備忘録

平成19年7月27日

日本では GUI(Graphical User Interface)と対比して CUI(Character-based User Interface もしくは Character User Interface)という言葉が広く使われていますが、CUI は和製英語。英語圏では CLI(Command Line Interface)という。少し考えましたが、本稿では CUI を用います。

私は CUI が苦手で、その便利さを知りながらも CUI への忌避感から使わなくなったものがいくつもあります。

GUI と CUI の違いとは何か。それは松屋と吉野家の違いである。吉野家において、ユーザーはシェルに向かってコマンドを発して目的のオブジェクトを入手する。このとき、「つゆだく」だの「ねぎだく」だの、いわゆる引数を知らなければ永遠にそれは手に入らない。一方、松屋ではユーザーはコマンドを発する必要はなく、食券を購入してシェルに渡すだけだ。シェルはそれを解釈せず、そのままカーネルにゆだねてくれる。

メニューがデフォルト非表示の吉野家を想像すると、CUI のイメージに近い。

私が GUI のないツールを使いたくないのは、単純には記憶力が鈍いからです。この文章は TTTEditor で書いていますが、画面上には非常に多くの情報が表示されています。一つ一つ数え上げていくと、現在、自分が実行可能な操作が80以上もあることがわかります。2手順以上で実行可能な操作も含めれば200近い。

CUI の場合、画面に表示されるのはコマンド入力欄だけ。いま何ができるのかは、多くの場合、ヘルプコマンドを打ってみてさえ明らかになりません。しかも(ほぼ)ボタンをクリックすれば足りる GUI とは異なり、CUI では what に加えて how まで頭に入っていないと使えません。

たったひとつのアプリケーションでさえ、ほぼ常時使える操作が約200もあり、文脈依存の操作を足せばもっと増えます。よく GUI は「直感的に使える」と表現されますが、具体的には「使い方のごく一部だけしか頭に入っていなくても、マイナーな機能まで使える」ということだと思います。

ふつうの人はそれほど記憶力が優れていないので、カンニングペーパーがいつも表示されている GUI の方が使いやすいのは当然でしょう。しかし、かくいう私も CUI を使うことがあります。

例えば、たくさんのファイルに対して「A して B して C して D する」みたいな面倒くさい一連の操作を行わねばならない場合。GUI に一括処理モードが用意されていればいいのですが、一括処理は CUI でやってください、となっているツールもあります。

CUI では、要するにテキストで指示を出せますので、コピーアンドペーストが使えます。同じことを10回するのに、ダイアログをいちいち開いてポチポチやっていくより、同じ文章をコピーして10行にし、対象ファイル名だけ書き換える方がだいぶラク。

OS のシェルなどであれば、複数のアプリケーションの連携もできます。これは GUI ではふつう不可能なことで、仕事では CUI なしにはどうにもならないという場面がしばしばあります。

仕事で使ってるシミュレーションソフトや CAD などは、さすが1ライセンス数百万円もするだけのことはあって、たいていの操作が GUI と CUI のどちらからでも可能。私にとって CUI は「GUI で同じことをしようとすると発狂する」ような場面で最後にすがるもの、という感じですね。

平成19年7月26日

1.

関東地方の小中学生は、20日か21日から夏休み。deztec.jp へのアクセスも、先週土曜・日曜に急伸した。はてなブックマークでひとつの記事がちょっと話題になった時期と重なるが、じつのところ、その影響は微々たるもの。大きかったのは「夏休みの宿題」のアクセス増だ。

Yahoo!Japan で「夏休みの宿題」1位だから、Yahoo 経由で毎日4桁人が訪問するのは理解できます。ところが Google 経由は10数人。Google でも「夏休みの宿題」3位なのに、不思議なこともあるものだと思う。全検索語では Google 経由の方が多い。検索エンジンのシェアから考えると、これも不思議。

で、訪問者の何割に読まれているか。なんと7割が目次だけみてUターンだ。「夏休みの宿題」という検索語でやってくるのは、中学生あたりが多いのかもしれない。

頑張って読み始めても、1ページ目で脱落する人が大半。「求めてる情報は、これじゃない」ということか。まあ、そりゃそうだろう。私も自分で書きながら「こんなの誰が読むんだ?」と思っていた。

おそらく、きちんと読んで実践してみれば、それなりに役に立つ人は結構いると思う。でも、やっておけばよかったというのと、実際にやるのとは別問題。こっちは何も強制しないし、できないから、自ら進んで読もうとしてくれなきゃしょうがない。「こんなの誰が読むんだ?」とは、そういう意味。

訪問者の2%くらいが、それなりに読んでくれている様子。サイトを作った意味もあったかな、という感じではあります。

あと、同じことをいうのでも、書き手が違うとよく伝わるようになったりするもの。俺ならもっとうまく書ける、自分のような読者には徳保みたいな書き方じゃダメだってば、などと思ったりする方は、ぜひ転載+改変して、大勢に役立つサイトを作ってください。

2.

ほとんど小学生か中学生の書き込み。お父さんかお母さんに聞けばいいだろう、みたいな質問がずらずら並んでる。ていうか、両親をパソコンの前まで連れてきて、このサイトを読めといってくれたらいいのに。

子どもの教育にお金がかかって仕方ない、みたいなことがいわれるわけですがね、どうも釈然としない。そりゃお父さんにせよお母さんにせよ、本気で子どもの将来を心配しているのは間違いない。でもさ、そこでどうして、具体的な方法論をきちんと考えないんだろう。補習塾で教えていたときには、いつもそう思ってた。

補習塾で教えてるのって、平凡な学生や、農家のおじちゃん、近所の主婦なんですよ。時給1000円くらいのアルバイト。研修時間はたったの180分だよ。みな高卒以上ではあるけれど、生徒の親だってそれは同じでしょ。何が嬉しくて塾にお金を払っているんだろ、と思うわけ。

塾ではふつう、学校の宿題は教えてくれない。塾へなんか行かせたって、宿題はどうにもならないじゃないか。そうでしょう。なのに自分では教育熱心なつもりでキーキー、キーキーいう。子どもがキレるのも当たり前だ。親にしてみれば「逆切れされた」ってことになるんだろうけど。

お勉強は自主的に取り組まなくては云々。お題目としては結構。でもね、それを自分がサボる言い訳にしてるだけにしか見えない人が多すぎません?

子どもが算数を苦手としているなら、まず自分が算数の教科書を子どもから借りて、よくお勉強する。塾の先生がやってるのって、ようするにそういうこと。アルバイトならそれができて、自分の子どもに教えるためなら不可能? それで教育熱心だとか、自分はこんなに真剣に考えてるとか、聞いててつらい。

子どもが夏休みの宿題を予定通りこなせない→「よーし、もっと叱りつけなきゃ。これからはビシビシやるぞ」

バッカじゃないの。子どもが絵を描けないなら、まず自分が描いてみよう。「そんなの簡単よ。あんたはやる気がないだけなのよ」とか、よくいえたもんだ。自由題で作文を書けという課題に途方に暮れている子どもに「何だっていいじゃないの。簡単じゃない」。だったら、書いてみてくださいよ。

義務教育でやっていることくらい、親も一緒になって頑張るべきなんだ。口先ばっかりの大人にしじゅう怒られている子どもの身にもなってみろ。と思ってサイトを作ったんだけど、読むわけないんだよね、私が読んでほしいと思っているような人がさ。

だって絶対、「夏休みの宿題に自分はどう取り組んだらいいのかな」なんて思わないし、調べない。宿題は子どもに「やらせる」ものでしかない。だから、うんうん苦しむ子どもに「インターネットで調べたら?」って、いうだけ。

3.

「先生、もっとたくさん宿題を出してください」というので、「学校の宿題もありますし、お母さんの負担も大きいでしょう」といったら、不思議そうな顔をされた。ふーん、子どもが宿題をやっているとき、この人はそばにいてあげないのか。好きなテレビ番組を我慢したりしないのか。

宿題を増やしてほしいなんていう親は、頭がおかしいんだ。宿題を出されたら、自動的にそれをやるのが子どもだと思っている。そうしない子どもは「おかしい」のであり、その「おかしさ」は叱ったり説教したりすることで直るという認識だ。みんな昔は子どもだった、という事実を疑いたくもなる。

もちろん、みなそれぞれに忙しく、子どもの宿題の面倒まで見ていられない……と、いいたいに違いない。しかしそれなら、料理の手伝いや皿洗いは子どもにやらせたらいいではないか。掃除機くらい小学生だって簡単に扱える。洗濯だって、最近は簡単になったよね。どんどん子どもにやらせたらいい。

父親が料理を作っているときに母親が庭に水をまき、子がフローリングの拭き掃除をする、お風呂を洗う、洗濯の準備をしてスイッチオン。家事は家族みんなで、なるべく同時に行う。そうやって家事負担を軽減し、子どもの宿題の面倒を見る。

「中学生のお勉強は難しくて、私もついていくのがたいへんです。最近は子どもに教えてもらうことも多くなりました」……教育熱心な保護者の方は、こういったことを仰る。

平成19年7月23日

通貨の価値が低いって、どういう意味だろう。為替レート云々と書かれているけど、1円は1ドルの100分の1以下の価値だから価値が低い、なんて話に実質的な意味はない。インフレ率が高いなど、価値が不安定で、よその国では受け取ってもらえない、みたいな観点も含んでいるようだけど、いまひとつ判断基準が……。

平成19年7月23日

サプライサイドの減少による、需給バランスの結果としてのインフレーション圧力は、産業社会の基礎的なインフラを崩壊させかねない。

人口が減るのに、減らない仕事って何だろう。介護? でも増え方は緩やかです。数十年来、老人の労働力率が低下してきていますが、これは賃金労働者が増えて定年退職するため。今でも農民は死ぬまで働いてる。私の祖父母も80歳を超えてなお畑に出ています。老人を雇用すれば、労働力不足は解決します。

私は技術者ですが、20代の私より仕事がデキない60代の人は皆無。元気な間は、10年でも20年でも延長雇用すべき。私よりずっと役に立つ。基本的に、人余り社会より人不足の社会の方が、労働者にはよい。80年代、人不足になった日本で、どれだけ労働環境が改善されたか。安直に労働力を輸入してラクをしたがる企業経営者を甘やかしちゃいけない。

もっとも、ただ傍観しているなら労働者の負け。愛知県では現実に人不足が深刻化しています。いずれ悲惨な状況となり、労働力輸入やむなしとなりかねない。高失業率と労働力輸入の同士進行を避けるためには、北海道や九州の失業者が中京地域へ移住することも必要。それが無理なら、先に待つのは悲劇だと思う。

単純労働といっても、接客業ならそこそこの教育をうけている必要があり誰でも良いわけでない。かなり深刻な問題ではないだろうか?

最近の若者は礼儀知らずで劣化しているらしいので(笑)、小売業は定年退職者を接客担当として再雇用すべし。

高度成長期に家政婦や子守はほぼ駆逐されました。庶民が通う飲食店から楽器の生演奏が消えて有線放送になった。80年代には回転寿司が出てきたし、客がトレーを運ぶファーストフード店も普及した。一方、床屋や美容院の価格はサービスの向上がないのに右肩上がり。そういう業種もある。

省力介護の革新的な手法が発見されるまではずっと、介護が高価なのは当たり前。あなたの給料が上がっただけ介護費用も高くなる。でも、それ以上には高くならない。それで何か問題あります?

最近では、スーパーの衣料品売り場で店員に話しかけられることがなくなりました。店員がレジにしかいない。もっと進めば、レジまで客がやるようになるでしょう。無線ICタグでカゴの中の商品を認識、電子マネーで支払い操作、完了と同時にICタグに情報を書き込んで商品の店外持ち出しを許可する。

そんな未来は嫌ですか? 東南アジアから人を連れてきて、薄給で生演奏させた方がよかったですか? アメリカのように、人口が増え続けて、薄給の労働者が多い国に暮らしたいですか?

