきゃならなくなるんじゃないか。そんなのはアパートの賃貸契約とかだけでもうたくさん……。
これらの記事とはてブの反応を読んで気になるのは、「自分がクレーマーになる可能性」を心配する人って、やっぱりいないんだな……ということ。
「自分の怒りは正しい怒り」という前提を疑う習慣が必要。今日、山本弘さんの記事に「そりゃないでしょ」と感じている自分は、むしろそうした経験の積み重ねゆえに、「私はそんなに怒りっぽい方じゃない。もし私が怒るとしたら、それはよっぽどのことに違いない」と過信してしまう。
「自分より頭がいいはずの山本さんでさえ、こんなことでプッツンきてしまう」という現実に、私はもっと恐怖を感じるべきだ。「きっと自分は、もっともっとどうでもいい小さなこと、自分が気をつけて回避すべき躓きでブチ切れて、店員を困らせるに違いない」と予想しなければならない。それを「なーんだ、山本さんって自分よりバカだったんだ」と勘違いするから、クレーマーは減らないんだと思う。
以上、自分で自分に言い聞かせる記事でしたー。
軽自動車という規格が不合理なのは、私も技術者として感じていること。海外の自動車メーカーがそれを指摘する意図がどうあれ、不合理な市場誘導はやめるべき。
もうITは十分に発達・普及した。自動車のローンとかも最近は自分で電卓をたたく人がずいぶん減り、計算式をすっとばして、計算フォームに諸条件を入力して結果だけ見るのが当たり前になりつつある。それは「未来人は簡単な計算も自分ではできなくなる」という悪い未来予想が当たったということではある。しかし、これは不可逆な変化なのだろうから、むしろ積極的な活用について考えるフェーズに突入しているのではないか。
軽自動車と普通自動車の大きな段差には合理性がない。だが、なぜ1段階なのかといえば、ルールを簡単にするためである。手計算なら、早見表から簡単に税額がわかるのが望ましい。それで所得税も自動車関連の税金も、階段状に設計されている。しかし、もう、そういう時代ではないだろう。
仮に「なるべく排気量の小さな車を選ぶことを推奨する」というのが軽自動車という区分を維持し続けている理由なのだとすれば、税率を排気量の1次関数にしてはどうか。1次関数では単純すぎるというなら、途中で係数を変えたっていい。1次関数は6334制になって以降、常に義務教育の範囲内だったから、教育上の問題はないだろう。計算が少し面倒になるのが課題だが、そこをITで補う、というのが私の主張。
所得税も同じ。103万円のところに段差があるからいけないので、税率を1次関数にして、ソロリソロリと税率が上がっていくようにすれば、税制による市場の歪みは生じにくくなるはずだ。
ネットの一部では、『踊る大捜査線 THE MOVIE』シリーズは「下手に貶して怒られる」ことがない安全な映画になっている……というのが私の認識。
本作でも織田裕二力は存分に発揮されてるのですが、中でも白眉なのが杭で防火壁を叩くシーンです。
消防隊がバーナーやカッターを持ち出しても開かなかった分厚い防火壁を、木の杭でどーん、どーんと叩いて壊そうするんですよ!
狂気!!!!
もちろん、そんなんじゃ壊れないんですけど、
織田裕二は一心不乱にどーん、どーんとやるんですね。
さらに、画面はスローになって、どーん、どーん。
これ見てると、
うすうすみんなが感じてる
この人、狂ってんじゃないの?
という疑念が確信に変わって、スゴく怖いのですよ!
罪山さんの記事で、やたらはてブ受けしているのが、この部分。本当にそんなシーンなんだろうかと思って、年末の放送を録画していたので、先日、視聴してみた。まあ、身構えていたということもあるんだろうけど、拍子抜けしたというのが率直な感想。
文明の利器を弾き返した防火壁が木の杭で叩いて壊れたら、私でも首を傾げる。でもそうではない。コンクリートの壁でも、ボールをぶつけたら中の人に音が伝わる。昔、団地に暮らしていたとき、壁を一人キャッチボールに使う子がいて、閉口させられたものだった。青島警部補の壁叩きも、警察署内に音を響かせる。それは「諦めていない」という気持ちを中の人々に伝える行為である。
実際には周囲の人はみな心配しているのに、それが当人に伝わらず、絶望して自暴自棄になってしまうということが、しばしばある。孤立した警察署に取り残された人々だって、外の動きが止まってしまったら、精神的に疲弊する。「そんなわけない」と思っても、「見捨てられたんじゃないか」という気持ちが膨らむ。だから、対策が見つかるまでの主観的には長い長い時間、警部補は壁を叩き続けた。
「杭で壁を叩いて何になるんだよ」という呆れ顔は、映画の中でもサラッと登場している。警察署の外では、警部補に同調する人が現れない。だが警察署の中では、壁叩きが「無駄だけど無駄じゃない」ことをしみじみと感じて、みな胸を打たる。
もちろんそれは能力に応じた役割分担であって、みんなが壁を叩いていたら、いつまで経っても防火壁は動かなかった。いったん防火壁が動いてしまえば、「いままで警部補は何をしてたんだ? 壁を叩いてた? バカか、あいつは」となる。その後いろいろあって警部補は褒められるわけだが、壁を叩いていたことは評価の内に入っていないだろう。
別の観点からも少し。
自分の力ではどうにもならない状況に陥ったとき、泣き叫んだり、壁を叩いたり、走り回ったりするのは、人間として自然な行動ではないだろうか。
青島警部補には防火壁しか見えていない。だがノーアイデアである。警部補は自分の関心事にしか取り組まない困った人物で、防火壁と関係ない仕事を与えても役には立たない。だが、この段階では上司にも防火壁対策のアイデアはない。だから警部補は、一時的にフリーである。仕事がなくて宙ぶらりんになっている。
何もできず、そして何もすることがない警部補は、杭で壁を叩く。そんなことで事態が何も変わらないのは、警部補だってわかってるよ。少なくとも、わかってないという描写はない。「無駄」な壁叩きに不満のある人は、体力を温存して仮眠を取る合理的な警部補を見れば満足したのだろうか。
さて、アタマのいい警官たちは、警部補が壁を叩いている間、様々なアイデアを試し続けている。彼らが解決策に辿りつくまで、物語は小休止となる。観客は、イライラする。が、それこそ監督の狙いだろう。
ただでさえ長い映画なのに、なぜあれほど時間を費やして壁を叩き続けるのかといったら、警察署内でお手上げ状態の人々が「無意味」な壁叩きに感動するまでの心の動きを、追体験してもらいたかったからだろう。暗い映画館の中で、身動きできない体勢で、どーん、どーんを聞き続けるうち、いつの間にか胸があったかくなっている……そんな効果を狙ったのだと思う。
