今年の読書感想文コンクール課題図書の内、私が読んだものをメモ。
順番にご覧ください。
以下、ブックマークコメントを抜粋。
- 2005年08月31日 keijis 『[政治][blog]こういう形態で記事を書くと、非常にわかりやすい。ブクマとコメントの突っ込みも含めて読むべし。』
- 2005年08月31日 kaoru3_16 『いままで読んだ解説のなかで一番わかりやすい!』
- 2005年08月31日 s162 『[へぇ]おーまさにそれがききたかった。あとでよもーブクマのコメントすら役立つなー』
- 2005年08月31日 schillasal 『[politics]分かりやすすぎる。分かりやすい話ほど落し穴に気をつけろ!』
- 2005年08月31日 type99 『[郵政民営化] わかりやすさと、内容の良し悪し・主張の正誤は関係ないはずなんだけど、気にしないひとも多い模様。』
- 2005年08月31日 k3jaco 『[郵政民営化]噛み砕いて書いてはあるが』
- 2005年08月31日 nabeso 『[郵政民営化]政党云々は無視したら良い感じ。財政の立て直しに関してもっと踏み込めたかな』
- 2005年08月31日 kaerudayo 『[ネタ][政治]強者のための政治を選んだのは、国民なわけで。』
- 2005年08月31日 jazzanova 『[senkyo]分かりやすい。ただ民主党の外交面の政策が嫌なんで自民しかないのが現状…』
- 2005年08月31日 tetsu_y1 『パッケージうんぬんの話はおもしろかった。』
- 2005年08月31日 kennak 『[日本] 凄い分かりやすい・・・この人に残りの政策パッケージの説明を・・・w』
- 2005年08月31日 rhosoi 『[$]読み易いなぁ〜』
- 2005年08月31日 chipher 『居酒屋トークとしてはアリ。』
- 2005年08月31日 kazz7 『[郵政民営化]まだ考える時間はある。』
- 2005年08月31日 castingvote 『[あとで読まない]競争社会というよりは、強者に優しい社会だね←モノは言い様だな。他にも香ばしい恣意的解釈が盛りだくさん』
- 2005年08月31日 hi-rocks 『[政治] いろんな異論wもあるようですが、考える材料としてはわかりやすくてよいんでは。』
- 2005年08月31日 stealthinu 『[社会]先生に聞く形式にすると先生は正しいことを言ってるように見える弊害があるなと思った』
- 2005年08月31日 yose 『[★][政治][選挙]議論のプロセスはともかく結論(各党投票理由)がお粗末。政策を見ればパッケージの方向性は見えるのでは?』
- 2005年08月31日 nekotank 『[ネタ][Blog]めちゃめちゃわかりやすい!選挙に行く材料にはなると思う』
- 2005年08月31日 swan_slab 『小泉=脱福祉化。最後の結論がいい。政策パッケージの方向性が有権者の利害と完全に一致することはない。』
- 2005年08月31日 ogawama 『[column] 長いけどわかりやすい』
- 2005年08月31日 ululun 『どこにいれてもなぁなぁの日本は続くのがわかってるから選挙に行きたくなくなるんだよな』
- 2005年08月31日 mozy 『[郵政民営化]「第二に、現状に不満があるんだから、前職・元職には投票しないこと。」なる、こういう考えもありかー。』
- 2005年08月31日 style_blue 『[ネタ]これ鵜呑みにする人が出たらそれはそれで問題だな。』
- 2005年08月31日 tinuyama 『[政治][溝通]「政策は取引されるから、パッケージで選ぶのが現実的」』
- 2005年08月31日 himagine_no9 『[選挙]入院しててしばらく更新が止まってた(らしい)『ことのは』。復帰した途端に直球!』
- 2005年08月31日 ykurihara 『「いろいろ間違っていると思うが…」finalventy氏の解説キボン』
- 2005年08月30日 finalvent 『いろいろ間違っていると思うが…。』
- 2005年08月30日 mutronix 『[勉強]学ぶべきは聞く勇気。』
- 2005年08月30日 hando 『[society]よくわかったような気がする。』
コメント率は約3割。7割弱の無言のブックマーカーの意向はわからないけれど、「そうか、こういう記事が人気あるのか」とあらためて実感。相変わらず「物事の本質は単純(であるべき)」みたいな人が多いのですね。あと、予想通り憶測を前提に批判する記述が多々あり、やはり松永さんも批判されているのが他人なら憶測メソッドに無頓着なのだな、と思いました(関連記事)。
みんな“陰謀論”と“大人はうそつき”と“俺たちはだまされていたんだ!”が好きだなあ。これをMMRメソッドと呼びます。
あれっ、FC2 ブログの利用者は逆リンクランキング文化を知らないのか。
これね、じっと登録を待っていたって仕方ないのであって、どんどん自分で勝手に登録しちゃえばいいんですよ。FC2 にはアクセス解析サービスがありますよね。だから「いつもここから人がたくさん来るなあ」というのは調べれば分かるわけです。でも、「いちいち返事やお礼を書くのもな……」というケース、ありがちです。
そこで、逆リンクランキング。リンク柱の進化系と思えばいい。はてなアンテナとか blogpeople だと、更新されれば勝手に上に登場するのだけれど、それがいいところでもあり、悪いところでもあるわけです。自分のところに多くのアクセスを流してくれる相手こそ上位に登場させたい! そんなあなたには逆リンクが最適。
単なるアクセス解析結果の公開とは何が違うかというと、
といったあたりでしょうか。仲間内でぐるぐるアクセスを回して、蛸壺的コミュニティを作っていくのには非常に便利な機能なので、みなさんどんどん「勝手に登録」していくことをお勧めします。
従来、逆リンクランキング CGI 業界ではサーバ設置型の CGI を配布する CJ-Club が圧倒的なシェアを誇っていました。この CGI では管理者だけが登録権を有し、登録申請システムは存在しませんでした。それはなぜか? ということなんですけれども、この CGI は、じつはアクセス解析結果の一部を公開する、という発想で作られているのです。したがって、特定のリンク元を「除外する」仕様なんですね。そして、ランキングに残したいリンク元には名前をつけましょう、というわけ。
ブログツールとしてこの仕様をそのまま採用するのは不可だったはずです。なぜなら、ブログでは通常、リンク元が日々大変動しますから。ちょっと管理を怠ると、すぐに気に入らないリンク元ばかりのランキングになってしまいかねない。そこで、表示したいリンク元を「登録する」仕様としたのだろうと推察します。それにしても、なんで管理者じゃなくて、リンクした側の「登録申請」なんてシステムにしたんでしょうね?
正直、私はこの仕様、変だと思います。ランキング管理者による登録が主で、リンク側の申請は例外的機能だというなら、理解できるのですが。しいていえば、アクセス解析を使っていないユーザへの配慮、そして「勝手にランキングを作るな!」というトラブルを避けるため、かな。
FC2 ブログ同士じゃないとリンク切れになってしまう様子。そういうことはマニュアルに書いておいてほしいな〜。
やられた。詳述はしませんが。メモとして。
変な名前だったので、あれっ!? と思ったのです、一応。心配になってウイルス検査したのだけれど、大丈夫だというので、実行。自動解凍形式の圧縮ファイルだろうと思ったんですね。
まさかリムーバブルディスクの中身まで消されるとは思わなかった。ウィンドウズ自体、立ち上がらなくなっちゃうし(自業自得で立ち上がらなくなったのはA4ノートパソコン、この記事は携帯用のB5ノートパソコンで書いています)。
バックアップを保存していた大きなリムーバブルディスクが空になってしまったので、ちょっとガックリきたのは事実。ただまあ、それは復活できたから別にいいのです。参ったのは、消えても問題ないと思っていたファイル。
システムファイルとかソフトウェアとか、そういったローカルのハードディスクに置いてあるファイルは毎日バックアップを取っていたのだけれども、小さなリムーバブルディスクに入っていたメモファイルの類は、消えても問題ないような内容ばっかりだと思い込んでいました。実際、大半は消えても問題なくて、これを期におさらばするつもりなのですが、やっぱりひとつふたつはあるものですね、痛いデータが。
一番、消えてつらかったのは今年観た映画の一覧。タイトルをメモしていただけなのですが、丸8ヶ月、1回も外部メディアにコピーをとっていない。あーあ。やっぱり、メモ用のブログか何かを作っておくべきだったなー。いちいちネットにつなぐのが面倒くさいから、リムーバブルディスクの中のメモファイルに記録していたのだけれど、せめて月に1回でも HTML 文書化してサーバに上げておけばよかったと思う。公開していい内容だったのだし。
でも、よく考えてみると、記録をつけ始めたのは昨年から。1年半でそれ以前の人生で見た全映画よりたくさん観たというくらいのハイペースだったとはいえ、もともとは記録なんてつけていなかったわけです。じゃあそのことを悔しく思っているかといえば、そんなことはない。あああああ、私は今日、こうして悔しい気持ちになるためだけに記録をつけてきたのか!?
復元というソフトウェアがあります。インターフェースがいまひとつ洗練されていないので、大量のファイルを拾い出すには向かないのだけれど、これぞというファイルを甦らせるには非常に便利なソフトウェア。私はおっちょこちょいなので、とんでもない失敗をやらかして、件のファイルを拾い損ねましたが、みなさんはぜひ落ち着いてご利用ください。上書き保存で「やっちゃった」場合はダメですが、うっかり削除ならこれでたいてい助かります。
歴史を書かない女性たちについて終わらない夏というモテ・非モテを語った記事と関連があるのでは? との指摘がありましたが……私には理解できませんでした。
モテ・非モテの話題はオタク方面で人気ありますけど、自分自身の問題としては切実感ないです。私はある時点でアドレス帳を捨ててしまったのだけれども、それは何故かといったら、人間関係を維持することが煩わしくなったからでした。よーく考えてみたところ、「私にとって、人とのつながりの価値は、維持コストに見合わない」という結論に達したのです。(参考?)
だいたい虫唾が走るくらい電話が嫌いなのに、電話番号を交換するなんて馬鹿げています。メールなんて面倒くさすぎて書く気がしないのに、アドレスを教えてもらっても意味がない。全然興味ないのに服屋へ行くのもアホらしい(ただ着るだけの服ならスーパーの通路沿いのカゴから拾えばいい/安いしね)。土日は出かけたくないのに外出の約束なんかしたら憂鬱。
私の父は幸せ者です。服装なんて気にかけず、誰にも電話せず手紙も書かず、週末はいつも家でごろごろしているのに、母と仲がいい。満ち足りてふやけた顔してます。父は最初から今と同じ生活をしているので、釣った魚に云々のおじさんたちとは違う。やりたくないことをしてモテたって、父のようにはなれないと思う。
ちょっと仲良くなると、すぐにメールとか送ってくるような人は面倒くさい。返信しないと怒るので嫌になる。電話もはじめの数回は愛想よくもするけれど、とくに用もないのに電話をかけられることが続けば不愉快です。手をつなぐのも腕を組むのもうざったい。つまり、そういうことがしたい人とは付き合いたくない。
私の父は自己管理能力に欠けた人で、結婚前の生活は崩れていました。「結婚資金が貯まった」ではなく、「サラ金を完済した」ので結婚したというくらい。だから賢くて自己管理のしっかりできる母と結婚して、人生の崖っぷちから救われました。問題は母に父と結婚する理由がないこと。なぜ見合いで父を選ぶの? ただ、私の知る限り、いつも母は幸せそうだったし、自分でもそういってきました。「顔が気持ち悪い」「なんてバカなの!」「話すだけ無駄ね」と父を貶してばかりいるのに、結婚は後悔していないらしい。
……すると当然「(成功の秘訣は)セックスじゃないの?」という意見が出てきますが、両親はずっと完全に寝室を分けてきました。生活パターンも全然違う。敬虔なキリスト教徒のような関係だったとしても不思議じゃない。
とにかく、お互いが自然体で振舞ってる両親のもとで育った私が、モテるために何か努力するなんて無理。そもそも現状の生活に何ら不満ないのに、どうして努力する必要があるだろう? ちなみに結婚前の母も、人生に満足していたという。縁があればそれもよし、なければないでよし。
今夏の高校野球大会で57年ぶりの夏季連覇を果たした駒大苫小牧。「好事魔多し」の言葉通り、大会直後に公になった27歳の部長(注:多くの運動部では伝統的に監督>部長>コーチ>部員という体制を採用しており部長は組織のナンバー2にあたる)による部員に対する過剰体罰事件が耳目を集めることに。幸い、日本高校野球連盟は27日に大阪市西区の中沢佐伯記念野球会館で臨時審議委員会と大会運営委員会を開き、優勝は認め、部長は有期謹慎、野球部は警告とする処分を決定した。
指導者の不祥事への対処としては前例通りの判断となったけれども、今年は生徒間暴力事件の発覚により明徳義塾高校が大会直前に出場辞退となったため、たいへん騒がれた。大会参加者資格規定に、責任教師や監督の不祥事に対する具体的な処分規定が記されていないことがこのような不安を招いたので、罰則の明文化を求める機運が高まっているとのこと。
……という話は私の興味の外であって、気になったは以下の件。
そうそう、体罰はされる側に原因があるし、いじめはいじめられる側、キモメンはキモがられるほうに責任が!
というコメントがブックマークにたくさん寄せられているのだけれども、例えばスポーツ報知による以下の報道はご存知だろうか。25日付なので、殴った回数について当初の「3〜4発」から「10回程度」へ「訂正」する見解を学校側が発表した後に出てきた記事だということにも注意。
学校側は暴力の現場にいた主力選手7人から事情聴取した。その結果「2、3発平手で叩いたら(被害生徒が)反抗的に部長に詰め寄った。30〜40発なんて絶対に殴っていない」と話し、今月7日のスリッパ殴打事件についても「(被害生徒は)注意された後、ポケットに手を突っ込み、ニヤニヤした態度を取っていた」など、部長に同情的な証言が相次いだという。
学校側のいうことなんて信じない、という意見はありうるし、なんであれ体罰は全部ダメという意見もあっていい。ただ私は、被害生徒の父親の話より、この報道の方に強く真実味を感じた。そして、事件の実相が、この簡単な記事の中によく表れていると思った。体罰も程度と事由次第と考えていることもあって、こうした現場の証言を読むと、単純に「部長が悪かった」とする意見には、素直に賛同しがたいものがある。(参考:事件関連の主要ブログ記事リンク集)
ところで、27日の西武-楽天 戦で、西武の西口文也投手(32歳)が27人を完璧に抑えたのに、延長10回の先頭打者、28人目の沖原に右前安打を浴びたニュースは興味深かった。延長のためノーヒットノーランが破れたのは9試合あるが、完全試合が消えたのは今回が初めて。2002年にも9回2死までノーヒットノーランを続けながら28人目にヒットを打たれた西口ならではの大記録。9回を零封した楽天・一場の力投も立派で、素晴らしい投手戦だった。
試合は延長10回、西武が一場に代わった福盛を打ち崩し1点を入れてサヨナラ勝ち。延長戦の1安打完封勝利は1970年7月31日の巨人戦で11回を投げた江夏豊(阪神)以来となる。ちなみに江夏は1973年8月30日の中日戦で延長を制してノーヒットノーランを達成し、不滅の大記録となっている。なお完全試合投手は過去16人おり、1994年5月18日の槙原寛己(巨人)が最後。(参考:西口文也、あわや完全試合)
うちの祖父の言っていたことの一つ。 「女が勉強して碌なことはない。」 女性研究者が増えると相対的に出生率が下がる(^^;
という冗談はさて措き、女性中心の世界の歴史 というのは、男性中心の世界の歴史と同じだと思います。 というより歴史は本質的に男女に関係しない。 史実として記述されるのが男性の方が多いことは有り得るのですが、それらの史実から真実を見付けるのが歴史。 真実に男女は無い。
前段、じつは女性の学歴と出生力にさしたる関係がないことを示すデータがあります。
後段、私がいいたいのは抽象度の高い話ではなくて、もっと個別具体的な話です。例えば女子中高生のウェブサイトでトップページの累計ページビューが300万を超えたケースが過去にいくつかありますが、それを彼女らはちっとも記録に残そうとしない。まずサイトの管理人があっさりと閉鎖・消滅の道を選ぶことに驚かされます。しかし、そうした事態を深刻に考える人が見当たらないことはもっと衝撃的でした。
良くも悪くも、彼女らは「消えてしまうこと」に抗おうとしない。1万人以上も読者・利用者がいても、誰一人、閉鎖・消滅への抵抗をしない。淡々とリンクを外しておしまい。そのため、これまでに様々な個人サイト群の歴史が書かれているものの、女性ばかりが参加していた世界の情報は抜け落ちています。
以下、なぜか当事者が書かないメモをひとつ記します。
いわゆるぱど厨問題について、小中学生の頃からウェブに接してきた層がこれから社会に出てくることを不安視する意見があります。杞憂だと思います。男子の成長過程は(リサーチ不足の)私にはよく見えませんが、女子については、大雑把な流れがありますので、簡単に説明します。
女子のウェブとのかかわりは前期と後期に分けることができます。前期は(パソコン操作と日本語の読み書きに習熟する)小学校5〜6年生から中学卒業までです。ふみコミュニティなどのランキングサイト、ぱどタウン、カフェスタ(=ガイアックスの進化系)などに大勢集まっているのが前期層です。後期は高校を卒業した大学生、専門学校生など。後期グループの発言や行動は、大人のそれと見分けがつきません。
サイト批評サイトの管理者に中学生が非常に多いことから、私はある程度継続して状況を見てきました。その経験から、ぱど厨問題は世代論ではなく、成長の段階論として捉えるべきだと考えるにいたりました。4年前に「何だこいつらは!?」と眉をひそめた世代が、今は良心的なブロガーになってきているのです。中学生女子のコミュニティ形成とウェブコミュニケーションのあり方は、ほぼそのまま次世代へと受け継がれていき、卒業した当人達はそうした行動・考え方をさっさと忘れていく。
高校時代が空白地帯となっていて、同世代コミュニティの縮小、衰退が高い確率で起きます。サイトの更新頻度が激減したり、リンク先が次々閉鎖してサイトが孤立化したりしやすい。携帯電話にはまる時期なのかもしれませんが、とにかく、同世代だけで固まる前期から、大人たちの作っている幅広い世代が集う社会に参加していく後期へ変貌を遂げるための、いわばさなぎの期間として高校時代があるようなのです。
……こんな話は、私のようなおじさんではなく、当事者として「ガイアックスで遊んだ中学時代、ウェブからフェードアウトした高校時代、ブロガーとして再び舞い戻ってきた現在」を生きてきた方が書くべきではないのか。
男性だって、大半は自分とその近辺のことしか記さない。今のことしか書かない。だから、「大多数」を見れば男女に大差ない。けれども、ごく一部ではあっても、男性側からはネット論を語り、ネットコミュニティを俯瞰し、歴史を書く人が出てきます。母数が大きいから、割合は小さくても相当な人数になっています。女性にもネット論の書き手はいるのですが、不思議と「こちら側」の人ばかり。
「ぱど厨だった私」を語る人がなぜ出てこない? ガイアックス(今ならカフェスタ)のシステムにおけるコミュニティ形成とコミュニケーション作法のありようについて、内部からの視点でレポートする人がどうしていない? ネットマナー啓蒙サイトはとくに女性が多い同人サイト界隈で広まったのに、その流行の系譜を書く人がなぜいない? 大勢の人々が参加していたのに、既に歴史が失われている世界がたくさんあります。それでいいのか?