たしかに人件費の増大は社会を変えていく。しかし国民が豊かになって悪いわけがない。変化なき社会に繁栄はありません。

平成19年7月23日

私は備忘録でしょっちゅう家族の話を書いているが、家族はこの備忘録のことも知らない。それから、私は家族の誕生日や年齢を覚えていないし、誕生日や父の日・母の日に何かプレゼントをしたこともない(誕生日を覚えていないのだから当たり前だ)。

父はなんともいわないが、母は伯母(母の姉)らに私がいかに冷たいかという愚痴を折々にこぼしていて、先日、伯母の家へ行ったときも「もっと実家に顔を出してあげなさい」といわれた。

私は部屋の引き出しに、deztec.jp のアドレスと徳保隆夫という名前と本名とを並べて書いたカードを入れている。私がポテッと死んでしまったら、何かの慰めになるかもしれないと思って。冷たいなりに、少しは思うところもあったと、伝わるといいな。

平成19年7月23日

1.

CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ だれが「音楽」を殺すのか? (NT2X)

新刊、読みます! トークショーはどうしようかな。8月2日は、予定では東京を離れているので……。まあ、そうでなければ行くというわけでもないのだけれど。

津田大介さんの主張は、いつもよくわかる。わかる、というと誤解されるかも。納得できる、という感じ。事実認識と考え方の違いが切り分けられていて、確かな事実と、おそらくこうだろうという推測、その推測の中でも確度の高い情報と低い情報、そうした状況の腑分けがきちんとしているのです。

だから、確かな事実を共通の土台とした上で、自分は**の可能性は高いと判断するので**すべきだと思う、いや私はその可能性は低いと予想するので**には反対だ、といった議論を始められる。お互いに絶対的な決め手がなく、政治的な判断で、価値観・世界観の対立を裁いていくしかない領域が見えてくる。

それだけの準備をした上で、津田さんの立ち位置が示されるから、私は「なるほど」と思う。津田さんは自説の中の、ほぼ確実に「正しい」部分と、明快には決着のつかない領域で快刀乱麻を断ってみせた部分を、読者が概ね見分けられるように書いている。とてもフェア。だから「津田さんの見方」として納得する。

新刊の感想を書くかどうかは別にして、発刊を楽しみにしています。

2.

津田さんがリンクしていた記事。私の書いた著作権をめぐるもやもや(2006年秋版)(2006-10-07)に通じる内容。共有による成功例を沢山作って、権利者に共有を選択させるように仕向けないと。という意見は、全くその通りだと思う。

Naver ブログと Yahoo! ブログの挑戦(2005-05-20)やYahoo!ブログ陥落……我が夢、破れたり(2007-03-02)で書いたことですが、コンテンツ利用の自由を訴え、コピーや再利用への規制(強化)に反対するなら、まず自分が権利の行使を制限すべきなんですよ。その結果、心に痛いことばかり起きて何もいいことがないのか、それとも有形無形のポジティブフィードバックが働くのか。

そうした事例をたくさん積み上げていくことで、議論の土台ができていくのではないですか。津田大介さんの新刊はクリエイティブ・コモンズの「表示 - 非営利 - 改変禁止」ライセンスで発刊されるという。先達があるとはいえ、共著者も出版社も、よくぞ決断したと思う。

平成19年7月22日

私は willcom で弟はドコモ、父は J-PHONE で母はなし。携帯電話の話。みなそれぞれの管理するお金でやっているので、見事にバラバラ。まあ、私と弟と父はそれぞれ住む場所も遠く離れているし、歴史的経緯を考えれば、家族割引サービスの利用を考えなかったのは当然といえば当然。

弟はふつうの携帯電話ユーザーなんだけど、私と父はオカシイ。ま、私のことはさておき、父が携帯電話を買ったのは私が学生だった頃。以来、一度も買い換えていない。電話帳には自宅の電話番号しか入っていないままだ。会社の電話で帰宅の連絡を入れていたのが、携帯電話に変わった。他に何にも使っていない。

ふつうなら、とっくに電池がダメになっている。しかし父の携帯電話は、ひたすら待受けているだけなので、充放電の回数が少ない。もう8年目だが、ピンピンしている。J-PHONE 時代の端末をいまだにメイン端末として使っている人って、全国に何万人くらいいるのだろう。10万人はもう下回っているのではないか。

さて父の携帯電話だが、写メール以前の端末なのでカメラはない。でもメールくらい。そう。だけど父は、電話帳の登録件数が7年を過ぎても1件から増えないような人。メールを書いても、出す相手がいなかった。2年前に母がパソコンを買ったのは、だから父にとってはとても嬉しいことだった。

しかし父は、マニュアルを開くとアレルギー反応が起きて全身が硬直する体質だ。携帯電話の説明書とも半日くらい静かな格闘を続けたのだが、「かあさん、ボクには無理」と泣きが入った。

母が携帯電話に関心を持っていれば話は違ったのだ。父は母に家電の使い方を教えるのは大好きで、そのためならマニュアルだって読めてしまうのだ、何故か。でもたいてい父は何か勘違いしていて、説明通りではうまくいかない。結局、母の方が先に使い方をマスターし、父をバカバカいいながら逆教育することになる。

市が開催するパソコン教室で、母はパソコンからのメール操作に一人で習熟してしまった。そして親戚や友人や私や弟とやり取りしている。父は出る幕がない。仕事で使うからパソコンからメールを書くことはできるけど、2階から1階へメールを送る気にはなれないらしい。

いま、どこのキャリアからもらくらくホンみたいな端末が出ている。でも、やっぱり文字入力で躓く。ボタンの小さな記号を読まなきゃならない場面で困惑する。通話機能限定モデルなら、ほしくない。

なかなか難しい要求だ。現行の10キーインターフェースじゃダメだというのだ。無論、W-ZERO3 のような方式もダメ。だってインターフェース部の表示が大きくなきゃいけない。あんな小さなキーをポチポチやるのは無理。ダメもとで紹介したけど、店頭で実機を一目見て拒否反応。

父の端末がソフトバンクモバイルだから、何となく先入観があってソフトバンク端末ばっかり見て「う〜ん、まだまだだなあ」と思っていたのだけれど、ドコモのひとりでも割が初年度から37%オフというニュースを見て、もうキャリアはどこでもいいや、と。37%オフなら月額3000円未満で無料通話約25分。十分すぎる。

それでドコモ端末のコーナーを丹念に見て回ったら、見つけた。

最初はガジェット好きのユーザー向けでしょ、と思ったんだけど、触ってみてビックリ! 他人の迷惑も顧みず10分近く、一人で見本を占領してしまった。何をするにも、らくらくホンよりずっとラクラクなんだもの、感動したよ。

私自身、携帯電話での文字入力は断念した一人なので、D800iDS の2タッチ入力はすごく魅力的。まあ、いろいろ手数が増えてる箇所もあるし、どんなに習熟してもこれ以上早くは操作できない、みたいな制約もある。今の携帯電話に対応できちゃった人には、かったるい端末かもしれないね。でも、これいいよ。

これまで国内メーカーは、年3回の商戦期のために、キャリアの意向を聞き、他メーカーの動向を横目で見て、日々疲弊しながら製品開発を行ってきた。機能競争だけでは差別化しにくくなっている今、国内メーカーに求められているのは、メーカーとしてのメッセージ性を持った製品を、じっくりと腰を据えて開発できる環境なのだろう。

D800iDS の開発は2002年末にスタートしている。試作機の公開は2005年9月。発売は2007年2月9日で、4年以上の歳月を経てようやく商品化された端末なのだ。

かつては大いに注目されたものの W-ZERO3 シリーズや iPhone 登場で今や色あせて見えるようだけれど、もともと先端ユーザ向けの端末じゃない。感圧式のタッチパネル部品が分厚く、それでいろいろな機能を諦めてもいる。

月末から9連休なので、実家に数日は顔を出すつもり。そのときに、ちょっとお節介してみようと思う。

平成19年7月19日

ノートを取らない大学生はなんでノートをとらないんだろうと考えたときに、おそらくノートをとる利点がわからないのだろう、と思った。

ノートの強要が個々人の幸せを約束しないことを私は知っています。しかし賢い子がノートをとるのか、ノートをとるから賢いのかはわかりませんが、ノートと成績にはある程度の関係がありそうだな、という実感はあります。

私の場合、中学時代、テスト前に読み返すのはノートでした。直前の短時間に読んで頭に入るのはノートに書いたことだけ。教科書を読み返して「あっ、これ忘れてた!」と思いホッとしても、試験が始まった途端に忘れ去るのがパターンでした。「あああああっ! さっき見たのに! 見たのに! 思い出せないっ」

これも極端な事例、それも個人的体験に過ぎませんが、多くの中学生が定期試験前にノートをまとめなおして、何度もそれを読み返して、という作業をするのは、やっぱりそれなりに効果があるからでしょう。

……こうした記述からお分かりの通り、実のところ、私はノートの作成が学習効率を上げるという科学的根拠を持っていません。とはいうものの。

ノート作成の有意義さについて理解させたいなら実際に有意義であるという体験をさせねばならない、と私は思う。

ノートをとることを禁止してから私が話をし、話した内容について小テストを受けさせる。続いてノートをとりなさいと指示してから話をし、同様にテストする。何回か、そういう試みをしたことがあります。結果は狙い通りでしたが、それは平均点の話。個人レベルでは逆の結果となることもありました。

テスト中、ノートを見てはいけない。なので、「ノートなんて読み返さない」という異論を封じられます。ノートは作成するだけで意味がある、と。

ちなみに話す内容というのは、まあ何でもいいのでしょうが、私の場合は、A先生は**歳です。結婚しています。子どもはA先生にそっくりな女の子と、奥さんにそっくりな男の子の2人です。B先生は……みたいなもの。10数個の架空データを、ゆっくり話しました。で、テストは1問だけ。「B先生の子どもは何人?」

ノートあり、なしをそれぞれテストして、正解者数を比較する。全部で5分程度の座興です。逆の結果になってしまった生徒も、不思議と素直に納得してくれました。

これ、テストは簡単なのですが、準備が大変でした。2回とも同じくらいの難易度の問題を出題しないと不公平だと思い、休み時間に何人かの生徒を実験台に研究したことを覚えています。こんなのは所詮トリックと割り切ってもいいのでしょうが、事前の確認をサボると、狙いと逆の結果になることもありえるから怖い。

私は個人指導しかしたことがないのであれだが、説明したあとに「はいそれをノートに書く」ということはよく言った気がする。それを繰り返してるといつの間にか説明が終わったらちゃんとノートに書くようになってる。

私はなるべく説明抜きで指導することを心がけていましたので、テキストの一部を写すよう指示するのが基本でした。このあたりは書くと長くなるので省略。

誰かがどこかで「おおノートってこんなに役に立つのか!」ということを実感させてやらなければならないんだろうなぁということを思います。そのやり方は一つでなくていい,と思います。むしろたくさんあったほうがいい。そこからどれを選び取るか,は本当にその人の性質によるので。

先生によって言うことが違うから混乱する、という生徒がいました。私のアドバイスは、「各教科毎に、先生のいう通りの方法でノートをとっていきなさい」。単に慣れの問題もあるから、第一印象でアウト判定するのはもったいない。これも修行の内ですよ、と。

そして、あらゆるパターンに対処しようとしてバタンキューする先生には、こう話していました。子どもが接する教師はあなた一人じゃない。割り切って自分の研究成果で勝負したらいい、と。