とまあ、そんなわけで、罪山さんらがこのシーンを理解できない理由が、私にはむしろわからない。「少なくとも自分は感動しなかった。だから演出は失敗している」といった話なら理解できる。だが罪山さんは、青島警部補は狂っているとか、壁叩きが「スゴく怖い」とかいって、嘲笑してみせた。
壁叩きのシーンを見ての真面目な感想がそれだったというなら、許せる不合理と嘲笑の対象となる不合理の違いを説明してほしい。あるいは、水に落ちた犬を叩く手段として嘲笑を選んだというなら、私は感心しない。「シカトしたのには理由があった」といって反省しないイジメの加害者と、いったい何が違うのか。
手もとにある『学生時代に何を学ぶべきか』は1988年刊。各界の著名人が、高校生・大学生に向けて様々な忠告をしている。90年代の人はバブル景気真っ盛りの狂った時代と呼んだが、人々の意識には、終わりの見えない公害禍、2度のオイルショックとインフレの恐怖、円高不況の痛みなどがあった。多くの人が、経済発展に倦んでいた。
で、私の感覚では、同書の中に内田さんの記事があっても、finalventさんの記事があっても、まるで違和感がない。
はてブのコメントなどを見ると、「昔の人はこういう悩みがなくてよかったね」風の意見が少しあったりするのだけれど、今昔物語などを読むと、昔から人は「いかに生きるか」で悩んでいたことがわかる。生きるか死ぬかの場面でさえ、生きるというのは当然の結論ではなかった。
何というか……「生きるだけで必死」で、「人々が何も考えていなかった」時代なんてものが実際に存在したとは、私には思えない。「そういうこと」にしておきたい人がいるだけではないだろうか。
私が若い人にいいたいこと? とくにないな。
いっても無駄なので、いう気がしないことなら、たくさんあるけど……どれも口にすれば我が身に跳ね返ってくることばかり。
リンク先とは、ほぼ関係ない話をします。
私はいわゆる「リクルートスーツ」を着たことがない。成人式のときに黒系のスーツは作ったけれども、それは明らかにリクルートスーツの基準を満たしていなかった。
そして、私がたいていの面接に着ていったのは、かつて父が着ていて、いま(2001年当時)ではもう太って着れなくなったので私に譲ってくれたスーツだった。ブルーグレーの、舶来の上品な生地を仕立てたスーツで、若き日の父が大いに背伸びをして作ったものだ。「これでモテる」つもりが全くモテず、オイルショックの余波で勤め先が何度も倒産し……そんな苦難の時代に父のプライドを守り抜いた一張羅である。
面接でスーツの話題が出て落とされたことは、一度もない。何やかやで最終的には20社以上で落とされ続け(つまり最終面接では服装など話題にはならなかった)、7月になってやっと決まったわけだけれども、次から次へと落とされてみて、むしろ「やっぱり服は装飾に過ぎないな」とは思った。
「このスーツで落とすような会社には入らない」と私は決めていた。私の問題は、むしろ服に中身が釣り合っていなかったことだろう。スーツのエピソードは面白くても、それを語る若者が軽薄だったわけだ。
たぶん、「リクルートスーツを着てこないから落とす」なんて企業は、そうそうないと思う。仮にあったとしても、そんな会社、入っても面白くないよ、きっと。……でも、そうは思わない学生が多いから、リクルートスーツ文化は定着した。問題の根は、企業ではなく学生の方にあると思う。
人余り社会を背景に、就活の保守化に拍車がかかっている。私と面識のある還暦くらいの方々は、むしろこうした状況を苦々しく思っている。どうでもいいことを「常識」として押し付けたがるのは、むしろ就職氷河期世代。不安に脅えて生み出した就職活動の虚像を、自らの手で実像に変えようとしている。
学生たちが思い思いの服装で就活に臨んでいた時代を知る世代が残っているうちに、どうにかして根拠不明の「常識」でがんじがらめになった就職活動を打破できないものか。
これまでの日本人の歩みを振り返るに、夏を過ぎ、火力発電所が修復された後、節電の努力などコロッと忘れてしまいそうだな。地球温暖化にも本音では関心が薄いし、火力発電頼りの状況が続くのだろうな。
震災前までCO2の排出が多くて叱られていた中部電力と、環境優良企業だった関西電力。1年足らずの間に、世間の評価がクルッと変わってしまった。昨春、東北と関東の電力不足を心配して関西方面で事業所を移した企業もあったが、担当者はいま、どんな思いでいるのだろうか。あるいは、今頃またフットワーク軽く中部へ移動したり、関東に舞い戻ったりしているのだろうか。
それにしても、関西電力の原発が全て止まるとは、昨年3月の自分は思っていなかった。原子力発電もそこそこ動く前提で、来年になれば節電なんか忘れているだろうと予想していた。日本人にとって、電力の優先順位って、意外と低かったんだな。
昨日まで動かしてきた発電所なのに、いったん止めると再稼動できない。「計画を変更して止める」ことは難しいのに、「計画を変更して動かさない」ことはできてしまう。たいへんな話で、胃に穴を開けている人もいるだろう。それでも、「心理学の教科書通り」に事態が推移するのを見て、ちょっと「面白い」と感じている自分もいたりする。
なかなか、原発再稼動の目処が立たない。民主主義がキッチリ機能していて、背に腹は代えられない地元市町村は再稼動に賛成しても、府県のレベルでは容易には賛成しない。地方や国のレベルでは、なおさらだ。漠たる不安が。列島を覆っている。
私は、その不安を吹き飛ばす言葉を持たない。自分なりの考えはあったが、ふだん顔を合わすエンジニア仲間にさえ届かなかった言葉を、ここに書き連ねる気にはなれない。
もはや電力不足は不可避だ。大勢が節電に精を出し、だが結局は30年前と比較すればはるかに大きな電力を消費して、今年の夏も過ぎゆくのだろう。私が原発の再稼動を希望してきたのは、所詮、「30年前の電力消費水準では耐え難い」という私的な事情に過ぎまい。
昨夏、私の電力消費量は113〜127kWh/月だった。正月、実家に顔を出したとき、私が生まれた頃の家計簿を見せてもらった。8月の電力消費量は、1家3人で118kWh、1人当たり約40kWhである。とても真似できぬ。「一人暮らしは贅沢」という持論が、ブーメランのように突き刺さった。
私が一人暮らしをしているのは、人間不信ゆえだ。原発不信より、よほど根拠のない話だと思う。とてもではないが、他人の不安を哂える自分ではない。それなのに「113kWh/月って、そこそこ節電してない?」と自慢げだったバカらしさ。
誰にも、できることとできないことがあるものだ。私は私にできることをしていく。こうありたいと願う生き方を、可能な限り実践していく。それが、弱く愚かな私を支えてくれた人々に対して私ができる、唯一の恩返しだと思う。