もちろん、このような問題意識、問いの立て方自体が、「こちら側」の発想だということはわかります。しかし……そこにあったはずの巨大なものが、跡形もなく消えていく。そのことを悲しく思い、哀悼の意を捧げるのが、私一人では寂しい。
ゆびとま会員は305万人。ブロガーの総数に匹敵します。カフェスタ会員は161万人。アクティブなブロガーの総数に匹敵します。楽天広場の会員は41万人。ブログ黎明期には他サービスの会員数総計を上回っていました。歴史の欠落は、現実世界の大きな存在を「見ない」アカデミズム側の問題でもあります。
夏休みの宿題の補足。
「お喋りする脳」と「文章を書く脳」は、感覚・印象と、合理・論理を分けて指していると思うのですが、説明の中では前者で文章を書き始めることを勧めている。 けれども、「お喋りする脳」で文章が書けるわけがない。 尤も、書くことは出来ます。 こういうものを駄文と言います。 教える時は、こういうことを教えてはいけません。 結果的に駄文になるケースはともかく、最初から駄文にしかならない方法を教えるのは如何なものでしょうか。駄文のための「作文」など書かなくて宜しい。 その代わり、毎日 畑仕事を手伝わせる。 芋掘りをさせる。 山林の下草刈りをさせる。 薪を集めて来させる、水汲みをさせる、風呂焚きをさせる、などなど、何らかの労働を強制する(躾ける)方が余程まし。 子供の人格形成という教育の原点を考えれば、こちらの方が良い。 また、このような情況にある子供は、作文ぐらいは書けるようになります。
うちの祖父が言った言葉。 「女が勉強して碌なことはない」。 田んぼが忙しい時は小学校を休んで農作業を手伝っていた うちのお袋ですが、手紙ぐらいなら苦もなく書きます。 しかし、それよりも大事なものを身に付けるべきだというのが祖父の真意だったと、今更ながら思う。
私の父は、手紙を書けません。年賀状すら、結婚するまで書きませんでした。結婚してからは、すべて母が代筆しています。文盲ではないし、喋るにも苦労しない。母が年賀状の文面を書き、それを写しなさいと指示すれば、その通りにはできます。ところが、自分で文面を考えようとすると、石像のように1時間でも2時間でも机に向かって固まっているのです。当然、父はメールも日記も書けません。
私が学校の課題で毎日「先生あのね」を書くようになった小学校1年生の秋以降、父は「お前は俺より賢い」といって、お勉強の話になると常に下座へ身を置くようになりました。駄文を書けなかった父は、小学生の日記にさえ恐れ入ったのです。
合理や論理といったレベルの話ではなく、とにかく「書く」ことができない人がいます。放っておいても書けるようになる、なんてウソです。賢い人の成功例を、お勉強が苦手な人に適用してはいけない。私は学力底辺層の子を多く抱えた塾で「書けない」事例にいくつも遭遇しました。文章を書くには基礎体力が必要です。駄文を書けない人は、内容・構成に気を配った文章だって書けません。段階を踏む必要があるのです。
駄文であれ、まず「書く」ことができなければ、一歩も先へ進みません。文章を書くことができなくても、人は生きていけます。けれども、書けるのと書けないのとではどちらがよいか。「考えたことを話す」ように「考えたことを書く」能力は、努力してでも身につける価値があると私は信じています。「先生あのね」は、その書き出しの指定からもわかる通り、「話すように書く」ことに慣れるためのプログラムでした。それが作文教育の原点だと思います。
けれども塾や学校では、私が紹介したような手のかかる指導法は採用できません(採算を度外視して特別補習を組むケースは例外中の例外であり、それを期待するのは間違いです)。だから、長期休暇中の作文指導が大切なのです。ご家庭にしかできない教育があるのだということを、知ってほしいのです。
私は方言については心配していません。全て会話文として処理し、地の文はト書き以外に用いないことを想定しているわけですから。
税金について母と話した。
「母ちゃん、あんなー、税金について話するっけど」
「ほいかー。税金な、うちはあんま払っとらんけどな。税務署の人らあ毎年律儀にあるってござるな」以下略
とりあえず、規定枚数はすぐに埋まります。すぐに埋まる、というところがポイントで、案外、作文って(少なくとも駄文を書いている限りは)大したことないんだよ、と体感していただきたいのですね。
関連文書の後日談を書くと、犬を飼う話は流れて、両親は金魚を飼いました。これがどんどん増えて、今では100匹を超えています。庭に作った池では足りず、水槽が家の周りに無数に置かれている状況。ホテイアオイも見事に育って毎日のように薄紫のきれいな花を咲かせています。優しい父は、生まれた金魚をみな大きく育てたいらしい。もうそろそろ水槽を置く場所が限界なので、悩んでいるのだという。
私の家庭教育に対する考え方のエッセンスは、「子は親の背を見て育つ」という記事に全て書かれていて、とくに付け加えるべきことはない。ただ、各論を言い出せばそれこそ無限に書くべきことはあるし、需要もそれなりにあるだろうとは思っていました。
夏休みは、家庭教育について見つめなおす絶好の機会です。けれども、大半の方は、お子さんには「勉強しなきゃダメでしょ」といいつつ自分はちっとも勉強しないという矛盾について、全く反省しないままのんべんだらりと過ごしてしまう。それでいいのか。
明日・明後日の週末は、真剣に家庭教育という問題に向き合う今夏最後の機会です。いまさらもう間に合わないよ、といった内容の多い特設サイトではありますけれども、よろしければご一読ください。
ちなみに作文講座が半分くらい出揃った先週以来、検索エンジン経由で人気爆裂中。いきなり備忘録より人気サイトになってしまったのだけれども、たぶん、読んで吃驚されたろうなあ。
「大人ができないことは子どももできない」のです。こどもに夏休みの宿題をやらせるためには、前提条件として、親にその能力があることが必要です。まずそのことを知らねばなりません。
のっけから、これだもんなー。きっと、検索しているのは、親じゃないと思うのですよ。たいていの親は、そんなことしない。最初から、子どもの宿題なんて手伝う気ないんだもの。しかも手伝うといったら、子どもの代わりに問題を解いたり作文を代筆したりすることだと勘違いしているんだもの。困っちゃうよなー。
自分の文章を朗読されるのは久しぶり。こうして MP3 形式になったものを聞くのは初めて。こうしていろいろに活用していただけると、「著作権を主張しません」と表明してきた甲斐があったなあ、と思う。
楽しく拝聴しておりますが、少しだけ補足させてください。
増税問題が持ち上がると、必ず政府の無駄遣いが批判されます。たしかに無駄遣いが存在することは事実です。しかし、その金額に注意していただきたいのです。一番大きなものでも、年金の数兆円の損失です。数兆円は大きな金額ですが、これは数十年間でたまった損失額です。一方、将来足りなくなる年金の金額は、毎年数兆円なのです。だから、無駄をなくすことは大切なのですが、年金給付額を減らしたり、納付額を増やしたりすることは避けられないわけです。
根本的にお金が足りないという話に対して、小さな無駄遣いを攻めても問題は解決しないという現実を、見て見ぬふりすべきではありません。消費税に国民が反対した、その気持ちはわかります。リクルート事件で政治家への賄賂が非常に問題視されていた時期でもありました。でも、やはり無駄遣いへの批判と、全体の状況を冷静にみるということは、分けて考えなければならないと思うのです。
民間企業だって、無駄が全然ないかといえば、そんなことはありません。無駄がゼロになる日がいつか来るか? 残念ながら、みんな努力しているにもかかわらず、来ないでしょう。だから、無駄遣いへの批判をするだけでは、無責任なのです。
イベントでマジレンジャーのショーに出演したスタントマンの挫折と再生の物語。
握手会には、個別ファンの子供が沢山いた。全身を推しカラーで統一している子、なりきりセットで変身している子、お面だけかぶってる子、推しレンのフィギュアを持っている子。そんな中でも、グリーン推しの子が意外と多かった。これがアニキ効果か? 僕はちょっと嬉しくなってとても丁寧に握手をしたが、なぜかグリーン推しの子たちの顔は、一様に曇っている。
「グリーンよグリーン。嬉しくないの?たっくん。」
「…だってよわいんだもん」俺は冷水を浴びせられたような気がした。
ハイライトは第3話。全4話となっているけれど、じつはサクッと読める長さ。第1話から順に読むことを勧めます。はてなブックマークではドラマ化なんて話も出ていますが、まずはマンガ原作として持ち込むのがいいと思う(割と本気)。
以前、九十九式で紹介されていた「アイドル、それは生きる希望」という吉澤ひとみの言葉を思い出しました。「ヒーロー、それは……」回答は、物語の中に。
素人目にも危険に見える日本の財政。評論家も新聞社の論説委員もテレビの解説委員も「財政均衡を目指すべき」と仰る方が多いのは、自然なことだと思います。だからといって、単純に短期間で財政均衡を実現しようとすれば悲惨なことになるのは目に見えていて、金融危機が懸念された頃にその重要性が喧伝されたリフレ政策を併用できるならしたい。ただ、財政均衡政策の「わかりやすさ」に対し、リフレ政策の成功シナリオが「見えにくい」ことが不安の種でした。
そこで、以下のやり取りを経て bewaad.com の webmaster さん(bewaad さん)に具体的なシナリオを描いていただきました。
以下、bewaad さんのご回答を転載いたします。
- リフレ政策に勝算ありや
- 序
財政赤字を問題視するならまずはリフレ政策の実現を、と以前書いたところ、そこで題材として取り上げさせていただいた徳保さんより、リフレ政策で本当に財政再建が可能なのかとの反問をいただきました。そこで、簡単な試算をしてみたいと思います。
- 保守的シナリオ
以前黒木先生がお示しのように、国の債務残高を方程式で表すと次のようになります。
来年の債務残高=今年の債務残高+利払い+利払いを除く支出−税収
「今年」を2005年度として初期値を置くと次の通りです(単位兆円。なお、データの都合上来年=今年度末、今年=前年度末としました)。
2005年度末の債務残高=505.1+8.9+73.2(=82.1−8.9)−44.0
(ソース:財務省資料(「平成17年度予算のポイント」、「一般会計公債の推移」)
2005年度末の債務残高見込みは538.4兆円なので若干の誤差はあります(税外収入の存在等によります)が、概ね妥当することが裏付けられました。ここで、「利払い」「利払いを除く支出」「税収」は次のような式にしたがうものと仮定します。
- 利払い
- その年度の国債の加重平均利率×前年度末債務残高(加重平均利率は、前年度の増分と残高の10%(借換の代用)が前年度の名目GDP成長率と同じ利率と仮定して算出。ただし、2006年度のみ2005年度と同一と仮定(2005年度はデフレ脱出前なので))
- 利払いを除く支出
- インフレ率と同じ比率で毎年度増加
- 税収
- 名目GDP成長率×1.1(税収弾性値)の比率で毎年度増加
冒頭リンク先で名目GDP成長率は5%台としていましたが、ここでは実質GDP成長率2.4%、インフレ率3%とし(2005年度の名目GDPは政府見通しに従い511.5兆円と置き、2005年度の国債加重平均利率は8.9/538.4(平成17年度利払いの同年度末債務残高に対する比率)=1.65%と置きます)、以上の前提で推計すると次の通りです(単位の記載がないものは兆円)。
年度 名目GDP(A) 債務残高(B) B/A(%) 国債加重平均利率(%) 利払い 利払いを除く支出 税収 2006 539.1 576.1 106.9 1.65 8.9 75.4 46.6 2007 568.2 617.3 108.6 2.25 12.9 77.7 49.4 2008 598.9 661.9 110.5 2.75 17.0 80.0 52.3 2009 631.3 709.9 112.5 3.18 21.0 82.4 55.4 2010 665.3 761.2 114.4 3.53 25.1 84.9 58.7 2011 701.3 815.5 116.3 3.83 29.2 87.4 62.2 2012 739.1 873.0 118.1 4.08 33.3 90.0 65.9 2013 779.1 933.4 119.8 4.29 37.5 92.7 69.8 2014 821.1 996.6 121.4 4.47 41.7 95.5 74.0 2015 865.5 1062.6 122.8 4.62 46.0 98.4 78.4 2016 912.2 1131.3 124.0 4.74 50.3 101.3 83.0 2017 961.5 1202.5 125.1 4.84 54.8 104.4 87.9 2018 1013.4 1276.1 125.9 4.93 59.2 107.5 93.2 2019 1068.1 1351.9 126.6 5.00 63.8 110.7 98.7 2020 1125.8 1429.7 127.0 5.06 68.4 114.0 104.6 2021 1186.6 1509.5 127.2 5.11 73.0 117.5 110.8 2022 1250.7 1590.9 127.2 5.15 77.8 121.0 117.3 2023 1318.2 1673.7 127.0 5.19 82.5 124.6 124.3 2024 1389.4 1757.7 126.5 5.22 87.4 128.4 131.7 2025 1464.4 1842.6 125.8 5.24 92.2 132.2 139.5 2026 1543.5 1928.0 124.9 5.27 97.0 136.2 147.8 2027 1626.8 2013.6 123.8 5.29 101.9 140.3 156.6 2028 1714.7 2098.9 122.4 5.30 106.7 144.5 165.9 2029 1807.3 2183.5 120.8 5.31 111.6 148.8 175.7 2030 1904.9 2266.9 119.0 5.33 116.3 153.3 186.2 2021年度に債務残高の対名目GDP比率はピークアウトすることとなります。
- キャッチアップ効果シナリオ
上記の保守的シナリオでは、いわゆる「失われた10年」に抑制された成長は取り戻せないものとして推計しています。しかし、安定的に名目成長が確保されるとの期待が広く社会に行き渡れば、これまでの消費や設備投資を抑制していたことの反動分の成長があると考えるのが自然です。というのも、これまでデフレ期待の下で所得は消費や投資ではなく貯蓄に回されがちでしたが、貯蓄とは将来の消費や投資のために行われるものですから、所得のうち消費や投資に回す分に加え、貯蓄を取り崩して消費や投資が行われる部分があるからです。
この反動がどの程度のものとなるか、まずGDPギャップ(デフレギャップ)を見ますと、日本の潜在(実質)GDP成長率として用いている2.4%を割り込んだ1997年以降、平均して2.4%成長が可能だった場合の実質GDPは2004年で606.5兆円となり、実績の534.0兆円は差額で70兆円強、比率で約14%、本来可能だったはずのレベルを下回っていることになります。
また、リフレ政策の指標としてプライスレベルターゲットを用いた場合、仮にデフレがなかった場合の物価水準に追いつくことを目標にインフレ率を誘導することになりますので、追いつくまでの期間は巡航状態のインフレ率(保守的シナリオでは3%)よりも高いインフレ率が維持されることとなります。ちなみに追いつくべき物価水準は、1995年以降のGDPデフレータが平均3%上昇していた場合をゴールとすると、2005年政府見通しまでで約50%上の物価水準(1994年を100とした場合の2005年までの実績・見通しベース物価水準が90.9に対して、3%インフレが継続していた場合の物価水準は138.4)ということになります。
#以上の実質GDPやGDPデフレータなどは、平成12暦年連鎖価格GDE(GDP)需要項目別時系列表によります。
どの程度の期間をかけてこうした喪失分を取り戻していくかは政策判断ですが、とりあえず10年かけてキャッチアップすると仮定した場合、このキャッチアップ期間においては平均実質GDP成長率が1.28%押し上げられて3.68%、平均インフレ率は7.5%となり、平均名目GDP成長率は11.18%ということになります。
#これだけのインフレ率を維持した場合には為替レートが押し下げられ、輸出拡大によるGDPの更なる上昇があるとは思いますが、とりあえずその効果は捨象することとします。また、貯蓄取り崩しが原資となりますので、キャッチアップ期間における金利は名目GDP成長率を下回ると想定されますが、その効果も捨象することとします。というのも、いずれもwebmasterのスキルでは適当な推計式が立てられないもので・・・。
このキャッチアップ効果(キャッチアップ期間経過後(2016年度以降)は保守的シナリオと同じ前提に戻るものと仮定します)を加えて先の試算を再計算すると次の通りです。
年度 名目GDP(A) 債務残高(B) B/A(%) 国債加重平均利率(%) 利払い 利払いを除く支出 税収 2006 568.7 576.6 101.4 1.65 8.9 78.7 49.4 2007 632.3 623.9 98.7 3.17 18.3 84.6 55.5 2008 703.0 680.8 96.8 4.52 28.2 90.9 62.3 2009 781.5 747.3 95.6 5.69 38.7 97.8 70.0 2010 868.9 823.6 94.8 6.67 49.9 105.1 78.6 2011 966.1 910.2 94.2 7.50 61.8 113.0 88.2 2012 1074.1 1007.0 93.8 8.18 74.5 121.4 99.1 2013 1194.2 1114.3 93.3 8.74 88.0 130.6 111.3 2014 1327.7 1232.2 92.8 9.20 102.5 140.3 125.0 2015 1476.1 1360.6 92.2 9.57 117.9 150.9 140.3 2016 1555.8 1487.0 95.6 8.80 119.7 155.4 148.7 2017 1639.8 1611.4 98.3 8.20 121.9 160.1 157.5 2018 1728.4 1733.8 100.3 7.72 124.4 164.9 166.9 2019 1821.7 1854.2 101.8 7.34 127.3 169.8 176.8 2020 1920.1 1972.2 102.7 7.04 130.4 174.9 187.3 2021 2023.7 2087.8 103.2 6.78 133.8 180.1 198.4 2022 2133.0 2200.4 103.2 6.58 137.3 185.5 210.2 2023 2248.2 2309.8 102.7 6.40 140.9 191.1 222.7 2024 2369.6 2415.4 101.9 6.26 144.6 196.8 235.9 2025 2497.6 2516.6 100.8 6.14 148.3 202.8 249.9 2026 2632.4 2612.7 99.2 6.04 152.0 208.8 264.7 2027 2774.6 2702.9 97.4 5.95 155.6 215.1 280.5 2028 2924.4 2786.3 95.3 5.88 159.0 221.6 297.1 2029 3082.3 2861.9 92.8 5.82 162.2 228.2 314.8 2030 3248.8 2928.6 90.1 5.77 165.1 235.0 333.5 こちらのシナリオですと、キャッチアップ期間中において債務残高の対名目GDP比率がいったん減少するものの、その際の高金利債務が巡航速度に移った後の利払い負担として残るので再度上昇し、最終的なピークアウトは保守的シナリオと同じ2021年度ということになりますが、いったん下がるだけにピークの高さはより低いものにとどまっていますし、先に触れた外需や金利上昇抑制の効果など、試算に組み込んでいない要素の存在を考えれば、さらに良い数字が出る可能性は十分にあると考えられます。
- いくつかの補足
徳保さんのご指摘の中で、以上では若干舌足らずな部分について補足説明をいたします。
- 債務残高の対GDP比率はどの程度であるべきか
国債残高はGDP比40%以下とするべきと聞きますとのことですが、現時点において対GDP比率について一定のあるべき水準が経済学界において見解の一致を見ていることはありません。財政赤字の本質的問題はクラウディングアウト、すなわち本来民間で活用されるべきリソースが政府に囲い込まれて民間部門がリソース不足になることですので、リソースの絶対量や民間での需給など各国の事情によって変わってきます。一説には、対GDPで200%を超えるような債務残高水準は経験則上サステイナブルではないとの指摘もありますが、いずれにしても、40%まで落とさなければならないといったことはありません。
- 歳出規模を維持・拡大して何をすべきか
昨今の政治状況を見るに、公共事業では国民の支持が得られません。手厚い社会保障施策を国債発行で賄うような形になる?(つまり最終的な「消費」の主体は国民)……そのあたりも含め、どのような政策が考えられるのか、ぜひご意見をうかがいたいですとのことですが、公共事業にしても外環道や圏央道などには需要があるように思いますし、環境問題でも幸か不幸か経済停滞のおかげで現在はCO2排出量の伸びが抑えられているものの、経済成長が続けば何らかの対策は必至でしょうし、廃棄物問題もより深刻になるでしょうからその対策ですとか、いくらでも政策対応すべき課題は出てくると思います。重要なのは、総額を減少させる中で減少幅を調整してシェアを変えるよりも、総額が増加する中で伸び率に差をつけてシェアを変える方が経験則上政策転換が容易であるということです。もちろん無駄な歳出を削ることにwebmasterは本質的に反対というわけではありませんので、安定的な名目成長期において個別政策を精査した結果として全体の歳出額が減少するというのであれば、それは結構なことだと思います。ただ、デフレの現在においてそのような緊縮政策は愚の骨頂だと思うわけです。
- 「わかりやすさ」の裏側にあるもの
勝算の見積もりがないのは構造改革も同様ですが、「収支均衡を目指す」のは理屈としてわかりやすいと思うのですとのことですが、(以前のエントリと重なる部分もありますが)まず財務省が掲げるプライマリーバランスは利払い費も控除して算出するものなので、その意味でのプライマリーバランス均衡を達成しても債務残高が減るとは限らないということが言えます。利払い費に正直に向き合えば名目GDP成長率のことを考えざるを得ないにもかかわらず、見たいものしか見ないためにそのような定義を用いているとしか思えません。さらに、いわゆる財政乗数の如何にかかわらず(0以下であれば話は別ですが)、政府歳出のカットand/or増税は必ず名目GDPを減少させます。そして名目GDPを減少させれば、ほぼ間違いなく税収は減少します。結局、(似非の)プライマリーバランス均衡を目指すのは、局所的に論じやすい部分にのみ焦点を当て、本当に重要な部分についてはアーアー聞こえない(AA略)としているからわかりやすく見えているだけのことだとwebmasterは思います。
- リフレ政策のフィージビリティ
日銀が長期国債を100兆円買い増すとインフレ率**%が**年間続き、GDPが**増えるので、結局、GDP比では借金が減るので勝負に勝てる、さらに**%のインフレ誘導政策を**年続けていけば、国債残高はGDP比で40%以下になる……そういったプランがほしいのですとのことですが、少なくとも最初の買切オペ額とインフレ率の連動はよくわからないというのが正直なところです。しかし、日銀が国債を買う限りにおいて利払い負担は事実上消滅しますし(日銀に支払った利子は日銀の国庫納付金(税外収入)として戻ってきます)、日銀がロールオーバーしている限り元本償還負担も消滅します。そんないいことだらけの状態などあり得ないのでインフレが起こる、というのがバーナンキの背理法ですが、つまりは○○兆円買ったからインフレが起こるというものではなく、インフレが起こるまでどんどん買えばよく(ついでにロールオーバーもすべき)、かたや1970年代初頭の変動相場制の導入以後30年以上が経過し、インフレ率のコントロール手法(いわゆるインフレターゲット)はほぼ確立していますので、起きてしまったインフレはある程度のレンジ内でコントロール可能です。