メモ

ノートの効用を教えようとするとき、何故か私が示したようなストレートな方策は人気がない。「なんかそういうことじゃないような気がする」と釈然としない様子。難しく考えて何もできないより、確実にひとつステップを上がる方がいいんじゃないか……と思う人が少ない理由がよく分からない。

平成19年7月19日

ペンもノートも持ってこない学生の指導法(2007-07-17)から派生した話題。

私は大学1年の冬に経験した家庭教師のアルバイトが楽勝だった(そう思えた)ので、続けて塾講師のアルバイトをやってみたところ、アッという間に学級崩壊を起こしてクビになりました。この衝撃は大きく、しばらくふさぎ込んだ後、「絶対にもう一度、塾講師に再挑戦する」と誓いました。

大学に教育学部があり、図書館には教育書や教育雑誌が死ぬまでかかっても読みきれないくらいありました。大学2年の夏休み中、ずっと図書館に通いつめ、ひたすら教育関連の書籍・雑誌ばっかり読みました。記憶力の鈍い方なので、その一つ一つは今や不鮮明なのだけれど、人生でいちばん本を読んだ夏でした。

私が教育について書いていることは、このときに形成された考え方がベースになっています。だから、ご指摘の通り、私の主張に斬新なものはない。むしろ基礎・基本をストレートに実行しよう、という提案をしているつもり。愚直な実践には常識を打ち抜く力があるので、一般の方には新鮮に見えるのかもしれない。

つい先日まで、私は徳保さんの教育ネタを読むたび、この人はなんて斬新な考え方を持っているんだろう、と思っていた。私にはこんな洞察できないよ。私にはこんな発想は生まれないよ、と。(内容に賛成する・しないはとりあえず置いといて。)

しかし最近、教育についていろいろと学んでみると、彼の考え方はそう斬新でもないな、と思うようになった。(もちろん、考えつくことと実際に行動することとでは、レベルが違う。言うは易く行うは難し。この点、徳保さんは尊敬に値する。)

私は教育の「経験を積んだ」わけではない。ただ教育に関する「本を読んで考えた」だけだ。期間もわずか1ヶ月程度にすぎない。しかしそれだけでも、教育というものがずっと分かるようになった。

ちょっと補足。自分で読み返してもわかりにくい部分なので。

私の記事には提案と体験談が同居しています。ある程度似たことをしたことがあって提案をしているものの、それ自体は未実践という話も多々あるのです。例えば私は小中学生も大学生も同じと書いているけれど、本当に同じかどうかは分かっていません。バイトのミーティングと生徒の忘れ物指導とでは、落差が大きい。

ノート指導も同じで、私が実際に教えたのは高校生までだから、大学のような講義を聞いてノートをとる方法を教えてはいない。国語のリスニング問題(近年の高校入試ではしばしば出題される)で要点をメモする方法の指導経験などから提案を組み立てています。

おいおい、その程度であれほど自信満々な感じに書いちゃうのか、と。自分でもそう思う。ですからね、こういうハッタリめいたところがない福耳さんは本当に信頼できる、すごい、と思っているわけです。

平成19年7月19日

内容はどうでもいいけど、国語の問題を作るのにピッタリな文章。

平成19年7月19日

コメント欄がないブログはマナー違反か、という話題。

柊さんに賛成……なんだけど、私に対してであれば、この手の話題で「マナー違反」と評されても許容します。

既に存在する文化圏を説得によって消滅させるのは並大抵のことではなく、どうせ坂さんと近い価値観を持つ人々と私(たち)は、ずっと付き合っていかなきゃならない。こっちから近づかないようにすることは難しくないかもしれませんが、向こうが寄ってくるのまでは止めようがありませんしね。

私はいま、はてなブックマークへのリンクに「Comments」という表現を用いています。1人1回100字までしか発言できない、議論不可能なコメント欄。登場各氏の発言履歴検索機能つき。私の理想がここにある。坂さんは、これを「コメント欄」と認めてくれるかな。ま、ダメだろうなあ。

平成19年7月18日

トリオフォー[34]が佐藤修悦さんのフォント「修悦体」について大特集を組んでいます。ブログ(場所っプ)にも佐藤修悦さんの話がたくさん。

ここにまとめられている修悦体の紹介と佐藤さんへのインタビューをまとめた映像は、まさにテラヤマアニさんが2004年8月31日に書いた「理想のブログ」そのものという感じ。

……でも、ちょっと思ったんだけど、理想のブログって結局はプロの仕事に行き着くのかな、と。いやね、こういうすごいのを見ると、どうしてもね。何だかんだいって、マスメディアの記者さんって、基本的にはちゃんと現場へ赴いて、いろいろな話を聞いて記事を書いているわけで。

毎回、よくこんな人を見つけてくるなあ……と思う。とくに「長目飛耳」は記事の出るペースが早い。降旗 学さんというノンフィクションライターの仕事なのですが、さすがプロはすごい、と尊敬します。

おまけ

平成19年7月18日

ペンもノートも持ってこない学生の指導法(2007-07-17)の補足記事。

ブクマコメントに誤解があるようですが、僕は学生を脅したり、罰したりは一度もしませんでしたのでそこは誤解なさらないで下さい。ただ、学生自身に自分について改めて考えてみることは促しました。

これは福耳さんのコメント。本当に誤解があるなら申し訳ない。杞憂だとは思うのですが。

脅したり罰したりするような先生は、あまり福耳さんのようには悩まない。香山リカさんのように「学生の劣化」を憂い、怒るか呆れ果てるかすることが多い(という印象)。いい大人の判断に口出しすることを僭越ではないかと気に病むような福耳さんだから、私は応援したい。

ブログのタイトル、「ペンとノートを」じゃなくて「ペンもノートも」。脅してるわけじゃないと言いながら、実際は学生を見下してるのが見え隠れしてるな。

「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)、教える理由(2007-04-04)、福耳さんへ・1(2007-04-06)いずれのエピソードも、「教師が生徒を見下す」ことを受け入れられない人にとっては、許し難いでしょう。倫理的批判は、甘んじて受けます。

「ペンもノートも」という言葉は、たしかに非難がましい。なぜこの程度のこともしない(できない)のか、という一方的な憤りが内包されています。ノートを取ると話を聞けないとか、ノートなんか取らなくても成績は十分に優秀だとか、それぞれに言い分があるのに……ええ、ええ、よくわかります。

けれども、集団授業の現場で実際の対応を考えたとき、「多くの学生にとってノート作成は有意義だ」と判断したならば、蛮勇を奮うのも教師の責任でしょう。

授業の目的はノートを取ることではないだろうに。ノートを取れば成績が悪くても卒業できる学校なのだろうか。そっちの方が問題と思う。

たしかにノートは手段に過ぎませんが、プロセスを放任して果実だけ求めることができましょうか。大学はサービスが悪い(2007-03-21)や大学は理想に殉じ、底辺の学生を見捨てる。(2007-03-23)から私の問題意識はつながっています。

なるほどだが、大学生にノートのとり方を教えるほど暇じゃないだろう

90分の授業を60分にすれば、ノート指導は可能だと、私は提案しました。20分毎にお手本のノートと自分のノートを比較させ、足りない部分、ぜんぜん違っている部分をみんな転記させる。すると1回の授業で3回の練習を繰り返すことができ、先生のお喋りからノートを作っていくということについて、感覚がつかめる。

2〜3回、こういうのをやればいいんです。1回休講するのと同じだけの時間しか要さない。最近の大学は、私が学んだ頃と比較して、この程度の時間も取れないほど忙しくなっているのでしょうか。

まぁ大体共感。しかし「こういうノートを作るべき」という雛形を与えるのは…??

お手本なしに指導するのは、まず不可能です。誰だって最初は真似ることから始める。黒板を写すことしか知らない学生にとって、ひたすら続く口説をノートにしていくのは、初めての経験なのです。

無論、目指す地点においては、ノートのパーソナルな側面が重要になってきます。しかし私が書いているのは、はじめの一歩の指導だということを理解していただきたい。典型的なノート作成のパターンの、最低ひとつ(それは教師の趣味で選んでよい)について、まず学ぶ必要があるのです。

違うと思うなあ/僕には甘やかしにしか見えない。黙ってても周りが何でもやってくれると思い込みかねないんじゃ/甘い幻想よりも厳しい現実を叩き付ける事が教育なんじゃないのかなあと

ノートは、まさに今、とるしかない。なのにペンも紙もない。そういう学生を見て、少なくとも福耳さんは悩んだ。多くの先生は「困ったもんだ。けしからん」としか思わない。私の提案に耳を貸すとすれば、福耳さんのような先生だけです。だから心配ご無用。厳しい現実なんて、どこでだって学べます。

人には心がありますよ。貸した鉛筆の芯がポキッと折れてしまうと、「ああっ」と悲壮な顔をする。自分で削った鉛筆で、そんな顔はしない。借りた鉛筆だから、私がどれだけ熱心に削っているかを知っているから、そういう顔をする。ふだんはまともに礼のひとつもいわない生徒にだって、そういう感情がある。

「折っちゃったか。しょうがないなあ」とかいって、もう一本貸してあげたらいい。三度か四度、芯を折ったら、ていねいな落ち着いた運筆ができるようになってくる。「来週はちゃんと持ってきましょうね」教室でそういい続けるうち、忘れ物も、少しずつだけど減ってくる。

小中学生も大学生も同じだと思う。叱りつけなくても、次第に忘れ物は減るはずです。万が一減らなくても、ペンを貸したことで学生はノートを取ることができ、漫然と話を聞くよりも多くのことを頭にインプットできたろう。それでいいではありませんか。

『「そんなんじゃ社会で生き残れないぞ」って脅すより、みんなが楽しく暮らせる社会を作っていく方がいい。』

自然に口を突いて出てきた言葉を深く考えずに書き留めた最終段落が、意外と多くの人にとって印象深かった様子。いろいろ書いて、その最後の一言だから、何か伝わるものがあったのかな。

「余計な一言」について

余計な一言、というのはありまして。貸した鉛筆の芯を折ってしまい顔を歪めた子どもに「気にしなくていいよ」なんていっちゃあいけない。にこやかに、もう一本、鉛筆を貸すのは正しいけれど、せっかく生まれた「今度こそは芯を折らないよう、ていねいに字を書こう」という気持ちは大切に育てないと。

人によっていろいろな定義があっていいと思うけど、「芯なんかいくら折ってもぜんぜん気にしないでいいよ」というのが、私にとっての「甘やかし」です。成長の芽を摘みかねない甘さ。私も一度これで失敗して痛い目にあっています。

私の提案は、成長のインセンティブとして、物を借りるときの感謝の気持ち、「申し訳ないな」という気持ちを利用しているのです。怒らない、叱らない、ということと、甘やかしてインセンティブの構造まで破壊してしまうことは別なんです。

どうしても「気にしなくていいよ」といいたいこともあるでしょう。繊細な感性を持った子どもに対応する場合とかですね。そのときは、「折れちゃった芯のことは、先生は少しも気にしていません。はい、もう一本貸しましょう。明日から、筆記用具を忘れないようにしようね。それが先生の一番の望みです」という。

先生は、気にしていない。主語に注意。あなたは気にしなさい、という含み。でもそれはいわない。

同様に、「来週も忘れたら、また貸してあげますよ」も余計な一言。ずーっと「来週こそは、ちゃんと持っていらっしゃい」といい続けなきゃダメ。貸すのがゴールじゃないわけだから。

優しい先生は、しばしば口を滑らす。それなら、怒ったり叱ったりする方が、まだいいかもしれない。怒ったり叱ったりする大人は学校と家庭にはありふれていますから。いまさら一人二人増えても大差ない。