テレビなんか見るのをやめたらどうか。ラジオでいいだろう。エアコンがどうしても必要な人もいるだろうが、あなたがその「必要な人」なのか。みんなで我慢すれば、どこも停電せずにすむのに。……他人を見ると、そういうことを、いいたくなる。もちろん、いいたい人はいえばいい。でも、私は、いいたくない。少なくとも、今は。
視覚的にも情報漬けにならねば心の平穏を保てない人、非常時にもエアコンの快適さを手放せない人……長期的には、その弱さは克服されるべきだ。が、今いっても仕方ない。私が節電することで、少しでも停電地域が狭くなり、誰かの心が安らぐなら、それでよいと思う……いや、違うな……よいと思える、私でありたい。
震災から一週間後に書いた、私の所信表明。「こうありたい」という気持ちは、今も変わらない。かつて「他人のことより、まず自分のことを考えなさい」と母はいった。当時の母と同じくらいの年齢になってみて、あれは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのだろうと思う。
内容には興味ない。ただ、2番目の記事にで、それを何故、ダイアリーなどで言わない…
というはてブコメントがついていたのだけれど、こんなの、匿名でなしに書けちゃう方がおかしいと思う。だって、ブーメランになることが容易に想像つくじゃない。
私がなるべく、「自分はダメだけど、周囲にはこんなすごい人がいます」という書き方をするようにしているのは、自分のハードルを低く保ちたいから。経験的に、他人を評するほどには自分自身は実践できていない人が大多数。でも当人は「できているつもり」だったりする。自分も同じだろう、と。できているつもりで、できていないに違いない。
ちなみに私が後輩の面倒を見るときはどうしているかというと、「私もあまりできていないんだけど、こうするのがいいって聞いたよ」という言い方をしている(はず)。これなら、自分のハードルは高くならない。でも世の中には、カッコいいことをいって、自分を追い込むのが好きな人が多いみたいなんだよな……。
2番目の記事の書き手の方って、名乗り出ていたんだな……。へー、すごいなー。
この状況が進んで市場が活性化していけば、きっと自炊も不要になるはず。
前にも書いたけど、本当は多くの人は自炊なんてしたくはない、と思う。
何故なら面倒くさいから。
普通に買えるようになったら、それが一番いいわけです。
最初から電子書籍リーダーで読みたい人は、そうなんだろうな、と思った。あるいは、紙の本を読み終わった後で、スキャンせずに電子版を買う条件みたいな話なら、理解できるかな。
私の考えは全然違っている。裸でカバンに放り込むことができて、コンクリートの上に落としても壊れなくて、落としたものを踏んでしまっても支障なく、A4見開き表示ができるくらい大きくて軽くて電池が要らない電子書籍リーダーが登場したら、「電子書籍でもいいかなー」と思う。つまるところ、私は本は紙で読みたいので、電子書籍を買えても嬉しくない。
読み終わった本をスキャンして廃棄するのは、「もうこの本や雑誌を全編通して読むことはないな」と思えるケースだけ。私は時代に取り残される側だけど、今後10年、20年くらいでは紙の本が消える気がしない。だから、電子書籍ファンの足を引っ張るつもりはないよ。
ちなみに私は携帯電話もよく落とす。なので、全面ガラスのiPhoneとか、「私には無理だなー」と思う。今はストレートタイプのPHSを使っているけど、けっこう角のところがボロボロ。携帯電話を目覚まし時計にしていて枕元においているのだけれど、布団に入るとき誤って踏みつけてしまうこともよくある。
以前は折りたたみの携帯電話を使っていて、安心感が全然違った。
私は下記の業者にフィルムのスキャンをお願いしました。
定価は35mmフィルム1本につき525円となっていますが、65本のフィルムをまとめて頼んだら、割引がありました。仕事が速くて低価格。品質は、厳しい方はいろいろ仰るのかもしれませんが、個人的には満足のいくものでした。65本ものフィルムを3万円足らずでスキャンできる状況で、自分でスキャンしようとは思わない。
1本だけ110フィルムがあって、これは写真のセントラルでは扱っておらず、オーバードライブに依頼しました。1コマ105円でしたが、110フィルムがたった1本しかないことと、ただでさえぼろぼろのフィルムをプリントしてからスキャンしても結果は悲惨きわまりなかろうということで、依頼しました。
問題はむしろ、スキャンした後。
これまで実家では「熱海へ旅行に出かけたのはいつか?」といったことで、家族間のつまらない論争が繰り返されてきました。家族の歴史はWikipediaに載っていないので、自分たちで資料集を作るしかない。この正月、早速、3回も「じゃあ、アルバムで確認してみようよ」と、役に立ちました。
常時、PCが起動している家なら、本にした意味はほとんどないかもしれない。でも、そうでない家の場合、本の方がサッと調べやすい。最近だと「それiPadでできるよ」かもしれませんが、家族4人で手分けしてアルバムを調べていたとき、「将来のことはわからないけど、いまこの瞬間は、本にしてよかったな」と私は思いました。あまり共感されそうにない話ですが……。
私の場合、Photobackで出力するというゴールを決めていて、フィルムのスキャンはその準備でした。でも、作ったアルバムが何の役に立っているのかといわれると、説明は難しい。記憶違いが多いのに自信満々な父を凹ますためのツールとして役立っているだけ? それでも、個人的には満足してます。
PhotobackとかDreamPagesって、単純に印刷のクオリティの話をしたら、ふつうのプリントを集成したアルバムに対して優位性がないんです(とくにDreamPagesの品質は……)。かといって、とくに価格が安いともいえない。じゃあ存在意義がないのかというと、決してそうではなくて。
例えば。素人の写真って、未完成というか、無駄が多い。トリミングするだけで、割とよくなる。フォトブックなら、これが簡単なんですね。とくにPhotobackの編集画面は、私にとってはとても使いやすい。「これほど簡単なら自分でもやる気になれるなあ」と。ふつうのプリントでトリミングの指示をするのは面倒。100枚以上のプリント全部にトリミングの指示とか、ありえない。でもフォトブックなら、ふつうにできます。
あと、しょうもない写真でも、小さくしたら、見てつらくない感じになる。ふつうのプリントだと、引き伸ばす方はいろいろできますけど、小さくする手段がない。BUNKOで1ページに4枚も詰め込むと、ダメ写真でも「ま、いいか」と許せるわけです。4枚詰めるには縦長にする必要がありますが、横長の写真をトリミングして縦長にすれば、構図の無駄がなくなって、さらにスッキリ。