繰り返しになりますが一定比率に債務残高を抑える必要はなく、発散過程になければそれでいいはずなのですが、現状の構造改革路線は発散過程を進んでいるので早くやめるべきということになるのです。
よくわかったのは、リフレ政策に成功すれば利払いを除く支出をインフレ率と同じ比率で毎年度増加しても財政破綻を避けられるということです。
リフレ政策の課題は2つ。
まず、いかにして計画通りのインフレを実現していくか。インフレが起こるまでどんどん日銀が国債を買い(注:財政規模の拡大幅は前記の通りなので新規にどんどん国債を発行するわけではない)、発生したインフレを適正な値に維持していくことは本当に可能なのか。
そして、いかにして放漫財政の誘惑を断ち切るか。利払いを除く支出がインフレ率を超える増加率となれば永久に問題は解決されません。インフレ率が3%程度だとした場合、高齢化の進展による社会保障費用の自然増がある以上、利払いを除く支出の抑制努力は必要です。自然増がなくても行政サービスを維持すればインフレ率に対応して支出は増えますので、インフレ率と同率の予算増とするためには、社会保障の自然増を抑制し、抑制しきれない分は他部門の節約で吸収する必要があります。
リフレ政策と歳出抑制により増税を回避しつつ国債残高の対 GDP 比発散を防ぐことはできそうですが、やはり国民の忍耐と寛容が求められます。「行政サービスの低下」と「インフレの痛み」は引き受けねばならないのです。
最後のプログラムがパネルディスカッション。参加者は公文俊平さん、吉田民人さん、國領二郎さん、鈴木健さん、そして司会は東浩紀さん。
たいへん興味深い内容でした。「情報社会の合意形成」というテーマには東さんが無関心なようで、実際には「設計」が主なテーマとなりました。参加者が言葉に詰まる場面、明後日の方向へ議論が飛んでしまう場面が幾度もあったにもかかわらず、最終的にはいくつかのキーワードでうまくまとまっていったように思います。思いますが、ちょっと私の能力を超えていたかな、という感じ。
「最適と満足の不整合」「分散と集中」「大は小を兼ねる」「雰囲気としての情報公開から生まれる信頼→存在としての情報の価値」「利己的な行動から集団の最適行動を導く」……こうした魅力的な内容がどのように絡み合っていったかは、録音ファイルでぜひご確認ください。
討議を聞きながら私が気になったのは東さんの司会ぶりでした。20日の ised のときからそうだったのですが、東さんは事前に2つの問題意識を用意して今回のフォーラムに臨んでおり、ことある毎に同じ主張を繰り返されたのでした。
じつはこの他に「情報量の増大が処理能力の向上を大幅に上回る→自ずと集権的システムは破綻する」という意見も何度か提示されていたのですが、これは前記の2項目が前提としている世界観と矛盾するので、あくまでも討議の材料としての意見投入と解釈しています。
前日の ised の倫理研は東さんが司会、設計研は鈴木さんが司会でした。
東さんはさすが大役を任せられるだけのことはあって、非常に頭の回転が速い。各発言者の要領を得ない長々とした言葉をギュッと圧縮して次の言葉を引き出す鍵へと作り変えていく作業に長けており、沈黙が続くことがないよう、奮闘されていました。何度か、崎山さんが発言を求めて小さく手を挙げているのを見落とす失態を犯しましたが、ゲスト参加者だけに次に話を振る相手として失念しがちだったのかもしれません。
一方、鈴木さんの司会は素人風。基本的に「それでは、みなさん順番に意見をどうぞ」なんですね。みんな「う〜ん」と考え込んでしまうと、とりあえず適当な人に振る。でも、振られたって困るわけですよね。東さんは、とりあえず自分が何か喋るわけです。そうして話の糸口を強引にでも作っていく。その場面で、何度も繰り返し提出されたのが、先に示した2項目だったのです。
東さんにとって前出の2つの問題意識は、当人が一番強く疑問に思い、課題としていることなので、しばしば行き過ぎも生じます。これはひどいと思ったのが、はてなダイアリーのキーワードシステムと鈴木健さんの PICSY についての解釈。とくに PICSY の方は「そりゃないよ」って感じ。
PICSY とは伝播投資貨幣のことで、300年後の貨幣システムとして構想されているものです。
現在の資本主義では貨幣の授受が取引当事者の損得だけを基準に行われます。それゆえに、アダルトサイトのスパムメール業者のように、大勢にダメージを与えても、とにかく儲かればいいという輩が出てきます。PICSY では、ある行為の影響がどんどん伝播していく様子を測定し、その総体として社会に生じた利益が分配されます。よってスパムメールなど大勢の不幸を前提とした商売は、損益分岐点を下回って成立しなくなることが予想されます。
このシステムについて、鈴木健さんは「善行に動機付けする仕組み」と説明されました。ところが東さんは「その発言は誤解を招く」とし、「一人一人は自分のことしか考えていないのだけれど、結果的にみながよい行いをするようになる仕組み、というべきではないか?」と迫ったのです。これはおかしいですよ。
鈴木さんは性善説で語っているのです。現在の資本主義では、「本当は正しい行いをしたい」と思っていても、「でも生きていくためにはお金儲けをしなきゃいけないから」という理由で、やむなく「悪いこと」を多かれ少なかれせざるを得ない面がある。ところが、そのような仕事の仕方は、PICSY によって一掃されるわけです。悪人が絶対に儲からない世界が到来するので、お金儲けが悪事の理由となる時代が終るわけです。
一方の東さんは性悪説だから、「もともと人間は善とか悪とかには興味がなくて、お金儲けがしたいだけだ」と。しかしじつはシステム設計者には倫理観を社会に押し付けることができる。そのひとつが PICSY であって、利益分配の条件設定次第で、「設計者が善と考えている行い」が結果的に人々によって演じられるようになるだろう……という冷めた考えなんですね。
別にこれは、どっちが正しいというわけでもないと思います。両方の感情を人は持っているのではありませんか。だから、鈴木健さんの説明が「誤解を招く」とするのは変で、「別の見方からも PICSY の意義は補強できますね」とするべきだったのではないかと思う。
東さんは性悪説なんだけど、その一方で人間の多様性については、かなり大きな期待をもっていらっしゃる様子。だから価値観の多様化が進むと情報の取捨選択ができなくなって云々、というところへ行き着くと確信されているわけです。
倫理研でもパネルディスカッションでも繰り返しその予想は反論されたのだけれども、乱暴にまとめてしまえば、「人はそれほど多様であろうとはしない」ということなのではないか。少なくとも、当面はそうであるらしい。
「個人情報をどんどん提供していくことで自動的に最適な情報を得られる仕組み」というアイデアには、吉田さんのいう「最適と満足の不整合」があると思う。現実には「あらゆるサービスを自社提供する方向で発展中の Yahoo とライブドア」という事例があり、Google だって結局はそういった方向へ向かいつつあるようです。権威は崩壊するどころか、むしろ強化されつつあるのではないか。ウェブで勝ち残る企業は、出版どころかテレビ局より少なくなりそうなのです。
ワープロ専用機の時代には様々なワープロがあったのに、今は Word が一人勝ち。自分に最適なソフトウェアを求めてさまようのは一部の人間だけで、大多数の人々は最大シェアのソフトウェアを使う。Windows だって、パソコンでは圧倒的シェアを持っているし、対抗馬の Linux も、もうひとつの巨人になっているだけでしょう。互換性のない OS が百花繚乱という状況にはなりそうもない。
ただし、最初の第一歩において多くの資本を必要としない(分野が少なくない)ウェブサービスの世界では、いつまで経っても小さな企業が全滅することはないでしょう。出版不況といわれながら本の書き手がどんどん増えていくようなものです。ブログの書き手もどんどん増え、小さなオピニオンリーダーも無数に誕生するでしょう。彼らが殺されることはない。
けれども、おそらく(ほとんど)誰も、「選択肢が多すぎて困る」とは思わないのではないか。「とりあえず Yahoo! ニュースでしょ」で足りてしまうのではないか。そして個人情報も、Yahoo! だけを利用することにして、Yahoo! だけにクレジットカード番号と住所と電話番号を登録する(Yahoo! ウォレット)ことで良しとする人が多いのではないか。
東さんのようなウェブの先端ユーザの意識は、いつまで経っても先端ユーザだけのものであり続けるような気がするのです。テレビを視聴し、新聞を読むだけで満ち足りて、はるかに多様な意見が存在する書籍の世界へ進もうとしなかったこれまでの人類と同様に。
とはいえ、やっぱり東さんの司会は面白いです。あと、ディスカッションの会場で波状言論の CD-ROM 版が販売されていたので購入。新書10冊分で4000円なら悪くないな、と思って。それにバックナンバーをウェブで買うよりかなり安いですし、パソコンがクラッシュしてもデータが残るし……。通販も開始されたようです。興味のある方はどうぞ。
若手研究会が主体となった発表+討議です。参加者は西村博之さん、山本一郎さん、藤代裕之さん、R30さん、澁川修一さん、鈴木謙介さん、庄司さんの7名。
議事録は出ないでしょうが、INTERNET Watch のイベントレポートや、かなり詳細な発言要録が公開されています。
個別の議論には踏み込まないけれども、全般に「地に足のついた主張を展開する西村博之・山本一郎 VS インターネットが切り開く新時代の可能性を語る鈴木謙介・藤代裕之」という構図で議論が展開しました。私は以前から「学者の妄想」に違和感を抱いており、テレビに登場する評論家らが私の生きてきた25年間ずっと「激動の時代」といい続けてきた馬鹿馬鹿しさに辟易していました。
だから当然、私は西村博之さんと山本一郎さんの発言に心中で拍手喝采を送ったし、鈴木謙介さんの主張や渋川さんの「ここ数年で云々」といった物言いには不満がありました。ところが、鈴木謙介さんや山本一郎さんの日記を読むと、どうもそれほど単純ではないらしい。
以下、鈴木さんの日記から引用します。
正直難しかった。特にひろゆきが「いやー別に何も変わってないっすよ昔から」という話をするだろうことは予想できていたのと、マスコミ取材なんかも入っていることへの配慮から、できる限り隊長、ひろゆきにフロントで喋ってもらえるように、ネットで色々変わったよね、的なポジショントークをしてたら、論点が拡散しまくり。いやひろゆき君も僕に合わせてポジション決めていたような感じがしなくもなかったけど。なんか大学とかでディベートの授業をするときみたいな気分でした。
それとは関係なく、というかそこから派生して考えたことをいくつか。研究会の中では「ネットブームなんてマスコミが騒いでるのも韓流ブームと同じ」なんて話が出たりしていたのだけど、おそらく、現実をつぶさに見ていくと、金の流れからパワーバランスから、何一つ変わってないじゃん、という話は、まあそうなのだろうと思う。パスは増えたけど、枠組み自体は変わってないよね、というのは、ある部分で共通了解だったというか。マイヤヒなんかの例が出ていたけど、バイラル(口コミ)で広がっていくコアのムーブメントを、マスに露出していく回路っていうのは、もはやネット云々の話じゃない、ということだよね。
という話をしながら僕が気づいたのは、あくまで僕は、現実やデータの本質の話に目を付けているんじゃなくて、人が現実を何だと思っているかということ、そしてそのカンチガイも含めた現実認識が、カンチガイ故に社会を変えるということがありうるということ、そこに興味があるんだなということ。そしておそらく韓流ブーム並みのネットブームも、多くの部分で人のカンチガイによって駆動させられている。U30とかナナロクとか言われて僕らがプッとか思っちゃうのは、勿論それがカンチガイでしかないことを織り込み済みで、おっさん連中から金を巻き上げて食ってきた歴史っつーのをよく知ってるからなのかもしれない。
うーん、なるほど。ただ、やはりカンチガイも含めた現実認識が、カンチガイ故に社会を変える
という部分が究極の対立点なのかもしれない。ごく表面的な変化しか生じていないにもかかわらず、「根本的に変わった」と見做す考え方が思想的に勝利しているだけ……と私は認識しているのです。つまり、カンチガイ
は実際には社会を変えず、「変えたと思わせる」だけだ、と。
ウェブの発展により、商業ベースで成功できない洗脳力の弱い言説をたくさん読めるようになりましたが、そのひとつに「激動の時代」批判もあります。
とくに「少年犯罪は増えているのか?」という問いの立て方は巧妙で、大勢にウケています。この手の反主流派の言説はマスコミ批判に帰着しがちですが、マスコミも商売でやっているのだから、陰謀論めいた非難は危ない。「少年犯罪が増えている」ことにしたい視聴者の要求に応えているだけかもしれないのだから。
テレビのように1000万人超の大衆を相手にサービスしなければならない媒体は、じつは例外的存在。だから例えば200万部しか刷っていない産経新聞の場合、テレビが対応できないなニッチな需要を満たす記事を書けるわけです。過激な主張の週刊誌は多々ありますが、その部数は高々70万部。日本人の1%も読んでいないからこそ、あのような内容になっていく。「少年犯罪は増えていない」という言説は、そのニッチにすら達しない不人気ゆえに、マスメディアに載らないだけなのではないか。
「ぼくたちの洗脳社会」は、こうした話題を取り上げるたびに紹介したい本。私は「自由洗脳競争は再発見された既存の現象であり、新たな社会変革は導かない」と考えている点で著者と見解を異にしますが、読みやすく知的刺激にあふれたお勧めの1冊。
GLOCOM forum 2005 の ised 懇親会でも話題になった「マンガ嫌韓流」と「マンガ中国入門」の Amazon カスタマーレビューを書きました。適度に批判的な視点を入れつつ、「参考になった」票が過半数となることを目指す試み。
結果はリンク先をご覧の通り。「参考になった」票は4割強でした。残念。
嫌韓派、嫌中派について学びたい方には、いずれも便利な本だと思います。「マンガ中国入門」はジョージ秋山さんの個性が強く出ているので、これが平均的な嫌中派と考えるとまずいでしょうが、「マンガ嫌韓流」は上手に作家の個性を潰しています。嫌韓派がこの本を「中立的」「落ち着いた内容」と評していることとを念頭において読まれることを勧めます。
参考までに、レビューの中で示した関連書籍は以下の通り。
時事ニュースは薄利多売で「取材」コストが捻出される商品です。無償奉仕の市井の論者は「論説」や「解説」しかできない。よってマスコミ抜きのウェブ論壇は難しい。他方、音楽、書籍、服飾など高額商品の少数販売で成り立つ産業は、ウェブの口コミに期待できます。ただし過大評価は禁物です。2ch で話題の「マンガ嫌韓流」は30万部で大成功でしたが、週刊少年ジャンプの「武装錬金」は多数派の支持がなく打切られました。
4年前、扶桑社の教科書(市販本)はたしかに60万部売れたけれども、採択結果は惨憺たるものでした。それがウェブサイトは1日350万ページビュー、紙媒体も200万部を誇る産経新聞の限界だったのです。「マンガ嫌韓流」の好調な売れ行きを不安視する必要はありません。仮に100万部を突破しても、嫌韓自体はブームになりそうもない。「電車男」のテレビドラマを1000万人が楽しんでも、キモいものはキモいことと同様に。
つまり、ネットの無力さということがしばしば話題になるけれども、同じことは出版文化の無力さ、新聞報道の無力さ、テレビ放送の無力さでもあったのだと思う。
……とまあ、若手研のフォーラムはいろいろなことを考える切欠となったわけです。
出席者は近藤淳也さん、村上敬亮さん、井庭崇さん、楠正憲さん、八田真行さん、東浩紀さん、鈴木健さんの合計7名。
今回の講演者は近藤淳也さんで、「なめらかな企業組織」がテーマ。講演と共同討議の両方を聴きました。今回も追って議事録が公開されますので、私が気になったことだけ記します。
「(小さな会社では)社内の情報共有にブログを用いると、メールによるコミュニケーションの問題をスッキリ解消できる」という近藤さんの主張について、村上さんから反論があって面白かったです。
簡単にいうと、社長が全てに目配りできる大きさの組織ならそれでいいのだけれども、組織が巨大化すると、プロジェクトを止める権限を有する人々が無数に存在することになり、情報を適当に隠すことがどうしても必要になってくる、という話。以前は経済産業省では長らく「総務」が情報の集約組織となっていたが、情報管理機構をフラット化してメールを中心とした有機的な組織へ改変した結果、メールで連絡を取り合う(仲良し)グループのスタンドプレーが続発して統制が取れなくなっているのだという。
もちろん、それも良し悪しなんだろうけれども、同じことを組織のあっちとこっちで考えているなら、それをうまくつなげていく仕組みがほしいですよね。誰がどんな情報を持っているかもわかる仕組みが望ましい。かといって、1000人のブログをみんな読むような世界もダメ。じゃあどうしたらいいのか、という話。
鈴木健さんがはてなグループを経済産業省で導入してもらってはどうか? と水を向けていたけれども、現状のはてなグループは、情報集約の点でも情報コントロールの点でも機能不足が明らかだと思う。
ised の討議(倫理研+設計研)に刺激を受け構想した新世代 SNS の概要メモ。(注:以下の内容は全て私の個人的なアイデアです)
大手プロバイダは、SNS のステージを上げる潜在能力を持っています。特定のプロバイダの利用者しか閲覧できない SNS を作るのです。これなら全参加者の本名・住所・電話番号などの情報を管理者側が把握できるので、招待制を採用する必要もありません。現在は家族で1アカウントがふつうだけれども、将来的には家族全員分のアカウントを作り、ネットに接続する際にわかりやすい確認画面が出て、アカウントを選択してから接続するようになる……。
AOL は失敗したじゃないか、という意見がありましょうが、AOL は世界を単純に捉えすぎていました。あまりに簡単な仕組みだったので、現実の複雑な需要を捉えきれずに没落していったのだと考えています。
私のイメージは次の通りです。
このような仕組みであれば、「会社の同僚」または「高校時代の同窓生」には情報を公開するが「女性」は除く……といった公開指定が可能となります。現在の mixi やその他の SNS は人物に対する属性指定が単純すぎます。公式タグにより、タグ付け地獄もある程度解消できます。とくに公式タグは「全会員」向けに公開している日記で効力を発揮します。記事毎に読者を限定したい場合に「男性」「20代」のみ、などと公開範囲を指定すればよいわけです。
繰り返しますが、これはスタート時点から数百万人の会員とその個人情報を有しているプロバイダだけが実現可能な SNS サービスです。タグ付けの面倒を公式タグで緩和できる他、荒らし対策もバッチリ。だって IP アドレスから会員を簡単に逆引きできるわけですから、会員単位で排除可能。そして最大の効果は、実名コミュニケーション空間を作れること。これがたぶん、一番大きいと思う。
新世代 SNS の構想において、情報コントロールのキーとなっているのは「人物にタグ付けする」というアイデアです。プロバイダ云々は倫理研の話題に絡めていく場合には非常に重要なポイントだと思っていますが、ここでは割愛。
社内 SNS を考える場合には、プロバイダ云々は捨てて、タグ付けの部分にフィーチャーしてカスタマイズしていけば、うまくいきそうな気がします。具体的には、以下の通り。
ポイントはタグの付与・削除権限。これにより、繊細な情報コントロールが可能となります。その一方で、上司に情報を隠すことは困難な仕組みとなっています(自分自身に「削除権限」を与えることは不可)。
なんだかしち面倒くさい仕様に見えるでしょうけれども、インターフェースとしては、はてなブックマークがそのまま使えるはずなのです。ただしタグの種類と階層構造が膨大なので、うまく整理する必要があります。
タグ一覧の表示が問題。まず、メタ構造で整理される場合には上位のタグが初期表示されます。ログインユーザが使用可能タグは青表示、使用不可タグはグレー表示でメタ構造の展開も不可。ただし毎回、深くタグを掘っていくのも面倒なので、最近使ったタグは最初から表示され、マウスオーバーでそのタグのメタ情報が表示される。
人物検索は名前またはタグ情報から。
……長くなったけれども、これくらいの人物情報管理システムがあれば、巨大組織でもブログで情報共有できるのではないでしょうか。
あ、ひとつ書き忘れてました。各タグには説明のページを与えて、そのあたりにはてなのキーワードシステムを使ったらいいんじゃないかなあ!
というわけで、d:id:jkondo さん、いかがでしょうか? 懇親会では席が近かったのにほとんどお話できなくて、今頃後悔しています。というか、アイデアの原型は現場で思いついていたのですが、お話しするところまできちんとまとまっていなかったんですよ。惜しい。いうだけはタダですし。
出席者は東浩紀さん、白田秀彰さん、北田暁大さん、高木浩光さん、辻大介さん、加野瀬未友さん、小倉秀夫さん、崎山伸夫さん、以上8名。
今回の講演者は高木さん。それは残念ながら所用のため聴講できず、午後の共同討議から話を聞きました。
まず崎山さんからの長いコメントがあり、コメントに対する高木さんの回答を足がかりに討議が進められました。
討議参加者はコの字型に机を組んでいるわけですが、ラフな会議や、プレゼン後の自由発言形式とは異なりまして、事実上のパネルディスカッション形式だったのは意外でした。なるほど、過去の議事録で東さんの発言が目立つわけです。なんでいちいちまとめに入るのか不思議だったんですね。けれども現場を見て、なるほどと思いました。
ised の共同討議は、ゴール地点どころが、現在地点さえ不明瞭なのです。プロセスだけあって出発点も到達点もない。もちろん、何も無しでは話にならないから、いろいろ枠組みが用意されてはいるのだけれども、懇親会で話を聞いても参加者の方々はいまだに明確に全体像を把握されていないらしい。全7回の予定で5回まで終了した段階でこれだから、人文系アカデミズムの世界以外では失敗ですよね、これは。
東さんは設計研の方で人文系ではプロセスが言論、ゴールも言論だから難しいと発言されました。だったら具体的なゴールを設定すればいいじゃないですか、というのが工学部卒の私の考え方。いや、それはアカデミズムのやることじゃない? でも実際、官公庁では審議会という形で昔からやっていることですよね。学内同人誌(=紀要)では個々人が好きなことを書けばいいから、書くこと自体が目的化して内実が問われない。それでも目的が無いよりは有った方がいいと東さんは仰った。誰も反論しなかったので、少なくとも設計研では全員が同意されたのでしょう。そして結局「議事録を作ることが目的」と話を収束させて現状維持路線に……。
パネルディスカッション形式なら、少なくとも最初は各参加者に好き勝手なことをいう自由があるので、足場の不明瞭を気にする必要がない。各言論の相対的な位置関係を見抜き、見取り図を作成していくのが司会者の役割。東さんはさすがに上手で、関係のなさそうな発言をうまくつないでいくので感心しました。あとで議事録を読むと、あたかも事前に打ち合わせがあったかのような流れになっているのでしょうね。
倫理研の議事録は追って公開されますので、ここでは私がとくに関心を持ったポイントのみ記します。
共同討議の中核となったテーマは2つ。
2つのテーマは、「文化・価値観による最適な住み分けを実現することで、誰もが参加できる情報空間と、多用な主張の共生を両立させたい」という考え方に貫かれています。倫理研の参加者にとって、「インターネット自体からは誰一人として排除されないが、文化・コミュニティの差異による大きな摩擦も起こさない(起こらない)世界」が望ましい方向性の共通認識なのでしょうね。
私は話の方向性には不満なかったのだけれど、東さんが討議の中盤で、文化圏の住み分けは技術的なアクセスコントロールによって何とかなりそうだ、という方向性で強引にまとめてしまったことが引っかかりました。
そもそも何故 mixi からの強制退会事件なんかに衝撃を受け、時代が変わったなあ、なんて感慨を漏らしているのかが理解できない。これまで倫理研の過去ログを読んでいて、じつはひとつ重大な見落としがあるように思っていたのですが、この日の討議を聞いていて、とうとう不満が臨界点を超えました。
なぜ、プロバイダの存在が透明になっているのか?