私が怒ったり叱ったりを避けるのは、教育効果が小さいからです。本気で怒るのは、万引きのような犯罪を叱る際に大切なことだとされていて、それは私も同意します。しかし子どもが忘れ物をするとか宿題をしないといったテーマでは、意味が薄い。なのに、怒って叱ると疲れるので、満足感がある。これがいけない。

じぶんはやることをやった、と子どもに責任転嫁しちゃう。要注意です。

私の提案の位置づけ

福耳さんが仰る通り、いろいろな先生がいるのが望ましい。

私が極端を承知で、(主に)小中学生向けの補習塾のノウハウを大学教育に応用する提案を繰り返しているのは、絶対に需要はあるのに、そういうことをやっている先生が少ないからです。

私は福耳さんの実践を素晴らしいと思っていて、ぜひその方向で研究を積み重ねてほしいですし、可能な範囲で支援・応援していきたい。ただそうなると、徳保提案を実践してくれそうな人がもう見当たらない。他のどなたかが「あ、これいいな、やってみよう」と思ってくれたら嬉しい。

というか、若者が劣化したとか何とかいってる大学の先生方は、騙されたと思ってやってみてほしい。(我流で上っ面だけなぞってもうまくいかないので要注意 Ex. 余計な一言)

平成19年7月17日

教室へやってきた大学生が、ノートもペンも持ってきておらずゲンナリ、という話。

二十歳の大人に、「ノートをちゃんと持ってこい。」なんてこちらはとても言う気になれない。ペンを出せ、とかも。それを言うのは本当に相手に対する侮辱だと思うから。だから、「ノートをとったほうが知識として後に残るよ。」とか、「まあ、ノートをとらないのもあなたがたの価値観だけれども。」とか言っても、平然としてただぶすっとして椅子にだらしなく座っている。

昔、アルバイト先で私がミーティングをやっていたことがあります。全員が高卒以上で、8割が大学生。いくつか連絡事項があるので、メモしてくださいというのだけれど、持ってきていない人がいる。

仕事でペンは使うのですが、カバンにしまって席に置き、ミーティング室へ持ってくるのを忘れてる。ノートはそもそも持っていなかったりします。おじさんおばさんはもちろん、学生でもそういう人はいました。

私はどうしたかというと、中学生や小学生と同じ対応をしました。「ペンと紙のない人は手を挙げてください。席から取ってきてもらうより、配ったほうが早いので配ります。後でペンは返してください」

鈍感な人間だから、こういうことができるのかもしれません。私には「ノートを持ってきなさい」といわれて「侮辱された!」と感じるセンスがない。きっとあちこちで失礼なことをしているに違いありません。

でも、やっぱり講義を聴いて、ノートを作成してほしいなあと思ったら、ペンと紙を講師の方で用意すべきだと思います。そんなことまでやってられるか、と思うかもしれませんが、それなら、私にはよくわからないそのこだわりを、学生にノートをとらせることよりも優先したいということなのではないでしょうか。

ペンを忘れる、ノートを忘れる。最初はびっくりするかもしれないけれど、次回からは、そういう学生もいるんだな、とわかっている。わかっていて、何もしないというのは、私にはピンときません。

ペンと紙があっても、何も書かない学生もいる。私なら、紙はこちらで配って、授業の最後に提出させます。「半分以上、何か書きなさいよ。半分、書いてなかったら出席点あげないよ」とか何とか、そういうインセンティブも与える。

でも、先生が黒板に書いたことしかノートに書けないという学生が大半かもしれない。であれば、ノート指導をする。ノートの見本をプリントで配る。とりあえずそれは二つ折りにして隠させる。授業は90分を3分割して、20分毎に、「ハイ、ここまでがノート見本の1番ね。自分のノートと見比べてごらん」という。

そして「抜けている部分があったら、自分のノートにも書き写しなさい」と指示する。1時間の授業で3回練習できるので、ゴチャゴチャ説明しなくても、だんだん感覚がつかめるようになってくる。なお、消しゴムは基本的に使わせないこと。誤字の修正はいいけど、全体の修正は禁止します。

小中高で12年間も大勢の先生方が一生懸命に教育して現状程度なのだから、一朝一夕には何も変えられない。だから、みんながこういうことを指導していく。指導仲間を増やしていく。

学生のプライドなんかより、こういうことの方がずっと大事だと、私は思う。

「そんなことじゃこれから社会に出てどうするんだ駄目じゃないか、」ということを言いたいわけではない。それも各人の選択だから、と自分は考える。近代工業社会に自分を合わせるばかりが人生ではない、と普段から自分は考えている。だから「ノートとペンを鞄に入れて登校して、それを机の上に出して板書を書き写せ、」というような説教は自分はしない。それは講師として僭越というものだ。

学生には講義に出ない自由があり、単位不足で退学する自由がある。教室までやってきた学生に対して、教師が指導することが僭越でしょうか。

僕一人が厳しいことを言っても、もし他の教員が大学の単位取得、留年させない、卒業させる、という目標設定を優先して、はっちゃはちゃな学生に申し訳程度の穴埋め小テストを出して、期末にはほとんど「事前に答えをそのまんま教える」ような試験をして単位を与えてしまっているなら、学生はいくらでもそっちに逃げてしまう。あるいは逃げ切れると思ってしまう。そうだからこそ、講義にノートも持ってこないで平然としてしまう。脅しもなにも効かない。

厳しいことなんかひとつもいわなくたって、ノート指導はできます。100人学生がいるのなら、ペンを100本用意すればいい。紙を100枚用意すればいい。

補習塾で私は、きれいに削った鉛筆を20本用意していました。子どもが返却した鉛筆を、休み時間に「お疲れ様。さようなら。はい、さようなら。じゃあまた来週ね」などと帰っていく生徒たちに挨拶しながら、ていねいに削る。すると自然に、忘れ物は減っていきます。

最初は、鉛筆を貸してもブスッとしています。無言で手を突き出し、返却するのです。「はい、どういたしまして」と受け取る。そのうち、一人の子が「先生ありがとう」といって返す。それを見て、少しずつ変わっていきます。

やって当然の「当たり前」のことが出来なくなっている人に、それをさせるようになる教育とはどういうものか、まだ僕も、そして世間もよくわからないのではないか。いい大人なんだもの、相手は。

ご家庭で指導すべきことでしょうと幼稚園に見放され、これくらいは幼稚園でしつけてほしいよと小学校で見放され、小学生じゃあるまいしと中学校で見放され、もう義務教育じゃないんだよと高校で見放され、いい大人じゃないかと大学で見放される。こんな連鎖は、福耳さんが止めるしかない。

私が教えた中でも、とうとう高校受験の当日に筆箱を忘れた子がいました。いち教師が奮闘しても及ばない領域は大きい。けれども、教育に魔法はありません。淡々とやっていくしかないと思います。

こういうことに大人も子どももない。小学生でも中学生でも高校生でも大学生でも、書くものがないなら教師が貸す。それだけです。次回も忘れたら、また貸せばいい。「来週こそは、ちゃんと持っていらっしゃい」と、何度でもにこやかに語り続ければいい。

どうにも改善が見られなければ、その理由を探求していきます。ときどき、こうした些細な兆候から何らかの障害や病気が発見されることもあるようです。

ちなみに

社会人相手のセミナーでは、筆記用具を忘れた人が申し出れば、いろいろ貸してくれることが多いようです。私もお世話になったことがあります。

これこそ「いい大人が何やってんだ」なのですが、筆記用具を持ってき忘れる参加者って、案外多いそうです。自分で言い出せない人に声をかけることもあるとか。学生相手にそこまでやることは全然ないと思いますが、ダメ学生はダメ社会人になり、それでも失業率は5%未満って、ようするにこういうことなのかも。

「そんなんじゃ社会で生き残れないぞ」って脅すより、みんなが楽しく暮らせる社会を作っていく方がいい。日本人は、少しずつ、そういうことをやってきたんじゃないかな。

逆リンク!

言及など

紹介など

mixi方面

平成19年7月17日

強調は引用者。

Sybianの日記 - 気に入りすぎてはてなスター連打したいけど手動だと面倒なのでスクリプト書いたは、ちょっと前に誰かが「思想をソースコードにしろよ」みたいなこと書いてたな、と思いだしたので作った。エクスプロイトコードとでもいうのか知らないが、大量に星が付くとこんなに困るよ、とメール書いたりはてなアイデアに出したりするのは迂遠だと思ってとっとと作った。本当は星付けるんじゃなくて、メッセージ送りつけようと思ってたんだけど、仕様なのか設定なのか、はてなスター日記にメッセージを送るためのアイコンはなかった。試した人ならわかるだろうけど、これ、メッセージが付くたびにメール届くんだよ。どんな嫌がらせだよ。

んで、はてなスター日記に2万くらい星つけたら、俺の思惑通りsサーバは死に、スター日記は閲覧できないほど重くなりで大変ぽかった。はてなの妙に素早い対応によって、俺がもっとも嫌がった部分は若干改善されたようだが、2万近く付いた星をクリックするとブラウザが落ちるか固まるのは直ってない。うっかり星をクリックして死ぬ人が居るだろうから、重さは軽減されないものの、防衛手段としてCSSで星を消すのは有効だと思う。星はあなたが知らないうちに増殖する。

COOKPAD 問題雑感(2005-12-14)にも書いたけど、平和な社会と人々の幸福を破壊してまで、自らの信じる正義の執行を優先するなら、全て政府が邪悪なのがいけないと嘯くテロリストと何ら変わりがない。こういうテロリストの論理に、私は与しない。

悪いのははてなスターの仕様であり、スター連打スクリプトでサーバーを落としたのは馬鹿なはてなを目覚めさせるために必要なことだった……呆れた主張だと私は思うのだが、はてなスターが嫌いな人たちは気にならないらしい。

私ならこういうユーザーは、アカウントを停止します。攻撃コードを作ってはてなに連絡するだけでいいじゃないか。せめてコードの公開に留めるべきだった。どうして現実に多勢が利用するサーバーを落とす必要があるんだろう。善意から出た行動かもしれないが、やっていることはクラッカーと変わらないじゃないか。

同じゼロデイ攻撃の実演をするのでも、洒落っ気のあるはまちや2さんが社会に受け入れられているのは、私はたいへん不愉快だけど何とか理解もできます。でも id:Sybian さんの行為は、常識的には「それが悪いことだと何故わからないの?」というレベルだと思う。

追記

F5連打と(id:Sybian さんの)add star連打では、高負荷が直接に生じるか間接に生じるかの違いがありますが、それは(私の判断基準においては)小さな違いです。

ブログの人気が沸騰してサーバーが落ちても訪問者たちは「悪くない」が、一人がF5連打でサーバーを落とせば「悪い」。はてなスターが大人気でサーバーが落ちてもユーザーたちは「悪くない」が、一人がサーバーを落とす意図で星をどんどんつけるのは「悪い」。害意(≠悪意)の有無がポイントです。

スクリプトではなくマウスで連打したって同じです。銃を使わず投石で警官を殺したってテロじゃないですか。害意があっても実行力がなければ誰も迷惑しませんが、id:Sybian さんは現実にサーバーを落としてみせました。

詳細な経緯を拝見するに、当初は好奇心ではじめたこと。はてなスターの導入プロセスは強引だったし、仕様もまずかった。自分の日記がブラクラになって苛立ったのはわかります。でも、と思います。

余談

ウェブサービスの多くは、常識的な利用の範囲内で負荷に耐えるように作られています。リクエストが殺到すればサーバーは落ちる。年に一度の瞬間的な大需要にまで耐えるような仕様にはしない。

