薮蛇ってやつ。質問した方の負け(笑……当人は笑いごとじゃなかったろうと思いますけど)
忍者ツールズのアクセス解析より私の好みに合っているのですが、あまり利用されている方を見かけませんね。いや、印象だけでいってるわけですけど。
カートリッジで利益を出して本体価格を下げるビジネスモデルを悪魔的
と批判されているわけですが……年に1回くらいしかカートリッジを交換しない私の場合、現在のビジネスモデルが圧倒的に有利。年賀状のためだけにプリンターを所有している人って、それほど少なくもないのではないか。
日本語フォントは、作成者が用意しなきゃならない字形がやたら多いのがたいへんなところ。「みかちゃん」の成功は、フリーの手書きフォントで JIS 第2水準まで対応するのが早かったことも一因だと思う。あと個人的には脱力系の代表はダサ字だと認識してます。
けっこう多くの前提知識を要する文章。科学に疎い人には伝わらないだろう。無論、日記だからこれでいい。私には面白かった。
このブックレビューが興味深かったので書店へ行ってみましたが、その分厚さに意気消沈。私の場合、200ページの本3冊なら難なく読めるけど、600ページ超の大著は、よほどのことがなければ読破不可能なんです。なお分冊は無意味。「3部作」みたいなのはOK。そんなわけで、大河歴史小説も(基本的に)読めない。
人々の反応や思考を特徴づけるパターン
の一覧が面白い。大切なのは、自分もこのパターン通りに行動しているな、と自覚することではないか。(←自分の偏見や経験を、いろんなことに当てはめる
)
粗い感想だけど、自由競争の環境整備が進むことで解決される問題が大半かと思われた。
紙面に書ききれなかったことというイザ!記者ブログの記事。正統派のブログ利用法で、たいへん好ましいと思う。
日本にはまだiTunes Storeに相当する存在がない
……私はオンラインDVDレンタルで満足してます。ネット接続環境は相変わらず AirH" 一本ですし。
この手の「天に唾して恥じない本」は世にあふれていまして、私が最近読んだ「低度情報化社会」もそのひとつ。こういう本を読むときは、違和感を封印して、著者の世界観を素直に読み取るべき。あまりに深くて広い断絶があるとき、反論なんか試みるだけ無駄。こちらが相手を理解して、トラブルを回避するのが吉。
瑣末なことほど議論が紛糾する現象
を自転車置き場の議論というのだそうな。言い得て妙。
私好みの記事。
……以上で休止期間中に溜め込んだネタの整理を終了。時間が経って備忘録として残す必要を感じなくなった話題が多く、250件ほどあったブックマークも、これでほぼきれいさっぱり。
高木さんが凡百の論者と一線を画しているのが、「ネットで私的領域を確保するためにはアクセス・コントロールではだめだ」「「繋がりの社会性」を欲望しているユーザーにとっては、アクセス・コントロールは実はなんの意味もない」という議論
をていねいに紹介している点。リンクの自由を謳う人々は、早合点せずにきちんと読み込んでほしい。
ミクシィで”w”の使用が禁止されるという悪夢(id:lovecall さん)の必要なのは規則ではなく相手に対する配慮です
という主張に共感しつつ、無断リンク禁止の主張を排撃する人は珍しくない。どうかしていると思う。
このブログはすごいですね。アフィリエイト目的の無断転載系サイトなのだとしても、間違いなく便利。雑誌の記事って、後から検索するのが非常に面倒くさいので。
嶋中雄二さんの著書がランキングの2位になっていたことには驚愕。こういうタイミングでくるか、と。そういえば前年も2位は***でしたね……。といいつつ、Amazon で好意的なレビューを書いてみました。本来なら、2年前に現状を言い当てたことを評価すべきところだと思います。
ちなみに1位は中原伸之さんの「日銀はだれのものか」で、今年もリフレ派が満足できる本がトップに来たのが東洋経済のバランス感覚(投票を依頼する相手の人選で結果は概ね予測できるはず)。
この手の調査はサンプルの偏りが常に問題になるんですよね……。この調査結果は私の職場の感覚とは合致するけれど、中島聡さんの記事「若者のテレビ離れ」と「釈迦にキリスト教」とに同意しているような人々には違和感があるだろうな。ま、参考程度ということで。
ついでに書くと、中島さんが CNET で書いた「若者のテレビ離れ」に関する一考察に10代〜20代という層を見る限り、テレビを見る時間は毎年減少している。平日で2時間強、土日で2時間半強である
とあるのだけれど、実際に国民生活時間調査報告書[PDF]のデータ(P8)を見ると「アレ?」と思うはず。私は Wikipedia の記述に賛成。
こちらもサンプルの偏りは「あるもの」と考えて、話半分に読めば、たいへん面白いかと。とくに後編の、「やらせ」に対する忌避感がそれほど圧倒的な多数派の支持を得ていない事実は興味深い。あなたの考える「常識」がどの程度の支持しか得られていないか、といったあたりを重点的に読むのがお勧め。→NHKに取り上げられた女子大生のブログ炎上(J-CAST 2006-11-07)
こちらはサンプル抽出に意を払った調査。そのためかどうか、格差糾弾で過熱する報道とは裏腹に、落ち着いている日本人の姿が浮かび上がっている。
私はときどき読者から「そんな風に他人にぶつかってばかりでは生きにくいでしょう」と心配されることがある。日常生活では(比較的)温厚な人柄と目されることが多いわけですが、その秘訣は、物事をよい方に解釈して違和感をスルーする技術にあります。筆や口の滑りを「超読」すれば、たいてい丸く収まる。
え? だったらどうしてウェブでもそれを実践しないのか、って? うーん、実践したら、「面倒の壁」を超えられなくなって、更新が止まるのではないかと。別にいいよ、って答えが返ってきそうですが。→怒りをぶつける(2003-01-30)
素光さんと id:b_say_so さん双方のコメント欄を読むに、どちらも誤解を招きやすい文章で思わぬフレームを呼び込んでしまったことに困惑されている様子。これから読みに行く方は、落ち着いてコメント欄まで読み、じっくり著者の真意を読み解くことを心がけていただきたく。……他人事になると大人ぶるのが私の悪癖。
ま、個人としてこうした問題に対処する方策は、産休を「おめでとう! ゆっくり休んでね!」と快く送り出してくれるような人が集まってる会社を選ぶことですね。またそれか、と思われるでしょうが、「俺が社風を変えてやるぜ!」なんて、凡人には無理なわけでして。
職場は人で選んでください。大学で学んだことを活かすとか、そんなの瑣末なことです。こだわるべきポイントはそこじゃないと思う。
イジメを一人で抱え込む人に似てる。
ホームレスになるくらいなら、ずうずうしいとか思わずに他人様に頼るべき。既に watto さんが食と住を提供すると申し出ているので私はでしゃばらないけれども、行き先がないならルームシェアしてもいいと思う。コメント欄に顔を出してる Baatarism さんやすなふきんさんも、頼めばそれくらいしてくれるのでは。
……と書いてみたけど、ご家族と同居されているなら難しいかも。なんで家族って、そういう義侠心を理解してくれないのでしょうか。
70年代、左翼過激派の爆弾に親友の命を奪われ、勤務先の倒産から生活基盤が崩壊、オイルショックで商店から品物が消え死都と化した東京を彷徨った父は、同じく底辺の生活にあえぐ多くの人々の善意を受けて生き延びた。そんな父のよき理解者である母でさえ、結論はNOだった。父の受けた恩は、私が返すことになろう。
親の金をいじめっ子に数十万円奪われて自殺する子どもがいるけれど、親はそんなはした金より子の命の方が大切だったはずだ。子どもの世話にはならぬといって餓死する老人がいたりするのだけれども、「自分を頼ってくれなかった親の心」に子は悲しみを覚えるに違いない。
相手が「どこかの誰かさん」ではお金を出せないという人が多く福祉制度はケチですが、まだまだ世の中捨てたものじゃないと思いますよ。プライドに殉じて人を泣かしてはいけません(価値観の押し付け)。
ひどい弟(中学生)がいて、姉(高校生)が数年前に書いていた詩のノートを2ちゃんねる(VIP板)へ勝手に公開したところ、大人気を博したのだという。
正直、ピンとこなかった。高校時代に文藝部に所属した私にとって、新鮮味はなかった。当時とある先生が付属中学(共学)で文藝同好会の会員を募ったら、たった3クラスから6人くらいが応募した。自分の作品を公開してもいいよ、という条件でこの人数なのだ。そして彼女らの作品が、ちょうどこんな感じだった。
……というわけで困惑気味だったのだが、VIPPERの反応も一緒に収録したまとめを見て印象が一変した。ノイズが加わっただけなのに、これが素晴らしく楽しいのだ。→なぜにまとめると面白くないのか(id:KotoriKoToriko さん)
ところで、こうした話題になるとお決まりのように出てくるのが「儀礼的無関心」の話題。ただし今回は、問題のテキストを公開しているのが当人ではない点がイレギュラー。
ようは「人気サイトにリンクされ、話題が2chの外まで広がると、当人にプライバシー侵害の事実が伝わり、ショックを与えかねない」ということらしい。他人のやることは「可能性」で批判、自分たちのしたことは「今のところ当人がショックを受けた事実はない」で許容。
そりゃヘンだろう、と批判することはできるが、だからといってリンクしまくり大賛成が正しいとは考えない。各自、心中に一定の歯止めは持っているべきだ。今回、私は熟慮の上でリンクした。
私の判断の根拠? 難しいところだが、週刊わたしのお父さんみたいな家族ネタ、当人の許可は取ってないと思う(→取っているとのこと)。香山リカさんの弟がしてる暴露話も同様だろう。
今回の件は、こうした事例の「一歩先」だが、思い出話ならOK、ノートの内容を書き写すのはNGと単純にいえるか。内容次第ではないか。
追記:ご指摘の通り、山田かまちは死後に詩集が(遺族により勝手に)出版されて有名になった事例。その他、著名人の日記や手紙は(当人が死んでしまうと)当たり前のようにガンガン公開されるが、何だかなあとは思っている。
衝撃のエピローグが待っていた。12月20日発売とのこと。2ヶ月弱でスピード出版の奇跡。(2006-12-05 追記)
イジメは初期段階で芽を摘むべきだ。そのためには、子どもたちの人間関係を把握する必要がある。しかし従来、それは高い能力を持つ教師にしかできないことだった。
休み時間に誰と誰が仲良く遊んでいるか、誰が一人ぼっちになっているか、意外な組み合わせのグループはないか、そういった情報を収集するためには、丹念な観察と時間が必要とされる。校務を手際よくこなせない教師には無理。トモダチ教師の当て推量とは話が違うのである。
とはいえ現実には、能力の高い教師ばかりではない。人の目と耳で観察しきれない部分を、科学の力で補うこと自体に、問題があるとは思わない。生理的嫌悪感を持つ人がいることは理解するし無視できないが、業界の専門知もリサーチしていただければ幸い。
もし嫌悪感だけで新しい道具を門前払いするとしたら、それは不幸なことだと思う。
しかしなんか少なくねえ?
と疑問の声が。
一般庶民を相手にする気があるなら、いくらでも論争の種はあるわけです。やはりふつうの大人は、相手を選ぶ。田中さんも旧ブログのコメント欄で徳保みたいな偏屈は相手にしない方がいいですよ、という助言を受けて、それ以来よくアドバイスに従っていらっしゃるご様子。
本田由紀さんやマッツァリーノさん、中村正三郎さんらが論客を呼び寄せたのは、いずれもリフレ派と限定して悪ければ経済学に通じた者から見て明白に誤った主張でした。しかしそれらはいずれも奇異な主張ではなく、ありふれた「誤解」だったと私は認識しています。
田中さんから見て中村さんの件は議論以前
だそうですが、本田さんやマッツァリーノさんの事例だって、一方が他方の誤解を解こうとした話、単に事実認識を争っていただけ、と見るなら、やっぱり「議論以前」だったといえるでしょう。
もちろん私は、そうは思っていません。中村さんの世界観・価値観が経済学を拒否し、半ば粗捜し的に教科書の一部記述への(誤解に基づく)非難が行われたのだ、と考えるからです。中村さんの使った道具が欠陥品だったことをもって「議論以前」と決め付けるのは早計でしょう。その背後にあるものを見るべきです。
多くの議論は、一方から見て明らかに誤っていると思われる主張をスルーできない人の存在が基点となって発生します。ブログで経済論戦が生じにくいのは「さすがは経済学徒、議論の費用と利益の判断がシビアだから」これで概ね説明できるかと。
本田さん、マッツァリーノさん、中村さん……議論する価値のある相手として選ばれた人々を見るに、その基準の高さは明らか。そしてこのレベルの方々は「言論でお金を取れる」から、一部の例外を除いて金にならないブログには出張ってこない。ブログツールは使っても、一方通行の情報発信が基本。
以上が「経済学者の論戦が停滞する理由」ですが、その一方で一般人の間で経済論戦が停滞しているのは何故でしょうか。
これも同じような話だと思います。まず意見の異なるグループ間に交流がない。だから議論の敷居が高くなっている。その背景には、グループのサイズ差が大きく、まともにぶつかり合っても議論にならない。多数派は少数派の主張を論外として門前払いする。交流の遮断は、少数派の防衛手段です。
専門家の間では議論が行われていたけれど、国民的論議は全く深まらない中、経済財政諮問会議では竹中・中川VS谷垣・与謝野の論争が起きました。そして(国民の理解と関係なく)前者を支持する安倍総理を選出。政治家というのは偉いですね。選挙に落ちればただの人、という立場なのに。
結果がついてくれば支持は必ず得られる……その自信はどこからくるのか。政治家は国民から全然信頼されていないけれど、政治家は国民を信頼している。ときには愚痴もこぼすのはご愛嬌。市場を信頼してスゴい商品を送り出す実業家たち、愚直に自説を世に問う学者さん、みんな偉い。
日本がどれだけ経済成長を遂げても所得格差を是正しても、日本国民すべてを日本の社会の中で、一般的な意味における「中流の上」にすることはできない。「中流の上」というのは、日常的な言語感覚からすれば、国民の間に生活水準の差があることを前提として、その真ん中からちょっと上くらいの生活水準を指す相対的な指標だからだ。「クラス全員を100点に」は可能だが「クラス全員がクラス平均を超えるように」は不可能なのと同じ。
(中略)
文句をいいっぱなしでもどうかと思ったので、自分でも考えてみることにした。日本人すべてが「中流の上」になる方法について、だ。
いくつもありうるだろうが、とりあえず3分半ほど考えたら、10ぐらい思いついた。思いついた順に。
- 「中流の上」の前にこっそりカッコ書きで「世界の中で」と付け加える。
- 「すべての」ということばを「一部の」という意味に変える。
- 日本人の全階層を「中流の上」と名づける。
- 実態にかかわらずすべての日本人に自らの生活水準が「中流の上」であるという幻想を植え付ける。
- すべての日本人が海外に移住し、そこでがんばってそれぞれの国で「中流の上」になる。
- 日本の国土の上に「日本2.0」とでも名づけた別の国を作り、「中流の上」以外の日本人にはそちらの国民になってもらう。
- 外国人労働者を大量に受け入れ、中流の上以外の階層をすべて外国人が担うようにする。
- 日本人はすべて川の中流の上に家を建てて住む。
- 「中流の上クラブ」という会員組織を作って全日本人をその会員にする。
- 「中流の上」かどうかを判断する領域を、所得や生活水準だけでなく「内心の満足度」「余暇時間の多さ」など多様化する。すべての人がいずれかの領域で「中流の上」となるまで、領域数を増やしていく。
中川秀直さんの主張は『80年代前半並の年率3%の実質経済成長(名目4%)によって、すべての日本人に(2006年現在における)「中流の上」の生活水準を実現する』というものと私は理解しています。物差しを2006年の状態で固定するのがミソ。
自分の生活は(2006年の基準で考えれば)中の上である、とみなが判断し、それで満足できるとすれば、その時点において中の上かどうかを問うて「幻想」と批判するのは難癖に近いと思います。無論、豊かな未来において2006年基準の「中の上」で人々が満足する保証はありませんが……。
以上の留保をつけた上で、「6 実態にかかわらずすべての日本人に自らの生活水準が「中流の上」であるという幻想を植え付ける。」が中川構想に最も近い、と私は思います。
中川構想は18年間で日本のGDPを1000兆円にしようというもの。18年という数字には根拠があるのだけれども、私は少し違うことを考えた。18年後、中川さんは80歳。自分の寿命はそれくらい、と考えているのではないか。
ところで中川さんの本は、支持者向けの内容なので、そういうものだと思って読むことができない人には勧めません。「はじめに」だけなら万人にお勧めしたい内容なのですが。
飲酒運転追放キャンペーンの次はこれか! 予想外だ。
このところ庶民の生活にも影響のある不正追放キャンペーンが続いているが、たいへん結構なことだ。政治家やら官僚やら、縁遠い人々ばかり攻撃しているのはおかしい、まず自分たちの生活から改めるべきだ、と私は思ってきた。どうして他人にばかり、息の詰まるような倫理的生活を押し付けられるのか、と。
「美しい国」を掲げた安倍晋三さんの内閣が、今のところ高支持率を保っている。今回の件は安倍政権のプログラムではなく、たまたまこの時期に話題になったということに過ぎないが、現代の日本は、こうした問題提起が大衆の耳目を集める状態にあるわけだ。さて、日本人はどこまでクリーンな生き方ができるのかな?