2ch は過去に何度もサーバへの攻撃を受けています。その対処法が興味深い。(基本的に)警察へ被害届を出すのではなく、攻撃者の利用しているプロバイダに対して接続をシャットダウンすることで対応しているのです。すると、攻撃者以外の当該プロバイダユーザからプロバイダの管理者に対し、「攻撃者のウェブ接続を制限せよ」と苦情が出ます。その結果、仮に攻撃者が「これは表現である。表現の自由を守れ!」と訴えたとしても、退会させられてしまうのですね。
「それは犯罪? それとも表現?」と争う場を与えられることなく、多数派の空気によってネットから追放されてしまう。そういったことが、過去に何度も起きているわけです。mixi から追い出されたって、大した問題ではない。ウェブサイトで持論を展開したっていいわけです。そういった、低コストで「表現」できる場は用意されています。しかしプロバイダから追い出されたら、根本的に条件が変化します。もちろん、ウェブ以外の場所で「表現」することは可能ですが、それでいいのか。
ウェブにおける「表現の自由」とか「多様な価値観の共生」について語るなら、プロバイダからの強制退会こそ、重大な問題を孕んでいるはずなのです。
そして、中国におけるウェブ情報へのアクセス制限。インターネットは分散型のネットワークなので中央集権型の情報統制はできない、といった主張が幻想だったことを如実に表す事例です。例えばネームサーバを押え、特定の場所からのアクセスに対して「お探しの情報は存在しません」と嘘をつくよう設定すれば、HTTP プロトコルを介したウェブ情報のやりとりは根本的なレベルでアクセス制限できます。
海を渡るケーブルの本数は限られています。その出入り口に網を張れば、日本国内の情報統制は可能。物理的にもインターネットの自由なんて脆弱なものです。
なぜ倫理研でプロバイダからの排除が問題視されないのか、懇親会への道すがら小倉秀夫さんに訊ねてみたのですが、「プロバイダもたくさんあるから、ひとつのところから排除されても、それでネットができなくなるというわけではないからでしょうね」とのご回答。うーん、そういうことをいいたいわけじゃないんだけどな、と思ったのだけれど、うまく考えがまとまらず撃沈。日を置いて考えをまとめ直した次第。
GLOCOM の GLOCOM forum 2005 に参加しました。といっても、私は話を聞いて、懇親会にお邪魔しただけなんですけれども……。
複数の発表が併催されているので、全部の話を聞くことは不可能。私が参加したのは ised@glocom の倫理研第5回と設計研第5回、ネットコミュニティと合意形成、2日目の全プログラムです。それぞれ興味深く、話に触発されて考えたことも多々あります。備忘録を書いておかないとその大半は忘れてしまうでしょうが、まあそれは仕方ないような気がします。いくつか話題を厳選して備忘録を書いていくつもりです。
以下、肝心な内容と関係のない部分について、いくつか印象・感想などを書きます。
簡単というほど簡単でもないよな、とは思うけど。とりあえず作文篇の解説が半分終った。後半は読書感想文とか、そのあたりについて書いてみようかと思う。
ただ、次は自由研究の解説を書くつもり。いろいろ書こうかと思っていたけど、思うことをみんな書いていたらとんでもなく時間がかかってしまうことがわかったので、自由研究は提案事例をひとつに絞っていくつもり。
Yas さんの記事で紹介されている人工妊娠中絶数の推移が気になりました。少子化情報ホームページからデータを引くと、ビンゴ!
日本の合計特殊出生率は、1950年代に劇的に減少し、以降、安定して漸減しています。私が疑問に思っていたのは、果たして昔の日本人はたくさん子どもをほしいと思っていたのか? ということでした。結論からいえば、答えは No です。1950年代の出生率低下は妊娠中絶手術によるものでした(ちなみに1966年は丙午)。その後、80年代まで低い出生率を維持しつつ中絶数(出生比)が減少していくのは避妊知識の普及によるものでしょう。(050819.xls)
日本の人工妊娠中絶数は世界各国と比較して大きいのか小さいのか。即断はできませんが、各国の状況を見るに、近年出生比が30%を下回っている日本の中絶数がとくに多いとはいえません。旧ソ連圏では生まれてくる子どもよりも中絶される子どもの方が多い国が目立ちます。
少子化情報ホームページから辿ることができる膨大な資料群は、日本国政府が長年にわたり少子化対策について研究を進めてきた事実を示しています。そして上図に示す主要先進国の合計特殊出生率の推移から、少子化対策の難しさがわかります。
90年代、北欧の手厚い子育て支援政策が成功例として盛んに喧伝されました。しかし北欧の現状はどうか。スウェーデンでは10年間出生率が上昇しましたが、その後再び減少に転じ、結局、元より悪くなっています。ノルウェーでは反落こそ免れたものの出生率は2未満ですから、人口減少の危機は解決されていない。
少子化問題は、「教室にクーラーがほしい」問題と同じ構造を持っています。「こんなに暑くちゃ勉強できないよ」「先輩方はみな勉強してきたんだよ」「関係ないね、ぼくはクーラーのない教室では勉強できない」そしてクーラーが導入されるが、生徒は勉強熱心にはならない。子育て支援政策に大きな需要がある事実は、その実現が少子化を解決することを保証しません。欧州各国の挑戦は子育て支援の費用対効果に疑問を投げかける結果を導きました。
じつは日本における夫婦あたりの完結出生児数は、少なくともこの20年間、全く変化していません。20年前の日本の出生率は現在の北欧諸国と同等ですから、日本の少子化問題とは、未婚・晩婚問題といえます。少子化対策が主要な政策論点とならないのは、恋愛・結婚への国家権力介入に需要がなく、人気のある子育て支援策は費用対効果に疑問符がつくためです。予算に限りがある以上、老人、病人、貧窮者らの支援を抑制するだけの根拠がなければ、大きな予算は確保できません。
以下は大雑把な状況整理です。資料は少子化統計情報など。
日本で未婚化・晩婚化が進む要因は明らかでない。未婚・晩婚の理由は調査されていますが、昔からその内容には大きな変化がない。近年、ドイツ、イタリアの出生率は上昇に転じていますが、福祉政策に大きな変化はありません。
日本人は急激に増え過ぎました。戦後の人口倍増は急速な経済発展の原動力ですが、伝統的価値観の崩壊と世代間の断絶を生んだ根本原因でもあります。人口の減少は短期的には大きな痛みを伴いますが、長期的には適正な社会規模を目指す自然な営みなのかもしれません。
この4冊はお勧めできます。
こちらの4冊はよく売れていますが、いずれも「教室にクーラーがほしい」問題を念頭において読むべきです。
日本に遅れること約30年、2030年頃に少子・高齢化の大波に襲われるアメリカ合衆国の様相を解説。
私の夏休みはとっくに終ってしまいましたけれども、小中学生もあと10日余りで夏休みが終ります。となるとそろそろヤバイのが夏休みの宿題じゃないでしょうか。
夏休みの宿題に取り組むコツについては一家言あるので、ウェブサイトを作ろう……と思っている間に8月17日。もういいや、来年の夏休みまでに完成させれば……って、大人はずるいですね、もう小学校も中学校も卒業しちゃったものだから、来年でもいいと思ってる。でも、意外にも当サイトには小学生の閲覧者もいらっしゃるので、やっぱりひとつふたつでも記事を書かないとまずいかな、ここで負けたら一生負け続けの人生だぞ、とか何とかいうわけで、ラストスパートで何か書きます。
今はまだ、まとまった記事がひとつもない。ひどいですね。企画を立てたのは6月末ですよ。いったい今まで何やってたんだろう。
「夏休みの宿題」特設サイトは Wiki を使って構築していますので、もし興味があればご自由に編集してくださってかまいません。まあ現実問題としては誰も編集してくれそうにないですが。
ひとつ気になるのは、今更になってマスコミが問題視して取り上げる報道の遅さである。アスベストの危険性は数十年も前から建設業界では広く知られており、一般にもそれなりに知られていたが、まさか未だにそれが使用されていると知らなかった人は多いのではないだろうか。
(よく見かける意見のひとつなので)とくにこの記事がどうこうというわけではないのだけれど。
石綿については社団法人 日本石綿協会が詳しい。主要な論点は石綿Q&Aにまとまっています。とくに重要なのは第7章 石綿代替品のやりとり。
石綿を単体で代替できる物質は、大勢の研究者が数十年間頑張ってきたにもかかわらず発見・開発されませんでした。仕方ないので個別の製品に対して場当たり的に知見を蓄積して対処されてきたわけですけれども、結局のところガラス繊維やセラミックファイバーといった代替品もまた、発がん性が懸念されている状況なのです。
私が小学生だった1980年代は石綿追放の機運が大いに高まり、よく報道もされた時代でした。理科の実験に使われる石綿金網も慌ててセラミック金網に買い換えられ、先生方は「こういうのは捨てるのに困るんだよな」といって何重にもくるんで段ボール箱にいれ、倉庫の奥へしまいこんだのでした。
あの狂騒が石綿を完全に追放しないまま沈静化していったのは何故か? その理由は、端的にいって自動車事故がどれほどたくさん発生しても自動車社会を放棄できないことと同じです。包丁で殺人が起きても、家の中から刃物を追放するわけにはいかない。石綿代替品の発がん性が不明瞭であり、また石綿というのは触っただけで人が死ぬような物質ではないということも重要です。
全文を引用します。
- 石綿粉じんはどの位の大きさが有害ですか?
吸入性石綿粉じんは一般的に幅が3μm未満、アスペクト比(長さと幅の比)が3以上のものをいい、これ以外のものは呼吸によって肺に到達しないとされています。従って、石綿繊維は吸入によって有害だとされているものは上記に加え、長さ5μm以上のものです。
吸入性の繊維状物質の発ガン性は、繊維のサイズと生体内での耐久性に関連するといわれ、繊維の幅が0.25μm付近で長さが8μm以上のものが腫瘍発生率が高く、肺ガンは幅が0.15μm以上で長さ10μm以上、中皮腫は幅0.1μm付近で長さ5−10μmで発生しやすいという傾向が認められています。
- 石綿を固型化したものは問題ありませんか?
石綿が人への影響をもたらすのは、吸入によって取り込まれる一定のサイズの石綿繊維です。従って、空気中に飛散することがない状態では人体への影響はありません。
石綿を何らかの形で大気と遮断することができる場合は飛散しませんから、特に問題とならない訳です。石綿製品では一般的にプラスチック、ゴム、セメント等で石綿を固定してあるため、切断等の加工をしない限り、影響を及ぼすことはありません。
- 石綿を誤って飲み込んだ場合の措置はどうしたらよいですか?
石綿は呼吸等によって吸入した場合、人への影響があることが分かっています。
また、石綿は天然に産するもので、自然水にも多くの繊維が含まれており、その水を摂取することによって弊害があるという報告はありません。
また、誤って飲んだ場合にも影響はないと考えます。しかし、多量に飲み込んだ場合には一般事項に従って措置を行う必要があります。その措置として、口の中のものを吐き出させ、うがいをさせることです。また、必要に応じ医師の措置を受けることが望ましいと思います。
- 石綿を土中に埋めても問題ありませんか?
有害性については問題となりませんが、廃棄物を処理するという意味からは、問題となります。
石綿含有廃棄物を埋立て処分する場合は、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(略称:廃棄物処理法)」に従って埋め立てることが肝要です。
- 石綿を水中に捨てても問題ありませんか?
石綿は呼吸等によって吸入した場合、人への影響があることが分かっています。また、石綿は天然に産するもので、自然水にも多くの種類の繊維が含まれており、その水を摂取することによって特定の疾病が増えるという報告はありません。
従って、有害性については問題となりませんが、廃棄物を処理するという意味からは、問題となります。
「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(略称:廃棄物処理法)」では、河川等に投棄することを禁止していますから、絶対にやってはならないことです。
- 少量の石綿を含む水を流しても問題ありませんか?
石綿は天然に産するもので、自然水にも多くの種類の繊維が含まれております。従って、石綿が付着した物を洗ったりして少量の石綿が混入している水は環境に影響を与えることにはなりません。
しかし、水質汚濁防止法等によって、浮遊物質(SS)の規制があるので、規制値をクリアーしたものでなければなりません。
微小な粉塵の飛散と肺への吸入さえ防ぐことができれば問題とならないことがわかります。石綿を使用した製品(配管、機器のガスケットや配電盤に使われる電気の絶縁板、化学プラントのシール材、工業用のひも、布など)が日常生活の中に入っていても大丈夫なのは、そのためです。
……と、こうしてみてくると、問題は劣化ウラン弾などと似通っていることがわかります。なぜ危険なのか、どのように危険なのか、そのあたりを冷静に見極めて、現実的な対策を探らねばなりません。悲劇だけに注目して、「今すぐ石綿を全廃せよ」というわけにはいかなかった、その背景を知るべきです。でも、どういったわけか、この手の話は日本国民にウケないんですね。「金持ちは貧乏人を騙す。御用新聞のいうことなんか信じない」と耳をふさいでしまう。だから、大企業を気が済むまで批判すると、だんだん報道はフェードアウトしていく。マスコミも商売ですから、ウケない記事をいつまでも書いていられない。
では、かくいう私はどこから初期情報を得たか。答えは新聞です。以前も書いたことだけれど、新聞を安直に非難している方々は、きっと(紙に印刷された有料の)新聞を読んでいないのだと思う。「なぜ石綿の追放に時間がかかったのか」という疑問の答えを新聞記事は伝えていたし、そしてまた、かなり以前より工場周辺の危険もほぼ解消されていることを書いていました。小さな見出しの囲み記事ではあったけれど、きちんと書いていた。私は新聞記者の良心をそこに見ました。
石綿が再び話題の言葉となっているのは30〜40年の潜伏期間を経て中皮腫による死者が続出しているためで、今、石綿を使っている各種製品やその製造工場が危険だという話ではない。それなのに、「クボタの工場のそばにいる人はみんな引っ越さなきゃいけないね」という人がいます。これはマスコミの責任ではなくて、国民の問題だと思う。マスコミの悪口をいう前に、本当に報道が不十分なのか、よく調べてほしい。
人間の作った物などいつか必ず壊れるんだから、ちゃんと壊れる事想定しておけ。何でもかんでも「想定外、想定外」と。責任逃れの代表的文句だな。
(よく見かける意見のひとつなので)とくにこの記事がどうこうというわけではないのだけれど。
地震で新幹線の架線が切れたことについて、JR東日本は「地震による切断は想定していなかった」と話している
と読売新聞が伝えたわけです。別に、架線が切れても誰も死ななかったし、怪我もしなかった。「架線が切れた場合」については対策があり、架線が切れる理由については全てを把握しきれていなかった、という話だろうと思う。
自分の仕事を省みれば、実際問題、あらゆる可能性を想定しておくことは不可能だといえる。来週出荷する製品があり、明日中に部品が入ってこなければ組み立てが間に合わない、という状況があるとして、部品が入ってこなかったらそれはもうどうしようもないわけだから、謝って納期を遅らせてもらおう、という算段は立つ。けれども、部品が入ってこない理由については、「無理のない発注」とか「こまめな状況確認のシステム化」といった主要な対策をする他ないのではなかろうか。
実際、部品が入ってこない理由にはいろいろあるわけで、例えば地震で部品工場がしっちゃかめっちゃかになってしまった、というのもそのひとつ。もちろん地震対策は必要なのだけれども、少なくともそれは「部品の納期を守らせる」という目的から導かれるものではないと思う。地震でレールがずれてしまったら大惨事につながるので大変なんだけれども、架線くらい切れたっていいんじゃないのか。
「架線が切れたら、その区間だけ送電を止める(感電事故対策)」といった安全対策があれば十分なのであって、架線と地震が結びついている必要はないのではないか。もちろん架線が切れない方がいいには違いない。だから、今回の地震を契機に、架線が切れた理由を調べるのは悪くない。ひょっとすると、簡単な対策で切れにくい架線を実現できるかもしれないのだから。ただ、こうしたことを何でも事前にやっておけ、というのは無茶な話だろう思うのだった。
あるいは、地震が起きた際の対策マニュアルに「切断架線の探査・修復」の項が追加される必要があるか否かが問題なんだろう。地震で架線が切れることは稀だそうだ。であれば、地震の対策マニュアルと架線切断の対策マニュアルが連動している必要はない、と私は考える。地震のたびに架線切断の対策を発動するのは無駄だろう。柔軟に対処していけばいい。
著名な FLASH 作品なのですが、ひとつ残念なのは手許にファイルを残せないこと。重たくて私には見られない。 FLASH から FLASH を呼び出す方式となっているので、ふつうには保存できない。ダウンロードさせてくれたらいいのに。連絡先も書かれていないので、どこに要望を出したらいいのかもわからない。
私の記憶が正しければ、この FLASH 作品は過去にもウェブから消えて大勢に残念がられているんですね。書籍なら古本屋で探せばいいのだけれど、ウェブリソースは管理人が消したらそれっきりになってしまう。現在のサイト管理者が FLASH の作者と同一人物かどうかは知らないけれど、この手の情報は、できれば転載自由を謳ってほしい。せめてダウンロードしやすい形で公開していただけると、ウェブから消えた後も、人づてにファイルを譲ってもらうといった方法で情報が流通していくことになるのですが。
……なんていっていても仕方ないので、キャッシュからファイルを拾いました。WindowsXP の場合、たいてい以下の場所にキャッシュがあります。隠しフォルダと隠しファイルを表示するよう設定を変更しないと見つからないので注意。
C:\Documents and Settings\ユーザ名\Local Settings\Temporary Internet Files
はてなアンテナのおとなりページ機能とは、あるページをアンテナ登録している人が登録している他のページを、登録数が多い順に表示する仕組みです。
リンク先をご覧になればお分かりの通り、両者はかなり雰囲気が異なります。これはアンテナ登録時期の違いによります。
2004年春、表紙に ?A (はてなアンテナに登録する)という自動登録リンクを用意した際、私は意図的に登録 URI を http://deztec.jp/design/ に設定しました。それまで、大半の方は http://deztec.jp/design/index.html を登録されていました。したがって、2004年春を境として旧読者と新読者を分離して傾向を見ることができます。
旧読者のおとなりページランキングにはテキストサイトがずらり並び、古参の読者にテキストサイト読みが多かったことがわかります。ところが新読者のおとなりページランキングは見事に(いわゆる)ブログばかり。何が変わったのかといえば、私の文章の書き方が変わったのでしょう。MT を導入したのが2003年11月だから、見事にツールに飲み込まれたな、と思う。
懐かしいな、と思い「if→itself」を読んでみたら、if さんいつの間にか大学院を中退して就職してました。ひょっとして、と思いいちご帝国も読んでみたけれど、さすがに岩倉さんはまだ学生(多分)。
コメント欄に書き込んだ内容を転載。
- # 徳保隆夫 『gori さんが「紹介したエントリー」はご覧いただけましたでしょうか。小さな政府を目指しつつ増税も必要である理由を、書いております。』 (2005/08/13 16:37)
- # kikori2660 『財政難解消の為には、歳入を増やして歳出を減らす。これを望むのは当然です。しかし、増税する事で歳入を増やすのは「小さな政府」ではありませんよね?あなたもそうはおっしゃってはいない。なのにgoriさんはあなたの「サービスの低下」という表現を勝手に「小さな政府」に言い換えている。これは誤りではないのですか?』 (2005/08/13 16:59)
- # 徳保隆夫 『なるほど。ただ、「小さな政府」という言葉は、しばしば歳入側を無視して、支出と経済規模の比だけを見て使われることも事実ではないでしょうか。逆の例ですが、米国ブッシュ政権の減税+支出増は「大きな政府」への転換とも評されました。黒字の特殊法人を民営化し、経営の自由度を増せば、もっと黒字になります。逆に経営を縛り続けるなら、税金を払うため赤字転落することは竹中さんの答弁通り。政府は前者を目指すので、地方では必ずサービスが低下します。それは財政危機を乗り切るためには仕方ない、というのが私の立場。表現の選択は各自の意見によって左右されます。私はネガティブな「サービスの低下」という表現を選択しましたが、語義的には gori さんの言い換えも理解できます。「誤り」とは考えていません。』 (2005/08/13 22:43)
- # kikori2660 『「小さな政府」という言葉は随分と柔軟な言葉なんですねぇ。それじゃあもう「痛みを伴う構造改革」などと言う必要も無いわけですね。いやぁ、便利便利。』 (2005/08/13 22:58)
- # 徳保隆夫 『仰る通りだと思います。おそらく今後の日本で(特定の税ではなく全体としての)減税を伴う「小さな政府」はありえないと思いますので、耳あたりのよい言葉には注意が必要ですね。』 (2005/08/13 23:43)
- # 徳保隆夫 『共産党の主張は理解できます。ただし賛同するか否かは、「公社のままであれば、支払う必要のない預金保険料や分社化に伴う窓口委託手数料への消費税などのコスト2745億円(共産党資料より)」の解釈によります。「公社では本来支払うべきコストが免除されているだけ」なのか、「国民の生活を守るため公社がそれらのコストを負担しないのは当然」なのか。労組の主張も理解できます。ただしこれは政府の甘言に対する批判。実際には、民営化後も国債を買い続け、新規事業などやらず、地方の赤字を圧縮して利益を稼ぐ、と私は予想しています。国の借金返済に寄与するだけで、国民の生活には寄与しないだろう、と。もちろん適当な口約束は批判されていいのですが、それは根本的な批判ではないように感じました。私は、民営化後の未来をバラ色に描く人は甘いと思いますが、彼らも巻き込まないと民営化はできず財政破綻が迫ります。ウソも方便と思って民営化賛成、という立場です。』 (2005/08/13 23:33)
先月23日の地震で自宅サーバが壊れ、過去ログが失われた「Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-」ですが、今月に入って独自ドメインを取得して移転と相成りました。私があちこちらから収集してまとめた過去ログがいくらかお役に立ったようで、ほぼ完全復活。
著者の Yas さん、昔はふつうの日記サイトをやっていました。けれどもある時期に、ふと思い立ったんでしょうね。様々な方面の書籍などから興味深い一節やデータを引用しつつ、常識の危うさを突くスタイルを引っさげ、一流のテキストサイトとして勇躍することになります。きちんと数えたわけではないのですが、最も多く引用されたのは「データブック NHK日本人の性行動・性意識」のはずです。類例のない詳細な客観データ集で、意外な事実の宝庫でもあります。