掲示板だって、ユーザ設置タイプの CGI はふつう投稿間隔制限の仕組みを設けていません。だから1分間に数百投稿してみると、データを壊せたりする。でもふつうのサイトなら、1日に1回も投稿がないのだから、シンプルな CGI でいいわけです。イタズラする人がいるなら、それはイタズラする方が悪い。

はてなスターだって、一部のユーザーによる負荷テストブームが去った今、4桁以上の星が付くケースは激減しています。だったら本来、スタート時点での利用者数から考えて、初期仕様でも大した問題はなかったのではないですか。何とか我慢できるくらいの重さにしかならなかったでしょう。

結果的に仕様が改善されたことは認めます。でも、はてなスターが大人気となり、ふつうの人が常識的に利用していてもひとつの記事に数万の星がつくようになるまでには、まだまだ長い時間がかかるはずです。大騒ぎして高負荷テストを実行するユーザーさえいなければ、ゆっくりとした改善で問題なかったと思う。

平成19年7月17日

下の文章は、海風さんの記事に触発されて書いた、一般論です。

都合の悪い記事「だけ」消すのと、都合の悪い記事「も」消すのに、大きな違いはないような気がする。少なくとも、その都合の悪い記事を参照したい人にとっては。というか、自分が参照したい記事さえ残っていれば、他の記事はどうでもいいんじゃないか。

私は、都合の悪い記事を消します。都合が悪いのに残しておくなんて、不自然でしょ、功利的人間として。これに対して、「ログを消すのは卑怯」といった価値観を掲げて対抗するのは、記事を参照したい側の戦略として、よくできていると思う。「都合の悪い記事を削除するともっとヤバい」状況を作り出す戦略。

でもよく考えてみれば、卑怯といわれて実害はほぼゼロ。粛々と都合の悪い記事を消していけばいい。

他人の間違いを指摘するのは楽しいし、馬鹿な人を馬鹿にするのも楽しい。許せない相手には、怒りをぶつけたいし、その怒りを共有する仲間を増やしたいというのは、多くの人が持つ欲求だと思う。

どう間違っているか、どのように馬鹿なのか、何が許せないのか、それらを説明するには、具体例を紹介するのが効果的。リンクによる参照なら、記憶違いや転記ミスもなく、安全・確実だ。

都合の悪い記事が消えてしまうと、効果的で確実な説明の手段が奪われ、不愉快だ。その気持ちはよくわかる。でも(少なくとも現在の)私は、そうした不満を乗り越えたい。実践は難しいが努力したい。

大切なのは、これからの世界が、より間違いが少なく、より賢く、不満の少ないものとなることだ。

都合の悪い記事を消した人が、再び都合の悪い記事を書かないなら、過去を咎めて何の意味があるだろうか。いや、現にもう書かれている、というならば、その記事を批判すればよい。まだ書かれていないなら、それはいいことだ。

過去に書いたことをなかったことにし、批判者に対して逆に嘘つき呼ばわりするようだと、話は違ってくる。でも、さすがにそういう人は少ないし、それならそれで対抗策はある。

いや待て、卑怯というのは、いまそこにある悪ではないか、と。それはそうなのかもしれないけれど、その批判によって、世界がどうよくなるのだろう。厳罰主義が犯罪を減らす、という立場に与しない人までが、しばしば卑怯の難詰に熱中するのは、不思議な感じがする。

というか

ムカッときたら、即保存。Yahoo!ブックマークを使えばいい。ブックマークレットひとつポチッとやるくらいなら簡単でしょ。「消すな」といっても消す人の勝手なんだから勝てるわけがない。自分がいかに少ない手間でコンテンツを保存するかを考えた方がいい。

ところではてなブックマークがYahoo!ブックマークのようなキャッシュ保存の仕組みを提供できないのは、サーバーが日本にあるからだ、という話がある。それが本当なら、近藤社長に続き伊藤直也さんも渡米して、はてブのサーバーをアメリカに持っていってくれないか。

補足

過去を咎めて何の意味があるだろうかと書いたけど、何だって過去には違いなく、少し補足したい。

ようは、個人が個人を「とっちめる」目的で批判することへの疑問なのです。自分の意見を述べるにあたって、**への批判という形式を採用するのはいい。でもそうじゃなくて、批判によってその対象を「罰する」ことを希求している事例が多いでしょう。相手の信用を落とそうと頑張ったり、謝罪しろと迫ったり。

全否定はしませんよ。そういう人の心の欲求はわかる。でも行き過ぎればやっぱり弊害の方が大きくなる。過去の記事が消えて、それでもう何だかよくわからなくなっちゃったなら、もういいじゃないか。みんな忘れて(ぼんやりとしか)思い出せないようなことを批判して何がどうなるのか。

記事が消えて困るなら保存しておけばいいので、今後はそういう手間を取ったらいい。そうすれば、それがひとつの基準になると思う。「面倒くさいから保存しない」なら、その程度のことだったのでしょう。それが消えたって、残念がるくらいで十分じゃなかろうか。

平成19年7月15日

前の記事は石川一靖さんのブログのコメント欄に書こうと思ったけど、やめにした内容。

以前、「Internet Site Opinionが消滅した件」という記事に無為徒食日記の過去ログが趣味のWebデザインの転載リソース集に加わることを期待とあったので、半日かけて作業し、コメントで転載完了の連絡をした。これがなぜか掲載されず、もう一度投稿したけど、やっぱり不掲載。返事はなくてもいいけど、コメント拒否は納得できなかった。

他人の管理するコメント欄だから、私に理解のできないことが起きても不思議ではないが、現実にこういうことがあると面食らう。以降、事前審査型のコメント欄は敬遠している。

エラー表示なく投稿を完了しても、文字化けが起きているかもしれない。未承認コメントも投稿者には見える、という仕様ならいいのにな。ちゃんと投稿に成功していて、その上でコメント掲載拒否なのか、それとも投稿したデータがきちんと処理されていないのか。そこが分からないと、ちょっと気になる。

秘密コメントを投稿できるブログシステムがあるのだけれど、多くの場合、投稿した本人にも読めなくなってしまう。管理人だけが読めるわけだけれど、自分だけ返事がないと引っかかる。文字化けでもしたのかなあ、とか。ちゃんと投稿に成功していて、その上で無視されたなら、スッキリしていいのだが。

同じ内容をコメント欄とメールの両方で届けるのもウザったいだろうし、どちらも本当に相手に届いたのかを確認できないメディアという点で差がない。ウジウジ考えている間に、時間が過ぎていく。

管理者としては、こういうのっていいんだろうな。メールの場合、「どうして返事しないのか」といわれても、本当はキモメールに返事をしたくなかっただけなのに「サーバーの不調で届いていなかったみたい」。

昔は電話の留守電にメッセージを入れておいたら「お母さんに消されちゃって」なんて言い訳があった。携帯電話時代になっても「つい勘違いしてまとめて消しちゃったみたい」と高度化して生き残っている。

年賀状の返事が来てないぞ、に対しては「郵便事故」という説明が。かわいそうに10枚出して5枚が郵便事故で届いていなかったというクラスメートがいた。そんなわけないだろう。本人はそれで納得しているようだったので、私は何もいわなかったけれど。

えーと、何の話でしたっけ。

追記

私のコメントはスパムフィルターで排除されていたのだそうです。

平成19年7月15日

HTML4 では見出しレベルは内容の重要度によって決めるという指針が示されているけれど、見出しの重要度が木構造をなすとまではいっていない。内田明さんの邦訳が上位とか下位といった表現を採用しているのが間違いだとは思わないが……。

A heading element briefly describes the topic of the section it introduces. Heading information may be used by user agents, for example, to construct a table of contents for a document automatically.

There are six levels of headings in HTML with H1 as the most important and H6 as the least. Visual browsers usually render more important headings in larger fonts than less important ones.

The following example shows how to use the DIV element to associate a heading with the document section that follows it. Doing so allows you to define a style for the section (color the background, set the font, etc.) with style sheets.

というわけで。

このような見出しの使い方は適切だろうか。

<h1>Operaの導入とカスタマイズ</h1>
<h2>Movable Typeのプラグインについて</h2>
<h3>はてなブックマークの使い方</h3>

少なくとも、不適切ではない。

新聞や雑誌のように、1ページの中に様々な話題を取り込むメディアは多々ある。各記事の見出しにはふつうレベル差が存在するが、とくに混乱を招いてはいない。石川さんの例示は、新聞の「IT情報コーナー」のマークアップ案として、じつに自然だと思う。

重要な記事の見出しを h1 とし、あまり重要でない記事の見出しを h3 とする。何の疑問がありますかね。見出しを重要度から木構造として解釈しても意味が通るようにする、という自主規制には反対しませんが、HTML の仕様はここでもやはり、現実に柔軟に対応できるものとなっているわけですね。

一方、要素の入れ子関係が木構造に対応することは CSS の仕様からも明確なので、見出しと見出しの意味上の包摂関係を木構造として明瞭にしたいなら、div か何かを使えばいい。今後も HTML の仕様は可能な限り多様な文書をマークアップできるよう工夫されたものであってほしい。

余談

HTML4 の仕様書は、note として、デフォルトスタイルとしては見出し要素に章節番号を付加しないと規定している(ように読める)のは面白い。UA の機能や CSS なら OK ともいう、この懐の深さ。

見出しレベルが木構造を成している場合に、閲覧者の判断で UA に章節番号を付与させたり、製作者の判断でそうするのはかまわない。しかしデフォルトスタイルとして章節番号を付与することはない。なぜなら見出し群がそのレベルによって木構造を成しているとは限らないからだ。

もしこれが逆で、デフォルトで章節番号付与、嫌なら番号を外す機能を UA は提供するよ、という仕様だったら……。見出しレベルを木構造を意識して用いる人が多数派となったことは間違いないけれど、HTML が現在のような人気を得ることはありえなかったろう

HTML does not itself cause section numbers to be generated from headings. This facility may be offered by user agents, however. Soon, style sheet languages such as CSS will allow authors to control the generation of section numbers (handy for forward references in printed documents, as in "See section 7.2").

この note 部分のマークアップは、けっこう衝撃的かもしれない。仕様書が堂々とこんなマークアップで公開されていること自体、HTML の「今そこにある需要」に柔軟に対処しようとする姿勢を如実に現すものではなかろうか。「ストリクター」の理想、仕様書の現実。

平成19年7月12日

いまプロバイダの壁を突破してIPアドレスと接続時刻から発信者の実名を突き止めることが難しく、訴訟を起こすための訴訟が必要になるという状況です。

殺人予告やテロ予告なら匿名剥奪OKというコンセンサスがあるようですが、「事実無根の誹謗中傷」とか「嫌がらせの書き込み」の類では、なかなかそういうことにはならない。このバランスを居心地よく感じている人が多いようだけど、私はこんなの、おかしいと思っています。

双方に言い分はあるでしょうが、当事者同士の交渉さえ不可能となっているケースが少なくない。最近、お互いに本名を知らないままオークションの取引ができる仕組みが始まりました。民事裁判でも、このようなことができないか。簡易裁判所レベルのトラブルなら、そういった運用の仕組みも構築可能なのでは?