ふつうのアルバムがダメだとは思いません。あれはあれで、いいところがあります。でもフォトブックは、「自分はこういうのを求めていたんだな」と気付かせてくれたサービス。全員がほしがるものではないと思いますが、刺さる人には刺さるはず。
私のPCには元画像が入ってるわけですけど、いったんフォトブックを作ると、基本的にはもう、そっちしか見ないですね。たまにPCの画面いっぱいに写真を出すと、「おお、大きくて迫力ある」と感心するのですが、基本的には、文庫サイズのアルバムをパラパラする方が、私にはいい。
このあたり、全然、感覚が違う人も多いと思う。電子書籍だって、私は紙の本より読みにくいとしか思えず、本棚の節約という意味でしか評価していないのだけれど、逆の主張も割りとよく見かけるわけで。
新婚旅行の頃までは、母の写真もたくさんあるのですが、私が生まれてからは、もう全然。
私が高校生、弟が中学生になって以降、二人とも写真嫌いになって、フィルムの消費が年1本ペースにまで落ちる。子どもたちの笑顔を撮り続けた母に、冷たいことをしたものだな、と思う。
あと、家族写真といえど「すまし顔+棒立ち」は、面白味を欠く。だから子どもが小さい頃の写真の方が、みな自由にしていて楽しい。デジカメ時代になって、フィルムの残り枚数を気にする必要もなくなったわけだし、「記念写真」の様式は、そろそろ廃れていってもいいんじゃないか……というか、もともとあれは学校の旅行向きのもので、ふつうの家族には無用のものだったんじゃないですかね。
あー、でも、「写真を撮るから並んで!」とかやらないと、子どもを背中の方から撮った写真や、斜め上から見下ろすような構図の写真ばかりになってしまうのがなぁ……。カメラマンに徹するなんて、無理ですからね。片手間に撮影しようとすると、「後ろから写真」「斜め上から写真」になっちゃいますよね。
作例は示しません。
約1万5千字の判決文を、ようやく読み終えた。
これらの点を考慮すると,いまだ,被告人において,本件Winnyを公開,提供した場合に,例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性が高いことを認識,認容していたとまで認めることは困難である。
多数意見は、Winny作者の言行を仔細に検討し、著作権侵害を幇助する故意を消極的、否定的に評価することによって、幇助犯の成立を否定している。
逆にいえば、単純な「包丁無罪」の論理は排除されており、個人的には安心した。この判決は、自分の作った物が例外的とはいえない範囲の者
に悪用されることを認識している場合、何らかの対処が必要になるといっている。ソフトウェア自体は価値中立だから即ち無罪、という内容ではない。ソフトウェア開発者にも倫理が求められるのは、私は当然だと思う。
ともあれ、こうして上告が棄却されたので、大阪高裁の無罪判決が確定した。
一方で,一定の分野での技術の開発,提供が,その効用を追求する余り,効用の副作用として他の法益の侵害が問題となれば,社会に広く無限定に技術を提供する以上,この面への相応の配慮をしつつ開発を進めることも,社会的な責任を持つ開発者の姿勢として望まれるところであろう。私は,前記の1ないし5から,被告人に幇助犯としての犯罪の成立が認められ,上記のような被告人にとっての事情は,幇助犯として刑の減軽もある量刑面で十分考慮されるべきものと考える。
個人的には大谷剛彦裁判官の反対意見の方により共感したが、多数意見も十分に理解できた。
私は地裁と高裁の判決を読んでおらず、「47氏=Winny作者」を検察は証明できなかったと思っていたが、最高裁の判決文の中では、47氏の発言はWinny作者の発言として扱われていた。直接証拠はなくとも、状況証拠から「47氏=Winny作者」と裁判所は認めたのだろう。
「長文書きたいなら Twitter で細切れ POST するんじゃなくて、ブログ使えばいいじゃん」、尤もな話ではあるが当事者の事情をわかっていない。手間暇がないので Twitter で思いついた順に細切れに並べといて、あとでまとめてブログに書いているのだ。
「私はこうです」というだけの話なら、「そうなんでしょうね」なんだけど。Twitterで連投した人の大多数は、その後、ブログの記事を作らない。「読者サービスとしては、そういうことをやった方がいいのかもね」とは思っても、連投した時点で自身の表現欲は満たされている人が過半なのではないか。
フォロワーが多い人だと、しばしば「誰かTogetterにまとめて」なんてリクエストをしているのを見かける。でもそれって、まとめることの価値を積極的に認めているというよりはむしろ、「まとめ記事なんて、読者にとってメリットがあるだけで、書き手の自分自身にとっては具体的な利益がないから、自分では労力を投じません」という宣言とも受け取れる。
考えてみると、家族・友人・知人とお喋りして「あー、楽しかった」「今日は我ながら少しは面白いことを喋ったんじゃないか?」と思っても、後に何かを残すことなんて滅多にない。
Twitterで連投するのを「もったいない」と思わない感覚って、飲み屋で20分くらい大演説をぶっても「録音しておかなかったのが悔やまれる」と(本人は)思わないのと同じなんだろうな。もちろん、ファンの人は「録音ほしい!」「書籍版もぜひ!」なわけ。で、この落差を埋めるのが「誰かTogetterにまとめといて」。
「ブログて自分が書いたもの以外記録しづらい」という漠然としたルールを意識しがちになるんだけど、実際にいまある欲望はどちらかといえば「この日気になった他人の書いたものも併せて記録したい」だと思ってるので、Reblog や RT も投稿しやすいようにしとかないと使えない。まあこれ、ブログ一般というより、せっかくいまどき改めてリリースされた新規ブログサービスであるところの、はてなブログのことなどを想定して書いてんだけども。
著作権についてどう思っているのか、気になる。
何度でもいうが、Tumblrのリブログ文化は、「仲間内でやれ」。リブログ文化に賛同していない人の著作物を無断転載するな。
Togetterに対しては、「Twitter APIの利用規約を守れ」。削除されたり非公開になったりしたツイートは自動的に削除・非公開とすべし。でも現状のTogetterではそういうことができないので、年に1回でもいいから、まとめ人が責任を持って作業しろ。
ブログで他人の著作物を扱うなら、「引用の要件を満たせ」。