長らく品切れとなっていたわけですが、おそらくは Simple 効果で今年2月に3年ぶりに増刷がかかりまして、Amazon でも取り扱いを再開しております。非常に多くのデータを収録し、また解説も詳細でページもけっこう多いのに1890円ですから、この手の本としては破格ですね。さすが NHK といったところ。
その他、Yas さんがよく文章を引用されるのは山田昌弘先生(「結婚の社会学」など)。また国立社会保障・人口問題研究所のデータも多数、採用されています。こちらは無料でいろいろ読めますので、興味があればどうぞ。
広義の SNS として日本国内で最も成功したのはこの指とまれ(ゆびとま)だと思う。会員数、なんと305万人。出身校をベースにした自由参加型の会員制サービスで、メールフォームからメッセージを受信でき、各学校毎に用意された掲示板の閲覧と書込みもできる。出身校毎に会員一覧があり、自分が登録した出身校以外の会員一覧は閲覧もできない仕組み。私は1998年頃、友人に教えてもらい、すぐ登録したように思う。
mixi などと異なり、ゆびとまのほぼ全会員が実名で参加している。もともと知り合い同士をつなげるサービスなのだから、本名を隠す意味がない。稀に変名で登録する人がいると、「同窓会名簿にない人間がいる」と通報されて消えた。とはいえ嘘登録したって閲覧できる会員情報は名前と卒業年次だけ。メールはフォーム経由なので、個人情報収集の手段としては非効率だろう。件の変名氏も、きっと卒業生の誰かがこっそり加入しようとしたものだと思う。
mixi の招待制は、見知らぬ人の間に信頼関係を用意しようという発想。招待者以外の相手は顔も名前も知らないことが前提だから、逆に顔写真も名前も記号でしかない。だから、本名と顔写真を出しても安心なはずの SNS で、いい年した大人が幼稚なあだ名を呼び合って喜んでいる。気持ち悪い。
ゆびとまは現在、半ば死んだサービスとなっている。1998年頃が新規登録のピークで、その後ガタガタと新規加入者が激減した。今にして思えば、当然だった。私自身、登録したまではいいけれど、その後、やることが何もなかったのだ。そこに何か夢を見た先駆者たちが周囲の人をみな勧誘し終えた頃にはもう、ゆびとまの未来は見えなくなっていた。
掲示板は、使えなかった。ごくふつうのツリー式掲示板だったのがいけない。同窓の先輩・後輩全員に向かって話しかけたいことなんて、あるわけがない。私の出身校の掲示板は、7年間、誰も利用していない。1999年頃、ゆびとまに誘ってくれた友人らと私は別の掲示板を使っていた。今はもうない、掲示板に特化したサービス。学校毎に掲示板一覧のページが用意されており、そこで簡単な申請をすると「新しい掲示板」が作られる。「*年卒*組の掲示板」「*さんの友達専用」「**部OB掲示板」などが作られ、いずれもそこそこ書込みがあった。
メールフォームも、使えなかった。ゆびとまは登録後の使い道がないので、みな登録したらそれっきり情報を更新していない。メールアドレスなんてすぐに変わってしまう。まして1998年頃の登録者は学校からウェブに接続していた人が大半で、メールアドレスも学校のもの。高校卒業後に連絡を取り合えるように登録しているのに、高校を卒業したらメールが届かなくなるのだから馬鹿げていた。仕方ないので葉書で連絡したことを思い出す。
結局、知り合い同士をつなぐ手段として「使えない掲示板」と「不便なメールフォーム」しか用意できなかったところにゆびとまの敗因があった。会員以外見られない「ウェブ日記」と「個人従属の掲示板」があったなら、その後の展開がどれほど違っていたろう。
現在、ゆびとまは Echoo! として再出発を図っている。Echoo! は紹介制の SNS で、参加者はみなハンドルネームで呼び合う。本名とハンドルネームを同じにしている人は滅多にいない。コミュニティ機能や友達登録は当然として、記事ごとに公開範囲を制限できるなど高機能なブログ(エコログ)が用意されているのも特徴。ただし足跡機能はプレミアム会員(月額100円)にならないと利用できない。mixi のプレミアム会費は月額315円、この価格差に両サービスの力の差が現れている。
韓国最強の SNS といえばサイワールドだ。韓国人の4人に1人が登録し、その大半が実名+顔写真公開で活動している。サイワールドの勝因は実名制にあったといわれる。韓国のウェブも昔は匿名文化が主流だった。アメリカもそうだった。それが、韓国ではサイワールドの勝ち上がりによって、アメリカではブログの普及によって、実名文化がぐんぐんと伸びた。
ふつうの人には、ウェブで「もう一人の自分」を演出したいという欲求がない。そしてほとんどの人にとって、実名での人間関係は、ウェブでの人間関係より広くて深い。だから、素顔の自分を登録し、実名系の友人知人をネットワークに引き込んでいくサービスの方が、最終的には普及していく……と説明できる。韓国ではそうなった。
ウェブの匿名文化は、最初の一歩の原動力でしかないのではないか。最後に勝つ(大きなシェアを占める)力を持っているのは実名文化だ。町内会をネット会議で済ませるくらいに実名コミュニケーションを取り込んでいかないと、いつまでたってもウェブは「したいことがない」場であり続ける。電車を待つ暇つぶしに携帯電話からブログに記事を送る人がどれだけいる? 大多数の人は顔も名前も知っている相手に向けてメールを書くだろう。日本のウェブが非現実的な実名危険説に覆われ続ける限り、ウェブと生活の距離感において日本は米韓に大きく遅れていくだろう。
Echoo! が匿名推進でやっている理由はわかるけれども、最初の一歩を楽して、未来の大成功を放棄する戦略だと私は思う。まあ、そんな未来、日本にはやってこないのかもしれないが。ゆびとまがサイワールドになり損ねたことを、残念に思う。
Folio の新刊はいつ発行されるのですか? というご質問がありましたので、回答いたします。
10月以降です。まだまだお待たせすることになります。忘れた頃の発行になりますから、お楽しみに。
で、私の連載記事「"いろは"の先のCSS」ですけれども、次回で終わりにしようかな……とも思っています。それは何故かといいますと、連載開始当初と異なり、現在では文法とスタイル設定の初歩を学んだ人が次の一歩を踏み出すための学習ステップが整備されているからです。
外間かおりさんという技術書作家がいまして、私は最初、「ポータル、プロバイダ別blogデザインカスタマイズ事典」という非常に分厚い本で存在を知りました。この本は無学な読者が頭を使わず読めるよう配慮されており、つまり私の嫌いなタイプの本だったんですけれども、ほしい人には非常に役立つ本だよな……と思って、そこそこ誉めるレビューを書いた記憶があります(読み直してみたら点数は辛かった)。
で、しばらく忘れていたのですが、今年になって「HTML&スタイルシートレイアウトブック」という本を発表されたわけです。読んで驚きましたね。なーんだ、もう私の記事なんて全然、存在意義ないじゃない、と。私の記事からお説教くささを抜いて、図解を親切に、解説をていねいにした感じの良書。お説教がないのも良し悪しありますから一概にどうこうとは申しませんけれども、まあ、衝撃でした。
そしたらほぼ同時に今度は大藤幹さんが中級者向けにやってくれたわけですよ。「スタイルシートによるレイアウトデザイン見本帖」……ううむ、もうね、みんなこういう本を読めばいいんですよ。もともと私の連載は森田雄さんの「そろそろスタイルシートで」という雑誌記事(現在はウェブで公開されている)に感化されて、書籍でもウェブでもなかなか読めない解説を書いたら、たとえそれが素人談義でも多少は意味があるだろうと、そう思って書いてきたんです。いい本が2冊も出た今、それらを買って読んだらいいんじゃない? という気分になってしまうのも無理からぬところとご理解いただきたく。
話かわって、ウェブサイト作成指南書には「おじさん本」という分野がありまして、たいてい技術的な観点からいうと滅茶苦茶なことが書かれているわけです。こんな説明を「理解」して「よくわかった!」といわれても困るよな……トホホ、ってな感じ。佐藤信正さんの著書に出会ったときも、こりゃひどい内容に間違いないと思いました。
ところが、これは悪くありませんでした。まあその、私ならこういう説明はしない、という箇所はあるのですが、概ね満足。「おじさん本」もこれからはこういうレベルで書いてほしいな、と思いました。ところがその後、「おじさん本」は SEO とブログ、アフィリエイトにシフトしまして、ウェブサイト作成指南の解説書から撤退してしまったようです。時代が変わったんですね。
佐藤信正さんの新刊って最近出てないよな……と思って書店をめぐっていたら、外間さんと佐藤さんの共著「Flash MX ActionScriptほぼ10行道場」を発見。あとで調べてみたら共著は3冊もありました。けっこう解説スタイルが違う作家さんなのに、面白いな、と思ったんです。というわけで外間さんの日記を読んでみたら、やっぱりご夫婦だったんですね。ひとつ謎が解けてスッキリ。
ふと思い出してこんな記事を書いたのは、佐藤信正さんの1年3ヶ月ぶりの新刊「ブラウザー・スクリプティング―これは便利!ブラウザー超カスタマイズTips集」を書店で発見したからです。面白そうなので買ってきました。タイトルは派手ですが、本になるくらいだからマニアックなテクニックが載っているわけではないです。……その点さえ気をつけていただければ、楽しい本ですよ。
そういえば津田大介さんは「アマゾる」を出版されましたが、松永英明さんはしばらく著書が出ていません。作家さんってどうやって生きているんだろう。ジェームズ・アレンには興味なかったんだけど、松永さんが翻訳された「幸せと成功への扉」を買ってみようかな。読んでみれば面白いのかもしれない。
国家財政が危機を迎えた根本原因は、少子・高齢化です。……という話を長々と書くつもりだったのですが、いい記事があったので、それを紹介しておしまい。なんだか暗い話ばかり書かれているのですが、きっと bewaad さんが明るい話を教えてくれるので数日後には気分が晴れると思いますよ!
余談ですが、戦後の人口倍増は伝統的価値観の崩壊と世代間の断絶を生んだ根本原因でもあります。農村で増えた人口は仕事を求めて都会へ移動し、伝統的な社会から離れた人々は新しい社会を形成していきました。都市の過密化が進み、経済発展とともに地価が上昇、日本の物価高と高い人件費にもつながっていきます。
みなさんウェブサイトを持っていらっしゃるのですね。内容の方は……まあ、お金がなくて手作りでやっているのだろうから。私はどうこういいません。
政権公約の党内調整だけは余念がない民主党、今回も衆議院解散から1週間で独自改革案を発表するに至りました。じつは以前から同内容の主張は示していたのですが、党内調整が不調で先の国会には対案を提出できなかったんですね。多分、政権公約は概要を書くだけで足りるので、総論賛成各論反対の議員を取り込むことが可能なのでしょう。
ちなみに自民党の意思決定機関・総務会は全会一致制です。党議拘束の根拠となる総務会に反対者がいるのはおかしいという理屈。郵政民営化法案と人権擁護法案では多数決で党の方針が決まったので紛糾しましたが、じつは従来、話し合いが時間切れとなった場合には少数派が退席するのが原則なのです。そして細かい部分の調整が詰められなかった場合には「**さんに一任」という手法が使われてきたわけです。こうした知恵は、民主党にも継承されているはずなんですよね。
民主党が従来なかなか党内をまとめきれなかった理由のひとつは岡田代表の「話し合い絶対主義」でしょうが、それが致命的問題とは考えていません。自民党だって野党時代には必ずしも対案を出せませんでした。あの社会党でさえ、政権をとったら主体的な提案ができたのだから、私は楽観的に考えています。今回も政権公約までは決まったわけです。
私は民主党には投票しませんけど、民主党はおそらく今回の選挙に勝つと思います。勝ったら旧自由党系議員には頑張ってほしいと思う。
さて、民主党の郵政改革案ですが、その内容は「当面は現状の窓口ネットワークを維持しつつ郵貯の上限引き下げにより貯金を強制的に減らす」というもの。郵政公社は巨大なので、そのまま民営化すると民業が圧迫されます。窓口ネットワークの維持コストも膨大です。しかし政府案ではサービスの低下(とくに郵便局の大幅削減)を危惧した地方住民に配慮し、規模を維持して民営化します(民業圧迫は分社化で回避)。
民主党案では、まず郵貯が半分のサイズになります。郵政公社の収益の柱を最初に削り、強制的に民間銀行へお金を流してしまう。すると高コストな窓口ネットワークを維持したまま収入がどんどん減るので、大赤字になります。その赤字は税金で補填されることは岡田代表が13日の読売テレビ「ウェークアップ」(gori さん作成のテキスト版)で明言された通り。そんなアホな改革案があるか! と怒るのは考えが浅い。岡田さんが窓口ネットワークを維持するかどうかは国民が判断すべきと語っていることに注意すべきです。
民主党案が実現すると、数年で国民が悲鳴を上げます。こんな大赤字、税金で補填するのは耐えられない、と。そこで岡田さんは苦渋を顔に浮かべて「では国民の皆様、郵政公社を JR や道路公団のように民営化いたしましょうか?」と提案するわけですね。JR は赤字路線を切りまくったし、道路公団も国策の計画路線 2000km の内、採算の取れない 700km は建設しないと決めました。赤字を抱えて民営化される郵政会社は不採算局を全部閉鎖するでしょう。あははは。こりゃすごいや。
ようするに、国民はバカだから郵政公社全体が黒字の間は組織の効率化に賛成しない。だから赤字を作って意識変革を促し、身軽で強い会社を作るのです。さすが小沢一郎さんの改革案だと思うけど、途中でコケると赤字会社だけが残る最悪の事態に。ぶっ飛んだ提案だけに、そもそも国会の通過が危ぶまれます。
まず個人作成の著名な反対派ウェブサイトをご紹介します。
続いて郵政公社関連団体のウェブサイトをご紹介します。
著名人の郵政民営化反対の意見をいくつかご紹介します。
そして民主党の改革案は以下の通り。
その他、参考情報など。
まず政府案(自民党案)に賛成する意見、援護射撃する意見をご紹介します。
続いて、民営化には賛成だが政府案には反対という立場から反対票を投じた議員の意見表明を2つご紹介します。端的には3事業一体での民営化を主張されています。(注:政府案は民業圧迫回避のため4分社化)
「ウェブでは郵政民営化支持が優勢」という意見があります。実際には、そうでもありません。Google などで検索しますと、著名な反対派サイトは、そんじょそこらのブログよりは上位に登場します。サーバーカスケードには陥らないよう注意したいものです。
「ウェブでは郵政民営化支持が優勢」と感じている方は、おそらくはてなブックマークのユーザが多く徘徊する地方を見ているのでしょう。
ブログ界隈で著名な論客系ブロガーにはいわゆる保守派が多く、小泉首相支持、郵政民営化支持、中国と韓国は嫌いだけど台湾は好き、といった意見が目立ちます。2ch にも同様の傾向があります。
けれども庶民系ブロガー(主に長文を書かない人々)の間では民営化の賛否は拮抗しています。民主党支持も強い。世論調査の結果に近い印象です。
興味深いことに、郵政民営化反対の方々が紹介する記事には著名人の発言が多い。民営化賛成の方々が竹中大臣の発言ではなく Irregular Expression の記事にリンクすることと対照的です。いわゆる「ネット右翼」のマスコミ不信とウェブにおける素人言論への期待と信頼が垣間見えます。逆にそれ以外の方々は、マスコミ報道や既存の言論人の発言にけっこう満足しているのかもしれませんね。
今、ある種のブロガー達にウェブ上の郵政民営化反対の意見が見えなくなっているとすれば、思想によるウェブ上の住み分けがどんどん進んでいるためでしょう。こうなると皮肉にもみんなが見ている Yahoo!ニュースの価値がいっそう高まってきます。どこかに思想を超えた情報の集積地がないと困るのですが、結局それはマスコミの役割なんですね。
「郵政民営化」「選挙」のタグで抽出したはてなブックマーク一覧から、各ブックマークに寄せられたコメントを読むことができます。それらコメントページには、公開ブックマークの数とはてなダイアリーでの言及数が記載されています。「郵政民営化」人気トップ10について、3つの数字を抜き出すと、以下の通り。
?B 260(226)/?D 137
?B 209(184)/?D 103
?B 191(163)/?D 22
?B 116(102)/?D 65
?B 85(73)/?D 71
?B 54(46)/?D 3
?B 53(43)/?D 27
?B 50(38)/?D 1
?B 48(42)/?D 13
?B 45(43)/?D 29
はてなユーザと一口に言っても、サービス毎に空気が違う、ということはわかります。傾向としては、インテリ向け読み物はブックマーク優勢。庶民向け読み物はダイアリー優勢。
はてなダイアリー - 注目URLとはてなブックマーク - 最近の人気エントリーを見比べますと、「かなり雰囲気が違うな」と理解されるかと思います。Yahoo!ニュース - 共同通信 - 実名でのネット活用促す 総務省「悪の温床」化防止は ?B 71(63)/?D 197 という具合で、言及数がブックマーク数の3倍近い。Yahoo!ニュースの面目躍如。
将来的には、?B の普及にともなって ?D と ?B のユーザ層は区別がつかなくなっていくだろうと予想します。?B のユーザ層は ?D のベータユーザと近い層なのではないかと思う。
徳保さんのエントリもbewaadさんに厳しい反論をくらってしまった。つまり、財政再建の方法は、「収入増・支出減」という方法じゃなくて、「名目GDP成長率>金利」状態に持っていかないと有効な策ができない。それをしない小泉総理の構造改革路線のほうが「戦犯」だと。
その厳しい反論というのが郵政民営化と解散を考える・その1:個別のご指摘を拝読してです。リフレ派として知られる bewaad さんが今回の郵政解散に厳しい意見を表明されていたので、いい機会だからこちらのレポートを提出した上でご意見うかがいたいな、と思いトラックバックしてみたんです。その結果、以下の回答を得ました。
財政赤字問題については以前詳しく書いたので概要のみ記しますが、巨額の財政赤字はそれだけ民間部門で使い切れない巨額の貯蓄超過があったことの裏返し(民間投資を賄ってなお余る貯蓄は政府か海外に貸すことになりますが、海外についても日本が世界最大の債権国であることからわかるように、目一杯貸し込んでいます)で、国民のわがままの結果ではありません。また、巨額の財政赤字といってもグロスではなくネットで見ればそれほど深刻な話ではありません(この点について、webmasterのレベルを超える議論としてBroda and Weinstein, 2004, "Happy News from the Dismal Science: Reassessing the Japanese Fiscal Policy and Sustainability"があります)。
さらに、財政赤字問題解消のための処方箋ですが、増税と政府支出削減だけでこれに対応しようとすればかえって悪化する可能性が高いといえます。当サイトではおなじみのドーマー条件ですが、要すれば増税をしなくても税収は最低でも名目GDP成長率に比例して増え、政府債務は金利に比例して増えますから、名目GDP成長率を金利よりも高水準で維持しなければ政府債務は発散します。近年の名目GDP成長率低下こそが歳入の著しい減少を通じて発散への道を着実に進ませているわけですから、まずはそこから手をつけるべきです。
#プライマリーバランスを喚いてうるさい財務省も、自ら公開しているプライマリーバランスの説明において、こっそり
近年では名目金利>名目GDP成長率となっており、プライマリーバランスが均衡しても、公債残高対GDP比は上昇していきますなんて書いています。わかっているならそれにどう対処するか少しは考えてほしいもので(笑)。増税や政府支出削減は名目GDP成長率が安定的にプラス(5%以上(実質GDP成長率2%台前半、インフレ率3%程度)を念頭においています)で推移するようになってからやればいいことです。それをデフレ=名目値が引き下げられる現在にやればますます名目値を下げるだけで、金利は絶対にマイナスにはならない以上(マイナス金利で貸すなら現金のまま寝かせておく方が得なので)、財政状況をますます悪化だけさせるでしょう。そして名目GDP成長率の引き上げには、郵政民営化は全く寄与する面が見当たらないのです。
ここまでは想定の範囲内。というのは、件の記事の補注2で、私は次の通り書いています。
増税+緊縮財政といったって、いきなり単年度で均衡予算を組むべきと主張したいわけではありません。10年ないしは20年で均衡させる、つまり財政が破綻する前に国債残高が上げ止まる見通しがほしいと思っているのです。増税を最低限とするために、年率数%の緩やかなインフレも実現に努力してほしいと思う。ただ、現状の税収不足は巨大過ぎます。増税が不要になるほどのインフレは、怖い。それは耐え難い苦痛になるのではないか。
このあたりは、感覚で書いています。緩やかなインフレで万事解決できるならよいのですが、増税も緊縮財政も、その幅はともかくとして、いずれも必要だと私は思うのです。
つまり、bewaad さんの主張されるリフレ政策だけで足りるの? という疑問があるのです。finalvent さんのご意見にも同じ感想を持ちました。大筋は、政府を小さくし、産業(民間部門)を興隆させ、そこから国家をまかなえるようにする、ということなんじゃないか。
と仰るのですが、現在の国民負担率を維持したまま税収が倍増するようには思えないのです。
というわけで、コメント欄で質問してみました。
(前略)「インフレ率3%を50年間継続で借金がGDP比30%以下に安定する」とかですね、そういった、素人にも判断しやすいモデルケースがあれば、ご教授いただきたいです。
国債残高は GDP 比40%以下とするべきと聞きます。ところが日本では2006年には180%に到達するという状況です。GDP 比なのだから、GDP の方が増えればいい。それはそうなんですけれども、どの程度のインフレならいいのか、そこが知りたいのです。
IT バブルがはじけて以降、ゼロ金利政策を通り越して量的緩和政策が導入されています。その後、銀行の不良債権処理が進み、貸し手側の問題は概ね解消されていますが、借り手が少ない状況が続いています。当面は国債をどんどん発行し日銀がそれを買う必要がある……というのが bewaad さんの主張です。つまり短期的には国債残高がもっと増えるわけです。昨今の政治状況を見るに、公共事業では国民の支持が得られません。手厚い社会保障施策を国債発行で賄うような形になる?(つまり最終的な「消費」の主体は国民)……そのあたりも含め、どのような政策が考えられるのか、ぜひご意見をうかがいたいです。
リフレ政策の簡単なまとめは拝見したのですが、具体的な勝算の見積もりが見当たらず、困りました。勝算の見積もりがないのは構造改革も同様ですが、「収支均衡を目指す」のは理屈としてわかりやすいと思うのです。一方、借金し続けて緩やかなインフレへ景気を誘導すれば OK というのは博打っぽい。不安なんですね。
日銀が長期国債を100兆円買い増すとインフレ率**%が**年間続き、GDP が**増えるので、結局、GDP 比では借金が減るので勝負に勝てる、さらに**%のインフレ誘導政策を**年続けていけば、国債残高は GDP 比で40%以下になる……そういったプランがほしいのです。「インフレいいよね」「でもお金かかるよね」「(財政規律が緩んで)借金が増えるだけにならない?」「そうかもね」では、ちょっと、という。