自称被害者が裁判所に訴え出ると、裁判所がプロバイダに命令して、発信者情報を(訴え出た人ではなく)裁判所だけに開示させることができる。その情報に基づいて裁判所が被告に連絡する。法廷では衝立の使用を認める……。

いま匿名の壁があまりに厚く、誹謗中傷程度では民事訴訟を起こせないので、「困ったら警察へ」となっています。でも刑事罰となると、有罪になれば前科がつくのだから、これはたいへんなことです。人生が狂ってしまいかねない。警察がおいそれとは動いてくれないのは当然です。

民事訴訟の敷居は、もっと下がっていい。第三者が介在する場で、当事者同士が交渉する仕組みが必要だと思うのです。匿名の人物を相手に裁判を起こすハードルを下げたい。といって、一方の力だけ強くしようとしても難しいから、匿名のまま裁判できる制度なら妥協点となりうるのでは? という提案。素人考えですが。

ふつうの仮名さんは本名がばれていないはずなので、重大局面で「被害者」らに氏名・連絡先を開示する(匿名に逃げない)覚悟さえあればいい。一般読者に対しては匿名を通していい。これが私の考える議論の着地点。

2年たった今も、思うところは同じです。裁判というのはお金も手間もかかるものなので、裁判を起こすというだけで、相手側の被害意識の大きさは事実上、証明されていると私は考えています。しかし「裁判を起こすから連絡先を教えなさい」では、起こすといって起こさないことも可能なので、判断が難しい。

プロバイダ責任制限法では、開示された情報を悪用してはならないと定めていますが、誹謗中傷してはならんというのにする人がたくさんいるわけで、「これくらいなら許されるだろう」といって、カジュアルな悪用をする人は後を絶たないに違いない……という不安は理解できます。

だから匿名の相手を裁判所に訴える、裁判所だけに個人情報を開示する、といった仕組みが実現できればなあ、と思うのです。

小倉さんの基調講演の末尾に「共通ID制度」の説明があります。読めばわかるのですが、「共通ID」は水面下でやり取りされるデータであって、表に出す名前は利用者が選択できます。だからハンドルネームをなくそうというわけではない。このあたり誤解が蔓延しているように思う。

やはり問題は実名の開示基準。プロバイダ責任制限法施行後も、「明らかに事実に基づかない誹謗中傷」程度では個人情報の開示はされていませんよね。「警察が動きそうなくらいの事例」でないとダメ。ここが変わらないなら、共通IDに「判断基準が一律になる」以上の意義はなさそうです。

そして共通IDの実名開示基準が緩い場合、共通IDを採用するサービスは利用者が伸びないのではないでしょうか。少なくとも既存ユーザは情報の移管に強く反発することが予想されます。私の提案も現実味がありませんが、共通IDも同様かと思います。

2ch を攻撃すると、インターネット自体が使えなくなってしまう。実名開示も裁判も関係ない。こういうことができるのも、2ch の(あるいは「大衆の暴走」の)怖いところ。

平成19年7月12日

学生に考えさせる授業(2007-07-03)の続き。

uumin3さん、どうも。自分も言葉足らずがありまして、仮説Cは、事前に決まっていないというか、まさにD,E,F,G…とどんどん学生に出しちゃってもらいたい、その「事前に想定しうる落しどころ」からどのくらい外れるか、というところを評価したいのですね。正解を事前には決めているわけではなくって、まさに「おお、そこまでは僕も考えつかなかった、思い至らなかった要因だなあ。よく気がついたなあ。」という風に相手を褒めたいし、それはまさに僕の意図どおりなんです。

講義録第一回の、「なぜ行列の出来るメンチカツ屋は値上げしないか?」をご参照下さい。ブログで紹介はしていませんが、後になって学生からもいろいろユニークな仮説が出てくるようになってきました。

いやいや、事前に正解が仮定されていてもいなくても、それは関係ないのです。私の場合は、言葉足らずの逆で、余計なことを書いたので誤解されてしまったようです。

先生の想定外の回答 D,E,F,G を、予め(テレビや本などを通して)知っている学生がいた……と仮定してください。この学生が、「たったいま思いつきました」という演技をしながら発言するとき、福耳さんはこれを看破できますか。私は新聞や本をよく読む学生だったので、このやり方で多くの先生に褒められてきました。

だからつくづく思うのです。考えることが大切だ、とよくいわれますが、人類が全く初めて経験するような問題なんて、そうそうありません。個別の事情はあるものの、枠組みとしては過去に自分よりずっと優秀な人が取り組んだ問題の応用例に過ぎない。自分で「考える」必要なんてないのでは? と。

なぜ行列の出来るメンチカツ屋は値上げしないか?」をいきなり本で調べようとしたって、それは無理というもの。しかし「だから考える力が必要なんだ」みたいな短絡をする人がいるとすれば、それはおかしい。

一生懸命考えれば、1割くらいの学生はユニークな仮説をいくつか思いつくかもしれない。けれども福耳さんが紹介した無知仮説、高-価格弾力性仮説、信条仮説、体験商品仮説、行列シグナル仮説、素材歩留まり維持仮説という6仮説を全て自力で発見できる学生はほとんどいないはずです。

ところが「考えなさい」といわれて沈黙し目を伏せた学生たちも、福耳さんの講義の後なら、「行列のできるラーメン店が値上げをしないのはなぜか?」という試験で60点は取れる。これが知識の凄まじさです。

ラーメンに高-価格弾力性仮説はあまり該当しそうにないし、素材の歩留まりもネックになりそうなものが思い浮かばない(注:メンチ仮説の例題では肉屋が1頭単位で肉を仕入れている前提で歩留まり仮説を構築していた)。だから脊髄反射で6つの仮説を並べたって優は取れない。

訓練が必要であり、また訓練が可能となるのは、この領域ではないか。オリジナルの仮説を立てるのは、非常に難しく、多数派の「お客さん」化は避けがたい。けれども、よくある仮説のパターンを示した上で、練習問題に取り組ませるのは有意義だし、みな諦めずに取り組めるテーマでしょう。

補記

講義録を読む限り、福耳さんの授業は、基本的にそういう方向性で組み立てられていると思います。

できることなら、「余談の多い経営学」「経営学実習」みたいな2コマ連続の枠を作りたいところです。

教える側があからさまにツッコマレヤスイ物言いをして、学生が「いや、それは筋が通らないでしょう!」じゃあ、どうすれば筋が通るんだ?「それはかくかくしかじか。」みたいなところへ誘導したいのですが、難しいですが、頑張りたい。まるっきり絶望的でもないみたいに思います。

これは難しいと思います。私の前回の記事では、(大半の)学生の「お客さん」化を指摘しましたが、やはり同じなんですよ。

「いや、それは筋が通らないでしょう!」を学生と先生の生のオーラルコミュニケーションによって実現するのだとすれば、100人学生がいても、高々4〜5人だけが授業に参加するのが精々です。ほとんどの学生は先生の発言のおかしさなんか気にも留めないか、不思議に感じても、その指摘は他人に任せます。

指名でもされない限り、他人に向かってもやもやとした違和感を具体化するような、面倒な作業はしません。

だから、やるなら実習形式か、試験の形で行うべきです。……というのが、補習塾で教えていた私のような人間の発想ですね。そういうのはエリート教育の場である大学にはそぐわないのかもしれませんが。

授業案

どうしても学生にオリジナルの仮説を書かせてみたいんだ、という場合、私ならこうするという授業案をひとつ。小中学校を想定しています。

ラーメンを例題とし、メンチカツを練習問題にします。ラーメンの例題では教師が、無知仮説、信条仮説、体験商品仮説の3つを示す。練習問題では、3つの仮説の他に1つ以上、オリジナルの仮説を示しなさい、と指示。無知仮説のように素朴な意見でいいんだよ、と言い添えます。

行列シグナル仮説は、生徒にも思いつきやすそうなので、ボーナスとして温存(「行列ができる店としてテレビで紹介されたりするから!」みたいな意見もシグナル仮説の亜流ですよね)。高-価格弾力性仮説と素材の歩留まり仮説は隠し玉。小中学生にはちょっと難しいので、時間が余ったら片方だけ説明する算段。

これだけの準備をした上で、想定外の仮説がどれだけ出てくるかを楽しみに待つ。ただ、やっぱり一番気にかけるべきは、多数派の生徒がちゃんとオリジナルの第4の仮説を書けるかどうか。そのほとんどが行列シグナル仮説だとしても、とにかくオリジナルを書けたなら「よく頑張ったね」とほめたい。

この授業案のポイントは何かというと、0から4を出すのは難しいが、3から4を出すのは、もう少し簡単だということです。3つの仮説を学習する。3つの仮説を復習する。さあ4つ目の仮説を思いつくかな? そういう仕掛けですね。

あと、クラス最下位の子も、3つの仮説を勉強できたならOKと考えること。4つで100点なので、復習の3仮説が理解できていれば75点。60点を超えるので合格点です。ちなみに5つ以上書いても最高点は100点で、125点とかにはしません。

平成19年7月3日

「フレーム内表示=盗用」か?(2004-03)やリンクによる参照(2004-04-05)を思い出しました。

私が「link=参照」として文章を書いたところ、北村さんがより狭い語義でしか「参照」という言葉は使えないと主張され、物別れに終ったのでした。今更ながら、北村さんが理解できないおっしゃった件、あらためて補足説明しておきます。

他人が管理するサーバーにある画像ファイルを私が自分の HTML 文書中の img 要素で呼び出したとき、それは画像を転載したことになるだろうか。法律上はどうだかわかりませんが、私はならないと思う。なぜなら、画像の所有者が画像を差し替えたら、当然、私の HTML 文書に表示される画像も変化してしまう。

文章をコピーした場合、元の記事が修正されても、コピー先には影響がない。転載とは、このように元の所有者が管理できなくなってしまうような複製行為をいうのではないか。

面倒くさいのでやっぱり中断。

平成19年7月3日

取り戻すも何も、現状あるがままの姿が自分なので、ありもしないものを探す試みは徒労に終るのではないか。

平成19年7月3日

よくわからない。世の中、まだまだ失業者がたくさんいるので、給料を減らして人を増やせばいいんじゃないか。生産性が低いなら、低いなりの給料でいいや、と考えるか、他にもっと向いている仕事があるなら、そっちへ行くか。能力以上の給料がほしい人ばっかりの社会に失業者と過労死があふれるのは必然。

上司が悪いとか、競争がいけないとか、そういう話じゃない。自縄自縛の閉塞感。

地方自治体の栄枯盛衰を決定付ける「足による投票」よろしく、「就職による投票」に期待したい。これまでは不況で、労働者が選ばれる側だった。好景気が長く続き、労働組合のない企業が軒並み人手不足でシェアを落とし、存在感を失っていくといい。

でも、私の勤務先みたいな、労働組合が強くて労働分配率が高く(その代わり内部留保が少ないから企業の投資余力は高くない)、査定なしの給与横並びの会社って、なぜか人気がない。大発展の可能性が低い会社や、自分よりもっと無能な人間と同じ待遇の会社じゃ嫌なんだって。

そういう考え方が自分の労働条件を悪くしているんだけどなあ。仲良くやろうよ。凡人同士の能力差なんて高々10倍でしょ。給料同じでいいじゃない。凡人には凡人のサバイバルの仕方があると思う。

平成19年7月3日

以前、児童ポルノ禁止法による表現規制の強化に反対する人たちに対して、「因果関係がない」を理由にするなら、そもそもアダルトビデオの「18禁」だって無意味な規制なのではないか、どうしてそれには文句をいわないのか、みたいなことを思って、ちょっと書いたことがあった。

リンク先の記述はふたつともとても難しくて、私にはよくわからなかったのだけれども、こういった問題については社会学の先生が詳しいんだな、という印象は受けた。

メディア・リテラシーつながりで谷島宣之さんの記事を5つご紹介。

平成19年7月3日

学生に、Aという仮説を教える。そして然る後に、Aと矛盾する仮説Bを提示する。そして教えるこちらからはAB間の矛盾は解決しない。学生自身に矛盾について悩ませる。

その結果、そうとうちゃんと考えてこそ、ABそれぞれをふまえて、両者を止揚した仮説Cに学生自身の手でたどりつく。それをしてこそ、本当に自分の頭で考えて、自分の頭の中にその成果が残り、洞察力という力の存在を認識できる。

そういう講義をせんとあかん、と思ったのは、いまの学生、「決まった正解を教わるのが大学の講義」と勘違いしているからである。あーこどもっぽくっていや。そんなの、チャート式でも読んどいてくれ。

僕なんぞは、考え方ではなくって、他人が勝手に決めた正解を学んで、なにが面白いのかなんて思いますがねえ。

なかなかうまくいかないというか、結局のところ、学生が演技力を駆使するだけの結果となりそう。

というのは、矛盾を止揚した仮説Cについて、最終的に福耳さんの独断なり、学生の合議なりで評価をするわけでしょう。90点で優、75点で良、60点でギリギリ可、30点で不可、みたいな。点数をハッキリつけるかどうかはともかく、ともかく評価はするはず。

逆にいうと、授業にする以上は、他の人が聞いて評価できるような何かをテーマにするわけ。

すると必然的にですよ、授業が終ってみれば、100点満点の回答は相変わらず謎に包まれているかもしれないけれど、「90点の回答」は明らかになってしまうわけですよね?