ま、相変わらず自分以外の誰かさんに責任転嫁する連中ばっかりなんだ。「前から疑問だった」なら、なぜ声を上げなかった? 自分にとっても都合がいいから見て見ぬ振りしてた、不正を放置してきたんだ。何百万人も高校生がいて、一人の告発者も出なかった。ルールなんか曖昧運用でいいと考えてきたんだ。
じつのところ私は、それがイケナイとは思わない。ただ不愉快でならないのは、そんな彼らの多くが、身近でない誰かさんの話題となると、途端に高潔な主張を振りかざすことである。彼らには重い責任がある? そうかい、自分は高校生として必ず学ぶべき教科すら知らなかったくせに! 知ってて、ズルしたまま卒業しようと思ってたヤツはなお悪い!
自分のこととなると、先生が悪いだの、他に誰も疑問を感じていなかっただの、そういうことをいう。正直である。そして醜い。ともかくも、教職員は社会と生徒にお詫びをした。みんな、ただ流されていただけなんだ。でも、謝る。これが日本社会の倫理観を支える最後の砦だと思う。
「美しい国」は、生きづらい。他人を責めるばかりですむと思っていた人々には、この先も様々な「誤算」が待ち受けている。それでも人々が「美しい国」を目指すとき、私も認識を改めることになろう。
……うは、ちょうエラそうな文体だ。今日は珍しく、書き終わる前に我に返った。新興宗教の教祖サマが説法しているときの感覚が、こんな感じなのだろうか。
そういえば今朝の新聞にパナウェーブ研究所の代表だった千乃裕子さん(本名:増山英美さん)が昨日亡くなったという記事が新聞に載っていた。あの大騒ぎ(2003年5月8〜14日の備忘録を参照のこと)から、もう3年半が経ったんですね。
partygirl さんが誰がどういう目的で、誰に読ませたいのかが気になる
とコメントされていて、さすがだなあと思った。すかさず id:shidho さんがこれは「裏モノJAPAN」の連載マンガだな。かなり古いやつだ。
と情報提供。締めは id:I11 さんで、「裏モノ」の方法は実際には成功しないことが多いのでマネしない方が良い。近年は基準局への締め付けが厳しくなっているので、基準局はちゃんと不採用理由を現場検証し不正受給者をカットしてる。信じじゃだめ。
とのこと。
勉強になった。……と、素直にはてブのコメントを信じる私。
「裏モノJAPAN」は私には縁遠い雑誌だと思っていたのだけれども、先日読んだばかり、北尾トロさんの「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」が「裏モノJAPAN」に連載された記事を集成した本だった。楽しい裁判傍聴記で、山田大佐のエッセイを思い出したなあ。
おもしろいなあ、と思った本に収録された文章が最初に掲載された雑誌の名前を見ていくと、ときどき意外な名前が出てくる。雑誌は侮れない、と思う。
会社の飲み会が嫌いなのは、とにかく強制しまくる事、これに尽きる。まずは一杯、空になったら次を飲め、え、何?烏龍茶?ふざけてんのか? ○○が日本酒飲む所見たい人ー!? こんなノリで酒を飲まされる訳だから、不愉快極まりない。だから、会社の飲み会では基本的に乾杯のビール一杯だけで、後は烏龍茶を飲んでいる。それでも無理矢理飲ませたがる人がいるが、その時にはこちらは不愉快全開で早く帰りたいな、凄くこの場は詰まらないな、という顔をして飲んでいるのだが、まるで取り合わない。凄いね、こういう無神経さは。
就職活動で大切なのは、嫌な人の少ない会社に入ることだ、と思っていた。それで、会社の将来性とかそういうことはまあ、大企業ということでエイヤで信じることにして、「いい人」の多い会社を選んだのが私。
昨日、秋闘の回答があった。これが労組の要求とかけ離れたものだったので、本日、1時間のストを決行。いまどきストなんかやっている会社は少ないだろうけれど、私の勤務先は古きよき時代の生きた化石だから、毎年のようにやっている。
荷物を運ぶ平社員に社長が一歩身を引いて通路をあける、そういう会社。
まあ、そんなの、大半の学生には何の魅力も感じられないのだろうね。だからどこの会社の説明会や見学会でも、仕事のやりがいとか、そんな話ばっかり。あるいは給与体系と福祉制度とかね。それはそれで重要なのだろうけれど、出勤が「嫌にならない」かどうかって、そういうことじゃないと思うな。
マイナス志向? そうですね。でも仕事にやりがいがあって給与がよくて福祉制度が充実していたら、それは確かに出勤が「楽しい」かもしれないけれど、それだけでは続かないんじゃないですかね、私みたいに弱い人間は。優しい人の多い会社がいいですよ、やっぱり。
自分も強者になれるというプラス志向、そんなにいいものなんでしょうか。弱者である自分の利益を最大化する、という考え方を、どうして憎むほどに嫌う人が多いのか、私にはよくわからない。年功序列、横並びの給与、結構じゃないですか。あなたもそれで得するでしょう? →id:scinfaxi:20061101
……なんてことを、秋闘の時期になると毎年、考えます。
ときどき思い出したように話題になる採用と就職の話題、最近の人気記事はこちら。コメントは省略。
私はお酒を飲めない。嘘である。いや、嘘ではないけれど、ちょっとだけ嘘だ。飲めないことはない。けど、飲みたくない。ので、公称としては飲めないことにしている*1。最近は、「飲みたくない人」であることが認知されてきたので楽になってきた。
しかし、お酒の席に未だもって存在している理論は「お酒を飲めるならば飲むのが当たり前」という理論で、いきなりソフトドリンクを頼んだりすると、「飲めないの?」と言われる。「はい、飲めません(弱いんです/車なんです)*2」と答えればとりあえずおさまるので良しとして(ホントはおさまってないのかもしれないけれど、私は相手の心を考えてあげるほど優しくない)、でも、さすがに「飲みません」とは言えないのだった。もっというと「飲みたくないんです」とは言えないのだった。なぜだ!
それは簡単。相手が嫌がることが高い確率で予想されるから。そして「お酒は飲めるけど、とくに理由はないが飲みたくない」という説明を(全否定はしないまでも)歓迎しない人が、その「場」において多数派だと知っているから。
おかしいのは、同じ嗜好品である煙草については、誰も「煙草、吸えないの?」なんて言わないことだ。一部の社会では「吸えないの?」という人もいるかもしれないけれど、少なくとも一般的ではない。なのになぜお酒だけは「飲めるなら飲むべきだ」という理論が成り立つのか。空気か。空気問題なのか。
これも簡単。煙草を吸えるけど吸わない人がいるとして、それを嫌がる人が少ないから。あるいは、もし相手が自分の答えに傷ついたとしても、周囲の人は自分に味方して傷ついた相手に同情しないとわかっているから。「煙草は(吸えなくはないけど)嫌い」という自由を積極的に肯定する人が多いということ。
私の意図としては「周りのせいだ!」と思っているわけではなくて、むしろ、「この「飲みません」と言えない私の心はどうやって構築されてしまったのだろう」とかいうところにあるようだと思いました。
なるべく他人に嫌われたくはないのだけれど、誰からも嫌われないなんてのは無理だと知っていて、だから「場」を支配する多数派を見極めて行動しているのではないですかね。日常生活の中で、ありふれた行動。私の場合は、そう。
ようは「場」を構成するメンバーの傾向の問題なのであって、これと決まった答えはないから注意しなければならない。うちの職場の飲み会では、「お酒、好きじゃないんで」が通用します。逆に今でも「煙草、嫌いなんで」が排斥される「場」はありますよ。
あと、あえて「少数派の抵抗」をするのは自由。無論、コストは高い。自分にとって、それだけの価値があるのか、ということでしょう。みんなが納得してくれる言い訳があるなら、それを使わない理由が、むしろない。言い訳にだって、もちろんコストがかかっているわけですが。
おかしいのは、同じ嗜好品である煙草については、誰も「煙草、吸えないの?」なんて言わないことだ。一部の社会では「吸えないの?」という人もいるかもしれないけれど、少なくとも一般的ではない。なのになぜお酒だけは「飲めるなら飲むべきだ」という理論が成り立つのか。空気か。空気問題なのか。
別におかしくはない。酒も煙草も嗜好品だからといって、酒文化と煙草文化が同じ様相でなければならないとする考え方には根拠がない。もちろん、同様であるべきだ、という考え方はあっていいし、そういう主張をするのは自由。
現代日本社会の大雑把な傾向として、お酒と煙草でなぜこのような違いがあるのか、という問いに答えるのは難しい。思いつきの答えは実証的研究によって否定される予感。誰もまともに研究しないだろうから、みんないいたい放題で済むのだろうけれど。
……それはそれとして、何だかなあ、この記事を書くのに、私は全然アタマを使ってないんですよね。徳保的思考法にこの問題を当てはめてみたら、自動で答えが出てきました、みたいな。まあ、それくらいシンプルにこなれていないと、会話のスピードで応答なんてできない。
でも、文章でこの感覚は、ちょっと、引っかかりますね。計算が速すぎる、拍子抜けを包み込む不安。自分がパソコン、いや、ただのプリンターになったような、気分。だって、考えた実感がなさ過ぎる。
ものぐさで食事にあまり関心がない私は、実家にいた頃、母が病気で倒れない限りは料理をしなかった。たまに外出か何かで母の帰宅が遅くなっても、平気で夕飯を抜いた。自分で夕飯を作るくらいなら、食事をしない方を選ぶのが私だった。
中学・高校の家庭科はいつも90点台をキープしていたので、自分ではさして不安も感じていなかったけれども、両親は私の一人暮らしが心配で仕方なかったようだ。その気持ちはよくわかったから、地元の大学を卒業して就職する際、私は食事の出る社員寮を持っている会社を選んだ。
しかし社員寮で食事が出るのは、会社が休みじゃない日の朝と夕方だけ。調理場は保健所の指導もあって、管理人以外は使用禁止。かといって個室に調理のインフラがない。したがって休日は、外食するしかない。私はしばしば、週末絶食を敢行した。外に出るなんて面倒くさくって。
でも3連休はきつかった。3日目の午後には貧血で立ちくらみ。食堂の共用冷蔵庫まで壁伝いによろよろと20メートル。飲み物を口に含んだら生き返った。調子に乗って風呂に入ったらまたダウン。入浴はエネルギーを要するなんて常識じゃないか。アホかと思った。いや、どうみてもアホだけど。
別にお金がなかったわけじゃなくて、貯金はどんどん増えた。年収の3分の1が余る状態。寮にいられるのは4年間だけ。その先、本当に大丈夫か? と、ようやく危機感を覚えた。しかし寮を出る直前まで、休日の絶食癖は続くことになる。(部屋にパンやお菓子を備蓄する程度の知恵はついたが)
で、finalvent さんの「料理のコツ」だけれども、これは自炊生活の枠組みを構築するためのアドバイス。寮を出てみたら、当初の自信の通り、毎日きちんと自炊している私がいるわけだけれども、実質2ヶ月の試行錯誤、その後5ヶ月の微調整の結果と finalvent さんのアドバイスには類似点があり、興味深かった。
とはいえ私は父譲りの鈍い舌の持ち主で、うまいもまずいもさして気にせず、料理の研究(?)にも関心がない点が大いに違うわけだけれども。あと私は万事、手際が悪い。時間はあるからのんびりやる。
カレーやシチューを作るときにはまず材料を炒めなさいとルーの箱に書かれていたから、最初は素直にやっていた。でも試しにいきなり煮てみたところ、自分には味の差がわからないことが判明。だったら手抜きしましょうよ、ということで、今は炒めてない。例えば、そんな感じ。
そういえば、職場の飲み会(2〜3ヶ月に1回)以外に全然、外食がない。コンビニで買った惣菜パンなどを齧るだけの無調理食も、とくに多忙で朝がつらかった時期の他は無し。7ヶ月で20食未満なら悪くないと思う。体調の悪かった時期にも食事だけはとっていたし。
社員寮時代の休日絶食は、ものぐさではなく、休日に人に会うつらさが空腹に勝った……のかも。
一人暮らしには他人の目がないから、一番苦手なことからルーズになっていく。私の場合は、引きこもり体質がモロに出てきたわけだ。外食なし、裏を返せば休日に自宅から半径2kmより遠くへ一度も出かけていないということ。ともかく今年も、やたらお金は余ってる。
食材の買い方について、現状をメモ。
何度も買い物に行くのは面倒くさいので、原則週1回とする。生活雑貨もこのときに買う。以前は帰宅後、自転車に乗り換えていたけれども、運動不足と買い過ぎ傾向を打破するため、会社→買い物→自宅というコースに変えた。駅から先、ひたすら歩く。