田中秀臣先生の書評:見失われた「第3の道」に感銘を受けたので、先生にも質問してみることにしました。リフレ政策の勝算について、ご教授いただけたら嬉しいです。素人は具体的な数字がないとピンとこないのです……。
特殊法人の民営化・解散について。雑多な記事群。政局メモ第7回。
道路関係四公団は民営化が決まっています。
公団のままでは「もっと高速道路がほしい」という国民の声についつい応えてしまう、それで借金が膨らむ悪循環になっていた。だから民営化して、儲からない路線はもう作らないことにする。そうであれば、道路を車が通るだけでお金がチャリンと落ちていくので、これは儲かる。その儲けで約40兆円の借金を45年で返済していただく、そういう話になっています。
郵政民営化と同様、道路公団民営化も地方をガッカリさせる政策です。でもこれは正しい決断だったのではないでしょうか。
国鉄の分割民営化は、長年問題を先延ばしにした結果ついに1986年に経営が破綻したので断行された改革です。
国鉄の債務は37兆1000億円にも達する巨大なものであった。これを新鉄道会社等に健全経営を損なわない程度で、JR東日本、東海、西日本、貨物会社と新幹線保有機構に11兆6000億円を負担させるとともに、残る25兆5000億円については、国鉄清算事業団において処理することとした。なお、この国鉄清算事業団の債務については、鉄道事業に必要のない土地やJR会社の株式を処分して得られる収入などを充てることとされた。そして、なお残る債務については、最終的には国において処理することとされた。
- その後の債務処理
旅客鉄道の本州3社と貨物会社は、実質的には国鉄改革時に新幹線保有機構が引き継いだものも含めて14兆5,000億円の債務を負担しており、現在も返済中である。
一方、国鉄清算事業団が引き継いだ残りの債務については、旧国鉄の土地や旅客会社の株式の売却により返済してきたが、地価高騰時の土地売却見合わせ、株式市況の低迷による上場の遅れ等により、土地・株式の売却が思いどおりにすすまなかったことから、従来の返済スキームが利払等により破綻した。1998年に国鉄清算事業団債務等処理法が成立し、新たな枠組みで債務の処理をすることとなり、現在は独立行政法人鉄道・運輸機構がその業務を承継している(国鉄清算事業団は1998年10月22日解散)。
他人事のような文章ですが、これは国土交通省の資料からの引用です。いまだに数十兆円の債務があり、これは税金で処理されます。こうなってはいけない、と思うのです。
公団住宅を供給している都市再生機構という特殊法人があります。この会社は既にその役割を終えているので、存続ではなく解散が望ましい、という意見があります。ところが、バブルの後遺症でいまだに7300億円の繰越欠損金を抱えているのが難点です。事業計画では2018年に借金を完済することになっています。
ところがその2018年になると、「黒字でやっていて、国民のためにもなっている会社をなぜ解散する必要があるのか? 安価で高品質な住宅の供給は国民の生活を守るために云々」という批判が、やっぱり出てくるでしょう。道路公団民営化も揉めましたが、特殊法人の民営化や解散というのは、なかなか難しい。
「国家の行政機構とは権力を背景に強制的に富を再分配して国民の幸福の総和を増していこうとする仕組み」と仮に定義しますと、行政サービスでは基本的に払った金額とサービスは不均衡になります。これに対し、民間企業は、金額に見合ったサービスを返す、といわれます。でも、そうかなあ、と思うんですよね。
24時間営業のコンビニエンスストア、じつは早朝の時間帯は赤字なんですよ。商品は売れないのにバイト代が高いから。けれども、早朝だけバカ高い料金には設定しません。逆に昼間の料金を大幅値下げもしない。規制なしでも、民間企業が生活のインフラを整備していくという状況があるのです(そこに需要があれば)。
何でもうまくいくとは限りませんが、「民間企業の活動=浅薄な利益追求」ではないと思う。
「黒字の特殊法人は民営化しないでいい」という意見をよく見かけますが、これには疑問があります。黒字か赤字かということは、実のところ、あまり重要ではないと思うのです。
ある特殊法人が結果的に黒字になっているとしても、それが特殊法人である以上、私利私欲を超えた「無理」を必ずしているはずなのです。逆にいって、そういったものが何もない(または昔はあったが今はもうない)なら、それはもう黒字でも赤字でも関係なく、解散するか民営化するのが筋でしょう。特殊法人である理由がないのだから。
これまで、大多数の国民はサービスの向上ばかりを要求してきました。その結果、財政危機となりました。だからこれからは、サービスを厳選する必要があるのです。
サービスを絞り込めば、現時点で黒字の特殊法人はすぐに民営化できます。そうなれば法人税も見込めますし、将来は株式公開というボーナスもあります。現時点で赤字の特殊法人も、サービスを絞り込むことで収支トントンを目指し、これ以上、借金が増えないようにしたい。
特殊法人改革とは、こういうことだと思うのです。最低限必要なサービスだけを残し、利益をどんどん出していただく。そのお金で国の借金をコツコツと返していく。
借金の返済よりも今日の飯、という意見はわからないではありません。けれども、莫大な借金を返さねばならない人が、「うな重を食べたい」とごねるのはわがままではないのか。そう思うのです。
政局を眺めつつ、ちょっと調べたこと、考えたことのメモです。
郵政民営化に賛成する意見として「郵貯・簡保の350兆円が民間に流れて景気回復」という説があります。長期的にはそうなるのでしょうが、劇的に何か変わるようなことをいう意見は、よくわからない。国債にせよ財投債にせよ、誰かが買わなきゃいけない。いや、財投債は売れなくてもいいんだ、特殊法人は今すぐみんな債務を処理して解散しよう……という意見なら、そういうものかな、とも思うのですが。
いわゆる公団住宅を供給している独立法人都市再生機構には、7300億円の繰越欠損金があります。自転車操業になので、都市再生債券を誰も買ってくれなければ、そこでおしまい(と私は解釈しています)。すると回収不能債権が生じます。国民の貯金がどこかに消えてしまう。そして再生機構もいきなり消滅してしまうわけで、公団住宅を買った人は不安になりますよね。
長い目で見れば、次第に財投債の買取量は減っていくのでしょうが、なかなか緩やかな展開となりそうです。都市再生機構の経営改善に向けた取組み[PDF:124KB]によると、彼らは2018年にようやく借金を完済します。国民負担ゼロで公団を解散するためには、それまで待たねばなりません。例によって不測の事態やら、さらなる土地価格下落による含み損の拡大やらでもっと遅れるでしょうから、「早くても2018年」と考えなければいけない。
先日の郵政民営化応援記事(政局メモ・4 に相当)が11日の ?B で人気となりまして、かなり投げ銭いただきましたけれども、よく考えてみると、昔読んだ本の受け売りだったように思います。もう手放してしまった本なのですが、たぶん間違いない。
新刊当事に買って読んだきりだから、私の記事から本のレベルを想像されても困るわけですが……。「私はこう理解しました」という5年越しの感想文があの記事だった、という感じはします。ただ、あの記事は私が書いたということを考えると、ずるいですよね。私は80年生まれですから、大上段に構えて最近30年間の日本人の選択を批判する……なんて他人を叩いているだけなんだからいい気なものです。
なお、今ではもう前掲書は買えなくて、小学館からリニューアル版が刊行されているそうです。Amazon の目次を見る限りでは、基本的には同じ内容のようですね。
「不快に思う人が多い・その人物に対する苦情が多い」という理由で強制退去させてしまう運営は果たして正しいのか?Kusakabe氏の発言をスルー出来ずに「通報しますた」を繰り返す大人気無い人間がmixi内では勝ち組なのか?
私の回答は、いずれも YES ですね。私企業がやっている、高々100万人しか加入していない、しかも趣味的なサービスでの話ですから。mixi の利用規約には、禁止行為として次のように書かれています(抜粋)。
- mixi の運営またはネットワーク・システムを妨害する行為
- その他公序良俗、一般常識に反する行為
- 上記に準ずる行為
100万人も会員がいて、はじめてこの種の強制退会なわけでしょう。100万人中、最も多くの苦情が寄せられるユーザだったのだろうから、「Kusakabe さんには一般常識が欠けていた」といってもいいと思う。
社会としてはいろいろな人を許容していく必要があると思う。しかし mixi のような仲良しの集まりにおいては、ヘンな人が排除されるのは致し方ないのではないか。
数人から希望があったので、暫定的に公開。備忘録の人気は、これで大体わかります。各種ランキングは200位まで公開。
ログは1年分あります。ダウンロード自由。
なぜ、郵政公社を民営化するべきなのか? 素人有権者の一人として考えた内容をまとめました。(改訂:2005-09-02)
最初に断っておきますが、9月11日の衆議院議員選挙は、過去の選挙と同様、基本的にはどう転んでもいい選挙です。小泉総理会見(2005-08-08)を素直に読めば、現時点で郵政公社を民営化することに賛成なら自民党支持、反対なら民主党支持となります。しかし実際には民主党も、政権政党となった途端に自衛隊を認めた旧社会党のように、政権をとれば民主党なりの郵政民営化法案を国会に提出するはずです。
クリントン政権とブッシュ政権とで路線変更は多々あるものの、アメリカ合衆国は相変わらずアメリカ合衆国であり続けます。根本的な変化が選挙でもたらされる状況にはない。革新派のミッテランさんから保守派のシラクさんへ大統領が変わってもフランスはフランスでした。保守党のメージャーさんから労働党のブレアさんへ首相が交代してもイギリスはイギリスでした。そして保守派の金泳三さんから革新派の金大中さんへ大統領が変わっても、韓国はやっぱり韓国でした。日本も同じです。
民主党には構造改革推進派議員が大勢います。党内に旧自民党以上の路線対立があって党の意見を集約できず、先の国会では対案を出せないまま「とりあえず自民党案には反対」となりました。政権を担えば決断は不可避です。社民党系議員が少数派となっている状況から考えて、民主党政権も郵政民営化法案を出すのは間違いありません。(参考:民主党の郵政改革案、私はこう読む)
選挙の結果に関わらず、郵政公社は民営化される運命にあります。消費税の導入と税率アップ、小選挙区制の導入による二大政党の誕生、中央省庁再編と地方公共団体の再編そして地方分権の流れ、公共事業中心から金融政策中心へ移行した景気対策……こうした政治状況は、いくつ内閣が倒れても、政権党が入れ替わっても、途切れることなく漸進してきました。郵政民営化も、そうした政治課題のひとつです。
つまり今回の選挙で重要なことは、自民党か民主党かではなく、国民が構造改革を支持するか否かなのです。国民の支持を得て郵政が民営化されるのか、国民の意思に反して郵政が民営化されるのか。この分かれ道は、その先の大改革の成否に直結しています。以下、長丁場ですがよろしくお付き合いください。
日本の国家財政の状況は財務省の様々な資料に記されています。平成17年度予算から一般会計を見ますと、44兆円の税収に対して歳出は82兆円となっています。18兆円国債を償還し、34兆円の国債を発行します。
長らくこんな感じで借金が増えていますから、日本の財政は、私が生きている間に破綻します。(日本の財政を考える/『日本の借金』時計)
なぜ、こんなことになったのか。
それは国民が、払った税金以上のサービスを国家に求めてきたからです。具体的には、有権者の希望を素直に聞いてくれる議員を国会に送り込んできたからです。
その結果、危機に瀕したこの国を救う処方箋は、ひとつしかありません。簡単に書きます。
どちらか片方だけ採用するのは、現実的ではありません。
税収を倍増すると、どうなるか。仮に消費税率の上昇で補うことにしましょう。現在、消費税は歳入の12%を占めています。公債収入は42%です。合計54%を消費税で賄うには単純計算で税率を22.5%とする必要があります。
支出を半分に減らすと、どうなるか。国債を償還できなければ、それは破産を意味します。そこで18兆円は予約済。残りは23兆円。国家財政の危機ということで地方交付税交付金も半分を国債償還に当てたとして、8兆円の支出。残りは15兆円。公共事業は全部やめましょう。自衛隊も解散する。65歳になったら死んでもらう。これでようやく帳尻が合います。めでたし、めでたし。
というわけですから、大増税とサービス低下を同時に進めねばなりません。(補注)
議員さんたちはもちろん、これではいけないということは、わかっていました。
27年前の1978年、大平内閣は早期の消費税導入による財政強化を図りましたが、総選挙に大敗し撤回を余儀なくされました。
1986年、第3時中曽根内閣は売上税構想を練ったものの、またも世論の批判に屈しました。
1988年、竹下内閣は消費税法を強行採決により成立。内閣支持率が10%未満まで低下し、死に体となりました。翌1989年4月の消費税導入を見届け、6月にリクルート事件を契機として退陣。同年の第15回参議院議員通常選挙で自民党は記録的大敗を喫します。(以降、崩壊した自民党支持層に代わって無党派層が国民の最大勢力に)
1994年、久々の非自民党政権となった細川内閣は税率7%の国民福祉税構想を発表。世論の集中砲火を浴びて構想は頓挫し、政権も失います。
1997年、橋本内閣は消費税率を5%に上げます。景気に配慮し所得減税や法人税減税を同時に行いましたが、翌1998年の第18回参議院議員通常選挙で自民党は再び記録的な大敗を喫します。
ようするに、国民はいつだって馬鹿で身勝手でした。国民の脅迫は常に本気だったから、もうこれ以上引き伸ばせないというギリギリの段階でようやく議員さんらは決断し、増税してきました。そのたびに国民はブチ切れ、増税を決定した政治家を次々と地獄の釜に放り込んできたのです。これが成熟社会に突入して以降30年間の政治状況です。
ちなみに二大政党制とは、減税ばかり目指す夢見がちな政党を弱体化し、現実的な政策を掲げる政党だけで議会を牛耳ることで衆愚政治と決別するための手段なのでした。
今後、行政サービスはどんどんレベルダウンしていきます。そうしなければ、高齢化社会の進展による社会保障費の増大に対応できないからです。従来と同等の税制と弱者保護体制では、国家財政が破綻します。かといって誰も見捨てられない。だから、みんなで痛みを分かち合うしかない。それが日本の未来です。
なぜ、郵政民営化か。
民営化すればいいことがたくさんある、なんてのは嘘です。ユニバーサルサービス実現のために、郵政公社は無理に無理を重ねながらギリギリ黒字を保っています。民営化後は政府の保証が消えるので、経営の安定化が図られます。例えば田舎の郵便局は、「コンビニエンスストアなんだけど、郵便局もやっています」あるいは「ポストと無人機のみ」といった簡素な形態となっていくでしょう。
このように、郵政事業が日々赤字を生んでいる地域において、サービスは最低限のものへ切り詰められていきます。特定郵便局から簡易郵便局への置き換えも進むはずです。そうして郵政会社は NTT のような優良企業となり、毎年多額の法人税を納めるようになるのです。さらに将来的には、株式の公開により政府は数十兆円規模の売却益を得、国債の償還に当てることができます。
郵政民営化は、国民生活に影響が非常に少ない改革です。民営化後も、最低限のサービスは何とか維持できる算段があるのです。国費の投入も必要ないどころか、数十年間納められてこなかった法人税を、株式公開により一挙に回収することもできます。
国民には何の利益もないって? それは大きな勘違いです。国の借金は、国民の借金です。株式公開により数十兆円の収入が生じるのなら、それは未来の国民負担がそれだけ減ったことを意味します。焼け石に水ではあっても、数十兆円は決して小さな額ではない。郵政民営化は、田舎に暮らす国民が少し我慢することによって、数十兆円の歳入を生み出し、国家財政の危機に対処するための重要な政策なのです。
もう一度、書きます。
郵政を民営化しても、国民生活の改善には寄与しません。ただし、将来の悲劇を緩和する一助にはなります。
今回の選挙で問われているものがあるとすれば、それは国民の意識です。
日本のような巨大国家が破産したら大変なことになります。そこで急激なインフレによる借金の無効化が考えられますが、当然、これは国民にとってたいへんな苦痛となります。保険も貯金も無意味となりますし、貿易に依拠している日本経済も、相当の期間ひどい打撃を受けます。
私は、この郵政民営化よりももっと大事なことがあると言う人がたくさんいるのも知っています。しかし、この郵政事業を民営化できないでどんな大改革ができるんですか。
と、首相は語りました。この発言は、まさに国民に対してぶつけられています。
郵政民営化の先にある真の大改革とは何か。それは年金支払額のアップと給付額のダウン、医療補助の削減と保険料の上昇、大増税と行政サービスの大幅な低下です。郵政民営化の小さな痛みにすら耐えられないなら、日本人は座して死を待つ他ない。当座の郵政サービス低下が心配な方は、どうぞ民営化に反対してください。
戦後の混乱期を乗り越え、高度経済成長を達成してからの30年間、問題を先送りしてきたのは誰なのか。それは国民自身です。そのツケを支払うか、破産して首を吊るか。冒頭に述べた通り、いずれ郵政は民営化されます。しかし国民の協力がなければ、必ず改革は遅れます。改革が遅れれば遅れるほど、先に待つ悲劇は大きくなるのです。
以上。
緊縮財政と増税による財政均衡策は、クリントン政権のように強い景気を背景に行うべきです。ただし90年代以降、インフレで財政赤字を解消した先進国はロシアしかないことにも注意すべき。ロシア国民の窮乏を知る欧州諸国は、弱い景気の中で財政均衡に取り組んでいます。
増税+緊縮財政といっても、いきなり単年度で均衡予算を組むべきと主張したいわけではありません。財政が破綻する前に国債残高が上げ止まる見通しがほしいのです。じつは「リフレ+歳出抑制→増税回避」のシナリオに示す通り、年率5%のインフレを実現できれば、国債残高の対 GDP 比は増税無しで抑制できます。ただし高齢化社会の進展による歳出自然増の完全抑制を前提とした試算です。また、インフレの痛み(貯蓄が毎年5%ずつ減少)にも注意が必要です。
例えば民主党が年金目的消費税(3%)の導入を検討しているのは、リフレ政策に成功しても高齢者の増加による歳出の自然増を完全に抑制することが困難だからです。最低限の年金制度を保障し続けるためには、増税が不可避なのです。自民党の増税構想も同様に説明できます。(本文に戻る)
細野真宏の世界一わかりやすい株の本がバカ売れしているらしい。しかも絶賛の嵐。
私には細野先生の真似はできないのだけれども、話の起源を追いかけていくことは大切かもしれないな、とは思っています。人権擁護法案10年史も割と好評でしたし、そういった需要はあるのでしょうね。ど素人でも、まあ、ちょっと調べていけば多少のことはできるわけです。
私はどういうわけか選挙に関心がある有権者なので、9月11日までには何らかの態度を決めたい。
というわけで、9月11日に投開票される衆議院議員選挙ついて、私なりに状況を整理した結果を簡単にまとめてご紹介していきたいと思います。なお、今回は10年史のような資料を駆使した話はしません。
以下、次項へ続く。
全然まとまりのないシリーズ記事第3回。
NHK「人間ドキュメント」の女拓問題というのがありまして、
親は女拓をとってもらおうとして来た。TVで流れる事も承知はしていた。ただ、娘はどうなのか。年端の行かぬ子供で親に連れて来られただけ。アイドルのようにそれがどういう拡散をするのかの覚悟して「契約」を行った訳でもない。もし色々と判断がつく歳になった時にこの娘はどう思うのか。
なんて理由で批判されていたりします。そういう心配がある、ということは認めます。ただ、それが重要なことなのか否か。以前も自閉症児を描いたテレビドラマに、自閉症児が自閉症児の役で出演した際にも問題視する方がいました。馬鹿馬鹿しい、と私は思う。そんなことをいったら、赤ちゃんをテレビドラマに出すことはできなくなってしまうではないか。いや、出さなくてもいいじゃない、という意見はありうる。
小学校中学年の子どもを大人扱いせず、親に連れて来られただけ
と判断するとなると、子役だって親の言いなりで芸能人をやっているだけと判断していいのではないか。テレビ取材を知っている人ならわかるだろうけれども、隠し撮りでない限り、あれは相当に目立つ。小学生が、撮られていることに気付いていないわけがあるか。ないよ、それは。だから、赤ちゃんどころか小学生を描くドラマだって作れないことになる。そういうのはアニメか何かでやって、大人の声優が声を当てなきゃいけない。それでもいいんだ、という考え方はありうる。ありうるけど、私は賛成しない。
「清潔と人権」問題でも何でもそうなんだけれども、誰も傷つけない生き方はない。9.11 に際してアメリカ合衆国のブッシュ大統領は善良な市民を全面的に擁護したのだけれども、ブッシュ政権の中枢にいる人には、よくよくわかっていたと思う。静かに幸せに暮らす善良な人々でさえ、誰かを傷つけ悲しませ、命を賭した抗議行動を起こさせるに至ったのだということを。
成田闘争を憎む私は 9.11 のテロリストにだって賛同しないけれど、東京にサリンを撒かせた麻原さんが犯罪者で、バグダッドに爆弾を落とさせたブッシュさんはオッケーというのはおかしい、みたいな意見を理解できるかできないかと問われたら、それは理解できる。そしてまた、ぐったり疲れてしまうのだけれど、成田で善良な市民の家を放火して回ったり、警察官を囲んで竹槍で刺し殺した連中の気持ちだって、お話としては理解できてしまう。
つまり何がいいたいのかというと、子どもの顔写真を公開するとかしないとかといった話をするときに、将来、子どもが「嫌だな」と思う可能性……なんてものを錦の御旗にしてほしくはないのです。大上段に振りかぶっておいて、いいたいことはそれだけか、という感じは私自身するわけですけれども。
人は必ず誰かを深く傷つけている。気をつけていれば大丈夫? それは驕りだと思う。少なくとも、自らの生き方を反省せずテロリストらを一方的に責め立てたアメリカ政府の考え方を批判した方々には、考えを改めてほしいと願っています。もちろん、相当程度に似通った価値観の人ばかりが集まっている場においては、いくつかの仮定を用意することができますが、まずは原理主義的に話を進めたい。
私がいいたいのは、誰も傷つけまいとしたら、人は生きられない。だから、人が生きていくためには、どこかで折り合いをつけなければいけない。そうした認識に立って、妥当な線を探るべきだ、ということなのです。どこまでも後退していった先に「絶対に子どもが傷つかない地点」があるなんて、私には考えられないのです。だから、私は可能性の話を言い募り、子どもの肖像権は子どものもの、といった厳密な法解釈とか、素朴すぎる問題の単純化には賛成できません。
現実的にリスクと利益を見積もっていくべきだと思うのです。
じつは、子どもの顔写真問題には、別の見地からの批判が存在します。
自分の顔は塗りつぶしたり出していないのに、子どもの顔だけ出すというやり方に違和感を覚えた。ご当人は顔が出るのは恥ずかしいとか、ほかの理由で、厭なのだろう。子どもなら構わないのだろうか?