ここ数年、私が大量のテレビ番組を視聴したり、漫画をたくさん読んだり、コンソールゲームをいっぱいプレイしたりしてきたのって、小学生や中学生の頃に(クラスメートたちとの相対比較において)あまりそういうことをしてこなかったからではないかと思っている。たぶん、本当は好きなだけテレビ番組を見て、漫画を読んで、コンソールゲームをプレイしたかったのだろう。
社会人になってからおなかを壊すまで食べたのがアイスクリームで、これは小学生の頃、心底食べたくて、でも食べられなかったものだ。当時は牛乳と鶏卵と大豆のアレルギーがひどくて、アイスクリームは全く食べられなかった。食事制限をしていたのに、アトピーも喘息も容赦なく襲い掛かってきたので、私は「どうせこんなにひどいアトピーが出ているのだから、アイスクリームを食べたい。アイスを我慢して、こんなに皮膚病がひどくて、そんなのはあんまりだ」と訴えたが、母は絶対に許してはくれなかった。
弟なら何年でも抵抗を続けただろうが、私は「母を困らせない子どもであろうと努めることで得られるいくつかの特典」に価値を感じていた。だから、私はすぐに抵抗を止めてしまい、その後、アトピーがかなり落ち着いた後も、「アイス食べたい」とはいわなかった。
今も私は、母の前ではそういうことはいわない。両親が家にくるときは、冷凍庫のアイスクリームのストックをゼロにする。冷蔵庫の生卵も、菓子棚のチョコレートもそうだ。私が本当はアイスクリームやチョコレートを食べたくて仕方なかったのに我慢していたことや、「今は好きなだけ食べられて幸せ」ということを、私は隠蔽する。
もちろん母は、全てお見通しだろう。それでいい。親子の間には、そういう「優しさと背中合わせの緊張感」があるくらいが、ちょうどいいと思う。
昨年末に出たんだけど、非常に分厚くて、まだ一部しか読んでない。以下は、この中間報告に関するマスコミ報道を見聞しての感想。ただし報道の内容を私が正しく理解しているとも思えない。
さて、三流技術者の感覚としては、福島第一原発の事故は、最も単純には、非常用のディーゼル発電機がひとつの部屋にまとめて置かれていたことが原因。原発の背後の台地に予備の非常電源小屋を建てておけば、事故は起きなかった。非常用電源自体を増やすわけじゃないから、費用は100億円以内で足りたと思う。
あるいは、非常電源車に、冷却装置に電源供給するための変換プラグを積んでおけばよかった。せっかく海嘯後に電源車をかき集めたのに、電線をつなぐことができなくて使えなかったというのは、悲しすぎる話だった。これなんか、きっと対策コストは10億円スケールだと思う。
非常用電源を一箇所にまとめて置いておいたら、ひとつの要因でいっせいに壊れることがありうる。それは三流技術者にもわかる理屈。ランダム故障だけを想定して、非常用電源をひとつの部屋に複数並べて「冗長化を実現しました」というのは、おかしい。うん、それはそうだ。……というくらいの話なら、私でもついていける。でも、事故後の報道や、識者の発言には、ついていけない部分が多々ある。
まあね、「問題が発覚したときには、当該の問題を解決するだけではモグラ叩きになるので、問題が発生した原因を追求しなければならない」ということもまた、教科書には書かれていて、理由の理由の理由を探っていくこと自体は正しい。でも、深掘りの方向性に、私は疑問を感じるんだよね……。
デカい社会問題に突撃したって、実りがなさそう。問題の根本に迫ったようでいて、「対策したつもり」の領域に片足突っ込んでしまっていると思う。それよか、もっと形式的に、例えば「バックアップシステムの冗長化が実現できている」という判断の基準を正しく設定し直して、全国で再点検をするというような、そんな方向で頭を使ってくれたらいいのに。
一人の三流技術者としては、そう思います。
各所で話題になっていたんだが、これは本当に凄いな。労働組合の行動原理としては間違っていないんだろうけれども、世の中の標準的な勤務環境と比べるとあまりにも内容が美麗すぎて困る。
- 人事評価結果の給与反映はやめろ
さすが労働組合。運動会で左翼系の教育者が「一位を決めない。速くても遅くてもみんな一等賞」とかいって、子供達が真面目に走らなくなる現象と一緒だな。まあ、首尾一貫しているといえばそうなんだが、じゃあなんで人事評価をするの? 昇進や給与に反映させるためなんじゃないの?
私の勤務先は純然たる民間企業だが、人事評価の給与への反映をしていない。
あと、山本一郎さんは相手が主張していないことまで勝手に議論に含めていて困るのだが、大阪労連だって人事評価と昇進の関連付けまでは否定していない。私の勤務先でも、昇進には歴然たる差があるし、希望するキャリアパスを歩めるかどうかだって、(運の要素も相当に大きいが)人事評価に負うところが大きい。
この手の話題で、あまり安直に「民間なら……」とはいってほしくない。山本さんもそこは慎重に世の中の標準的な勤務環境
と仰っているが、民間こそ、いろいろな給与体系を自由に選択してほしい。
この手の話題は、結局のところ、どんな気質の社員を集めて会社を回していこうとしているのか、という問題に帰着するのだと思う。
成果主義みたいなものにウンザリしている中にも、優秀な人材はたくさんいるのだろう。私の勤務先には、毎年のように非常に優秀な方が中途採用で入ってくる。「これほど優れた方なら、同業他社で2倍くらい給金がもらえるのでは?」と思う。だが、ノホホンとした職場の雰囲気に、減った給料に見合うだけの価値を感じて下さっているのだろう。
とはいえ、2006年、2007年頃の、就職氷河期が一時的に解消された時期には、有能な若手社員がボロボロ抜けていった。優秀な人がみな、会社を去ったわけではない。でも「平均点」は下がったと思う。たぶん傾向としては「優秀な人ほど、結果平等に不満を持ちやすい」のだろう。
それに加えて、会社に残った優秀な人の少なからずが、昇進に積極的でない。だからポスト争いがない。むしろポストの譲り合いばかり目立つ。ゆえに、昇進試験はない。試験でふるい落とすほど、手を挙げる人がいない。それで、「優秀なのに昇進に消極的な人を、いかに説得して昇進を承諾してもらうか」ということに、管理職は心を砕くことになる。
人余りの時代になって、多くの会社が結果平等(的)な給与システムをやめた理由は、中から見るとよくわかる。現代の企業は優秀な人の割合を増やすことに注力すればいい。かつての人手不足社会では、マンパワーの確保こそが最重要であり、企業は優秀ならざる多くの労働者に譲歩しなければ、存続できなかった。
- 何度書いても誰も答えてくれないのでまた書くのですが:
- 『「○○(=歌手または演奏者)のファンなんです」と公言しながら、(ほぼまちがいなく)著作権侵害でアップされたそのアーティストの動画サムネイルを嬉々としてブログなんかに貼り付ける』というよくある行為、あれはいったいどういう心情なんですか??