その結果、ペットボトル飲料は絶対に買わなくなった。重いからだ。1〜3日に1回ずつ、お茶を沸かしている。米は2kgずつ、しかも米びつが空になり、掃除まで済ませてから買うようになった。米も重い。肉も消費量が減った。重いからだ。野菜は体積の割に軽い感じがするので、買い続けてる。
生活雑貨は軽いくせにかさばる。手は2本しかないので、入用の物が多いときは食材を絞り込む。だいたいそういう週に、冷凍したものや、乾物の類を消費していくことになる。
スーパーや八百屋や100円ショップ(乾麺などが近隣で一番安く買える)が家と駅の間にあればいいけれど、実際にはいずれも家を通り越した先にある。家が駅に近すぎて、間にあるのはコンビニだけ。私はケチなので、いくら財布にお金があってもコンビニで高価な食材を買うことはない。
となると、買い物は面倒くさい、ということになる。なので、冷蔵庫が空になるまで買い物に行かない。冷蔵庫が空になったら、掃除をする。賞味期限切れの食材を溜め込んだりすることは、これで避けられる。(注:調味料を毎週使い切るのは、さすがに不可能)
だいたい和食にせよ洋食にせよ、レシピを見て一番ゲンナリするのが、塩小さじ1、酢大さじ1とかを混ぜてベースとなる味を作る過程。こういうのはやらないと決めて、匙と小皿は買わず・作らず・持ち込ませずの方針を貫いている。こうすればレパートリーは大幅に制限され、献立や調理手順を考える手間が省ける。
ドレッシングは1種類しか持たず、空になったら前と違うのを買うパターン。空になるまでは絶対に次のを買わない。これは私が用意しているすべての調味料(塩・胡椒・味噌・だし入り麺つゆの素・醤油・みりん・コンソメ・中華スープの素・ブイヨン)で同じ。調味料1〜3種類が数日間切れても、料理には困らない。
乾物や保存食、冷凍したものは食べ尽くさずに買い物に出る。明日が雨だったら? 残業があったら? 麺類2kgの備蓄や、冷凍した食パンや加熱後に冷凍保存した野菜は、冷蔵庫を空にした後の備え。大事に食べれば10日分くらいになる。この余裕がなければ、生ものを食べ尽くすまで買い物に行かないのは無理。
しかし冷凍品だって「食べずに放置」はもったいない。そこで毎月末、生ものを潤沢に用意して冷凍品を一掃するルールを設けている。
ちなみに。冷蔵庫の外にある乾麺、缶詰、じゃが芋、玉ねぎ、カレールー、スパゲティソースなどは、目立つ位置にあるシースルーの棚に入るだけしか買わないことにしている(買い過ぎ防止)。常に在庫が目に見えているので、忘れ去られた食材はありえない……はずである。
要領の悪い人間は、環境を整えて簡単なルールをきちんと守っていくことが大切だと思っている。
いずれも紹介されたときは面白いなと思って読んでみたのだけれど、実際にレシピを探そうと思ったときにはクックパッドしか使ってない。まあ、月に0.5回くらいだけど……。やっぱり写真があってイメージが掴みやすいのと、検索機能が充実しているのがいいと思う。
基本的に、食材から検索。ときどき冷蔵庫にナスとか特定の野菜だけ残ってしまったりするので、それでも何とかなる料理を探す。それだけが私のレシピ需要。まじめにレパートリーを増やそうとか考えていないから、そうなっちゃうのだろうな。
クックパッドでこういうレシピをみると、なんだかホッとする。ちなみに私は、残ったさつま芋を、1.輪切りにする 2.皿に盛る 3.バターを乗せる 4.レンジでチン この手順で1食にしました。カットわかめと刻み揚げの味噌汁とか添えたら、それで十分でしょ。早切りミカンもあるし、牛丼よりは栄養あると思う。
こんな感覚で料理してます。
『世界ふれあい街歩き』っていうTV番組が好きだ。なんか、わくわくしちゃうんだ。
という話。何せ放送時間が深夜なので、基本的には見られないのだけれども、私も何度か楽しませていただきました。何か面白い番組ないかなーと思って、夜食を食べながらザッピングしていると、引っかかってくることがあるわけです。
環境ビデオのような映像に音声だけのリポーター。「何だこれは?」と思うや、ポンポン繰り出される軽妙な語り口に魅せられ、そのまま最後まで見ちゃった。いい番組だと思う。
メジャーな観光地を紹介する番組って、けっこう難しいと思う。何もかもやり尽くした感があるから。でもまだこんな可能性があったのか、と新鮮な印象。実際に旅に出てみると、観光名所から観光名所へワープするなんてできなくて、間をつなぐ部分の占める割合が、印象はどうかわからないけれど、時間としてはとても多い。そこのところにフォーカスを当てているのが、「世界ふれあい街歩き」の面白さ。
ただ、国内旅行なら言葉が通じることもあってか、旅番組よりむしろバラエティー番組やニュース番組の特集とかでふつうに使われている手法。それを海外紀行番組に応用しただけといえばそうなのだけれど、これだけ長尺の番組を、この手法一本で押し通してみると、なんだか新しい感じがするんですよね。
『世界ふれあい街歩き』はNHK総合水曜深夜(木曜午前0:00〜0:44)放送です。NHK BShi では毎週火曜午後11:00〜11:44放送で、総合での放送は再放送ということになります。NHK BS2 では毎週日曜午後8:15〜8:59放送なので、BS2 を視聴できるなら、これが一番見易いかも。
一生役立てることはない、あるいは肝心なときには絶対に忘れてると思いたしたけれど、頑張って全部読んでしまいました。そういえば昔、図書館で攻略法の本を読んだことがあったような……。
どうしても完成させられないルービックキューブに腹が立って、壊そうと頑張ったけれど壊せなかった苦い思い出がよみがえりました。ま、そんな記憶も、時間が美しく装いを改めてくれていたのが幸い。
そういえば知恵の輪も解けずに怒り爆発し、ペンチを持ち出して破壊しようとしたことが。これでも性格は丸くなってきたのだ、と記憶が教えてくれる。
「今オレはこう思った」というその時々の思考の断片を書き留めておく場所としてブログを捉えるのならば、別にエントリ間においてどれだけ齟齬があろうが気にする必要なんて無いと思うのです。
コメント欄での応答なども加味するに、まずまず穏当な主張。私はマルチスタンダードもありうるという立場ですが、他人に勧めるならこれくらいのスタンスがいいんじゃないか、と思いますね。
ま、潔癖症はほどほどに、書き手より読み手の問題である、と。
心に余裕がない人々の事例。
ところで、潔癖症というのは、ネットだけじゃなくて日常的な会話の中にもたくさん出てきます。JR西日本叩きもそうですけど、ようは自分の身の周り数メートルより遠くの世界について論評するとき、大半の人が潔癖症になってしまう、そう観察しています。
現在の職場の話は書きにくいから学生時代のバイト先の事例を紹介すると、経費で自分の文房具を買い揃えるときに、自腹なら高価なので避ける(注:本人談)ドクターグリップを買う、なんてことをしながら、主任がバスのある時間帯にタクシー券を使うことには妙に義憤を感じて声高に難詰していた人がいたなあ……。
程度が違う、という説明はできるけれど、その「程度」というのは、自分の行為を免責し他人に対してだけ清潔感を求める矛盾を解消するために、無意識に後付で設定されているように思うわけです。ネットで清潔感にあふれる人が目立つのは、自分の粗を隠せるから「程度」の基準も自然と厳しくなる、ということでは?
ふつうの人々の、ひとつの本音がウェブに現れているのだと思う。
CM モデルによる民間無料放送が始まって以降、幾度となくアイデアは出されていたコンテンツと広告の融合。結局、放送倫理の問題で、広告は広告とわかるようにしなさいよ、ということで実現しなかったわけだけれども、ウェブならこういうのもアリ、ということなのかな。
進研ゼミをはじめ DM ではおなじみの手法ですが、私はこういうの、けっこう好き。進研ゼミの広告漫画もいまだに20作品くらい保存してあります。いつか単行本にならないかなあ、と期待していますが、全ページカラーでは採算を取るのも難しいでしょうし、望み薄でしょうか。ていうか、それ以前の問題か。
努力・友情・勝利そして笑いと涙と感動と……よくできていたんだけどなあ、進研ゼミの広告漫画。
yahata さんのブログを読みながら、思い出したことをいくつかメモ。
追試験について「本試と同じ」とだけ書いたら、形式と出題範囲だけでなく、問題まで同じと勘違いされた、という話。でも本当に本試験と同じ問題が追試験で出題された事例を私は知っていますからね……。
講義の最終回が試験の場合、「答え合わせ」がないから、同じ問題でも追試験の意味があるわけです。お勉強して解けるようになればそれでいいわけなんでありまして。まあ、たいていの科目は追試験なんかありませんでした。落ちたらそれまで。私の場合、選択必修の電磁気学だけ2年続けて受講しました。
試験前になると乱れ飛ぶ噂話について。
私はノートを貸すことはあっても借りることはないマジメな学生(=皆勤賞)で、座席も前から4列目までに座ることが多かったから、先生に顔も名前もよく覚えていただきました。だから試験後の長期休暇中に廊下で先生に会ったりすると、「試験のとき体調でも悪かった?」と訊ねられることもしばしば。
教養科目を必要数の数倍も受講し、そちらで大量に優を稼いでいたから平均の成績はよかったのだけれども、選択必修科目には「可」も結構ありました。「良」はふつうに多くて、「優」は取れたら嬉しいという感じ。選択といいつつ、ひとつでも落とすと卒論が仕上がらない場合に卒業できなくなってしまうので、事実上の必修でした。だから得意分野でなくても受講しなければならず、苦労したことを覚えています。
「不可」になると受講記録自体が抹消されるので、「優」をそろえることに執心している学生の中には、「ちょっと自信がないな」となると試験日に欠席し、意図的に「不可」を取る、なんて人もいました。ところが出席点で「可」になってしまって泣きを見たケースもあるとか……。
本当に信頼できる受験情報を発信できる人ならば、ちゃんと受験産業で働いています。だって、それが一番儲かりますから。
そりゃそうですよね。けれども私もこの件に関しては苦い思い出があって、塾でバイトをはじめてしばらくの間、なんでテキストがこんなにつまらないのか、と思って自分でプリントを作ったりしていたわけです。我ながらアホだったな、ということを1年も経たずに思い知らされることになりました。
向山型算数の考え方に蒙を啓かれたのですが、かつて悪本中の悪本と思っていた文部省検定教科書がどれほどよくできているか、全ては教師の実力の問題だったのだ、と実践の中で気付かされていった、衝撃的体験は忘れ難いですね。(……なんて書かれても読者にはさっぱりわからないと思いますが)
そういえば、オチまでわかってからじゃないと本を読む気がしなくなったのは、大学時代以降に強まった傾向のような気がします。私の場合、映画も推理小説も、先に全貌を知っておきたいのですね、少なくともオチを示唆する情報はほしい。他人にはあまり理解されない感覚のようですが。
そんなわけで、この紹介文とか、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるの記事は私にピッタリ。といいつつ、紹介されている本を実際に読んだためしがない。積読になっている本や、もっと優先順位の高い本が多すぎて……。
オンラインDVDレンタルの予約リストが200本の上限に達し「どうしてたった200件なの?」と思ったり、Amazon の買い物かごに100冊以上の本が登録されていたり、古書店へ行くとついつい20冊、30冊も買ってしまったり。どう考えても時間の制約上、そんなに本を読めるはずがない、映像を鑑賞できるはずがないのに。
高校時代までは、むしろ暇を持て余していたはずなのですが、大学時代に何かが切り替わり、社会人になって箍(たが)が外れた感じです。
実際に世間で使われている「論理的」という言葉は、「命題」だとか「推論」だとかいう堅苦しい「論理学」から派生しきって、「論理的な文章」「論理的プレゼンテーション」のように「(ビジネスマンのための)わかりやすい」と言い換え可能な語句として使われているか「論理的思考力」というワンセットの単語になって、宇佐美先生が言うところの「具体例が挙げられる思考」であったり「抜けおちのない思考手順、および、それを遂行する力」ってな感じで利用されています。
つまりは、命題の内容の真偽を問わないアレではなく、言ってることがあってるのか、間違ってるのかが、わかりやすい主張ができるのが、いわゆる「論理的」ってことなんだろうと。