これは強烈。
いずれにせよ、sugar さんの問題提起は、単純な二分法で考えると世界の実相を消化することはできない。「誰のものか?」という問いに、単純な答えを返すなら「本人のもの」となってしまう。では親が家族の写真をウェブに公開する際に、家族全員の承諾が必要なのか? あるいは大学の研究室で学生の写真を公開する際に、教授は全学生にいちいち断って回らねばならないのか? 法律を厳密に解釈するのではなく、現実問題としてたいていの場合どうなのかということを、考えてほしい。
結局のところ、問題というのは、厳密な法解釈をした場合の境界線付近ではなく、もう少しずれたところで発生します。
単に「将来、子どもが嫌がるかもしれない」からダメ、という意見には反論がありますが、それは別の機会に。ここでは、「人が自分に関するデータをコントロールする権限の最適な限度はどこか?」という難題が存在することをご紹介するにとどめます。
そして sugar さんの強烈なカウンターには白旗を揚げるしかない。子どもの顔写真を出すなら、親もそうすべきだ。そして子どもの名前を出すなら、自分も出せ。これは私の倫理観。親は親、子は子でいい、という考え方もあるだろうけれど、sugar さんが違和感を覚えた
という事例に私は怒りました。特定の写真を紹介することは差し控えるけれども、親の顔を白く塗りつぶし、子どもの笑顔だけを残した写真を見た際には、憤りで身体が震える思いがしたものです。
これまで私の知る人々は、親の姿をフレーム外に追いやるなど、もう少し自然にやっていたので、問題に気付きませんでした。けれども、親の顔を塗りつぶしてのっぺらぼうにした写真を見て、これは罪深いな、と思いました。まず、非常に個人的な感情として。
コメント欄より引用。
本の著者とか芸能人とか、ペンネームや芸名の人もいますが、本名の人も大勢います。新聞の投書欄だってたいてい実名です。今日サウナの中で久々にアタック25なんてのを見たら、解答者は(たぶん)実名で出てました(ちなみに若い女性)。考えてみれば高校球児だって実名ですな。いくらネットが普及したって、テレビ放送や朝日新聞ほど読まれるWebページはそうそうないでしょう。
子どもの写真とか名前とか住んでいる街といった情報をテレビで公開している人はたくさんいて、全国放送ならそれは100万人以上に伝わってしまいます。「**さんちがたいへんだぁ!」といったテレビ番組では、日常生活にまでカメラが入り込んでしまい、プライバシーなんてどこかへ吹っ飛んでいる。一時期の福原愛さんをめぐる報道も同様でした。学校にも家庭にもテレビカメラが入り込んだのです。
先日の筋肉番付は親子特集で、一般人や芸能人の親子が実名でジャンジャン登場していたわけです。一部の人など住居の様子まで映像に出てきました。そういう番組を1000万人が視聴しています。犯罪者じゃあるまいし、何も好き好んでテレビになんて出る必要はない。それなのに、毎日どこかの大人と子どもがテレビ番組で実名と顔を公開しているのです。
日本のモノ言うネットユーザの多くは、子どもの写真をウェブに公開すると誘拐されると心配します。たしかに、可能性は高まるでしょう。一方、テレビ局は番組に実名+顔出しで人々を登場させる意義と比較して、犯罪誘発のリスクは低いと考えています。そして大半の視聴者は、こうしたテレビ局の判断を(消極的にではあれ)支持しているわけです。
芸能人や有名人だって私たちと同じ人間だ、ということは以前にも書きました。しばしば子どもをテレビに出そうと頑張る親の姿をテレビカメラは追っかけます。多くの場合、ご家庭の様子まで映し出される。夕餉の食卓で親子が交わす会話など、公開する必然性はない。それでも、嬉々として出演する。芸能人なのかどうか曖昧な子どもたちの周りにカメラがあって、100万人以上の視聴者がその一挙一動を眺めるのです。
小中高の後輩に中村かすみさんがいます。中村さんは Kasumin REPORTS で兄や妹の顔が写った写真を公開しているし、地元の祭として成田の祇園祭の写真を紹介してもいます。実家(病院)の様子まで出している。
先日、島田洋八さんの家族群像を追いかけたテレビ番組があって、そこでは奥さんだけじゃなく子どもたちまで出てきたし、島田一家のそこそこ裕福な生活や住居の概観、近所の様子までカメラはとらえていました。
1000人も見るか見ないわかんない趣味の個人ブログで子どもの写真を載せるか載せないか、なんてのは、じつにまったく「どうでもいい」ことだと思う。そんなことを心配するなら、何度もテレビ取材されて顔も名前も近所の様子もテレビで流された中嶋雅生さんとか、島田洋八さん一家とか、もっと他に心配した方がいい事例はたくさんあります。
郵政解散で石原待望論がまたまた一部で浮上しているのだけれども、それは無茶な話だと思う。
都知事選を見ての通り、石原さんは3割の堅い支持で1位当選を狙う戦略でやっている政治家です。ここでいう3割というのは投票者の3割だから、一般庶民の3割ではない。左派色の強い東京で石原さんが都知事になれたのは、混沌の時代を上手に読んだ作戦勝ち。石原さんの強烈な個性は過半の支持を得るには向かないのだけれど、そんなことはわかってやっているはず。
小泉首相が選挙に勝つシナリオとして8月15日の靖国参拝をキーポイントとして挙げる意見をいくつか見ました。私は賛同いたしかねます。
少数党が乱立している状態で小選挙区を勝ち抜くことが求められているなら、理解できます。しかし9月11日投開票となる衆議院議員選挙は自民党VS民主党の戦いです。しかも小泉首相側は多くの選挙区で保守分裂の戦いを強いられます。そのうえ、古賀さん、亀井さん、綿貫さん、平沼さん、高村さんら反小泉派の中核メンバーは例年靖国神社に参拝しており、靖国参拝は小泉自民党が造反組を突き放す材料とはならないと思います。
今日、参議院本会議で郵政民営化法案が否決され、小泉純一郎内閣総理大臣(自由民主党総裁)は衆議院を解散、国民の信を問う大博打に打って出ました。ついに「(変わらないなら)自民党をぶっ壊す」という公約を実現したのでした。
政治家ってのは、やっぱり偉いものだな、と思う。負けるとわかっていて解散するのです。消費税率を上げたら選挙に負けるのはわかりきっていても、橋本首相は決断したのだし、政治家は国民がいうほど権力の座に執着しているわけではない。地方公共団体の合併だってそうです。人員が減るのは議員だけ。ひとり損をする政策を、住人のために可決する。もちろん、きれいごとだけではないのでしょう。ただ、私利私欲が議員の根源的な原動力ではないことは、有権者も知るべきです。
政治家がみな御殿を建てるわけじゃないよ。むしろそんなの、例外といっていい。小泉首相の自宅だって、見ればただの民家で、近所の歯医者の方が立派な家に住んでいる。母校の大先輩、井上豊元参院議長だって、そうと紹介されなければ気付かないようなところに暮らしていらっしゃる。三権の長となっても一介の銀行員にすら劣る給料で働くのが民主国家日本の現状だと私は認識しています。
元国家公安委員長が巡査に職務質問され、警察庁長官が狙撃されても犯人を捕まえられない国で、真に恐れるべきは国家権力ではないと思う。いつまでもいつまでもどこかの偉い人に責任を押し付けてブーたれている主権者、つまり国民の側に私は諸問題の根源を見ます。この備忘録の読者の皆様が小泉総理の決断に賛成でも反対でもいいのだけれど、日本の政治家が、その地位よりもっと他に大事にしている何かがあるのだということは、見落とさないでほしいと願います。
あと、割と政治家のみなさんは市民と対話する機会を設けていますので、興味のある方は暇を見つけて会って話してみることを勧めます。元国会議長や元大臣でも、庶民の声をとりあえず素直に聞いてはくれます。
ところで、小泉内閣と次の内閣にとって最大の課題となるはずの憲法改正は、これからどうなっていくのだろう。卑近な問題も、郵政公社と同様に当座をしのぐ措置にとどまっている年金、そして国家財政健全化の道筋など、大物が多数、残っています。次は民主党政権と予想されていますが、誰が政権を担当するにせよ、頑張ってほしいですね。
先月末に局所的ブームを巻き起こした毎日が修行中の一般庶民デザイナー
、ヒトミンさんの記事について。
内容も順番も錯綜気味。
これは都市伝説ではなかろうか。検索エンジンが CSS を解釈しているという証言、あるいは信頼に足る状況証拠を私は知りません。コメント欄にもあるとおり、HTML や CSS がどうこうなんてのは割とどうでもいい話なので、つまらないことを気にしている方が損だろうと思う。
ちなみに日本で最も PageRank の高いウェブサイトは W3C と関わりが深い慶応大学です(注:W3C の公式文書の末尾には Copyright c 1994-2005 W3CR (MIT, ERCIM, Keio), All Rights Reserved. といった著作権表示が付されることによる)。
大切なのは良質のリンクを集めること。他はどうでもいいんじゃないか。もちろん、ウェブでのサイト間交流に乏しい企業サイトが良質なリンクを集めるのは簡単なことではない。また特定の検索語での上位表示を狙うならテキストの書き方に工夫が必要となる。しかし究極的には「広告枠を買えばいい」という話になっていく。(詳細は「SEOを超えたホームページ集客術」を参照のこと)
どうでもいいけど、ヒトミンさんの運営するウェブサイトはタイトルがよくわからない(参考記事)。
他人がいろいろな呼び方をするのは仕方ないとしても、自分自身の表記くらいは何とかならないのか、と思わないでもない。どうでもいいけど
というのは、別にそうした問題があっても、実のところ誰も困らないから。表記揺れには検索エンジンにいろいろな検索語で拾ってもらえる効果もあるわけで、私が一人不愉快になっているだけの話。
「不愉快」なんて書くと気になってしまうかもしれないけれども、どうせ私は一見の客に過ぎない。表記揺れがあってもなくても私は常連客にはならない。そもそも Dreamweaver のユーザじゃないのだから。
マックとウインドウズでは、いろいろ見た目が変わりますよね。それにファイルのやり取りで面倒な事が多い。_| ̄|○ ウインドウズ派な私としては、マックをウインドウズが買収して、ウインドウズ統一国家になる事を望んでいます。(小市民な野望)
ありがちな愚痴。無力な人間の独り言なんか放っておけばいいように思うのだけれど、もちろんこの発言を批判する自由はある。
きっついなー。で、こうなりました。
荒しがありました。対策のため、ここの記事のみ一時TB&コメント閉め切りです!
めでたし、めでたし。
アクセス解析で、一体何のキーワードでご来訪があるのかを見てみました。SEO対策には欠かせないキーワード集計。できるだけ毎日チェックしています。
そういうことにはマジメなんだなー。ちなみにヒトミンさんが利用されているアクセス解析 CGI は 高機能アクセス解析CGI Professional です。これは私も好きで数年前から利用しています。
とか何とかいってみても、ヒトミンさんの画像の製作テクニックは全く私の及ぶところではなくて、やはりプロと素人の一番わかりやすい技能差は画像まわりだよなー、と、あらためて感じました。そして現実問題、クライアントはその画面構成と画像製作のテクニックに惚れ込んで「さすがプロは違う!」とお金を出すのだから、これはおかしなことでもなんでもない。
HTML がどうだとかこうだとか、そんなところにお金を払うクライアントは滅多にいないわけだから、プロが見た目にこだわるのは当然なんですよね。
id:ryuzi_kambe さんはWEBデザイナーの参考書にある本の一つくらいには、元の記事の発言がおかしいと理解させてくれる内容が書いてあるとは思うのだが・・・紹介はしているが読んでいないか、あえてそういうことが書いていない本をセレクトしているのか?
と疑問を提起されていますので、簡単にご説明しましょう。
紹介されている本の大半に私は目を通していますが、たしかに大半は「見た目」をどうしたらいいか、という本です。例外といってよいのは標準Webデザイン講座 基礎編ですが、総華的な解説書なので、ユニバーサルな情報伝達手段という考え方を身に着けるに十分とはいいがたい。HTML&CSSマスターブックはよい解説書ですが、やはり入門書ですから本質に踏み込むには至りません。
そもそも HTML は環境に依存しないのだから、見た目が崩れたってユニバーサルという特質は何らの影響も受けないはずなのですが、現状では閲覧者の意識の低さゆえに「見た目」が全てといわざるを得ないのが実情です。そのため、ヒトミンさんのお勧め本の内、前出の2冊以外にはブラウザごとに見た目が違ってしまうことを戒める記述が目立ちます。事実上、テーブルレイアウトで文書構造を多少犠牲にしてでも見た目を意図通りに伝えることを推奨しているわけです。
プロはお金を貰って仕事をするわけだから、一流どころを抜きにすれば、お客様の意向に応えることで精一杯なのは致し方ないと私は思います。多環境で見た目を統一することが求められている以上、現実に存在する WinIE と MacIE や safari との表示結果の差に愚痴りたくなるのはわかる。(ちなみに PDF 化はクライアントから NO が突きつけられるので不可。全部画像化は DQ8 の公式サイトなどで採用されたケースあり。Flash 化は最近のトレンド)
JavaScript で復号しないとウェブサイトを表示できないよう、文書のソースを暗号化するソフトウェアが今頃になって発売されたという話題。
フリーソフトで似た機能を有するものがあります(例えば HP Play や XORHTML)が、ちょっとインターフェースがとっつきにくかったのは事実。ま、カジュアルなコピーを防ぐには十分なんじゃないでしょうか。4980円という価格も手頃でしょう。方向性の違うソフトウェアですが HTML Encoder Pro は10605円ですし。
ちなみに SHTML の開発者は「HTMLソースを隠す方法」という著名なウェブサイトの管理者です。同サイトでは SHTML についても専用ソフトで暗号化するというページ内で補足情報を提供されています。そして、以下の記事は非常にお勧め。
target="_blank" なリンクの target 属性を無くす Greasemonkey スクリプトの紹介記事。
面白いな、とは思ったけれども、私は TBE の「全般→ウィンドウモード→シングルウィンドウモードを選択」という機能で満足しています。もっというと、そもそも IE コンポーネントのタブブラウザ Sleipnir 1.66 で満足してるという……。個人的には、Sleipnir 2.00 はフロッピーディスクに入らなくなってしまったのが少し残念。
ちなみに、私が firefox を使う場合、拡張機能は必ず TBE と All-in-One Gestures を入れます。使うテーマは Whitehart と決めていて、他は試しません。
記事本文のマークアップについて。
私が新規に記事を書く場合には、先にタグを書き、続いて内容を埋めていきます。箇条書きの場合、li タグをコピーアンドペーストで適当に5つとか30とか、おおよその見積もりでたくさん用意してから書きますね。余ったら削除。段落やリスト項目の入れ替えはタグごと入れ替えます。
なぜそうしているかといえば、どうせ HTML で表現できる文書構造なんて高が知れているわけで、なまじっか先に文書など用意すると、マークアップに悩むことになってしまう。悩んでいいものになるならそれはそれで結構ですけれども、私の場合、どうもうまくない。そこで簡単のため、頭の中で「こんな文章を書こうかな」と思いついた瞬間に使用する要素を決定し、p タグなどを予約してしまうわけです。
稀に、あとでマークアップを変えることもあります。でも、それを面倒くさいと思ったことはありませんね。朝三暮四のようなものかもしれない。
ふだんはタグ挿入型の TTTEditor またはタグ補完型の Crescebt Eve で作業していますが、いずれもカスタマイズして「ctrl+p で p タグ挿入」といったショートカットキーを設定しています。
補足。インライン要素はたいてい、テキストを書いてから要素を設定します。例外は a 要素でしょうか。たいていリンクテキストに悩むので、まず a タグを先に書くことが多いですね。いずれにせよ、インライン要素は面倒くさいと思っていて、あまり使いません。正直、ウェブ用文書以外で文中に強調語を用意することなんてないし、そもそも私の中にインライン要素を使いたいという需要が小さいのだと思う。
もうひとつ補足。私はローカルに月別ログだけの小さなサイトを構築していて、ブログの投稿画面に貼り付ける「原稿」は、その小さなサイトを構成する文書から持ってきます。月に1回だけ新規文書を作成するわけです。ときどき、ボツ原稿もあります。それを読みたいという奇特な人がいるので、ときどき、原稿もサーバにアップロードしています。その URI はここに書きません。私がいきなりブログツールの投稿画面に文章を書かず、ローカルに原稿を持っているのは、ブログツールと一蓮托生にはなりたくないからです。
じつは某はてなダイアリー(とりあえず URI は秘す/あれでしょ? という問いかけは無視する)には直接テキストを書き込んでいるので、あれははてなと一蓮托生です。はてなのデータサーバが壊れたらオシマイ。それでも構わない、と考えているような文章が公開されているわけですね。fc2blog や楽天広場や Yahoo!blog や CURURU やエキブロや goo blog や seesaa や livedoor blog や(中略)エコログや mixi も同様(いずれも URI は秘す/以下略)。
向こうに出張している人の話を聞く限りでは、「アジアの安全な食べ物:中国の7色に輝く河川と食品という記事を単純に受け取るのは、公民の教科書で公害の説明に添えられた写真だけを見て国全体を判断するようなもの」ということのようですね。
また件の記事はかなり強烈なフィルタがかかっているようなので、同じ調子で日本の写真を集めたら「日本の食品を食べるな!」という記事を作るのも簡単そうだな、と思いました。現代の日本でも公害がないとはとてもいえませんし。それに、単なる自然現象なのかそうではないのか、時間帯と角度の問題で危険に見えるだけではないのか、というあたり、各写真にいつどこで撮影されたのか説明がないままでは検証もできない。
件の記事を見て、なんらの疑いもなく中国を貶しているような方の中には南京事件の偽証拠写真に怒った人も多いと思う。南京事件の犠牲者(軍属も含む)を証拠に基づき少なく見積もることに熱心な産経新聞が天安門事件や文革の犠牲者数を適当に多めに見積もって平気な顔をしている二枚舌と同様、中国や韓国を貶すような話題、あるいはブッシュ政権をくさす記事なら無検証で飛びつくネットユーザたちというのも、どうにかならないものでしょうか。
森達也さんの(一部で)有名なドキュメンタリー映画を見た直後だからかも知れませんけれども、ふだん「自分の目なんか信じるな」といっている私ですが、「とりあえず、でいいから、見に行ってみろよ」といってみたくもなる。何せ「今の話」なのだし、それは隠蔽されてもないのだから。
ところで、森達也さんの本も先月2冊読みましたけれども、この方、かなり主張が強いのですね。ドキュメンタリー向きじゃない、とは思う。いや、ムーア監督もあれで大ヒットしたのだし、こういうドキュメンタリー作家がいてもいいのだけれども、ドキュメンタリーは結局、主観から逃れられないという主張には首肯するけれども、それでもちょっと割り切れない感じはします。
じつは映画の方は、かなり抑えた作りになっているのです。ただ、やっぱり本では心情を思う存分、語れますから。それが気になったということですね。逆にその部分があるから面白いという面もあるので、それはそれでいいといえばいいのですが。
ルポライターで個人的に好きなのは高橋秀実さん。寡作な方だったのですが、最近立て続けに本が出て、すごく嬉しいです。どうやって生きているのか不思議だったので、ちょっと安心できました。どの作品も問答無用でお勧め。こちらは肩の力が抜けているので、気楽にどうぞ。
以上、後半はあからさまな商品紹介記事なんですけれども、当サイトは年間6万円程度のアフィリエイト収入があります。というわけで、ちょっとやそっとではコケない強いサーバをレンタルしています。とはいえ、そもそも自腹を切って買った本のレビューが収入源なので、どこまでいっても大赤字。趣味の世界ですね。ともあれ1年余りで2000円の収入にしかなっていない柊さんは何か戦略を間違っていると思う。
ネットマナーの話題。何回でも同じことを書くよシリーズ。
仰ることはわかるんですね。「私がされて嫌だなと思うことはしないでほしいな」という感覚。「わかってよ」というね。それはわかる。
ただ問題は、「する」側にも意思があるということなんですね。ただ無意識に、何も考えずにフラフラと「していた」という人ばかりじゃない。明確な意図と狙いを持ってですね、絶対に「するぞ」とおもって「して」いる人がいるのです。相手が悲しんでいるとしても、それでも「やらねばならぬ」という考え方がある。
乱暴な例え話をしますとね、泥棒が「ぼくは逮捕されたくない。だから逮捕するな」といったとして、じゃあ逮捕しないのが正しいのか、と。
「他人の嫌がることはするな」だけでは、あっという間に行き詰るのです。泥棒の逮捕なら、まあ、意見が一致する? そうでもありませんよ。証拠不十分での逮捕だとしたらどうです? 逮捕する側の正義が怪しくなりますね。そこでもうひとつ付け加えましょう。物証はなくとも状況証拠はたくさんあって、だから逮捕して絞り上げて自白を取ったら一件落着という場面だったら、いかがですか? 悩みませんか。
まあ、この事例では、大半の人が一直線上にある価値観で綱引きするから、まだ話がわかりやすい。