私自身はそういうことをしない人なのだけれど、過去にあちこちで見かけた主張の断片をつなぎ合わせると、「PVの無償配布によって価値が毀損されるような商品で食べていこうと考えるのは時代遅れ。アーティストは、楽曲そのものや映像ではなく、コピー不可能な体験(だけ)を商品とすべき」ということらしい。
この手の「べき論」は、アーティストの意向より上位に位置づけられている。
以上が、私の理解だ。各個人が、全項目に賛同しているわけではない。だが、無断転載された動画のサムネイルをブログに貼ることに抵抗ない人々の感覚を総合すると、だいたいこんな感じではないか……。
私自身は、次のように考えている。
日本の現行の著作権法は、社会全体の利益に依拠して著作権を認めるという論理構造となっている。私はこの立場に与しない。まず権利がある。基本的には、権利は社会の利益より上位にある。そこから考え始めて、社会の都合と折り合いをつけていく。
個人の著作物の場合、権利者が亡くなったら、「もういいだろう」と思う。法人の著作物の場合は、売上が一定額を下回る状態が一定の年数を超えたら、「もういいだろう」と思う。また創作性は狭く捉えるべきだ。多少の類似を、著作権の侵害とみなすべきでない。
人を中傷する言葉が存在しなかった世界で、あるとき、人を中傷する言葉が発明されたとしよう。人を中傷することが、ついに可能になったわけだ。
従来は、不可能なことを規制するルールを作るのはナンセンスだから、「人を中傷してはいけません」というルールは存在しなかった。「人を中傷してはいけません」というルールは、人を中傷する言葉が登場してから制定される。しかし「人を中傷するのは悪いことだ」という倫理は、社会に内在していたのではないか。
つまり、人を中傷するのは、もともとやってはいけないことだった。人を中傷する言葉が発明されたとき、その使用を禁ずるルールが明文化されていなかったのは歴史的事情でしかない。ゆえに、「いったん拡大した自由が後発のルールによって制限された」とみなすのは間違いだ。
もう少し話を続ける。
だれかの故意であれ過失であれ、その電子書籍が、あるいは“自炊”したファイルが、ネットに出てくることを織り込み済みなんじゃないの?
“ネットに落ちてるものを拾う”時代が来ることを期待していないと言い切れるの?
私はこの件、「著作権侵害を抑制するための司法関連予算の増額(のための増税)なら受け入れる」と考えている。
「悪いことをする人をゼロにするため物理的に消費者の自由を奪って、利便性をすっかり犠牲にする」よりも、「相応のコスト負担をしてでもルールによる規制を貫き、9割の悪事を抑制する」方が、バランスが取れていると思うのだ。
国際的な著作権侵害抑圧体制を組んで、せめてこれほどあからさまな著作権の侵害は、一般人が容易にアクセスできる世界から消し去るべき。この手のブログがリンクした動画は(権利者に許可を得た配信でない限り)30分以内に消える……となれば、一般人は動画へのアクセスルートを失う。
「日本人の1%しか著作権を無視した動画を視聴しない」あたりを防衛ラインとすればいいと思う。
もともとの話題である、書籍のスキャン代行と訴訟の件だけど、原告は損害賠償を求めていない。代行業者がスキャンしたデータが無断転載された事例を発見できていないのだと思う。悪いことをする人は、ほとんどいないのではないか。そのごく僅かな人のために、全員の利便性が犠牲になるのは不満だ。
以下、2.で書いたことと矛盾していると思われるかもしれないが、書く。
スキャンの代行自体は、権利者にとって経済的な損失がない。とくに私の利用しているBOOKSCANはスキャン後に紙束を廃棄するので、読み終わった本を古書店に売るより、経済面では権利者に優しいはず。「権利者に無断で本を裁断するのが許せない」というなら、古書の回収業者が本を溶かすのも許せないのか? 「スキャン代行の場合に限って裁断が許せない」というのも、権利者の自由だとは思うが……。
ともかく、BOOKSCANのやっていることは実質的には複製というよりメディアの変換であって、原本は消えてしまうわけだ。それを、無断複製禁止のルールで縛られるのは残念だ、という感覚が私にはある。しかも縛る本当の理由が犯罪抑止のためだとするなら、なおさら残念だ。犯罪に対処する司法のコストって、全員の我慢と釣り合うほど大きいのだろうか?
究極的には権利者の側に立つことを表明した上で、私の希望を申し添えるなら、まずスキャンの代行は認めてほしい。そして不届き者には警察力で対抗したい。その経費を捻出するための増税なら、私は同意する。
BOOKSCANの利用規約によれば、スキャン依頼者は、事前に著者や出版社にスキャンの許可を得ておかねばならない。なので、本当のことをいえば、真の問題は、私の怠惰でしかない。いちいち許可を取りたくない、面倒くさい。本質的にはそういう話なのに、ごちゃごちゃ関係ないことをいっぱい書いて、自分の問題から目を背けているわけである。
今回の提訴に先立つ公開質問状の後、私が利用しているBOOKSCANでは、東野圭吾さんをはじめスキャン代行を拒否する著者の本をスキャンしてくれなくなった。個人的には、大沢在昌さんの新刊がスキャンできなくなるのと、五木寛之さんの本が未スキャンのまま残っているのが痛い。
もともとBOOKSCANの利用規約によれば、スキャン依頼者が著者に個別にスキャン代行の許可を取らねばならないことになっている。スキャン代行拒否を明言されている作家さんの本をスキャン依頼するのは、明らかに規約違反の不正利用者であろう。作家さんらの問題提起によってBOOKSCANのサービスが悪くなったのではなく、私の利用規約違反がバレたという話でしかない。
私の場合、学生時代に作った自分の手書きのノートとかもけっこうスキャン依頼してきたので、商業出版ばかりスキャン依頼してきた人よりちょっとだけマシだとは思うが、五十歩百歩には違いない。私はBOOKSCANで作成したPDFを悪用(私的利用の範囲を超えて他人にコピーを譲渡するとか)しないと誓うが、長らく著者の許可を得ずにBOOKSCANを不正利用をしてきた私のような人間の「誓い」など、誰も信用すまい。
私の場合、「最初から電子版を売ってくれたらスキャン代行業者を利用しない」ということはない。正直、電子版はあまり読む気がしない。読むなら断然、紙がいい。
でも、「もう、全体を再読することは金輪際あるまいな」という本は多々ある。そういう、「一部だけ再読するかも」という本が、どんどん部屋を埋めていく。本が占拠する空間も、本の質量も、維持にはコストがかかる。だが私は、「増える蔵書を保持し続けられるだけの収入」を稼ぐ意欲を欠いている。