その通りだと思います。でも、ヘンな話ですよね、たいてい他人の主張を「論理的でない」と難詰する人が、その「論理的」という言葉に無頓着なんだから。基礎とプロセスを重視します、という立場を表明しながら、基礎を自明のものと考えて、じつはよくわかっていないという事実に気づかない。悪い冗談です、これは。
数字について得意ではない方、論理的に考えたりすることの苦手な方が文系だったりするのは事実なんじゃないかと思います。
社会科学系の先生の本にもきちんと実証的に書かれたものがたくさんある一方、自然科学系の先生の本だからといって実証的でないものは山ほどあります。
だいたい理系の学会で発表されている論文だって、用語がそれっぽいからみんな何となく騙されているだけで、じつは実験データと考察の間に飛躍の存在するケースは少なくないわけです。というか、実験データから確実にいえることなんてそうそうないわけでして……。
面白すぎてウソっぽい話が満載のベストセラー「ゾウの時間 ネズミの時間」(1992年)にもこんな一節があります(120頁)。
それにしても2/3乗だといえばたちまち表面積と情報量とを関係づけて分かったような説明をし、3/4乗に比例するとなれば、たちまち代謝率と関係づけた説が出てくる。実に科学とは単純明快で、悪くいえば節操がない。ここが科学のおもしろく、力強いところである。
ここで注意しなければいけないことは、単純明快さを求めるあまり、意識するしないにかかわらず、事実を曲げてしまう危険性があることだ。脳重に関していえば、脳と表面積と情報量とを関係づけた説明があまりにあざやかだったので、2/3上というのが真の値と信じ込み、現実に得られたかなりバラついた計測値を、なんとかこの「真の値」に近づけようとして、データをかなり恣意的に取捨選択したふしがある。単純化・抽象化の持つ魅力と魔力には、くれぐれも注意したい。
社会科学系の場合、仮説の構築からデータ収集とその整理までは専門的な操作が必要なので「ふうん、そういうものかなあ」と思っても、一通りの材料がそろったところで考察に移る段になれば、素人でもけっこういいたいことをいえてしまう。考察の基礎となるのが社会常識だったりするからですね。
最近は学生の卒論なんかがたくさんウェブで公開されていますが、文系でも何かしらのデータ収集を行って、その上で主張をまとめているものが多い。どうして、そういった事実があまり知られていないのか、不思議です。
理系・文系なんて、高校時代、相対的に文系科目と理系科目のいずれが得意だったか、という話でしかないわけでしょう、たいていの場合。東大の文系なら二流大学の理系より理系科目が得意な人が多い。絶対的な能力をいったら、文系・理系なんて区分は無意味ですよ。
私は英語は苦手でしたが国語と社会科は代ゼミの模試で偏差値65〜80でした。数学と理科は偏差値50〜65で、そのくせ工学部へ進学。文系のお勉強に学費分の価値を見出せなかったから、という理由ですが、さて私は理系なのか文系なのか。
文系科目の方が得意なのに理系へ進んだ私にいわせてもらうなら、理系とか文系とか自分を規定して、便利な言い訳にしてる人が多過ぎるのです。「私は理系なので」そんなの説明になってないだろう、と。進学先のランクを落とせば文系の学部にだって進学できたような人がいう言葉じゃない。
血液型を言い訳に使う人(「書類の整理がいまひとつその……」「あたしO型なんです」「え?(だから何?)」とか)に出会ったときの疲労感と、理系・文系論のゲンナリ感は私の中では似てますね。
進学先は、好みで決めちゃえ。
これは同意。文系ならもっと偏差値高いところ行けるんだけどなー、とか考えなくていいと思う。偏差値40の理系大学もあるわけで、理系へ進学したければ理系へどうぞ。逆に文系へ行きたければそれもよいかと。
このコラムに限らず、ニッセイ基礎研究所のエコノミストの眼は毎回、何らかのデータを出してくるから面白い。ちなみに経済学部は文系に分類されます。
経営学部も文系。最近の活動が公開されていないのは残念ですが、学生さんの研究成果がたくさん公開されていますので、「文系だから論理とか数字とか苦手なんだよね」という言い訳が世間の誤解に乗っかったウソというか、実際には通用しないものであることが、よくわかると思う。
私からみて「どうしてそうなるの?」という研究はあります。ありますけど、学生さんらは決して「文系だから」なんて考えていない。ちゃんと論理的に考えようとしてる、主張を裏付ける何かを探そうとしてる、そう見えるわけですよ。それを見てもまだ、「文系だから」って言い訳を使う人、そりゃいるんでしょうけれども、ちょっとは後ろめたく思っていいんじゃないかと、そう思うのですね、私は。
父が株で10万円くらい確定利益を出し、含み益がなお10万円ほどあるのだという。投入資金が500万円だから、「半年でこんなに儲かるなら銀行預金なんか馬鹿馬鹿しいね」という感想も頷ける。……が、父は単純なので、母の手紙によると「僕って株の才能があるなーと喜んでいます。」とのこと。危ない。
父はもうすぐ延長雇用も定年を迎えるが、株で儲かったのが嬉しくてたまらず、周囲に株を勧めまくっているのだそうな。母は遠からず父が大失敗することを予想しており、「たつ鳥跡を濁さず」と戒めているという。株の話は家の中だけにして、親戚にもいってはいけない、自分が損をしたわけでもないのに失ったお金のことで責める人が出てくるんだから……というほど慎重な母をもう少し見習えばいいのに。
やった! この手の本で発売から3年経っても売れ続けるというのは異例。いい本が売れ続けているという明るいニュース。
今年になってから HTML やスタイルシートの入門書を全くチェックしていないのですが、少なくとも1年前の時点においてベストの入門書だったと断言できます。私は入門者にこの本を薦めて、感謝されたことしかありません。くだらない本を買わせやがって、とか全然ない。
来年あたり、またレビューを再開しようかな、と思っています。以前はウェブ製作の入門書なら全部読んでますよ、という感じだったのに、今やすっかり浦島太郎になってしまっていますし。最近のウェブログ解説書ってどんな感じなんだろ。
私の書いた徳保はレイプ魔です(2004-02-03)への批判、なのですが……。
「A社は悪徳商法です」を「Z氏はレイプ魔です」に置き換えて、その言論(中傷)を強制的に排除する妥当性を検討する
さて、このたとえは妥当でしょうか?
この2つに共通なのは、『両方とも、事実でないなら、書かれた方に著しい損害を与える」という事でしょう。だからこそ、確実に事実と認定された事でなければ、排除するのは妥当だって考える事ができそうです。
しかし、この2つには相違点もあります。一方は個人に対する言動(中傷)であり、もう一方は企業活動の言動(中傷)なんですね。企業活動は社会的なものなので、それに対する言動には公益性があります。なので、個人に対する言動とは異なったルールが必要な場合もあるでしょう。
そう考えると、この例はたとえ話として妥当であるか、に疑問があります。つまり相違点である「企業と個人の違い」が、言論に対する排除のルールに無関係ではない(むしろ大きな影響がある)例と言えるでしょう。
例え話とは、ふたつの異なるものの共通点に着目して、ポイントとなる部分のロジックを強調するためのレトリックです。共通点以外は無視していいよ、と。ところが現実には、むしろ本筋のロジックよりも、例示されたものが持っているその他の属性の方に目がいってしまう人が多いらしい。
これを逆手に取れば、自分が何と何を似たものとして考えているか、その世界観を示すことが可能となります。私にとって問題の例え話は、「中傷はいけない」という文脈において個人も企業も同じだ、そういう主張なのです。相違点は瑣末であり、無視してよい、と。
私の主張に賛成でも反対でもかまいませんが、私はめたかさんの主張をよく理解できたのに、めたかさんは私の主張を理解せず、門前払い。これは悲しい。
「つづき」の方も一緒。自分が賛同できない前提に基づく例え話はアウト判定。自説の主張は結構ですが、賛成・反対の前に、一度は意見を受け止めてほしいと思う。
たいていの議論では、お互いの考え方を理解し合えば十分なのですが、価値観が相対化された世界においても、何らかの結論が必要とされる場合があります。価値観闘争は政治的にしか決着せず、端的には「場」を支配する多数派を味方につけた方が勝つ。
ギャラリーが見えていれば話は簡単ですが、そうでない場合、双方の心の中にいるギャラリーの共感獲得合戦になります。議論の相手は説得できなくても、相手が「たしかにこの場で正しいとされるのはキミの考えだろうね」と納得してくれたら、それで勝ちなんですね。なお「場」は議論の条件次第で境界線が変動しますから、注意が必要です。
特異な私見を常識と「勘違い」するのは困りものですが、自説の方がこの「場」における常識に親和的だ、と主張する戦術まで否定すると、議論から結論を導く手筋が消えてしまいます。
基本的に例え話は、啓蒙・説明には有効だけど、説得には使えないのでは。
意見の異なる相手に「共通点に注目し、その他の情報を捨象してください」というのは難しい。見解の相違は世界観の違いに基づいているのであって、私が無視できると考える相違点を相手は重視し、こちらが大切だと思う共通点を相手は軽視しているからこそ、議論になっているのです(多くの場合は)。
自分の世界観を説明し、賛同ではなく理解を求めるケースでは、例え話は十分に機能すると思う。応用編として、ウェブでの公開議論は半ば閲覧者の共感獲得合戦なので、上手な例え話で潜在的な賛同者層を掘り起こす戦術は使えるのではないですかね。逆に潜在的な反対者層も掘り起こされてしまうことに要注意ですが。
私の主張が、全然伝わっていない……。例え話が通じるのは、価値観・世界観に共通点の多い相手だけ。この条件が満たされないとき、物語は無力です。→映画の力と馬鹿な大人(2006-02-26)
小見出しをご紹介。
- 言ってることとやってることは別
- 正解主義と「ま、いいか」
- 食を軽視する時代
- 余った時間、できる範囲の食事作り
- 作るかどうかは私の気分
- 子ども化する親たち
- 自己愛型情報収集とBSE問題
- 無駄なことはしない効率主義
- 自分ペースの「単一プログラム指向」
- 最悪想定、次悪の選択
非常に納得のできる調査結果。嘘偽りのない現実を捉えた内容、という印象を受けました。かくいう私は毎日きちんと(?)自炊していて、私の両親も素晴らしい食事を実家にいた22年間、欠かさず提供してくれたわけです。けれども周囲の人を見て、話をして、こういう現実があることはよく知っていた、そう思うのです。
このリポートではこれまでのマーケティングが前提にしてきた「常識」と、実際の家族や食卓の実像との大きな乖離
について詳細に述べられているのですが、どうして現在に至るも「常識」が全然揺るがないのか不思議に思う。その昔、教育技術法則化運動の成果物に触れたときも、リフレ派の主張を知ったときも、同じような衝撃を受けたものでした。
なぜ、よりよく現実を説明できる主張がいつまでも「異端」であり続けるのか、と。私たちは現実の中に生きているのに、口にする言葉は何故かフワフワと浮ついている。なぜなのか。まあ、その答えはこのリポートでも示されないわけですが……。
〈食DRIVE〉調査全体を通して言える最近の主婦の傾向は、アンケートやインタビューに回答する「言ってること(第1ステップ)」と、実際に生活場面で「やってること(第2ステップ)」の乖離が年々大きくなってきており、若い層ほどこの傾向は顕著になっていることだ。こうした「言ってること」と「やってること」の乖離が、〈食DRIVE〉調査という同一調査の中で、この3年間に3倍ぐらいになっている。
この調査もまた、「最近、急速に世界が劣化しつつある」という物語に乗っかってはいます。その点には異論というか、違和感があるわけですが、ともあれ一読の価値あり。ウェブの記事に興味をもたれた方は、書籍版である「変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識」の方もぜひ。
「『変わる家族 変わる食卓』を書き終えて 岩村暢子氏」にある通り、調査と現実の乖離が真のテーマ。いわゆる食育問題自体にはさして関心・危機感のない方でも、興味深く読めるのではないかと。
Q:どうしてトップページ以外に無断リンクやブックマークしちゃいけないの?