無断リンク問題の場合は、リンクされて嫌だと思う側が、たいていリンクする側の気持ちを理解できない。何故そんなにリンクしたいのか、わからないのですね。そして「こんなに私が悲しんでいるのに! 怒っているのに! それでもリンクし続けるなんて許せない!」と言い出したりすることもある。
リンクする側の価値観と、される側の価値観が大きくずれてしまっている。かの有名な「毒吐きネットマナー」は、無断リンク問題についてはリンクされる側の管理人の気持ちが優先されるべきだ、と説きました。ひとつの考え方として、私はそれを認めます。少なくとも現在は。ただね、なぜそうするべきなのか、毒吐きさんは教えてくれない。でも、それは仕方がないことです。
価値観=「べき」論は、必ず事実に何らかの飛躍を付加したところに起点を置きます。いくら事実を積み上げたって、当為命題は証明できません。人が悲しんでいる。だからどうした。人が死んだ。だからどうした。悲惨な死に方だ。だからどうした。「人が悲しむようなことはすべきでない」という価値観を最初に設定しなければ、話は前へ進まない。
ここに根本的な問題があります。第一歩の価値観は信念といってもいい。この信念が全然違う者同士が歩み寄るのは、簡単じゃない。多くの場合、歩み寄るコストが争うコストより高い。だから、信念を曲げるより戦うことを選ぶ。だから優しい世界を希求するはずのネットマナー指南サイトが毒を吐く。
日本人の大半が被リンク情報の管理者が嫌がるリンクは規制されるべきだという考えなら、そういう法律ができたっていいと私は思う。世界に笑われるとしても、日本の法律は日本人が決めたらいい。世界をひとつの価値観に塗りつぶすのが正しいとは考えない。ただ、私はそういった法案には反対します。仮に法律が成立したって、私はとりあえずそれを守るけれども、反対勢力に力を貸し続けるでしょう。憲法だって改訂できるのだし、その自由はある。……というのが、私のスタンス。
target="_blank" の話題。他サイトへのリンクを新しいタブで開きたいとは考えない人が現にいるにもかかわらず、target="_blank" とすると、閲覧者は選択の余地なく新しいウィンドウを開かされてしまう。これが target="_blank" が嫌われる唯一無二の理由です。しかし他サイトへのリンクは別窓で開きたいという大きな需要が製作者と閲覧者の双方に存在するため、target="_blank" 利用者はますます増加しつつあるのが現状です。
これは非常にシンプルな問題です。「閲覧者の自由」という観念を守るか、「多数派の期待」に応えるか。これは製作者の信念の問題だといってもいい。考えるのが面倒な人には、「自分が便利だと思う方を採用しなさい」と私はいっています。「大多数がどうだとか、そんなことを気にするようなご身分なのか?」というわけです。
どんな決断をしたって、それで閲覧者が増えることも減ることもありません。短期的にはともかく、長期的にはそういっていい。現在の閲覧者は、現在のあなたが好きなのだから、変化を望まない可能性はあります。けれども、日本のネットユーザは7000万人いるわけです。現在の読者を全て失ったって、新たな読者を捕まえればいいだけの話。だから、純粋に自分の思うようにしたらいい。私はそう思います。
ウェビンブログで2004年8月に書いた記事「馬鹿な閲覧者は勝手に不幸になればいい」の一節が紹介されているわけですが、その記事は2004年2月の「リンクの target 指定」を踏まえたものです。target 指定に関する状況整理と処方箋のあり方については、2月の記事で詳細に扱っています。そこで私がなんと書いているか。
私は「バカな閲覧者は勝手に不幸になればいい」と思うが、多くの製作者はなかなか割り切れないだろう。自分がちょっと手間をかけるだけで喜んでもらえるのであれば、一肌脱ごうと思ってしまう。
その結果、ある程度勉強してきた閲覧者が不幸になるのは理不尽だ。理不尽だがしかし、あまり問題にはならない。やはり多くの場合、勉強してきた人の希望も「他サイトへのリンクは新窓で開きたい」だったりするので、製作者の target 指定は案外、邪魔になることが少ない。ちょっとできのいいタブブラウザなら、「既読タブを閉じる」なんて機能もある。どうせ勉強するなら、ブラウザもいいものを選べばいいんじゃない? という意見も通用しそうな状況になってきた。
私も何度か、「他サイトへのリンクは新窓で開くようにしてくださいよ。自分で選べるなんていっても、他サイトと同じ感覚でつい左クリックしちゃうんです。そういうことを繰り返していて、不便なんですよ」みたいな意見をいただいているのだけれど、説得力のある反論が思い浮かばない。
いかがでしょうか。私は target="_blank" に目くじら立てません。タブブラウザを使ったら、自分の問題は解決されてしまったからです。でもまだ世の中には IE の利用者が多くて云々、という意見もありましょうが、その WinIE ユーザの過半は target="_blank" 支持者なんですね。少数派の要望と多数派の要望を単純に天秤にかけたら、後者が勝つのは当たり前です。
Strict HTML に何かしら思い入れを持ってウェブデザインをやっていくというのは、はっきりいって、多数派がどうこうという次元では語れない問題なのです。最大多数の最大幸福という考え方を現実的な視点で取り入れていくならば、「多数派のユーザは健常者であり、WinIE ユーザ、そしてみんなお勉強が大嫌い」これが大前提となります。
本来、他サイトへのリンクは新タブで開くとか開かないといったことは、ブラウザの設定をいじって閲覧者自身が決めればいいことです。HTML 文書の製作者が、他サイトへのリンクは絶対に新タブで開きなさいと指定するべきではない。少なくともそれは、全員が幸せになれる方法ではないわけです。
2004年8月に、たしかに私はこう書きました。しかしこの発言の真意をつかんでほしいのです。「本来どうあるべきか」という視点が、現実には通用しない。けれども「怠惰な多数派に迎合した方式」は必ず少数派の犠牲を伴っていることを忘れるべきではない。私は、そう主張したいのです。
2003年11月13日の備忘録で、私はこう書きました。
現実に大半の閲覧者がユーザCSSの使用を常態化することは、ありえないでしょう。しかし、それ以外に、すべての問題をすっきり解決する手はありません。
あらゆるサイトの見た目は閲覧者が決める、それが基本とならない限り、製作者の用意するデザインが主な読者層におもねって少数派を切り捨てる構図は決してなくなりません。現に切り捨てられている少数派は、現在でもユーザCSSで問題に対処する他ないのです。しかし、少数派が少数派であるがゆえに、マークアップのおかしな文書が世の中にあふれかえっています。HTML文書に視覚デザインを背負わせる、無謀な試みに心奪われた(そして何故それが無謀なのか気付かない)製作者、閲覧者が多過ぎます。
大半の閲覧者がユーザCSSを使用するならば、製作者は自ずとマークアップをちゃんとやらざるを得なくなります。テーブルレイアウトなど、もってのほかだということになるでしょう。そして、虚飾を排し本文を尊重する文書が、誰からも称揚されるようになるでしょう。閲覧者の大半が、現在いわれるところの「アクセシビリティの配慮」を必要とする存在となれば、製作者は当然、対応せざるを得なくなるわけです。アクセシビリティの問題が、一挙に解決します。
これが夢物語に過ぎないこと、その決定的な理由がリッチな視覚系ブラウザを問題なく使用できる多数派の閲覧者の怠惰と欲(=HTML文書に文書構造以外の何か、例えば視覚デザインを期待すること)にあることが、非常に残念です。
2年が過ぎた今、状況はどうでしょうか。10年経っても、本質的には Strict HTML の理想が世間に広まることはないでしょう。
あなたのように世界を諦めきっている人が、なぜ、何かを主張することをやめないのか? そう問う人もいます。なるほどね。返す言葉はない。だから無理をおして回答するために、思いきり言葉を上滑りさせます。……人間は社会的動物だけれども、人類の歴史は少数派を許容する世界をこの極東の島国の中に作り上げたのです。そう信じたい。こうして自分が何事かを書くことが、その期待を確信に変えるために必要な行為なのです、おそらく。
受付再開直後に新規のご依頼が。短くパパッとアドバイスしようしようと思いつつも、あーでもないこーでもないと悩んで待たせて長文を書くパターンを繰り返しているので、今日こそは! パパッとやります。(追記:できませんでした)
思想・書評などの文章と、ネットゲームの日記
のウェブサイトなのですが、ちょっと珍しい運営方針を掲げていらっしゃるのでご紹介。
ただし一報を入れると喜ばれるようなので、転載希望者はコトのついでにメールフォームから一言送るといいんじゃないかな。
ただし、検索エンジンに引っかかりにくい工夫があるので注意。つまり、言葉に責任を持つという意味で本名を出しているけれど、本名を知る人に読まれたいと願っているわけではない。この微妙なスタンス、理解できますか? このあたりの機微をわかってくれる人が増えると、言葉に責任を持って発言する人が、現在よりもう少しだけ増えるのではないでしょうか。閲覧者のリテラシーは大切。
とりあえず、このアドバイスでは管理人を甲田さんと呼びます。アドバイスのご依頼文に添えられた名前が「甲田」だったので。
時刻表と外国語辞書が好きだという甲田さんは TTech の学生さん。TTech というのが何の略称か私にはわかりませんでしたが、マークアップもスタイルシートの書き方も端正なので、技術系の学生さんかな、と思いました。その一方で宮城谷昌光さんの本を9割方読んでいるというから、なかなか侮れません。ちなみに私は2作しか読んだことがないのです。大長編が苦手で……。何せ読むのが早くない。文庫本で240ページを超えると仕事のある日は1日では読めませんし。
ナビ・マークアップ・cssなどを見ていただけるとありがたいです。ここのアドバイスや他サイトで一通り勉強はしましたが、HTMLとcssは初めて書いたモノなので不安が残ります。
なるほどー。とくに気になることがなかったので、小さな話題をいくつか拾いますね。
なぜリダイレクトを使っているのか、よくわからないですね。私なら、こうします。
<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4121001362/suimyou-22/ref=noism"><img class="book" alt="知的生産の技術:書影" src="./4121001362.png" /></a>
URI から & が排除され、文法違反を避けられます。しかも短くてわかりやすい。いいこと、たくさん。現在採用している URI に特別な効果がないのであれば、シンプルな記法の採用を進めます。ついでに Amazon の紹介リンクを簡単に作るツールをひとつご紹介。
私もいろいろ試しましたけれども、これが一番よかったです。自分で完全にカスタマイズできる複数のテンプレートを登録できるので、単純なテキストリンクから画像付やその他様々な形式まで、自分好みのマークアップで出力可能。しかも操作簡単、動作速度も十分速い。当サイトではテキストリンクしか用いていませんが、別のサイトでは書影の画像を Amazon から引っ張ってきているので、こういうツールがないと面倒でやっていられない。
甲田さんも書影をよく用いていますから、お勧めしたいです。というのは、書影について論評しているのでもない限り、書影の画像をダウンロードして使うのは著作権法上怪しいといわれているからです。実際、過去に何人もの方が出版社に問い合わせて「許諾不可」の回答を得ています(OK の出版社もある)。Amazon アフィリエイトで Amazon のサーバから画像を呼び出す分には、Amazon が権利関係の責任を負ってくれますから、安心して画像を使うことができるというわけです。
ただ、AmazonSh.net は初期設定のままでよければすぐに使える簡単ツールなのですが、マークアップにこだわるなら初期投資に1〜3時間は見込む必要があります。ちょっとお勉強してテンプレートを書かねばなりませんから。
現状に大きな問題があるとは思いませんが、今後の参考として。
上の図は、睡猫の画面キャプチャに仮想的なグリッドラインを重ねた図です。一見してわかる通り、グリッドラインが錯綜していますね。ひとつの要素の4辺の位置が、他のどの要素の4辺とずれているわけです。
甲田さんは、この崩壊寸前のレイアウトを絶妙なバランス感覚で纏め上げています。配色も画像の配剤もきれいですよね。ただ、これが意図的なものではないのだとしたら、何も好き好んで危ない橋を渡る必要はないはずです。グリッドラインにあわせて画面の構成要素を配置し、しゃっきりとしたレイアウトを採用するのが無難です。本職のデザイナーとは異なり、趣味のウェブサイトで「デザインルールに取り込まれてしまう」ことを心配する必要性は薄いのです。
というわけで改善案を示します。
改善案に仮想的なグリッドラインを重ねた図を示します。
タイトル画像の横幅が大きかったので、overflow:visible; を用いて崩していますが、十分横幅が大きい場合には、div#title と div#content のサイドラインがきれいに揃います。div#title に背景色と横幅を指定した効果です。ブラウザの表示領域を大小して、表示結果の変化をお確かめください。
なお、改善案は堅く冷たい感じがします。きっちりグリッドにあわせてレイアウトすると、画面の遊びが圧迫されてそのような印象を与えることになります。ただ、多くの場合、それはより大きな安心感を引き出すので、差し引きプラスと考えるわけです。もちろん、このあたりは感覚的なものですし、そもそもこの程度のレイアウトの変化は多くの閲覧者にとって瑣末な事象に過ぎません。深刻に考える必要はなく、「ふーん、そういうものか」と思っていただければ幸いです。
とくに不備はありませんが、過去ログをどんどん読んでいくには、少し不便なところがありますね。
私のように数か月分の日記を一気に読もうとする閲覧者が多いか少ないかといえば、それは少ないのでしょう。私はこれからささやかな希望を書きますが、改善の手間と作業の意義をよく考えてください。ウェブログツールを用いて日記ログを管理されているなら、テンプレートを書き換えるだけでどうにかなるかもしれません。それなら改善に取り組んでもよいでしょう。しかし100件を超える文書群を全て手作業で書き換えねばならないなら、見送るのが無難です。
私の希望は、「各記事に前後の文書へのリンクを用意してほしい」というものです。個別記事には前後の個別記事へのリンクがほしいし、月別の記事一覧には前後の月の記事一覧へのリンクがほしい。将来、年別の一覧を作成されることがあれば、そこにも当然、前後の年へのリンクがほしいのです。
ADSL くらいの回線速度があれば、別にどうでもいいという感じはします。甲田さんの作成される文書はいずれも軽いので、一瞬で表示されます。それならクリック回数が1回か2回増えたって、どうってことないような気はします。けれども、低速回線の場合、やはり面倒くさい。
私はタブブラウザのユーザですから、月別の記事一覧から個別記事を全部新タブに開きました。つまりそういった対処作はあるのですが、なんだか不自然な感じがします。
大変けっこうだと思います。
いわゆる「パンくずリスト」のあたり、他の方に意見をうかがうと異論も出るところでしょうが、私は気にしませんね。一応、書いておきますと、不等号をテキストの中に含めるか否か、そして ul 要素ではなく ol 要素とするのが妥当ではないか、というあたりが争点です。不等号は背景画像として処理した方がいい、あるいは不等号などいらない、などの意見があります。ol 要素を採用すべきという意見の論拠は明らかですね。リスト項目の順番に意味があるのだから云々。
私はどう考えているかといいますと、これはもう当サイト内の適当な文書をご覧いただければすぐに気づかれる通り、安直な対応も悪しとしていません。
<li>趣味のWebデザイン>Note>2005年>07月>アクセス統計</li>
見やすくするために a 要素の記述を省略していますが、とにかく簡単なマークアップで済ませていることは、お分かりいただけましょう。「こんなのでいいの?」と問われたら、たしかに迷う気持ちはあります。ただ、こんなところに重厚なマークアップを施す意味があるのかな? と思いまして、あれこれ試した結論として現状のようなマークアップを採用している次第です。
これに対して私の知る限り最も凝ったことをされているのが Personnel というウェブサイトです。現在のデフォルトスタイルシートを適用した場合、画面左上に配置される、いわゆる「パンくずリスト」風のナビゲーションは、じつは文書の最後尾「ご案内」の中に配置されている要素です。その実体をぜひソースなどを見てご確認いただきたいのですが、音声系ウェブブラウザの利用者に対して、これほど親切なナビゲーションを私は他に知りません。
現状、多くの音声系ウェブブラウザは IE の表示結果を読み上げてしまうので、目の前の状況だけを見れば、あまり意味がありません。あるいは、視覚障害者がパソコンを始めて利用するとき、現在はたいてい健常者が最初の手ほどきをいたします。その際、視覚系ウェブブラウザの表示内容と音声系ウェブブラウザの読上げ内容に差異があると、混乱を招きやすい。「メディア毎に最適な出力を」という理想は、なかなか理解されないという現実があり、これは今後も解消されない問題かもしれません。となると、大半の音声系ウェブブラウザは今後もずっと視覚系ウェブブラウザの表示内容を参照し続ける可能性があります。
ただ、いずれも可能性の話であるならば、そしてまたテキストブラウザをスクリーンリーダで読上げさせている方のことなどを考えるなら、Personnel のような配慮は有意義です。こだわる意味はあります。ただ、私はもっと単純に考えることにしました。いくらかわかりやすさを犠牲にして、自分が楽する道を選んだわけです。
あえて書けば、どちらでもいいのです。何を理想とし、何のためにどこまで頑張れるか、という話なんです。W3C 自身、その文書群のナビゲーションにはそれほど詳細なナビゲーションを用意していません。「まあこれくらいでいいんじゃないの?」という妥協ラインを用意している。そういった状況を認識した上で、甲田さんには、適当なポジションを選択していただきたいと思っています。
パンくずリストは、マークアップを考えるひとつの場面に過ぎません。例えば、blockquote 要素に title 属性を用意する人としない人がいて、甲田さんは後者であるらしい。私もたまにしか title 属性や cite 属性を付しません。別に必須属性じゃないのだから、付さなくてもいいんですね。文脈から引用元がわかればいい。けれども、「どちらかといえば cite 属性を付した方がよい」という意見は、よく理解できます。
だったら何でも安全策でいけばいいじゃないか、という意見が浮上するわけですが、現実的には「面倒くさい」は無視できない因子です。これを考えずにあれこれいっても仕方ない面がある。「べき」論だけでコトは片付きませんから、最終的には甲田さんの思いの強さに関わる問題だと思うのです。
私は妥協に妥協を重ねてこのサイトを作っています。「中途半端なサイトなんかやめちまえ」という意見もないではない。けれども、中途半端なりにウェブサイトを公開してきてよかった、と私は確信しているので、そうした主張を却下し続けています。そしてまた、アドバイスにおいても多くの場合「面倒ならお勉強はしないでもいい。サイトを継続することの方が大切」と書いてきました。
私の見る限り、甲田さんの作成される HTML 文書は美しく、大きな瑕疵はないようです。これ以上の「何か」を求めるか否か、それは甲田さん次第です。
かなり凝ったスタイルシートだと思いました。
正直、私は CSS に意見するのは苦手です。自分のスタイルシートの書き方がかなり特殊なものだということは認識していますが、自分ではそれが一番いいと思っているわけです。ところが他人には、「こんなんで混乱しない?」と疑問を投げかけられたりする。それはこっちの台詞だよ、といいたいのですが、いっても理解してもらえないらしい。
というわけで、「文法違反がないのだから、まあいいんじゃないか」と適当なことを書いてお茶を濁しておくことにいたします。
余談なのですが、私がスタイルシートを書く際に気をつけていることをいくつかご紹介します。
結果としての見た目について少しだけ補筆しますと、a 要素の表示結果についてずいぶんいろいろ分岐を設けていることが少し気になります。とくに混乱があるわけではありませんが、これは面倒だろうな、と。リニューアルする際には、a 要素の表現を1種類に限定してしまうと、スタイルシートを書くのが楽になるでしょう。もちろん、表現の幅が狭まるわけですから、一概にそれがいいことだとは申しません。
もう1点、h2 要素の背景色に茶色を指定した方がいいでしょうね。「CSS 有効、画像非表示」という設定にしている方は非常に少ないでしょうけれども、私のような低速回線の利用者はそこそこいます。背景画像が読み込まれるまで h2 要素の文字がよく読めないのは、残念なことです。背景色を指定することにデメリットはありませんので、これはぜひやっておくべきでしょう。
アドバイスは以上です。
連想した話。推理小説で「探偵が犯人」というのがあります。中でも極め付きの殺人方法が「**さん! 大丈夫ですか!?」「ダメだ、返事がない」「錠を銃で撃ち抜くんだ!」バーン! そして弾丸が扉の裏側にいた**氏の胸を打ち抜いた……。ラストに名探偵が語る「真相」に警官たちは口あんぐり。「事故じゃあしょうがない」という最低のオチ。あはは。これは「このミステリーがすごい!」にランクインした作品ですから、甲田さんもどこかでめぐり合うかもしれませんね。