だから……というのが、私がスキャン代行業者を利用する理由。基本的にネガティブな動機でスキャン代行を依頼している。
ポジティブな動機を強いて挙げるなら、BOOKSCANプレミアムではデフォルトでOCRにかけてくれるので、テキストの検索が可能になる。意外と認識精度はいい。おかげで「このフレーズ、どこかで目にしたんだよな……」というのが、けっこう簡単に探せるようになった。愛読書はスキャンせずに紙のまま持っているが、愛読書ならPCでテキストを検索する必要など、そもそもない。1・2回読んで満足したような本でこそ、スキャンは有効だと感じている。とはいえ、その程度の利便性のために1冊200円のスキャンコストをかけているのではない。所詮はオマケである。
ちなみに、なぜ自分でスキャンしないのかといえば、5年ほど前に何冊かやってみたところ、あまりにも面倒だったからだ。「これなら涙を呑んで蔵書を手放す方が私にとってはリーズナブルだ」と思った。せっかくスキャナを買ったのに、全部で5日間くらいしか使っていない。もったいなかったな。
裁断済みの本を返却してくれるスキャン代行サービスを私が利用しないのは、それではスキャン代行を依頼した最大の理由が解決できていないからだ。返却された紙束を廃品回収に出すだけ、無駄な手間だと思う。
私が東野圭吾さんのファンで、たくさん著作を読んできた……ということとは関係なく、電子書籍が普及しても、こうした違法スキャン業者はなくならない
という東野さんの予想は正しいと思う。私のように「紙で読んで、PDFでストックする」ことを希望する読者がいる限り、スキャン代行の需要はなくならない。
将来的に「紙の本と電子版の両方を買って、読み終えた紙の本を手放す」という解決策はある。ネイティブの電子版は、きっとスキャンして作ったPDFより読みやすいだろうし、OCRのミスなんてのも原理的に存在しないだろう。悪い話ではない。
しかし、スキャン代行業者で作ってもらったPDFには、DRMがかかっていない。ファイル閲覧の継続性を考える際、これは大きなポイントになる。
そして価格。BOOKSCANプレミアムの1冊200円という価格は、高いといえば高い(自分でスキャンする手間を思えばタダみたいなものではある)が、たぶん電子版を買うよりは安い。質の差で価格差には納得できるとしても、体積と質量を圧縮したいと考えた本について、私はそれほど高い品質を求めていないように思う。検索して拾い読みするだけで、もう二度と通読しない本なのである(もし通読するなら買い直す/実際、買い直した本が何冊かある)。
最初から電子版を売ってくれれば……という人も、実際それなりにいるのだろうけど、私のスキャン代行需要には全く影響しそうにない。そして、私のようなユーザーがいる以上、電子書籍が普及してもスキャン代行業者は滅びない。
歩きタバコによって周囲の人が火傷する事例が、全国では毎年数十件起きているのだそうだ。日本には喫煙者が2千万人ほどいる。その5%が歩きタバコをするとして、100万人。年間250日ほど外出し、歩きタバコをするとして、1日1回以上の歩きタバコを「1件」と数えると、2億5千万件。大雑把にいえば、確率は1千万分の1である。
タバコのポイ捨てが原因と思われる火事などと比較すれば、歩きタバコによる直接の火傷被害は、大きなテーマとは思えない。が、新聞記事で、直接の火傷被害の存在を理由として歩きタバコに罰金を課そうという話が載っていた。きわめて確率の低い事象は、ヒヤリハットの経験がないので、いくら注意喚起されても他人事と感じてしまう。自分は大丈夫、と思ってしまう。だから、罰金によって、「歩きタバコはダメ」を全員にとって「自分の問題」にしてもらおう、という発想だ。
理屈はわかるが、私には、実現したい利益と罰のバランスが取れていないように思える。功利主義は、主要先進国から「過剰な刑罰」を排除する倫理的支柱だったが、世間は功利主義を場当たり的に適用し、風紀の引き締めといったテーマになるとすぐ「罰の恐怖による統治」を志向する。これもまた「確率の低いことは他人事と感じる」の一例なのではないか。
会社の大会議室のプロジェクタは天井に固定されているタイプで、工事費とかを含めて100万円くらいしたそうだ。他の部屋で使っているプロジェクタは最低価格帯に近い3〜5万円のものなので、「100万円って……そんなの、元が取れるの?」と思っていたのだけれど、だんだん印象が変わってきた。
大会議室では、スクリーンも天井に固定されている。プロジェクタとスクリーンの相対的な位置関係が固定なので、最初に面倒な調整が必要ない。すると、部屋の引継ぎが非常にラクなんだ。
大会議室は人気があって、月曜日あたりは朝から夕まで1時間刻みで別々の会議が入っていることもある。「適当な机の組み方は会議ごとに違う」といったこともあり、各会議が終了する際に、後片付けするのがルールになっている。だから会議が「9時から」だとして、最初の1〜2分は準備の時間になる。いま、サラッと「1〜2分」と書いたのだけれど、プロジェクタ使用で、なおかつ1〜2分で準備を終えて会議を開始できるのは、じつは大会議室だけ。プロジェクタの電源を入れ、スクリーンを下ろし、PCを起動して情報コンセントにケーブルを接続する。同時に他の参加者が机を組む。この作業が、大会議室でだけ、スムーズに進む。
他の部屋だと、まずプロジェクタに電源ケーブルを接続するところから始める必要がある。壁にプロジェクタへの電源供給を断つスイッチがないから、電源ケーブルの抜き挿しをしないと、待機電力云々の問題になる。それからピント合わせや角度などの問題が出てくる。さらに、ケーブルが邪魔で机の組み方に不自由があり、仮に「可能」な組み方でも、ケーブルを越えるのに手間がかかる。
スクリーンもプロジェクタも可搬式の部屋が、単純には最も自由に使用できるはずだが、実際には「サクッとできること」だけが真に自由で、面倒なことは自由でない。結局、大会議室以外では、「プロジェクタを使用する=特定の机の配置を受け入れる」となってしまっている。
大会議室では、「プロジェクタとスクリーンの位置は固定」とすることで、他の「もっと大切なこと」を実現しているんだな。100万円分の価値はあったんだろうと、いまは思う。
もし大会議室の100万円のプロジェクタが「元を取れる」なら、他の部屋も……とは思わない。大会議室人気の高まりは、会議時間の圧縮といった効果も生んでいる。2台目の登場には、そうした「いまある効果」を損なう面もある。収穫逓減の法則は強力であり、2台目以降は費用の元を取るのが難しい。