A:「トップページ以外に無断リンクされること」を嫌がる人がコンテンツを閉じて、それらを利用できなくなってしまう事態を回避するため。
この考え方はよくわかる。私にとってリンクが生み出す利益よりも、リンク先が消えてしまうコスト(とリスクの積)の方が大きいと判断したときは、私もリンクしない。
ただ、この手の功利的判断って、なかなか難しいと思うんですよね。誰でも気付くし理解もできる利益や損失の他にも、目立たないところに大きな罠が潜んでいたりするわけです。また究極的には、何を重視するか、という価値判断の問題がありますよね。
2003年の記事からざっと読み返してみるに、無断リンクについて現在のスタンスが明瞭になったのは2005年頃らしい。リンクの自由を啓蒙する人々に謙虚さを欠く主張が目立つようになってきた、あるいは私がそうした人々の姿に気付いた。それで、嫌になっちゃったんですね、リンクの自由を説くのが。
リンクの自由が「常識」なら、もう啓蒙活動はいらないと思う。よほどインパクトの大きな何かが生じない限り、多数派はその地位に安住できるのだから。既に決着がついているなら、少数派はそっとしておけばいい。少なくとも、不安に駆られて攻撃的になる必要なんかどこにもない。
私は、無断リンク問題は価値観闘争であって、一方が他方を間違いなく論破できるというような話ではないと認識しています。けれども、id:SiroKuro さんにせよ UK さんにせよ、落ち着いた書き方をしつつも、そういった視点がない様子でしょう。論理的に無断リンクOKという以外の結論はありえない、といった感じ。
自分が「啓蒙」活動に勤しんでいた頃、相手の主張に反論したり、疑問に答えたり、対話の形式は成立させていたものの、自分が相手に説得される可能性だけは全く考えていなかった。誤解を恐れずに書けば、愚かなことでした。
最終段落のみ話題にします。
パーマネントリンクを持つウエブログや、はてなブックマークを使いまくったり複数のサイトを運営しているにもかかわらず「無断リンク禁止」「リンクは指定のページだけに」というのは幾らなんでも矛盾しすぎじゃないか?と思ってしまうのですが・・・
異論あり。
「ホームページ」だって個々のリソースに URI が与えられることに何ら違いはなかったし、トップページに最新記事を置き、過去ログ化されるのは月1回みたいなこと(→時間とともにコンテンツの URI が変わる)をしてたのは一部テキストサイトだけの文化。たいていのサイトは、最初から各記事に「パーマネントリンク」を与える方式で運営されていました。
またレンタルのリンク集作成CGIの代わりにはてなブックマークを使い、レンタル日記CGIの代わりにfc2ブログを使い、グッズ紹介のためにレンタル掲示板を改造するのではなく忍者ブログを使ったら、「複数のサイトを運営している」とみなされる? 掲示板やチャットやレンタル日記CGIならサイトの付属品だけど、ブログは単体で独立したものだ、という主張にどれほどの根拠がありますか。
そして「パーマネントリンク」や「複数ドメイン下のコンテンツからなるウェブサイト」といった指摘が、どうして「無断リンク禁止」や「リンクページの指定」と矛盾すると決め付けられるのでしょうか。事実認識を問題にするなら、ブログ以前から「パーマネントリンク」なんて珍しくもなかったのです。レンタル日記CGIだって本サイトとは別ドメインにあって、コンテンツ群として単独で成立していたのです。
id:ululun さんの吐露した「思い込み」が、突っ込まれるどころか多くの共感を集めるのはなぜか? それは id:ululun さんのブログ周辺において、それが「場を支配する多数派」の価値観に親和的だからです。
争われているのは事実じゃない。事実の解釈なのです。
多数派か少数派かは関係ない。論理的に正しいかどうかがポイント。
私は、Yokoさんの主張も論理的に正しい
に違いないと思っています。ただし私や首領さんとは前提条件が違っているのだ、と。
論理的に正しいなら客観的に指摘できるはずだから「正しいに違いないと思っています」にはならないと思います。
というnovtan さんのコメントには反論があります。上記リンク先に書いたとおり、相手の主張の論理を理解するためには、隠れ条件を知る必要があります。現時点では、私の手許にYokoさんの論理を代弁するだけの情報がありません。
もっとも、推測でよければ何でもできます。ただ、何度強調してもし足りないのですが、論理的に誤りがないことと、賛同できるかどうかは全くの別問題です。相手の価値観・世界観を受け入れられるかどうか、最終的に問題はそこに帰着するからです。
ってゆーか、エラソーな態度にムカついた。ぷんぷん。
あはは。そういえば以前、bewaad さんは(中略)皮肉な物言いを抑制される傾向にあるが、やはり一方的な物言いが気にかかる。
なんて書いたのだけれども、正直、何でもごった煮になっているブログでの発言を捉えて云々するのは、いわれる側にとってきつい。
エラソーな態度
という感想に反論はない。自分で読んでもそう思う。自分の意見をストレートに書き、私的な備忘録としての性格を強く前面に出している。だから、ムカついた。ぷんぷん
となる読者がいたことは、不運ではなく当然の結果だったと思う。
ただ、他の方からいただいた「他人に伝わる言葉」について意見を述べている文章のくせに……といった矛盾の指摘に対しては、「自説に賛同しない多くの人々の説得を(積極的に)意図した文章ではないので」との反論がある。備忘録の記事の大半は私的な動機のため、次いで概ね私の主張に一定の理解を示してくれる方に向けて書いている。そのくせ、他者の意見に対する批判・反論というスタイルを採用することが多いのだから、紛らわしい。
著者のそんなひとりよがりが読者に伝わるわけがないだろう、と私も思うのだけれど、案外ご理解くださる読者が多い。不思議だ。
多くの前提条件を読者の方が共有してくれているおかげで、私は負担少なく備忘録を書き続けられる。ひとつひとつの記事の不足や語られざる背景を、常連読者の方はうまく補って読んでくださっている。また大半の新規読者の方も、私が毎回のように自分の思想的背景や、備忘録の記述スタイルをイチから説明することはできない、という事情を理解されている。
記述者と読者の「共通の理解」は、ぼんやりした状態を肯定しないとうまく回らない。「以前にも書いたが」といいつつ一度も書いていなかったことに気付いたことがあるが、後にオフ会で読者に訊ねてみたら「いかにも徳保さんが書きそうなことだったから違和感がなかった」と説明されたりした。マジメに過去ログをチェックされると「以前といってることが違うじゃないか」なんてことになる。
その一方で、ぼんやりしていればこそ、思い入れの暴走も起こる。自分の無茶な期待を相手に押し付けてしまう。
bewaad さんのブログには、まさに批判対象の当人に読ませ、説得することを意図した記事と、相手が読まないことを前提に仲間内向けのスタイルで書かれた記事がある。私は前者の文章にひかれて bewaad さんのブログを読むようになったので、全てがそのようなものであってほしいという期待があった。いや、期待するのはいい。ただ、一方的な物言いが気にかかる
といった言葉で、後者の文章を(事実上)全否定するのはいかがなものだろう。
「問題なし」とする意見もあるだろうが、自分自身も備忘録を書く者として、「そんなことをいわれてもなあ……」の類ではないか、と今は思う。
冒頭で紹介したカナかな団首領さんのコメントから、読者の方から受ける印象はどんなものだろうか。じつは首領さんは数年前からの備忘録読者なので、ムカついた
という言葉もそれなりの「文脈」を背負っている。無論、こうして種明かしをしなければ、常連読者にだって事情は伝わるまい。しかしこの記事の初稿に種明かしはなかった。
著者と読者の断絶を補完する心の仕組みとうまく付き合うには、どうしたらいいだろう。正直、わからない。(いつもそのようにできるなんて自信はないが)読者としての私は、他者の主張の背景にある価値観・世界観をなるべく好意的に推察し、理解するよう努めたい。筆者としての私のスタンスは、まだ模索中。とりあえず、ここからはじめようと思う。
Yokoさんはクレーマーになるのが精一杯で、社会を動かし法を変えていくような運動を起こす力を全く持っていないと予想されるので、これをおもちゃにして遊んでいる人の気分はわからないでもない。
しかし私は感心しないね。あなたの身の回りに無断リンクを嫌がる人はいないのか? いない、という人は仮の話として聞いてほしいのだけれども、その人にもYokoさんにぶつけているのと同じような言葉で対応するのかな? とはいえ、そんなのは瑣末なことかもしれない。
私が一番気になっているのは「これは本当に事実認識の問題なのであって、価値観のぶつかりあいではないと思っているの?」これなんだ。そして、自分たちが現在、多数派であり、未来永劫、多数派であり続けられる、という自信がどこから出てきているのか、ということ。
価値観の違う者の主張を安直に「ネタ」だの「釣り」だのと決め付ける人は、自分がサイバーカスケードの罠にハマっていないかと疑ってみた方がいいと思う。あなたが少数派と思い込んでいる勢力が、じつは自派より多数派だった、なんて会社の会議とかでしばしば経験することだろう。それでも傲慢に気付かないのか?
バカを啓蒙してやるぜ! みたいな感覚の人は、何か勘違いしていると私は思う。
所詮、究極的に法に依拠して自由を訴えるような言説は、多数派によって法律を改正されたら窮地に追い込まれる他ない。
まあ、話の抽象度を上げていけば、私の主張はいつもこのあたりに帰着してしまうのだけれども、そればっかりでもどうかな、という感じもしている。そこで逆に個別具体的に考えてみると……。
いや、あんまり面白い結論にはならないな。正直、個別具体的に考えるなら、別にYokoさんが無断リンク禁止を訴えて、みながそれに従ったところで(あるいはその逆でも)、世界は何も変わらない。ウェブの本質が云々とか大上段に振りかぶった議論は浮ついている。でもそれはYokoさんが先にやったことだって?
そういうのに付き合いたいならどうぞ、というのが私の答え。繰り返すけど、私は感心しない。高木浩光さんらが個人のウェブサイトを相手にしていないのは、当然だと思う。あなたの望まない世界が到来する危険の芽を摘む、という目的を達成するための方法がYokoさん叩き? 逆効果じゃありませんかね。
この話題に関連する記事は主にむだの素RR(2006-10-13 以降)経由でたくさん読んだけれども、そうした中で断然面白かったのが管理者の気持ちも考えずに無断リンクを行う烏合の衆(hankakueisuu さん)だった。例によってマニアックな内容なので念のため。
田中秀臣さんの「経済論戦の読み方」などの著作について、私は以前、はっちゃけ気味
と書いて「どこが?」と田中さんに質問された。多数派の主張を代弁する者を見下したような書き方では、少数派が多数派を説得することは不可能だろう、というのが私の主張だった。(関連:id:deztec 2005-12-09)
その田中さんの新作「経済政策を歴史に学ぶ」は、とてもよかった。田中さんが賛成しない主張についても、まずその意見を中立的に読み解いて紹介し、揶揄的な表現を避けた穏当な批判の形式を守っている。「内輪向け」感が抜けており、現在、批判対象の主張に共感している者にも直感的な嫌悪感を抱かせないだろう。
もっとも、内輪向けの本(もともと自説に親和的な読者に向けて書かれた本)だってあっていいとは思う。
個人的にピキピキッとくるところの多かった「経済論戦の読み方」も、おそらくは完全に内輪向けとして企画されたであろう「エコノミスト・ミシュラン」の新書版アレンジと考えるなら何も問題はない。対象読者ではないのに手を出した私の選択ミスだった、とはいえそう。いまさら、ながら。
ところで父が株に夢中になって小遣い貯金を全部株に変えてしまったことは以前にも備忘録に書いたと思う。母は今回も父の趣味には寛容で、「お金があったら買いたい株がいくつかあるのに」と愚痴る父に同情(?)して借金の申し入れにも快く応じているという。「元はお父さんの稼いだお金でしょ」まあね。
というわけで、母が私の名義で貯金していた100万円は父の趣味に消えたそうだ。お金儲けには無縁の父だから、返ってくるとは思ってない。そもそも自分のお金じゃないし、文句はないよ。
第二海援隊の愛読者である祖父が株で大儲けしたくらいなので、別に経済学に長じなくたって株で成功することはできるに違いない。でもせっかく経済方面に目が向いて、偶然、ここ1年ほどの私の関心と少し重なっているのだから、少し「話せる」状態になってくれると嬉しい。この希望くらいは押し付けてもいいかな。
そこで何か1冊……と思ったのだけれど、これが難しい。「経済論戦の読み方」は前述の難の他、経済学の基本を説明する章が、やっぱりずぶの素人には眠いというか、つらいような感じが。「経済政策を歴史に学ぶ」も、基本的に一定の素養のある人でないと厳しいか。流し読みでいいから最後まで辿り着けば「あ、なるほど」とストンとくると思うのだけれど、そういう読書の技術が父にあるのかな。
そういうことなら岩田規久男さんの著書を探せばいいよ、という話を小耳に挟んだので調べてみると、あった、ありました。「日本経済を学ぶ」というちくま新書。入門書という山を越えたら選択肢は広がるわけで、「デフレは終わるのか」や「日本経済にいま何が起きているのか」も抵抗ないと思う。
私は小学校を卒業する前にバブル崩壊を迎えて高校・大学そして入社1年目あたりに不況の荒波を食っている。でも幸運にも苦労というほどの苦労もしなかったわけで、宙ぶらりんな人生。だからフワフワした言説に共感することが多かった……のか?