私の経験上、学生がその場でものすごいことを思いつくことは、まずないです。本当に驚かされた場合、まず教師の力不足を疑った方がいい。だから、まじめに一生懸命考える学生ほどむしろ、一種の馬鹿馬鹿しさを感じてしまう。「答え」を知ってる者勝ちだなあ、と。

だって、「考えさせる」といいながら、先生は最初から答えを知っていて、それに近いものを出せるか出せないか、みたいな組み立てになってる授業が多過ぎるでしょう。そこまでに聞いた話から必然的に導き出せる答えならいいけど、大半は大いに飛躍を含んでいる。知ってりゃ一発、知らなきゃ運試し。

あるいは、学生の発言をよく聞けば、狭い経験から何とか答えをひねり出そうとしたものがほとんどでしょう。「考える」といえば聞こえがいいけれど、所詮は「知ってることの範囲内から答えを探す」のがせいぜい。しかもそれが不完全だから、先生の説明を聞いて「あっ、そういえば」となる。

そういうことに、学生自身もけっこう気付いていると思う。人が「頭がいい」といわれるのなんて、たいてい他の人の知らないことを知っていた、という場面ですからね。知識万歳。

どんどん指名してみても、最初から勝負を降りていて、お客さん気分になっている学生も多い。授業が終った段階で正解を頭に入れられたらいいかなあ、と。指名されたら最悪「分かりません」「思いつきません」でもいいかなあ、みたいな。頭のいい人、頑張ってね、みたいな。

でもそういう戦略、案外、現実に通用するんですよね。東京大学が「三角関数の加法定理を証明せよ」と出題するくらいで。逆説的ですけど、東大生以外は「そんなもの、知ってりゃそれでいいんだ」ということなんじゃないか。

私は工学屋なので、理学の成果を単に知識として援用している部分が多いわけです。結論さえ知っていればどうにかなることが多い、という感覚があるのは、そのためかも。あと思考トレーニングみたいな本を読むと、「なーんだ、賢い人って、考え方のパターンを知っているわけね」と思わされる。

補記

福耳さんは他人が勝手に決めた正解を学んで、なにが面白いのかと仰いますけど、そういうのは自分の頭に自信のある人の科白ですね。バカな私なんか、一生懸命考えた自分の意見より100倍すごい考えをポンと提示されて、「あーあ、自分で考えるなんてつまんねーなー」と思った経験が腐るほどありますから。

自分で考えるより、何かで調べる、他人に聞く。その方がいいや、と身に沁みてます。自分よりすごい人の話を聞くのは楽しくて、大学の授業も基本的にそういう感覚で受講してました。「設計情報転写論」なんて自分で思い付けるようなものじゃない。

「AとBの矛盾を止揚する道があるんだ。さあ、考えてみよう」先生がこういったら、「ふーん、ようするに学生でも思いつく程度の話なワケね」と、かえってつまらなく感じる、そんなことも無きにしも非ず。でもまあ、先生をガッカリさせても何なので、授業の感想では「自分で考えたので本当にタメになりました」云々。

補記2

理屈を知っていても応用が難しい、ということは多い。学生に実際に何か取り組ませるなら、ケーススタディに類する部分ではないか。例題は先生が解いて、学生には練習問題をやらせる。

AとBの矛盾を止揚するC、当然そこには、何かしらのアイデアがある。定式化はできずとも、もやもやっとしたパターンの輪郭のようなものが、そこには必ずあるといっていい。なので、似たような矛盾A'とB'についてC'を考えさせてみる授業なら、私も賛成。

学生だって、学んだ事例と一字一句同じでないと通用しない考え方なんか知ってても意味がないと分かっている。理論を覚えた上でのケーススタディなら、モチベーションも湧く。「俺に天才のひらめきはない。無理だってこんなの」という諦めが、「理論を覚えた今、凡人でもこの課題は解決できるはず」に変化するから。

平成19年7月2日

英語の方は拾い読み。どうせろくに読めないし……。

b 要素、i 要素、small 要素、sup 要素、sub 要素などの存続を石川さんは理解できないようだけど、私は工学部の卒論を HTML 文書化したので、物理的な装飾を行う要素の存在理由はよく分かります。

当時、学内には古い UNIX が残っていて、搭載ブラウザは Mosaic でした。CSS 以前の時代のブラウザ。製作者スタイルがユーザ環境に反映される保証が全くない。じつは今後も、製作者スタイルに対応しないブラウザは残り続けると W3C も WHATWG も考えていると思う。チープな環境はいつまでも消えてなくならない。

例えば、iPod nano クラスの携帯機器が HTML 文書に対応するとき、製作者スタイルに対応するだろうか。するかもしれないけれど、しない方がよさそうじゃない? でも、HTML の仕様にある要素には対応すべき。

ようするに何がいいたいか。業界の慣習で、ある種の文字は小文字にする、太字にする、斜体にする、ゴチック体にする、と決まっているわけです。それを HTML 文書化する際、ふつうは適切な要素が存在しない。機械工学じゃベクトルは太字にするんだ、じゃあベクトル要素があるか、あるわけがないですね。

ベクトル要素を拡張モジュールで定義しても、span 要素に class 属性で vector と書くのと何ら変わりがない。デフォルトスタイルは拡張された要素なんかに対応するわけがないから、製作者スタイル頼みとなってしまう。

W3C は以前から、現実的なルール作りに腐心してきたという印象があります。この問題でも同じこと。文書は様々な文脈を背負っているわけで、機械工学の文書で、こういう話の流れなら、この太字はベクトルを意味しているんだ、みたいなことは、HTML 文書がまともに作られていればわかるわけですね。

スッキリしないかもしれないけれど、b 要素とかは、あった方がいいのです。なきゃ不便だ。数式を書く人がみんな MathML を使わなきゃいけなかったら、理系の人は日記以外で HTML なんか使う気にならなかったはず。sup 要素と sub 要素と small 要素があったから、HTML を気に入ったんです。

仮説

W3C や WHATWG は、「HTML 文書+ブラウザのデフォルトスタイル」で、素のテキストを HTML 文書化する需要のほぼ全てをカバーできる仕様にしたいのだと思う。

補遺

HTML が「ベクトル要素はデフォルトスタイルを太字にすることを推奨する」なんてのをいちいち拾い上げていくことは現実的でない。仕様の策定者は、自分たちが作っているものの限界を知っていて、だからこそ、b 要素などを後生大事に残しているのではないか。

ブロックレベル要素は改行で区切られると説明しながら、br 要素などという鬼子を用意しているのと同じこと。これを矛盾だと言い募るのは考えが浅い、と私は思うようになりました。多様な価値観を認める仕様でなければ、世間に通用しない。

それでも HTML5 は HTML4 で曖昧になっていた多くの部分について、仕様策定者たちの主張を少し明確にしています。私は HTML4 から動くつもりゼロですが、運用はなるべく HTML5 に適合させていきたい。

……といっても、「面倒くさいから em 要素、storng 要素、address 要素はもう使わない」とか、cite 要素は今後も使わない、みたいな消極的な方向性がメインですが。HTML の仕様書は、大半の要素については「マークアップしなさい」とはいってないと思う。こんな要素を用意していますよ、なのではないか。

仮に略語を(文書中初出なら)必ず abbr 要素でマークアップするのが正当なマークアップなら、私は「不思議マークアッパー」でいい。面倒くさいからもうサイトなんか作らない、という方が悲しむ人は多いと思う。

追記

とは言っていないのは、まあその通りですが、事実上のデフォルトスタイル指示ですよね。

私は物理要素を全て削除すればいいと思っているわけではない。私がHTML 5をいまいちだと感じているのは、HTML 4.01で物理要素として定義されていたものが、論理要素として定義しなおされたり、物理要素として残されたりしている点にある。スタイルシート言語非対応のUAのことまで考えるのなら、i要素とb要素、sup要素とsub要素、small要素とbig要素、hr要素などは物理要素として残しておくべきだった。で、「これらの要素は制作者がスタイルシートを用意しないときにのみ用いるべきである」と書いておけば、HTML 4.01で打ち出された構造と見た目の分離の原則を維持しつつ、分離ができないときの例外規定として物理要素に存在意義を持たせることができた。

そうじゃなくて、製作者がスタイルシートを用意しても、UA の方で対応できない可能性があるわけだから、伝統あるいは慣習でボールド体の表現が適当と判断できるフレーズは b 要素としてマークアップすべきなんですよ。

u 要素や big 要素、font 要素が消えたのは、様々な業界の慣習を精査した結果でしょう。

big と small の非対称は、活字組版の制約が大きい。文字を大きくしちゃったら、同じ行の活字を全部、ベースサイズの大きなものにしなきゃならない。でもベースが大きく文字サイズはふつう、なんて活字は用意できない。だから本文中に不意に大きな文字を登場させるような慣習はない。

逆に小さな文字を使うのは簡単。ベースの高さがふつうの文字と同じで、下寄せの小さな文字部を持つ活字は、用意しやすい。例外に対して、周囲が対応しなきゃならないか、当該部分が対応すれば済むか、ようはその違い。

ともかく、b と i と sup と sub と small が残った。基本的にこれらは全部、spans of text whose typical typographic presentation is *** をマークアップするのに使用せよ、ということで論理要素化されたとみていいのではないか。

ようするに、版権表示要素、法的制限要素、専門語要素、慣用句要素、思考部分要素、船名要素、キーワード要素、製品名要素、指数要素、添字要素なんてものをいちいち定義していられません、と HTML5 ドラフトの筆者はいっている。br 要素と同様、仕様と現実世界の様々な需要の間を埋める緩衝材なのだと思う。

追加されたハイライト要素、時間要素、計量要素、進捗要素は、いずれもスクリプトなどとの連携を念頭に置き、インタラクティブな用途を想定しているっぽいので、ちょっと話が違いますね。ハイライト要素は、例えばページ内検索スクリプトが検索されたフレーズをマークアップするのに使うものでしょう。

で、結局は span 要素がその他の需要を全部拾うことに。ブラウザのデフォルトスタイルでは無視されるその控え目な性質が、b, i, sup, sub, small より些細な需要を担当するという役割と整合しています。

平成19年7月2日

1.