プロジェクタの高さ調節の足って、なぜかとても弱い。10数年前に大学にあったものも、いま会社にあるものも、高さ調節の足を伸ばしても、突然ガタッと落ちてしまう。その他あちこちで利用するプロジェクタにも、同じような状態のものが多い。仕方ないから本を積み重ねてプロジェクタの下に置く。
足が雄ネジ、本体側が雌ネジなんだけれども、雌ネジが樹脂なので、適当に使用しているだけでネジ山が潰れていき、ダメになってしまう……のではないかな。でも、雌ネジを金属にするだけで、こんな問題はまず起きなくなるのに、どうして雌ネジを樹脂にするのだろう。
私も仕事で樹脂部品の設計をやったりしたのだけれど、そのとき、本体側の雌ネジを金属製にするコストって、せいぜい200円くらいだとわかった。それで、「えー?」と思って。まあ多分、高級機なら雌ネジが金属になっているに違いないけど、会社にあるのだって、安いといっても3万円くらいはしたんだろうし……。
ハイテク商品が、やたらローテクなところで相当に使い勝手が落ちていて、消費者はイライラ。でも、店頭やカタログで、消費者がちゃんとそういうところで商品を選んでいるのかというと……? だからこれって、消費者の自滅だといえば、全くその通り。解決策も思いつかない。ひょっとして、「普及帯の商品でも金属製雌ネジを採用しているメーカーがじつは存在するのに、私がプロジェクタを借りたあちこちの職場や会場でプロジェクタの購入を担当している部署の人らは、全くそういうことを知らないし、知ろうともしていない」のだろうか。もしそうだとしたら、状況は完全に絶望的。「プロジェクタの使い方が荒い利用者が多くて困る」くらいに思われていたりして。
雌ネジを「樹脂でいい」と割り切れば、高さ調整足の本数分だけ、金属部品を削減できる。部品代の削減はもちろん、インサート成形の制約または部品取り付けの手間もなくなるし、塗装についても悩まずにすむ。店頭でアンケートしたって、「高さ調節の足が弱くて不便」なんて話は、「あー、いわれてみると経験あるわー」くらいなものなんだろうな、きっと。そりゃ雌ネジに金属使わないよな。原価を200円削減するよ。店頭価格3万円の商品で原価200円って、相当にデカいし。
どうしようもない。うん、わかる。どうしようもない。……。
カール事務機がALISYS(アリシス)というパンチを発売したとき「これで歴史が変わる」と私は思ったのだけれど、実際には地味にしか変わらなかった。アリシスは日本文具大賞を受賞したし、はてブでもアリシスの紹介記事が相当に注目されたけれど、世界は変わらなかった。
まあね、多くの点でかゆいところに手が届いて「使いやすくなった」とはいえ、「それだけ」といえなくもない。私にとっては待望の機能が満載のアリシスだったけど、パンチを買うときに、そういうところを見てない消費者が相当に多かったということなんだろうな。
そういえば、総務課から私の所属する職場に支給されたパンチも、アリシスじゃなかったんだよな……。ふだんいちばんパンチを使っている部署の人がアリシスを買わないんだから、「はぁ、そんなものか」と思ったね。ちなみに小型ステープラーは、ずいぶん前から新規購入分はみなフラットクリンチ方式になっている。
はてブで話題になったアリシス紹介記事は高畑正幸さんの連載記事のひとつ。ネットに過去ログは残っているのだけれど、本にもなっている。人々の長年の悩みを見事に解消してみせたのに、なぜか新定番になれなかった商品の墓標のようでもある、エンジニア的には読んだ日の夜に涙がこぼれてくる一冊。
どの商品も、私の視界の外でそこそこ売れてはいて、開発費のモトくらいは取れたのだろうと思いたい。そうとでなきゃ、悲しすぎる。自分よりずっとすごいエンジニアの、これほど見事な(門外漢でも一撃で素晴らしさが理解できるほどの)仕事は、経済的にも報われていてほしい。
その点、産経新聞で毎週月曜日に連載されている『人気商品開発ヒストリー』は、少なくとも「小さな成功」までは実現した商品を題材にしているから、読んでいて楽しい。
このブログ、どうしようか……。同じようなことを繰り返し書いているだけ。読者にとってどうかはわからないけど、私自身にとって、つまらない。といって、面白くするための努力とか、全くやる気なし。私は何年も同じようなことを考えて、足踏みしているんだな。もう、備忘しておきたいような内容がない。
どうせつまらないのだから、もっとつまらなくしようかな。
そもそも備忘録として始めたのに、書いてない内容が多いといえば多いんだよな。書いても(私にとって)絶対につまらないから、それで書いてこなかったんだけど、この際、そういうのも書き留めておこうか。や、これまでも、そういう(私にとって)無内容な記事をときどきは書いてきたのだけれど(経済について書いている記事のほぼ全てが当てはまる)、「つまらないけど書く」分野をもっと増やして、むしろそっちをメインにしようかというような話。
「適当につまらないことを書く」方が、更新する気になるかと思ったのだが、結果は全然。書くモチベーションがわいてこず、2ヶ月ほど更新が止まりました……。ま、それでも、つまらないことを書いていくことにします。
2012年の基本方針を定めた。
近所の風景は写真の通りだが、自動車なしの生活には何ら支障がない。私は自動車を持たないだけで倹約家のつもりでいたが、それは錯覚だった。私の支出は漸増を続け、かつて読了本のうち新刊は1割前後だったのに、いつの間にか3割に達した。このままでは、いずれ家計は赤字に転落する。
私はいずれ仕事を失う。そして「頑張って収入を増やす」ことで大きな貯蓄をつくるのは、私の本意ではない。ゆえに、倹約による貯蓄でリスクに備えると決めた。そして2年間、家計簿をつけた。すると、努力なしに年収の3分の1が余ることがわかった。私は安心して、家計簿から離れた。ところが、収支の記録を再開してみると、支出が毎年+5%のペースで増加してきたことに気付いた。一方、収入の伸びは+4%だ。また、今後は収入の伸びは鈍化していく。総合すると、10数年後には家計が赤字に転落することがわかった。
主観的には「生活水準は横這い」だったが、実際には、私の生活水準は高度成長期並みの向上を続けていた。恐ろしいことである。それでも、昨年8月の電力消費量は113kWhだった。現在の生活は、日本人としては、まずまず慎ましい。何とか、この生活水準を維持しなければならぬ。昨年は、倹約するつもりが、支出を増やす結果に終った。腰を据えて本気で取り組まねば、目標の達成は覚束ない。
そこで2012年は、基本方針の第2項「生活防衛」の要所を、「自動車」から「倹約」に変更した。第1項には幾度でも立ち返らねばならぬ。第3項は維持・継続する。第1項、第3項の詳細は過去の基本方針の記事に譲る。とくにいま付け加えたい内容はない。