その点、青春時代を昭和恐慌の暴風の中で生き抜いた祖父母や、戦後復興に取り残された町に育ち、高度成長による環境の激変から70年代の狂乱物価、そして80年代の栄光と90年代以降の転落を生身で体験してきた父こそ、実証的で地に足のついた議論を展開する経済学者の言説は受け入れられていいと思うのだけれど……。
しかし実際のところ、人々が「地に足のついた言説」と感じるのは、庶民の直感的な世界認識に寄り添った理屈と結論を示す意見。なぜそうなるのか。というかそもそも、なぜ庶民の直感が「現実から遊離している」のか、そこがよくわからない。陰謀論にハマったり政治家や官僚の力を過大視したり。
父は「仮の話」ができない人で、例えば「人には殺人の自由もある」という前提条件を受け付けない。だから自由VS自由から説き起こす物語を第一歩から拒絶されてしまう。けれども、そこを何とかごまかして最後まで話を聞いてもらうことができたなら? 不思議なことに、「なるほどねぇ」と着地することもあるのです。
母は他人の意見を「とりあえず聞く」ことのできる人だから、例えばリフレ派の主張だって賛同はしなくても理解はできると思う。田中さんの「経済論戦の読み方」だって放り出さないに違いない。けれども父はどうか。岩田さんの本が、直感的拒絶の対象をひとつ減らすことに成功したら、面白い。
「嫌いなブログを読む→反論したくなる→ブログ更新のネタができる」というお話。
私は過去に何度も fujipon さんの記事に批判的なコメントをしてきましたが、私は基本的に「好き」だから読んでいるのです……。好き嫌いと反論するしないは別問題だと思う。
ただ、それはあくまでも「こちらの話」であって、fujipon さんが誰かの主張を批判しているのを見かけたら、「ああ、fujipon さんはこの人が嫌いなんだな」と判断できるわけですね。そしてまた、そのような人は世の中に fujipon さんだけではないでしょう。
顔や名前だけで、こうした性格も判断できたら便利なのになあ。私だってトラブル大歓迎なんて方針でブログを運営しているわけじゃない。相手の個性を見て対応しているつもりなのですが、なかなか難しいです。
オシムは、なぜそんなケチ臭い会長のクラブではなくて、イタリアのセリエAやイングランドのプレミアリーグのビッグクラブで指揮をとらなかったのだろうか。
その答えは、「オシムの言葉」に記されています。かいつまんで書けば、ユーゴスラビア最後の代表監督としてバラバラになりゆく国の選手たちを率い、独立を目指す各共和国のサッカー協会が押し込んでくる「おらが国のスター選手」の差配に苦しんだオシムさんは、しがらみの多いチームの統率は自分に向かないと思うようになったのです。
今後「なぜジェフ千葉の選手偏重の布陣なんだ?」といった声が大きくなってくるようだと、オシム監督は日本代表監督からも身を引くことになりかねない。ようは自分の戦略にピッタリの選手を自由に起用したいわけで、名実ともにトップクラスの選手であっても、構想外になることはあるのです。ジェフ千葉を数年間率いてきたオシム監督にとって、現時点で使いやすい選手がジェフ千葉に多いのは当然のこと。
最高の選手を集めれば最高のチームになるというわけではない、といわれれば「そうでしょうね」と納得する人が多いでしょうが、こうした問題は総論賛成各論反対が世の習い。サッカー中堅国日本の代表チームくらいなら、オシム監督の威光が通用するか? 今後の展開に注目したいですね。
……とまあこういった、反論ではないけれど、「教えて進ぜよう」みたいな記事は私にとって「書きやすいパターン」のひとつ。
私が仮説を組み立てるひとつの方法。原則を絞り込み、ひとつの視点で多くの事象を見通してみる。すると「世の中には、あまりに多くの矛盾が放置されている」と気付き、愕然とさせられる。
「レイヤーの違う問題を一緒くたにするな」という批判は理解できる。なるほど、レイヤーの導入によって矛盾は解消され得るだろう。しかしレイヤーを分ける基準を「自明」で済ませている人が多すぎないか。自説に齟齬をきたさないように、結論から遡って、ろくな根拠もないまま恣意的に前提条件を決めていないか。
そんな手抜きでダブルスタンダードの誹り(そしり)を免れられるというなら、「多数派の特権に無自覚でいられる皆様はいい気なものですね」と私はいう他ない。直感的な違和感を絶対視して、理屈抜きに意見を表明できる特権に、せめて自覚的であってほしいと私は願う。
補記:本稿は自分が想定するレイヤーの分け方を根拠なく当然視することへの批判です。レイヤーを分けなければ矛盾が生じることに気付いたとき、自説の依拠する価値体系を謙虚に見つめ直すステップがほしい。
一度「ある程度の数の人に読んでもらうこと」に慣れてしまうと、「誰にも読んでもらえないこと」のストレスっていうのは、かなり大きい。
今夏は体調不良でそれどころではなかったのだけれども、私がここ数年、夏になると密かに名前を変えて別ブログを運営しているのは、fujipon さんがかなり大きい
というストレスに耐性をつけるためです。個人的に「人気ブログ病のリハビリ」と呼んでいます。
そもそも人気ブログを運営している状況に慣れてしまうことこそ病気なのだと思います。だから人気ブログ病の患者は、ほとんど誰も読んでくれないところでつまらない日記を書き連ねていく「ふつうのブロガー生活」の中にささやかな幸せを見つけていく力を回復させなければならない。
身の程を知ることは、絶望の入り口ではなくて、希望の原点だと思います。当サイトは宝くじに当って人気が出たようなもので、最初の機会が与えられなかったらずっと零細サイトだったと思う。そういうことを、毎年きちんと確認しておくことは、もはや自分にとっては欠かせない儀式となっていますね。
自分が日記を書くために必要な最低限の読者数が、どれほど少ないか。日記を書き続けるためには1ヶ月50ページビューで足りる、これはすごい発見でした。最初の1週間だけだったのです、「こんなところで書き続けるのはしんどいな」と感じたのは。(もちろん個人差はあるでしょう)
読者が減ることを極端に恐れている人、時々いますよね。私もそういう時期があったのです。そんな人にはぜひ一度、リハビリに挑戦することを勧めたい。1ヶ月50PVまで読者が減っても自分は大丈夫、その体験が、心の重石を取り去ってくれるはずです。
ふつうは確率分布のようなものを考えるのではないですかね。「ある状況において、私が行動Aを採用する確率は**%、行動Bの確率は**%、非常に確率は低いが行動C〜Zもありうる」みたいな。自由意思といったって何でもアリというわけじゃない。所詮、人の思考なんて確率分布に絡め取られている。
これはつまらない世界観ですけれども、「特定の状況下で100%の確率で**するなんてことはありない」ということで、もっとつまらない最も単純な形式の運命論は退けられるのでは。また明らかに経験則に反する自由意思の正体は純粋乱数
という説も却下されます。人の行動はある程度、予測可能なんですね。
私は素人レベルではこれくらいの理解で十分だなあと思って、哲学のお勉強をやめてしまったクチです。結局、自由意志が何なのかはわからないのだけれども、ヘンな仮説を批判することだけはできる、と。てか、それって嫌な奴になっただけじゃないか。
そういえば哲学の入門書といえば永井均さんと相場が決まっていますが、永井さんの大学での講義は驚くほど眠かったことをよく覚えています。あんまり眠いので内職することにして、永井さんの著書を永井さんの講義中に読んでいたという……。結局、馬鹿馬鹿しくなって受講届けを出さず、聴講扱いということに。
ようは聴講ですらなくて、毎週定時に永井さんの本を読む時間を作って時計代わりに講義に出席してただけというか。おかしいのは、休講になると永井さんの本を読む気もなくしてしまうこと。そんな空き時間には筒井康隆全集などを読んでました。
「<子ども>のための哲学」が指定教科書。買わなくてもいいという話だったような。だから生協の教科書コーナにはおいてなくて、つい間違って「子どものための哲学対話」を買ってしまったのも、今になってみればいい思い出ですね。そのときは悔しく思ったけれど、1ヵ月後には他の著書を何冊も買っていて……。
平成18年10月9日ぶははは。ま、私もあの記事の文章は下手だな、と思っていますよ。散々書き直して、それでもどうにもならなくて放り出したので、戦い抜いて負けたという感じですかね。でも読者にズバリ指摘されると分かっていても悔しくて、いつかリベンジしてやるぞ、みたいな気分になりました。
ところが、少し日を置いてからシャマラン映画の DVD のレビューを書いて Amazon に投稿したら、見事に「参考にならなかった」票の嵐。ようやく本当に目が覚めたというか、ガックリきましたね。もう絶対に逆転不可能だなと思ったレビューを削除して終戦。何というか、ふつうに映画とかの感想を書くのは苦手みたい。(もともと宝くじに当たって読者が増えただけのサイトなので他の記事もたいてい大したことないですけど)
そんなわけで、id:gotanda6 さんのはてブコメントには、けっこう振り回された感があります。
批判票の集中がなく2つだけ生き残ったレビューは、上記リンク先で読めます。テラヤマアニさんの評論に強く影響されているので「パクリじゃないか」という形で批判票が入ったのかも、なんて最初は思ってましたが、いま読み返してみるとそういう問題じゃないね。
あとアニさんの映画評はいつも面白いなあと思ってて、そのアニさんが紹介する映画評も外れがない。私のセンスに合ってるというだけかもしれませんけど、私は自信を持ってお勧めしますね。
超ネタバレと断って書かれてるまあ、一応映画なんでこんな風に終わらせてますけど
云々のあたり、最高。レディ・イン・ザ・ウォーターも観に行くつもり。感想は書かないと思いますけど。
弾小飼さんのことを弾さんと書いていたら、「弾は名で姓は小飼なんじゃないか? だから小飼さんと書くべき」なんてメールが来ました。こんなクレーム(?)は初めてもらった。「じゃないか?」で振り回されるのも嫌なので、ブログのプロフィールを見てみたのだけれども、疑問は解けず。
日経ITProの連載記事は小飼弾 404 Title Not Foundとなっているので、小飼が姓なのかな、という感じはします。姓名の順にうるさい Wikipedia でも項目名は小飼弾になっているところをみると、ほぼ確定か?
よく知りもしない相手を名+さん付けで呼称するのは失礼だ、というあたりがメールをくれた方の問題意識らしいのだけれども、そんなことより id:fromdusktildawn さんが弾さんの漢字表記を間違っている件(追記:修正されました)を指摘する方が優先順位が高いと思う、私の価値観からすると。いいじゃないですか、苗字がどうとか関係なく「弾さん」で。
ともあれ、この機会に当サイトの管理人紹介に「徳保が姓で、隆夫が名です」という補足を入れておくことにしました。徳保隆夫は本名じゃないのだから、姓名にこだわるのも妙な感じもするけれど、キャラクターの設定情報として一定の意味はあるのかな、と。
ちなみに私の自己紹介に名前の振り仮名が追加されたきっかけは、オフ会に初めて参加したときに「お名前はなんと読むのですか?」と何人もの人に訊ねられたこと。それ以前からメールで訊ねられたりもしていたのですが、気になっている人の割合がこれほど多いというのは意外な発見でした。
ていうか、こんな記事を書く暇があるなら弾さんにメールでも出せばいいんだけど、正直いって備忘録の記事を増やす意欲はあるけど真実を探求する意欲はほとんどないわけです、ハイ。(追記:なんで? っていわれてもね……)
早速のご回答に感謝します。結果オーライでよかったです。
平成18年10月9日財政再建の話題。記事が増えて、時系列だとついていけないので、属人的に整理。自分用メモです。
以下は、オマケ。(注:いったん公開後、大幅に書き直しました)
bewaad氏は、どうやって円滑に無理なく国民から税を徴収し、無理なく国家財政の借金を返済するか、という、いわば徴税と財務のテクニック論の話を延々と繰り広げる。
しかし、いくら円滑に税金を徴収して国の借金を返済したところで、弾氏が問題点として掲げている「見えない社会保障」の崩れによる若者と老人の負担のバランスの悪さの解消にはつながらない。
明らかに見当外れの議論を展開している。
bewaad さんの主張の背景には「弾さんのいう問題の大半は十分な経済成長が続けば自然消滅してしまう(そもそも社会の荒廃はバブル崩壊とその後の経済運営の失敗によるものである)」という見解があるのです。たしかに当該記事の中でその議論は省略されているのですが、bewaad さんのうんざり顔が目に浮かびます。
仮に、弾氏の主張通り、相続税を増税したとしたら、本当に「消費が大幅に萎縮して景気が格段に悪化」するんでしょうか?
bewaad さんは税制論議について世代間の選択の問題ではなく、世代内の選択の問題
と説明し、弾さんの議論を枠組みから否定しています。そして真に重要なのは、負債を短期的に処理するか、長期的に処理するかであり、大増税による短期処理は景気停滞を招いて痛み大きく益少ないと主張されているわけです。
ところで現行の相続税には5000万円+1000万円×法定相続人の人数という大きな基礎控除が設定されていますが、その全廃に多くの賛同が集まることは今後10年間には絶対ありえないでしょう。基礎控除の全廃は山手線の内側から一般人を全員追い出す結果を導きますが、かつて地上げをあれほど嫌悪し土地の有効利用を拒否した日本人が、それを許すでしょうか。私の観察では、人々の伝統や地域社会への思い入れは意外と強い。
民意はそこそこ保守的なので、社会や生活の大変革をもたらさない形での増税が志向され、だからこそ消費税や所得税・法人税の増税が議論されるわけです。
もちろん本気。ただ bewaad さんは弾さんの説得はできても、貞子さんの説得はできそうにない。でも多くの国民は貞子さんに親和的でしょうね。構造改革が人気を博す一方、リフレ派の主張が浸透しない背景には、根深い文化的な問題があるのは間違いないところ。政策は単純に民意で決まらないのが救いですが。
なんというか、人が現役世代として社会にかかわるのは長くとも40年程度。より長いスパンを扱う議論は、一般人にはリアリティが感じられないのかも。国会議員が短期的な財政均衡を目指すのも、人生の短さ故だと思う。人生が150年なら、リフレ派の主張はもう少しすんなり受け止められていたのではないか。
bewaad さんの主張が「高度過ぎる」ならド素人の私が賛同できるはずがない。問題は「未来の不確実性をどう見積もるか」なども含めた、価値観・世界観の埋め難い差異です。
分割払いの例え話だけでは乗り越えられない壁が「世代をまたぐ負担」です。2〜5世代にわたる長期戦略で財政を考えるリフレ派の主張は「子孫にツケを回すな」の倫理に抵触し、直感的に拒否されやすい。多くの人々は無意識に経済的利益以外の何かをもっと重視して生きており、その打破は困難では? と思うのです。
平成18年10月8日私の勤務先では、定年退職者のうち、希望者は全員再雇用しています。だから8割超の退職者が定年後も働いているわけです。彼らの年収は一律300万円(税引前)でボーナスなし、月給は大卒初任給よりいいけれど、年収は同じくらいですかね。
で、彼らのせいで誰か仕事を奪われている実感があるか? 全然ありません。今年は新入社員も全社員数を30年で割ったくらいの人数が入ってきています。ようするに、生涯現役世代が全員働いてもまだ人手が足りない状況なら、若者が脅威を感じる必要は全くないのです。
私は小中高と私立の学校に通いましたが、定年が公立校より5年遅い関係で、再就職組の先生には何度もお世話になりました。**中学校の元校長とか、**小学校の元教頭みたいな人が、一教師として年功序列の1年目からやり直しているわけです。でも余生だと思っているからか薄給で腐ることなど全くなく、精力的に素晴らしい授業を展開されていたことが印象的でした。
人手不足だからといって新人を大量に採用したら教育コストがバカ高くて困る。だから新人は一定量取るけれども、それ以上の人材需要は定年退職者からどんどん補充する。私の勤務先も、かつての学び舎も、日本の進むべき道を先取りしている(いた)と思う。
ようは人口減少下の経済成長を何としても実現しまして、労働需要をどんどん増やしていくことが大切だということです。そんなのは無理だ、という前提に立てば id:aratako0 さんの不安は大きな社会問題となってくるのかもしれませんが、私はその立場を取りません。
補記:ある種の仕事については引退世代が席巻して「老人の仕事」というジャンルを確立することはありうると思います。今でも「警備員」とか「マンションの管理人」のような事例がありますよね。
平成18年10月8日テレビを全然観ないのにテレビ情報誌を買っていた私にとって、何か大きなものから派生した本筋と無関係のモノの方(だけ)が自分にとっては興味関心の対象である、という状況に深く共感することはあれど、「理解できないなあ」と感じることは滅多にないですね。というわけで、以下つらつらと。
こういった「議論」を収拾するために、いったいどのような手段を講じるべきなのだろうか?(最近はてブ界隈でこういった話題が出てたような気がする。読んでなかったが)厨房時代の私の経験から考えて、議論を仕掛ける側には一つの欲望によて動いている――すなわち「相手を言い負かしたい」。この情熱に正面から向き合うことはあまり賢明ではない(2ちゃんねるで試してみるといい)。いちばん賢明な手段は??????を挑発しないことなのだが、それができるほど賢い人間がブロガーなどやっているのだろうか…… 閑話休題。重要なのは「勝つこと」ではなく、相手の情熱をいかに受け流すか。 (kanose先生のとこに誘導するというのはどうだろうか?)