いたちごっこ、というけれど、ある種のいたちごっこは、ちゃんと一方が勝てるゲーム。

なりすましに対して、これはなりすましです、とコメントしていくのは、おそらく不毛の作業。でも、なりすましが成功するためには、なりすまされた人物が当該発言をするような人物だと、当該発言を読んだ人が思わねばならない。

野嵜健秀さんと「義」の事例では、野嵜さんのサイトの愛読者なら、誰だって「これは野嵜さんの書き込みじゃないな」と分かる。というか、攻撃の効果を高めるために、「義」はそうせざるを得ない。適切な場で正論を述べたのでは、何のためのなりすましか。

とすると、「義」が野嵜ファンの目の前に現れず、野嵜さんの野の字も知らないような人ばかりが集まりそうな場所でなりすまし攻撃をするのは合理的だ。

野嵜さんを知らない人が、その後も野嵜さんを知らないままなら、なりすましは失敗だ。偽物と本物とを結びつける経路があるからなりすましになるわけで、その経路を潰せばよい。

2.

「義」が投稿者のサイトとして「言葉言葉言葉」へリンクしているなら話は簡単。一番目立つところに「最近、野嵜健秀の名を騙って掲示板やコメント欄を荒らしている人物がいます。詳細は特設サイトをご覧ください」と書き、典型的な荒らし書き込みなどを集めたページへリンクすればよい。一撃で返り討ち。

でも「義」はそうした手を使っていない。とすると、検索エンジンルートしかない。検索結果のトップ3が「ニセ野嵜に注意」だったら、バカでも状況は分かる。今、ダメなのはここ。

Google 1位の「言葉言葉言葉」にはニセ野嵜に困らされている件がトップページに書かれていない。2位は野嵜さんを掲示板荒らし呼ばわりするサイト。3位にようやく野嵜さんの反論が出てくるけど、野嵜ファンしか読む気になれない構成の文書。「野嵜さんって誰だろう?」と思って検索する素人には読めない。

私の記事「野嵜健秀(野崎健秀)さんについて」が非常に簡潔なのは、素人向けを意識してのもの。でも、目的を果たすには十分な情報量だとも思う。

こういう簡潔な記事がトップ3を占めていれば、なりすましは成立しない。成立しなければ、「義」はモチベーションを失う。一時的には逆噴射も起こりえますが、遠からず心が折れます。今は「義」に反撃している側が空しさを感じていますが、立場が逆転するのです。

3.

なりすましをしようとする人がいること自体は、仕方ないと思います。世の中、いろいろな人がいるので、衝突もある。だから、その先だけを考えよう、というのが私の提案でした。

でも私自身、攻撃されたときには「逃げる」ことを考えました。仕方ない、じゃ割り切れなかった。某サービスのアカウントを削除して、攻撃者の視界から消え去りました。ネット的に自殺したので許してください、とアピールした。(結果的にそれで攻撃は止まった)

そのとき理不尽と戦うことは職場にトラブルを持ち込まれることを意味していました。私が守りたかったものと比較して、リスクが大き過ぎました。

野嵜さんへのなりすまし攻撃、「無視すればいいじゃない」と私も思った。でも野嵜さんは以前、自分のところの掲示板を荒らされるならともかく、無関係のあちこちの掲示板やコメント欄が、野嵜攻撃のために荒らされるのは耐え難いという気持ちを表明されていました。

攻撃的な内容を多く含む文書群を、更新停止のみならず過去ログの削除まで行ったのは、私のアカウント削除と同じような判断によるものかもしれない。今のところ「義」の活動は完全には止まっていないものの、ペースは落ちている様子。

なりすましが失敗すれば「義」の攻撃なんか痛くも痒くもない、というわけにはいかず、「義」の攻撃が止まることを望むなら、「義」の嫌うコンテンツを全て消していくしかないのは、理解できます。

4.

野嵜さんを掲示板荒らしと呼んでいる記事、なぜあれほど検索順位が高いのだろう……。いろいろ調べてみても、良質な外部リンクがろくに発見できません。だったら当サイトの内部リンクを増やすことで、「野嵜健秀(野崎健秀)さんについて」の検索順位を上げられるかな、と。

あまり関連記事を増やしたくないなあと思っていたけど、新たな記事を立てたのは、そうした意図によります。

5.

ここでも話題になっている「野嵜健秀と検索して荒らし対策サイトが上位を占めるのは良いことか否か」について、私の見解を書いておきます。

正字正かなについて知りたい人は、「正字正かな」と検索するはず。「野嵜健秀」と検索する人は、「野嵜健秀」について知りたいに決まっています。おそらく今、野嵜さんを知らない人が「野嵜健秀」と検索するのは、「義」によるなりすまし投稿を見て「何者だろう、こいつは」というケースが一番多いと思う。

Google では「言葉言葉言葉」が1位に出ますが、野嵜さんが掲示板荒らしなのかそうでないのかは、膨大なコンテンツを丹念に読んでいかなければ判断できない。Yahoo 1位と Google 2位は「野嵜健秀は掲示板荒らしである」という情報。これが正当な検索結果だとは、私には思えない。

Wikipedia でも、同名の項目がいくつかある場合には、検索結果として「あなたが調べたいのは、いったいどの***ですか」というページを返します。「野嵜健秀」と名乗る人物が、いま少なくとも2人います。「あなたが詳細を知りたいのはどちらの野嵜健秀ですか」というページがトップにくるのは、いいことです。

6.

野嵜さんはあちこちのブログのコメント欄に顔を出していらっしゃるので、「コメント欄で野嵜健秀を名乗っているのは全て偽者」といえないのが、つらいところ。世の中には、コメント欄で批判的なことを書いたり反論したりするだけで「荒らし」とみなす人もいるわけですからね。

つまり野嵜さんのいう「野嵜は荒らし行為をしません」というのが、通用しないかもしれないな、と。メールアドレスやメールフォームを公開している人にはメールで意見する、そうでなければ反論するのは我慢する、「闇黒日記」をやめてしまった以上、そうしないと、ただでさえ不利な戦いがもっと不利になる。

野嵜さんの知人の木村貴さんによると、ここのコメント欄に山ほどの投稿をしているのは、野嵜さんご本人なのだという。void さんと同じで、いっていることの正誤と関係なく、よそのコメント欄で(迷惑がられているのに)こうもしつこく投稿を続けるのは、ある種の「荒らし」なんじゃないか。私なら投稿を禁止します。

少なくとも、こうした行為について「粘着」と呼ぶことを私は躊躇しない。ここで野嵜さんの「粘着」とは定義が違ってしまうのだけれど、果たしてどちらがより一般的な定義だろうか。

アレクセイさんが野嵜さんを掲示板荒らしと呼ぶようになった件、私も過去ログをけっこう読みました。どちらのいうことに分があるか。私は野嵜さんかな、と思った。しかし野嵜さんのしつこさは尋常ではなく、これでは主張以前の問題じゃないか、とも。これでは嫌がられるに決まってる、と。

私は野嵜さんを「掲示板・コメント欄荒らしではない」と擁護しようとしているのだけれど、野嵜さんが平気であちこちのコメント欄に突撃しているようでは、お手上げですよ。一般人定義では粘着でも、野嵜定義では粘着ではない……そんな難しい話、世間に通用させるのは並大抵のことではない。

勝敗は二の次、三の次だというなら、野嵜ファンの活動なんか空しいね。大将が自ら足下を崩しているんだもの。コメント欄に突撃する元気があるなら闇黒日記を復活したらいいじゃないか。それがファンの願いであるわけで、勘弁してほしいよホント。見返りを期待しているわけじゃないが、これは背信行為だと思う。

せめて過去ログだけは残してほしかったって、何人もの人が書いてたでしょ。いくら書いても、間違いをスルーする連中ばかりだった、これ以上書いても空しい。それはわかる。でもそれなら、過去ログまでわざわざ消すことはない。それは読者に罰を与えるがごとき行為だ。でも、そこまでやった。怒りの深さを知った。

そして、こんなところで闇黒日記最新版の大盤振る舞いだ。悔しい、野嵜さんにとってファンはアンチ以下か。

闇黒日記の過去ログ消去、心ならずも「義」に屈するということなら、理解できると先に書きました。ところがその一方で、納得できない記事を書いたブログのコメント欄に粘着してる。これで「義」が止まるのか。野嵜さんが沈黙しても、2年や3年くらいは「義」の活動は続くでしょう。それくらい我慢できないのか。

半年も経たずに今度はコメント欄に顔を出して粘着する、これではますます「義」に動機を与えているようなもの。そしてますますなりすましを容易にしている。「野嵜は掲示板にもコメント欄にも絶対に書き込まない」これが徹底できていれば、なりすまし対策なんか、そう難しくないんだ。それくらいわかるはずだ。

当然、野嵜さんは、わかっててやっている。だからやりきれない。そりゃ、なりすましはするヤツが悪い。だけど、これはないよ。「義」を刺激する元気があるなら、闇黒日記の過去ログも復活させてほしい。

あと、野嵜さんみたいに粘着するのが「スルーするな、反論せよ」の実践なら、私はそれがいいことだとは思わない。特定の個人を説得しようとする試みがうまくいかないことは、歴史が証明してる。喜六郎さんのコメント欄にたくさん書いて、一人でも自分の意見に同意する人が増えました? 増えていないと思う。

対話というスタイルで記事を書いても、本義はギャラリーの支持を増やすことに置く。特定個人の説得ができずとも、適当なところで引き下がる。そうでなくては、本来なら味方になってくれる人だって逃げていく。

私は野嵜さんが闇黒日記を書いているのを読んでファンになった。あちこちのコメント欄に出没して、納得できない意見に反論して回るのがメインの人だったら、ファンにはなっていない。ファンの大半は、そういう人のはずです。違いますかね。

まあ、ファン程度の理解では満足できないのでしょうが、だからといって今のやり方のどこがいいのだろう。あまりの不毛さに、闇黒日記よりもっと空しくはならないか。

7.

「騙り」による「荒らし行為」は迷惑だ、なんてのは説明するまでもない。「そりゃそうだね」と誰だっていう。目的は既に果たされてます。

「義」はコミュニティと無縁の場所にだって現れるのだから、いくら過去の荒らしの現場を保存したところで、「義」を知らない被害者はいつまで経っても新たに出てくる。荒らしの現場を保全して「義」の存在を世に知らしめるなんてメリットは、目障りな投稿を掲示板に残すデメリットに見合わないと思う。

私が掲示板の管理人なら、削除を選びます。

あと、「義」の投稿にいちいち「これは騙りです」とコメントするなんて、一番の被害者の野嵜さん自身、面倒くさくて続けられなかったことでしょう。そんなのを他人に期待する方がおかしい。基本的に、「義」の騙り書き込みは、何のフォローもなく放置されると考えてよい。

野嵜さんはあまり興味がないようだけど、現実にせめてもの効果のある対策というのは、前段のような状況認識の上で考えないと。SEO で勝つというのは、飽きっぽい野嵜ファンでも役に立てる方法。迂遠だけど「義」のなりすましを無効化し、やる気を殺いでいける。

ま、こういう発想に与しないのが野嵜さんで、引用した話の風呂敷の広げ方とかワクワクしちゃうのだけれど、これと過去ログの全削除という逃げの一手がどう整合するのか、どうも釈然としない。

8.

期待しないようにっていわれても、やっぱり嬉しい!

平成19年7月1日

その数値を含むなら「以下」「以上」という。含まないなら「未満」「超(ちょう)」という。

「以下」「以上」「未満」と比較して「超」はマイナー。小学校の算数の教科書にも出てこないと思う。ふつうは「〜を超(こ)える」などという表現を学ぶ。どうして「超」と教えないのか、疑問だ。

追記

「上」「下」は小1、「未」「満」は小4で学ぶが、「超」は中学で学ぶ漢字なので、小学校では「超」を扱うことが難しいらしい。だったら中学で「超」を教えてもいいと思う。とうとう高校でも教わらないまま卒業し、就職したらいきなり先輩が「〜超」を当たり前のように使っている状況、これでいいのか。