要求を呑んで記事を削除すればいいでしょう。あるいはコメント欄を閉じるか、コメント禁止にする手もありますが、今回の流れの中では勧めません。
やり取りをざっと読んでみたけれど、記事を削除しない理由がないように思いました。口先だけでどうにかなると思って考えなしにやったこととはいえ、いったん自分の記事をとことん卑下して謝罪もしたからには、「でも記事は削除しません」という議論は旗色が悪い。せめてもう少し、自分の記事の正当性を主張し、存在意義を強調しておけばよかったのでしょうけれども。
逆に謝罪は口先だけのもので、本心は全然反省なんてしてないよ、と開き直れば事態は変わります。ようは、カッコつけながら戦い抜くには状況が不利なので、潔く完敗を認めて無条件降伏で手仕舞いするか、倫理的優位性を捨てて、自己規制を外すか。悪党に変身すれば対話の放棄も「俺は何だってやるぜ」で通用するから、コメント禁止も選択肢として復活します。
無論、倫理的劣位を自ら認めることは、それなりの代償をともないます。だから迷うのでしょうが、「故なく他人を罵倒しました御免なさい」といいつつ、「あなた一人の不愉快のために記事を消したりしないのはブロガーとしての誠意」みたいな主張を押し通そうというのは死に筋でしょう。もう決断すべきです。
ここまできたら変身したって失う物なんてない、と思われるかもしれませんが、私はあくまでも記事の削除の方を勧めますね。シンプルに考えたらいい。相手が「勝ちたい」一心で攻撃してきているなら、自分が「負ければいい」のです。それでトラブルは消えます。意地を張る価値のある状況には見えませんね。
以上、おせっかいな記事でした。id:todesking さんには、正直いってトラブル解決の意欲があまり見られないし、困った困ったといいつつ、本当は楽しいのだろうな、と。音羽さんは本当に怒っているのに、失礼な話だとは思いますが、よくあるシチュエーションです。
本題よりも瑣末なことに関心が向かい、そのことを書きとめて記事にする、ということは私もよくやります。それは別に悪いことではないとも思う。なので音羽さんの不快感は、それはそれとして理解するけれども、通常であれば「わかりました削除します」ということにはならないでしょう。
死ぬ死ぬ詐欺のまとめサイトに怒ること自体、もっと他に優先して起こるべきことがあるのではないか、という感じもする……みたいなブーメラン効果も出てき得るわけで、音羽さんの戦い方も、自らの過剰な言葉のために足元をすくわれた id:todesking さんの失敗を踏襲する危険がありそう。
記事の削除って、大した根拠もなしに「絶対にしちゃいけないこと」と思い込んでいる人が結構いる。そのくせつまらないことでブログごと削除したりするんだよね。私なら、自分にとっては正当な要求だと思えたとしても、現実問題としてトラブル処理にかかるコストをかなり大きくすることを勘定に入れるところ。
まあ、そういう計算を(今回のように琴線に触れた問題に関しては)排除して行動するのが音羽さんの美学というか信念なのでしょう。でも相手を見て要求をもう少し簡単なことにしておけばよかったのに……と、私はどうしても考えてしまう。
事件の顛末。死ぬ死ぬ詐欺啓蒙キャンペーンが、攻撃先にありきの活動であり、ソース主義なんて虚妄に過ぎなかったことが明らかに。(追記 2006-10-31)
平成18年10月7日共感するところが多い……とだけ書くと、誤解を招くかもしれないな。
YouTube で人気があるのは、たいてい「お金になるコンテンツ」の切れ端だ。具体的には、テレビ番組の切り抜きである。実際問題、その程度の需要に対応してテレビ局が人員を割くのも、サーバと回線を用意するのも、視聴者が直感的な検索によってその断片を引き出す仕組みを用意するのも難しい。だから YouTube は隙間産業として世の中の役に立っていると思う。
けれども、よく考えるまでもなく YouTube は著作権法をないがしろにすることで成立しているサービスといえる。事前にテレビ局の許可を取ってから映像をアップロードしている人が、どれだけいるだろうか。にもかかわらず、「いくら待っても多少のお金を積んでもテレビ局では実現してくれないサービスなんだもの」「そこに少なくとも数百万人をひきつける大きな需要があるんだよ」だから、と大勢が YouTube を容認している。
利用者はそれでいいかもしれないが、製作者の気持ちがないがしろにされていないか。しばしば一部アーティストの YouTube に親和的な発言がフィーチャーされるが、映像作品は一人のものではない。「YouTube へのアップロードを望んでいる出演者もいるのにテレビ局が手足を縛っている!」との主張には、「番組を切り刻んでアップロードされてもいいというスタッフだけを集めて番組を作ればいいのでは?」と答えたい。
テレビ局は利益のために番組を制作するのに、YouTube でどれだけ番組の断片が人気を博しても、ろくに収入へ結びつかない。たまにファンコミュニティの成熟に力を貸し、間接的に利益をもたらしたとか何とかいう記事が書かれるけれども、我田引水と見えるのは私だけだろうか。ウェブに冷たく著作権にうるさいジャニーズ事務所が2006年の音楽業界で一人勝ちになっている事実もある。
しかしテレビ局に不利益もないのでは? との反論もしばしば目にする。これは怪しい。「YouTube エヴァンゲリオン全話」みたいなリンク集が大人気となったりするわけで、少なくとも商売を邪魔するこの手の連中をチェックするコスト分だけは損をしているといっていいだろう。
そして何より、製作者の心の問題が、どうして捨象されてしまうのか。
「亀田史郎VSやくみつる+ガッツ石松」なんて映像があったけれど、いったい何月何日にどこのテレビ局が、なんという番組で放送した内容なのか、そして番組のスポンサーはどこの会社で、宣伝したかった商品は何なのか、といった情報の大半が欠けていたと記憶する。YouTube に番組の断片が公開されたからといって、金銭的な損失は、事実上なかったろう。だがスタッフとスポンサーに敬意の表明ではなく無視で応えた人々は、権利者の心を踏みにじった。
(とくに素人の)ブログの記事を転載してリンクもせずにいたりすると、「許せない!」と怒る人が湧いて出てくる。でもリンクするより転載する方が大勢に読まれる事実がある。2〜10倍くらい違うのだ。引用なんて難しいこと、YouTube はやってない。転載元もきちんと表示していない。
素人のブログの記事なんて、せいぜいアフィリエイトで小銭を得る程度の金銭的利益しか生み出さない。転載されたところで、ブログの人気が落ちるわけでもなく、損失はゼロだ。じゃあなぜ、勝手に転載された人は怒るんだ? それを見た他人までもが公憤を感じるの? 心の問題に思いを巡らせるからじゃないのか。
麻草さんの説明するなぜYouTubeでの再配布を擁護するひとが、自らのコンテンツを部分配信されることに批判的なのか?という問いへの答え
には納得できない。
YouTubeで再配信されるものの多くは、元情報が読み取れるようになっている。出ているタレントが誰だとか、どこのテレビ局だとか、誰が監督のアニメだとか。読み取れないものの多くは、みんながなんとなく知っているものだ(北斗の拳とか、セイント星矢とか、キン肉マンとか)(全部ジャンプだな)。それらはテレビに出てくる芸人だって何の説明もなしにネタ化するし、それを見て「パクリだ」と怒る者もいない。パブリックドメインではないが、そのような扱いを受けるほど広く知られていると、配信側が思うからだ。
そこから抜け落ちてしまう関係者が心を傷付けられるわけだ。雑誌に書いた記事が勝手に転載されても記事を書いた人は怒らない(ことが意外と多い)が、出版社は怒る(ことが多い)。雑誌の依頼がなければ、著者はそんな文章を書かなかったろうに、著者は自分が一人で苦労した気になっていて、ウェブに転載した側を擁護したりなんかするから、出版社の人は裏切られた気がしてもっと悲しくなってしまう。
「亀田VSやく+ガッツ」動画の元番組名だって把握している人は僅かで、そもそも番組に金を出したスポンサーまでフォローする人なんて1%も存在すまい。勝手に「別にこんな情報まで読み取れなくてもいいよね」ということにされた人々の悲しみなんて、どうでもいいのか?
それは麻草さんもわかっていて、だからまとまりがないまま終わる
という結末を選択せざるを得なかった、中島聡さんの主張にリアリティを感じられなかったのだろう。
本筋には関係ないけれど、YouTube は利用者に遵法精神が欠けているだけで、技術に罪はない、なんて意見も時々目にする。まあ技術に罪はないのだろうが、マジメな利用者ばかりだったら YouTube に大した需要はなく、話題になどならなかったろう。違法なコンテンツが多くの利用者を集め、その状況が相変わらずオマケでしかない遵法コンテンツからも僅かな成功例を生み出したに過ぎない。
著作権延長問題をめぐるウェブ世論についても、YouTube をめぐるそれと同様の違和感を持っている。本来、レッシグらが主張していた著作権抑制の利益とは、著作権切れによってコンテンツの採算ラインが下がり、死蔵されてきたコンテンツが再利用され文化振興に貢献することだったはずだ。ところが実際に著作権切れの映画がどんどん出てきて、一体どんなことが起きたか。
500円DVDのような形で、絶版になっていた映像作品が再び世に出てきた事例は確かにある。しかしその一方で、他人の金儲けを破壊する行為も横行した。素人の観察だが、前者は後者に類する「目玉商品」のオマケとしてしか世に出ることができなかったように見える。
個人的には、本当に著作物の死蔵こそが問題なのだとすれば、「在庫切れの状態が15年以上継続している作品は著作者の死後すぐに著作権切れ/映画なら公開後最短15年で著作権切れ」といった仕組みを提案するのが正しく、死後70年(映画などは公開後70年)へ現行50年から延長しようという提案に、現在のような理屈で反論するのはおかしいと思う。
現に死蔵されていない、ちゃんとお金を生み出しているコンテンツを権利者から奪い去ろうとするから軋轢を生む。意地悪な見方をすれば、所詮、一部の理論家以外は、単にコンテンツの値段を下げたいだけなのだろう。死蔵されているような駄作には関心がない。名作を、権利者に金を払わずに楽しみたい、そういう身勝手な気持ちがあるだけなんだ。
ここでもやっぱり、視聴者が「この人には権利がある」と認めた一部のアーティスト以外の人々の心が無視されたまま、世論が形成されていく。映画会社なんか潰れたっていい、連中は単なる配給業者、つまり中間搾取者に過ぎないのだ、なんて罵倒する。配給する人がいなかったら誰が映画を作れるのか。なぜ自分に理解できない仕事について、自分がその仕事の重要性をよくわかっていないだけかもしれない、と謙虚に考えることができないのだろう。
上司を「ただ偉そうにしているだけ」と勘違いする会社員の滑稽さを描いたテレビドラマなどを何度観ても、自分を省みようとは思わないのか。
面白いんだけど……こういう話は私が手を出す領域ではないな。根拠の不明確なままに希望的観測で YouTube が関係者全員の利益になる可能性を説く。それはそれで結構。ただ私は、土地の有効利用を拒否して「お金の問題じゃない!」と地上げに抵抗したのも人間だとも思う。
私はもちろん土地の有効利用は推進すべきだと考えてる。YouTube が本当に素晴らしい未来を作るなら応援したい。ただ、消費者にとって不都合な製作者の心の問題なんか無視、という風潮を助長するつもりもない。土地の有効利用のためなら土地に縛られた頑迷な人々の心なんか踏みにじっていいとは考えないんだ。
私は記憶をなくしやすいので、備忘録を書きたいと、ずっと思ってきました。でも自分一人しか読者がいない状態ではどうしても書けず、サイトを作ってみて初めて長年の希望が達成でき感激したという次第。
ただ初期には慣れない文章書きにずいぶん苦労して、とにかく「怒り」抜きには何も書けないくらいでした。「面倒くさい」の壁はとにかく高かった、ということです。詳細は怒りをぶつける(2003-01-30)を参照してください。
自分さえ理解できればいいという感覚。妙に説明的だったり、抽象的だったり、気分次第。後で記事タイトルを変えることもしょっちゅうありますね。読者の都合とか検索エンジンなどは思考から原則排除。
ある程度、頭の中に考えがまとまってこないと、書きたい気持ちが面倒くさいに勝てない。書きはじめた段階では曖昧な部分もあるけど、好き勝手に筆を走らせている間に具体的になってきます。
まず書きたいことをみんな書く。一見、関係なさそうな話も、一緒に思いついたなら同じところに書きとめておく。これを切った貼ったしつつ、文章の順番も適当に入れ替えたりなどして、何となくつながりのあるようなないような、そんな文章にまとめあげていく。
どう考えてもうまくつなげるのが難しそうな文章の塊が複数できたときは、「1.」「2.」などと小見出しを振って、ひとつの記事にしてしまう。連想ゲームのように湧き出てきた言葉は、なるべくひとつの記事にまとめておきたい。他人から見たら関係ない話でも、私の無意識にとっては関係あるに違いないから。
公開した記事を全面改稿することもしばしば。その結果、論旨が180度変わってしまうケースもなくはない。あと文体の統一はしてません。自分にとって語調がいいように思えれば何でもあり。
まずローカルに構築しているローテクなウェブサイトの記事として文章を書き、マークアップを施して、MT のオンライン更新フォームに適宜コピーアンドペーストしている。せっかく下書きしたのに、MT 経由での公開を控えた記事もけっこうある。ただしそれらの記事も、ローカルのサイトを年に数回、バックアップ目的でウェブサーバにコピーしているので、そのURIを知っている読者は時間が経ってから読むことができる。
記事を修正するときも手順は同じ。まずローカルで修正、記事データをコピペして再構築。ようするに MT のような CMS を信用していないので、データをあちこちに保持しておこうという発想。
今年に入ってから顕著なのだけれども、下書きだけで満足して、なかなかウェブに記事を公開しないことが増えてきました。どんどん記事がたまってきて、半月に1回くらい、まとめて更新するわけです。記事の日付は、記事を書いた日付なので、RSS リーダーの利用者などは「あれれ?」と思うのかも。
相手が無断リンクを禁止していても、基本的に気にしません。というか、そういったことを調べる習慣がない。あと、文中リンクは何より自分自身が後で読み返した際に参考になるように、という意図でやってる。一部の読者に不満があっても、基本的には知ったことじゃない。
同じことを何度も書くのは無駄だと思う。でも昔の記事って、微妙に今の感覚とずれていることが少なくないんですよね。だから同じようなことを繰り返し書くハメになることがしばしば。
過去と考えの変わったことについて、いちいち全ての過去ログを修正することはない。その一方で、文章の手直しなどは、じつはちょくちょくやっています。しかしリンク切れへの対処はやってません。あと修正日時などは基本的に明記せず、古い記述の保存もしません(理由:面倒くさいから)。
コメントははてなブックマークで受付けています。トラックバックには冷たいです。基本的にアンチコミュニケーション志向なので、はてブの微妙な距離感がちょうどいいですね、私には。
私にとって読者は、備忘録を書き続けるために必要な存在ではあるけれど、最初期から数人の読者がいて、それで十分だった。だから文章力の向上には関心ないな。必要な読者数は、出発点の時点で既に確保できていたんだもの。私はむしろ、向上心とか自分の成長とか、そういった色気を排除することに注力してきました。
趣味は趣味の分を守る方がうまくいく、そういう信念みたいなものがあります。ちょっと注意してほしいのですが、大上段に構えない、小さなレベルでの「もうちょっとこうしたい」みたいな感覚は、決して悪いものじゃないと思っています。
中国共産党政権でも世論はコントロールできないし、無視もできないという主張。私はこうした世界観を基本的に支持します。
「対日新思考」こそ胡錦濤政権の本音とする鳥居説は、信用できると私は思う。といっても、大学の研究室仲間や職場の同僚の中国人の方と話をしたりした、ごく個人的な狭い体験くらいしか、鳥居説を直感的に信頼に足るものと判断した根拠はないのだけれども。
まあ、暫定的に立場を決めるのであれば、それでいいのではないかな。
大筋では納得するけれど、ちょうど鳥居さんの主張と相反する部分について、私は留保をつけている。
google が一般名詞化するとブランドが消失してしまう。google が直面しているこの重大な危機を紹介する記事がこのところ相次いでいるけれども、問題のポイントをわかりやすく解説した記事がなかなかないなあ、と思っていた。日経ビジネスオンラインの解説は素晴らしい。
日経BP社のサイトにはいろいろ面白い記事があるので、この機会に日経BPパスポートの登録をしてみる価値はあるのではないか。
もし政府が月収40万円の家庭だったら(id:fromdusktildawn さん)と日本(ヒノモト)さんちの家計の事情(Dan Kogai さん)を受けて書かれた記事。
以前の「リフレ政策+歳出抑制→増税回避」のシナリオ(2005-08-23)に続くもので、今回はよりいっそう厳しい条件下で試算を行い、日本の財政が国民に極端な負担・我慢を強いることなく維持可能だと示しています。
ただ、bewaad さんは「まだソフトランディングの余地は十分にある」と示したに過ぎず、財政再建に(主に経済運営などの)努力が必要なことは否定していない。「当面財政赤字が続くとしても、収入の伸び率が支出の伸び率を(一定値以上)上回れば財政は維持できる」という説明には、なるほど納得させられるけれども、その実現は簡単ではないと思う。
高齢化の進展にともなう社会保障費の増大を上回る収入増は果たして可能か。可能でしょうね。経済成長が年3〜5%を維持できるなら、財政規律をきちんとし続ける限り収入増が勝つ。でも政策的に支出がグンと伸びるタイミングで都合よく収入を伸ばすのは難しく、だから年金制度の国庫負担見直しに臨んで増税論議から逃れるのは難しい。増税は経済成長の妨げになるのだけれど。
ところで、幸運が重なって景気が回復してきたといわれながら、法人税減税の観測記事が新聞に載る。景気が回復したから所得税減税を終了したところなのに、今度は法人税減税? いったい何なんだ。増税派の産経新聞が投げた牽制球なのかと思ったら、他紙でも同様の観測が。
その一方で日銀は年内利上げも辞さず、とのこと。物価の上昇と景気の過熱を予防したいとか何とか。過熱を心配するような状況なのだろうか。
経済学を少しお勉強してみて、自分の考え方はちょっとだけクリアになったけれども、世の中のことは相変わらずよくわからないなあ、と感じる。
オマケで、最近、面白いなあと思った経済論説記事をふたつ。
産経の社説は意外な感じがした。「高金利が何故いけないのか」という問いに対して、事実上「国民が怒っているから」とのスタンスなのだ。で、今回の金利制限を契機に、サラ金業界は簡素ながら従来より信頼性の高い審査システムを知恵を絞って構築し、低利で儲かる体質にステップアップするべしとの主張。
金利制限は国民のガス抜きと割り切っていればこそ、金利制限以外の法改正のポイントについて精力的に報道してきたわけか。もっとも、貸し倒れリスクの低減と簡単審査を両立せよとの提言からは、グレーゾーン金利が業界を甘やかしてきたとの認識(=銀行イジメを賞賛したのと同じ考え方)が透けて見えるが……。
bewaad さんは昨今の金利制限論議の経済学的誤りを説かれ、私も納得した。けれども妥協の末に方針の固まった自民党案も、産経の主張も、私にとっては許容範囲だ。両者とも国民の無理解とよく闘ったと思う。
RSS 利用者に冷たいことばかりいっているだけあって、この備忘録は Livedoor Reader にあまり登録されていない様子。というか、はてなブックマークの総件数が(例えば先行者利益によって)分不相応に高いだけ、というべきかも。
なお、日本語で書かれているだけで数百万もあるブログの中で、この備忘録が3桁順位をキープする人気ブログだという解釈は間違いです。はてなブックマークや Livedoor Reader の利用者には明らかな偏りがあって、それを掛け合わせたこのランキングにおいて、たまたまこうした順位が出てきているに過ぎません。
しかしこの偏りは感性とも言い換えることができて、はてなブックマークや Livedoor Reader の偏りによって、好みに合わないコンテンツをうまく排除できているという人は少なくないと思う。というか、そういう人が、はてなブックマークなどの継続的な利用者になっているのでしょう。
結論:このランキングは「偏り」を意識しながら参考にする限り有用な情報だと思います。(いいたいことはそれだけか!)
少年犯罪データベース管理人が指摘する件については、私も関心を持ち続けている。殺人の認知件数は2004年で1419件にもなる。1日平均3.9件……つまり未成年が犯人だと顔写真や名前が保護されることが議論の種となっているが、そもそも年間1000件近い殺人事件が被害者の名前さえ報道されずにいるのだ。
今朝の産経新聞朝刊をあらためて精査してみたが、新たな殺人事件はたった1件しか報じられていなかった。殺人の検挙率は9割に達しているというが、マスコミは果たしてその実態を報道の立場できちんとチェックできているのか? どうもよくわからない。
文学界ではどうだろう。東野圭吾さんの作品を読み返してみるに、マスコミがそれなりに存在感を持っている事例とそうでない事例がある様子。全く報道されない殺人事件について、ミステリー作家の見解も聞いてみたい。マスコミの存在を捨象した小説、逆に報道被害などを扱った小説、劇場型犯罪を描く小説、警察や探偵や犯人の情報交錯によって報道が規制された犯罪を取り上げた小説などはたくさん読んだが、過半の殺人が報道されない状況自体をテーマにした小説は記憶にない。
きっと、私が知らないだけなのだろうが。
飲酒運転による死亡事故はどんどん減っていて、そしてまた飲酒と無関係の死亡事故の方が圧倒的に多いのは昔から変わらない。にもかかわらず、なぜ今、飲酒運転撲滅運動なのか? その疑問はわかる。ただ、私は陰謀論には与しない。マスコミや警察にそんな力があるなら、世の中こうはなっていない。
法務省の法務総合研究所の調査結果によれば、痴漢やセクハラを含む性的暴行の被害率(最近5年間)は2.7%となっている。女性のみの調査結果なので、単純に6000万人の2.7%を求めると162万人。警視庁の資料によれば、卑猥行為検挙件数の8割弱が電車内でのもの。年間2000件強の痴漢犯罪検挙数に対して暗数は数十倍(10万件前後か?)との警視庁の予測には納得できる。
たった2千件程度の検挙件数に恐れ戦く人もいる。例え僅かでも冤罪は重大な問題だが、暗数の大きさを考えれば検挙件数は「少な過ぎる」というべきだろう。
小説家の坂東眞砂子さんが日本経済新聞紙上で公開した、飼い猫の避妊手術を拒否しつつ飼い猫の生んだ子猫を殺していることを告白したコラムは、ウェブで大きな反響を呼んだ……らしい。子猫を殺すことは、避妊手術をするより重い罪である、と多くの日本人は考えるのだそうだ。
私が坂東さんの作品に初めて触れたのは高校生の頃。伝奇小説の枠内に概ね収まる初期作品が私の読書傾向に見合っていて、「死国」や「狗神」などを楽しく読んだ記憶がある。しかし直木賞受賞後の展開は私にはやや高級すぎたかも。かの傑作「桃色浄土」のバランスがマイベスト。
小学校の教室。天敵のいない水槽でメダカを飼うと、メダカの親は、自分の産んだ卵を自分で食べて適当に間引きする。じつは生まれた稚魚さえ自分で間引きしてしまうことがある。
かわいそうだといって卵を別の水槽に移したはいいが、結局100匹も育てられるわけがなく、とうとう裏山の池に捨てる羽目になった。目の前で死にゆく様を見るのがしのびないからといって、目に見えぬところで死んでもらおうというのだから身勝手な話だ。しかしこうしたことは残酷だからメダカに避妊手術を受けさせよう、なんて話はどこからも出なかった。
断種手術を受けていない猫を放し飼いにすると、子育てが許されない環境であるにもかかわらず、彼らはどんどん子を作る。何度、子と引き離されても、懲りずに産む。そこで多くの飼い主は、何ら罪の意識を感じることなく、頭の悪いペットから生殖の権利を奪う。不幸に生れ落ちる子猫を減らすためなら、猫の権利は制限されていいということだ。しかし子猫が何度殺されても、親猫は断種手術を望んでいないように見えるが……。
日本で中絶される胎児は年々減少しつつあるものの、なお年間約30万人。育てられない子どもを作ってしまう人間は、現代日本にもたくさんいるわけだ。しかし子どもの中絶を招いた親たちが強制的に断種させられてしまうことはない。それは人権侵害で、許されないことなのだそうだ。
中絶と生まれた子を殺すのは別問題、という人は多そうだが、その根拠は微妙だと思う。中絶を正当化するために受胎後数ヶ月までの胎児は人間じゃないと決めただけ、と見えてしまうのは私だけだろうか。
子作りを自制できない親猫たちは、例えば野性に返されたって相変わらず多くの子を産み続ける。当然、多くの子を死なせてしまう。人間が直接に手を下したらダメだが、自然界が生命を淘汰するならOKなのか。しかしメダカなら人が手を下しても気にしないのだ。なんか、妙じゃないか。
いろいろな意見を読みながら連想した話をふたつ。
大輪の菊の花を育てるために、多くの蕾がまだ青いうちに切り落とされる。墓参りへいくと、切花がたくさん飾られている。人の死を悼んで子を宿した植物を殺す。花壇の美しさに感動しながら、花びらが落ち、種が育ち始めると、容赦なく植え替えてしまう。何のために花は咲いたのか。感動のお礼に命を奪う私たち。
世界で僅かな人々が感染した鳥インフルエンザへの恐怖から数百万羽のニワトリが焼却処分された。1羽ずつ検診し治療するお金と手間を惜しんで命を粗末にする。そのくせ人命尊重の旗印を掲げているこの尊大さ。天然痘ウイルスを絶滅させてバンザイといっているのが人類である。
坂東さんの本、リストアップしてみると、半分くらい読了しているらしい。
ちなみに著書が多い作家の中で私の読了率が高いのは、まず5年前までは全作品読了となっていた大沢在昌と原田宗典、そして全集まで手を出して7割超を読んだ筒井康隆。作品はそれほど多くないけれど真保裕一は3年前までは全作品読了。岡田斗司夫の本も絶版で入手困難な1冊以外は完読。
少しずつ、また備忘録を書いていこうかな、と。
といっても、思い起こすに以前の備忘録更新を支えていたのは、主に惰性だったような気がする。「書かない生活」に慣れて久しく、漠然と「書きたい」と思ってはいるものの、実際に「面倒くさい」の壁を乗り越えて書き続けられるかどうかは微妙なところ。
とりあえず、やたらと溜まっている「何か自分の感想を書きとめておきたい」と考えてブックマークしていた記事群を少しずつ片付けていくつもり。
大勢が既に言及していて、私が付け加える価値のない話題が多いような事例でも、淡々とコメントしていく、と宣言しておこう。この開き直りなしには、自分自身が徒労に耐えられそうにない。そもそも「書きたい」という根拠不明の気持ちさえどこかへ消えてなくなってしまえばいいのに、と恨めしく思うが、仕方ない。
眠い。
No | 作品名 | 公開年月 | 観客動員数 |
---|---|---|---|
01 | ゴジラ | 1954-11-03 | 961万人 |
02 | ゴジラの逆襲 | 1955-04-24 | 834万人 |
03 | キングコング対ゴジラ | 1962-08-11 | 1255万人 |
04 | モスラ対ゴジラ | 1964-04-29 | 720万人 |
05 | 三大怪獣 地球最大の決戦 | 1964-12-20 | 541万人 |
06 | 怪獣大戦争 | 1965-12-19 | 513万人 |
07 | ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 | 1966-12-17 | 421万人 |
08 | 怪獣島の決戦 ゴジラの息子 | 1967-12-16 | 309万人 |
09 | 怪獣総進撃 | 1968-12-20 | 258万人 |
10 | ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 | 1969-12-29 | 148万人 |
11 | ゴジラ対ヘドラ | 1971-07-24 | 174万人 |
12 | 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン | 1972-03-12 | 178万人 |
13 | ゴジラ対メガロ | 1973-03-17 | 98万人 |
14 | ゴジラ対メカゴジラ | 1974-03-21 | 133万人 |
15 | メカゴジラの逆襲 | 1975-03-15 | 97万人 |
16 | ゴジラ | 1984-12-15 | 320万人 |
17 | ゴジラVSビオランテ | 1989-12-16 | 200万人 |
18 | ゴジラVSキングギドラ | 1991-12-14 | 270万人 |
19 | ゴジラVSモスラ | 1992-12-12 | 420万人 |
20 | ゴジラVSメカゴジラ | 1993-12-11 | 380万人 |
21 | ゴジラVSスペースゴジラ | 1994-12-10 | 340万人 |
22 | ゴジラVSデストロイア | 1995-12-09 | 400万人 |
23 | ゴジラ2000 ミレニアム | 1999-12-11 | 200万人 |
24 | ゴジラ×メガギラス G消滅作戦 | 2000-12-16 | 135万人 |
25 | ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃 | 2001-12-15 | 240万人 |
26 | ゴジラ×メカゴジラ | 2002-12-14 | 170万人 |
27 | ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS | 2003-12-13 | 110万人 |
28 | ゴジラ FINAL WARS | 2004-12-04 | 100万人 |